「新しい時代における教養教育の在り方について」(答申案) に対するパブリック・コメント この答申案には、近過去の行政の失敗に対する批判あるいは反省がみられない。 すなわち大学設置規準大綱化後に、文部省が教養部解体を行政指導し、これと セットで多くの国立大学で大学院重点化を推進したことについての反省である。 この過程においては、教養部廃止と「ゆとり教育」が同時進行することについ ての想像力も働いていなかったと思われる。 今後も政策遂行において同じ誤ちを繰り返すことは言うまでもなく避けるべき であるので、これらの言及がないことは致命的欠点である。 また答申の内容であるが、なぜ教養が必要かに多弁が費やされている一方、普 遍的な視点が感じられず、場当り的に感じられる。いわゆる「トップ 30」的 研究重点部局以外の大学各部局を擁護するためであれば、その目的を書くべき である。改組さえ論じられている答申である( 3(2)-3)ことを考えれば、その ような主旨をより明確にしなくては、現場の混乱は大きいのではないか。将来 この答申を見る者にとっても、不可解なものに映ると思われ、それでは政策課 題に対し政府の方針を決定するという審議会の役割を放棄したものと言い得る。 このような具体性のないまま教養を連呼するだけの答申は、若者(被教育者) に限らず教育する側にとっても、押し付けにしか感じられないであろう。 これまでの経緯を考えるとき、この答申で謳われる教養教育重点大学(仮称)の 名は研究重視の大学との差別化に使われ、そこでは自由な研究活動は時間的・ 予算的・人員的に著しく制限されるだろう。これは日本における科学の裾野を 大きく狭め、国の将来を危うくするものとなりかねないことを、答申にあたり 中教審の委員の方々は銘記すべきである。 以下答申案の目次に沿って批判したい。 「はじめに」 かつては教養について...ではじめるが、これはいつの教養を意味するか。知 識としての教養の脈絡あるリストの中には、近世ヨーロッパであればユークリッ ドを数えたであろう。この「はじめに」の中には自然科学への顧慮はまったく といってよいほどみられない。そのような教養では現代では偏ったものといわ ざるを得ない。 また、「効率を優先して精神の豊かさを軽視する風潮」は、世界にも例をみな いほど薄い中等教育の教科書として、文科省の政策にこそ表われているのでは ないか。 「第 1 章 今なぜ「教養」なのか」 「その反面、多くの国民が、この物質的な繁栄ほどには、一人一人の生活にお いても、社会全体としても豊かさは実現されていないと感じている」とある。 このことは地価問題や最近の金融・財政の混乱など、政府により合理的政策が 行なわれてこなかったことが大きいと考えられ、そのためには更なる合理性こ そむしろ求められる。日本の旧幣が拡大しただけとさえ考えられるのであり、 科学の発展に原因を求めることは責任の転嫁ではないか。 学ぶことの目的意識が喪失されるのも、合理的な判断がなされえない意思決定 のプロセスに日々教育されているといえないか。 「第 2 章 新しい時代に求められる教養とは何か」 ・「他者の立場に立って考える想像力」(1) は、むしろ審議会にこそ求められ ねばならない。現場においておこる混乱を想像しないかにみえるのは政府の審 議会の常であるからで、その害は冒頭に記したとおりである。 ・(4)(5) 過去に目をむければすべてうまくゆくものではない。そもそも日本 は極東の地にあり、ほとんどすべての文明を海外から輸入してきている。伝統 といい、礼儀作法を重視する以前にやるべきこともあるであろう。 5 項目のあとに、「結果として...徳性も身に付いていくものと考える」とあ るが、このような徳性への言及にも抵抗を感じる。徳性というものがあるとす れば生涯をかけてその人が培うものであり、教養を獲得する結果として得られ るというのは傲慢でさえあるだろう。 「第 3 章 どのように教養を培っていくのか」 「第 1 節 幼・少年期における教養教育」 「(1)幼・少年期における教養教育の課題」 社会の変化に対し「様々な施策が講じられてきたが...」とあるが、保育園・ 幼稚園の不足や 30 人学級の問題にみられるように、むしろ十分に講じられて こなかったのではないか。 その次のパラグラフにある「「生活文化のかたち」をこどもたちにしっかりと 伝え」も、こども達が読めば現状の不合理を甘受せよとさえ響くだろう。 