% bunkyo0315s 誤字・誤記など御容赦ください。 % % 私家版につき、年表の記事に関する公的な引用に際しては、もとの本 % (特に記してないかぎり 山崎政人「自民党と教育政策」(岩波新書)) % を参照のこと。 % % file name に .tex をつけると、日本語 latex でコンパイルできます。 % \documentstyle[11pt]{jarticle} %\documentclass[article] \setlength{\textwidth}{18cm} \setlength{\topmargin}{-1cm} \setlength{\oddsidemargin}{-1cm} \setlength{\evensidemargin}{-1cm} \setlength{\textheight}{24cm} \begin{document} {\huge\bf 私家版 \footnote{長谷川 浩司、2001 年 3 月編} \huge\bf・戦後日本文教政策史要約年表} \medskip {\large\bf --- 文献:山崎政人「自民党と教育政策 - 教育委員任命制から臨教審まで」 (岩波新書 1986・黄 335) 他を中心に --- } \medskip \section{敗戦から 50 年代まで。闘争の時代} {\bf 1945 } 敗戦 ポツダム宣言受諾により、8 月 15 日敗戦。 GHQ、教育使節団派遣。全日本教職員組合(全教、日教組の前身組織)。 {\bf 1946 } 日本国憲法制定 4/10 戦後初の総選挙 総選挙で、自由党坂田代議士 29 歳で当選(< 東大独文卒)。のち自民党 文教部長として大達文相の教育 2 法に協力や、衆院文教委員長として校長の 管理職手当支給法案で奔走など、日教組攻撃の中心に。 10/8 文部時間通牒「勅語及詔書党の取扱について」、勅語を「神格化するよ うな取扱をしないこと」。 教員組合全国連盟(教全連、日教組の前身組織)。 {\bf 1947 }教育基本法 3 月 文部大臣高橋誠一郎、帝国議会で教育基本法案の提案理由説明。第 10 条について「教育行政の任務とその限界を明らかにいたしたものでございます」 と述べた。 3/31 教育基本法制定、即日公布。学校教育法も。教育刷新委員会(のち審議会) の答申に基き、平和と民主主義・国民の教育を受ける権利・教育の機会均等を 基調とする。 制度的には単線型(上級学校への進学機会の保証)・教科書の自由(基準に合致 するか都道府県教委が検定)・教育の住民自治と地方分権(基本法 10 条、教育 委員会法 1 条:教育委員の公選。) 全教と教全連、高橋文相と会見(3 月)、俸給問題で労働協約。 2 組織合体し日教組に(6 月)。 8/2 文部省、中学一年教科書として「あたらしい憲法のはなし」配布。1952 年 3 月まで使われた。\footnote{2001 年、「童話屋」より復刊。} {\bf 1948 } 6 月、衆参両院で「教育勅語」の失効確認。政府「大学法試案」、有識者批判 で日の目見ず。 公務員給与制度発足。教師は勤務時間が不規則の理由で、超過勤務手当の代り に他の公務員より 10 %高の本俸優遇措置が設定される。以後公務員給与改訂 で優遇措置がとりくずされる一方、文部省の「教師には超過勤務はないことに なっている」の口実になり、教師の休日出勤にも手当のない状態が続く。 (p94) {\bf 1949 } 吉田首相、私的諮問機関「文教審議会(のち懇話会)」をつくり、教育勅語にか わるものを依頼。 中央大学教授稲葉修、衆院初当選。専門は憲法・行政法。のち民主党文教部会 理事、文部政務次官、自民党政務調査会文教部会長。 {\bf 1950} 朝鮮戦争 天野文相、固辞の後入閣。「学校行事には国旗・国家を」の通達、「新しい修 身科を」と語る。教科書無償化論議はじまる。 12月、教育課程審議会に「道徳教育の振興について」諮問。勝田守一委員(学 習院大、のち東大教授)他多数が反対。 {\bf 1951 }サンフランシスコ講和条約締結 1月、教育課程審議会「道徳科目設置は望ましくない」の答申。天野文相、道 徳の「国民実践要領」を書くが不発。 3 月、小学新入生の教科書無償化法案成立。義務教育全学年全教科に年次進行 を想定も、財政難で国語・算数のみ、52・53 年度のみで中止。 西側との講和、日米安保条約、警察予備隊(のち自衛隊)。日教組「教え子をふ たたび戦場に送るな」。6 月の参院選で日教組代表 8 人当選。 教育刷新審議会、第 35 (最終)答申。文部省に中央教育委員会を置き、委 員は学術会議・大学設置審・全国教育委員会委員連絡協議会などから候補を推 薦された委員を文相が任命するの内容。 ここまでは学者文相:前田多聞(東久爾宮内閣)、安倍能成(幣原)、田中耕太郎〜 高橋誠一郎(第一次吉田)、森戸辰男(片山〜芦田)、下條康麿〜高瀬荘太郎〜天 野貞祐(吉田)。田中耕太郎はクリスチャン、教育基本法 などで指導的だった南原繁も(大野 - 上野、p222)。 「国立大学管理法案」「公立大学管理法案」いずれも不発。(p72) 11月、吉田首相の私的諮問機関「政令改正諮問委員会」、単線型教育の見直し・ 国定教科書・教育委員公選から任命へ、などを答申。文部省も批判的。 11/10 第 1 回日教組教育研究集会 {\bf 1952} 講和発効。 8 月、天野文相辞任、後任に「党人」岡野清豪(自治相 < 三和銀行)、給与体系 を小中・高・大に分離し日教組に対抗。生活道義科新設に意欲。 10 月総選挙で日教組は当選 38。自由党 285は240、左派社会党 16 は 54 に。 日経連、「新教育制度の再検討に関する要望」。戦後教育改革が「無準備かつ 急激に行なわれ、しかもわが国の実情を無視した」と批判。新大学制度の改善 を求める。 12 月、岡野文相、教育課程審議会に「社会科の改善、とくに地理・歴史・道 徳教育について」諮問。社会科解体・道徳新設のねらい。 {\bf 1953 } 1 月、中教審設置、委員は文相が選任。5 月、大達茂雄文相(4 月参院当選 < 公職追放<内務大臣<昭南=シンガポール市長<内務次官)。旧内務官僚を事務 次官、初等中等局長のほか、中教審委員に追加任命(河原春作)。 8 月、教育課程審議会答申。「道徳教育は、社会科だけが行なうもののように 考えることは誤りであって、これは学校教育全体の責任である」「このような 指導がある特定の時間や特定の期間にまとめてなされることは、効果が少いと 考える」勝田委員他。 {\bf 1954 } 造船疑獄、佐藤栄作幹事長(自由党)に逮捕状、吉田首相が指揮権発動。1 月、 中教審の河原特別委員会「教員の政治的中立維持に関する答申」、6 月に法制 化。 新入児童への教科書給付中止。 12 月、日経連「当面の教育制度改善に関する要望」で、52 年の要望を具体化。 大学の法文系偏重是正と画一化排除、専門教育、職業教育の充実を要請。 12 月、吉田内閣総辞職、鳩山民主党政権、中曽根康弘氏ら改憲を論ずる。再 軍備・自主外交路線の鳩山氏は 1951 年 11 月の吉田諮問委員会答申を重視、 戦後教育を問題視。戦前から政界人の安藤正純文相、前年の教育課程審議会答 申をうけて出来たばかりの、小学校社会科指導要領に介入。 {\bf 1955} 鳩山内閣「経済自立五ヶ年計画」。社会党、自民党結成 2 月総選挙、中曽根氏は教科書「民編国管」教科書や、採択も県単位にの 試案。民主党第一党も過半数に及ばず、改憲調査会法案流れる。松村文相。 3 月、民主党政調会、中曽根試案に沿う教科書制度改革案。7 月、戦前派の牧 野良三委員長の下、民主党に教科書問題委員会、中曽根氏も委員。 8 月、「うれうべき教科書の問題」第一集。10月、11 月に第2、第 3 集。社 会科教科書を批判。検定した文部省も当惑。10 月、文相は中教審に「教科書 制度の改善について」諮問。2 ヶ月後に答申。文部省、教科書法案策定。 10 月社会党、11 月 自民党結成 11 月、民主党文教制度特別委員会(大村清一委員長)、教育行政・教委制度・ 教科書制度に関する教育改革要綱を決定。教育について、国の地方への関与、 市町村教委廃止と都道府県教委の知事と議会による任命、検定組織の強化、教 科書の採択広域(県単位)化と無償化、内閣に教育審議会など。自民党の方針に。 自民党政綱の第一項目:「国民同義の確立と教育の改革」。宇都宮徳馬氏「要 するに保守合同を推進した人たちは自由主義も社会主義もわかっていなかっ た。...ただ社会主義への恐怖が先にたったとしか思えない」(1985.8.24,朝日)。 「自民党 20 年の歩み」:「占領政策是正のための一つの重要課題が教育を刷 新改革し、とくに政治的に著しく偏向しつつある教育を正常な姿に...」。 自民党新文相は清瀬一郎民主党政調会長(<東条英機担当弁護士<衆院副議長)、 就任時に「党の小使い」を自任。 {\bf 1956}教育委員会公選の廃止 3 月 清瀬文相、教育課程審議会に「小中学校の教育課程の改善について」諮 問。学習指導要領の全面改訂と道徳の導入をめざすが、審議会は方針変えず。 教科書給与法改正、就学困難者に限定。 前年末からの国会で、自衛隊員増員(4 月)、憲法調査会法(5月)、国防会議法 (6 月)の他、会期末に「教育委員会法」を代替する「地方教育行政法」(6月、 教委を公選か任命に)も成立。民主党が小選挙区制より優先、文相はじめ初代 文教族議員が奔走し、警視庁予備隊導入の中で可決成立。 中教審は 53 年に教育委員会公選を維持すべきとしていたが、文相は「時間的 余裕がなかった」ため再度の諮問はせずと答弁。都道府県教委協議会が「総辞 職も辞さず」他、23 大学学長連名の声明、国会周辺にもデモ。 以後教育委員会は自治体の長が議会の同意の下に任命され、議事も非公開に。 市町村の教育長には都道府県教育長の、都道府県教育長には文部大臣の承認が 必要に。「教育委員会法」にあった「文部大臣は...指揮監督をしてはならな い」の条項も「是正または改善のため必要な措置を講ずべきことを求めること ができる」とされる。 教科書法案(検定の強化と採択広域化)、臨時教育制度審議会設置なども提案さ れ、主旨説明で清瀬文相は「教育基本法」への懐疑を表明。小選挙区法、内政 省設置とともに不成立。文部省は政令で対応、検定強化。教科書の発効と採択 については手つかず。 7 月、自民党幹事長と文教委員会が連名で、支部連合に「日教組の支配を排除 し、教育の中立性を確保するため、委員の人選に留意されたい」の通知、8 月 以降の各種会議で徹底。 10 月、愛媛県で教員の勤務評定問題。赤字財政の下、1 日に新法下の県教委 が教員全員の昇給の代りの個別昇給推進のために導入の方針。県教組の反対で 一旦方針撤回の後、自民党県連が介入。11 月 1 日、一転して導入を決定。50 年、51 年、53 年の選挙で連敗した自民党の砂田重政が指揮。上下からの板ば さみで多くの校長が日教組を脱会。(第一次愛媛闘争) 勤評は地方公務員法に基く、文部省内には問題視も。結局財政問題として静観。 大臣もほとんど発言せず。 11 月、日ソ国交正常化の後、鳩山内閣退陣。12月、石橋新総裁、文相に灘尾 弘吉自由党・自民党政調副会長 (< 公職追放 < 敗戦時内務次官 < 大達元 文相の内務省後輩)。灘尾氏はその後 3 回文相、文教族の中心に。初等中等局 長に内藤誉三郎(>'65 参議院>文相)、勤評は「全国で実施したい」と国会で 答弁。 灘尾文相は京都府教育長人事でもめ、地方教育行政法の発動例を残した。(p156) {\bf 1957 }ソ連、スプートニク打ち上げ。西側世界に「スプートニク・ショッ ク」、科学教育重視へ。 2 月、石橋氏病気退陣、岸首相、全閣僚留任。 7 月、内閣改造、松永東文相(< 衆院議員 < 東京市議 < 弁護士)。愛媛の勤評 問題は静観を表明。「日教組の人も、日本の再建を背負う青少年の教育をどう すれば良くなるかということを思う人々であることを思えば、腹をわって話せ ばわかるのでは。」 岸内閣「新長期経済計画」では 62 年度の理工系技術者の不足数が推計され、 文部省が理工系大学の 8000 人増員計画。60 年度までに目標数値達成。 8 月、自民党労働族と文教族の合同会議、日教組対策。日教組の政治的性格を 批判し、小委員会を設置。委員長に森山欽司(< 改進党労働政策部 < 民主党〈 戦前外務省)、機関紙「自由民主」などで宣伝活動。日教組は中央委員会で勤 評反対を決定。 9 月 文部省、教育課程委員会委員から勝田氏らを外し、それまで教育学者が 慣例の会長に日高第四郎元文部次官。松永文相、清瀬前文相と同じく教育課程 審議会に「小中学校の教育課程の改善について」諮問。諮問にあたり、内藤初 中局長は道徳教育の徹底を要請。 10/5 日高審議会長、道徳教育についてほとんど審議せずに、教育課程審議会 総会で道徳特設の挙手による採決を提案、委員全体が反対。その後 11/9、内 藤 - 日高路線の道徳教育の基本方針を決定。最終答申は翌 3 月。(p35) 11 月、自民党総務会で森山氏は勤評反対運動を暴力的と論じ、党は都道府県 支部に対して指令。内容は、日教組対策の「文教対策委員会」の設置と、委員 に「少数精鋭」で文教または労働問題に通じた党の県議会議員をあてること。 党本部には文教対策連絡協議会。 文部省は、内藤初等中等局長が都道府県教育長協議会(会長:本島寛東京都教 育長)を通じて愛媛県教委に運動。 12 月、愛媛県で再度勤務評定問題、日教組は校長に評定書を書かせない闘争。 (第二次愛媛闘争)県会議長が処分者なしを条件にあっせん、教組の敗北。60 年までに 7 割が脱退。 教育長協議会、全国での勤評を決定。日教組臨時大会で「非常事態宣言」。 {\bf 1958}指導要領改訂 3 月、教育課程審議会答申。文部省、3 日後に小中で週一回以上の道徳の時間 特設を通達。 東京で4/23に勤務評定を決定、都教組はスト。和歌山、福島、秋田、奈良、岐 阜などでも決定、和歌山、高知などが闘争。 6/6〜、日教組大会は書記長派と副委員長派が勤評問題で対立、休会に。6/12〜 改造岸内閣、灘尾文相は勤評方針堅持を表明。 9/15、日教組勤評半日ストに参加は 17 都道府県。勤評統一闘争は翌年も行な われるが鎮静化に。勤評結果は実際は昇給に用いられなかったが、愛媛や徳島 のほか、多くの県で校長が教組を脱会。処分者も多く日教組は救済に追われる。 「自民党の中で勤評を推進したのは、労働族といわれる人たちだった。文教族 はほとんど表面に出なかった。勤評は教育政策ではなく、選挙の恨みから始まっ た短絡的な労働組合対策だった。