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金森修によるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態


以下、断りが無い限り、単に「○○頁より」と書いてあれば、金森修著『サイエンス・ウォーズ』 (東大出版会、 2000年6月30日出版) におけるページ数を意味している。『サイエンス・ウォーズ』からの引用は色を変えて目立つようにしておいた。もちろん、色が見えなくても、どこからどこまでが引用であるかがわかるように blockquote してある。敬称は略す。

追記 (2001年4月15日) この文書によって『サイエンス・ウォーズ』に書かれていることが全て誤りだと主張したいわけではない。金森が日本語で紹介した文献の中には確かに価値あるものが存在する。しかし、文献紹介を除けば薄っぺらな内容しか残らないことはこの文書の指摘以前に明らかだと思う。その上、金森による文献紹介の仕方はこの文書が示すようにおそろしくずさんで偏っている。さらに、金森は論敵に対する中傷まで行なっているのだ。だから、『サイエンス・ウォーズ』は気軽に引用して構わない文献ではない。『サイエンス・ウォーズ』で紹介されている考え方に賛成したい場合には、そこで紹介されている文献を直接参照したり、同じような主張が書いてある別のより信頼できる文献を用いた方が良いだろう。]

追記 (2001年4月23日) 「中西準子の環境リスク論」および中西準子による 3-126. 雑感(その126 -2001.4.9)「これは、リスク論批判なのかな?」も参照せよ。]


目次


追加された註92

●第I部「サイエンス・ウォーズ」 111頁より

(92) 同じニューヨーク大学といっても、ロスはカルチュラル・スタディーズ系の学部としては国内でも評価の高い学部で、実に華やかな経歴を歩みつつあった。ところがソーカルが所属する学部は物理学系の学部としては必ずしも恵まれない学部にしかすぎないという (スティーヴ・フラー氏の証言による)。つまりソーカルの、ロスらへの激しい敵意の陰には一種の私怨が隠れていたと考えることができる。

この註は『現代思想』に掲載された時点では存在してなかった。金森は『サイエンス・ウォーズ』に『現代思想』に掲載された原稿を収める過程でわざわざこのような註を追加している。

ソーカルはレーガン大統領下のアメリカが目の敵にしていたサンディニスタ左翼政権下のニカラグアに数学を教えに行っているほどの左翼である。実際、ソーカルのパロディー論文の冒頭の著者紹介にそう書いてあるし、友人の証言をインターネット上で読むこともできる。 (ソーカルの友人の証言については「ソーカル事件について」の「3.いち左翼としてのソーカル」を見よ。) 果たしてそのような人物が自分自身の社会的地位を気にして「私怨」にまで高めてしまうなどと考えるのは自然であろうか? (八木猛の「ニカラグアに200mくらい越境したことがある」および田崎晴明の「そーだったのかー」も参照せよ。[追記 (2000年8月25日) ニカラグアについては「黒木さんの「金森修のサイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態」からこられた方へ」を見よ。])

金森は、いいかげんな根拠で「私怨」説を宣言することによって、批判対象のソーカルを不当に貶めようとしているのだ。ソーカルが左翼であるか否かに無関係にそういうやり方は卑劣で汚ないと思う。


パロディー論文の結論への心の高ぶり

●第I部「サイエンス・ウォーズ」 90-91頁 (『現代思想』 1998.8、 19頁上段) より

(E) いまこの詐欺論文の大団円、ポストモダン科学という「解放的科学」を打ち上げた最後の部分を再読してみると、私はある奇妙な感覚に教われる。それが単なるパロディであり、そこでの字面は悪意を隠した仮面なのだと頭ではわかっていても、私はある種の心の高ぶりを覚えてしまうのだ。そして少し反省的にその心の動きを捉えなおしてみると、私だけではない、人間一般の精神というものがもつ特性に対して、妙な言い方で恐縮だが一種のいとおしさを感じてしまう。曰く、客観的真理の専制状態から逃れる、人を隔てる壁を突き崩し、社会生活を革命的に民主化する。近代科学のヒエラルキーを転覆し、流動と不安定性との危うい均衡を生き抜く云々。そこには「主体」としての個人がもちうる一種の矜持、気概、覇気のようなものが感じられないだろうか。「客観的真理」を暴君のようなものとして捉えるという、それこそ準客観的に見ればほぼ無意味な感覚でさえ、ある了解可能性をもっている。子供の頃、時代劇で、例えば虐げられた貧民を救うためにたった一人の主人公が数十人もの武士たちを快刀乱麻になぎ倒すという場面を、私は何度も楽しく見ていたものだ。それがたとえ現実には絶対にありえない架空の戦いにすぎないものでも、それは物語的に美しい稜線を与える一種のダンスのようなものだった。客観的真理から逃走するという快い響きもまた、私たちの脳に愉悦を与えるダンス音楽のようなものではないか。ソーカルはダンス音楽をオシログラフの波形としてしか見ない無粋な人間ではないか。ある「心の高ぶり」のなかでしばしの間、私はそんなことを夢想していた。

この段落は2つの意味で興味深い。

1つ目。金森は、パロディー論文 (『「知」の欺瞞』付録Aで読める) を書いたアラン・ソーカルに関して、「ソーカルはダンス音楽をオシログラフの波形としてしか見ない無粋な人間ではないか」とわざわざ書いている。たとえ「夢想」であると断っていたとしても、議論の相手をこのように不当に貶めるようなことを言うのは単なる中傷に過ぎない。

追記 (2000年8月25日) 「オシログラフの波形としてしか見ない」即「無粋な人間」ということにはならない、という非常にもっともな指摘あり。例えば、やぎの8/25の発言を見よ。上の批判の仕方は偏った常識に毒されており穏健過ぎた。「オシログラフの波形としてしか見ない」即「無粋な人間」という考え方の中にも差別意識を読み取るべきだったのだ。]

ソーカルを批判したければ、ソーカルの主要な論点を適切に引用し、紹介した上で、それに真正面から答えるべきである。残念ながら金森はそのような議論をしていない。新たに付け加えられた註の件から、ソーカルの私的な側面まで攻撃するという金森の姿勢は現在でも一貫していることがわかる。

