Welcome to my homepage:長谷川浩司@ 東北大学大学院理学研究科数学専攻

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last update: 2002.7.23.(2000.12.29のページへ) 最近の動きについて 念の為、私は特に左翼でも右翼でもありません。 |NHK BS1「インターネット・ディベート」12 月(1,8,15 日)の番組「大学改革」(2001.11.18, 相互リンク)同番組への北大辻下教授の公開質問状初回への感想|第 2 回への感想|第 3 回感想(以上長谷川)
☆京都大学教官有志「独立行政法人を考える会」(代表:益川敏英・基礎物理学研究所所長)主催のシンポジウム「21世紀の大学像と京都大学の進む道(第 2 回,2001.3.9)」(長谷川によるノート)

国立大学改革に関する、文部科学省「中間報告」に対する意見集|「新しい「国立大学法人」像について」に対する見解:全国農学系学部長会議前会長、2002 年 4 月 16 日

教育を市民の手に上野健爾京大教授、ac-net への寄稿 | 教育への経済界の要請を排す -- それを行なえば国益を損なう(御茶の水女子大学藤原正彦教授)|参考:教育基本法 10 条(教育行政権の範囲と限界)に関する資料 | 日本の財政削減が科学の未来を直撃する - 大学院教育の負担増で多くの有望な若者が排除されるだろう(神戸大学生榎木英介氏の Nature 誌への投稿)|同氏の新聞投稿|仕組まれた「二百億円の滞納」(1997 年、評論家立山学氏の論考)

☆ 2002 年新学習指導要領の中止を求めNAEE2002署名

数学関連

リンク集:


(教育改革・大学改革関連より) ・2001 年分および2000年 12 月までのニュース等 |文科省所管の独立行政法人の中期目標など |文化庁所管の独立行政法人の中期目標 |独立行政法人農研機構の業績評価|大学評価・学位授与機構

最近の動きについて

2002.7.23 住民基本台帳ネットワークに福島県矢祭町が不参加を表明:河北新報 1 面。住基ネットについては、MS 社製品をベースに開発されていて、保安の観点がない(そもそも成りたたない)という指摘がなされているようだ。小さな町の決断を評価すべきである。(大学改革について同様のことが、なぜ国大協でできなかったのか。)

2002.7.21.00:30 居残って期末試験の採点をしている合間に、NHK-BS で総合学習を取りあげているのを見た(インターネット・ディベート)。はじめから見たわけではないが、この(いささか乱暴なところもある)議論が BS の番組であったことは、NHK のためにも[その理由は後述する]幸いであると思った。テレビは恐しい媒体であり、また黙ることが許されない。討論は勢い(フリースクールを企業として経営している方のような)弁舌の世界になるが、教師といえども不特定多数に語る言葉を持ちあわせた方がそうはいなくて当然であり、充分な深い議論とはいえなかったように思う。司会(若手だった)の重要性もまた再認識させられた。誰に何を発言させるか、またどんな投稿意見をとりあげるかで話はどうにでも転ぶ。教育は一時のことでなく、個人においては人生を、そして社会においては数十年を左右する。その重さと渉りあえる議論だったろうか。 フリースクールが公教育に対しいかにも気軽でありえることも、また(総合学習であろうとなかろうと)指導要領を離脱する際に教師が負う責任もこの重さに由来する。 (たとえば電磁気学を理解する人間がいなくてはテレビも成立しない社会に我々は生きているし、経済を素人的に扱えるものでもない。) 手法と信念の話だけでは、この重さに耐える有意義な議論とはならないだろう。 事は現場の問題を越えたところ(政治)にもあるのであって、多くを期待される公教育に正当な配慮と投資がなされておらず、それゆえ教育の私事(わたくしごと)化が進んでしまうことは問題であると思う。私は発言の機会が多くはなかった蔭山先生に同情する。がんばれ公教育。

[番組中で、総合学習実施のためには教師の研修機会が必要だったという意見が多く出た。まったくそうだと思うが、これも問題の根底に達し得ていなかった。教師の研修のためには、教師の前で「総合学習」や「新学力観」を主導した者が自ら授業をしてみるべきであると思うが、そもそもそれができないのである。なぜならその者たちは文部官僚であったり、そこから天下った教育学者であったりしたからで、教師の経験がないからである。それゆえに中教審などの議論では(被教育者代表は別としても)教壇に立っている人の意見が尊重されねばならない。かつては(何が内容であれ、相応の批判的精神とともに)このような指導的教師の教育役割を東京教育大学が果たしていたであろう。東京教育大学を廃止したのも教師の自主性を制限してきたのも政策によることは周知の事実である。東京教育大学なきあとの筑波大学や広島大学は典型的に政府よりなので、これらに同じ役割を期待することはできない。(たとえば広島大学には「これからの理科は教師が教えてはだめだ」という極端な主張を展開した元官僚の某氏が、教授として天下って理科教育の専門家とされている。いわゆるエリート教育はこのような人間を増やすことになると思う。)こうしたことに触れずに、番組のように現場の教師に焦点をあてることは視聴者の目を欺くことではないだろうか。]

2002.7.20. 名古屋大学学長松尾氏、TI社長生駒氏へのインタビュー記事、朝日新聞 7/19. 両氏とも行革の視点で物を見ているがいかがなものか。そもそも国家公務員 25 パーセント削減方針は自民党(小渕氏ら)が政権維持のための与党合意で迎合的に示したものである(10 パーセントが突如 25 パーセントになるなど、ほとんど売り言葉に買い言葉の世界だったのではないか。自衛隊と郵便局を除くと大学くらいでしかその数を実現できないから現在のような状況を招いている)。小さな政府といわれるアメリカと比較してさえ現在の日本の公的部門は小さい(その数に入っていないであろう特殊法人や、実質的に公務員ではないかと思われる建設業界は除いて)。「縮小基調になっていく」中で、金は出さず口は出す政府各省の権限はより強まっているのであり、この路線で個性化をいくら論じても手の平で踊らされるだけである。(旧帝大の部局長会議で、ある研究科長が事務官に○○もやったらどうですかと圧力を受けたと聞いた。その研究科長は怒っていた。)生駒氏の「教育大学」も、実現すれば現在の高専程度に教員定数が減らされたものとなり、今でさえ人的資源が充分でない中では教育はむしろ薄まる。大学間の人事の流動性も下がるだろう。「真のエリート」で生駒氏が意図するものはよくわからないが、戦前のエリートがどう機能したかを考え、また少数者の意思決定は密室談合的になることも考えると、極めて慎重であるべきと思う。すでに教育の機会均等の精神が失われつつあることや、東大入学者の親の年収が平均の倍程度(1000 万程度)であることを考えても、エリート育成が国民の貧富の格差を拡大する方向に働くのは間違いないと思うし、その教育が生むであろう皮相的な人間に権力が集中するのは心配である(実例は 21 日の項参照)。そもそも一人の人間が能力を最大限発揮しても、その場所と時間は限られる。官庁や国際企業ばかりでなく、マスコミでも金融機関でも教育機関でもシンクタンクでもメーカーでもどこでも、また「トップ」であろうとなかろうと、職能だけでない意識と視野をもって良いではないか。

同日、文科省の審議会で「博士課程の強化」の提言。これを文科省は「トップ30」専攻の基準とするというが、危険な提言である(ノーベル賞への言及も、研究の内容でなく体面を問題とするもので笑うべきである)。文科省が選考の過程で学生定員などで数値目標を要求することは間違いない。定員を機械的に決めることはオーケストラの各楽器を同数にするごとく愚かである。有為な若者の囲い込みと、現在でも深刻な OD 問題をより困難なものとし、「才能の棺桶」といわれた状態が作られるならば、国民の負託に応えるものとは思われない。本格的な反省が行わないままの大学院重点化政策の下、OD 問題がない分野はきわめて限られていると思う。OD 問題がないことがその分野への過剰な投資を意味するならば、質の低下の可能性も考えられるが、そうした分野の発言力はかえって強まるだろう。大学での研究のありかたとしては偏ったものになるのではないか。OD 問題の深刻さはその分野が重要でないことを意味するものでは全くない。(これを書いている段階で「提言」はネット上で公開されていないようだが、その後朝日の報道によれば博士課程への財政支援も - 何度となく言われつつ実現しないでいるのだが - 「強調」されてはいるようである。ただし学振のように「少数精鋭」で無闇な高給を与えるのはどうかと思う。)

2002.7.17 中教審に教育基本法改正の諮問の報道:河北新報(2 面)ほか各紙。「日本 人としての」教育をめざすのだそうだ。大学の管理もこの先厳しくなり、やがて大学の講義室にも日の丸が入ってくるかもしれない(それで良いのか?(参考)。そもそも戦争責任を決して認めようとしないできた自民党、それゆえに近隣と金の付き合いしかできない体質、それこそがこの国の体面を汚しているのではないか。その意味で最も愛国心がないのは為政者の立場の者であるし、これに納税意識の低い集団を加えることもできるだろう。中教審に諮問する前に、内閣として戦争責任を論じ、小泉氏の靖国参拝問題も自己批判すべきであろう。(若者の愛国心は、サッカーの応援で充分示されたではないか。)教育の現場はただでさえ混乱している。その上新たな混乱の種を蒔くとは最悪のセンスである。教育基本法改正で「10 条」がうやむやになれば、現在行なわれているような経済界発文科省経由の教育への介入もやり易くなるであろう。戦争の血で購った過去の財産を軽々しく失うべきでない。マスコミでも(自らの取材規制のみに関心を示すのでなく)大いに時間を割いてもらいたい。ついでに言えば、中教審の議論はすべて公開し、議論の前に委員全員に教育実習を課すべきだと思う(もちろん、教員免許を持たない者について)。医療改革ならば医師免許を持つ者が議論するであろうに、教育についてなぜこの点が疎かなのか不思議である。

2002.7.16 産業寄与度で大学格付け…偏差値、知名度は無関係(経済産業省)。古代ギリシャの賢人は、「数学をやって何になるんですか」という質問に対し、「この者に金をくれてやれ」と突き返したという。現在の産業の基礎を成している点で数学と物理に匹敵するものはあまり無いと思うが、想定されている寄与は数年単位の近視眼的なものでしかないだろう。数学の場合、通信に有限体の理論が使われるまでに 300 年程度を要しているし、より応用に近い分野においても、すぐ役に立つものほどすぐ役に立たなくなるのではないか。そもそも誰が判定するのかという問題も大いにある。(たとえば原発容認の立場とそうでない立場とでは、大きな違いが出るだろう。いわんや軍需産業においておや。)経済産業省は文科省以上に大学を混乱に導く危険を孕む存在であると思うとともに、どちらも教育基本法第 10 条の精神を逸脱していると思う。 大学を不信の目で見る前に、経済産業省自らの補助金事業のありかた問題問うべきではないか。(この週末には宮路厚生副大臣の帝京大学医学部への口きき疑惑も明かとなっていた。言語道断であり、「国会のため副大臣を辞める」でなく「道義的責任により議員辞職する」べきであろう。私はこの件について文科省も徹底調査すべきだと思う。私立大学に対する国の投資に不明瞭な点がないように。法人化された後の国立大学にとっても他人事でなくなるかもしれない。)

2002.7.13 大学院生、将来に不安を抱え節約と勉強の日々:生活実態調査(毎日新聞 07/13). 1 ケ月の収入の実態はもっときびしいのではないかと思うが、分野によって企業の青田刈り資金としての奨学金が流れていることが影響しているのだろう。将来の展望がない(研究を別とした、生活上の苦労という意味で)ことは私が院生だった 80 年代終りから(あるいはもっと前から:ディラック「量子力学」の訳者でもある木葉先生は、京大の基礎物理学研究所での職の期限が来たため北欧に渡り、しばらくして客死されたと聞く。これは海外で「活躍」するかつての日本人の典型なのではないかと思う。)のことだが、現在はもっと悪くなっていると思う。バブル期に文部省が主導した大学院重点化政策は経済運営の失敗にともない就職難を招くだけになっているし、その上育英会奨学金の廃止さえ視野に入れられている。優秀な学生ほど学問で喰えないことが分かっているだろう。私もあと一年就職ができずにいたら、数学を続けはしなかったろうと思うし、数学を続けられれば続けられたでそれもまた苦行である。(8 月に北京で行なわれる国際数学者会議で Planary talk の栄を得た、私と同年齢の元同僚は、「騙されて数学者になった」と --- 数学以外の雑用のゆえと思う--- かつて言っていた。)このような国で科学も繁栄も継続できるとは全く思えないが、史上まれにみる(それゆえ他国に対しても、また人類史的にも文化の育成に責任がある)経済大国のあり方として適当であろうか。政策決定を司る官僚がほとんど法学家(ですらないのかもしれない)であることが問題であると思う。(先日わたしが指導する院生が某大学の某学科の名称に不審を抱いていたが、政府(当時の大蔵省と文部省)の行政指導により他で使っていない名称を使用するよう名のらざるを得なかったのだと説明すると呆れていた。当然である。大学院重点化の際、「システム」「国際」云々の名称がいかに浪費されたことであろう。そもそも大学は価値の伝統を伝えるべきものであるので、浅薄な時流にのせて看板をかけかえるべきところではない。)

そもそも高等教育予算が GDP 比において先進諸国の半分でしかないという事実(これは有馬元文相も、文相になる以前に東北大学に外部評価で来訪されたとき、私の質問に答える形で述べられた)、この構造こそが問題である。地方大学を不要であるとか、教育専門にするという改革はまったく当っていない。地方大学は若手研究者の最初の就職先であることが多く、そしてなにより教育の機会均等を保証する制度である。実学重視の声の多い中、地方における理学部などが改組されて、たとえば数学の専門家が日本において今後急速に減少することは確実に思われるが、はたしてそれで理系教育は大丈夫なのか。(最近は「工系教育」は「理系教育」と違うなどの趣旨の教科書も書かれているが、最後では数学者の教科書が引用されるのが常である。工学部の数学教育を工学者が行うことは、アメリカでは質を保証する上で問題があるとされてもいると聞くし、そもそも工学部に数学をきちんとできる人がまとまっている大学は、日本でいくつもないのではないか。)数学以外も貧困さは似たようなものであろう。経済政策のいい加減さや、薬事行政の貧困とも通ずる問題であり、つけ焼歯的な「大学法人化」や「特区」構想(前向きの石原氏に私は危惧をもつ)のようなやりかたで改善できるとは思えない。(何でもアメリカを範にするのはやめるべきである。アメリカは各国で育った人材を吸いよせる国であり、うまくいかなかった人は出身国に帰る、そういう国である。日本で同じことができるとは思えない。)

東北大学では学生有志が来週法人化問題の勉強会を開く。 私はその会に呼ばれているが、現在の絶望的な状況であまり元気になれる話ができそうにないことを申し分けなく思っている。(その記録(長谷川))

2002.7.8 毎日新聞「新・教育の森」で国立大学法人化に対し異論多しの特集。同紙連載「大学大変」をうけてのもの。前日の同紙「発信箱」ではゆとり教育路線に無批判であったことへの反省も記されていたが、学問や研究を一般的に語ることの難しさを広くわかっていただきたいと私は思う。それは新聞社と出版社を、第 1 次産業と第 2 次、第 3 次産業の「改革」を同列に論ずるのと同じくらい乱暴な話になりかねない。(そして、数学は究極の第 1 次産業だと私は思う。頭を耕すという意味において、そしてもちろん、世界を記述する根本の追究という意味において。)

2002.7.4 山形大の改組をめぐり、国会で工藤局長が答弁。山形大の動きは福島大の改組論議との同時進行で、本省の強い意向の下にあったはずである。山形大の学長は中間管理職のような立場であるだろう。工藤氏の答弁は他人事のように聞こえるがいかがなものか。続報

2002.7.2大学入学者の高卒用件緩和. 外国人子弟 の入学が困難であるなどの苦情は私も直接聞いたことがあるので、一定の緩和は必要と思うが、おそらく今回の件は都立大の方針のようなことを念頭においてのことだろう。高校で勉強した方がかえって学生のためになることも多いと思うし、単なる学生の青田刈りにつながることを危惧する。就職協定を廃止した結果、大学院でも入学後半年あまりで就職活動をはじめる学生もある。そんなに競争を激烈にして、今現在なすべきことをする場がなくなってはいかがなものかと思う。もちろん時間だけでなく、これは「場」のありかたにも言えることである。7/4 追加:神戸大学で有事研究?