そこに教育の論理はかけらほどもなかった。... 上=管理者だけに目をむける``ヒラメ教師"がふえるのもこのころからである」 (p31) 10 月、教育課程審議会答申に基き、「国旗・国歌」も盛り込んだ指導要領が でき、以後「文部省告示」として法的拘束力をもつとされる。47 年発行以来、 51 年までの指導要領には「試案」と明記され、「教師自身が自分で研究して いく手びきとして書かれたものである」と書かれていた。 12 月、灘尾文相は警察官職務執行法改正を強行しようとした岸首相の政治姿 勢を批判し、池田勇人・三木武夫とともに辞任。後任に橋本龍伍。(p37) 日大トップ、古田会頭に(< 理事長 < 理事 < 事務職員 < 日大法科卒)と連携。 古田会頭は学部ごとの独立採算などで日大を拡大。 {\bf 1959} 日大古田会頭、「世界平和に貢献するため」、社団法人「日本会」を設立。佐 藤栄作氏が総裁、メンバーに岸信介、賀屋興宣、足立正、松下幸之助ら。古田 氏は日本会会長も兼ね、また自民党関連団体「国民協会」理事にも就任。 6 月、岸改造内閣で米国経験ある松田竹千代文相(< '27 に代議士。)、日教組 教研集会にも出席。 \section{60 年代。政治の季節から経済の季節へ} {\bf 1960} (60 年安保。政治の季節のおわり) 5 月 文部省は中教審に「大学教育の改善について」諮問。管理運営のほか、 大学の目的・性格、学生の厚生補導、入試など全般にわたる。管理運営につい ては森戸広島大学長(<文相)が主査。(p72) 6/23 岸総理退陣表明。安保強行採決、全学連国会突入、アイゼンハワー大統 領訪日中止をうけて。 7 月 自民党党大会、池田勇人総裁を選出(<吉田茂直系)。方針は「寛容と忍 耐」、文教政策を経済面から構想。荒木万寿夫文相 (逮捕許諾請求(民主党は 同意、自由党が反対) < 造船疑獄 < 衆院'47、民主党 < 大牟田市長 < 逓信省 < 京大経 < 五高、池田と親友。)。 文相就任会見「占領行政による戦後の教育が果たして国情にそっているか」 「日教組や全学連に対しては、文部当局として直接的に関係をもつべき筋合い ではないと思う。」「日教組と話しあうべきだとも考えない」 剣木参院議員(五高同級生)の後日談 「荒木が「困った、どうしたらいいか」と相談にきた。気軽に日教組の悪口を いったのが新聞に大きく出てしまったらしい。それで「もうダメだよ、男が一 旦言ったんだから。お前はレッテルを張られてしまったんだ。これからはそれ でいくしかない」と答えたんだ。「そりゃ、そうやのう」と言っていたが、本 当にそれで通してしまった。荒木も初めはそんな気じゃなかったんですよ」 山崎、p41- 「荒木はそれからまる三年間、文相のイスに座りつづけ、その間、「日教組は 破防法スレスレの団体だ」「日教組の運動はカミナリ族の押し売りだ」「義務 教育の場で児童・生徒を洗脳して、共産党のお先棒かつぎにしようとしている」 などと激しい日教組攻撃を繰り返し、``低姿勢内閣の高一点"といわれた。」 8/5 日教組、松田前文相との勤評問題交渉のつづきを文相に会見申し入れ。 8/15, 文相は歴代文相ではじめて、会見を拒否。8/18、日教組再度申し入れ。 文相は日教組の 52 年の倫理綱領の「教師は労働者である」(p94)が革命思想 との口実で拒否。71 年までこの理由が歴代文相に受けつがれ、日教組と文相 の会見とだえる。日教組内も社会党系主流派と共産系反主流派の対立激化。 8/19 荒木文相、全国都道府県教育委員長・教育長協議会総会で「教育基本法 は立派な日本人をつくるという意味で足りないところがあるので再検討したい」 と講演。国会で追及されるが、その後も基本法批判。 この夏、自民党は「教職員の日教組脱退促進に関する対策」を推進。「教職員 を日教組から解放することこそ、真にわが国教育の正しい発展をはかる唯一の 途である」。集団脱退を目標に、ターゲット、先鋭組合員対策、脱退員の応援、 資金援助などによる「教育正常化」で日教組を攻撃。森山欽司ら。 毎日連載「教育の森」1967.9.13 によれば、自民党の 5 重点県のひとつ岐阜 県も 60 年から激動。有力教員を転任さすなどで組織を解体、各地で脱退と分 裂が進み 1 万いた組合員が 8 千に。PTA にも工作。森山の出身地栃木や、香 川、徳島なども同様。(p92) 8 月、人事院は公務員給与の 7 年ぶり全面改定「12.4 %アップ、5 月実施」 を勧告。人事院勧告は公務員の労働基本権の制限に対する代償で、完全実施が 原則とされる。政府は 10 月実施に値切り、61 年以降 63 年までの 7 %前後 勧告も同様に 5 月実施を 10 月に。(p92) 9 月 池田内閣 10/25 経済審議会の教育訓練小委員会、「所得倍増計画にともなう長期教育計 画」を発表、11/1の審議会答申に。柱に「人的能力の向上と科学技術の振興」。 「科学技術を充分に理解し利用し、社会と産業の要請に即応し、...経済政策 の一環として、人的能力の向上を図る必要がある」 11 月、所得倍増計画発表。計画内に 17 万人におよぶ科学技術者の不足を見 込み、理工学系大学の定員増加を盛る。池田首相は前月に科学技術会議で同趣 旨の発言。 「文部時報」11 月号:「優れた人材を早期に発見...義務教育終了期において 生徒の能力、適性を見出し、その進路を指導していくことが必要」。「能力、 適性に応じて進学」のための「客観的資料」を目的とするテストの構想。 {\bf 1961 } \footnote{ この年、田中耕太郎「教育基本法の理論」著す。「生徒の政治活動を教師が 黙認は違法」の見解。1969 に文部省が援用: 「文部省の研究」坂本、山本(三一書房) p230。 } 1 月、文部省新年度予算案に理科教育施設整備費ほか、原子力、電子工学、防 災、ロケット、プラズマなどに関連予算。技術者 44 万人の不足解消と、ベビー ブーマーの高校進学率上昇を背景に、新設高校の 6 割を工業課程に。 大学でも 4 月から 6 ヶ年計画で 1 万 6000 人の増募、うち阪大基礎工新設 ほか国立大理系学科の新設拡充で増募 1790 人。教授陣の不足による限界。工 業高校増設の緊急措置として、国立 9 大学に教員臨時養成の予算。閣議決定。 3/11、予算案に池田正之輔科技庁長官(49 年再当選 < 戦前代議士 <読売記者 < 日大出版部長 < 日大政治学科卒)のクレーム。「この程度のテンポでは科学 技術者不足数の半数を満たすことも至難で、経済成長達成に重大な支障」とし て、科学技術法 11 条に基づき再検討を勧告。11 条は勧告に対する措置の報 告義務を定めた強力なもの。3 月に国会で閣内不一致を問われる。池田大臣に は私学の 1 万人増募(61 年度)への補助が念頭に: 「現行の大学設置基準、大学設置委員会の申合事項等大学の設置のための基準 は、私立大学における現実とそぐわぬ点が多く、かつ国立大学の取り扱いと差 別的な点もあるので、これにかんする再検討を行なう必要がある」。 3 月、「5 年制専門教育期間設置要綱」、翌 4 月に全国に 19 校(内私立 5) の工業高専。単線型から逸れる制度改正。中教審の議論はなし。 4 月、学力調査実施要綱。目的として、教育課程と指導要領の改善のため、お よび教育条件整備の材料とする、を挙げる。学力調査に対し、文部省内には初 等中等局課長、財務課長、地方課長らから異論も。決定は内藤初中局長。 5/20 池田科技庁長官声明「文部省は何ら誠意ある措置をとらず今日に至った のは遺感にたえない。幸い各私大は勧告の主旨にのっとり、本年度は定員をは るかに越えて増加(=定員外)入学させたので、勧告の所期の目的は達っせられ たと認められる。しかしこの増加入学の現実に即し、その育成をはかることは あげて文部省に残された責任である」。 池田長官は出身大学の古田日大会頭とも連携。「どだい基準そのものがムリな んだ。あれは`教育定員'であって`経営定員'ではない。私大が守れるわけない じゃないか」(古田氏、1966.2.25 朝日)「私学に定員などはないはずだ。こち らが決めればいいことなのだ」(同氏、1966.3.1 毎日) 5/31 日大、東海大、大阪工大など私立 10 大学経営陣が連名で声明を発表。 「政府の養成と産業界の科学技術者需要の緊急性にこたえるため、私立 10 大 学は本年度から学科の増設または定員の増加により理工系学生を育成すること に決定した。なおこの実施については各大学が自主的に行なう」 私立大の学科増設や定員増は届け出制だが、文部省はこれを私学水準維持のた め「協議事項」とし、大学設置委員会に諮問する認可制扱いとしていた。10 大学の声明は協議ボイコットの通告。 7 月、文部省は純粋な届出制へ後退、閣議了解を経て「私立大学の学科増設お よび学生定員変更について」通達。水増し入学は「大学教育の水準の維持およ び私学の本質にかんがみてまことに遺感」だが「私立大学の良識と誠意ある措 置を期待」して今後届出のみですます、の内容。 文部省天城勲官房長(>大学局長>事務次官)の述懐「大学設置基準は、ここで 基準制定・維持についての適切な担保のないままその機能を大幅に緩和=低下 させ、大学設置をより容易にする方向に転換したのである。かくて昭和 37 年 以降、大学、短大の新設申請校も認可校も増加の一途を辿り、認可校は 37 年 の 10 校を皮きりに以後 10 校、21 校、25 校、28 校、23 校と昭和 42 年の 進学該当者のピークに向って増えつづけた。同時にこの時期既設の私立大学の 拡張も顕著で、学生数 1 万人を越えるいわゆるマンモス大学がふえてきた。 また定員超過のいわゆる水増し率も平均して 1.7 〜 1.8 倍程度に達するにい たった」「かくて経済の高度成長路線にそって、わが国は大学大衆化時代に踊 り出たのである」(p72) 6 月、日教組が宮崎大会で組織として社会党のみ支持の方針。勤評や安保の反 対などの政治闘争から、教師の賃金や権利の重視へ転換。 7 月、日教組大会は「教育内容の国家統制、改悪教育課程のおしつけの手段」 として、学力テストの業務をしない闘争を決定。 7 月、池田改造内閣で荒木文相留任、四国ブロック地教委教育長会議(松山)で 「義務教育に対して教科書の無償配布を検討」と述べる。自民党文教族(文教 委員会・文教調査会)は 62 年度文教関係重点施策大綱に無償給与実現の 161 億円をもりこみ党執行部に要求。 9/1、文部省は大学増募計画を 1 万 6 千人から 2 万人に、達成も 4 年間で と短縮。 10/26、学力調査。岩手、福岡、北海道などで実施不能も。岩手では県警が出 動、県教組や組合員宅を捜査。全国で実施不能は9.1 %。 10 月、企業などでの技能教育も単位と数えるよう、学校教育法改正。 11 月 岩手県警は委員長ら 21 名を逮捕。翌年 1 月までに全国 160 個所が捜 査され、2000 人以上が捜査をうけ、免職 20 人をはじめ 2000 人近くが処分 された。荒木 - 内藤の意向? (p50) 12 月、文部省は自民党に教科書制度と無償化の問題点を説明し、「教科書の 無償給付等に関する法律案要綱」を提出。説明に以下のくだり(p63): 「現在の検定は学習指導要領の基準に則り厳格に実施されているので、内容面 においては実質的に国定と同一である」「今後企業の許可制実施や広域採択方 式整備のための行政指導を行なえば、国定にしなくても 5 種類程度に統一し 得る見込みであるので、国定の長所をとり入れることは現制度でも可能である」 その後無償化法に行政指導が明文化される。 {\bf 1962} 1 月、内藤事務次官に。教育白書「日本の成長と教育 - 教育の展開と経済の 発達」。「将来の経済成長を促す」「教育は消費の性格をもつものではあるが、 同時に投資として重要な意義をもっている。」として教育投資論を展開。「教 育投資の収穫」の語も。経済学者 T. W. シュルツの「教育と経済成長」1961 が下敷き。 3 月、大蔵省の反対を池田首相がおしきり、2 箇条の「義務教育諸学校の教科 用図書の無償に関する法律」成立。第 1 条で無償化を、第 2 条で無償措置の 審議調査会設置を定める。20 人の調査会に財界から金子佐一郎・藤井丙午・ 中島正樹・森永貞一郎氏ら。11 月に答申。自民党から「300億の減税に匹敵す る」の意見、荒木文相は教科書国定化も視野(p62, 内藤証言)。文部省には無 償化が給食などに波及すると財政負担の声、内藤次官がおさえる。 3 月、経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」。「能 力主義の徹底に対応して、...能力や適性に応じた教育を受け、...評価、活用 されるという方向に徹すべきであろう」:能力観察、進路指導の強化、飛び級、 入試改革、育英制度の合目的的充実、指導要領の効率化を提唱。 「機会均等と人材開発」のための調査と、「科学技術教育振興」のための「中 学校全国一斉テスト」の新規事業に予算。後者は 65 年以来の抽出調査と異な り全数を試験するもので、勤評問題につづいて現場は混乱。この年からは 5、 6 年生にも試験が拡大され、公式には全数の 2 割に、実際は全小学校に対し て、問題用紙が配布され、実施が要請された。 公表されないはずの一斉試験の結果が流れ、香川が一位と伝えられた。愛媛で 「おいつけ、おいこせ」のあまり、補習ばかりか学力不足の児童を欠席させた り、試験中に教師が解答を教えるなどの実態が明かになった。(毎日など。) 日教組富山大会で、53 年以来 9 期委員長の小林武が辞任、後任に宮之原貞光、 書記長槙枝元文。経済闘争路線へ転向。このころ静岡、大阪、東京など教組が 超過勤務手当支払い請求訴訟。 5/25 池田首相、参院選向自民党演説会「今の日本の状態を見ますと、義務教 育におましても、大学教育におきましても、教育が革命の手段に使われておる きらいはございますまいか。... 人造りの根本をなす大学教授以下義務教育に たずさわっておる諸先生の素質の向上に力を入れ、そうして今の大学の管理制 度 --- 学問の自由はもちろん尊重しますが --- 今のような大学の管理制度に ついて再検討を加えるべく、荒木文部大臣に指示をいたしております」翌日の 内藤次官記者会見「現在の文部大臣の権限は、国立大学の予算をとることと、 大学人事のめくら判をおすことだけだ。これでは困るので、現在の管理方法を 改めたい」(p73) 6/21, 大学管理に関する中教審答申原案。