2つ目。金森は、ソーカルによるデタラメな偽論文の「解放的科学」のくだりに「心の高ぶり」を覚えてしまうことを強調している。しかも、金森は「解放的科学」の名のもとで客観的真理を追及する科学の姿勢を否定しているところに「心の高ぶり」を覚えたらしい。

そして、金森は「客観的真理」に立ち向かうことを「虐げられた貧民を救うためにたった一人の主人公が数十人もの武士たちを快刀乱麻になぎ倒すという場面」になぞらえている。そして、別の一方では自分自身と同じセンスを共有してないソーカルは「無粋な人間」であると「夢想」しているのだ。このことから、金森が自分自身の立場をどのようなものであると思っているかがよくわかる。

追記 (2000年9月12日) 上の引用中の「客観的真理」という言葉の意味は曖昧である。例えば「天体の運動はニュートンの理論によって非常に良く記述される」のような長年に渡って検証され続けて来た理論の持つ客観的真理性について述べているのか、それとも「科学の名のもとで騙られる贋物の客観的真理」という意味で「客観的真理」という言葉を使用しているのか (このような言い方は議論を混乱させることが多い)、それとも「客観的真理の概念を正当化しようとする哲学的試み」を攻撃しているのか? このような言い方が招く混乱に関しては、 Alan Sokal による「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」の「ずさんなものの考え方 (sloppy thinking)」に対する批判を参照せよ。]

私は適用可能な範囲においてほとんど絶対的に正しい (もちろん真の意味で絶対的に正しいわけではない) 「客観的真理」とみなして構わない科学的知識が存在すると考えている。例えば、ニュートン力学、電磁気学、熱力学、特殊相対性理論、……などの物理学の基本法則はその典型であり、それらは経験的検証を要する知識の中では最高の信頼性を持っている。しかし、我々の普段の生活に関わるレベルの問題は複雑過ぎるので、それに関する信頼できる科学知識はほとんど得られていない。環境、健康、……のような問題については、それらに関する知識に様々なバイアスが入り込んでいる可能性に注意を払わなければいけない。科学と言えども様々であり、そのことを忘れてはいけないのだ。

そして、私は以下に引用するソーカルとブリクモンの意見に賛成である:

 知識人、特に左派の知識人が、社会の発展のためにプラスになる貢献をしたければ、そのための最良の道は、世を風靡している考えを明確に分析し、支配的な言説から神秘的な匂いを取り払うことだ。自分で神秘を付け加えることではないのである。それらしい表題をつけたからといって、思想が「批判的に」なるわけではない。真に批判的な内容のある思想を持たねばならないのだ。

(『「知」の欺瞞』 276-277頁より)

ソーカルはパロディー論文でこの逆の主張を徹底して主張したのである。この点を無視すると、パロディー論文がどのような政治的意図を含んだ作品なのかを理解できなくなる。

「神秘的な匂いを取り払うこと」に関しては「ダイアン・フォッシーについて」も参照せよ。


ワイズのケースの利用の仕方

●第I部「サイエンス・ウォーズ」 59頁 (『現代思想』 1998.7、 34頁上段) より

ワイズ (Norton Wise)という科学史家がプリンストン高等研究所で科学史の職につこうとしたとき、そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまったのである。

●第I部「サイエンス・ウォーズ」 100頁 (『現代思想』 1998.8、 24頁上段) より

ワイズのケースのような人事潰しも、もし常習化されるのなら、科学者とは阿諛と追従しか必要としない人たちなのだ、と外部の人々から認識されるに至り、結局は自分たちの利益にならないだろう。

『現代思想』に掲載された時点で、金森は「ワイズのケース」に関する情報の出処や典拠を示してないどころか、その経緯さえを何も説明していない。要するに根拠にあたる情報を何も示してないのである。真実がどうであれ、このようなやり方には大いに問題がある。

このことを、左巻健男は理科教育MLにおいて「東スポ」的と批判している (1, 2, 3)。そして、そのことを金森は科学史MLにおける左巻健男と浜田寅彦の発言によって知っていたはずである。

左巻の批判の要点は、金森が何も根拠を述べてないことである。その上、 The Chronicle of Higher Education の記事を見ると、スキャンダラスな書き方がしてあるのでどこまで信用して良いかわからないのだが (この点を忘れてはいけない)、以下のように書いてある:

The committee voted 4 to 2 in Dr. Wise's favor, with both of the
dissenting votes cast by institute scholars: Edward Witten, a
athematical physicist in the School of Natural Sciences, and Glen W.
Bowersock, a historian in the School of Historical Studies. And at
that point, Phillip Griffiths, the institute's director, decided not
to proceed with the appointment.

左巻はここで引用した部分は信用できるとみなし、物理学者だけではなく、歴史家も反対票を入れていることを指摘しているのである。歴史家も反対票を入れているのであれば、果たして「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」というのがどこまで事実なのであったのかについて疑問が生じてしまう。

いずれにせよ、人事に関するスキャンダルを議論に利用したいならば、事の経緯をできるだけ詳しく調査し、もっと慎重に扱うべきである。

そして、その結果がどうであれ、科学者の科学論への批判を政治的な文脈で解釈し、全てもしくはその大部分が不当な攻撃であるかのように宣伝するのは誤った議論の仕方である。科学者によるものだからと言って、科学論への批判を不当な攻撃とみなすのは誤りである。批判の内容に真正面から答えるべきなのだ。

さて、以上の点は『サイエンス・ウォーズ』に所収の「サイエンス・ウォーズ」ではどのように扱われているか?

