毎日新聞 2000.6.20 宮城県版一面 「21 世紀を開こう」衆院選の視角(4) 教育刷新の気構えを 笑うに笑えぬこんな逸話を文部官僚から聞いた。 教育基本法を今こそ見直すべきだ、と公言したある政治家。こともあろうか、 その後で「読んでみたい」と、全文とわずか全 11 行の条文に目を通した。そ して言った。「いいこと、書いてあるじゃないか」 今回の選挙戦ほど「教育刷新」の言葉が飛び交う例は過去にないだろう。だが 主張、論調の多くは抽象的で、かみ合わない。かろうじて教育基本法見直し是 非論が旗色を分けるが、それとて、いったい本気で争点としようとする気構え なのかと疑いたくなる。 凶悪少年事件や例外現象ではなくなった学級崩壊、分数計算もできぬ大学生の 出現を前にして、「教育」にその罪を求める論法は理解できぬことではない。 しかし、その何を補縛し、法廷に引き立てようかという段になると、とたんに 雲をつかむような話になる。 とりあえず、教育法令の根本法であるという位置付けだけで、教育基本法はヤ リ玉に挙がった観がある。男女共学や義務教育制度などをうたい、「教育は、 不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべ きものである」と、つましく宣言しただけのこの法と、今、教室で教師を「ク ソババア」とののしる子供には何の因果もない。 (三面につづく) 公教育あてにしない「覚悟」 1997 年の神戸の連続児童殺傷事件や 98 年に続いたナイフ事件を機に文部省 は慌てて「心の教育」を中央教育審議会に緊急諮問した。「難儀だった」と当 時の委員が述懐するように、答申は歯切れが悪く、「学校だけでは手に負えな い」とタオルを投げた。 かつて現場教師の大半を組織した日教組と文部省が与野党を背にイデオロギー 代理戦争を続けた時代、教育問題は相手に起因すると言い募り、原因が除去さ れれば解決すると論じれば足りた。90 年前後の東西冷戦構造の崩壊や日教組 分裂などで対決図式、力関係が変容した今、平たくいえば、難クセの持って行 き場がなくなったように映る。 「不学の戸、不学の人なからしめんことを期す」と明治に始まった近代学制は、 実用知識を中心に公教育を均一・一斉のスタイルで普及させ、産業労働力を満 たし、戦前戦後を通じて経済成長を支えた。昔は渇望の夢であった「豊かさ」 はそれによって実現した。 子供一人ひとりの個室も、近隣からは様子はうかがい知れず、悲鳴も漏れぬ堅 牢な家屋も、人間関係にわずらわされず他人の目を気にせずにすむ生活も、子 供が 30 歳になっても面倒を見る経済力も、その果実といってよい。望んで得 た状況の産物なのだ。 元には戻れない。この現実の上に考えるしかない。 こうなると、教育は基本的に私事と割り切り、公教育はあてにしないという 「覚悟」が一方にあってもいいのではないか。少人数学級の不足など、教育行 政の整備上の至らざるを指摘する声は多い。それは一理あるが、昨今の以上事 件続発や問題は、多分、根っこは私たちの生き方や志向、打算にかかわるよう な、もっと奥深いところにある。だから、これまでにない不安が世間を覆って いる。 私は学校教育に必ずしも絶望しないが、そこに負わせきれる問題ではなく、し んどいことながら、個々の大人が背負わねばならない。まだ、どの党、どの候 補者の公約にも、票を持つ側へこうした「覚悟」を説く弁を聞かない。「幅広 い論議が待たれる」式の、傷にツバ塗るほどの効能もない常套句やり、あえて 有権者自身の耳を刺すような主張を探したい。 [社会部・玉木 研二]