学内の管理体制を明確にするととも に、新たに中央機関を作り、「文部大臣が大学から申し出のあった学長、学部 長または教員の候補者を著しく不適当と認めた場合は、この期間に諮って大学 に再選考を求め得る」と文相に拒否権。大学側猛反発、10 月の第二次中間報 告で多少後退。(p73) 7 月、物価高の中で参院選。 10 月、中教審第二次中間報告「大学と国家・社会」の章で、大学に「必要に 応じて学外者を加えた機関を設けよ」。また文部大臣職責として「文部行政の 総括的責任者として、大学の管理運営に関しその権限の行使にあたっては、国 民に対する責任を考え、大学自治の尊重を基本として、じゅうぶん慎重を期さ なければならない」。(p74) 11 月、教科書無償化審議会の答申。「義務教育諸学校の教科用図書の無償措 置に関する法律案」に。 12 月、文部省「国立大学運営法案」全 16 条。第 2 条で中教審 10 月報告の 「大臣の職責」の文章を盛る。学長補佐の副学長のほか、評議会や教授会の権 限明確化など、大学の上からの管理体制確立めざす。(p74) {\bf 1963} 1 月、池田首相と荒木文相、「国立大学運営法案」の国会提出とりやめを決定。 教授や学生の反対運動「大学自治を守る会」や、学術会議の「法制化をはかる べきでない」の勧告で躊躇。 大学関連の中教審の答申内容は、入試改革のための「能力開発研究所」設立以 外流れる。自民党は後の東大紛争の際、これを後悔(p74) 6 月、中教審に「後期中等教育の拡充整備について」諮問。諮問理由「青少年 の能力をあまねく開発して国家社会の人材需要に答え」云々。内藤事務次官 「後期中等教育の...一貫する理念を明かにする必要」。 中教審委員は 12 名 + 臨時委員 4 名。主査は高坂正顕(< 東京学芸大学長< 公職追放 < 言論報国会理事 < カント哲学者)。臨時委員に出光佐三と松下幸 之助、第 3〜13 回の会合で最初に発言。松下はその後も 2 回発言。(p58) 「期待される人間像」「後期中等教育のありかた」の 2 委員会議長に、経済 審議会が経済審答申をレクチャー。65 年 1 月に中間草案、最終答申は 66年。 7 月、池田改造内閣。荒木文相から灘尾弘吉文相に。 12 月、社会党など反対で 2 度の廃案の後、修正の上教科書無償措置法成立。 69 年までに小中の教科書無償に。教科書の広域採択化(都道府県教委による市 郡をまとめた統一区域設定)と発行者の文部省による指定制度も。教科書会社 の寡占化や、教師が教科書を直接選べなくなることで、教科書への関心を失っ たという指摘。 {\bf 1964} 7 月 党内選を経て、池田総裁 3 期目。愛知揆一文相に。 8 月 トンキン湾事件でアメリカのベトナム介入本格化。国内でも親米佐藤政 権に抗議行動。(p77) 9/14, 8月の人事院 7.9 %給与アップ勧告に関連し、日教組は組合員 2 割に よる休暇闘争。28 日にも。政府は実施をひと月繰り上げて 9 月に。(p93) 10 月 池田首相病気退陣。後任佐藤栄作、72 年 7 月まで首相。愛知文相留任。 このあとほぼ一年ごと文相交代。(p75)63 年に高校ベビーブームの波がを襲っ たこのころから、学生運動活発化。(p76) \footnote{ (p76)国立大:公立大:私立大の数と学生数増加は以下のとおり (文部省統計)。 1955 年 72校(4万6千人):34校(5千人):122校(8万1千人) 1965 年 72校(4万5千人):33校(7千人):140校(11万1千人) 1965 年 73校(5万5千人):35校(9千人):209校(18万6千人) 1970 年 75校(6万5千人):33校(1万人):274校(25万8千人) 私大では学生数が 15 年で 3 倍になった。 } {\bf 1965} 1 月、慶應大学で学費値上げスト。 1 月、中教審中間草案で「祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛することと 一つであることを深く考えるべきである」など、論議に。文部省は肯定的・中 間的・否定的が各 30・40 ・30 %という「各界の意見」をまとめ中教審に。 (p58) 都道府県教育長協議会や小中校長会など、一斉テスト再検討を要望。65 年は 文部省は抽出試験に回帰、66 年より中止。 一斉テストで愛媛県全国一、文部事務次官の福田氏は関係者のパーティで称賛。 6 月、家永三郎東京教育大教授は著作した歴史教科書の検定を検閲であるとし て、国に損害賠償請求(1 次訴訟)。74 年に一審判決。 12 月、静岡県職組の「5 時以降の職員会議への時間外手当」を地裁が認める 判決。翌 1 月には、静岡市教組の遠足などへの時間外手当の訴えも認める。 (p95) 55 年から 65 年の間に、高校の工業科は学科数で 394 から 925 へ(生徒数で 24 万弱から 62 万強に)、商業化は 875 学科が 1356 学科へ(37 万弱から86 万弱に)。このころ職業高校には秘書科、衛生工学科、情報処理科ほかができ、 最終的に 250 種以上の科に細分化。 {\bf 1966} 1 月、早稲田大学で学生会館管理と学費値上げ問題から全学スト。150日間に 及び学生排除に警官隊導入。翌年にかけ中央・明治・法政などでもスト。国公 立大でも学生会館管理や学芸学部の教育学部への改組問題、インターン(無給 の臨床研修医)問題などで紛争。60 年安保で挫折した学生運動盛り返す。 (p76) 10 月 中教審答申、最終段階で日経連教育特別委員長柴田周吉に意見聴取。各 章の題は「当面する日本人の課題」「日本人にとくに期待されるもの」「社会 人として」「国民として」。「すべての職業は、それを通じて国家、社会に寄 与」(第 3 章より)、「正しい愛国心を持つこと」「象徴に敬愛の念をもつこ と」「すぐれた国民性を伸ばすこと」(第 4 章より)。 高校多様化政策の提示をうけ、文部省は理科教育および産業教育審議会に具体 化を諮問、67 年から 68 年にかけ答申。 10/21 人事院勧告の昇給完全実施を求める日教組スト。全国 23 都道府県で、 半日休暇または 2 時間の授業カット、他 8 県参加。結成以来の規模。幹部の 宮之原、槙枝ら逮捕される。(p93) 12 月、三派全学連(中核派、社学同、社青同解放派)結成。革マル、民青(共産 党系)とともに闘争を競う。(p78) {\bf 1967} 3 月、大阪地裁で教師の超過勤務手当認める判決。(p96) 7 月、家永教授が検定不合格取り消しを求める(2 次訴訟)。70 年 7 月に判決。 8 月、文部省は翌年度の概算要求に教師の時間外手当 63 億円を計上。教師一 人週 2 時間の超過を想定し、その半額国庫負担分。自民党文教族が反発、 「聖職である教師に超勤など時間の切り売りを認めるとは何ごとか」。文教族 は教師への優遇措置復活のため本俸 1 号アップの一方、教師を労働基準法か ら適用除外せよと主張。文部省困惑。 8 月、理科・産業教育審の第一次答申。「特別教育に対する制度的考慮」の中 で英才教育に触れる。 10 月、「理科・数学に関する学科の設置」答申。文部省は法改正が必要な中 高一貫校や飛び級を避け、高校の理数科設置に補助金。各都道府県に 4〜5 校 が目標。しかしただの受験コースとなり、72 年度までに補助金が余る状態に。 (p55) 10 月、佐藤首相のベトナム訪問阻止で、三派・革マルと機動隊衝突:第一次 羽田闘争。11 月、佐藤訪米阻止の第二次羽田闘争。 10/26 日教組、早朝一時間スト。(p93) 11/6 日教組全国戦術会議、全国で超過勤務手当支払い請求を民事訴訟する方 針。翌 2 月から 20 余の県で法廷に。(p96) {\bf 1968} 高校で理数科新設 29 校、69 年度は 38 校。 1/29, 東大医学部自治会がインターン制改革のため無期限スト。2 月の医局長 つるしあげ、学生大量処分、卒業式中止に。 1 月、米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止闘争。2 月、王子野戦 病院闘争。3 月、成田空港建設阻止闘争。この年に計 115 大学で紛争、うち 68 校が越年。(p78) 2 月、自民党と文部省が教師の給与体系で妥協、本俸の 4 %の教職特別手当 支給の一方、労働基準法の超過勤務条項を適用しない「教育公務員特例法改正 案」。国会で審議未了廃案ののち、大学紛争で棚上げに。(p96) 4 月、東京国税局調査で日大に約 20 億の使途不明金発覚。教職員のヤミ給与 や「日本会」経由の政界献金が疑われる。学生が経理公開要求をはじめ、自治 活動弾圧反対やマスプロ教育への不満で日大大紛争に。(p71) 5 月、日大全学 共闘会議。(p81) 5 月、仏ソルボンヌ大学の改革運動がドゴール政権打倒運動に発展:「5 月危 機」。世界で学生運動多発。(p78) 6/15、東大闘争の医学部生は安田講堂占拠。17 日、大河内一男総長は実力排 除に機動隊出動を要請。紛争が全学に拡大。 7/2, 学生が安田講堂再封鎖、5 日に全学共闘会議(全共闘)結成。封鎖反対の 民青と衝突数次。封鎖全学に及び総長辞任、総長代行に加藤一郎法学部教授。 自民党の教育問題担当は政調会の文教部会(谷川和穂委員長)と文教制度調査会 (坂田道太会長)、全国組織委員会の学生問題懇談会(荒木万寿夫座長)と教育正 常化委員会(森山欽司委員長)の 4 組織。あとの二つが学生への強行措置を主 張続ける。東大紛争に対し、灘尾文相は静観。介入で民青支配を招くことを恐 れたとも。 8 月、自民文教部会の内藤(参院<文部次官<初中局長)、旧帝大を大学院大学化、 口座制廃止と学級担任制確立、大学管理法制定、の教育改革試案を佐藤首相に 単独説明。(p80) 9 月、自民文教制度調査会(坂田会長)、大学制度全般の見直すべく、「長期的 展望にたった大学問題」の検討に入る。週 2 回の会合で学者・文化人・大学 生から広く意見聞く、自民党初のプロジェクトチーム型教育政策研究。70 年 代の文教部会各種提言の際のモデル。(p80) 9/30, 両国の日大講堂で日大全学集会。古田重二良会頭以下全理事出席し、機 動隊導入などの自己批判書に署名。翌日の閣議で「常識を逸脱」と、「日本会」 (会長古田氏)のメンバーでもある佐藤首相は治安と文教両面から問題視。灘尾 文相不在(福井国体出席)の中、午後の閣僚懇談会は文部事務次官の無策を追及。 (p82) 10/4, 警視庁は違法デモ指揮を問い、秋田明大・日大全共闘議長らに逮捕状。 古田、一旦退陣表明の後撤回、70 年 10 月の死亡までトップに。 10/8 日教組、早朝一時間スト。(p93) 10/21 国際反戦デー、新宿騒乱事件。(p78) 11 月、理科・産業教育審の第 2 次答申「職業教育の多様化について」。 「科学技術基本法案」廃案に。 11 月の文教部会中間報告「人間教育不在のまま成長しているのが現在の大学 生」と学校教育全体の欠陥を指摘。大学は一般大学・大学院大学・芸術大学・ 教員養成大学に分けることを求める。一般教育改革・教官の待遇と人事交流、 学長のリーダーシップのための副学長制、私学援助の改善なども。学生の人事 介入を除き、学生と教官に相互信頼と話しあいを求める。(p80) 11/30, 佐藤改造内閣で坂田文相に(< 文教制度調査会< '46 に 29 歳で初当選 < 東大独文 < 旧制成城高校で加藤東大総長代行と同級)。東大紛争で全員留年 と入試中止を回避のため、東大総長代行と連携。文教制度調査会新会長に桜内 良雄氏。 12/2 加藤東大総長代行「学生諸君への提案」。それまでの大学執行部を自己 批判する改革案、12 月中旬のスト収拾で学生の留年回避を提案。内ゲバ激化。 12/3 文部省、紛争中の東大・東京教育大・東京外語大と入試について協議。 23日、26 日の協議を経て東大入試中止が固まるが、坂田 -加藤双方とも 1 月 になお努力を確認。 {\bf 1969}指導要領改訂 1/4 加藤総長代行、全学に入試実施のための努力を訴える声明。10 日、総長 代行と医学部以外の無党派及び日共系の学生団体とが、文部省が確保した秩父 宮ラグビー場で対話集会。集会後スト解除の学部相次ぐ。(p83) 1/11 東大団交でかわされた「確認書」に、自民党が反発。管理運営上の学生 の権利や産学共同の否定があった。桜内義雄会長以下、自民党文教部会・文教 制度調査会幹部が文部省で坂田文相に抗議。田中角栄幹事長も抗議。文相には 党内から警戒の目が根強く、荒木万寿夫国家公安委員長( < 文相)も無原則な 収拾と批判。 1/14 総長代行、文部省に入試復活協議申し入れ。 1/16 中曽根康弘前運輸相、毎日新聞に 3千字余の投書「東大問題の解決につ いて」。2.26 事件をひきあいに、「聖断によって国の方向は定ま」ったの書 き出し、「断行要因として国民は高い金で政治家を養っている」「使命を逸脱 してまで東大を維持してゆく必要は毛頭ない」「あっさり廃校にすべきである」 と政府に決断を要求。(p84) 1/17 坂田・加藤協議は入試復活の見通し、自民党は封鎖解除が先と圧力。 1/18 機動隊 1500 人が東大構内に。学生を排除。 1/19 空陸からの催涙ガス等攻撃で安田講堂落城。テレビ中継視聴率 44.6 %。 1/20 佐藤首相、坂田文相と東大構内を視察。東大入試中止が正式決定。 1/22 自民党文教制度調査会に小委員会、剣木亨弘副会長らが「教育改革試案」 を発表。文相が紛争大学の一時閉鎖を命令できる内容。 このころ、京大でも寮問題から大学封鎖、阪大や岡山大でも。 稲葉修政調副会長らは大学秩序回復の臨時措置法作る動き。学内での暴力禁止 や、違反学生や教唆煽動教職員の処分が目的。「大学内でヘルメットをかぶっ て歩いても停学 3 年」(6/5、朝日)。 自民党内は、長短・硬軟さまざまな議論。坂田文相は紛争処理限定の立法、 長期的改革は別の方針。沖縄返還のためハト派戦略の佐藤従う。 2 月、東京高裁が教師の超過勤務手当認める判決。 3 月、九大、広島大ほかで封鎖やスト。機動隊が入試を護衛。高校でも東京、 大阪、広島などで卒業式が混乱。 4 月、北大、東北大、九大などで妨害のため入学式混乱。 4/30、11 月の灘尾前文相諮問に対し、中教審が「当面する大学教育の課題に 対応するための方策について」答申。紛争処理の特別措置として、大学は執行 権限を集中し協力的でない教職員を一時排除する、政府は管理者に必要な措置 を勧告する、6 ヶ月以内の休校・閉鎖の権限、さらに「崩壊状態」となった場 合「第3 者機関の意見をきいて、その最終的な処理のため必要な、適切な措置 を講ずべき」。 4 月 文部省教育白書「わが国の私立学校」。 