12 月 1 日の「インターネット・ディベート」(NHK BS1)批評。

・番組の時系列順に。最後に感想。

番組のはじめ、スイスの経営開発国際研究所による評価で、日本の大学が最下位であったことが紹介された。これについては、「自虐的な日本人の大学評価」という指摘がある:「...たとえば日本の大学よりは外国の大学に資金を提供しているのは、日本の大企業であり、日本の大学教育は現代の競争社会の必要性を満たしていないと IMD 調査に答えているのも、主として日本の大企業のエグゼクティブたちである。IMDでは世界中のトップおよびミドルのエグゼクティブにアンケートを送り、3678 人の回答者の結果から各国の評価結果をはじき出してランキングした。それはしばしば誤解されているように、世界の識者による日本の大学評価ではなく、日本人による日本の大学評価なのである。このうち何人のどんな日本人が解答したのかは明らかではないが、49 ヶ国中全体で 4000 人にも満たない全回答者数からみて、ごく一握りの日本人の解答から評価がはじき出されていることは間違いないであろう。つまりこの調査のデータの代表性や統計的根拠については、おおいに疑義の余地があるのである。...」日本の大学でも国際的研究は数多くなされており、日本の財界人?に学問を見る目がないことを世界に宣伝していると見ることもできるのではないか。引用には慎重を望みたい。

「トップ30」の初年度(14 年度)の予算について、「資金 : 211 億円」と紹介された。その出所は、これまでの(COE 形成などの)予算の組み替えであることに注意すべき。その意味では、これまでも「トップ 30」的な予算の集中は行われていたのではないかと思うが、この言葉のインパクトが世に流布することが新たに与える影響は甚大である。単なるイメージだけでなく、211 億以外の各種設備の拡張に際しても、また受験産業が行なうであろう独自の解釈によっても。

「"格付け"で大学は世界に勝てるか」というテロップ。「大学が世界に勝つ」とはどういうことであろうか。研究の水準は大学単位で測れるような単純なものではないし、その土地固有の問題を扱う研究では比較は更に困難だろう。

加藤寛氏は、国が格付けをすることは不健康であると、小泉首相に苦言を呈してもいる。そのような態度が私学に不合理をおしつけてきたとの趣旨。なお別の民放番組では、学長の権限を強化すべし、学長を選挙で選ぶなどとんでもない、と述べていた。

相沢益男東工大学長(専門は生物工学、しかし東工大のホームページで検索したが出てこなかった)、終始笑顔。財務省の査定しだいで「30」の数が減ることも予想され、予算の集中の陰で瀕死の思いをする分野もあると考えられるが、そのような視点はあまり感じられなかった。

トップ 30 政策の対象とされた「10 分野」のテロップ。これについて、番組のホームページでは、準備段階で誤った情報が流されていた。

学長アンケートより:山梨大学長は燃料電池について宣伝。トップ 30 では、このように学長の専門分野や、たまたまその時に有能な研究者がいただけの所に、我田引水的に予算が投入されることにならないか心配である。(その間にそれ以外の分野は死滅してしまうのではないか。)

埼玉大、島根大の学長の「序列化を進め由々しき問題」という態度が、正常な反応だろう。「小さい大学にもチャンスがある」については、番組でも加藤氏が「甘い」と切って捨てていた。

加藤氏が述べた「お金の不平等」について。私学への税金配分については、憲法上の問題もあり、これをのり越えての投資の壁としては私学の経営の不透明も指摘せざるを得ないと思う。

「日本の競争的資金の推移」における「科学技術振興調整費」の前の費目は何か?また、その次の「出質金制度(戦略的基礎推進事業他)」(ママ)についても、HP 上で文献を示すべきだろう。

加藤氏の指摘:「学生の立場を考えていない。」などに対し、相沢氏は「30 大学」予算は 200 億程度であり、少なすぎると反応。個別には 1 億づつくらいになり、これは意味がないと加藤氏。

相沢氏は「重点化」ですでに大学は選別されているのに、適切な支援がないと反応。この「教養部廃止+大学院重点化」政策はバブル期にはじまったものであり、いわゆるオーバードクター問題が深刻になっている。文部省の指導により、あくまで大学側が自発的に望んだような形で記録になっているが、文部省の失政というべきだろう。(あまりに限られた職しかないために、封建性といわれるような事態も起きやすくなっていないか心配である。これを大学だけの問題とするのは納得がいかない。)

掲示板の意見の紹介:40 歳の男性から「トップ」選別のようなことは「そういうことは民間がやるべき」との意見。国が必要以上に関与して失敗した例は多く、それらに見習うべきであり、まさにその通り。しかしいわゆる民間の評価でも、アメリカであった例では学生数や学位授与数などの数だけの上辺を見たのにすぎない評価書が最近まで権威を得ていて、中身の評価になっていない杜撰なものだという内部暴露がなされていた。

相沢氏は、博士過程の学生数を国公立対私立で比較するグラフを紹介。これに加藤氏は、私立に認めなかったのは文部省の方針と反論。相沢氏「そうですね」と応じる。

意見紹介から:「負け組の大学」の表現はひっかかる。学問研究はあくまで個人あるいはテーマ単位であり、小さな大学でも素晴しい先生はおられる。大学が勝つ負けるというものではないだろう。また、大学の魅力は(学生にとっては特に)地域の魅力と不可分でもあり、軽々と勝ち負けを言うことは自虐的でもあろう。もちろん大学が地域の理解を得る努力は必要だが、一般社会が大学のことを他人ごととしてでなく理解することも必要であると思う。