2002.6.28国立大学協会長「トップ30大学構想は実現不可能」. 今ごろ言うのでなく、出たらすぐ反論すべきだった。法人化にしてもそうである。ここ何代かの国大協会長および文部/文科大臣人事は日本の将来を誤らせるものであったと思う。(有馬氏が籤引きで東大総長になったのがそもそもの間違いであったように思われてならない。)

2002.6.13 東大農学部長による現状批判「最近の大学状勢と将来方向について」全国農学系学部長会議より。

2002.6.6 宇宙部品、半数以上が製造中止に 予算削減で業者離反. この国には希望が残るのだろうか。(それでも、企業の場合は離反する自由がある。大学はそれすらないし、今後は更に真綿で首をしめられるようになるだろう。)

2002.5 30 法人化の準備に巨額が必要, しかもその財源がまったく検討されていない、との指摘。

国立大学の法人化は、案外土台のところで頓挫するかもしれない。頓挫しなかった場合は、大学の借金になるのだろうか?それは法人化された大学の先行きをすぐにも「お先まっ暗」にするだろう。

2002.5.27 ここ数日、東北一円での教員養成体制の大幅な見直しについて報じられている()。あくまで個人的な意見で、かつ一般論であるが、感想を書いてみたい。まず、日本のこれまでの繁栄は広く全国で人材を教育してきたことによったはずである。(たとえば立花隆氏は九州のあまり町ではないところの出身だったと記憶している。)たとえ東北一円が道州制で統合されたとしても、小中学校の教師の養成はこの点を無視することはできず、現在と同程度には教員養成を行うキャンパスが必要だろう。(一度外に出ると帰ってこなくなると心配して、地元の大学を選択させる親も多い。)教員養成は地域文化と一体のものだとも思う。(断っておくが、私は東北の出身ではないので、ためにする議論ではないつもりである。)

教員養成を国公立大学でできなくなった場合、その地域で教員養成に特化した私立大学が現れることは充分に考えられ、年月を経るとその大学の出身者が地域の教育を担うことになるだろう。問題はその先で、その大学の出身者が県の教育委員会の中枢を占め、かつ現在のような教員採用体制が続いた場合であると思う。ビジネスとして教員養成を考えている私立大学では、入学からずっと採用試験の模試を行い(したがって進んだ知識を得ることなく)、教員に採用されることを至上命題とするところもあるようである(日本の大学の経営基盤の薄さを考えれば、合理的な対応とさえいいうる)。これが続いた場合、教員の職が一種の名誉職になり、教育の公共性が空洞化するのではないか。あるいは塾が学校にとってかわり、学校は極端に言えば国歌と道徳を学ぶ日曜学校のような場になっていくのではないか。(おおげさかもしれないが、民主主義に対する挑戦というべきであろう。)私はそのような未来はあまり見たくない。

そして、やはり優秀な人に教員になってほしいものだと思う。現在のセンター試験体制の下では偏差値による輪切りがいかんともしがたく定着していて、どこでも優秀な人を集めるというわけにはいかなくなっている。(日本数学会の教育委員会でも、現在のセンター試験については問題であると考え、資格試験とするのが適当ではないかなどの意見を討論するシンポジウムを 3 月に行った。)また高校の教師は(とくに大規模私立高校においては)すでに自己研鑽のための時間を奪われて、職業としての魅力を失いつつあると思う。(子どものころから職業人として身近に感じることが多いため、また現在の異常な不況により、志願者が多いだけではないか。)

各地域でそれぞれ良い教育を受けることができるようにするには、やはり国民的議論の下に正当な投資が行われることが必要である。(そもそも日本の公的部門はヨーロッパやアメリカと比較しても有意に小さく、 GDP 比でおよそ半分といわれている。(さらに物価の高さも考慮すべきであろう。) この点に関連し、総務省は最近、教員の給与を国が半額負担する現在の制度を見直すべきという意見であるらしい(24 日、片山大臣発言)。これについては大いに反対したい。地域の経済格差がそのまま教育格差に繋がるのであれば、日本という国の単位を維持するメリットはテレビやサッカーにしかないことになろう。) この議論はいつぞやの「教育改革国民会議」のように国家への献身を盲目的に要求するようなものであってはならず、予算配分の議論の上に立つべきで、これを阻む政治状況から目をそむけるものであってはならない。--- 「国民会議」をはじめとする各種答申や、さまざまな教育論議では、これまで金銭的な観点が全くといってよいほど忘却されており、戦前の精神論のようである。そのような議論を精密に行う政党が現れることを期待したい。(目下そのような投資を新たに行うことが難しく、逆に削減さえ止むをえないとすれば、私は山形県知事の意見に与するべきかもしれない。)なお私は、幹部自衛官の図上演習能力が落ちるのも困ると思うし(安易に突撃を命じられては一兵卒には迷惑である)、一方階級格差を生じさせるのも愚かだと思う者である(物理法則の発見とそれにともなう経済活動が、階級をなくすために与った主たる圧力だったと思う。これを発見の世紀から遠くない現在に「元の木阿弥」とするようなことがあれば、再び所得の平準化を実現するための因子はありえないかもしれない)。

それにしてもこの種の議論が、学長や知事の意見さえも文科省の前に影が薄いまま進んでしまうのは、いかがなものであろうか。せめて公開の場での討論が行なわれる必要があるのではないか。(不勉強だが、県議会に本省職員を招致するなどの手続きはできないのだろうか?)(7/4の追加:岩見沢市発|弘前発)

2002.5.20 育英会奨学金事業の(事実上)縮小案が報道された。一方前日付けの朝日新聞に、遠山文科省大臣と AOL 社長の対談形式による全面広告が出ていた。異和感を感じたのは私だけではあるまい:参考。にわかに議論されている有事法制では、国立大学も有事の際に協力すべき団体とされる可能性が高い(大臣答弁)。反戦の立場そのものが制度的に否定されることは社会の堕落だと思うが、遠山大臣には色々と認識を改めていただく必要があるのではないか。

2002.5.19 国立大学特別会計の借金の額(8 兆ともいわれる)が公開されていることがわかった。政策的に進められた移転や病棟建設が大きな部分をしめると思われるが、法人化にあたって大学の負債とされた場合、学生教職員の負担でとうてい賄えるものではない。 (たとえば 8兆= 800万(人)× 100万円である。)今後の議論のゆくえに注目せねばならない。 2002.5.20 これには誤解があるとの指摘。ただし政治的に歪曲されて今後利用されるおそれがありそうな気もする。(参考)

2002.5.18 中央教育審議会「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について」(中間報告)に関するパブリック・コメント(長谷川)。

2002.5.16 大学院重点化政策に関する読売大阪版のレポート。数値目標を掲げるから変になるのだと思うが、法人化されれば中期目標などを通じて官のしばりが更にきびしくなると思う。

2002.5.10 東北大学職員組合の意見広告:河北新報に掲載。(ラジオスポットも。)

2002.5.8 1998年4月6日、経済企画庁経済研究所・ 教育経済研究会報告書の要約. 1998 年に web 上にあった資料で、国立大学を自主財源による運営にした場合の学費への影響が試算されていたが、省庁再編に伴ない見ることができなくなっていた。東北大学職員組合ほかの有志の求めにより開示が実現。

2002.5.8 文部科学省調査検討会議『新しい「国立大学法人」像について』についての 社会学研究科教授会意見, 文部科学省調査検討会議『新しい「国立大学法人」像について』の管理運営組織部分に関する社会学研究科ワーキンググループの提案:ともに一橋大学社会学研究科・社会学部、2002 年 4 月 17 日付。

2002.5.7 なくなる教員養成課程:福島民報(5/6)論説/独立行政法人の役員焼け太り3 倍増:読売新聞 5/5. これらがここ数年の改革の成果である。参考

2002.4.30 文部科学省における研究及び開発に関する評価指針(草案)への意見(長谷川)

2002.4.26 週間現代 5 月 4 日号に麻生太郎自民党政調会長インタビュー。国立大学の法人化のあとは民営化だ、と息まいておられるが、正気の沙汰とは思えない。もし本気とすれば古代のアレキサンドリア図書館を壊滅させたと同様の愚行であり、麻生氏はこれを主唱した政治家として歴史に記憶されるべきであろう。

2002.4 24 昨日今日と、NHK の news 10 などで「すばる」望遠鏡の映像を中継していた。国立天文台(ひと足先に法人化されるかもしれない)が運営している、関係者念願の望遠鏡である。テレビでの中継で存在が再認識されれば(研究のための観測の時間を犠牲にしても)良いことがあるだろうということかもしれない。一方で理論部が縮小された(もともと数名だったはずが、さらに減った)とも聞いているので、本当に良いことがあれば良いなあと思って見た。今日は毎日新聞で「研究現場は声を挙げよ」という記事もあった:記事にあるとおり、学術会議がこれまで有効に機能せず、政府で継子扱いされていたかのようなのは問題だと思う。これは(事務局が貧弱な上)かなり以前の医療制度策定の際に、医師会が意見を統一するため?だったかで民主的な議員の選び方を変更する必要に迫られたことと無関係ではなかったと記憶するのだが、できれば新聞などメディアの方に調べていただけないだろうかと思う。(私も何を見たか忘れてしまったので、間違いがあれば申し分けないことだが、かなり印象的だったので当らずとも遠からずだと思う。)それこそ現場での記録は全く残っていないだろうから。(比較的最近だった、大学の教養部解体や重点化でさえ、文部省の(大蔵省対策と聞いたことがある)指導の記録 - 大学院の名称を「他にないものにするように」など - は口頭であり残っていないと思われる。)願わくばオーストラリアの行革の際に起きたように、天文学科が占星術で稼ぐなどの情けない検討をしなくてすむように。(それでも天文は、視覚に訴えられるだけ良いかもしれない。)財務省は何と思うか知らないが、現状の研究と教育のレベルを維持するだけで、日本の科学は充分世界に誇れるものであると思う。そもそも昨今「産学共同」がいわれることについては、今の経済状況を作った責任が明確にされないままで、「転んだのはお前のせいだ」的ないいがかりをつけられているようにも思う。

2002.4.22 長尾 眞「国立大学の法人化」 IDE 2001.12 号/国大協会長(=長尾京大総長)談話

2002.4.21 小泉首相が靖国神社参拝。こうした政治向きの話にあまり関わるつもりはないが、最近の有事法制の議論をはじめ貴重な時間を何に使っているのかと言いたくなる。現在の経済状勢にまったく打つ手をもたないが故の「何かしているふり」ではないのか。経済の問題だけでなく、教育への投資のありかたなど、日本の将来を左右する問題は多いはずである。国会議員のみなさんは選挙区の都合などもおありだろうとは思うが(それゆえ私は二世議員とよばれる方々を好ましく思わないのだが)、このようなことで報道が一色になることの弊害も良く考えて行動していただきたいと思う。それにしても、有事法制といい大学の法人化といい、制度的に問題だらけである。10 年のちに独裁的な人間がでてきて有事を勝手に宣言し、大学の中期計画を認可しなければ、あっという間に戦前のドイツのような体制ができかねない(フランスの大統領選挙の様子や、若年失業率の悪化を見れば、ありえない未来とはいえないのではないか)。そして企業の中には、それによって潤うところもあるのであろうことが、社会科教科書をつくる活動をしている某団体への献金企業リスト(「世界」に昨年でていた)から示唆されているように思う。絶望的な気分におそわれるが、せめてこれをお読みの方がそれぞれの場所で気を強く確かに持っていただけば幸いに思う。

2002.4.18 奉仕・体験活動促進の中間報告。小渕内閣当時の「国民会議」の乱調な議論が政策化されたものと思うが、学力低下に拍車をかけないか心配である。ボランティアは強制されないからボランティアなのであり、義務でやられてはやられる方も迷惑なのではないか。すでに教員免許取得のために義務化された介護実習の負担のため、免許取得を考えない優秀な学生も多いように思う。(研究者になりそこねて高校の先生になるとき、改めて介護実習が必要だろうか?)現在の状勢では、数学などこの社会ではワリに合わないことを敢えてやることこそ、ボランティアなのではないかとさえ思う。そもそも、この種の「ボランティア」に公的サービスが依存せざるを得ないのは、さまざまな社会的ニーズに政治が(予算配分のしかるべき再考や、説明が充分なされた増税などで)全く答えていないことが原因ではないだろうか。(それゆえ賢明な若者の場合、良心的徴兵拒否に似た態度をとることも充分あると思うので、今回の政策にはその配慮も必要であろう。記事は「条件整備にとどまった」と書かれているが、1 年の義務になった場合は毎年 100 万人からの若者がどこで何をするのか、「国民会議」で議長を務めた江崎氏自身が疑問を呈していたことも忘れられない。

今日の「クローズアップ現代」でも「学校週 5 日制」の問題点がとりあげられていたが、公的な教育への投資が(箱物でなく、優秀な教師を数多く養成するということで)なされない限り、日本は急速に階級社会になるのではないかと思う。国立大学法人化を明日国大協が飲んだ場合 - このホームページもいつまでこうしたことを書けるかわからない - 学費も高くなりこそすれ、安くはならないだろう。すでに大学院でも学費を払えないで退学する者が出はじめているようである。

2002.4.14 独立行政法人における天下りの実態(朝日の報道より)

2002.4.12 小泉内閣の一年は教育破壊の一年であった:佐藤学氏(東大教育学研究科教授)の論説、東京新聞。

2002.4.10 来年度からの高校教科書の検定結果が報道され、理数系でかなり厳格な検定結果がついた模様。新指導要領を作成した方が作った教科書が削除を求められたりもしたという(河北新報)。一方で新設の情報科はかなりやわらかいもので(理系科目でなく文系科目である)、はたして学校でやる必要があるのかという気もする。大学での知識伝達も、高校までの知識の上に成り立っている。受験産業にビジネスチャンスを拡げるとともに社会の階層格差を拡げるのではないかとも思う。公教育で優秀な教師を(非常勤などでなく)多数確保する努力が、不況の今こそなされるべきと思う。