5/13、文部省「大学紛争の現状」を発表、施設占拠は計 43 校。(国立 30、公 立 4、私立 9)。 5/24、文部省の「大学の運営に関する臨時措置法案」を閣議決定、国会に。紛 争大学学長の文相報告を義務づけ、9 ヶ月後に収拾できないときは文相が臨時 大学問題審議会に諮り 3 ヶ月まで閉鎖できる、その期間の教職員給与は無し、 の内容。自民党文教部会や総務会は、中教審答申の「教職員排除」がないと反 発。田中角栄幹事長が国会での修正を含みとしてまとめる。 7/4, 自民党に橋本登美三郎座長(<佐藤側近)の「モデル大学懇談会」(のち新 構想大学懇談会)。後に筑波大学、放送大学として具体化される。 7 月、国会会期切れを前に、文部省に全国大学から抗議、野党も大学自治への 介入と反対。社会・公明・共産欠席のまま 70 日の会期延長が決定される。坂 田文相は継続審議を考えたが、佐藤首相は 70 年安保対策のため法案に固執。 田中幹事長に最優先を指示。幹事長は重宗雄三参院議長に警官導入を申し入れ。 8/2、法案を議題にした直後の参院文教委員会は、全く審議せず採決。 8/3、本会議で副議長不信任案への投票中に議長が投票打ち切りを宣言、議長 権限で大学法案を議題とし 2 分後に可決。前例のない強行手法。 8/4、全国各地で抗議行動、世論も非難。中核派学生は文部省突入を企り検挙。 8/7 「大学恫喝」臨時措置法公布。各大学で警官導入。70 年 1 月、授業停止 中の大学は 6 校と文部省発表。一方で各大学の自主的改革の計画はゴミ箱行 きになり、無気力が支配的に。 8/24 過激学生が赤軍結成。のち内ゲバも。(-p90) 11/13 日教組、早朝一時間半スト。4 年連続で、教師の行政処分は計 45 万人 に。自民党文教族に動きなく、翌年国会は人事院勧告の完全実施を決定。 (p93) \section{70 年代・高度成長} {\bf 1970 } 1 月、坂田文相の政務次官に西岡武夫、翌 7 月まで。早大雄弁会出身、'63 初当選。はじめ河野らと衆院大蔵委員会に所属。大学紛争の気配の中、坂田・ 稲葉ら古参が後継者として西岡・河野(早大卒)を文教族にスカウト。のち藤波 孝生(早大雄弁 > ロッキード灰色高官)も。商工族・農林族・建設族ら「御三 家」に対し、文教族はうまみがなく、初期の文教部会は人集めが一苦労だった という。(p116) 「最高裁でも勝てそうにない」超勤手当問題に、若手文教族の河野洋平(< '67 初当選)らと立法作業。「教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法) めざす。教職調整額 4 %、労基法の超勤条項除外、正規時間を越える勤務は 文相と人事院が協議し定める場合のみに限る、の内容。 自民党文教部会、教師は聖職とする第 1 世代(稲場ら)と合理主義の 第 2 世代(西岡ら)が分裂、ののしりあう。西岡氏らが稲葉氏を説得。(p97) 7 月、家永第 2 次訴訟に東京地裁民事 2 部(杉本良吉裁判官)の判決。訴えを 全面的に認め、文部省の検定は思想審査で違憲と認定、「教育権は国民にある」 とした。 11/2、日教組中央委員会(槙枝書記長)は時間外賃金のみの要求を改め、測定可 能な時間外労働の他、教職の特殊性に対する特別手当を要求へ。自民党のいう 「教職の特殊性」を受けいれれば無定量の勤務を強いられると、11/3 に反対 派組合員 50 人が会場(教育会館)を占拠、本部員が実力排除。(p98) {\bf 1971 } 3/5、日教組中央委が特別手当めぐり再度紛糾。(p99) 5/24 「教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)、強行採決重ね可決。 6/11 中教審、「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施 策について」を坂田文相に答申。67 年 7 月の剣木亨弘の諮問に対するもの。 明治・戦後につづく第三の教育改革を幼児教育から高等教育まで前段階で行な うことを提言。6・6 制や 4 ・4・4 制、4 〜 5 歳からの幼児学校や入試改革 に触れる。教育投資として 80 年までの 9 年で 70 兆、80 年度だけでも 13 兆円が必要とした、中教審はじめての総合的プラン。しかし 4 年前の諮問時 との情勢変化や内容に対する省内の異論も。%あり、実施には多難。 後に三木内閣文相となる永井道雄、答申は「教育改革の名に値しない」の署名 記事。 \footnote{ 西田官房審議官(当時。< 大阪芸大助教授 < 東大理学部)の述懐「一番大きな 壁は文部省自身だった。高校は総合制にすべきだと書くと、初中局から「高校 多様化を推進している最中にそんな方針を書かれたら困る」と反対された。学 校種別による多様化をやったら必ず失敗する。それは明治以来の教訓だ。多様 化するのなら学校内での多様化でなければ、と思っていたが、通らなかった。 / 教師についても、自主性の尊重ということに強い抵抗があった。「今教科書 裁判で争っているのに」ということだった」 西田審議官はユネスコ国 内委員会を経て、 '79 木更津高専校長に転職。 西岡武夫の述懐「答申がいかにインチキかを発見したのは、いわゆる理想化肌 の文部省のメンバーが書くわけですよ。それを局長会議に出すと関係のある局 長がクレームを出すわけです。... そこで全部書き直す。全部、文部省でやっ ている。/ ...そう発言力はなかったが、いくつか言った中で、一つは教員の 給与改善をなんとか入れてほしいということ。それは例の超勤をやりながらの 話ですから。 30 %から 40 %は、本当は 2 倍にしたかったんだが...」 (p104)} 自民党も文部省もすでに改革への 情熱を失っており、文部省に都合良く実行が可能 な、幼稚園教育や特殊教育などがつまみぐいされた。 自民党も、教員の管理政策をつまみぐいした。 答申が提言した ・管理体制の強化(校長、教頭、主任などの指導管理体制) ・教員養成(教員養成大学の整備、現職教員教育のための大学院) ・給与改善(校長、教頭、上級、一般、助教諭の 5 段階制と水準引上げ) 等を、その後西岡・河野が実現企る。 (p105) 6-7 月 西岡政務次官と槙枝委員長の公式会談、計 5 回。校長が教師に超勤 を命ずることのできる範囲について合意、文書化。合理派の若手文教族に自信、 70 年代の教員政策に影響か。(p99) 7/5 佐藤改造内閣で文相は坂田から高見三郎に( < 衆院文教委員長< 文教制度 調査会副会長< 文教政務次官< 52 年初当選< 内務省< 天王寺師範卒)。就任時 に「日教組と敵対するなが持論、いつでも会う」。3 週間後に 5 年ぶりのトッ プ会談実現。(p100) 西岡は文教部会長となり、予算獲得・法案成立のため文部省・大蔵省・党幹部・ 国会対策に働く存在だった文教部会を、政策づくりの集団に。「教職員」「高 等教育」「私学」「教育内容」「給食」「文化」などのプロジェクトチームに 部会員を配置、毎週会議し政策化。政策第1弾が翌 7 月の「中間報告」。そ の後この方式を他部会も採用。(p116) 西岡以後、79 年の森喜朗まで文教部会長は早大雄弁部出身者。(p161) {\bf 1972} 高見文相、党内の反対を押し切り中教審委員を刷新。連続 9 期 18 年の「ミ スター中教審」森戸辰男、8 期 16 年の河原春作、7 期14 年の天野貞祐、細 川隆元、6 期 12 年の大浜信泉、同11 年の木下一雄、および高坂正顕、平塚 益徳を入れ替え。 これまで中教審には、財界人が多い一方日教組も労働界代表もいなかった。官 僚出身を避け若返りをと、新たな委員に滝田実前同盟会長、作家の有吉佐和子・ 遠藤周作、演出の浅利慶太ら。太田馨元総評議長の就任は日教組が反対。(p100) この年の理数科新設 6 校。14 校分の補助金余る。73 年度には新設 3 校に。 受験加熱の中、東京、大阪、愛知ほか 20 都府県は理数科に躊躇。 5 月 佐藤首相、沖縄復帰を実現。一方で権力主義に批判。 6 月 佐藤首相辞意、政局は田中氏と福田氏の闘争に。 7/1、激動政局の中で派閥横断的に文教族議員集まり、自民党政調の文教制度 調査会(灘尾弘吉会長)・文教部会(西岡武夫部会長)の合同会議。教育改革第一 次試案「教員の養成、再教育ならびに身分・待遇の根本的改革について」を中 間報告。 冒頭で「大学紛争、連合赤軍事件、テルアビブ事件等を目のあたりにして、す べての国民は、戦後教育に対する危惧の念が杞憂ではなかった、と強く感じて いる」とし、「すみやかに教育の改革に着手する決意である」と述べ、すべて の事件の原因を教育とする姿勢。 一方「具体的要領」は中教審答申とほぼ同じ、 ・教員養成(初等教育教員をブロックに一校程度の法人立新大学で養成。学生 は全寮制、実習は一年とする代り、初任給を 2〜3 号高くする。教員再教育に も活用。) ・教員研修強化(筑波他都道府県単位にセンター、長期研修後の教員を給与で優 遇。)、 ・教員の身分確立と待遇改善(採用、任期、研修、争議権、身分保証など、専 門職として確立のための教員身分法。所得税・住民税の免税と、2 倍程度の給 与改善が目標。初任給も企業を越える水準にし、校長の一般行政職最高給も可 能とする。長期有休休暇や海外研修も。) \footnote{ 72 年文部省資料では、小中高教師/民間の給与比較は初任給が 86 %、37 歳で73 %、50 歳では 65 %。行政職との比較では、初任給は 1 割高でも、大卒 16 年後に逆転、その後は年とともに隔差拡大。一般教師の最 高級は地方出先機関の課長補佐並。校長で本省若手課長並。文部省は賃上げの 正当性を理解していた。(p123)} 大判ぶるまいの内容に選挙対策の声、項目ごとに現場の反発や省庁間の調整 も必要で実現困難の評。しかし自民党のその後の文教政策はこの「要領」を軸 に進められる。(p109) 7/5 自民党臨時党大会、田中角栄新総裁。日中国交と列島改造を公約。7 日組 閣。稲葉修文相( < 党憲法調査会長)は就任前、自衛力保持の改憲試案。就 任会見で「入試・大学制度」(紛争を問題視)、「教師は労働者でなく専門職」 (スト権は論外)と。一方、日教組とのトップ会談を公開。(p113) 田中「いまの日本にとって最大の問題の一つは教育だ。そのためには教師に対 する処遇を良くしたい」:中間報告をふまえ発言。 7/20 田中首相、%西ドイツに出かける高校生グループが官邸訪問した際、 西独 出発の高校生らの表敬訪問に「小中の先生を 10 万人ほどアメリカに研修に出 したらどうかと大蔵省と話あっている」と発言。この年の海外研修予算は 900 人分、小中の先生数は 59 万人。文部省幹部「結構な話ですが...休校になり ます」(毎日)と苦言。じつは貿易不均衡の黒字 30 億ドル対策だった:ひ とり 100万円で 10 万人の計算。73 年度に 5 千人派遣規模で実現。 8 月末、 ハワイで田中-ニクソン会談、10 億$余の緊急輸入の約束。航空機 輸入が後にロッキード事件に。(p111) 8/7 文部省、有識者を集め教員等待遇改善研究調査会はじめる。当初 2 年で 報告の予定。8 月末、文部省の概算要求。 9/5 7/1 に次ぐ文教制度調査会(灘尾弘吉会長)・文教部会(西岡武夫部会長)の 合同会議。次年度特別政策として ・教員給与 3 年で 5 割引き上げ。 ・毎年教員 1 万人を海外研修に。 ・長期勤続教員に一学期の有休研修と、そのための非常勤講師確保。 など決定。文部省、これを受け大蔵省に 583 億を同日追加要求。 井内慶次郎官房長「まあ、政治予算というやつで」と弁明。 8/15 の人事院勧告は平均 10.68 %の増、給与体系の整合性が問題。 日教組も教員身分法や 5 段階賃金を警戒。 %文教部会の給与案を 大蔵は根拠薄弱と、文部省の期待通り全額削除。文教部会反発。(p118) 12/22 総選挙後(自民不振)の内閣改造、奥野誠亮文相( < 田中幹事長の党総 務局長 < 無派閥 < '63 当選 < 自治事務次官 < 終戦 < 内務省 < 東 大。)。日教組には強硬、トップ会談拒否「これまでのようにお互いが会談を 宣伝の場にするようなことでは意味がない」。西岡部会長、給与案で文相に圧 力、大臣折衝にも現われ、田中側近竹下も通じ復活運動。 {\bf 1973} 1/14 西岡らの運動に大蔵省降伏、ただし一律 25 %昇給は義務教育教員のみ 10 %に。135 億円の裏づけや人事院との整合性なお問題。自民党の新教員政 策動きだす。 1/29 自民党文教合同会議、「教育職員の給与改善に関する臨時措置法案」の 成立目指すことに決定。給与の抜本的・計画的改善、初年度は 10 %の引上 げ、人事院より上位に規定、高校教師も含めるなど。政府部内から強い反対: 総理府、自治省、労働省など。警察・消防・医療や人事院勧告との問題。 社会党も日教組の意向受け特別立法に反対。71 特別国会は国鉄・健保・防衛2 法などの他、筑波大学創設法(国立大学設置法一部改正)や教頭職法制化法(学 校教育法一部改正、67 年以来の懸案)などが課題。他の重要法案を通すにもま ずい情勢の中、文教族再度運動し、田中首相が見送りから国会提案承認へ一転。 2/20 閣議、「学校教育の水準の維持向上のための義務教育諸学校の教育職員 の人材確保に関する特別措置法案」(人確法)決定、国会に提出。 当選 3 〜 4 回の若手文教族の強引が通る。 3/1-2 日教組臨時大会。ストライキ路線を確認するも、人確法案が日教組分断 の効果。聖職論を警戒。激論の末、「特例法案は粉砕するが予算はもらう」に 方針落ち付く。 (p121) 4 月 田中、12 月の選挙不振を重視し小選挙区導入に意欲、国会紛糾し会期延 長、再延長、会期計 280 日に。教育関係は筑波大設置以外の 2 案継続審議に。 (p122) やはり田中の指示で、文部省予算に「新学園建設調査費」5 千万: 列島改造の一貫で、大学を地方に分散する構想。 4/21 奥野文相、全国都道府県および指定都市教育長会議を緊急召集。27 日に 日教組が予定のスト参加者の厳重処分指示。 4/25 新聞で異例の文相名意見広告「教職員のストライキについて」。この日 最高裁は「全農林警職法反対闘争事件」などで 1969 年都教組事件判決から転 換し、官公労スト容認せずの方針。 4/27 春闘、史上最大規模のゼネストに。交通機関混乱。日教組ストは組合員 の 75 %が参加。(p126) 5 月、文部省が文相の私的諮問機関として新学園建設等調査会を設置、第一回 は首相官邸で。