愛媛大学阿部氏の実態。共同研究者は NASA から 5 億受けとったが、阿部氏は 5 年で 350 万であったとのこと。そして審査体制について苦言。アメリカの場合、申請書の評価に非常に力を入れているのは事実。その審査システムは、数学の場合数人の数学者がワシントンに常駐することで実現されている。その仕事は、直接審査することではなく、誰に審査を任せるかを決めることである。この委員は常勤である。日本の場合、学術会議(だったと思う)が委任した人々が、土日を返上して短期決戦で集まった申請書を読み 2 段階の審査をする(これはかなりの労働であるらしく、審査員を推薦する立場の人があとで「任せてしまってすいません」と謝ることもあるようだ)。アメリカのようにとことん厳正な審査をするには、日本は人的基盤があまりに薄い。

評価の透明性について加藤氏が疑義を呈した。これに対し、徐々に改善すべき、これは「世界と戦えるチームのグルーピング」をめざすものと相沢氏が評したが、これは学問を「見る」スポーツのように考えるミスリードな言葉であると思う。

海外での大学評価について。大きくわけてイギリス型とアメリカ型がある、といわれ、アメリカでは市場が評価する、と解説されたが、アメリカでの民間評価の実態についてはすでに触れた。イギリスでの評価については、大学が「評価」の年をのりきるため、スター的な研究者が大学をわたり歩くと聞いたことがある。(開催県が必ず勝つ国体のようになっているのではないか。)

加藤氏「格付けは国がやることではない」につづいて「コンソーシアム」(企業と大学がお見合いのようにして投資がきまる)に触れる。相沢氏「基礎研究はそれではうまくいかない」と応ずる。「ノーベル賞のような長期的視野の研究の環境を整備するために必要」との意見、しかしトップ 30 はいつまで継続される政策だろうか。(5 年でおわる可能性も大きいだろう。)

加藤氏、単年度会計制度にもとづく不合理を指摘。

早川氏、世界のトップに追いつくにはどうしたら良いか、具体的におねがいします。と議論を進めるが、すでに国際水準の研究は沢山ある。相沢氏も述べた通り。相沢氏はそのためには環境整備が何より必要、と反応。

加藤氏「日本の制度では研究費で秘書を雇えない」「制度が硬直的、だから全部私学化すればよい」「そして外国の大学もいくらでも入って競争して、国立大学は研究所にすれば良い」と過激な意見。

相沢氏「研究と教育は一体」「研究所は人材は養成しない」「大学院は高度な研究と人材を養成するため、国家的サポートを必要とする」加藤氏「私学は教育に専念すれば良い」に相沢氏「そうですね」。加藤氏「教育と研究、両方やろうとするから良くない」。相沢氏「学部教育と大学院教育はちょっと違う」。加藤氏「わけた方が良い」。

かつては教養部が基礎的教育を担う組織としてあったが、これがなくなった大学が大いことについて両氏の見解がどうかは興味がある。

早川氏の「大学を良くする決め手は」に対し、加藤氏は外国の大学も大いに誘致すべしといい(しかし外国の大学がビジネスとして以上に日本に根付くことが期待できるだろうか)、日本の大学は「かこわれた中で金魚がとびはねている」状況とたとえた。つづいて、研究大学と教育大学に分けることが必要という意見の紹介あり:しかし大学院の教育は学部の教育と不可分であると相沢氏反論。 このあたりで時間となった。

次回は「国立大学は"競争"でよくなるか」の第で、国立大学の法人化問題。これについて一つだけ:国際的にも疑義が呈されている= ゴンブリッチ教授の警告

今日の議論について:両学長の議論とも、我田引水的なのが大いに気になる。相沢氏はぜひ「お墨つき」とそれに付随する集中投資を望み、加藤氏は学部教育はこれからは私学で、というのがありありと見えた(これは自民党方面からも折に触れて出てくる言説であるが、学部から大学院までの一貫教育ではじめて実現できる水準もあるのであり、問題はそれほど単純化すべきでない)。大袈裟かもしれないが、人類文化をひきつぐ責務を負う組織の長としての高い見地が不足するものだったといえるのではないか。

私も日本の大学に問題がないとは思わないが、ひと握りの大学以外に衰退を招くような過激な方法はもっと問題を深刻にすると思う(たとえばこれからの時代、専門的な論文を読んだ経験ぐらいなければ、どの道でも国際的な議論についていけず、一定程度の広い教育を可能にすることは必要であろう)。中に居て思うことはマンパワーの不足である。(最近アメリカにならって Teaching Assistant の名の元に学生のバイトとして演習の「手伝い」をしてもらうことがあるが、人員不足のための窮余の策といえるだろう。学生の経験を増す面もあるものの、本来研究に没頭すべき時期の学生の時間に依存することで維持される制度は、次代の研究者が育つ環境としては理想的とは言えまい。)日本の大学への投資額がこれまで充分でなかったことは、有馬氏が文部大臣当時国会で答弁している。東北大学に有馬氏がいらした時に私は直接質問したことがあるが、倍額は認められてしかるべきであるとのことだった。それがなぜ不可能なのか、そちらこそ番組では 3 回かけて問うべきであろう。今回の番組は問題を矮小化しており、文部科学省が言う「トップ30」のお題目に、番組政策担当者ものせられてしまっているといえそうである。このテーマの下での番組では、パイの奪いあいの構図ゆえに、学長間の議論もまた我田引水的になったのではないか。

あっという間の 50 分だった。こうして批評文を(ビデオを再生しながら)書くとこの分量でしかなく(もちろん全ての論点ではないが)、これで"国民的議論が深まった"というにはあまりに時間が少ない。やはりテレビの討論には限界があるということだろうか。何を題材にとりあげるかという点、そしてその議論が数多くの物事に決定的な役割を果たしてしまう点で、メディアは(政府各種の審議会に似て)充分権力と言い得るものを持っていることを改めて感じる。 (2001.12.2.05:07)(07:35 改訂)