Academia e-Network (ac-net) は何をめざすべきか


呼びかけ人のひとりである辻下氏は、「発足の趣旨」において以下の 2点を掲げている。

A. 近年の大学(および教育一般)の企業化政策の問題(そしてその根幹にある知 的退嬰)、

B. 合理精神を育むための知的環境整備としての活動。

日本における長期にわたる高等教育無策は、最近の時限立法である科学技術基 本法によって一部反省されはしたが、国立研究所および国立大学等の独立行政 法人化案が与党の公務員削減合意に由来する経緯にみられるように、現在も根 本は恣意的な決定にゆだねられているというべきである。2001 年からの省庁 再編に際して発足する国の総合科学技術会議も、新産業への期待を基調とする。 学問的活動を打出の小槌に矮小化するものであり、高等教育のあるべき姿を歪 ませることが懸念される。

初等中等教育についても、十分な資料に基づく調査検討もないままに、時の政 権が臨時に設置した諮問機関により主要な意思形成がなされ、これを官僚組織 が実行に移すという図式が続いてきた。政財官界の思い付きに発する教育研究 現場の混乱の歴史は長いが、とりわけ現在の文教政策の議論は与野党を問わず 付け焼刃的なものが多く、憂慮している関係者は多い。

わが国の未来を考えるとき、総合科学技術会議や中央教育審議会をはじめとす る政府組織の位置はあまりに大きい。その一方で、この国において中心的意思 決定にあずかる人々の科学的素養を問題にせざるをえない事態が、東海村の事 故原因をはじめとして数多あることは周知である。

現状に対する責任の一端を大学関係者も担っていることは、もちろん否定でき ない。学者の国会とよばれる学術会議が十分に機能してこなかったこともその 一例としてよいであろう。しかし現在の学術の広汎な発展を思うとき、人数も 限られた一会議によって学術教育の全般にわたる健康を保つことには限界もあ ると考えられる。

こうしたことを鑑みるとき、ac-net の活動は合理的精神に基づく民主的発信 という小さくない意義をもつ。正しい情報を提供する努力、および分野をこえ た啓発に日常の活動を見出すことができるはずであり、すでにはじめられてい るコンピュータネットワーク上の種々の個人的試みを相互にリンクすることが 小さくとも活動の第一歩になるだろう。

このような活動はきたるべき時代を好ましいものとするために必要であると共 に、学術教育に携わる者の日常の教育研究の意義と両立するものと信ずる。我々 は先頃亡くなった高木仁三郎氏の遺志を忘れないような活動としてあることを 願うべきであり、冷戦下にはじめられたパグウォッシュ会議の思想と努力も記 憶に蘇えらせるべきでもあろう。

短期の政治経済的価値観に対するカウンターウエイトとして、学問的良心に基 く社会的意思形成の努力が必要である。学術教育について、その自律的長期的 価値を考えるとき、その基本は時の政治経済から一定の距離を置いてしかるべ きであり、その将来を議論するにあたり日本では国家行政組織法に基づく 3 条委員会のような独立機関を設置することも考えられる。このような構想に対 しても、ac-net の活動は電子アカデミーとして基礎の一つを与えうるであろ う。

2000年 11月 15日 長谷川浩司 (東北大学理学研究科数学専攻・講師)

(# とりあえず何をすべきか?会員のホームページへのリンク?(掲示板活動な ど、すでにいろいろある.)マスコミの守備範囲が届かない、信頼するに足る現 場の一次情報をネット上で提供することに意味があるだろう。初等中等教育に おける、たとえば算数教育・歴史教育の混乱も、現場教師の再教育の機会が限 られていることに原因の一端がありそうである。長期にわたる教育への投資の 抑制の結果ともいえるが、大学の現状もその例外でない。政府関係者は現場か ら最も遠く離れた場所にいて号令するだけであり、その結果たとえば大学にお いてはオーバードクター問題が分野を問わず顕在化しつつある。政策の一貫性 のなさに大きく起因するものであり、国大協も本来このような具体的惨状につ いて政府・文部省と対等の立場で論ずるべきであった。)