田中首相「土地と金を工面し 10 万人規模の新学園都市を 5 年で 20 個所建設」うたう。(p112) 5/23 奥野文相、全日本中学校長会総会で日教組のスト非難。 6/11 奥野文相、教育長会議で各府県教委にスト処分を強要。 8 月、福岡県教委がストに対し停職 11 名などの大量処分。大牟田・田川・行 橋の 3 市教委は処分のための内申書を県教委に提出せず。地方教育行政法 38 条の「内申にもとずき」の規定により県教委は 3 市関係の処分できず。3 市 はその後も内申書提出を拒否。(p127) 10 月 オイルショック。土地投機も重なり列島改造構想しぼむ。(p112) 10/17-18 日教組中央委員会、法案再提出なら阻止を確認。戦術会議で 12/4 に 2 時間ストを決定。 11 月、自民党は法案不成立なら獲得の 135 億円が宙に浮くあせり。文教部会 が社会党日政連(日本民主教育政治連盟)議員と折衝。日教組のスト直前に「給 与改善は職員団体と協議の上とし、5 段階制はしない」と覚書。奥野文相も了 承、日教組もスト中止。 (p122) {\bf 1974} 2/22 人確法、参院での一部修正を経て提出から 1 年半ぶりに可決成立、全会 一致で。与野党対決案件、しかも教育関連できわめて異例。人事院は 3 次に わたる給与改善勧告、教師給与約 3 割増に。オイルショックもあって教職人 気高まるが、その後現場では新任教師の人間的能力に疑問の声も。 (p123) 2/28 政財界人の朝食会で奥野文相講演、日教組対策に教師の政治活動規制の 立法検討を表明。その後 7 月の参院選まで、日教組を執拗に攻撃。(p128) 政治活動一切禁止の内容を奥野はめざし、「教師の仕事は大変だ、だから教師 は政治のことなど考えず、教育に専念してもらわねばならぬ」と今村武俊社会 教育局長に説く。初中局で要綱つくれと指示。局長ら、教師も国民であり政治 に関わる権利をもつと反論するが、文相は異例の週一回の省議を開き圧力。今 村は5 回目の省議で「沈黙で協力する」と発言。今村は一年半後左遷に。 4/11 春闘統一スト。即日日教組のみ広汎な強制捜査、槙枝委員長ら逮捕。文 相と警察庁連携。(p128) その後参院選のため、奥野文相は教師の政治活動規制を断念。田中首相、物価 高を争点としないために教育に論点うつす。自民以外も競争の必要から教育政 策。 4/17 赤旗、「教師の活動は子供の人格形成にも文化の発展にも直接の重大な 影響をもっています。この意味では教職はたしかに聖職といってもよいでしょ う」と書き、日教組の否定する教師聖職論との関係が問題に。社会党と日教組 が攻撃。各党が教師観を発表。(p129) 4/23 田中首相「いまの子供は知恵太りの徳やせ」「教育勅語の基本原理は今 日にも共通」(自由新報) 6/2 自民党文教部会の教育改革第二次案「高等教育の刷新と大学入試制度の改 善および私学の振興について」。プロジェクト・チームがまとめ。内容は ・今後 10 年は高等教育機関の質的充実に重点、量的拡大を抑制。大学院の拡 充整備と、旧帝大の大学院大学化を検討。大学の新学期開始を 9 月に。 ・入試改善のため、大学入学資格試験を設け、国公私立すべてに統一で毎 4 月に行なう。各大学は学生の専攻科目に対応した一科目のみを試験、小論文と 面接を必ず実施。入学定員を 2 分して受験機会を増やす。 ・私学振興法をつくり、小〜大までの私立振興をはかる。国は経常経費・施設 設備費を補助できるとし、大学と高専は 1/2、 それ以外は 1/4 までとする。 など。文教部会は最後の項について法案作りに入り、人確法と同様先に予算獲 得に動く。(p137) 7/4 田中首相「教師にも忠誠宣誓を義務付けるよう党と協議する」(新潟で) 奥野文相、第 3 次給与改善とあわせ主任制提案。大達、灘尾、奥野の 3 人は 旧内務官僚を経て戦後文相、治安維持への執念で共通といわれ、共通して日教 組には強硬だった。 7 月 参院選。自民は 8 議席減。金権選挙を批判し、三木武夫副総理・福田赴 夫蔵相・保利茂行管長官辞任。 10/4、奥野文相は文部省事務当局を押切り、福岡県のスト処分に介入。「非常 事態」における内申抜き処分を可能とする通達。(p127) 10/10 文芸春秋 11 月号、立花隆「田中角栄研究 - その金脈と人脈」。 11/11 田中内閣改造、文相三原朝雄。 11/26 首相辞意。(p130) 12/9 椎名副総裁裁定による三木内閣誕生。総裁就任会見で「教育の流れを変 える」(p146)「日本の教育を政治から離して、中立の場に置く」と表明、文相 に民間から永井道雄( < 論説委員 <'70 朝日入社 < 京大、東工大で社会教 育学を担当 < 京大文 < 政治家永井柳太郎の長男 )。組閣では党三役が「今 後の文教行政は日教組対策であり、労働問題」と反対、文部省も「これからは 極秘書類は大臣に見せられない」とまで警戒。 吉田内閣の天野貞祐以来 22 年ぶりの民間人文相。学者時代に「デモシカ教師」 の造語で知られる。「教育の中に政治の過熱を持ち込み、「文部省対日教組」 の面からだけで教育をとらえてもらっては困る。お互いの考え方の交流をはか り、納得し合えるものは実行に移す話し合い路線でゆく。」「文部省はサービ ス官庁」(12/11、毎日)などと語る。日教組、異例の歓迎の談話、「氏の教育 に対する考え方には共鳴するところが大きい」「日教組は協力して教育の荒廃 を救うことができると思う」。(p131) 12/16 永井文相と自民党文教部会・文教制度調査会が初会合。文相は「現行法 の下ではストはできない」「中教審答申は総論として問題があると言っただけ、 答申そのものに反対すると言ってない」など、親讓りの政治性発揮。 その後「東大頂点の富士山型から八ヶ岳型へ」「大学入試改革・教育課程改善・ 大学隔差是正・学歴偏重打破の 「4 頭だての馬車で試験地獄解消を」」など のキャッチフレーズ。(後にこの手法のみが文部省に定着?) {\bf 1975 } 1 月 文教部会長、西岡武夫から藤波孝生に。「永井さんには大いに論じても らいます、やるべきことはわれわれがちゃんとやる」と。12/27-7/4, 第 75 国会。文教法案多数成立。 ・内閣提出(永井側): 富山医歯大、少年の家の新設、文化功労者年金法(政令で 定めるように改正)、私立学校教職員年金法(国公立に準じることに)。 %党高政低? ・議員立法(藤波側):文化財保護法改正案(埋蔵文化財、伝統的建造物群の保 存制度など)、私立学校振興助成法(国と地方の私学助成の規定)、女子教職員 などの育児休業法案(育児休業制度創設)、私立学校法改正案(学校法人立以外 の私学助成を規定)。 私学助成法は「国民の明確なコンセンサスともいうべき法律の形態で私立学校 振興助成についての国の基本的姿勢と財政援助の基本的方向を宣明」(文部省 解説)。 文教部会は 1974.6.2 の教育改革第 2 次案に沿って、1 月の予算折衝で文相・ 党幹部・大蔵に圧力、結果私大で57 %増、1000 億円をこえる予算獲得。その 後藤波らが私学補助法案策定へ。 (p135) 2/16 文相は「明日の教育」の指針のため、湯川秀樹・桑原武夫ほか文化人 22 人を委員に委嘱した「文明問題懇談会」を発表。2/27 には経済同友会と、 4/28 には関西経済連合会と懇談、学歴偏重改善を訴える。(p133) 3 月 文部省は人事院に、教師の主任規定整備とひきかえに手当支給の勧告を の要望。文部大臣名で。(p139,p140) 5/9 朝の永野 - 槙枝会談で、日教組 2 時間ストを中止。 6/25 残り会期 10 日。藤波ら自民党議員 5 人で私学補助法案提出。文教部会 案は 3 年計画で経常費の半額補助を実現としたが、大蔵省の難色で 3 年計画 は削除に、半額も半額以内と後退。 6/26, 衆院文教委と本会議で社会・共産・公明・民社各党の反対の中可決。 7/3, 民社が賛成に回り参院で可決、成立。国に助成を義務付けるとともに、 私学に関する文部省の権限が強化。定員超過の是正命令、予算の変更勧告、不 良役員の解職勧告など。同時に成立した学校教育法改正案は各種学校の一部を 正式に学校体系に位置付けるもので、事実上単線型教育体系から複線型への移 行。この点の中教審などでの議論なし。(p138) 7 月、家永 1 次訴訟一審判決。2 次訴訟と逆に「国家の教育権」を認めるも、 検定の一部は違法として国に賠償命ずる。双方が控訴、判決は 86 年。 9 月、初等中等局長になった今村武俊は懸案の主任問題で日教組に打診。西岡 とも相談の上、省令の学校教育法施行規則を改正し、「小中高に教務・生活・ 健康の 3 部長(=主任) を置くことにする」構想。3 部長は知徳体にあたり、 知育偏重なくす主旨。しかしこのころ大臣は主任制には賛成でなかったとも。 (3 月の人事院への主任制要望を忘れた?:今村の回想。p140) 10/15 日教組は 3 部長制反対を決定し記者会見、内緒の約束を反古に。自民 党文教部会は今村から相談なかったと称して怒り、今村が日教組に年内の省令 改正ないと通知すると更に怒る。 11/18 文教部会の圧力で、永井文相は今村を文化庁次長に。 異例人事、事実上の更迭。文相が自職を賭すべきだったの声も。 (政権維持のために閣内にとどまったとも。pp139-140,p145) 12/6 文相は主任問題棚上げを企るが、文教部会勢力強く、自ら主任制実施を 発表。主任は中間管理職でなく中間指導職であり、教育活動指導を充実の役割 と説明。主任は管理職との文教部会に抵抗。対抗して、藤波 - 西岡は独自に 記者会見、ベテラン教師優遇の給与改善案と主任制度の部会案発表。 主任制はその後、文部省令公布、都道府県規則制定で定着へ。教委からの任命 でそれまでの慣習的役割分担と異り、教員集団にさらに縦の序列。職員会議が 上意下達型になり、これを模範に教室運営がされるなど、学校の管理社会化。 日教組は半日ストなどで抵抗、主任手当返上し教育事業にあてる闘争も試みる。 (p142) 12/8 文教部会の第 3 次教育改革案「高等学校制度および教育内容に関する改 革案 --- 中間まとめ」。「改革にあたっての基本理念」として次を掲げた。 ・「競争原理は、自由主義社会における原理であるとともに、人間の原理でも ある」 ・「子供は環境を整えてやれば、つまりよい学校に入れてよい教師をつけてや れば無限に才能が伸びる --- と信じている親が多い。これが平等主義に走ら せ、能力や特性を考えず無理して有名校に殺到する原因となっている」 文教部会案まとめは有田一寿初中教育チーム主査(> のち臨教審第 3 部会長)。 高校の普通科を文理にわける、教育内容を切り下げる、ついていけない生徒の ための特別高校検討なども。中教審答申などが下敷き。(p145) 12 月、家永 2 次訴訟で東京高裁は、不合格処分を「みずから枠を設けた裁量 の範囲を越えた違法なもの」として文部省控訴を棄却、憲法判断は見送る。裁 判は最高裁へ。文部省は検定方針をゆるやかに。 {\bf 1976} ロッキード事件 6/25 河野洋平・西岡武夫・有田一寿(参院)ら 6 人、自民党を離脱し「新自由 クラブ」結成、教育立国をとなえる。3 人は文教族有力者。藤波は誘われるが 思いとどまり、独自に政策集団「新生クラブ」。文教族第二世代の分断で直接 の影響低下するも、自民党の政策形成のモデルとして生き続ける。(p143,p145) 7/27 ロッキード社から賄賂の疑いで田中角栄逮捕。徹底究明姿勢に対し「三 木おろし」はじまる。 12/5 総選挙で自民党過半数われ、12/17 三木首相辞任。直前に教育課程審議 会は「ゆとりある学校」を目指す答申。 12/24 大平氏と話合いで福田赴夫が総裁、国会で過半数を一票うわまわり首相 に。海部俊樹文相(60 年初当選、当時 29 歳 < 早大雄弁会 < 愛知県)。文教 問題の経験なく、永井路線の「対話と協調」継承を表明。「政争を教育の場に 持ち込むべきでない」「必要なら槙枝さんとでも誰とでも会う」。(p148) {\bf 1977}指導要領改訂 指導内容削減へ \footnote{要確認。cf 大野、上野「教育があぶない」p117} 1 月、海部文相と槙枝日教組委員長の会談。その後海部文相の下に 3 年ぶり の中教審。高村象平(元慶應大学長)、永井道雄(元文相)、梅根悟(和光大学長) ら。梅根は日教組による教育制度検討委員会(70.12-74.5)の会長で、日教組よ り教育学者の中核とみられていた。 (p148) 5/2 大学入試センター発足。この年、共通一次試験(現センター試験)実施のた めの試行試験。永井前文相の「4 頭立ての馬車」の一頭(入試改革)が具体化。 6/3、日教組 30 周年式典の日本教育会館に諸沢正道初等中等局長が出席、金 一封。(p148) 6/8、前年の教育課程審議会答申に基き、小中新指導要領の告示。内容や時間 を大幅削減する「ゆとり」路線。教育課程審議会と関係なく文教族が初中局長 に運動し、同時に「国旗・国歌」の徹底が盛り込まれる。国の公文書で「国歌」 の語ははじめて。従来は「君が代」。(p149) 7 月、新自由クラブが「教育改革第一次試案」。(p143) この年以後大蔵省、財政難を理由に教科書無償化中止を主張。 11/28 内閣改造、砂田重民文相('63 年初当選 < 立教経済卒 < 父砂田重政、' 56 の愛媛県勤務評定を指揮)。日教組について「教研集会での議論の中身につ いては素直に受けとめている」「協力できるものは協力するのが、子どもたち にとって実のあること」の答弁には文教族が反発も。(p150) このころは自民党の退潮と第二世代文教族の分断で、文教部会力弱める。(p147) {\bf 1978 } 5 月、藤波孝夫ら「文化立国をめざして」。(p143) 8 月 福田首相「独創的な能力を持った人材を開発するためには英才教育が必要」 9 月 前年からの「中野の教育を良くする会」運動、東京中野区で教育委員準 公選の条例制定の直接請求に成功。(p156) 10 月、兵庫と上越に教育大学新設。1971 の中教審答申 「新しい教員養成大学と大学院の創設」が具体形に。筑波研修センターや、 81 年 10 月には鳴門教育大学も。(p144) 11 月、文化庁の芸術祭にジャズ、ロックなどのフェスティバル。砂田文相企 画。(p150) 12 月 自民党総裁公選で大平正芳 1 位、福田は本選挙を辞退。7 日大平内閣、 内藤誉三郎文相('65 参院全国区 < '62 事務次官 < 初中局長として 56 年の 勤務評定等で中心的 < '46 高等文官試験行政科合格 < 外交官試験失敗で '36 文部省へ < 東京文理大英語英文):旧帝大法科支配の世界で異例の人物、敗戦 の異常状況と英語力が幸い、省内一のタカ派。