「学ぶことと将来の行き方とを結びつけて考えようという姿勢に欠ける面が見 られるようになってきた」とあるが、政府をはじめとする意思決定に科学的配 慮が感じられない現状ではむしろ当然であろう。 「我が国の教育が平等性を重視するあまり...」のくだりも欺瞞的であり、平 等性がそもそも達せられていないことは最近の刈谷剛彦氏の研究でも明かにさ れているとおりである。 これに次ぐ「「生きる力」の育成」がとくに理系の教育に致命的となり、日本 そのものの生きる力を失なわせかねないことが指摘されて久しい。 関連して、 「(2)具体的方策」 についても、 まず「1. 家庭や地域で子どもたちの豊かな知恵を育てる」が 「貧しい知識」にならぬような配慮が求められる。また「2. 確かな基礎学力 を育てる」において「ゆとり答申」など過去の答申への反省が言及されるべき であろう。 「具体的方策」の中では、「社会人や大学生をティーチング・アシスタントと して積極的に活用する」ことが述べられているが、数値目標化されることがな いよう望みたい。大学生が自ら学ぶべきことを放棄することを政策として奨励 することになりかねないからである。 また「国語教育の充実」とあるが、文法が時間とともに合理的な変化をなして きていることなどを踏まえ、理性的な観点も求められる。この意味でも国語と いわず日本語と呼称を変えることは検討されてよい。図書館における情報機器 の充実の前に、本の充実が考えられるべきであろう。 「3. 学ぶ意欲や態度を育てる」の囲みには、「子どもたちの知的好奇心を喚 起する取組の推進」とあるが、このような取組は単純な好奇心を喚起するだけ におわることがしばしばである。学校において日々なされる授業が本来そのよ うな場であることは、もっと強調されて良い。そのために何が必要であるか、 審議会に現場の教師などを迎えた上で、深い議論が必要であろう。 「4. 道徳教育の充実」子どもが社会の鏡であるという視点が感じられない。 基本的態度や情緒は育てるものというより育つものと思われ、保育園や幼稚園、 小児科医療などの充実などの条件整備や、阻害要因を除くことの方が大事であ ろう。 「5. 教員の力量を高める」では、教員の社会体験研修やボランティアが促さ れるが、促されて行なうボランティアはすでにボランティアでない。これが教 員の週休 2 日とあわせて論じられることも違和感を覚える。そもそも学校の 週休 2 日は、教師の待遇改善も意図していたはずである。今でも不足がちな 教材研究の時間を補うためからも、教師にボランティアを強制することがあっ てはならない。 「(優秀な教員の)評価の促進」も、政治的に運用される可能性があり問題であ る。評価などしなくても相互啓発が盛んであることが望まれるのであり、その ような自発性を阻害してきたのがこれまでの行政のあり方ではなかったか。 「第 2 節 青年期における教養教育」 「1 高等教育における教養教育」 「(1) 高等教育における教養教育の課題」 臨時教育審議会は発足時に自民党内からも屋上屋をなすと反対があったもので、 民主的な手続きの上で問題があったことは記憶されるべきである。これは最近 の「教育改革国民会議」についても同様である。臨教審への言及は中教審のあ りかたを相対的に低くするものであり、教育への財政支援増などの課題を考え るとき少なくない意味がある。 臨教審発足と前後しては、中野区における教育委員会の準公選制度が違法とさ れており、教育への地方住民の関わりを促進すべきことが最近やっと論じられ るようになったことを考えても、当時の判断には問題があったと思われる。 臨教審では、香山健一らにより教育の自由化と多様化の推進が謳われ、教育を 商品経済的に論じた。行政改革の観点で教育予算の削減も求められた。これは 「教育の受益者負担」の名の下に国立大学の学費を私立並化した動きと無関係 ではなく、「民間活力の導入」で塾も隆盛したのではないか。 当時臨教審のありかたには、複数の文相経験者により、義務教育や教育内容の 自由化はおかしいと批判されてもいる。批判された「自由化」を修正するため の修飾として「個性主義」が登場もした。 これらは政府による公的教育の軽視とさえいえるのであり、これが高校にお ける教育を軽んじることに繋がったと思う。 10 年以上を経て考えるとき、臨教審の路線が結果として招いたのはまさに教 養の衰退ではなかったか。