金森は『サイエンス・ウォーズ』に『現代思想』に掲載された原稿を収める過程で次のような註を付け加えている。

●第I部「サイエンス・ウォーズ」 108頁より

(63) ワイズは十九世紀の重要な物理学者、ケルヴィン卿の優れた伝記で知られる。人事潰しの模様は次の資料に報告されている。 "The Science Wars Flare at the Institute for Advanced Study", The Chronicle of Higher Education, May 16 1997. その報告にはラトゥールがその六年前に同じ研究所に応募したとき、恐らくは同じ理由のためにうまくいかなかったという事実が書かれている。

ここで紹介されている文献は理科教育MLで左巻が示した The Chronicle of Higher Education の記事に等しい。左巻は歴史家の反対票もあったと書いてあることを指摘している。しかし、金森はそのことには触れずに済ませている。

それ以前の問題として、左巻はこの文献を「スキャンダラスな感じ」と評価しているのだ。金森は、金森を批判している左巻がそのように評価している文献を、そのまま何の留保も付けずに「根拠」として採用してしまったのである。


愚弄や挑発と情報攪乱

●第II部「普遍性のバックラッシュ」 132-133頁 (『現代思想』1998.11、 58頁) より

2――戦争は続く

 戦争は単に武力だけで闘うものではない。それは相手の愚弄や挑発という心理戦や、情報攪乱【こうらん】や情報収集などの情報戦を必然的に伴う。サイエンス・ウォーズもまたひとつの戦争だとするなら、その「武力」つまり議論の内実自体での巧拙の競い合いだけではなく、相手を怒らせる修辞のやり取りが散見されるのも無理もないことかもしれない。例えば科学者側から何度も槍玉に挙げられたラトゥールだが、彼も黙っているわけではなく、まるでイエズス会師を激怒させるヴォルテールさながらの筆致でこう書きなぐる(23)。物理学者たちにとって、フランスはもうひとつのコロンビアに、つまりデリディウムやラカニウムというハードドラッグを作るディーラーの国になった。アメリカの博士課程の学生たちはクラックにも弱いがそれらの麻薬にも弱い。彼ら学生たちはきれいな水のような分析哲学を毎日飲みほすことも忘れて相対主義にかまけている。信念堅固な社会学者が右派の雑誌に人種の不平等を科学的に証明するという内容の論文を受理させ、それが公刊された後で左派の雑誌に自分が書いたことはまるででたらめだと述べたとしよう。そのとき人々は哄笑し、快哉【かいさい】を叫ぶだろうか。ソーカルのパロディー論文(24)のことを念頭に置きながら、そうラトゥールは問いかける。だがこの種の挑発的言辞のやり取りを追跡するのは心理的負担が大きい割には理論的深化に乏しいのは否めない。単なるどたばた劇にして、それを桟敷から見物するに留めるには、科学と科学論をめぐるサイエンス・ウォーズは本来あまりにも重要な問題群を抱えているはずだ。だからこの種の心理戦からは離れよう。

(23) B. Latour, "Y a-t-il une science apr\`es la guerre froide?", Le Monde, 18 Janv. 1997.

(24) A. Sokal, "Transgressing the Boundaries: Toward a transformative hermeneutics of quantum gravity, Social Text 46/47, pp.217-252.

以上で引用した部分も様々な意味で興味深い。

まず、金森は「戦争」という比喩を強調していること。この比喩に関しては、田崎晴明の「朝日キーワードの「サイエンス・ウォーズ」をお読みになってこのページにアクセスされた方へ」を参照せよ。

次に、金森は「相手の愚弄や挑発という心理戦や、情報攪乱【こうらん】や情報収集などの情報戦」について述べていること。読者が注意しなければいけないことは、このように述べている金森自身がそのような汚ない議論の仕方をしている当事者であるということだ。上の方で指摘したように、ソーカルに関して金森がどのようなことを宣伝したかを見ればそのことは明らかである。

最後に、ラトゥールの「冷戦後に科学は存在するか」 (ル・モンド紙、 1997年1月18日)の紹介の仕方について。実はこのラトゥールのエッセイはソーカルの目にとまり、ほとんどやぶへびに近い反批判を食らってしまったのである。 (この件については Emmanuel Marin による Summary of Articles from Le Monde (Feb 25th, 1997) を参考にした。)

上に引用した金森による要約では省略されているのだが、実はラトゥールはソーカルのパロディー論文を掲載してしまったソーシャル・テキスト誌をも馬鹿にしているのだ (Marin による Latour の記事の要約も参照せよ):

... Pourquoi donc cet article rasant fut-il accept\'e par une revue complaisante ? Parce que, tout simplement, c'est une mauvaise revue, ...

…… それではどうしてこの退屈な論文が親切な雑誌に受理されてしまったのだろうか? それは、極めて簡単なことで、それが駄目な雑誌だからなのだ。……

(Bruno Latour, Y a-t-il une science apr\`es la guerre froide?, Le Monde du 18 Janvier 1997 より)

ラトゥールはソーカルを批判してはいるが、ソーシャル・テキスト誌の味方ではない。実は「まるでイエズス会師を激怒させるヴォルテールさながらの筆致で」ラトゥールはソーシャル・テキスト誌をも罵倒していたのである。

このようなラトゥールをソーカルは次のように批判している:

Latour is, by contrast, too modest when he tries to minimize the lessons of the "affair" by claiming that Social Text is "quite simply a bad journal". First of all, that's not true: Social Text's latest issue, devoted to the crisis of academic labor, is well written and extremely interesting. But above all this reasoning evades the real scandal, which lies not in the mere fact that my article was published, but in its content. And here's the secret that makes the article so amusing, and which Latour would prefer to hide: the most hilarious parts of my article were not written by me! Rather, they are direct quotes from the Masters (whom I flatter with shameless praise). And among these Masters one indeed finds Derrida and Lacan, Aronowitz and Haraway -- but one also finds our overly modest friend ... Bruno Latour.