ここひと月ほど、研究科の広報委員会の末席で高校生向けのパンフレット「理学部物語」改訂版の作成に関わらせていただいた。表紙見開きに「宇宙の歴史」のような年表を時間と空間両方のスケールを入れて作ったが、数年で新しい知見が得られる場合も考え、また A3 大の紙面であることも考え、たとえば生物の進化の詳細などは多少のピンボケも止むを得なかった。それでも一枚で見通せると気持ちのよいものである。(時間の問題で、キャッチコピーを最後まで練りきれず残念。)この年表の細部を完成させよう!という気持ちになってくれる高校生があれば嬉しいし、パンフレットが全体として(「これはここまで」の教科書をこえて)好奇心が動きだすきっかけになればと思う。細い注文に応じてくれた出版社カルダイ社さんに感謝。

同日信濃毎日。踏み込もうという意識はみえるものの、やはりマスコミの反応はこんなものか、とも思う。自由な学科編成が何を意味するか、理学部がなくなりつつある現状なども考えて今一度の報道をのぞみたい。

2002.4.2 農水省プラス厚生労働省の BSD 無策についての報告では、表現が丸くなった点があるものの「失政」が認定され、今後の課題として専門的知識のある人々による委員会が設けられるべきだという内容となった。文科省の昨今の政策についても構造は同じだと思われ、同様の報告あるいは提言があってしかるべきだと思う。しかし大学が霞ヶ関の強い統制下に入りつつある現在、政策の誤りを訴えるのは容易なことではない。(文科省以外にも、たとえば大学ごとに違う看板を強制するのは財務省のようでもあるが。文科省が研究の実態がわかっていない人々の組織だからそれに屈するのであろう。)

大学に関してだけでなく、教育基本法第 10 条にうたわれるように国は側面からの支援に徹するべきである。教育機関の独立性を確保するため、事務局=文部省が主導する中教審を廃止して、より独立性の高い新たな機関が独自の事務局とともに構想されるべきだと思う。

2002.3.30. 新聞をはじめとして、色々な形で国立大学の今後が話題にされている中、数学会を機会に丸山正樹氏(京大)などに話を聞いた。いわく、文科省「調査検討会議」の最終報告とりまとめ最後の段階で、長尾会長が少しでも押しかえそうとした努力は多とすべき点があるとのこと(中期目標関係の文言の削除)。しかし具体的な文章となったことで、某研究科長に「この法人化ではまったくメリットがない」とまで言わせるなど、報告は失望感を与えている。今後各メディアの言論には少しでも大本営的にならず、有益な役割をはたすよう願いたい:まだ努力の余地はある、とのことであった。奨学金の問題をはじめ高等教育への国の投資義務を明確にすることや、無原則な改組の抑止などが問題とされるべきであろう。(追記:マスコミもこれだけ電波があるのだから、政治家個人の問題以外にも重要な政策論議について粘りづよい報道をしてほしいものだ。)

2002.3.17. 河北新報 16 日付より:文科省「公立校の土曜補習容認へ 5 日制なし崩しの恐れ」 。はからずも相前後して報じられた先日の東大佐々木学長の文書(すぐ下↓にリンク)と並べて見ると、小中から大学院にいたる最近の文科省方針が、いかに無理で空論になりがちか明瞭だと思う。

2002.3.16. 大学評価・学位授与機構による大学評価に対する、佐々木東大学長名で出された疑問点の指摘。(国立大学協会第 8 常置委員会)

2002.3.15 首都圏ネットによる、国立大学法人化案の批判.

2002.3.13.千葉大有志による「最終報告案」の分析および提言。教学と経営の完全分離や学長の選考方法など、大学中枢の運営方法に関する論点が強引に結論づけられつつあるようである。

一方、先週聞いた話。学会の開催などで国立大学に場所の提供を求める場合、昨年から料金が従来(光熱費など実費)の十倍にされている。これは大変なことで、企業他によるの直接の支援が限られる数学会などの学会は、開催が危ぶまれるであろう。これについて、東大の岡本数理科学研究科長は東大の事務局長と面談し、大学と共催の場合は従来通りとする旨の確認を得たとのこと。(ご本人から聞いた。)今後各大学各学会ではこれに準じるべきであろう。もっともいずれかの団体が支援するような学会では、これを理由に大学が共催を断る場合が出てくるかもしれないが、弱小学会としては寛容を請わねばならない。

日本数学会の場合、4 日プラスアルファの会期の光熱費は数十万(40 万程度)という。一方参加者は大学教員と学生が中心で、2000 人はないのではないかと思う。(参加費を取ることには、事務的経費がばかにならないとして見送ったいきさつが過去にあった。)これが 10 倍になれば、そして参加者半数が学生として(奨学金なども手薄になりつつある中)1000 人未満の教員参加者が「なんとかする」とすれば、一人 5 千円から 1 万円の参加費が必要になるだろう。確かに学会から足を遠ざける要因になりそうで、その結果参加費も上がる、発表の場としての魅力も下がる...ことになるだろう。何といっても、現在はタダ(会員の会費による)なのだ。

ちなみに、この夏北京で 4 年に1回の「世界数学者会議」ICM 2002 が行なわれる。中国では主席自ら支援を惜しまない姿勢を見せているようで、90 年に京都で開催されたときに寄付で走りまわっていた諸先生方の様子とつい対比させたくもなる。なおプログラムによれば、かつて斜め向いの部屋にいた方が plenary talk をするようで喜ばしい。

2002.3.5. 国立大学の法人化問題は、自ら外堀を埋めるかのような成り行きになっているようだ。官僚組織あるいは中央政界に隷属してしか機能しえないとすれば、その意向に日々の活動(教育研究)が左右されることで、社会の意思決定に対し根本的な検討を加えるという大きな機能が大学から失なわれるだろう。政府の直接の研究補助がむしろマイナスに働いた歴史はインターネットをはじめ数多く、巨大な資金が必要なものほど止めにくい傾向があると思う。「目標」を中央に認可されるために研究に偏りが生じ、特定の分野しか(極端な場合、たとえば原発しか)研究できなくなれば、工学部などいわゆる大学の実学部門にさえもふさわしい制度ではないだろう。短期的「経済的」利便が多少社会に還元されたとしても、組織改廃の恐怖に支えられたものでは長期の発展はないのではないか。最近脚光をあびた白川氏の研究も 20 年以上前のものだった。

なお、同僚 K 氏より新美一正氏の文章がよめるサイトを教えられたのでリンク。その要約より:「...「教育費の削減」と「学力低下」との同時進行こそ、ここ10 数年におけるわが国教育の劣化を特徴付けるキーワードである。従来の教育改革論は、これらを別個の問題として取り扱うか、あるいは問題の全てを「公立学校の画一的・非効率な運営」に押し付け、その解体・民営化によって全ての問題が解消されるという根拠のない楽観論に陥るか、のいずれかに属するものであった。しかし、これらは公財政の悪化という同じルーツを持つ問題であり、統一的に検討されなければならない。...」同氏による「雇用創出にはジェンダーの視点が不可欠である−なぜ、働く母親への政策的支援が必要なのか−」も必読と思う。

2002.3.2. 昨日市内を移動中にたまたま聞いたラジオ番組に、イソギンチャクの研究者の方が出ておられた。イソギンチャクの分類は固い組織がないために標本にしての比較対照が困難で、離れた土地の個体同士が同種か別種か判別がつきにくく、分類命名がなかなか進まないのだそうだ。(この方は指導教官の指導教官から、懸案であるとしてこの方面の研究の空白を聞き、以来 30 年なのだそうだった。)部分的にしか聞けなかったためこの方のお名前も所属も存じあげないが、このような研究も日本の生態系を理解するには必要なことで、かつ全くといってよいほど短期的な経済原則には乗らないであろう。ノーベル賞対フィールズ賞の論文(被引用)数の比較も不毛だが(それでもいくつかやってみたが)、まして世界に 5 人しか専門家がいない(とこの方が言っていた)ようなこの種の分野においては、単純な業績比較競争はまちがいなく存亡の危機をもたらすだろうと心配した。そして無くなった部分は、それだけ我々の生態系への理解の欠如となるのであり、たとえば環境政策についての誤りを誤りとも認識できないことにつながるであろう。一方少し以前になるが、文部省の科学研究費総額が少しばかり増額されることになったころ、「研究費はきた、あとは研究者をどうしよう。そうだ人材派遣だ」式の広告が雑誌に掲載されて大学人の顰蹙をかったことがある。(広告主の派遣業者の母体については残念ながら失念したが、およそ学問を理解していないこと甚しいというべきだろう。)30 年かかる人材養成を派遣業でまかなえるとは到底思えないが、現在すすめられている国立大学の法人化は外部資金導入と身分の不安定化が間違いなく柱になると思われ、大学そのものを派遣業にしかねないと思う。

一方検索でわかったことに、データベースが決っして完全無欠でなく(そんなことはあるはずもないが)、私が使ったものの場合数学に関しては高々半分程度しかカバーされていないことがあった。また、企業発の論文について、その被引用回数が(0 のことも多く、数学など金にならないものに負けず劣らず、と言っては失礼だが、)必ずしも多くないということがあった。この件で論争したいわけではないが、時に大学での研究が自己満足になっているのではないかといわれることに反論したいだけである。企業の場合「大事なことは外に出さない」ということもあり得るとは思うが、その内容が(最近問題になっているように)遺伝学上の知識などをはじめ普遍性のあるものの場合、大事だから外に出さないとすれば罪悪ではなかろうか。公的な研究の場を確保する必要があるのはあまりに明白であり、日本の国立大学はそのようなものであったはずである。

2002.2.25 文部省の路線に国立大学協会は抵抗もできず、研究もしたことのない人々の声で研究者の身分が脅かされようとしている。私は最近、ある教授からフィールズ賞受賞者とノーベル賞受賞者の論文の被引用回数を調べてくれないかと頼まれている。教授がちょっと調べたところでは、優に 10 倍はおろか、それ以上の差が出そうだとのこと(さる代数幾何の受賞者 - 日本人ではない - の論文の引用回数は 10 回台だったが、それでも人類史的な達成であることに変わりはない。ひとえにその分野を理解している人が少ないからであろう。)。私の指導教官であった方も、超弦理論に関係する数学で世界に誇るべき人であると思っているが(私だけでないと思う)、10 年論文を書かなかったことで有名である。このまま引用回数や出版の多寡などによる安易な成果評価により組織の改廃にまでつながりかねない制度にされるならば、日本の基礎科学は壊滅的打撃を被りかねない。10 年もたてば、現在制度設計なるものを行っている人々は全て引退しておられることと思う。御本人が晩節を汚したと言われないためにも、後世に対霞ヶ関の不平等条約を残さないようにと願う。

ちなみに上述の調べものだが、 2 月中は東北大学とデータベース会社の契約により無料で検索できるのだが、忙しいこの時期(理由はあえて書かない)なかなか実行できずにいる。すでに類似の調べものをした方があれば御連絡いただけると有難い。

なお、最近の報道よりひとつだけ:2 月 22 日読売島根版。読売本社はこれまでも国立大統廃合を焚きつける側であった。ここ一年来の文科省の態度は、マスコミや経済界に過剰に反応しているように見受けられ、特にに報道側が紋切型に改革を迫ってきた責任は重大であるといわざるを得ない。いざ地方で現在の「改革」が実現した場合に学費値上をはじめいかなることが起きうるかについて、本社は地方読者にどう説明するであろうか。また地方記者は本社に何の異議も唱えられなかったのであろうか。ジャーナリストの良心が問われるであろう。

2002.2.19 ブッシュ大統領と小泉首相の会談の結果、日本はアメリカがイランなどに対し戦線を開いた場合どう対応すべきかという難問を抱えることとなった。江戸時代でもあるまいに、今どき大統領と会っておだてられて喜んでいる場合ではない。構造対策を進めよ、との注文もあったようだが、他国の機関が日本に行なう提言がどこまで親身でありうるかも考える必要がある。小泉デフレがこのまま進む一方で戦費がかさむようなことになれば、誰のための政府かということになるだろう。(昨年のような歴史教科書運動は、そのとき日本でも武器輸出で貢献/景気浮揚できるようにという配慮かと勘ぐりたくさえなる。)中東は 1000 年あまり前は世界の中心(の少なくともひとつ)であったし、当時の達成がその後の西欧の科学にも強い影響を与え、現在の文明に恩恵を与えている。来日したイランのハタミ大統領の知性にも私は敬意を感じた。経済同様に外交が盲目的にならぬようにと思う。(参考。アメリカは国連が唯一認定した「テロ支援国家」という話も忘れてはなるまい(チョムスキー「9.11 アメリカに報復する資格はない」文芸春秋)。

2002.2.15 学期末の諸事や原稿の〆切に追われれ結局書けなかったが、「大学等における社会人受入の推進方策について」(答申案)に対する意見募集があった。原則として学習機会が増えるのは悪いことではないが安易な気もする、総体として物がいいにくいいつものパターンの答申であるように思う。このような各省の答申で予算の配分に言及できないのは財務省ルールらしいから止むをえないことではあるが、予算的裏づけもないまま数値目標がかかげられることのないよう望みたい。(この手の数値目標は、今後「中期目標」「中期計画」などとして大学自ら書かざるを得なくなるかもしれない。)

他にも、インターネットに何でも期待しすぎなのではないか(コンテンツ配信業への投資に比べ、大学への投資は特に人的資源において[定数削減などにより]貧弱なものに思われ、そうそう何でもできるとは思えない)、同様に通信制でどれだけ実があがるのか(実験などを伴なう分野はいうまでもなく、レポートのやりとりだけで社会学など物の見方を根底から見直すような学問が身につくのか、そもそもメールでの議論は人間関係がなくては成りたたないのではないか)などの点で、やはり疑問も感ずる。大学の生き残りは社会人教育だときめつけられている気もしないでもない(普通の教育を小人数で行なえるよう投資することも、国として選択できるはずである)。数学に関していえば、教員の再教育などはありうることだとは思うが、その際通常の講義と別の時間に別だての配慮の下で開講することが必要になると思われる。(実際、昼夜開講をうたった大学院の教師である友人は、研究時間がとれないことを悩んでいた。)そのようなコストを考えなくては、現在小中学校で問題となっている「総合的学習」(いわゆる「ゆとり教育」)路線のもつ問題を大学に持ちこむものにならないか心配である。教員の再教育においても、現場を離れる余裕や制度が整備されていないことが基本的問題だったと思うが、同様に社会人入学を推奨しても、現在の不況の下でどれだけ希望があるだろうかとも思う。否定的なことばかり述べるのは本意ではないのだが、これまでの大学改革が真に大学のことを考えているように見えないだけに構えざるを得ない。

他方、外務省改革で川口新大臣が提案した「官僚への議員の働きかけ」の文書化については注目したい。他省庁でもそうだろうが、文科省の政策にも議員の働きかけはおおいにあるのではないか。中教審の委員の選定などについてもそうである。この点が後日であっても明かにされるとすれば、この案は画期的なものでありうる。(もっとも、党人の大臣が直々に影響を与える場合は文書化されないのだろうか。)骨ぬきにならぬよう、全省庁で実現してほしいと思う。

ところで、14 日の河北新報コラム「河北春秋」には、小人数教育の規模が 30 ではまだ大きく、20 人以下であるべきだ、という意見が紹介され、一方でその根拠がまだ乏しい、と書かれていた。これは結局、ひとりひとりの顔色をみながらコミュニケーションをとることができるかどうかを決定する、大脳の処理能力の限界に根拠が求められるべきではないかと思う。手元にないが、古代ローマのむかしから軍隊の基本単位の人数は 20 人であるという指摘とともに、その根拠を脳科学的に論じたものが岩波「科学」(5 年ほど前)に掲載されていた。(その当否について私は専門外だが、このような視点で議論が収束すれば好ましいことに思う。)もっとも、より専門的な教育の場合、「だから 20 人なら良い」という事にはならないであろう。

2002.2.4. 東北大学大学院理学研究科は、大学評価機構の初年度の評価対象として評価を受けた。数学に対する評価(案)の文面を見せていただいたところ、(特に我々の世代にとって)首をひねる部分があった。評価した方の名前が載っておらず、私は不満である。論文がメールで行き交う時代である。評価に携わることの多い大家が現在の研究動向を常にすべからく把握できるわけでもなく、限られた見方による評価が一人歩きすれば問題である。いわゆる制度設計にあたる方々には、こうした評価が絶対的でありえないことに留意していただかなくてはならない。(15 日の追記:その後この点を含め、研究科として反論を堤出することになった。)

2002.2.3. 国立大学独立行政法人化阻止全国ネットワーク(代表 元都立大学学長 山住正己)による遠山文部科学大臣への公開質問状。大学によっては、人事権が学長・副学長の周辺に集約される動きもあるようであり、日本の基礎学問は大きな危機に立たされている。(修士卒業生の研究の仕上げと重複し出席できなかったが、すでに独立行政法人化された研究所における類似の問題の報告が、週末に東北大学で行なわれた。)|参考:「高等教育基本法」について。その 1, その 2:いずれも cpoirewjp 氏。|2 月 3 日神戸新聞

2002. 2. 1. イスラム教世界が、古代地中海世界の数学・天文学をはじめとする高度な学問を受容しかつ理論的にも発展させたのに、なぜ近代科学を生むことができなかったかについて:Toby E. Huff 著 ``The rise of early modern science -- Islam, China and the West" (Cambridge University Press 1993) pp212-213 より引用したい。({\it}部分は原著のイタリックによる強調)

... Whether or not there were more truly great intellects in the Arabic-Islamic world of the Middle East of that time, Arabic-Islamic civillization clearly had extraordinary intellectual advantages bequeated through its literary and scientific past, and until that legacy had been transmitted to and assimilated by the West, it was reasonable to expect that its intellectual achievements in the future would far surpass those of the West. But this did not happen.