入学者の選抜の多様化もこの流れの上で考えるべき であり、多様化を進めることで受験産業にビジネスチャンスを与えてきた面が あることは、AO 入試対策の作文コースが開かれるなど今にいたるまで変わら ない。多様化を単純に礼賛することはこれらの問題点に目をつぶることである。 「(2) 具体的な方策」 「1 論理的に粘り強く考える訓練を行う」 この中で「物事を自分の頭で納得がいくまで論理的に粘り強く考える訓練をし、 それを習慣づけてゆく必要がある」とあるが、このことが最も欠けているのは 中央における政策決定の過程ではないか。 「2 「将来」との結びつきから学ぶ意欲を引き出す」 安易に生き方を考えさせても、抽象的なものになるだけであり、やり方次第で はかえって学ぶ意欲を減退させることを併記すべきではないか。 「3 「体験」で大人になる基礎を培う」 体験活動の対象とされる諸機関の負担を考える必要がある。私はある店で怒ら れながら棚卸しをさせられている中学生を見たことがあり、体験活動を礼賛す る論調には疑問がある。学校のやるべきことはかつてより減ったわけではない はずである。 ALT とは何か(外国人指導助手?)も説明を要するだろう。 「2 大学入学者選抜のあり方」 大学入学試験だけが問題といわれるが、一定の教育効果をあげることを考える 上では、入学者を選抜することは必要悪であると考える。入学するだけでなく、 その先の職業人としてのあり方を考えれば、当然試験は一定のレベルを保たね ばならず、その否定は現在の文明生活の否定に繋がりかねない。 入試の改善に比して、高校における適切な進路指導の重要性はあまり指摘され ていないように思われる。高校の教員が、博士号をもつ者の就職先としても魅 力的なものになることで、この点は大きく改善できるのではないか。 「それぞれの大学が明確な教育理念に基く入学者の受入方針を確立」や「安易 な入学者選抜...も存在している」というが、大学数を安易に増加させてきた ことへの行政の責任が感じられない。また前者には、センター試験の拡大がむ しろ「明確な教育理念」から大学を遠ざけていることが無視できない。 AO 入試などが、高校における教育をないがしろにしかねない面も記されるべ きではないか。安易に面接試験や討論に触れているのも問題であり、このため には膨大な人的・時間的コストが必要であることを記すべきである。これらを 無視して、いたずらに多様性のみを評価することがあっては、答申の意図と逆 にむしろ教養を弱体化することになるであろう。 「3 大学における教養教育」 「(1)大学における教養教育の課題」 「専門性の向上は大学院を主体にして行なうのが今後の高等教育の基本的な方 向となりつつある」とされるが、教育は系統的なものであり、特に理系におい ては大学院だけで専門教育を成し得るものではない。大学の学部教育も、また それ以前の小中高での教育も、専門性の重要な一部をなすことがある。冒頭に 触れた理系軽視の論調がここにも見られるのは残念である。 この意味で、「新たに構築される教養教育」においても、こうした専門性を育 む努力を欠くべきではなく、総花的な教養教育を 4 年間行なうことでは失う ものが大きい。むしろダブルメジャー制などで補うことを考えるべきであろう。 大綱化以降に教養教育を解体した行政指導への反省がここでもみられないのは 残念である。 これは教養教育の軽視に他ならず、「各大学においては「大学教育には教養教 育の抜本的充実が不可避」」云々として大学に「覚悟」を求めるのは、矛先が 間違っていると思われる。また、そのように促した歴代の中教審そして臨教審 のありかたも問題である。 そもそも今の時点でこのような「教養」が問題とされるのは、指導要領の削減 を目前に控えていることと無縁でない。これも中教審が答申してお墨つきを与 えたものであった。中教審自ら過去の路線を批判すべきであろう。 「ヨーロッパなどで...大学入学する前に、社会での活動を行なうこと」には 留保すべき面があることを述べるべきである。これは兵役と無縁でなく、また 理系の系統的学習にとっての阻害要因にもなっている。 「(2)具体的な方策」 「1 カリキュラム改革や指導方法の改善により「感銘と感動を与え知的好奇心 を喚起する授業」を生みだす」 情緒的・理想的なことが多く語られ、現場で教えたことがある者によるとは思 われない。現在の負担のままですべての講義ないし授業をこのように魅力ある ものにするには大変な努力を要し、教員個人の生活を破壊する覚悟を要するで あろう。 そもそも、毎日毎時間、人間が感激や感動に浸ることができるとは思われない。 