(Alan Sokal, Les mystifications philosophiques du professeur Latour, Le Monde du 31 janvier 1997 (「ラトゥール教授の哲学的ごまかし」) の英訳より)

ここでソーカルは、ソーシャル・テキスト誌はラトゥールが言うような駄目な雑誌ではないこと、パロディー論文に笑える一節としてラトゥールが書いたものが引用されていることを指摘しているのだ。

これは痛い。やぶへびもいいところだ。ラトゥールは、「まるでイエズス会師を激怒させるヴォルテールさながらの筆致」で、偽論文を掲載してしまったソーシャル・テキスト誌を馬鹿にし、アメリカの学問をも馬鹿にしているのだが、そのラトゥール自身が書いたものが実はソーカルのパロディー論文に引用されて笑いものになっていたのである。

以上は1997年1月の事件である。ラトゥールに対する痛烈な批判を含む『知的詐欺』がフランスで出版されたのは1997年10月である。しかし、ラトゥールはその批判を無視し、ラ・ルシェルシュ誌1998年3月号に掲載された「アマチュア科学」の連載記事の中で「ローベルト・コッホが1882年に発見した桿菌【かんきん】が原因で、ファラオが亡くなったというようなことがありえるだろうか?」「コッホ以前に桿菌は本当の存在をもたない」などと言っている。もちろん、このようなデタラメをソーカルとブリクモンは見逃さなかった。『「知」の欺瞞』の130頁の註 (123) でこの件は批判されている。その後、 1998年7月2日のロンドンでラトゥールはソーカルと直接対決した。しかし、長谷川真理子の「社会的構築としてのアヒル」 (『科学』 1998年9月号の700-701頁、『科学の目 科学の心』岩波新書623の163-167頁) によれば、ソーカルによる「たとえば、恐竜というものと、恐竜についてのわれわれの考えというものとを、はっきり別のものと区別しますか」という皆が聞きたがっていた質問にラトゥールは結局答えなかったのである。

このような「単なるどたばた劇」の存在は、論争の実態がどのようなものであったかを知る上で参考になる。

補足:相対主義批判の要点

以上の「どたばた劇」の背景にある相対主義批判の要点を簡単に説明しておこう。『「知」の欺瞞』の第4章「第一の間奏」とアラン・ソーカルの「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」 (April 1997) は相対主義色の強いテクストの曖昧さを強く批判している:

……。これらのテクストは、しばしば曖昧であり、少なくとも二つのまったく異なる読み方ができることがわかる。「穏健な」読み方をすると、議論に値するまともな主張か、真実ではあるが自明な主張が読みとれる。「過激な」読み方をすると、人を驚かすが誤った主張が読みとれるのである。不幸にして、「過激な」解釈の方がしばしばもとのテクストの「正当な」解釈だとされているばかりか、 (「Xは以下の事実を示した」という具合に) 確立された事実として受け取られている。われわれが鋭く批判したいのはこの点である。……

(『「知」の欺瞞』第4章「第一の間奏」70-71頁より)

追記 (2000年9月9日) Undressing the Emperor, Scientific American, March 1998 の次のくだりにも注意せよ: He [Alan Sokal] articulates clearly, stringing together astonishingly long and complex sentences. I ask him how many people really take such a position. "Well, very few people would say it in so many words, so explicitly and so precisely. But they say vague things that come down to that, if taken seriously. If you press them on that, they might come up with 'Oh, what I really meant is not the radical thing it seems to mean, but what I really meant was blah blah blah,' where blah blah blah is something that's not only not radical at all, it's true and trivial."]

このような批判があることを知っていれば、ソーカルとブリクモンが「ローベルト・コッホが1882年に発見した桿菌【かんきん】が原因で、ファラオが亡くなったというようなことがありえるだろうか?」「コッホ以前に桿菌は本当の存在をもたない」と「過激な」ことを言うラトゥールを厳しく批判するのは当然だし、ソーカルが直接対決の場でラトゥールの曖昧な点を明確にするために「たとえば、恐竜というものと、恐竜についてのわれわれの考えというものとを、はっきり別のものと区別しますか」と質問した理由もわかる。

科学論における相対主義色の強いテクストの曖昧さは少なくともトーマス・クーンとポパー学派の有名な論争の時点で大きな問題になっていた。イムレ・ラカトシュ、アラン・マスグレーヴ編『批判と知識の成長』 (森博監訳、木鐸社、 1985年、原書: I. Lakatos and A. Musgrave (eds.): Criticism and the growth of knowledge, Cambridge U.P., 1970) を見ると、クーンの『科学革命の構造』の曖昧さが論争全体に関係していたことがわかる。『「知」の欺瞞』の「第一の間奏」が批判している相対主義色の強いテクストの曖昧さは相当に根の深い問題なのだ。科学論者はこの点に関して真摯な回答を用意すべきである。

追記 (2000年9月9日) 上のように「曖昧さ」を強調すると、「曖昧さ」そのものを批判しているかのように誤解されてしまうことがあるようなので補足しておく。単に曖昧なだけでそれを強く批判するのは誤りである。しかし、肝腎な点において説明が曖昧な場合にはそのことを指摘されても仕方ない。そして、それだけではなく、ある分野において長年に渡って (例えばクーン以来数十年にも渡って) 肝腎の点において曖昧なテクストを生産する習慣が蔓延している疑いがある場合はそのことはやはり批判されるべきである。さらに、テクストの曖昧さが論争を有利に進めるために利用されている疑いがあるなら、なおさら強く批判されるべきである。一般に、単に曖昧なだけでそれを強く批判するのは誤りだが、その曖昧さが害毒の原因になっているような場合には批判されるべきである。]

追記 (2000年10月7日) 「相対主義に関するよくある質問」も参照せよ。]


『「知」の欺瞞』に対するよくある誤解

●第II部「戦後――サイエンス・ウォーズ補論」 300頁より

『科学的詐欺』に所収されているそれ以外の論文のなかでは、自ら地球物理学の専門的訓練を受けた後、科学の公衆理解問題に携わっているベルジェロンの「科学の輪を広げる?」(23)や、カロンの「科学論の擁護と例示」(24)などが興味深い。ベルジェロンは、ある小説を味読する過程でそこに地震の描写がでてくるに及び、それまで純粋に亨受していた文学的経験が、自分の専門的知識による「検閲」によって台無しにされたという経験を語っている。そして『知的詐欺』はそれと似たような検閲、監視、監査的な精神の表れであり、確かに個別事例の摘発自体は間違いとはいえないが、全体としての読後感はきわめて不愉快なものだと述懐している。……