The problem was not internal and scientific, but sociological and cultural. It hinged on the problem of institution building. If in the long run scientific thought and intellectual creativity in general are to keep themselves alive and advance into new domains of conquest and creativity, multiple apheres of freedom - what we may call {\it neutral zones} - must exist within which large groups of people can pursue their genius free from the censure of political and religious authorities. In addition, certain metaphysical and philosophical assumptions must accompany this freedom. Insofar as science is concerned, individuals must be conceived to be endowed with reason, the world must be thought to be a rational and consistent whole, and various levels of universal representation, participation, and discourse must be available. It is precisely here that one finds the great wealness of Arabic-Islamic civilization as an incubator of modern science."

以上は、科学的思考を社会においていかに定着させるかに関する長期的視点からの指摘だが、最近の大学改革論議はもちろん、 政府のありかたの問題にも明かに通ずるものである。| この日の朝日新聞サイトから

2002.1.31 25 日の新聞報道()について、遠山大臣の会見

2002.1.28 毎日新聞 26 日の社説。ここまではっきり文科省の責任を問う社説が出たのは、遅きに失するが歓迎したい。追記:ただ、この記事でも「各大学の明確な目標や将来構想を打ち出すべきである」とあるのが気になる。県に一つしかない新聞社や報道機関がその経営を優先させ、あまりに明確な目標や将来構想を打ち出し、その結果偏りが生じてはならないように、特に地方の小規模大学ほど、その存在理由の根本には普遍的な知的営為があるべきである。これは一見はなやかで宣伝受けする価値とは一線を画するものであり、この点が理解されなければむしろ社会の方がどうかしていると私は思う。(一生のうちの一時期、そのような真理に触れる場があっても良いではないか。)このような風潮を煽ってきた「教育の受益者負担」原則は罪が深い。

なお、先週末発売の「数学のたのしみ」29 号には、埼玉大学の岡部教授(数学)による「論争の学力低下」という小文が掲載されていた。私は知らなかったが、教育評論家の尾木氏による「学力低下論者」批判が「日本の論点 2002」(文芸春秋)上にあったそうで、それに対する批判である。公立の普通高校(進学校とはいえなかったであろう)出身の私としては、公立学校の役割が財政難や文科省の都合で縮小されてはならないと考え、その趣旨で文科省に批判的であるので、その点で尾木氏に誤解があるのなら正していただきたいと思う。(たとえば私の同僚も、また他大学の数学教員も、特にこれまで私立高出身者が多いというわけでない。今後私立高校だけで受けたい人が理系教育を受ければ充分と考える方がいれば、それは大いに誤りだと言いたい。)なお、同「数学のたのしみ」には休刊前の企画として私も座談会に参加させていただいた。(東北大学生協理薬店では、月曜までに売り切れ現在品切れ中。最後になって売れるのも惜しまれる。)

2002.1.24 教育基本法改正および憲法調査会について、20〜21 日の読売につづき23 日〜24 日に日経が報道。これまでの文教政策の実態を考え、また国会の憲法調査会では委員の出席が悪く、居眠りをする者もあるという話を考えるとき(記憶によれば、昨年夏ごろの朝日新聞にあった)、どちらも噴飯ものに思う --- 正視に耐えないというべきか。基本法 10 条は、行政が教育機関へ直接関与できないとするものであったが、このことの行方は日本の大学の行方とも直接関係するであろう。中央から教育を号令することの弊害は、最近の「ゆとり教育」問題でも明かになった通りである(参考. ところで朝日で教基法報道を見なかったが、仙台では夕刊が読めないからか?)。今の政治が具体的に機能していないことが、このように議論を抽象的なレベルに上げる動きと無関係でないと思う。(政局でなく政策こそ論ずべきマスコミにも、罪があると思われる。参考)どちらの結論も、復古調的な 19 世紀の遺物になることが見えすいているのではないか。

2002.1.21 河北新報社説 新学習指導要領/文科省のブレは反面教師(19 日)/ 文化行政/河合氏起用でお茶濁すな(21 日)/ 読書活動推進法/実効性乏しく強制が心配(2001.12.11) がんばれ地方紙。(追加:「原子力委員会機能せず」福島県の検討会で講師が批判:1.24)

2002.1.18 「トップ30」を「21世紀 COE」に改名するとの報道(共同朝日ほか)。数学は 2003 年度に 「数学・物理学、地球科学」分野として 30 あるかわからない座を争う栄誉に浴する。(年末年始に自分の論文を検索して作った資料は何だったろうか。)それにしても格闘技でもあるまいに、異分野ひとくくりとは。

2002.1.17 辻下氏が紹介していた、文科省のパブリックコメントに以下を投稿。いずれも推敲の時間がとれないまま、〆切日の 5 時すぎに送付したので有効とされるかどうか。(「今後の教員免許制度のありかたについて」への意見,「新しい時代における教養教育の在り方について」(答申案)への意見.(参考:戦後日本文教政策要約年表長谷川、私家版)

なお、先日 1/6 には、高等教育フォーラム(松田氏、正木氏)主催による、日本の理科教育の将来を懸念するシンポジウムがあった。立花隆氏も参加するかなり充実したもので、夜 7 時までの予定が 9 時半まで伸びたほどであった。(中でも、高校の電磁気の記述が現在 24 ページあるのが 9 ページに減るという報告は衝撃的で、改めて新指導要領の深刻さを思い知らされた。) この集まりには NHK の早川解説委員も参加しておられ、同委員により「明日を読む」でも取りあげられたが、残念ながらあまりニュースにならなかったようである。早川解説委員によれば、視聴率がとれないと番組編成会議で判断されるとどうしようもないのらしい。NHK の番組編成はそのような視聴率主義から離れていなくては、NHK という特殊法人の意義が見失なわれていることにならないだろうかと思う。先日の「インターネット・ディベート」における 3 回の「大学改革」番組も、そのような中で取材も不足気味であったに違いない。(想像だが、総合での「NHK スペシャル」などとは取材予算も格段に違うだろう。)シンポジウムの内容はビデオに撮影したが、主催者の正木先生よりネット上の公開の許可を得たので、mpeg 画像で年度中に公開したいと思う。(文科省の布村課長が学校裁量と指導要領の逸脱について「入試は別として教える上で指導要領を越えることがあってもよい」「小学校で空いている 6 時間目を使うかどうかは、全員への強制でなければ学校裁量で可能」など、かなり踏みこんだ発言をされた点が注目されるが、そこは残念ながら全ては公開できない。記録は後日「学会出版センター関西」より出版される予定。)1/18 追記:17 日、遠山大臣が上述布村課長の発言に沿った内容を全国都道府県教委連合会で示す。(朝日, 日経, 東京, 読売). しかし上述の電磁気の教科書の記述などにみられるように、今後かなり混乱も予想される。

2002.1.1. 国立大学の独立行政法人化と小中高の指導要領改訂をはじめ、今年も多難が予想される。高校の教師をしている卒業生から「新設科目の研修をうけたがこの先どうなるのか」、大学の事務方の方から「大学改革はどこへ流れていくのか」など、不安の声の年賀状をいただいた。30 日の毎日新聞には、「小中の教科書に高度な学習内容/「指導要領」の範囲外容認/学力低下に配慮/文科省検討」とある。指導要領問題について批判を受けた文部省が当初方針を飜すことを歓迎したいが、教科書の印刷など容易に飜せるものではなく、数年後の全面改訂時からコラムに限って範囲外が認められるらしい。類似の経過をたどりつつあることとしては、教養部解体+大学院重点化がある --- 「教養部」をなくし大学院を強化するという触れこみだったが、教員は増えず学生定員のみが増えたために教育の手薄と教員の過労を招いている。--- そして最近の中教審大学部会では「教養重点大学」の認定を、という報告がなされた。日々の研究教育にとって、制度で右往左往させられることは迷惑である。進められつつある国立大学の法人化も、私にはこれらと同じ愚に思われる。

必要経費を競争経費化するだけでも十二分に脅しであり、せめてつきあわされる「トップダウン」はどれか一つにしてもらいたいと思う。しかるに独立行政法人化された暁には文科省・総務省・財務省・評価機関から数年に一度(つまり、どこかからほぼ毎年)脅され(税務当局にも?)、書類書きにおわれ研究どころでなくなるのではないかと心配である。(用があり元日夜大学に来たが、結構どの棟も明るかった。ちなみに数年前他人事に聞いた話で、ある老舗に銀行のコンサルタントが役員として入ったところ、安売競争をあおり、朝晩のように展示してある商品の値札を書き変えることが日課とされ、有能な店員は去って独立し、残った店員は新商品の知識を得る暇もなくなり倒産したというのがあった。その後、この店があった敷地には貸しビルが新築された。実話である。)

元旦の毎日 27 面は、「理系白書」として研究者の給与や成功報酬について扱っていたが、成功報酬という形の「駄賃」は徒らに射幸心をあおらないだろうか。スター扱いされることで多忙になればその研究者自身の健康も害し、研究にとっても良い結果は生むまい。報酬の多寡だけでなく、いわゆる「派遣」が多くなりつつある事務方よりも不安定かと思われる使い捨ての傾向(特に若手の扱い)や、意思決定へ参加できないことがむしろ問題ではないかと思う。日本の組織の指導層の問題は、現在も「失敗の本質」(中公文庫)に描かれた旧日本軍の問題と同じように思われる。(今手元にないが、「日本軍の小失敗の研究」という本もあって示唆に富んでいた。戦争末期、戦車の生産部門に潜水艦を 3 隻試作させたところ、3 隻とも沈み有能な人々を犬死にさせた、などの記述あり。)

なお、29 日の日経教育面には、「私立と競争 土曜も授業」のタイトルで都立進学校の時間割上の苦心が述べられていた。入試が変わらないとやはり変えられない、という田村哲夫氏(渋谷教育学園校長)の意見も述べられているが、大学入試センターは 2001 年度から独立行政法人である。協力要請を拒否できないよう、以前はセンター長は学長より上位の官職だったそうだが、現在はどうなのだろうか。(この「協力」がいやで大学を移った元同僚があった。)現実は私立も巻き込まれて推移していて、センター試験は容易に廃止できそうにない。アメリカ式にすべて現在の AO 入試的にするとすれば、大量入学大量退学のシステムを作ることになるが、予備校を廃止してその教員をすべて大学に回すぐらいの人員が必要だろう。ちなみに私の研究分野の第一人者のひとりはロシア人だが、本国の経済の悪化からカリフォルニア大学に移ったところ、1 年生の微積分の演習を多いときは週 5 回受け持ち、研究のペースが如実に落ちてしまった:アメリカは人を吸いこむが、人が育つのに良い面ばかりではない。

ところで、年末 24 日に NHK BS1 [インターネット・ディベート」ページに私が投稿した意見は、その後(元日までに)掲載されていた。他方元日の朝 8 時から「トーク 3 人の部屋 めざせ大量獲得〜ノーベル賞の"価値"」なる番組があり、内閣府大臣官房の方も出席されたらしい。(誰の人選だろうか。)見ることができなかったがどんな内容だったろうか。

2001.12.27. 読売中部版の特集より:21日 | 22日 | 24日 | 25日。あることに関する情報は、そのことを知らなければそのことについての情報になり、良く知っている場合は情報の出所についての情報になるという。どうしてこれだけの事態をまねいている政府方針に無批判なのかと思うが、その方針の側に社主がいるのであっては仕方ないということか。トップ 30 に入れなければ研究できないとなると、長期的・批判的観点からの研究は大学では全く考えられないことになるだろうし、5 年ごとに看板の掛け替えを迫られることで天文学が占星術になることもありうるだろう:これは実際、ニュージーランドの「改革」の中で大学が生き残りのために検討したといわれる(後述の河内氏による)。

なお、ニュージーランドの行革の負の遺産(失敗)については、同日の毎日(仙台版)20 面「企画特集」が「行革の教訓 NZ に学ぶ」の題で扱い、かの国の改革の影の部分を報告した河内氏が登場している。 (なお、東京新聞は 2000 年頭の時点で河内報告に注目していた。) この「企画特集」面の下 3 分の 1 が出光の広告であることには留保が必要だが、このような記事がなぜ(特定のスポンサーがない)普通の紙面に載らないかは不思議である。改革という実験の結果がどうなったかを知ることは日本社会にとって必要な中立的情報であり、「実験データ」と考えれば社の方針にかかわらず話題としてしかるべきではないだろうか。

何につけ旗を振る立場にいるマスコミ関係者は、その報道が社会に日々与える影響を考えるべきと思う。たとえば日経も、自由競争のみを是とする報道姿勢(例)を続けているが、新聞の主張としてはすでに硬直化した旧態依然の態度に感じられる。(私も含め)日本人の広い層に自信を失なわせ、デフレの一因とさえなっているのではないか。独立の資本で運営できる数少ない全国紙といわれる同紙の責任として、社会の不安を単に増大させてはならないであろう。(余談))

2001.12.26. 24 日の「インターネット・ディベート」意見〆切にあわせ投稿した文章:「投稿をうけつけました」の画面は見たのだが、残念ながらこの時点でまだ載せられていない。|ところで、NHK も特殊法人のひとつであるが、これを改革の対象とするかどうかの議論の中で、「独立行政法人化は政府関与が強まる」として(改革の元締め役である)総務省が反対したらしい。大学が NHK 以上に政府の代弁者になって良いとは思えないが、大学改革において文部科学省あるいは小泉内閣は暴走しているのではないか。参考

2001.12.22 初の官邸主導予算案固まる。 国立大学の H15 年度よりの学費値上が、政府予算案では 2 万 4 千円に。財務省原案では 3 万 7 千円だった。(学費は一旦国庫に入るので、国立大学に直接回るわけではないが、国立大学の運営の上で学費の占める割合は 1 割程度である。3000 億ほど予算を増やせば国立大学の学費はタダにできるのだが、わが国の政府には残念ながらその見識はみられない。)遠山文科省大臣と塩川財務大臣の折衝により、私学助成費が 110 億増加することになったが、この増加分は国立大学の学費が上る分とほぼ同じ額ではないかと思われる。最近帝京大学で不明瞭な寄付の扱いが問題になったが、増額された私学補助の扱いについて私学経営者の人々はくれぐれも同種の誤ちを犯さないでほしい。日本の大学の学費の高さは、中曽根内閣以来の政府見解「教育の受益者負担」によるところが大きいが、私学の経営が透明にならない限り国としても私学補助を劇的に増額することはできず、私学と国立の格差を理由にして国立大学の学費も上り続けるであろう。その結果教育格差が世代間で再生産される傾向は否めないものに思われ、これは日本の未来にとって大きな暗雲である。私学経営者にはこの流れに関して大きな責任がある。

遠山大臣は記者会見を開き、国立大学の学費値上はさまざまな事情を勘案した苦渋の結論と語ったと伝えられる(NHK ニュース。臨時のもの?のためか、左記ホームページには該当する情報がないようだ)。先日の NHK 番組「BS インターネット・ディベート」における国民の意見に配慮したのかもしれないが、学費値上を止めるには至らなかったわけであるし、会見の中では国立大学の設備更新も理由としたようである。設備更新まで学生の「受益者負担」ということであろうか。教育の受益者負担を政府が原則として掲げ続ける限り、今後もこのような論理が強化されるであろう。本当にそれで良いのか?