党文教制度調査会副会長、参院 文教委員長など務める。(p151) 文相会見「君が代や国旗は日本人の象徴」「教育勅語は形式に問題があるとし ても中身は含蓄があっていい」「日教組とは話し合うがストだけは絶対にいか ん」など。日教組談話「役人当時から教育における反動行政の中心的役割を果 たしてきた」「民主教育を進めることが期待できないような気がする」。 (p153) 中野区議会では、教育委員選ぶための区民投票条例案可決、一部修正。内 藤と諸沢初等中等局長、区長の委員選定権を制約するの理由で終始違法と警告。 (p156) 12/14 日教組中央委は 79 年度からの教職員定数法の第 5 次 5ヶ年計画で 35 人も しくは 40 人学級を要求し、翌朝 1 時間のスト予定。文相は槙枝委員長との 会談で「私の理想も 40 人学級だ。80 年度から年次計画を」と述べ、ストは 回避に。槙枝委員長「いい方に向けば実力者大臣になる」と評価転換。 戦後の 1 学級 60 人などを改善のため、58 年の教職員定数法は内藤が初中局 時代に作ったもの。第一次・第二次 5ヶ年計画で 1 学級 45 人までになった が、その後は 3 次、4 次とも複式学級解消などのみだった:人件費負担の国 と地方の反対で。(p153) {\bf 1979} 1/13-14 第一回国公立大学共通 1 次試験。以後年とともに弊害が不評に。 文部省、40 人学級実施のための作業開始、7 月には 88 年度までに年次計画 で実現させると方針。(p153) 6/6 参院で国際人権規約の批准案件が可決・成立。(学校小六法 760) 6/13 内藤文相、全国都道府県教育委員長・教育長会議で、中野区条例を 地方教育行政法違反であり、政治的中立性にも反すると発言。内藤は地方教育 行政法による改善措置要求権発動による投票中止命令も考えていた。 (p157) 8/1 内藤文相、11 日に 40 人学級などで日教組と会談と発表。(p153) 8/3 文教族から文相にクレーム、懇談会。この年から文教部会長の森喜朗(藤 波後任)、全国の党県連から「文部省は日教組といっしょに政策を進めるつも りか」と問合せ殺到を理由に、トップ会談中止を要求。奥野、海部、砂田らと 席を立つ。内藤が独断で槙枝と約束が文教族の不満、秋の衆院選への思惑も。 内藤は 11 日の会談を中止、槙枝 13 日記者会見「40 人学級では自民と一致」 「いいことなら全面協力する」。日教組も主任闘争の敗北、内部の路線対立、 若手離れなど苦しかった。 8/20 トップ会談、22 日文部省は 9 年間で教師 12 万人増の是正案発表。 その後大蔵省は 9 年を 12 年に変更。(p155) 8/27 毎日新聞に都道府県教育長面接問題。56 年の地方教育行政法により、文 相の承認を経て任命とされたが、書類の形式審査が慣例となっていた。これを 3 月に内藤文相が面接実施を指示、「経験があることが原則だが、経験がなく ても人柄をよくみてほしい。とくに文部省のいうことをきいてくれる人でない と困る」。8 月までに岩手、茨城などの 12 府県と大阪など3 市の教育長の 上京を求め初中局長が 1 時間面接していた。勤務評定の経験からか。(p156) 10/7 総選挙で自民党大敗。福田赴夫が大平退陣を要求、「40 日抗争」。 11/6 首班指名選挙で福田、大平とも立候補。大平首相に。投票の新自由クラ ブに文相を配分の予定が党内反発、大平が文相兼任。 11/20、谷垣専一文相(< 畜産局長など <農林省 < 東大法)。会見で米飯給食の 必要など力説。(p158) 文部政務次官に三塚博。(p161) \footnote{ 早大法学部卒、 早大雄弁会で海部俊樹、西岡武夫、藤波孝生らの先輩。後輩に森喜朗や松永光ら。 大卒後、元海軍中将〜自民党国防部会長の保科善四郎の秘書。(保科は 憲法 9 条改正と防衛庁の国防省格上げを主張していた。) 県議を経て 72 年衆院初当選。 77 年には 1 月から 1 年間運輸政務次官。 雄弁会仲間のいる文教部会に入り、学校給食プロジェクトチーム小委員長。 後のバブル処理時代には蔵相をつとめるが、金融不安に手を打てず辞任した。 } 12/13 勝共連合や文鮮明のカルト集団とつながりのある「世界平和教授アカデ ミー」主催の「第二回学際会議」。福田信之筑波大学長らの「教科書問題研究 会」は「昭和 56 年度より中学 3 年制が使用する社会科教科書「公民的分野」 の内容分析」と題して、メンバーの森本真章筑波大学講師が発表行なう。 この 発表内容は翌年の三塚質問に用いられ、 1982 年 2 月に森本「疑問だらけの中学教科書」として出版された。 \section{80 年代・%冷戦イデオロギー終焉へ、 「戦後の総決算」、新自由主義台頭} {\bf 1980} 1/22 自民党機関紙「自由新報」、「いま教科書は -- 教育正常化への提言」 連載開始。 8/12 まで 19 回。1955 の日本民主党パンフレット「うれうべき 教科書の問題」の執筆者の一人の石井一朝(元日教組書記)が前年 10 月に発表 した「新・うれうべき教科書の問題」(旬刊「世界と日本」)と同主旨。保守合 同後の 50 年代と同様の教科書批判を展開。 3/6 早大商学部入試問題の事前漏曳が明るみに。 4/1 小学校、新教育課程に。 4/24 学術会議、「科学者憲章」採択。 4/25 40 人学級の定数法改正案成立。12 年計画、その後行政改革で計画スロー ダウン。(p155) 小学校で 77 年改訂の新指導要領での授業はじまる。中学は 翌年から。(p162) 5/16 社会党の内閣不信任案が福田、三木両派ら欠席で可決。大平は衆院解散、 選挙戦中に死去。 6/22 衆参ダブル選挙。野党の選挙協力困難と大平同情票などで、自民は衆院 284(36 増), 参院 69 (6 増)の勝利。保革伯仲おわり自民強気に、文教族も。 7/15 自民両院議員総会で鈴木善幸総裁。17 日組閣、田中竜夫文相( 52 年衆 院初 < 山口県知事 < 東大卒 < 昭和初期の田中義一首相の長男)。「教育 には素人」を自認(p159)、国を守る意識の教育強化を表明(学校小六法 760)。 7/22 閣議で奥野誠亮法相(党文教制度調査会長 < 文相)「安全保証を総合的観 点から取り上げることは賛成だ。戦後教育の中で国を愛する気持ちを養う面が 欠けているが、そうした点にも目を向けるべきだ」と発言。記者会見も同主 旨。文部省が困惑。(p160) 8/14 文部省が翌年度から小中全教科の学力調査を 1 %を対象校に 3 〜 4 年 実施の方針。 10/7 岐阜県議会、教育基本法改正求める決議。(学校小六法 760) 10/15 衆院文教委員会で三塚質問、翌年より使用の中学社会科教科書について。 「国を愛すること、言うなれば愛国心でありす、これに触れておる教科書がな い」「ある図書は...核家族がいいのだという記述をしておる」「自衛隊が私 生児でありますがごとき記述を社会科の中でなしておりますことは問題であり ます」など、教科書名をあげて文部省を追及。 この質問の草案は、前年に森本真章筑波大講師らが文部省検定直後の教科書を 入手し作ったもの。 10/22 自民党は教科書について勤評問題当時と同様の対応きめる。政策の地方 徹底の機関「全国組織委員会」の教育問題連絡協議会(町村金五会長)に「教科 書に関する小委員会」おき、小委員長に三塚。(p163) 11 月、82 年 4 月から高校新入生が使う教科書の検定はじまる。(p166) 経団連外郭団体「経済広報センター」は内部資料「経済教育」をまとめ、社会 科教科書が「公害を産業公害の面のみからとらえている」「独占についての記 述は最も問題が多い」「社会発展のうえで企業のはたしてきた役割りについて の説明がほとんどない」などと批判。(p164) 12/4 文教部会(森喜朗)・文教制度調査会(海部俊樹)の合同会議。戦後教育の 洗い直しの方針決定。文教部会に高等教育問題・教員問題・教科書問題の三小 委員会、調査会に教育基本問題・学制問題の二小委員会。全国組織委の教科書 小委員会も、三塚が小委員長となり合流。自民党による「戦後教育総決算」の スタート。(p164) {\bf 1981} 1 月 前年 10 月の三重県尾鷲をはじめとする中学の校内暴力をうけ、警察庁 は卒業式を控え警戒強化の緊急通達。学校教育に世論の批判。 2/4 民社党書記長塚本三郎、衆院予算委員会で「教科書は共産主義の先生方が おつくりになる」など。森本の資料使う。(p164) 3/3 自民党役員会、広報委員会・国民運動本部・全国組織委などによる全党的 教科書キャンペーンの方針。5 月 教科書問題小委も「教科書法」制定の方針。 日教組、抗議の国民集会。以後教科書執筆者や学者文化人の声明あいつぐ。 3/24 全国で唯一主任制を実施していなかった沖縄県教委、制度化へ。(学校小 六法 760) 4/9 鳴門教育大設置のため国立学校設置法改正、6/4 には放送大学学園法成立。 (学校小六法 760) 5 月、自民党文教関係議員合同会議。文教部会長経験者の藤波、西岡(79 年 7 月に復党)や文部大臣経験者の坂田、砂田、灘尾ら、三塚方針を次々批判。灘 尾は文相時の教科書法制定の動きを例にひく。ベテラン文教族は「運輸族」 三塚の独走に強い不快感。しかし党の大勢かわらず。(p165) 6/5 文教部会・文教制度調査会、三塚教科書問題小委の改革案了承:以下の内 容。(p166) (一)文部省は検定を厳正に行うよう努力する。 (二)学習指導要領を見直す。 (三)検定に当る教科書調査官を増員する。 (四)教科書の採択地域を都道府県単位に拡大する。 (五)教科書法の制定を検討する。 7 月 はじめまでに、82 年 4 月から高校新入生が使う教科書の検定終わる。 \footnote{ 家永三郎他「新日本史」の場合、検定審査のために 80 年 9 月 5 日に原稿本(「白表紙本」といわれる。検定の公平のため表紙が白い。) が提出された。条件付き合格処分の後、1 月 26 日に修正意見・改善意見の口 頭告知。計 400 個所以上。 文書による開示をとの要求書には、1 月 30 日に藤村和雄検定課長が 口頭で拒否。2 月 2 日および 3 日午後 に、検定調査官の時野谷滋・森茂暁 の 2 人から 執筆者家永(初日病欠)・協力者(2 日 2 人、3 日 1 人) および出版 社員(同、同) への修正意見・改善意見(法的拘束力なし)の口頭告知。その詳 細が、録音および執筆者側出席者の記憶をもとに、 「第 3 次家永訴訟」のための裁判所提出資料としてまとめられ 家永三郎作成、「密室」検定の記録 -- 80 年代家永日本史の検定 (名著刊行会、1993 年) として出版されている。 同書 111 ページによれば、教育基本法 10 条の「教育行政の限界」を説明す る高橋文相の議会答弁(1947 年の項に同じ)にも、「意味がとりがたい」と 「改善意見」(法的拘束力なし)が付された。 また、同書 20 ページまでによれば、 検定意見に対する書き直しを記入した「内閲本」は、法的拘束力のある「修正 意見」にはなるべく異議をしない方針によっても時間がかかり、3 月 9 日に 提出された。修正部分に関する検定官との議論ないし調整(内閲調整)は数次に かけて行なわれ、「改善意見」への「修正拒否理由書」も 2 回提出された。 5 月 16 日に内閲審査済となったあと、組み替えや図版さし替えなどを経て見 本本が印刷され、これが審査済となったのが7 月 8 日で、教科書採択のため の展示会は 10 日に延期されていたが、その 2 日前であった。教科書に は「昭和 56 年 3 月 31 日文部省検定済み」と記された。 「新日本史」は 1963、64 年(昭和 37 年度、38 年度分)にもすでに 検定合格を得ており、その際の不当を訴えたのが第 1 次家永訴訟である。 後に一度不合格とされた 1967 年の訴えが第 2 次。全面改訂された 1980 年の本についてが第 3 次訴訟。合格に要した日数はこのときが最も長かった。 % これだけ歴史について議論するなら、作業を % 公開して学問の場に記録を残すのが後世への遺産というものだろう。 % そうでなくては不毛といわれても仕方ないのでは。 } 「現代社会」では憲法の歴史的記述の削除、自衛隊の合法性や北方領土問題の 明記が求められた。権利、核、原発、企業、経済の記述も。(p166) 7 月、第二次臨調(臨時行政調査会)の第一次答申、教科書無償の廃止検討を提 案。文部省と自民党文教部会は抵抗。(p166) 8 月 「教科書問題を考える市民の会」結成。12 日、文部省は社会科担当の 教科書調査官 6 人の増員きめる。教科書小委員会案実行の第 1 弾。 (p166) 10月 鳴門教育大学開学。 11/24 田中文相、文教族の積極と文部省の消極にはさまれる中、中教審に「時 代の変化に対応する初等中等教育の教育内容などの基本的あり方について」諮 問。諸沢事務次官が、教科書制度見直しは早い時期の結論をと補足要請。党の 圧力に屈した形にならぬよう教科書以外も諮問。(p167) 中教審会長は高村象平。教科書問題小委員会(座長吉本二郎、大正大教授)と教 育内容小委員会(座長辰野千寿、上越教育大学長)設け審議はじめる。(p168) 中教審答申待ちで党内一時鎮静の一方、教科書問題につづき小委員会提 言まとまる。 ・教育問題小委「教員の資質向上に関する提言」。教員免許に期限、更新時の 研修義務、採用後一定期間の「試補」制度、退職教員による新任教員へのアドバイ ザー制度など。 ・教育基本問題小委「心の教育を推進するための提言」。小中における道徳教 育の充実、バウチャー制(学校の自由選択)の検討、選択科目制大幅導入、中高 一貫教育の検討、集団宿泊訓練の実施など。 ・高等教育問題小委「高等教育の整備改善に関する提言」。長期計画策定、適 性配置、社会人への解放、国公私の役割分担の明確化、一般教育の改革、新し い大学院の創設、私大の共通一次試験参加、自主努力に応じた私学助成など。 ・学制問題小委も 12 月、飛び級や大学の 9 月入学などの小委員長試案。 (p168) 試補制度(条件付き採用)に日教組強く反対。(p187) 11/30 鈴木内閣改造。小川平二文相( < 商工行政が専門、労相や自治相など < 49 年衆院初当選)。 {\bf 1982} 4 月、最高裁は家永 2 次訴訟を「訴えの利益」があるか審理の必要ありとし、 東京高裁に差戻す。 5 月、このころ中教審小委員会が教科書採択地区を県教育事務所単位程度とす ることでまとまる。 