このように金森は、ベルジェロンの感想を肯定的に引用することによって、『知的詐欺』 (邦訳は『「知」の欺瞞』) は科学者の専門知識による「検閲、監視、監査的な精神の表れ」であるとみなしている。

追記 (2000年9月4日) 「純粋に亨受していた文学的経験」が「地球物理学の専門的知識」よりも優先することを当然だとみなすのはおかしいし、自分の専門知識によって小説細部のあらが見えてしまうことを「検閲」だと騒ぐのもどうかしている。金森の科学に対する偏見もしくは差別意識に関しては「オシログラフの波形としてしか見ない云々」の件も参照せよ。この問題に関しては「SF設定という仕事〜金子隆一&小林伸光インタビュー〜」 (SFオンライン1998年1月25日号) も参照せよ。私は「SF設定」のような仕事が社会的にもっと評価されるべきだと考えている。]

専門家が、理解不足によって生じた単なる誤りを検閲し、必要以上に強く非難することは不愉快であり、私も好ましくないと思う。

しかし、『「知」の欺瞞』が批判しているのはそのような単なる誤りではない。そのことは『「知」の欺瞞』の中で何度も強調されている。『「知」の欺瞞』が批判しているは、 (1) 理解してない科学理論を長々とあげつらうこと、 (2) 正当な理由もなく自然科学の概念を人文社会科学に持ち込むこと、 (3) 皮相な博学ぶりを誇示し読者を感服させ威圧すること、 (4) 全く意味のない言葉や文章をもて遊ぶこと、という悪しき流儀なのである (『「知」の欺瞞』の6-7頁を見よ)。

他にも『「知」の欺瞞』の「エピローグ」の「教訓」を見よ。そこで否定されているスタイルを全て肯定するとどのようなことになるかについては、パロディー版「『「知」の欺瞞』の教訓 Version 1.0」がわかり易いと思う。

ベルジェロンや金森のような誤解を広めることは、『「知」の欺瞞』が批判している悪しきスタイルの存続に手を貸すことになる。悪しきスタイルの存続が誰を傷付けることになるかについて、金森に好意的な読者はよく考えてみるべきである。『「知」の欺瞞』は悪しきスタイルに翻弄され続けて来た人達もしくはこれからそうなってしまうかもしれない人達を救済するために役に立つ本なのだ。 (デタラメなサイエンス・ウォーズ・キャンペーンに関わる他の誤解については「「サイエンス・ウォーズ」の扱い方に関するよくある誤解」を参照せよ。)

補足:偽論文について

ソーカル以外の偽論文については「偽論文はソーカルの専売特許ではない」も参照せよ。偽論文を投稿することはソーカルが発明したわけでもないし、ソーカルの偽論文以降も行なわれているし、それによって学問の倫理規範が危機に瀕しているわけでもない。しかし、残念なことに、偽論文について大袈裟に騒ぎ立て、にっくきソーカルの信用を潰すことによって、批判をかわそうとする人達がいる。このことについては「『思想』1998年第10号に発表された野家啓一のエッセイについて」および「サイエンス・ウォーズ論者達」を参照せよ。「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」 (April 8, 1997) を読めばわかるように、ソーカルはカルチュラル・スタディーズやサイエンス・スタディーズ (科学論) の敵ではないのだ。

追記 (2000年9月9日) 科学者による偽論文投稿実験ではないが、奇術師による偽超能力に関して「プロジェクト・アルファ (もしくはアルファ計画)」という非常に有名な実験がある。 1979年に50万ドルの寄付によって設立されたマクダネル超心理学研究所は300人近い応募者の中から二人の超能力少年を被験者として採用した。そして、研究所の所長には、偽超能力あばきで有名な奇術師のジェイムズ・ランディから、偽超能力者に騙されないために有益な11項目からなる注意事項が届いていた。それにもかかわらず、その二人は様々な超能力を次々と実演してみせ、超能力実験は大成功をおさめたのだ。しかし、実際にはその二人の少年はランディの弟子であり、研究所はランディが親切に送り付けてくれた注意事項を無視したせいで、まんまと騙されてしまったのだ。これが「プロジェクト・アルファ」の概要である。詳しい解説については、高橋昌一郎の科学哲学のすすめ「第2回 科学と擬似科学」 (『パリティ』2000年9月号) およびテレンス・ハインズ著『「超科学」をきる』 (化学同人) の第7章を見よ。私個人はこのような実験には十分な価値があると思う。マクダネル超心理学研究所の関係者にとって、「顔に泥を塗られるような結果」 (cf. 79頁) に終わってしまったのだが、それは自業自得である。「ソーカルのやり方が汚ない」 (91頁) と言う人は「ランディのやり方も汚ない」と言うのであろうか?]


ダイアン・フォッシーについて

●第III部「エコ・ウォーズ」 443-444頁より

 デイはその『エコ・ウォーズ』 (108) のなかで、環境破壊によって殺害される数多くの生物への哀歌を贈り、同時に環境保護のために文字通り命を捧げた何人もの人の物語を語っている。なかでもフォッシー (Dian Fossey) のことを想起しよう (109)。一九六七年以降何年もアフリカのルワンダに住み込み、動物生態学者として世界的に貴重なゴリラの生態研究に多くの業績を残した彼女は、ときには手で触れ合うことさえできるようになったゴリラたちが、わずかばかりの金につられた周辺住民に虐殺されるのを何度か目撃するにつれ、単なる「科学的」調査で満足することをやめ、密猟者との闘争を主要な活動にしていく。悪趣味な旅行者相手に手を灰皿として、頭蓋骨をトロフィとして売りさばかれるために、個体識別をして性格まで熟知していたゴリラたちが殺されていくのを見て、怒りの感情を抑えられなかった彼女は、密猟者を見つけると激しく罵った。その独自の活動と密猟者への激しい攻撃のために恨みをかった彼女は、一九八五年末、その土地で使われている鉈【なた】で頭から口にまで到る深手をおわされて惨殺される。ゴリラを愛し人間を敵に回して、ついには人間に殺された彼女の無念さを想え。そして人間の利害のなかで常に周辺化され、蹂躙【じゅうりん】されていく多くの生命たちのことを想え。

(108) David Day, Eco Wars, Harap, 1989.