これを変えられるのは政治家しかいないにも拘らず、この問題を私立文系 2 世議員たちに理解させるのは困難であるように思われる。有権者の意識に待つにしても、野党もまた政権担当能力に不安がある。このようにしてこの国で人材が育つ環境が徐々に失なわれ衰退してゆくのは、全く見るに忍びないことである。(参考)|12/27 加筆:反省してみると、人材が育つどころか、人が生まれるための環境さえ整っていないのであった!人口が減るのなら、予算がそのままでも 30 人学級にできるし、大学も潰さなければ(予備校は困るかもしれないが)人材教育に資する(そして将来の財政にも)と思うのだが、そうはならないのが不思議である。(追加:河北新報の特集より。)

なお、上記ニュースの伝えるところでは、ユネスコ(国連教育科学文化機関)における日本の発言力を高めるための政府代表部を設置することも決まったようである。これは先頃の尾身科技相(一橋商、元通産省、群馬 1 区、森派)方針に基づくノーベル賞選考委員接待問題のように、世界的顰蹙をかわないか心配である。「教育の受益者負担」や「日本育英会の改廃」にみられる通り、日本は世界でもまれに見るほどの文化・教育軽視の国家になりつつあり、日本がユネスコに発言力を高める結果世界の文化水準を下げることにならないか私は心配である。(ユネスコが謳う高等教育の漸時無償化を批准していないのは、日本とマダガスカルだけであるという。)あるいは世界の高い標準を日本に導入できなくするためではないかとさえ邪推したくなるが、考えすぎでないことを祈る。

2001.12.15 原稿の〆切(延長していただいた日本評論社さん、御免なさい)、講義、会議、セミナー(学生一人との議論に 2 時間以上かかるのが普通:数学は難しい。)で一週間があっという間に過ぎ、再びの土曜日。この間日本育英会に関して紆余曲折があったが、まだ先行き不透明である。ぜひとも中身の議論まで報道されるべきであり、さもないと単なる看板の掛け換えに終るばかりか、気がついたときにはトンデモナイ制度になっていることも考えられる:参考。NHK のインターネット・ディベイトの意見募集がまだ行われているようだったので投稿。(やはり 500 字は短かい)|第 3 回感想(長谷川, 2001.12.17 朝 9 時; 12.20 加筆)|参考:top 30 問題や奨学金問題に関して、私学関係者の意見

2001.12.1 NHK BS 1 の番組「インターネット・ディベート」で「大学改革」がとりあげられる(全 3 回)。初回への感想(長谷川)|12.8, 第 2 回への感想(長谷川)|参考 なお、第 3 回は 12/15 22:50-24:10 に変更・延長された。

2001.11.28 文部大臣が中央教育審議会に教育基本法改正の 諮問:昨日の報道。この中で「教育改革国民会議」への NHK の触れ方が気に なった。NHK 報道は「政府の審議会である教育改革国民会議」という形容をし ていたが、これは故小渕首相から森首相にひきつがれた、総理の私的諮問機関 であったはずである。総理は政府機関であるから、その私的機関も政府の一翼 を担っているという解釈だろうか?しかし民意を担保する仕組の上にない機関 を「政府機関」と呼んでよいものか(制度化されている審議会()でも、その メンバーを選ぶ過程は不透明なのが常だが、それに通ずる別の問題である)。 ちなみに 28 日の地方紙「河北新報」の 社説では「私的諮問機関」という形容が用いられている。

諮問そ のものについての感想はすでに書いた。河北「社説」のようになれば良いけれ ども、教育基本法を変えたところでどうなるものでもないのでは、というのが 「改革」の矢面に立つ者としての実感である。(「科学技術基本法」などによっ ても、大学の状況は決して改善されていない。 そもそもこうしたことは一本の 法律で即座に改善するようなものではないと思う。)むしろ過去の歴史を背負っ た(いたづらに、とは決っしていうことができない 重みがある)論争にならざるを得ないだろう。 現場の意見は反映されないまま、宙に浮いたところで「理念」「伝統」 「公」などの言葉がならぶのでは、と心配する(参考。それでも良い、政治家大臣でない今のうちに「基本法」問題にケリをつけてしまおう、という文科省の戦術だろうか)。 以前書いたことがあるが、中教審の委員の方々はすべからく自ら教壇に半 年以上(1回ではダメである)立つことを義務にすべきである。その上で議論を 深めるならまだ意味があると思うが、それには一年ではまったく足りないだろ う。

なお、NHK BS1 で予定されている大学改革関連番組のホームページ情報について、北大の辻下教授が公開質問状の中で疑問を呈された。上記の NHK の報道の姿勢とも通ずる問題と思う。BS の番組については、投稿形式が 500 文字では何も言えず、またすでに出た投稿を見るだけで現状を訴える気力も萎えてしまう。(掲示板についていえば、匿名の気楽さが良くないと思う。荒っぽい方法が「ショック療法」といわれることもあるが、ショック療法しか与えられない患者は不幸であろう。)行財政改革から出発した議論だけに、現在議論されている法人化や、あるいは民営化で本当に良くなると思うのか、勝手にしてくれ(というわけにもいかぬが)という気分になる。大学人の意見さえまともに相手にされないのだから、将来最も大事にすべき知性ある若者がすべて日本にとどまらないようになるのではないかと思われてならない。この夏以降にわかに俎上に登った地方教員養成学部の廃止についても、 30 人学級も望まれる時代にむしろ逆行すると思う。明かに地域の教育力は低下するところが出ると思うが、このような大事を首相発と思われるトップダウンで決めて良いものか。また、たとえば仮に地方大学に人気がないとしても、大学の責任というより、その地方自身の魅力のなさに由来する面もあるのではないか(同僚の指摘)。

2001.11.19 時間がなく最近の重要な動きに対応ができにくい。はじめ新幹線の車内ニュースで見た独立行政法人における天下りポストの増加報道(天下りが増えるということは、それだけ研究など実質的活動のための資源配分が減るということである)、およびネット上の ML 情報で見た育英会関連報道(参考)、共に由々しきことであると思う。(私も昔でいえば農家の分家の次男坊であり、奨学金や学費免除の世話になった者である。)こちらにも論評あり。 なお、出張先でも話題になったが、国立大学の教育学部消滅により県内に(私立を含め)教員養成機関が無くなる見込みのところもある。(小学校の先生さえ自県で養成できない!参考:下村氏(早大)の意見, 23 日埼玉新聞。)地方県知事諸君、怒るべし。(23 日追記。/同日毎日)

さらに前後して、教育基本法改正のためと思われる諮問が報道された。現在の不況と国際緊張の中、右よりの論調が支配的となることを危惧する。そもそも教育基本法の改訂は、自衛隊海外派兵なども是とする改憲論者にとってシンボル的な存在(目の仇)であった。(中教審の現在のメンバーリストへ)|参考:2001.5.2 の河北新報の指摘|更に参考:2000.6.20 毎日新聞より|11.22 追記:今回の諮問では「基本法に足りないところを補う」が方針とされ、「伝統重視」などがかかげられるようであるが、[教育改革国民会議」にみられたような内向きの議論でなく、普遍性のある科学的視点を望みたい:「伝統を守る」のに必要なのは貧弱文化政策への適切な予算措置(箱物行政でない人材育成)であり、基本法で精神を語り国民に押し付けるものではないだろう。|参考:戦後文教政策史年表(私家版)/国連人権規約問題関係

2001.11.18 大学改革をテーマとする NHK BS1 番組( 12 月 1, 8, 15 日放映予定)の制作会社の方より相互リンクの依頼あり。そのメールを一部引用する形でここにリンクしておく:

「...番組の URL は http://www.nhk.or.jp/debate/、シリーズ「大学改革」をご覧ください。

はっていただくことができましたら、リンクの形を次のようにしていただければ幸いです。

「インターネット・ディベート」『シリーズ大学改革』 激流に流されつつある大学改革。あなたの意見が番組で放送されます!「大学改革」についての激論大歓迎!是非、投稿してください。」

2001.11.07 国立大法人化中間報告に対する京都大学理学研究科のパブリック・コメントを追加。

2001.10.29 文部科学省(および総務省)主導の「国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議」の検討結果(中間報告)に関し、文部科学省がパブリック・コメント(一般からの意見)を募集し、その〆切の日であった。25 日に出された独法化阻止ネットの意見に私も準ずるものだが、それよりもこうした意見を努力して出したことが報われるのか、文部科学省の態度に不信を感じざるを得ず、何をどう書いたものかと思ううちに何も出さないで終ってしまった。ノーベル賞受賞者や受賞候補者までも批判し、私立大学関係者も含めてどこにも賛成者がないような案で日本の高等教育機関の行く末を決するとは、破廉恥とさえいえると思う:このように鬱鬱としていたところ、本学経済の小田中さんがズバリ核心をつくパブリック・コメントを出しておられたので引用参考(新潟大渡辺氏)|全院協|30日付け朝日

2001.10 26 国立大学の法人化に対して危惧を訴える、10月19日の国立大学理学部長会議において決議されたパブリックコメント

2001.10.25 国立大学法人化調査検討会議の「中間報告」に対する独法化阻止全国ネットの意見(代表:山住正己・都立大元学長)。|同日の朝日報道

2001.10.18 野依教授が名古屋の理学部長当時に出された、国立大学理学部長会議における声明文「危うし!日本の基礎科学 − 国立大学の独立行政法人化の行方を憂う −(1999 年 11 月 10 日)を今こそ広く読んでいただきたい。現状では、当時の危惧はより拡大し、「30大学」(財務省により、その数はさらに減るともいう)以外では研究活動ができなくなるのではないか、次代の教育を支える教育学部がない県が出てくるのではないか等、更に憂うべきものとなっている。

2001.10.17 先日経団連が「産学官連携」をうたった矢先に、野依先生の日本化学会での記者会見があった。ひさしぶりに大学人として拍手を送りたくなる正統的(モットモ)な発言だったと思う。先生の今後の言論にも引き続き期待したい。(毎日の報道、および新潟大渡辺勇一氏による同紙同面掲載の投稿文)(参考:化学賞発表前に発売の岩波「科学」の記事より・池内 了氏文章,藤永 茂氏の文章)

2001.10.10 名古屋大学の野依教授がノーベル賞受賞(祝)。その記事を読売のページで見ていたところ、より興味深い連載があった。このノーベル賞受賞に関して、科学技術担当大臣は「これから 30 年で 50 個とる、その一つ目だ」という内容のコメントをしたそうだが、政府主導の大学院改変がどのような実態をひきおこしているかを直視していただきたいと思う。

私は学生時代は名古屋の理学部だったので、野依先生は直接教えていただくことはなかったものの、当時(20 年前)から「ノーベル賞級の人」だと化学に進んだ友人から聞かされたものだった(余談だが、1990 年にフィールズ賞を受けられた森先生(現在京大数理研)も、受賞の数か月前まで名古屋に在籍しておられた)。名大理学部の入試は学科横断的で入学後に分属を決めていた(当時)が、そのためか学科紹介の機会が設けられていた。せっかくなので化学科にも行ってみたら、当時数千万の NMR (核磁気共鳴装置)がここには 3 台あり、それは野依先生の努力であるとも聞かされた記憶がある。それだけの研究費を確保することは確かに(今もだが、昔ははるかに)大変なことだったろう。そのころ化学科は小さな新棟が郵便局の裏に建ったあとで、化学科がそちらに移転したあとに数学科が入っていたが、化学科が光熱費が維持できないために数学科に譲った面積であるらしいことを後に聞いた。おかげでやりたい時にセミナーができ有難かったが、その数学科でも年度末になると予算がなくなってコピー機が動かせなくなっていたりしたものである。光熱費のように基本的予算にも事欠く中でノーベル賞が出たというとお涙頂戴式ではあるが、実態はたしかにそうだったのではないかと思う。たとえば教養時代の学生実験室では、私より数年上のとき青酸ガスで事故が起きかけたとも聞いたが、ドラフトチャンバーなど無きに等しい設備でさもありなんと思ったものである。(当時学生の間では、青酸ガスが出たら一息吸って気を失うと死なないらしい、とまことしやかに伝えられていたものだ。)今でも大抵の大学での学生実験の設備は、当時とさして変化がないか、実験を監督する教官の数も大学によっては減少しているから、より悪化さえしているとも言えるのではないかと思う。

昨年白川先生は同じ賞を受けられた後、省庁再編に伴って設置された総合科学技術会議のメンバーになられたが、この会議では露骨な「科学者外し」があり白川先生を激怒させているようである。以前よりそのような政府委員もお勤めの野依先生には、そのような手法が今後通用しないことを祈りたい。また、大臣になった途端に文部省見解を糊塗するだけで関係者を落胆させた方のようなこともなきよう祈りたい。

2001.9.21 朝日報:これが、例えば地方国立大学の学問的価値を風前の灯とするものでないことを祈りたい。研究者のいわゆる人事流動化どころか、研究職自体が消しとんで官僚や地方有力者が座る名誉職にされることなどなきように。(参考1:鳥取発|参考2)|NHK 報道いずれにしても、日本の将来にかかわる問題がテロの影響で大した話題にもならず決まっていくのでは虚しい。