6/25 文部省は翌 4 月からの高校 2、3 年生歴史教科書他の検定結果発表。戦 争記述後退などで、「歴史を歪曲」と中国・韓国・ソビエトから非難。 7/23 国土庁長官松野幸泰、韓国の非難に対し「場合によっては内政干渉に なると思うので、毅然たる態度で臨んでほしい」と小川文相に伝える。この日 小川は日教組槙枝委員長と会談、小川が「教科書は内政問題」と発言したかで、 双方が「槙枝君はウソつき」「文相こそ卑劣」と争う場面も。 7/26 肖向前・中国外務省第1アジア局長が北京の日本大使館に正式抗議。韓国 政府も外交ルート通じ事実関係を紹介。検定が外交問題に。三塚ら困惑。 7/27 文教部会・文教制度調査会の合同会議。この年から部会長の石橋一弥、 「教科書はそれぞれの国の歴史的立場をふまえた問題で、あくまで国内問題 だ」。強硬な三塚も中国や韓国に申し入れ拒否はできず、「真意を説明したい」 の文部省方針を了承。 外務省は 9 月に日中国交正常化 10 周年の首相訪中を控え、文部省に早期解 決を迫る。家永裁判が懸案の文部省、検定撤回もできず苦慮。外務・文部両省 幹部が訪中するが、中国も韓国も硬化。 8/26 宮澤喜一官房長官、談話の形で「批判に十分耳を傾け、政府の責任にお いて是正する」の政府見解。「あいまいだ」と中国なお不同意。 9/9 政府さらに補足説明で、外交問題としては結着。(pp170-171) 10/12 鈴木、退陣表明。 11/27 党公選は中曽根康弘を選出、文相瀬戸山 三男(< 建設相、法相など< 衆院初 49 < 都城市長 < 判事)。 中曽根は鈴木内閣の行政管理庁長官時代、行政改革(第二臨調)の次は「教育大 臨調」、「中教審程度の」「技術論ではなく」「教育体系の基本的あり方まで 掘り下げるような教育大改革があってしかるべきだと思う」と発言 (1981.7.27, 国策研究会会員懇談会で)。(p172) {\bf 1983} 2 月 瀬戸山文相、子供の非行問題で「根源は占領政策」と発言。訪米中の中 曽根首相、「日本を不沈空母に」発言。(p172) 3/11-12 中曽根首相は参院予算委で、日教組は政治に踏み込みすぎ、教師が 闘いなどというので子供が暴力的になるのでは、などの発言。 4/1 放送大学開学。(学校小六法 761) 6/1 文部省、出席停止や校内暴力の調査発表。(学校小六法 761) 6 月 首相、参院選で教育問題とりあげる。6・3 制や入試制度の見直しも触れ、 14 日に私的諮問機関「文化と教育に関する懇談会」(座長井深大、ソニー名 誉会長)。 6/30 中教審答申。検定基準の明確化、採択地区の広域化など自民党案にそう内容。 同日、文部省は中高社会科教科書の検定結果を発表。愛国心や自衛隊の記述に チェック厳しさ増す。自民党に再度「教科書法」制定の動き。(p171) 7/19 日教組第二次報告提出 (学校小六法 761) 7/28 文部省、首相に呼応し教育制度見直しのプロジェクトチーム。(p172) 11/16 中教審 2 年の任期切れる。教育内容小委員会、前日に「審議経過報告」。 11/24 小中高の教科書検定基準一部改正。(学校小六法 760) 12 月、総選挙で教育焦点。 中曽根は 12/4、神奈川県内の街頭演説で「6・3 制は アメリカの個人主義を中心とした教育体系で、その背景にはキリスト教がある。 日本は敗戦で儒教や仏教の教えが尊重されなくなち、このため教育が荒廃し、 ツッパリが増えた」など。 12/7 には大阪で「行革は軌道にのった。次は教育改革」と述べ、12/10 には 学校体系の見直し・偏差値依存是正・情操道徳教育の充実など「教育改革 7 つの構想」を発表。 % 12/18 総選挙で自民大敗、34 減の 250。瀬戸山、西岡、谷川和穂ら文教族落選。 12/27 中曽根第二次組閣、森喜朗文相。 {\bf 1984} 中曽根臨教審はじまる 1/4 伊勢で中曽根会見、教育改革について「今月中に中教審に諮問したい」。 下旬に方針転換、「首相直属の審議会を作る」(教育臨調)。党内でも「教育の中 立性に疑問」「屋上屋」などの反対、文教族も自負から反発。 中曽根は反対派を個別に説得、30 日には坂田道太に協力要請。31 日の文教部 会・文教制度調査会幹部会で直属の審議会設置がきまる。文教族は首相直属に 警戒も大蔵省への効果計算。 1 月、家永教授が東京高裁に 3 次訴訟。80 年度検定処分の損害賠償求める。 2/8 衆院本会議で自民党福田派(非主流)の藤尾正之政調会長が代表質問、「党 の政調に立派な部会や調査会があり、その下でも政策の策定はできると思う」。 党を信用せぬかの主旨、与党異例の政府批判。 2/26 反日教組系の教員組織「日本教職員連盟」「日本新教職員連合」が統一、 「全日本教職員連盟」(全日教連)の結成大会。(学校小六法 761) 3/5 文部省、中野区の教育委員準公選を違法とし、区長に中止勧告。(学校小六法 761) 3/27 国会に「臨時教育審議会設置法案」、審議難航。委員を国会承認人事に 等の修正で、8/7 に成立。 6/28 文部省組織例全文改訂。(学校小六法 761) 7/1 総務庁発足、戦後初めての中央官庁統合。(学校小六法 761) 9/5 臨教審発足。会長に岡本道雄、元京大学長。4 部会を設置。 第一: 21 世紀を展望した教育のあり方、 第二: 社会の教育諸機能の活性化、 第三: 初等中等教育の改革、 第四: 高等教育の改革。 中曽根側近グループの威勢に、当初から委員間にきしみ。 9/27 臨教審第 3 回総会で、学習院大の香山健一が「教育の自由化」論の文書: 「教育改革の基本方向についての提案」。 ・「教育行政改革による教育の自由化の断行、多様化の推進と競争メカニズムの 導入が、今次教育改革にとって戦略的重要性を持つ」 ・「教育行政分野における許認可、各種規制、補助金等の全面的な見直し、教 育分野への民間活力の積極的導入、教育行財政改革の断行等。 例えば、教育基本法の第四条、第六条の改正をも含む、学校の民営化、塾の合 法化、選択の自由の拡大と競争メカニズムの導入が不可欠」 などの主張。%香山らは戦後教育は文部省の規制と日教組の平等主義で画一化 が進んだので、21 世紀を担う人材育成が不可能。規制を減らした自由競争で 教育に活力入れよ、と。商品経済的議論。日教組と文部省双方を攻撃、文部省 解体論も。 文部省反発の他、自由化論者優勢の第 1 部会と文部省寄り優勢の第 3 部会 (部会長有田一寿)が衝突。有田「満身創痍になっても切り死に覚悟で自由化を 阻止する」と決意。85 年はじめにかけ論争。(p177) 自民文教族、戦後の成果に自負もあり自由化警戒。 10/31 党衆参両院議員総会で中曽根総裁再選。翌日内閣改造、文教族の松永光 が文相(党政調副会長など < 衆院初 69 年 < 松永東の養子 < 弁護士 < 検事 < 早大)。 {\bf 1985 } 1/31 文相経験者 8 人、岡本ら臨教審幹部と会談。稲葉「義務教育や教科書の 内容などを自由化するのはおかしい」、砂田「子どもをモルモットにはできな い」など、自由化論批判。10 月まで文相の森も「臨教審では国民の求めるも のと違った次元で議論が進んでいるのではないか、国民は学者の議論を期待し ていない」。党が牽制。 2/5 大学設置基準と短大設置基準の一部改正、教員資格弾力化。(学校小六法 761) 2/9 衆院予算委で中曽根「生徒の適性に応じて自由に考える必要があるという 意味で、私が自由化論者、弾力化論者と言われてもさしつかえない」。18 日 も「画一主義、平等主義が公平、無差別であるという間違った観念が改革を阻 んだ面が非常にある。自由化と表現される内容もあえて辞すべきでない」と答 弁。自由化論者元気に。 「自由化」を「個性主義」と直すも、代理戦争で臨教審内部の対立激化。 いじめで子ども自殺の間に抽象論と、文教族不愉快。 3/14 党教育改革特別調査会(森会長)、臨教審に「6 月の第一次答申は、教育 が原因になって生じている社会の病理現象の改善策を中心に」と要望。 6/3 臨教審第一次答申まとめ難航の中、文教族が臨教審に注文:「規制緩和」 というが強化すべき規制もあること、教育財政重視を盛ること。 反自由化派の臨教審委員:%席上「 首相の側近といわれる委員が「首相はすでに筋書きを書いている、自分はそ れを体しているだけ」といわんばかり、首相は自由化を決断しているのでは。 と、首相と文教族のくいちがいを詰問。 「詰問」の内容首相に伝わり、首相は松永文相呼ぶ。 「義務教育は国の責任で行うべきもの、 軽々しく自由化を言うべきであに」と軌道修正。今度は臨教審が狼狽、できて いた答申原案の「改革の基本的考え方」に、改革推進には必要な財政措置が考 慮されるべきと加筆。 教育財政は一度も議論してなく臨教審荒れる。自由化派は教育も聖域でない、 行革の観点で見直せと削除要求。結局どちらともとれる「国家財政全般との関 連において、適切な財政措置が講じられなければならない」になった。 (p180) 「規制緩和」についても同様の問題。 6/26、中曽根に臨教審第一次答申。「国公私立任意参加の共通テスト」「単位 制高校」「6 年制中等学校」など提言するが、重要部分で分裂のまま。 ほかに「道徳教育の活性化」「国を愛する心を育てる教育、日本文化の個性を しっかりと身に付けさせる教育」など。(p180) 中山素平臨教審会長代理(< 中曽根財界人「弘基会」有力者)「いま大事なのは 心の問題で、国に対する求心力が必要だ。国家主義と呼ぶのが適切かどうかは 別として、臨教審が求めているのもまさにその心の問題なのだ」。 なお、中曽根教育臨調で唱えられた教育自由化論は フリードマンの新自由主義論の影響: cf. シュルツの影響下の 61 年白書。(Ref: Prof Uzawa's book.) 臨教審は一次答申のあと、 ・21 世紀に向けての教育の基本的な在り方、・高等教育の改革、 ・教員の資質向上、など 8 課題を設定し討議。 不適格教師排除の「教職適格審議会」も。 9/5 文部省、全国小中高校の君が代・日の丸実施状況を発表。各教委に 「国旗と国歌の適切な取扱いの徹底」を求める通達。指導要領の 「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」より一歩踏み込む。 「地方議会などで国旗と国歌をめぐる掲揚、斉唱決議が相ついでいるが、 こうした「戦後」に結着を求める世論動向などとも勘案した」と説明。(p187) 9/17 自民党が教育改革特別調査会内に、基本問題検討委員会(海部委員長)と 学校教育等検討委員会(砂田委員長)。前者に基本問題・教育行政、後者に初等 中等教育・高等教育・入試問題の計 5 小委員会置き改革案作り急ぐ。80 年 12 月の小委員会方式が復活、文教族の臨教審介入姿勢。 11/13 熊本丸刈り訴訟、地裁が訴え退ける。(学校小六法 761) 12/28 改造中曽根内閣、文相海部俊樹。文相経験の文教族有力者に党と臨教審 の橋渡しを期待。(p181) {\bf 1986} 1/22、臨教審「審議経過概要その 3」発表、「画一化、硬直化、現場の創意工 夫意欲の減退、他律性の助長にしかつながらないような過度に瑣末主義的・形 式主義的な統制・管理の行政体質は改革されなければならない」の記述。的得 る指摘だが分析なし。(p185)(明かに自民党の口出しが原因では。) また、 「21 世紀を展望するとき、全体の大きな流れとしては、画一よりも多様を、 硬直よりも柔軟を、集権よりも文献を、統制よりも自由・自律を重んじるよう な諸制度や施策が一層導入されなければならない」とし、そのために 教育委員会活性化をとうたう。(p186) (この点でも、終戦後の分権的教育委員制度を 壊滅させたのは保守合同直後の自民党。) \footnote {「自民党と教育行政」最終節より: これまでの戦後の歴史の流れにそって、自民党が教育とどのように関わってき たかを概観してきた。 そして今改めて感じることは、多くの政策決定に教育の論理とは全く異質の政 治の論理、経済の論理が強く働いていること、しかも時には、ある一人の政治 家のカン高い声が引き金となって、重要な政策がひとり歩きを始めるという異 常さである。 学校で何を教えるかという、純粋に教育的な立場から論議されなければならぬ 問題にまで政治が介入し、学校に大きな混乱をもたらした。 % 経済の高度成長という目標を達成するために、教育に能力主義、効率主義が導 入され、教育の荒廃と呼ばれる諸現象を生み出した。 % 教員政策にしても、すぐれた教師を要請し、その教師がすべての力を教育に注 ぎ込むような環境をつくることには全くといってよいほど関心を寄せず、ほと んどが日教組対策、どうやって日教組の力をそぎ、組織をつぶすかだけに終始 した。 自民党は常に、教育を日教組の手から取り戻すのだ、といい続けた。しかし実 際に、日教組が教育をわがものにしたという時期があったのだろうか。 % 自民党はただ、教育を自分の思い通りのものにしようとしたにすぎなかったの ではないか。 教育がこのような政治の論理だけに動かされることが、教育の偏向だろう。教 育基本法第 10 条は 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って 行われるべきものである」 としている。 (注:これに続いて、教育行政の限界を示す第二項がある。: 「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整 備確立を目標としなければならない。」 ) これは政治に対しても強い自制を求めた条文だといえよう。 一口に教育政策といっても、その内容は実にさまざまだ。教育制度全般に影響 を及ぼすようなものもあれば、ほんのわずかな補助金を伴うだけといったもの もある。 ある政策は猛烈な反対運動が起こって世論をわかし、ある政策はだれも注目し ないままに、ひっそりと実施に移される。 しかし、確実にいえることは、どのような政策であれ、必ず子どもたちに何ら かの影響を及ぼすということだ。ましてやその政策が、一人ひとりの子どもの 豊かな成長をはかるという、教育にとっては最も根本的な姿勢とはかけ離れた ところで決定された場合、教育破壊は決定的なものになる。 教育の改革は、すべての先進諸国が苦闘しているように、極めて困難な課題で ある。 一歩一歩、足の地についた地道な努力の積み重ねが必要である。しかし、``改 善''は困難だが、``改悪''はたやすい。ゆがんだ政策が実施されたら、明日に 日にも子どもたちの上に害毒が現われる。 