(109) ibid., chap. 1, pp. 9-13.

ダイアン・フォッシー (Dian Fossey 1932-1985) の劇的な半生は「愛は霧のかなたに (Gorillas In The Mist : The Adventures Of Dian Fossey)」というタイトルで映画になっているほどである (アメリカ、 1988年)。

フォッシーがゴリラ達が密猟によって虐殺されていることに怒り、それを何とかしようとしたのは非常に正しいと思う。そのためにむごたらしい殺し方をされたフォッシーはさぞかし無念であったことだろう。

しかし、フォッシーの行為を全肯定し、英雄に祭り上げるのは正しくない。なぜなら、そのような行為はフォッシーが犯した誤りを隠してしまうからである。フォッシーのやり方が正しかったかどうかを分析し、その教訓を次の世代に伝えるべきなのだ。だから、私はフォッシー英雄伝説をそのまま宣伝してしまう金森のやり方は正しくないと思う。

さて、フォッシーはなぜ殺されてしまったのだろうか? フォッシーは「密猟者を見つけると激しく罵った」程度で惨殺されてしまったのであろうか? 「その独自の活動と密猟者への激しい攻撃」とは具体的にどのようなものだったのだろうか?

ダイアン・フォッシーの情報はインターネット上の検索エンジンで大量に見付けることができる。例えば、 Dian Fossey and the Gorillas of the Virunga Volcanoes は非常によく書けたフォッシーの紹介である。そこには次のように書いてある。

フォッシーは、「密猟者達に宣戦布告し、密猟者達の首に懸賞金をかけ、はぐれてやって来た密猟者達の畜牛を殺し、密猟者達の家を焼き」、「自分の学生には銃を携帯することを要求し」、「フォッシーは自分自身は魔女でその敵は呪われるという話を広め」、「彼女に掴まった密猟者は拷問されるという噂まであった」のである。そして、「フォッシーに批判的な人達は、彼女はゴリラ達とあまりにも親密になり過ぎ、ゴリラ達にあまりにも感情的に熱中し過ぎたので、優れた保護主義者になれなかった、と主張した。確かにその通りで、ルワンダの大型類人猿保護政策を改善するためにゴリラ・ツアーで儲けようという計画がここ数年かなり実行されたにもかかわらず、ゴリラ達は今でも絶滅の危機に瀕している」のである。

追記 (2000年9月9日) 以上の説明から、暴力の儀牲になった環境保護論者の典型としてフォッシーを挙げるのはおかしいことがわかる。少なくとも、フォッシーは非暴力的な闘争をしていたのに暴力の儀牲になってしまったわけではない。「密猟者を見つけると激しく罵った」程度で殺されたわけではないのだ。彼女の「その独自の活動と密猟者への激しい攻撃」は「密猟者達の家を焼く」などの暴力による攻撃であり、現地の密猟者達に「戦争」を仕掛けたフォッシーは結果的に暴力によって殺されてしまったのである。しかし、金森はこのことが読者に十分伝わるような書き方をしていない。]

「誰よりもゴリラ達を愛していた」フォッシーを魅力的に紹介するためにも、環境問題について深く考えるためにも、金森のようにフォッシー英雄伝説を無批判に紹介すべきではなく、彼女の過激な側面と失敗を余すところなく説明すべきだと思う。

以上ではフォッシーに関する部分だけを問題にしたが、金森による他の事例紹介とその利用の仕方についてはどうだろうか? この疑問は「エコ・ウォーズ」の章だけではなく、 1冊の全体に突き付けられるべきだと思う。『サイエンス・ウォーズ』の読者が金森による事例紹介を鵜呑みにするのは危険である。


宣伝文句

http://www.utp.or.jp/shelf/200006/010085.html から金森修の『サイエンス・ウォーズ』の宣伝文句を資料として、以下に抜粋しておく:

学界を席巻した科学をめぐる「戦争」.それは科学論批判に始まり,ソーカルの偽論文事件を契機として激烈なポストモダニズム叩きへと転じてゆく――.本書はその委細顛末を沈着に跡づけながら,文化政治学的視座から犀利に検討,現代社会の本質へ迫る.気鋭の哲学論集.

〈類書〉

・構造主義生物学 柴谷篤弘 2800円
・講座進化2 進化思想と社会 柴谷・長野・養老編 2400円
・物と心 大森荘蔵 5000円

編集担当から

 待ち合わせの喫茶店に,若返ったアンソニー・ホプキンスみたいな人が現れた.初対面だったが,すぐに金森先生とわかった.2時間ばかり話し込んだ.「科学について考えることは,ある意味では,現代社会の本質について考えることなんです」という一言が印象に残った.あれから2年,その言葉を体現したような本がまとまりました.装丁は平野甲賀さんです(HJ).

「戦争」=「激烈なポストモダニズム叩き」という見方を強調していることに注目。「本書はその委細顛末を沈着に跡づけながら云々」の実態がどのようなものであるかはこの文書でレポートした通りである。 (編集者の長谷川一による推薦の言葉も参照せよ。)


藤永茂による村上陽一郎批判

金森は「サイエンス・ウォーズ」 22頁において、「科学技術の犯罪の主犯は科学者か?」 (岩波『世界』1998年1月号、 289-301頁) における藤永茂による村上陽一郎批判を紹介している。

藤永は、村上が Richard Feynman を悪漢に仕立てるために『ご冗談でしょう、ファインマンさん』から都合の良い部分だけを不自然なやり方で引用していることと、村上がシラード英雄伝説に基いて議論を進めてしまっていることを指摘している。

これは村上陽一郎にとって大変不名誉なことである。なぜなら、村上が科学者が邪悪であることを強調するために卑怯でかつ不公平なやり方で引用を行なっていることと、村上は科学史家であるのに原爆のような科学史上重大な事柄に関して一次資料を十分調査せずに本を書いていることが暴露されてしまったからである。