2001.9.20 大学の統合案が続々と報道された(富山/北東北/島根/佐賀/香川/愛知北東北北陸などの広域統合が話題にのぼりつつあるが、心配なことがある。研究費を取ってこれる分野が重視される結果、基礎教育のための教員配置が大幅に削減されることになるのではないか。数学教員の組織が事実上消滅した大学もすでに多いので、これは身びいきだけではない心配のつもりである。(将来数学は高校までしか学べなくなる県が多数となり、中高の教師がその中から養成されるとしたら、それで良いのだろうか?教師の「知識偏重」が問題といわれるが、教師が知識をもたなくてどうするのだ。今の教職の環境では学生の間につけた知識を維持することすら大変なのではないかと思う。)

数年前に英国 Weals の Swansea 大学を訪問した際、私を招いてくれた方が議論の途中で「明日分校で講義なんだ、すまない」といって夜車で数 10 キロ離れたキャンパスへ向ったことも思い出される。このような毎週の移動は教員に負担であるし、もちろん教育の質に拘ってくるだろう。教養部も廃止され、学生の前では単なる講義マシンであるかもしれない教員も、実は研究の最前線に立つ人であることは多い。(たとえば富山大には、数年前まで私の学生時代の同級生でストリング理論で深い研究をしている H 氏が職を得ていた。)

ハンドルのあそびが大事といわれるが、数学や物理に限らずそのような部分を失うことで、日本の知的水準に重大な喪失が招かれるのではないかと思う。すでに語学教員は多数が非常勤職で生活苦が一般のようであり、これは外交の水準や翻訳もの出版物の最近の傾向と無縁でないだろう。財務省は遠山プランの「10 分野 30 大学」以外に研究費を配分しない方針といわれ、小泉改革の中数週間で文部科学省が作成した、政治の産物というべき「プラン」の分野わけにあわせ学部・学科の再編を考える大学もあるようだ。水ものの競争経費を偏った配分にまかせれば、必要な専門家を育成する制度的保証が失われ、「プラン」の意図が(大学を良くしたいのか、単に縮小再生産の一貫なのか)どこにあれ日本の大学は弱体化するのではないか。大学院の学生定員が拡張されて社会人入学も増えているが、キャリア合格者に博士号取得を義務づけ、さらに与えた博士号も必要に応じて剥奪できる位の対抗手段を大学側がもたなくては、日本において健全な知的活動は維持できないのかもしれない。「人材大国」などとも言うが、政治家や官僚がはやりを追うばかりでは、体制ができたころその分野は「終わっている」のではないか。(私の出身地のさる代議士が、2000 年 2 月に「大学に電子工学に特化せよと言っても全然そうならない」と講演されていたが、IT 不況とまでいわれる今はどう言われるだろうか。こういうことは企業が考えるべきことだろう。それに今でも大学における工学系の人員の比率は大きなものである。)(参考:科学を儲け話とばかり思ってるからこういうことになるのではないか。なお、この中の「順位が下ったのは、調査対象国が増えたから」などの説明があるが、増えた参加国はいわゆる第三世界の国々であり根拠としては乏しいものである。)

2001.9.19 文部科学省が「学力低下」論争を受けて、新指導要領の高 2〜高 3 の教科書について指導要領をこえる内容をもりこむこともコラムに限り認めるらしい。たまたま某大学大学院の研究科長(専門は数学)の先生にこの日会ったところ、高 2 の教科書についてはすでに原稿がほとんどできているのではないか、高 3 の教科書についてしか実効性がないのではとのこと。数学の場合、たとえば空間の平面の方程式は 「z = 1」など各軸と直交する場合しか扱わないこととなっているが、この点は改善できないのかもしれない。(現在私は日本評論社の雑誌「数学セミナー」で線型代数の連載をさせていただいているが、ページ数が苦しい中予定を変更し「空間の幾何」で1回費すことにしてよかったかも:来月号分)。

同先生は、入試センターが独立行政法人になったのにあわせ、「センター試験の内容を記述式にしていろんな大学に売ればいい、そうすれば入試要員に不足する小さい大学でも良い試験ができるし、最近のようなミスも少なくできる」という意見であった。予備校が問題を売り歩くより健康かもしれない。

2001.9.10-15. モスクワの ITEP という研究所(筑波の加速器研究機構のようなところ)を訪問し研究発表。かの地では天文のグループにも数理物理の人がいたり、人員の配置が豊かでうらやましく感じた。研究所に院生?のような形で学生を受けいれるので(日本の現状のような大量生産ではない)、彼らに数学を教える必要かららしい。(他にも「石油ガス研究所員」を肩書とする代数の専門家がいたりした。)なお、丁度滞在中にアメリカへのテロがおきたが、はじめは中東紛争の激化を心配し、報復という論理は中東と地続きのロシアならずともとりえないものと感じた。

幸い予定どおり帰国できたが、帰ってみると法人化の議論と平行しこれに備えた備品調査がはじまりつつあった。

2001.9.7 不況もあってか、今年の大学院入試は志願者が多かった。その一方、大学をめぐる環境は激変しつつある。これで次世代の専門家は各方面で育つだろうか。 育英会財団法人化(9/1 毎日)|不鮮明な大学番構造改革(9/5 朝日)|教員養成大と教育委員会の連携強化参考:先日高校生向けに講義をしたときのアンケートに、「はっきりいって高校の数学の先生が数学わかってないんじゃないかと思うことがある」と生徒の声あり。(ちなみに話の内容はこれとほぼ同じだったが、今年は 3 時間程度かけた。)

文部科学省では理数科に特化した公立高校(20 校程度)も考えているようだが、そのように理数系科目を特殊な人だけがやれば良いとするのは問題だと思う。環境問題をはじめとする課題に対し日本は真にとりくむことができないのではないか。(参考)

2001.8.25文部省の概算要求報道。奨学金は利子つきが増え、必要経費も競争配分となるようである。(どこが人材大国かと思う。)先日の河合塾による国立大学の独立行政法人化を考えるシンポジウムも、受験産業の視点にとどまるもので残念だった。(ある意味で予備校は国立大学よりも体制的であり、当然ではあるのだが。) H2A ロケットの打ち上げも延期になったが、トップの無理解において大学とは同病相憐れむといえそうな機関だけに、成功を祈らずにはおれない。

2001.8.9 学術審議会の異例建議について、朝日が報道。

2001.7.30 参院選は「選挙がおわって中身がわかる」の白紙委任状にも似た結果になったが、すでに 28 日に日本育英会の事業縮小案が報道されていた。育英会の奨学金事業の実現には、本数学科卒業の故河合三郎氏が力をつくしたと聞いているが、あと数年生きて意見をいただきたかったと切に思う。同氏は日本では人材育成に充分な配慮がなされないことを嘆き、本理学部にも寄付をされ、その遺志は今も(必ずしも十分とはいえないかもしれないが)「仙台数学セミナー」など当学科共催の企画に残されている。しかし本来、このように人を育てることこそ(現政権の唱える)「国のなすべき事業」ではないか。民業のローンを圧迫するというが、貸与の比率が多いことが問題であり、これを理由に予算を縮小するならばいいがかりに等しい。教育への公的投資の少なさによる学費高が背景にある。行革担当大臣などには実感できない痛みかもしれないが、私を含め私の同僚にも奨学金で院生時代を切りぬけた者は多いし、企業や学術振興会の成果期待型給付ですむものでもない。(返済免除制度を念頭に、奨学金をもらいはじめた高校時代から学者をめざした同業者先輩もおられるし、同様にして教師をめざす者はもっと多かっただろう。)現在の高度な文明を支えているのは決して世襲的世知ではなく、普遍的な科学の力であると信ずる。それを陰で支える奨学金事業を一瞬の改革もどきで縮小することは、近視眼的ですらない暴論である。(参考:1/2)

追加: 31 日、小泉氏は特殊法人への支出 1 兆円の削減を石原氏に指示日本育英会事業の削減が実行されれば、すでにこの数字は 1/4 〜 1/2 達成されうるが、これが米百俵の精神といえるだろうか。(特殊法人等の事業見直しの中間取りまとめおよびその一部(内閣官房行革推進事務局)/7.13,私大教職組連合の文部科学省要請の記録

2001.7.29. 訃報:筑波大の梁成吉さんが亡くなった。第一報を信じられない思いで見たが、今だにそうである。梁さんとは 10 年ほど(私の駆けだし以来)、研究会などでよく御一緒させていただいた。私にとって研究上の関係は多くはなかったが、弦理論(string theory)の中心的課題に常にそして次々に挑戦する姿と、日常会話でのにこやかな笑顔を忘れることはできない(私が一人前にみられていなかっただけかもしれないが)。おおげさでなく、世界の物理学にとって損失であろうと思う。特にヘビースモーカーなどではなかったと思うのだが...そもそも煙草を吸っていただろうか?(真の死因が最近の「大学改革」の雑務による過労などでないことを祈りたい。)合掌。(記事の追加:朝日より)

2001.7.26 国立大学の独立行政法人化に関する、参院選候補者および各政党へのアンケート結果が発表された。アンケート運動に拘ったひとりとして、回答を寄せられた候補者に感謝したい。参考:同日に配信された辻下氏によるメールマガジン:国の高等教育政策に関する意思決定システムを幅広く問う内容。

2001.7.15 (多忙と絶望に頻していたが、久々に更新)参院選に際し、国立大学の独立行政法人化 に危惧を抱く人々からなる「独法化阻止ネット」 の企画したアンケート運動のお 手伝いをさせていただく:学内もう一名の賛同者の方と連名で宮城県選挙区の 6 名の候補者 にアンケートをファックスで送付。大学政策が中心的争点になりにくいのは仕方ないが (なればなったで困ったことになるに違いない)、テレビ的「好感度」などのあいまいなことで 党派の消長がきまるのは正しいことではない。すでに小泉内閣が掲げる「聖域なき改革」の具体策 を見ると、日本育英会の廃止に石原伸晃行革担当相が触れている他、国立病院の整理統合などの ように、医療・福祉・教育など弱いところばかりを狙いうつ行政サービス削減といえるのではないか。 「国立大学の民営化を含めた検討」が何をもたらすかについては、最近の滋賀医大 satomi 氏に よるリアルな作表も改めて 参考になる。

ついでに言えば、現内閣の今後の経済政策についても、竹中大臣とわざわざ日本で 会談したクルーグマンがnytimes.comに寄稿した 論説 "A leap in the dark" (暗闇への跳躍、2001 年 7 月 8 日付)の中で、同大臣をはじめとする人々 の的外れと根拠のなさを指摘しており、彼のいうように熱意だけでは事態は改善できないと思われる。 現内閣に構造改革を依頼する結果の選挙におわり、ひきつづく激痛も自分のものとしなくては 選挙する側に見る目ができないという皮肉かもしれないが、国立大学が近未来に数多く廃校に なるなど、とり返しのつかない明日が控えているように思われてならない。(石原大臣が記者時代に 取材しているニュージーランドの改革の負の側面も、なぜかマスコミでとりあげられないのが不思議である。)せめて宮城県で立候補している方々には、そのあたりを良く考えてアンケートに答えていただける よう、あらためて希望したい。

参考:Oxford 大学教授ゴンブリッチ氏のメッセージ/科学を金儲けのための道具としかみなさない愚行で日本の科学は衰退する(新潟大渡辺氏):日本の国立大学が立たされている状況は、ソビエト共産党下の「ルイセンコ生物学」化の危機といえるのではないか。国(=総務庁、与党etc)および経済界が有益と認める「学問」だけが大学に金をもたらす支配的立場に立つことになるのは時間の問題に思われ、研究の方向に大きなバイアスがかかる結果、「ルイセンコ生物学」にあたる言葉が「日本科学」とならない保証はない。

2001.6.19 信濃毎日の報道:母校慶大 OB が首相に苦言「トップ 30 校」構想で:慶大の卒業生だから出身校関係者に会うのは自然ではあるが、遠山文部科学相の立場はこれでまったくなくなったとさえいえるだろう。はじめからこのような展開が意図されていたとしたら不気味である。加藤氏らには公平無視な議論をぜひ願いたい。加藤氏は JR 民営化の議論にも参加していたと思うが、大学の将来を JR と同様に論じられた場合、地方路線にあたるものの切り捨てはずいぶん引きおこされるのではないか。最近国立大学特別会計の赤字が 6 兆とも伝えられたが、大学への国としての投資額が少ない中でやむをえず借金をしている部局があるということなら、それは国の責任ではないのか。(それも問題とするならば、国という組織が国会以下すべて解散すべきだろう。)官邸の総合科学技術会議でも「科学者はずし」が露骨といわれるが、科学に素人の人々によって作られる無秩序な計画を改めてもらわねば、大学としては会計を論じられても何もしようがない。今後一層「重点配分」が進む結果、このような傾向が「投資したがダメではないか」という論調になっていかないか非常に心配である。

2001.6.15. 文部省の遠山大臣および工藤局長が、国立大学の学長を前に国立大の大幅削減の方針を示す。これは文部省が小泉総理の「指示」に過激な案で応じたということだろうか。これまでも、不況の中で自民党の選挙対策に文教政策が使われたことは多かった。しかし今の不況の背景には、付け焼刃の知識で今の社会が運営できないことにも原因があるだろう。その中で大学をのたうち回らせるようなことをやっていては、人材養成も研究も、「ゆとり教育」対策も高度専門家養成も、大学にはする余裕がなくなるだろう。公共事業で建物は立つかもしれないが、政府主導の大学競争合戦は大学間の協力でかろうじてなりたっている研究体制を破壊しかねないのではないか。わかった上で今後私立大学を重視するということであれば、私立大学の経営や人事をより開かれたものにすることは必須であろう。私立名門とよばれる大学でも、過去の投資で大きな赤字をかかえているところは多いといわれ、何でも民営化してうまくいくほど文教政策は安直ではない。社会を支えるための努力には正当な支援がなされてしかるべきである。それこそが「米百俵」の教えるところではないか。

参考:何かと話題の小泉内閣だが、石原行革担当相が日本育英会による奨学金の廃止を含めた見直し言及していることは問題とされなくてはならない。そもそも日本の「奨学金」は、scholarship (学問をする者であること)でなく loan (借金) としかいいようがない(最近は利子つきが主流である。何たることか)。企業による奨学金も充実しているというのが理由だそうであるが、企業の奨学金は院生などが自社に入ることを条件としての給与の前払いという意味があり、企業の利益につながらないことには何ら資するところがない。これが奨学金といえるだろうか。以下、立山学「仕組まれた200億円の滞納 - 奨学金「教職返済免除」をめぐる攻防」(別冊宝島 336、「特殊法人のヒミツ」、1997 宝島社)より:

「日本の教育政策が「世界の常識」に反する方向に進みつつあることを示す事例はほかにも数多い。たとえば、国際人権規約 13 条 2 の c 項問題もその一つである。 (「国際人権 A 規約」、正式には、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」:長谷川)

「高等教育の無償制の漸進的導入」を謳うこの条項は「高等教育はすべての適当な方法により、無償教育の漸進的導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとする」と規定している。

この条項を世界のほとんどの国が批准しているが、二ヵ国だけが批准していない。それは、マダガスカルと我が日本なのである。」

立山氏の文章の趣旨は、滞納を云々される以前に奨学金は給与があたりまえであり、「返済免除」を特例のように扱ってきたことやこのことの廃止を糾弾するものである。なお同書には、現在改革の対象とされつつある特殊法人の(石油公団など、多くはムダな事業といわれている)赤裸裸な実態がつづられている。(参考:ユネスコ高等教育世界宣言 21 世紀の教育 展望と行動)(国際人権ライブラリー: 日弁連)

