12 月 8 日の「インターネット・ディベート」批評:一橋大学は学費を下げよ (2001.12.20 加筆)

石氏は一橋大学の学長を務める傍ら、政府の税制調査会の長も務めておられる。 (そのような多忙の氏にそもそも多くを期待することはできないのかもしれない。) その中で学費の問題について楽観的な見通しを述べたことは、 苅谷氏が 教育環境の今日的課題としている意欲格差(インセンティブ・ディバイド、 NHK 人間講座・第 6 回参照)と階層化の問題に対し、認識の甘さあるいは 意識的な無視を意味するのではないか。この点が最も見過せない。

税制調査会では、相続税の撤廃が議論されはじめており、世代をこえた所得格差を 国が認める方向にあるといえるだろう。(農地や文化的建築が 税の対象とされるための問題もあるようだが、 それはナショナル・トラスト的な手法による解決も可能であろう。 現在の議論は景気のためといわれるが、一部の高額所得者によって回る景気が 全体のものになるとは考えられず、 富める者をより富める者にするための制度になることを心配する。参考)

また以下に記すとおり、法人化された国立大学への国費投入の見通しは決して 明るいものでなく、その経営には私学的な努力が要請されうるであろう。 このような中、学費を上げざるを得ない環境に国立大学をおくことを容認するのは、 現在すでに(高い学費などから)充分とはいえない教育の機会均等を 根本から脅かし、すでに(勝ち組・負け組などとして)顕在化しつつある 日本の階層社会化をすすめるものではないだろうか。 楽観論をふりまく氏の思考を私は理解できない。

氏は「沢山の国立大学の中には、学生を募るために学費を下げるところも 出てくるだろう」と述べられたが、学長へのアンケート結果ではそのような解答は 皆無であった。氏がもし可能と考えるならば、 一橋大学は率先して学費を下げるべきであろう。しかし番組から推察するに MBA など(私はその資格の社会的意義を疑問に思う)企業向け講座の開設が 一橋の今後の柱になるのだろう。

(そもそも大学の法人化は、小渕首相当時の「公務員削減 25 パーセント」という 薮から棒の与党政策合意を受けて発想されたものであり、 決して国立大学の今日的意義の議論から起ったものではなかった。 現在の議論は「独立行政法人」の制度を下敷きに進められているが、この制度では 大学の存在理由に直接関わる 独立性の確保もきわめて疑わしく、私にはその実質は「従属官製法人」あるいは「独立強制法人」ではないかと思える。 法人化後の影響として、 受験料収入を経営の基盤のひとつにすることによる 実質的な国民負担増、高校生の青田刈りや入試の安易化による教育への悪影響、 学生数増による教育および研究の希薄化、 短期的成果の上らない研究領域の廃絶などが心配である。 こうした競争は良心的私立大学に対し脅威的でもあり、 この競争によって日本の高等教育の質はむしろ低下すると思う。)

すでに国立博物館や国立研究所が今春から独立行政法人化された。 その例をみると、予想されていたようには自由度が増えず、 また天下りを多く迎える結果が報道されている。士気もあがらないのではと心配する。 (それにしても、多くの国宝の研究・管理が維持できるものかどうか心配する。) 多くの問題点が浮びあがっているが、 経営の点に注目すると、すでに国立博物館では交付金が 5000 万の減額となっている。 また総務庁は 5 % の「自助努力」をベースに経営評価をするといわれている。 評価の結果によっては廃止が通告されるであろうし、評価を通れば 努力した 5 % 分は次回から交付されないとみられてもいる。

このようなフェアでない取り引きは、まるで明治時代の不平等条約を思わせる が、こうした危機感は石氏にまったくみられなかった。 その中で国の重要な文化・学問を教育の機会均等とともに守ることは 今後の世代の責務となるであろうが、それは可能だろうか。 (石氏いわく、「競争になじまない分野が1、2 割はあると思う...」何をベースにしての数字かわからないが、スタンフォード大学でのオーバーヘッド率(大学が得た外部資金の、大学内部における資源再分配のための「税」率)は 5 割だそうである。これをどうお考えになるだろうか。) 当時の諸外国にあたるのは、独立行政法人を監督省庁の上からさらに監査の 対象とする総務庁であろう。 (そもそも総務庁こそリストラの対象となるべきではなかったか。参考: 荻野富士夫「思想検事」岩波書店。 戦前の思想取り締まりは、当局の組織削減回避のための「新たな仕事」として 行なわれたもののようである。(このような研究は、法人化後の大学では 将来的に行い難くなりはしないか。))