私は、藤永によるこの厳しい暴露に対して、村上陽一郎が正面から答えた文献を知らない。

金森も藤永の批判が村上の名誉を失墜させかねないほど厳しいものであることに何も触れていない。


バーバラ・エプシュタインについて

金森は「サイエンス・ウォーズ」80-85頁において、 Barbara Epstein の "Postmodernism and the Left" (New Politics, vol. 6, no. 2 (new series), whole no. 22, Winter 1997) を紹介している。

しかし、金森による要約を読んでも、 Epstein が Stanley Fish, Andrew Ross, Bruce Robbins を強く批判していることは全くわからない。 Fish は有名な文芸評論家であり、 Social Text 誌の発行元である Duke University Press の executive director をつとめている。 Ross は Sokal のパロディー論文を掲載してしまった Social Text 誌の Science Wars 特集号の編集者であり、 Bruce Robbins も Social Text 誌の編集者である。

金森は、 Epstein の "Postmodernism and the Left" で示されている「アメリカ・ポストモダニズムの興隆に関する知見を紹介しておこう」 (80頁) と宣言することによって、 Epstein の厳しい批判の肝腎な部分を省いてしまっているのだ。

金森は、 82頁において、エプシュタインによる「強い」ポストモダニズムと「弱い」ポストモダニズムの有用な区別を紹介している。そこで、金森は「ジェンダーどころか生物的差異までもが社会構成物となる」ような「強い変種」を切り捨てた後で「エプシュタイン自身は、その弱い変種なら自分なりに十分支持できるとする」と述べている。

これは、 "Postmodernism and the Left" の一部分の要約として誤りではないが、上の区別を Epstein がどのように利用しているかを見ると、金森は Epstein の議論の肝腎の点を省いてしまっていることがわかる。実際、 Epstein は「強い」ポストモダニズムと「弱い」ポストモダニズムの区別を説明した直後に次のように述べている:

THE PROBLEMS OF POSTMODERNISM THAT I HAVE NAMED, and more, have been displayed in the public response to the Sokal article. The first response was from Stanley Fish, Professor of English at Duke University and a leading figure in the field of Cultural Studies. In an op-ed piece in the New York Times, "Professor Sokal's Bad Joke,"12 Fish tried to shift the terrain of the debate from postmodernism to the social sciences, suggesting that the field of Science Studies consists of scholars whose modest aim is to investigate the ideas that drive scientific research. The work of these scholars, he implied, hardly goes beyond the bounds of conventional sociology. In this article, Fish appeared not to have noticed the more extreme positions that have been taken in the name of postmodernism or Cultural Studies, inside or outside the field of Science Studies. It is hard not to see Fish's piece as a strategic move, a slide to the weak or restrained position when the strong position has begun to look foolish.

(Epstein の "Postmodernism and the Left" より)

「ポストモダニズムの問題」はソーカルの偽論文への反応によく表われていると Epstein は主張している。 Stanley Fish の "Professor Sokal's Bad Joke" (The New York Times, May 21, 1996) はその最初の事例である。

Epstein によれば、 Fish は論争の場をポストモダニズムから社会科学全体に変え、サイエンス・スタディーズの穏健さを強調し、ポストモダニズムやカルチュラル・スタディーズの名のもとで、サイエンス・スタディーズの活動範囲の内外に、極端な立場を取っている人たちがいることを隠そうとしており、ポストモダニズムの強いバージョンが馬鹿げているように見え始めたので、弱くて控えめなバージョンに論争の場を戦略的にこっそり移動させようとしているのだ。

Epstein による「強い」ポストモダニズムと「弱い」ポストモダニズムのダブル・スタンダードに対する批判は、相対主義色の強いテクストが「過激な」読み方と「穏健な」読み方の両方ができることを強調している『「知」の欺瞞』の認識的相対主義批判に非常に似ている。さらに、哲学者の Paul Boghossian と Thomas Nagel による Stanley Fish 批判も参照せよ。

一見して金森による Epstein の主張の紹介は非常に好意的なのだが、肝腎な点を省いてしまっている。読者がこのことに自力で気付くためには、英語の原論文を読まなければいけない。一般読者にそれは不可能である。

余裕があれば、 Epstein によって要約されている Ross と Robbins (Social Text 誌の編集者達) の反応、特に Robbins の反応がどのようなものであったかを見ておいた方が良いだろう。 Epstein が引用している彼らの反論は以下で読める:

関連の議論は Dabate in Lingua FrancaDebate in Tikkun で読める。

例えば、 "Anatomy of a Hoax" の中で、 Robbins は編集者の一人として、 Sokal の偽論文の Social Text 誌掲載に関して次のように述べている:

But we thought Sokal had a real argument, and we still do. Allow me to quote Paul [sic] Horgan, senior writer at Scientific American, summarizing in the July 16 New York Times: Sokal, Horgan says, "proposed that superstring theory might help liberate science from `dependence on the concept of objective truth.' Professor Sokal later announced that the article had been a hoax, intended to expose the hollowness of postmodernism. In fact, however, superstring theory is exactly the kind of science that subverts conventional notions of truth."
(Robbins の "Anatomy of a Hoax" より)

しかし、我々は Sokal が本物の議論をしていたと思っていたし、今でもそうだ。 Scientific American 誌のシニア・ライターの Paul Horgan [ママ、 John Horgan が正しい] による7月16日の The New York Times 紙に掲載されたまとめを引用しておこう。 Horgan 曰く「Sokal は、超弦理論によって‘客観的真理の概念への依存’から解放の科学を救い出すことを提案した。 Sokal 教授は後で、その論文は悪ふざけであり、ポストモダニズムの内容の無さの暴露を意図したものであったことを発表した。しかし実際には、超弦理論はまさに慣習的な真理の観念を転覆させる類の科学なのである。」

このように、偽論文であることを暴露された後も Sokal の論文には意味のある議論が書いてあったという幻想に Social Text 誌の編集者達はしがみついていたのである。 (John Horgan については「『科学の終焉』を書いたホーガンのレトリック」を参照せよ。もちろん、超弦理論は Horgan や Robbins が信じているような代物ではない。)