2001.6.14. 国大協総会は何を結論したのか?(報道)(証言)(疑問)| その後鹿児島大学学長が学内への報告で明かにした国大協会議内容(6/19)|国大協総会で提案された文書リスト

2001.6.12.先週末より、政府の国立大政策に関する報道があいついでいるが、 とってつけたような内容に目をおおいたくなる(怒りを感ずるより、こんな形でしか議論されないことに悲しくなる。介護保険のときと少なくとも同じ程度の議論がなぜできないのだろうか)。私立もふくめた 30 校しか研究ができないのでは(任期もつくだろう)落ちついた人材教育もできず、シリコンバレー構想もなにもないだろう。(参院選の目玉のつもりだろうか。今ある技術を「使える」ようにするだけでおわり、時代遅れになりかねないのではないか。)公共事業の手法を研究に持ち込むものということもできるであろう。石原行革大臣は日本育英会奨学金からの国の撤退も発言している。高等教育の機会均等も今後失われかねない。(このような中での「奉仕活動」導入法案には、奴隷教育にも似たいやらしさを感ずる。)現場の意見を無視したあさはかな改革の先には、2 世経営者や外部コンサルタントによる失敗と同じ運命が待っているのではないか。総じて政策決定者たちの間で大学の立場が不当に低く見られているように思われ、将来に大きな危惧を感じる。

2001.6.5. 読売新聞によれば、小泉総理は遠山文部科学相大臣に国立大学の民営化にむけて奮起せよと指示したそうである。米百票の精神がどこに発揮されるべきかの議論はあろうけれど、民営化で大学が成りたつものか、よく勉強していただきたい。ノーベル賞受賞者がいたような大学(東京教育大)を平気で破壊したり、最近は安い学費で良質の教育を受けられる国立大附属学校を廃止あるいは民営化するなどと言う自民党に良識を期待するのがまちがっているのであろう。後世に「米百俵総理」がどう記憶されるかを考え、誤ちや誤報なら早急に正していただきたい。(そもそも民営化以前に、現在焦点の国立大学独立行政法人化問題が、公務員の 3 割削減という「売り言葉に買い言葉」的な小渕時代の(現自由党・小沢党首との)政策合意の下に発していることを忘れてはなるまい。) 最近は私立文系関係者の発言力もこれまで以上に増しているように思われるが、80パーセントの内閣支持率は下手をすると明治以降の系統的な人材養成の公的努力を水の泡にしかねない。このことは日本だけの問題に留まらず、人類共通の知的営為の一部を破壊しうるであろう。(参考)

先日のハンセン氏病政策裁判の判決では国会の不作為の責任が論じられた。国立大学の独立行政法人化についての国会への請願署名の努力がされつつあるが、後になって(学費が上がり、教員が削減され、研究が停滞してから)「だからあのとき止めれば良かった」ということになったら、誰が責任をとるだろうか。そもそも、「あのとき」を誰が知っているだろうか。10 年もしたら、現在国大協などで議論の中枢にかかわっている諸大学の先生がたはすべて引退し、口も重くなっていると思われてならない。そのとき現役の世代でも、主要な方が研究を続けるために日本を離れておられるということも想像される。(私の周囲でも、そのような声がある。すでに独立行政法人化された研究所等の状況をみると、「独立」といいつつ実態は官製従属法人とよぶべきものになっているように思われ、大学もその活動が「中期目標」で数値的に支配されることになりそうである。たとえば学位授与率をあげても、学位取得者の就職先がない社会では何の意味があるか?) 参考:野上修一「次世代の育成と高等教育」[ひとつのアンチテーゼ]

2001.5.31. 小泉内閣の基本方針として国立大学民営化の方針が提案されるようである。米百票の精神の結果がこれでは、きわめて危険であると思う。(参考:独法化で京大すら危機を迎えるといわれている。)

2001.5.21. 辻下氏による国大協設置形態検討特別委員会への要望書.同委員会による国立大独法化「中間まとめ案」には長期的展望がなく、政府による民営化・公営化の検討開始についても影響を予測していないと指摘。なし崩し的民営化への移行を可能にしかねない文部科学省の方針への追随を止めるよう要望。

2001.5.19. リンク:竹田保正氏 HP 「内なる大学改革 - 理系大学人の発言」。氏の著書の主張に全面的に賛成することには、私は保留したい部分もあるが(後述)、研究の方針が政治的判断に左右される結果生ずる合理性の欠如の問題は、非常に正しい指摘であると思う。総合科学技術会議なるものが最近できたが、「科学者外し」が露骨だと聞いたことがあり(白川氏はノーベル賞をとったばかりにそのようなものに関わることになった。私は気の毒に思う。)、中教審や学術会議などにもみられる政官主導の害を排除できない限り、こうしたこの国の中枢は正しく機能しないだろうと思う。

氏はそれを核融合関連の研究について論じていて、これについては私は専門家ではないが、私の知る範囲でたしかにひどい話はあった。たとえば、中教審の委員をつとめているある方が「教科書の検定では指導要領こえてると合格しないんですってねえ」と学術会議関連の席で発言されたと、同会議関係の方から最近耳にした。また数年前、某工学系の大先生がやはり中教審で「理科教育がつめこみでけしからん」と持論を不用意に展開したことが、官僚側に「では減らしましょう」とばかりに使われ、新指導要領での理科の削減として「実現」してしまったようだとも聞いた。(このような中で「小数精鋭」的な方針をとりいれよとの主張がどう使われるか、「ためにする議論」として使われるだけではないかというのが、私が竹田氏の論調に危惧を感ずる点である。何の「ため」かといえば、教育の機会の不平等化と、それが数世代続くことで社会の不平等を決定的に拡大させるだろうことである。序文くらいしか読んでないのだが、"The Making of the English Working Class" E.P. Thompson, vintage books/random house 1966, はおそらく示唆に富む。戦前の制度の良さを論じることで現在の文教予算縮小の動きに手をかすことにならぬよう、国の予算の非合理な配分を改める要望をすべきであろう。[参考])

2001.5.18国大協設置形態特別委員会専門委員連絡会がまとめた「国立大学法人化の枠組(検討案)」. 5月21日の国大協設置形態検討特別委員会に提案され,6月12、13日の総会で決定される原案といわれる。(独行法反対首都圏ネット事務局による)

2001.5.18 東京新聞に国大協による国立大学の法人化案の骨子。前後して、北大渡辺氏による「米百票」発言への批判

2001.5.14 大学をいったいどうするのか(独法化反対首都圏ネットワークへのリンク)5/18 に、東大にて独法化反対の集会が予定される。あわせて、独法化を目のあたりにした研究者からはこのような悲痛なメッセージが寄せられている。残念ながら私は参加できないが、かわりにすでに紹介した京大での議論これまでの文教行政の歴史などを改めて紹介させていただく。(ともに長谷川によるノート)

2001.5.12 小泉総理が国立大学の民営化に賛意: 民主党小林元氏の質問に対する国会答弁.「米百俵」の所信表明にもかかわらずこのようなことが口をついて出てくるようでは、残念ながら首相に教育・研究に関する定見は期待できない。佐々木東大学長からさっそくクレームが(間接的にだが)あったことを歓迎したい。一方首相の答弁をうけ、文部科学省は民営化の検討をはじめると伝えられる。すでに(私立大学からさえ)重大な疑義が数多く示されている国立大学の独立行政法人化案においても、関連して授業料の自由化の方針がまとめられつつある。今回のような首相の軽口は今後も国民生活に多大な影響を与え、次第に社会に失望感を広げるのではないかと思うが、その場合参院選で民主党が勝つと、日本の高等教育にとっては更に危機的状況が立ち現われるのではないかと私は心配である。(民主党の言う国立大学民営化の内容は十分明かではないが、「ゆとり教育」路線以上に愚劣なものであると私はいいたい。高校までの課程で理科の実験や観察が大幅に削減されることが問題となっているが、すでに大学でも人員の不足が、理系学科での実験削減や語学教官の非常勤化などとして表れている。)2002 年からの指導要領の改訂もあり、今後も(とくにこの数年から数十年の)政治によって文教政策がこのように翻弄されれば、その荒廃はさらに進む一方だろう。教育基本法第 10 条にいう行政の教育への関与の限界や、憲法にうたわれている学問の自由の保証は、今こそその意義がはっきりしていると思う。

2001.5.2. 前文部大臣が熱心だった「教育基本法改正」について、地方紙(河北新報)が次のような指摘。

「...教育改革で政権浮揚を図ろうとした森喜朗前首相の意向を受け、町村信孝前文部科学相は「六月中にも法案に近い形で諮問したい」と何度も表明。政治主導で「六月諮問」のレールを敷き、改正論議のレールを一気に進める腹づもりでいた。/町村氏が六月にこだわったのは主に参院選対策。「教育基本法改正問題を争点にすれば、民主党は国旗国歌法の時のように意見が割れ、格好の攻撃材料になる」(自民党文教族議員)との思惑からだった。そんな雰囲気を察知して文部科学省幹部はこれまで「準備はするが、諮問時期や内容は政治判断にゆだねる」と言明。遠山氏が当初、就任要請を断ったのも「政治判断が求められる」ことが理由だったとされる。...」(3 面、「教育基本法改正来月諮問は微妙」遠山氏は当面模様ながめだろうという同省幹部の予想で記事はしめくくられている)。

やはりそんなことだったのか、という思いを誰しも抱くであろう話である。一体この国の政治家には政治から離れて教育を考えられる人はいないのか。文教政策の歴史を少しひもとけば、このような例はこれまでも枚挙に暇がないし、きっとこれからもそうなのであろう。もしこれからも日本という国がありつづけられれば。大地震か何かのきっかけで国際的にこの国の債務体質が無視しえなくなり、IMF 体制にでも移行しなくては合理的判断は不可能なのかもしれない。新政権の財務大臣も NHK のインタビューに対して国の組織の独立行政法人化(そして民営化にまで言及していた)が望ましいスリム化と語っていたが、特殊法人や公益法人についてそうするならともかく、国立研究所の例ではかえって天下りが増える傾向にあると言われていて、問題の多い「改革」である。「環境仕様」の公用車を増やして環境対策にアピールするのも結構だが、独立行政法人化されてしまった(たとえば)環境研究所が長期にわたって企業の寄付などに頼らず運営できるかこそ考えていただきたい。大学についても役割は全く同様であるが、独法化され政官の支配下に入れば誰が彼らを専門的観点でチェックするのか。国立大学の独法化案は早ければ六月の参院選前に大枠が決するのではないかとも言われ(これも選挙目当てか?)、文部科学大臣の役割も大きそうだが、あまりに急なことであり良くも悪くも力を発揮できないであろう。(そして選挙のあとは...?。)首相公選制はこのような杜撰な「改革」案に錦の御旗を与える道具になるだけに思われ、そんなことより先に、これまで杜撰な「改革」を主導し続けている体質の党(単数とは限らない)こそがリストラの対象になるべきであろう。

・2001.4.27. 小泉内閣の文部科学大臣は元文部官僚の遠山氏。私の不勉強で、教科書問題、教育改革、国立大学独法化のどれもどういう方向になるか不明だが、すでに独立行政法人化された国立美術館・博物館の事情にも通じているはずであり、その上で国立大学の「改革」についてどのような意見をお出しになるか注目したい。少なくとも、大学人として文部大臣になりながら教育・研究に大きな過恨を残す結果に力をかした有馬氏の徹はふまぬことを希望する。行革担当の石原氏や、留任の総務相については、ニュージーランドの「改革」の失敗を知らないではすまされないだろう。石原氏は日テレ記者中に NZ を取材した経験もあるとのことだが、かの国の光も影も知っていていただきたい。派閥無視内閣ではあるが、すでに予算審議はおわっており、短命でおわるかぎり文教関連への投資のありかた(というより、国の予算の全体的配分の適正化)も無理だろう。一方小泉氏の 9 条発言は何をかいわんやで、江藤・亀井派の圧力ばかりではなさそうなだけに、長期政権になればそれも困ったものとなりそうである。

・2001.4.9 民主党が国立大学を独立行政法人化もしくは県立に移管との案朝日新聞が掲載。自民党の現状をみると民主党には大いに期待したいところだが、この案には大きな危惧を感ずる。

(4.28 追加:民主党の文教政策の中心はこの方のものか?アメリカをモデルにされていても、企業の出張あつかいで体験するアメリカの大学と、自分の出費で体験したものは違いそうであるが、いかがであろうか。また「大学院大学」と学部までの大学を分離することが、どれほど「優秀な人材」の養成にとってマイナスになるか心配である。国の大学への投資額が多少高くても、物価も高いのが日本であるし、特許をとるのが大学の姿として正しいのかも問題だと思う。)

大学等研究組織の独法化に関する京大でのシンポジウム(長谷川によるノートへ)にもみられるように、京大でさえも独立行政法人化された場合には健全な運営ができるか懸念されている。「地方移管」で県立大学化された場合の運営は、各県の県庁の判断にまかされるのであろうか?公共工事をめぐる昨今の問題をみても、やはり懸念は深まる。いわゆる地方の国立大学でも世界的研究をされておられる先生は多いし、それらなしでは(数学のように金がかからない分野でさえも)日本の学問の総体は今よりずいぶん見劣りするに違いない。そもそも日本が国として大学にかけている投資額が諸外国にくらべてかなり少ないことは、つい最近も有馬前文相が国会で質問したところである。

すべて私立化・外部資金化したらそれで健全になるのか、地方大学が「教育大学」とされる結果教官数が将来的に(たとえば高校なみに、またはアメリカのコミュニティ・カレッジ的に)削減された場合どうなるのか、国立がこれまで手厚い保護のもとにあるといわれながらも研究支援体制が整っていないのをどうみるのか、なども問われなくてはならないだろう。(たとえば、ネットワークの管理者がいない大学はざらにあると思うし、図書の置き場がなく捨てられていく、非常勤講師なしではマンパワー不足である、などなど。)

たとえば数学の場合、研究できる環境が旧帝大系に限られれば、数学の研究職とよべる職は(研究しかしないわけではなく、教育と両立できるという意味において)日本中で多く考えても 500 人程度となりそうである。同年齢で研究職を得られるのが十数人となっては、新しい分野の開拓どころか、基本的知識の伝達もできないことになりそうである。ましてこの数でたとえば指導要領の改訂にも、研究費の申請書の査読にも、各種の委員会にも、大学の教科書にも、そしてもちろん教育・研究にも関わらなくてはならないが、不可能といわざるを得ないだろう。(すでに「改革」論議の書類の山におわれる先生が多く、不可能に近くなりつつあると思う。私立大学でも数学の講義を非常勤講師にしているところが増えていると聞く。)雑用に追われる人の数をのぞけば研究が可能な教員はさらに少なくなり、現在の多岐にわたる研究を支えるのは到底無理になるだろう。ひとつのトピックで研究会をやれば、50 人くらいは関係する専門家がいるものであるし、そのようなトピックをすべてカバーできるスーパーウルトラな研究者など(世界中でも)いるものではない。裾野が狭くなれば、フィールズ賞設立以来(受賞者ばかりか)ほぼ毎回のように選考委員を出してきた日本の数学の世界的役割も保てなくなるのではないかと思う。