そもそも大学に新たな監査を行なうことが必要なほど、大学は閉鎖的とは 思わないのだが、内部の者の身勝手だろうか。 大学で行なわれていることは、講義を聞きたければ聞きにくれば良く、 研究室訪問も歓迎されており、文献をみたければ部外秘でもなく、 一般の公的機関ばかりか企業活動と比しても 充分に開かれていると思う。 そのような企業や行政機関が他にあるだろうか? また討論相手の田中鹿児島大学長が 述べていたように、すでに競争的経費が国立大学の活動の主な支えになっており、 教育研究のための日常経費として消えてゆく。出所も主として文部科学省の 科学研究費しかなく、その当たり外れは「科学新聞」紙上などで公開されている。 (最近は部局ごと年度ごとの成果報告書も作られているが、誰がそこまで 読むだろうかと思う。知識を必要とする専門家が企業などにいたとしても、 論文や研究発表ですでに知っていなければ話にならないのではないか。)

これに対し、政府および文部科学省の中で行なわれる意思決定の不透明こそ 問題である。中央教育審議会の委員の選考過程の不透明はその一例である。 (中央省庁の組織改変によって、これまでの大学審議会は廃止され新たに 中教審の下部組織となった。)

ここ数年来の大学への政府の姿勢には、経団連の意向などが大きく反映している と感じる。財政制度審議会での議論もそれを裏書きする(それにしても、こういう意思決定をする国のいったいどこが「科学技術立国」なのだ。)一方大学関係者からの懸念は、今年ノーベル賞を受賞された野依教授がその一員であった 国立大学理学部長会議による声明すら、充分届いているとは 言い難い。その声明の中で定員削減による研究環境の悪化が 述べられているように、また最近も法人化調査検討会議に対する「中間報告」への 意見表明 (パブリック・コメント)でも危惧されているとおり、 政府の基礎研究への施策はこれまで決して充分ではなかったし、これからは一層 環境の悪化を招くと思われる。

このような中で、中央教育審議会の役割は小さくない。しかしその委員が どのように選考されたか、また発言が誰のものかも、議事録では 公開されていない。これらは直接各種施策に反映するものである以上、それ を知るための情報提供がなされていないことは、 政策の中立性を疑わせるものであろう。 (そもそも中教審には基礎研究の経験がある委員が 伝統的に少ない。 このことも科学技術を打ち出の小槌としてしか見ず、、文化芸術を 「明日への活力の源泉」と矮小化する政府の方針に影響大であろう。) 今後の国の施策に国民の理解が得られるためには、 審議会の構成員の出身母体を明文化し、公開することが最低限必要と思う。 (フランスではそうであり、学生の代表さえ審議に参加する。) また今後の情報インフラ整備により、各種審議会の公開すら近い将来 容易になるであろう。

問題の源を中教審だけに帰すことはできず、 最近では企業の会計制度の「国際化」による企業内研究の困難(これまで 資産であったのが、負債と見なされるようになるらしい)、 より最近では景気悪化に伴う 経済界の 圧力が無視できない。

大学に問題を限っても、 少なくとも「教育の受益者負担原則」を明確に掲げた中曽根内閣に遡るべき 歴代内閣の施策の累積によるというべきであろう。 政府方針により、すでに日本育英会の存亡も危ぶまれている。 万一公開が不可能な水準の議論で、学術研究の存立を危うくし、また 社会の階層化を助長する施策が決定されるなら、 それは政府の国民への背信行為である。

(2001.12.9,04:20)