現状がそのように感じられるのはむしろ適応の結果であるとも考えられ、教育 を提供する側の努力だけで改善できるとも思われない。また、カリキュラムは 必然があってこうなっている部分も大きいのであり、いたずらに改革を迫るこ とは「ゆとり教育」のような改悪になりかねないことを併記すべきである。 特に、「学ぶことの愉しさや意義を味あわせ」とあるが、これら前菜を主菜と 勘違いする危険も触れるべきである。このことは、アメリカにおける「危機に 立つ国家」において述べられている。 次の枠の中では、「自らの教養教育の理念を」のくだりがあるが、このことを 強要すべきではない。教養は誰もが持つから教養なのであり、私の教養はこれ である、というのは変である。 「2 大学や教員の積極的な取組を促す仕組を整備する」 これは中等教育に対し、文科省が指導要領の改訂などにあわせて行なってきた モデル校作りを思わせる。大学にこれが適用された場合、行政の都合が優先さ れ学問的普遍性がないがしろになる危険があるのではないか。少く見積もって も、日常の教育研究に対し致命的な打撃を与える恐れがあるのは、囲み部分の 「教養教育重点大学(仮称)」の支援 から伺われる。教育内容を日々今日的なものにするためにも研究活動は不可欠 であり、これらは切り離せないが、ここから伺えるのは文部省が教養と認める ものの教育に特化するモデル校で、そこから外れる自由な研究活動は認められ ないものになるのではないか。長期的には、学生にとって古くさく魅力ないも のになるだろう。文科省の大学経営の方針として良いものとは思われない。 「3 各大学において教養教育の責任ある実施体制を確立する」 この項が過去への言及なしに述べられているのは信じがたい。何度も触れたと おり教養部こそはそのような組織であった。 「4 学生の社会や異文化との交流を促進する」 この提言が「大学版ゆとり教育」にならないよう希望する。現在進行中の大学 改革ですでにそのような徴候がある。 「第 3 節 成人の教養の涵養」 ここにも過去への反省は希薄であり、これまで中教審が先導した改革が専門性 を軽んじる内容として社会的現実となり、むしろ裏目に出ていることを認める べきではないか。今からでも、中教審において専門家を積極的に用いるなどの 努力がなされるべきである。 生涯学習が重要という考え方についても、たとえば生涯かけて中等教育を学ぶ ことでは、教育を軽くするだけで社会は維持できないであろう。 また具体的方策の中では社会人に対する奨学金も提言されているが、不況で中 等教育にすら支障が出はじめており、育英会事業の確保の方が優先されるべき 課題であろう。第 2 節までの中で、大学生に対する奨学金の充実に言及され ていないのがむしろ不自然である。 地方大学の改廃が論じられる中、「学びやすい環境の整備」の中に「サテライ トキャンパス」が加えられているが、大学を廃しこのようなものを新設するの は現状からの後退ではないか。 長期的な課題としては、図書館と同じく科学館も文明の必需品であると考える が、これらの施設に満足な運営スタッフが配備されることが国の方針として合 意されるべきであろう。公共事業費にそのような維持費をもりこむため、建設 予算の数パーセント(では足りないかもしれないが)をはじめから運営のための 基金に回すなどのことができないだろうか。 「参考 我が国の大学における教養教育について」 本来はここで、過去行なわれた文科省の行政指導についてより具体的に書かれ るべきであろう。すなわち、大綱化後に行なわれた「教養部廃止 + 大学院重 点化」のセット指導である。このことなしには、大学の今日の教養教育のあり かたを具体的に理解することはできないからである。 最後に感想だが、教養が大事なのはその通りであっても、ここでの述べ方はあ まりに内向きであり、自己目的的に感じられる。しかし日本が極東の地にあり ながら現在の文明を亨受できていること自体、普遍的な知識に支えられてはじ めて実現されているというべきである。環境問題などを抱える現代の文明で主 体的に未来を担うためには、科学の知識も含め各方面への知識が不可欠であり、 そのための教養と考えるべきであろう。いたずらに過去にひきこもり、伝統の 名のもとに若者を拘束する教養であってはならないが、この答申の目指すとこ ろがそのようなものであるのか私には疑念が残る。 (送付後、総科 > 総花など、いくつか気がついた表記を訂正した。)