いま、教育改革にとって最も必要なことは、どこまでも教育の論理に立って教 育の現状を見つめ直し、開かれた場所で民主的に論議を重ねることだろう。そ こでは、言うまでもないことだか、学校教育の第一線に立つ教師と、子どもっ ちの成長に直接の責任を負う親たちの声がまともに反映されなければならない。 % だれかの個人的な体験や一時の思いつきなどに左右される --- 臨教審にはそ の傾向が強いが --- のではなく、教育学、心理学、社会学など諸科学の成果 が積極的に動員されなければならない。 臨教審だけにまかせておける問題ではない。ましてや政治が、あるいは行政が 必ず期待通りに動いてくれると考えることはおそらく幻想だろう。権力は、往々 にして傲慢であり、不遜だからだ。 教育改革のためには、教師が、親が、みなが声をあげなければならない。その 声が高まり、大きなうねりとなり、強い力をもったとき、はじめて教育に新た な展望が開けるのではなかろうか。 } 3 月、家永第 2 次訴訟控訴審で、東京高裁は原告側全面敗訴の判決。家永教 授は上告。 10/1 人事院が国家公務員の 4 週 6 休の試行基準、総務庁に一年間の試行実 施を要請。(学校小六法 761) {\bf 1987}中曽根臨教審解散 共通 1 次の理科受験科目、の年から 1 科目に。 4/1 臨教審第 3 次答申。 6/8 日教組結成 40 周年式典 8/7 臨教審は最終答申を提出、20 日解散。 10/6 教育改革推進大綱を閣議決定。 11/6 竹下内閣。中島源太郎文相。 12/18 教員養成審議会答申、12/24 教育課程審議会答申。 {\bf 1988} 国鉄民営化。 加藤寛ほかの慶應人脈、このころより中央で台頭。 5/31 教育公務員特例法改正、初任者研修の強化。 12/27 第二次竹下内閣、西岡武夫文相、小渕恵三官房長官。 12/28 教員免許法改正、種類と必要単位数の改正。 {\bf 1989}指導要領改訂。昭和 64 年 = 平成元年。天安門事件。 1/7 昭和天皇死去。 3/28 前文部事務次官高石邦夫、収賄容疑で逮捕。リクルート事件の一端。 % 福岡?の教育長だった?そこから出馬のための資金? 6/2 竹下退陣で宇野内閣、西岡文相再任。 6 月、天安門事件。 8/10 海部内閣。石橋一弥文相。 \section{90 年代・バブル経済と「失われた 10 年」} {\bf 1990} 東西ドイツの統一。 1/30 中教審答申「生涯学習の基礎整備について」。 2/28 第二次海部内閣、保利耕輔文相。 7/6 兵庫県立高校で校門圧死事件。 10 月 東ドイツで越境に際して査証を緩和する決定、この誤報から ベルリンの壁を東西市民が自由往来はじめ、東西ドイツの統一に。 {\bf 1991} ソビエト連邦崩壊 4/19 中教審答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」。 5/17 大学審答申「5 年度以降の高等教育の計画的整備について」「大学院の 整備充実について」「大学設置基準等および学位規則の改正について」。 11/5 宮澤喜一内閣、鳩山邦夫文相。 12 月 ソビエト活動停止、連邦内諸国の再出発。 ロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国の「独立国家共同体」。 {\bf 1992} 学校も週休 2 日へ 3/23 学校教育法施行規則一部改正。学校 5 日制(一部)実施のため。 7/27 戸塚ヨットスクール事件有罪判決。名古屋地裁。 9/12 学校週休 2 日制はじまる。 12/12 宮澤改造内閣、森山真弓文相。 {\bf 1993} 自民党野党に。 1/13 山形県新庄市の中学でいじめによる窒息死。 2/10 神戸地裁、校門圧死事件で有罪判決。 3/16 第 1 次家永裁判最高裁判決、家永氏敗訴確定。 8/9 細川連立内閣。赤松良子文相。 10/20 第 3 次家永裁判、家永氏一部勝訴。 {\bf 1994} 社会党与党に、自民と連立し村山内閣。 1/31 中野区教育委員の準公選制廃止決定。 3 月 自民党科学技術部会(尾身幸次部会長)、「科学技術基本法」制定を目指 し検討開始。その後自民・社会・さきがけの与党 3 党の科学技術調整会議で も検討開始。 4/28 羽田内閣。赤松良子文相再任。 5/20 東京地裁、中野区立富士見中「いじめ」自殺事件でいじめの存在認定。 5/22 「児童(こども)の権利に関する条約」発効。 6/21 専修学校設置基準改正により、修了者に「専門士」。 6/30 村山内閣。与謝野馨文相。 12 月 自民党科技部会に科学技術基本法小委員会(尾身委員長)、第一次素案。 連立与党に加え新進党も協議に。 {\bf 1995} 阪神淡路大震災(1 月 17 日)、地下鉄サリン事件(3 月 20 日)。 5/27 川崎市教委、市立中卒業生に内申書全面開示。 5 月 連立与党内に科学技術基本法検討プロジェクトチーム(さきがけ・渡海 紀三朗座長)。 8/1 第二次村山内閣、文相島村宣伸。 10 月 新進を加えた 4 党共同で科学技術基本法案提出、11 月成立。 1968 年に提出された「科学技術基本法案」では、人文科学および 大学で行われるべき研究は対象外とされ、廃案の一因に。この点 を改善した案だが、盛り込まれた理科教育の振興などは法 律制定後も改善がみられない。また、その後競争的経費の過度の重視で研究 を歪めるとの指摘も。 \footnote{ 菊健一「知っておきたい科学技術基本法」p 36, 大蔵省印刷局。 より詳しい経緯は以下のとおり。(同p3) 10/19 与党チームで新進党の意見を盛った法案決定, 10/20 与党政策調整会議・院内総務会で法案提出決定。ついで 10/27 新進党も。同日 4 党が衆院に共同提出。 10/31 衆院科学技術委員会で審議可決、付帯決議。衆院全会一致可決を経て 11/1 参議院科学技術特別委員会で審議可決、付帯決議。 11/8 の本会議経て成立。 } 12 月、経済企画庁「構造改革のための経済社会計画」。(「検証」p126) \footnote{ 軽部謙介、西野智彦「検証 経済失政」岩波書店} {\bf 1996}橋本行革 %この夏、O-157 食中毒事件。 1.11 橋本内閣。文相奥田民夫。 % 総務庁が不要との声をよそに、 行政改革、次第に総務庁が主導権をとるようになり、のちに 独立行政法人(通則法下の組織)の改廃権限を握ることに。 7/16 児童生徒の問題行動等に関する調査研究協力者会議報告 「いじめ問題に関する総合的な取組について」。 7/29 中教審審議まとめ「21 世紀を展望した我が国の教育のありかたについて」 %この夏、O-157 食中毒事件。 11/8 第二次橋本内閣。小杉隆文相。 {\bf 1997} 金融破綻の経験 1/24 文部省、「教育内閣プログラム」を橋本首相に報告。 % 1/27 文部省通知「通学区域制度の弾力的運用について」(学校小六法 761) 1 月 橋本首相、財政改革構造会議を主宰。このころ、大蔵省主計局で 4 月からの消費税引き上げ・特別減税廃止・医療保険改革をはじめて合算。 国民に計 9 兆円の負担増発生が明かに。(「検証」p135) 2 月 橋本首相、国会で 9兆円問題を追及され「先送りはできない」と答弁。 %北海道開拓銀行と日本長期債券銀行の合併再建案。 8 月 下旬以降、アジアで通貨危機。 9/11 第二次橋本内閣。町村信孝文相。 11 月 3 日に三洋証券、17 日に拓銀、24 日に山一證券が相次ぎ破綻、金融不安深刻。 経済悪化で橋本行財政改革行き詰る。 11/17 教育課程審議会「中間まとめ」(学校小六法 761) {\bf 1998}指導要領改訂 2/24 町村文相、小中高の完全週休 2 日化を一年前倒し、2002 年からと発表。 なお 1 月には少年による教師刺殺事件があった。 6/30 中教審答申「幼児期からの心の教育について」。 7 月 橋本内閣、参院選大敗で退陣。 自民・自由・公明の連立政権に。首班小渕首相。 文相有馬朗人( 参院比例区 < 中教審会長 < 東大総長、決選は同数で籤引き< 原子物理)、のちに行革担当の続総務庁長官(公明推薦 < 都副知事) と会談で国立大学の法人化を容認。 7/23 理科教育および産業教育審議会、2003 以後の専門学校課程を答申。 9/21 中教審答申「今後の地方教育行政のありかたについて」。 10/26 大学審議会答申「21 世紀の大学像と今後の改革方策について -- 競争 的経費の中で個性が輝く大学」。 11/15 朝日朝刊に「学級崩壊」の記事。 12/14 小中の改訂学習指導要領の告示。 {\bf 1999} ゆとり教育批判高まる。 1/28 文部省、98 年度の「地方教育行政調査」発表。 市町村教委の女性割合 17 %で過去最高。 2/28 この日の朝、石川敏浩・広島県立世羅高校長宅に県教委職員が訪れる。 おって県教委幹部が、卒業式での日の丸と君が代実施するようにと説得にくる、 の内容。広島県教委と教職員組合との間の協定では強要しないこととなってお り、校長は卒業式でのあつかいに苦慮して自殺。 \footnote{ 岩波書店「世界」増刊「ストップ自自公」p180, 竹村素子(民主党参議)による。 } これを契機に政府法制化に動く。以後、学校行事での国旗・国歌の義務厳しく。 4/6 日教組の小学校担任教師調査結果。「担任やめたい」と思ったことある教師 35 %。 4/28 総務庁、こども人口が 18 年連続減少と発表。 6/23 文部省、新指導要領への移行措置を官報告示。 総合的学習の時間の新設、授業時間の弾力化やグループ指導を 12 年度から可 能に。 7/2 独立行政法人通則法公布。 国立大学の独立行政法人化に対し、 地方大学および自治体、各種学会などが懸念や反対声明。 7/31 愛媛県教委、県教組の採用試験公開請求に応じ 96〜98 年度分全面公開。 8/9 大学院審議会「入学者の選抜について」答申。 9/21 文部省「教育改革プログラム」の第 3 回改訂。 10/5 第二次小渕内閣。中曽根弘文文相、新設の文部政務次官に川村建夫。 12/7 文部省教育白書「我が国の文教施策 - 進む「教育改革」」 12/10 教員養成審議会「養成と採用・研修の連携の円滑化について」第 3 次 答申。 12/16 中教審「初等中等教育と高等教育の接続の改善について」答申。このこ ろから「ゆとり教育」の弊害として大学新入生の学力低下問題「分数のできな い大学生」など、京大でも物理など の補習授業。省内からも異議。答申に際し 文部省は 11 月一般の意見募集(パブリック・コメント、ただ し A4 一枚)。文部官房の寺脇研ら反論に躍起、論争。 \section{ 21 世紀へ。市場原理主義と教育%の経済化 } {\bf 2000} 「物理学の世紀」最後の年。 国立大学の独立行政法人化問題で、国大協は文部省の検討会議参加を決定。国 大協にも対策の常置委員会。 3 月、自由党小沢党首との会談後小渕首相倒れそのまま鬼籍に。村上正邦氏 ら 5 人の裁定で、後継に文教族の森喜朗。( < 元党幹事長・建設相・通産相・ 文相 < 福田赴夫秘書を経て当選 < 産経記者 < 早大雄弁会。衆院当選11 回・石川2区 )。 4/5 首班指名、閣僚全員を留任。5/15に「日本は天皇を中心とする神の国であ るぞ」の発言他、6/20 衆院戦遊説で「無党派は寝ていてくれれば」など、失言多数。 6/25 総選挙、与党 3 党で議席減だが委員長独占の絶対安定多数。自民は大臣 経験者ら多数落選。7/4 森改造内閣。 11 月 文部省は教育白書で学力低下説を否定。西村教授、上野教授(ともに京 大)ら、2002 年の指導要領実施中止求める署名運動。 12/5、第 2 次森改造内閣。町村文相(北海道 5 区)、就任時の NHKインタビュー に「学校で学ぶ細いことは役に立たない」主旨の発言。奉仕活動に意欲。科学 技術特命大臣に笹川尭氏。(党総務副会長 < 郵政政務次官 < 群馬 2 区 5 回、橋本派 < 明大中退 ) 12/22 町村文相が補佐官として担当した、小渕総理設置の私的諮問機関「教育 改革国民会議」が最終答申。議論と現場とのズレが参加した教師からも指摘さ れる。奉仕活動など導入を提案。 {\bf 2001} デフレ経済、「政治不況」 1 月 省庁再編で、文部省は科学技術庁と合併し文部科学省に。組織改変で 大学審議会が中教審の下に、国語審議会廃止など。 国立大学の改革に向け、大学評価機構による評価はじまる。 2 月 ものつくり大学疑惑で、国会の憲法調査会会長だった%も務めた 村上正邦自民党参院議 員会長逮捕。KSD (中小企業福祉事業団)に請託をうけ国会質問し金銭授受の他、 大量の架空自民党員を作る公文書偽造により参院比例名簿順位でも利益の疑い。 KSD 古関理事長は新大学の理事会に一族を送る意向、文部省は前年に KSD と の縁切りを条件に 4 月開学を認可した。 2002 年から使用の教科書検定で、「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝 ら)の検定本が多数の修正に従い合格の見通し。各国から懸念の声。「つく る会」の教科書の母体となる「国民の歴史」は前年扶桑社が出版。 3.9 京大有志の「独立行政法人を考える会」(代表:基礎物理学研究所益川敏 英教授)主催のシンポジウムで、丸山正樹教授が文部省の独法化作業日程を「5 月連休明けまでに素案か」と感触を報告。 3.12 内閣支持率 9 %の中で自民党大会。森首相事実上の退陣表明、しらけムー ドで中途退席多数(3/13各紙)。株価低迷。 国会も混迷し、「国会崩壊」の評。日本国債の格付け下落で世界同時株安。 3.14 石原知事の都教委、勤務時間中の組合活動は校長の許可必要との規則に 基き、過去 5 年にさかのぼり教員の勤務状態を調査。総額 1 億 3 千万の給 与返納を要求。最高で一人 250 万円。校長と教頭 80 人を規則違反で処分。 4 月、国立環境研究所や大学入試センターなど、独立行政法人に。他に博物館、 美術館など多数。研究活動の維持に多方面からの警鐘。 \end{document} % 感想:日教組つぶしがせめてあれほどでなく、また教育系大学の尊厳もまも % られていれば、どの地方からでもやがて世界一流の研究者になる人材を輩出 % できていたのではないか? 理系に限らず、地方の行政も文化もレベルが上 % がったであろう。これからはぜひそのようなことがない時代であってほしい! % そのためにも、文教族を名乗る人には博士号くらい持っていてほしいものだ。 % それも名誉博士などでなく。(2001.3.15)