なお、番組での田中氏の意見(法人化への危惧と地方軽視の訴え)はこれまでも氏の基本的論旨で、同感するところが多い。あえて一点述べさせていただけば、「地方大学連携の構想」のように地域密着型になることで、学問の普遍性が軽んじられることにならないかが心配である。各地で発覚した遺跡捏造問題にみられるように、地域の問題であっても解決には安易な地域振興ですまない普遍性が要求される。地方で基礎学問に触れる機会を得たい学生も、学問が人間の基本的欲求に根ざすからには無視できないであろう。そのような機会を提供するための組織運営も是非おねがいしたいところである。消滅しつつある地方大学の理学部で教育研究にあたられている方も、日本の学問の主要な一翼をになっていることは多い。このような点を田中学長は充分御理解のことと期待したい。

(ちなみに、石氏が大学改革の中心と言った学生による授業評価であるが、すでに多くの大学で実施されており、とりたてて言うほどのことであろうか。これは独立行政法人などにならなくても可能なことであった。)

また現在の法人化案に関する中間報告への広汎な批判としては、次に引用されたものが充実しているのでここにもリンクさせていただく:参考。現状でも悲惨な環境におかれている非常勤講師の不安定な身分の問題についても言及されている。これについても番組でも現在までには問題とされていない。大学の語学教師は非常勤が「常識」となりつつあり、理系でもその傾向が強まるのではないか心配だが、大学で行なわれるべき知識伝達の内容はそこまで甘いものではないのではないか?インターネット・ディベートでとりあげられる予定の保育園問題についてもいえることだが、国会をはじめとする国民の意識が問われる問題であると思う。このような公的部門の軽視は、少子化やそれにともなう不況と無縁ではあるまい。(06:10)

更に追記:12/9、河北新報朝刊記事(1、2 面)によれば、特殊法人の多くを独立行政法人化する自民党行政改革推進本部(太田誠一本部長・慶大卒・福岡 3 区)(参考:国立大学独立行政法人化の密談)の事務局原案がまとまったらしい。国立大学の独立行政法人化の議論の点からも関心を示さずにはおれないが、この自民原案では(以前からささやかれていたように)日本育英会は廃止・業務は他に移管とされているという。詳しい報道がないのが残念だが、マスコミは社会の公器としてもう少し踏みこんだ関心を示してほしい。(ついでながら、私には「インターネット・ディベート」における軽い調子の進行も大いに気にいらない。番組関係者に、社会の大事を扱っているという自覚が不足しているのではないか。)日本の今日を支えてきたのは、地域や身分によらず広く教育をうける機会ではなかったか。

2001.12.20 の加筆:挙げた文献が適当でなかった(お詫びして訂正します)。「思想検事」を再度眺めてみると、戦前の政府による思想調査はどこまでも確信に基くもので、官界のリストラ対策でできた仕事というわけではないようだ。これと平行して青木理「日本の公安警察」(2000 年、講談社現代新書 1488)なる本を読んだための記憶の混乱かと思う。こちらはオウム事件前後の公安調査庁が存在意義をとわれる存在と化していて、そのため市民運動や NPO 的活動をも調査対象とすべく「業務拡張」をはかったことが記されている。もちろんこちらの方が時間的に我々の現在に近い。

またその後、石学長の「税制ウォッチング」(中公新書)を知った。これによれば、石氏は相続税は今後も中心的な税であるべきとの意見で、また政府税調と自民党税調の役割の違いも強調し、政治家のリップサービスが税制をゆがめてきたことも嘆いている。税制の国際比較もされている。あらぬ批判をしたことを反省したい。

しかしである。だったらなぜ、大学の制度についても国際的観点から番組で論じなかったのだろうか。たとえば、このような簡便な制度比較によっても、現在の改革案の問題点はいろいろ見えてくる。特に、アメリカ以外ではおおむね学費は 0 か低額とされていることは共通している。その実現が大学の努力では限りがあることは、日本の私立大学をみれば明らかであろう。現在の国立大学法人化案の本質は法人格をもつことにはなく、この案が(2 年の議論を経た今日もなお)独立行政法人通則法を雛型にしていることにある。学問的努力とまったく関係のない評価にさらされることで活力を奪われ、天下りの増加を招き、民間企業的努力を要請され、まさに官業と民業の「悪いとこ取り」ではないだろうかと思う。こんな制度を大学に適用している国はない。

一方、この日発表された来年度予算財務省原案では、H15 年度より国立大学学費を 3 万 6000(+7.2 %)値上、年間 53万2800 円になる見込みという。(参考)