大学を変革すべし、そのためには外圧も強力な学長も必要、とは最近よくある論調であるが、大学の知識の総体を一手に管理できるスーパーマンは中にも外にもありえず、それが学問の自由を保証しなくてはならない理由のひとつではないか。すでにニュージーランドで行なわれたあまりにも拙速な改革の諸失敗に、日本は大いに学ばねばならないと思う。乱暴になりがちな改革でなく、具体的改善を長い目で考えるべきだと思う。

(参考:経済産業省官僚グループによる国立大学法人法案。「経営の主体を大学人からエキスパートに」ということのようだが、そのようなエキスパートがはたして居る/要るのだろうか。(私は、学長は少なくとも学位をもっている人であるべきだと思う。政官界でもそれがふつうになってほしい。)普通の企業で、経営コンサルタントが逆に経営を悪化させた例も聞いたことがあるし、官界に従属する形で大学が運営されるのが日本の将来にとってよいこととは思われない。学問にどうやって損益計算をするのかも問題である。あくまで経済原理にのるものしか研究が許されないならば、たとえば環境問題の研究や新薬の開発でも著しいバイアスが生じるだろうことは想像に難くない。)

・リンク:「日本の教育のあり方を考える - 学力向上の観点から」 3/23 @ 東京、要登録。

・2001.3.9:京都大学で、基礎物理学研究所の益川先生が講演。ちょうどここに研究会で話しに行ったついでに、聞いていくことにした。素粒子の世界的な先生だが、内容は専門の話でなくて独立行政法人化への危惧に関するもの。京大有志の開いたシンポジウムにて。(長谷川によるノート)|関連資料:2000.9.19 (当時)国立環境研究所発 |日本の文教政策小史(私家版、公的引用不可:長谷川)|(ついで)

・2001.2.3:町村氏(森派、教育改革国民会議を担当、現在文部科学大臣)の中教審に 対する牽制発言があった。ちなみに文部科学委員会 の委員長は高市早苗氏(やはり森派)になったようである。この国に未来はあるだ ろうか。町村発言、続報

・2001.1.15:大学のもつべき理念について、William Currie 氏による格調高い文章の紹介があった。初出は「現代の高等教育」2001年 1 月号、AC-Netより。 同日、日経朝刊に日本の潜在成長力低下の調査結果。単純な数値の比較のため、鵜呑みにするのは保留を要するだろう。とはいえ数値で表しうることの重みは大きく、わが国の教育への公的投資のすくなさには注目すべきである。こうした教育の後退への警告は全くそのとおり。(中曽根時代の「受益者負担」の強調が現在に大きく影をおとしていると思う。)

一方、「なんでも自由競争」の論調になりがちなのがこの新聞の困るところである。教育という本来は一対一、個人対個人の営みが「生産性」をあげようとすれば、マスプロにならざるを得ない。また 私立学校にありがちな学生確保競争が、安易な迎合から教育の質の低下を生んでいることは否定できないと思う。このような過度の競争を生む背景に、財政的裏付けの薄さがあり、ひいては適切な教育をうけるために塾通いなどで自衛せざるを得ないことを強調すべきだろう。最近の奥羽大学の一件も(当事者を擁護するわけではないが)そのような視点でとらえるべきでなかろうか。

・2001.1.14:知らない間に、また失言ネタがあったようだ。本気だったら怖い:日本を本当に「神の国」にするようなことがあれば、今やこの国を見限って流出するであろう人々も多そうに思う。

・2001 年 1 月 4 日:次期国会を教育改革国会とする、という総理の発言があった一方で、民主党参院選の公約に文部省(文部科学省)から文教政策機能を独立させ、仮称「中央教育委員会」に移す案をかかげる見込み。

これまで自民党は不況になると教育に口を出すという悪癖があるようにみうけられ、「教育について口を出すのはタダ」というような頭があるかのようである。文部省が長くその影響下にあったことを思うと、文教政策の立案がかつての公正取引委員会や新設の原子力保安委員会のような形で独立となり(天下り先となりがちなのでそれでも不十分だが)、専門家の批判にたえうる議論に基づいた決定が行われることが望まれる。しかし民主党の新自由主義的発想の下で、過度の競争が教育にもちこまれるならば問題であろう。教育に関する分権化もうちだしていて、これも教育をめぐる環境が東京と地方では大変な違いがあるだけに、そうあるべきことと思うが、問題は現在国が教員給与の半額を保証しているような予算的裏づけを分権化とどう整合させて充実させるかであろう。委員会のメンバーの選出方法や地方分権化にあたっての具体性が、この案の正否を決めるであろう。

なおフランスの中教審にあたる組織では、メンバーの出身母体が明文化されている :拙稿の 3. および文献表の 22.(参考)

・2000年12月7日:新大臣への NHK news 10 のインタビューの中で、文部大臣/科技庁長官は「学校で学ぶ細かなことは社会では役にたたない」という趣旨のことを述べられた。同時に「ノーベル賞受賞者ももっとでたら良い」とも。このふたつがどのように両立するのか、すでに危険な域に達している理科教育や教員養成体制の弱体化などを念頭におき、また大臣がこれまで総理補佐官として関係してきた「教育改革国民会議」という森氏の私的諮問機関での乱調な議論を思うと、慨嘆を禁じ得ない。

「国民会議」のような方式がいわゆる政治主導だとしたら、国民生活への影響は甚大であろう。1 月からは省庁再編で政治主導がより強まるが、自民党の山崎氏は、前後して「このままでは地獄絵図だ」と新内閣を評していた。これは日本の将来というよりも自民党を考えてのことかもしれないが、学習者の意欲に水をさすようなことを文部大臣自ら言うようでは、これからも理性的判断が期待できそうにはなく、どうやって「科学技術立国」を図るのかと思う。(ついで:同日のニュースで聞いたところでは、与党の税制改正論議で「個人の財産権が現在は著しく侵害されており、たとえば相続税の全廃も視野にいれるべきだ」とまでいわれているそうである。相続税は貧富の格差を次世代にひきつがないための仕組ではなかったか。)日本でなぜか失敗が報じられないニュージーランドの行政改革では、国民が何がおこっているか知らされないままに乱暴な「改革」が行なわれ、悲惨な結末を迎えているようである。そのようなことが日本でも起らない保証はない。

資料(2000.12.26 追加)「ニュージーランドの行政改革と高等教育と科学研究への影響、予備調査報告」:大井氏(国立環境研)、大塚氏(東大)による、上記「ニュージーランドの実験」の衝撃的報告。日本のマスコミの体質も問題としている点を特筆すべきだろう。(同報告の辻下氏による要約:これだけでも十分問題点はうきぼりにされる。)

一方、秋田県では独自に小学校 1、2 年での 30 人学級を実現する方針を決めたという。財政の困難な時期に地方自治体がこのような決定をしたことを歓迎し、国でもこうした具体的レベルの議論をしてほしいと思う。どこが問題なのか、と思われるような教育基本法を廃棄し、新法を制定するという大臣の方針は、憲法改正と同様に不毛な議論に思われ、新たな「失われた 10 年」を招くものと思う。

・11月15、16日、国立大学協会が学長会議を開催、これにあわせて北大辻下教授らが Academia e-Network (ac-net)準備会の発足を発表。国立大学の独立行政法人化が議論されている中、その方針に疑義を唱えるもので、私もよびかけ人に加えていただくことにした:その際のメッセージ

相前後して、大学評価機構による評価方法案大きな疑義が呈された。非常に核心をついている。「案」は研究者個人に 4 段階評価をつけるというような乱暴な話をうたっていて、小学校の通信簿のほうがマシと揶揄されている位であるが、これがひとり歩きすれば偏差値の弊害どころではない重大な過ちとなるのは目に見えている(一生ビクビク怯えながら研究するなんていうところが大学だろうか)。

大学にも同様のランクづけをするらしいが、同様の仕組みを作ったイギリスではランク落ちしないように「国体選手」的なスーパースターをよんだり、彼らが大学を渡り歩いたりというだけの不毛を生んでいるという。批判が私学側からのものであることは大いに歓迎したい。国立大学内部からは現在組織としては非常に物がいいにくくなっていると思うから。現状が変だと思っても物がいえない自民党内部のように、といえるかもしれない。(2000.11.16)

・2000.10.11:白川氏のノーベル賞受賞. 白川先生は現在の大学への異論もない人ではないようです。これからは文部省、総務庁、政府に「とり殺されぬよう」、特にご自愛およびご健闘をお祈りいたします。(もし文部大臣になったとしたら、文部省に登庁する前にぜひ戦略を練ってください。) |鹿児島大学田中学長による政府の大学改革批判/コピー/同氏の 6 月国大協での文書(he-forum/1353,1389)

ル・モンド・ディプロマティーク(仏)の教育関連記事より(by Riccardo Petrella:欧州委員会顧問。日本語でもこのレベルの知性と見識をもって議論したいものだ。) |日経特集:「教育を問う・日本が沈む」へ(2000.10.23-.しかし議論を安直に公教育不用論にされると問題。)|文部行政、耳ふさぐ:同特集、2000.10.30| 教育 2002 年問題を防ぐ署名運動:上野健爾、戸瀬信之、浪川幸彦、西村和雄、和田秀樹氏ら(幹事)による署名活動 (4 月 1 日からはこちらへ) |この署名運動への賛意(京大高崎氏) |算数があぶない:岩波ブックレット513, 新指導要領の問題点をわかりやすく整理。 |教員養成課程の改革問題(最近の動きへ)|教員養成課程に関する高等教育局長裁定(7.19.またしても理系の人数が少ないように感ずるが、それ以前の問題も感ずる。)|教員養成に関する文部省の審議| 教育費の負担問題について(辻下氏のメールマガジンより。)|21世紀の大学を考える懇談会(参加者名簿)|教員養成と関連した森総理の発言(9/13, 全国知事会にて。県ごとの教員養成機関が公的になくなることは、その県の地盤沈下をもたらすことであろう。教員養成をビジネスとする道を開くことにもなるだろう。)


森首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」方針について:

教育基本法論議に関して, 笑えない話(6/20、毎日新聞一面より。) |公立小中高校も独立行政法人化?(6/9) |共に暴論といわざるを得ない、最近の教育基本法みなおし論の経緯についておよび奉仕活動の義務化論について。 国民会議の議論には、教育を受ける側の視点がまったく欠けているのではないか。 (参考:フランスの教育高等審議会の委員構成。)義務教育という言葉も最近は誤用されているのではないか。義務教育とは、国が国の義務として国民に保証する教育であったはずである。 |関連記事

「教育改革国民会議」は小渕前総理が設けた私的諮問機関にすぎないことを確認したい。意中の人には断られての発足であったとも聞く。森政権の脆弱さからいつまで続くかと思ったが、意外と続いて恐ろしい結論に向いつつある。「奉仕」の制度化には慎重な意見も出て、自民党からさえ法制化には反対の意見があいついでいるが(村上参院議員会長、野中幹事長=9月12日朝日)、おそらく江崎会長には会議がコントロールできていないのであろう。

[たとえば、ここ。「奉仕活動義務化論」に対して江崎会長が「だけれども、1 年間 120 万の人間が働く場所ですよ...」「1 年、充実した奉仕をする場は今ちょっと見当らない...」などとたしなめていて、江崎氏の苦笑が見えるようである。]

このまま進行して教育予算がすこしばかり増えても、チャータースクール(これもアメリカでは失敗が報告されており安直な導入には問題がある)のための新校舎建設などにいくのが落ちではなかろうか。会長がノーベル物理学賞の意地をみせるには辞任しかないかと思われる。

参考:教育基本法の全文. 一体どこが問題なのか。この理念がこれまで達成されなかったことこそ問題であり、そのための教員の増員などの環境整備を行ってこなかった政府、諸外国に比しておよそ半分という教育への投資額を予算の硬直化から是正できなかった国会に根本的原因があるのではないか。このような形で教育を馬鹿にする社会に子供が敬意を感じなくても不思議がないであろう。子供が減る今こそ、過大な投資をせずに小人数教育をする好機である。(2000.9.13 記)|その他、最近の教育改変について.


学力低下招く「ゆとり」教育=榊原英資氏(慶応大学教授、前大蔵省財務官)

:毎日新聞 2000.7.23 朝刊から。

立花隆の知的亡国論および、同氏の活動 科学メディアと理科教育を考える会

(`「サイアス」(旧「科学朝日」)の灯を消すな!'として 2000. 7.17 追加):60 年の歴史をほこる同誌は残念ながら 2000 年一杯で廃刊となった。立花氏でなくとも、こんなことでは日本の将来が心配でならない。それも文部省の指導要領改悪を目前にしてのタイミングの悪さである。日本には科学は根づかないどころか、現在のような技術貿易立国など成立しなくなるのではないか。(2000.10.11)

国立大学の独立行政法人化問題について,北大辻下教授のサイトへ|東大五味教授による仮称・「教育・学術自治体」の構想

政治や官僚組織の論理で教育がふりまわされるべきでない、という戦前の教訓を形にする構想。長期的にはこのような体制が必要だろう。(2000.9.13 追加)

参考:博物館・美術館の独立行政法人化の問題点について、高階秀爾氏の論説(2000.10.03, 朝日新聞夕刊)|1969 年の「大学管理」法案と現在論じられている独立行政法人化案との比較(佐賀大学の豊島氏による。)

教職員の国大協への署名(2000.7.24)|署名運動その後(8/24)|この署名運動の趣旨(2000.7.10)|日本科学者会議による反対ポスター(2000.10.05)


・更新する時間がなかなかとれないのですが、とりあえず必見と思われる以下のサイトを追加しておきます。総選挙で教育や大学の独立行政法人化が争点にされ、憲法や教育基本法の改訂をはじめ、変な方向にいかなければ良いがと祈る今日この頃です。(2000.4.27)

文部省作成の独立行政法人に関する資料(三重大医学部のページより、PDF files)|オンライン版(附属資料など)|国立大学等の独法化に関する調査検討会議(7/31) の配布資料|設置形態検討特別委員会(8.10)資料

7/20 の NHK 報道について(辻下発)|7/20 朝日新聞|7/19 毎日新聞|7/19 共同通信

独立行政法人化の実状:すでに独立行政法人化が進行中の国立環境研究所発。|科学技術庁発|都立大学の石原改革|都立大改革 2000

鹿児島大学学長発(6.13)|ユネスコ宣言から見た国立大学独立行政法人化問題(工学院大学蔵原教授)|東大の国立大学制度研究会の中間報告について(7.10,東京新聞)|7/15 日の NHK の報道の問題について|東大の青山委員会の中間報告案について: 7/18, 東大新聞

過去の署名運動:蓮實国立大学協会会長(東大)への意見書(独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局)|その結果|辻下氏の国大協会長あて意見書|その他の文書|若手研究者の OD 問題についてなお、現在発売中の雑誌「数学セミナー」7月号(日本評論社)には、辻下氏(北大教授)をはじめ岡本和夫氏(東大数理科学研究科長)、荻上紘一氏(都立大学総長)ら数学者による論説が収録されています。(2000.6.13)|6/14,毎日他の速報|同日、読売オンラインより(参考:読売の過去の記事)|6/14, NHKテレビ「明日を読む」|6/15,東京新聞|全国院生協議会の独法化反対声明|近藤学教授(滋賀大学)の論説

蓮實氏(国立大学協会会長)の記者会見レジメ(6/14)

|国大協の設置携帯検討特別委員会のメンバー表


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