他にも Robbins は、 Sokal に賛成する人たちの怒りが表現しているのは「女たちは台所に引っ込んでいて、ホモや他の自然な対象に関する冗談が恥ずかしくなかった時代への熱望である」などとわけのわからないことをわめいている。 (Robbins によるこのくだらない暴言と Ross の「カルチャー・ウォーズからサイエンス・ウォーズへ」という偏った見方を比べて見よ。)

それに対して、 Epstein は "Postmodernism and the Left" の中で Sokal に賛成していた人たちとして、 Ruth Rosen (フェミニスト歴史家)、 Katha Pollitt (フェミニスト・ジャーナリスト)、 Jim Weinstein (In These Times の編集者)、 Michael Albert (Z Magazine の編集者) と Epstein 自身を挙げている。

Sokal に賛意を示した人達の多くは左翼やフェミニスト達であった。

金森は、 Epstein の批判対象になっている人物の名前として、 Social Text 誌側の Stanley Fish、 Andrew Ross、 Bruce Robbins を挙げずに、 Ernesto Laclau and Chantal Mouffe、 Joan Scott、 Judith Butler、 Calvin Thomas を挙げている。この選択は金森が Ross や Social Text 誌の Science Wars 特集号を絶賛していることを見ると非常に興味深い。


ミーラ・ナンダについて

金森は「普遍性のバックラッシュ」142-145頁において、 Meera Nanda の "The Epistemic Charity of The Social Constructivist Critics of Science and Why The Third World Should Refuse The Offer (Noretta Koertge ed., A House built on sand, Oxford U. P., 1998, Chap. 18, 286-311) と "The Science Wars in India" (Dissent, Vol. 44, No. 1, Winter 1997) を紹介している。

しかし、金森による要約を読んでも、 Andrew Ross と Sandra Harding を Nanda が厳しく批判していることは全くわからない。金森は Ross と Harding を絶賛しているのだから、 Nanda を紹介するときに、 Ross と Harding への批判も紹介し、それに答えておいた方が良かったと思う。 (Sokal による Harding 批判は「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」で読める。 Sokal の批判と Nanda の批判は互いに補い合っているとみなせる。)

さらに奇妙なことに、金森は Nanda を「カルチャー・ウォーズからサイエンス・ウォーズへ」という金森が依拠している Andrew Ross の偏った見方の中に位置付けてしまっているのだ。

先に進む前に「カルチャー・ウォーズからサイエンス・ウォーズへ」という Ross による偏った見方について説明しておこう。金森はそれについて次のように述べている:

 サイエンス・ウォーズはいまでも続いている。後でその模様の一端を紹介するが、本稿はその前に、一見あまり関係ない話をすることから始めてみたい。それはいわゆるカルチャー・ウォーズをめぐるある種の動きである。この話題をここでもち出すのは私の「気まぐれ」にすぎないのではない。なぜならサイエンス・ウォーズで最も直接的な攻撃目標とされた人物の一人、『ソーシアル・テクスト』の編集者アンドリュー・ロスは、二度にわたってサイエンス・ウォーズとカルチャー・ウォーズとの関係を示唆する判断を示しているからだ。彼はサイエンス・ウォーズとは、カルチャー・ウォーズでの成功に気をよくした保守派陣営が展開する第二次戦線だという見方をとる(3)。本稿はロスのこの言葉により肉づけを与え、それがもちうる意味について考えることを主要な目標とする(4)

(「普遍性のバックラッシュ」120-121頁より)

これに続けて、金森は Ross を絶賛している。実は金森の「サイエンス・ウォーズ」観はほとんど Ross のそれの二番煎じであると言って良い。しかし、その Ross の見方は論争の実態を、自分たちにとって都合が良いように、おそろしく単純化したものに過ぎない。

Ross がいかに偏った見方で論争をねじ曲げようとしているかを見るために、 Ross の言葉を引用しておこう (Robbins による Sokal 批判のスタイルも参照せよ):

But his [E. O. Wilson's] comment referred to a new arena of conflict that some have dubbed the Science Wars, a second front opened up by conservatives cheered by the successes of their legions in the holy Culture Wars. Seeking explanations for their loss of standing in the public eye and the decline in funding from the public purse, conservatives in science have joined the backlash against the (new) usual suspects - pinkos, feminists and multiculturalists of all stripes.
("Science Backlash on Technoskeptics: `Culture Wars' Spill Over", The Nation 261 (10), October 2, 1995, pp.346-350)

しかし、彼の [E. O. Wilson の] コメントは論争の新たな場について触れている。それはサイエンス・ウォーズと名付けられており、聖なるカルチャー・ウォーズにおける自軍の勝利に鼓舞された保守主義者達が開いた第二の戦線である。科学における保守主義者達は、大衆の信頼の失墜と公的予算からの資金供給減少の理由を捜し求め、(新たな)いつもの容疑者達――左翼がかった人達とフェミニスト達とあらゆる種類の多元文化主義者達――に対する反動に結集したのである。

The eighties saw the advent of the "Culture Wars," led by Alan Bloom, William Bennett, Dinesh D'Souza, and others; now the nineties may bear witness to the "Science Wars," a conflict led by conservatives in science such as Paul Gross and Norman Levitt against so-called science bashers
("Introduction", Social Text 46/47, vol. 14, no. 1-2 より)

1980年代には Alan Bloom、 William Bennett、 Dinesh D'Souza らによって指揮された “カルチャー・ウォーズ”が到来した。この1990年代には“サイエンス・ウォーズ”すなわち所謂科学叩きに反対している Paul Gross と Norman Levitt のような科学における保守主義者達によって指揮された論争を目撃することになるだろう。

Ross は「サイエンス・ウォーズ」という言葉を公平な立場に立って宣伝しているわけではない。 Ross は自分達を保守的勢力への抵抗者とみなし、科学者達による批判は保守主義者達による不当な攻撃の一種であるという見方を「サイエンス・ウォーズ」の名のもとで宣伝して、科学者批判を煽ろうとしたのである。しかし、現実の論争の実態をそのような単純な見方に押し込めるわけがない。金森はこの Ross の偏った見方の二番煎じを日本で紹介したに過ぎない。

金森による Nanda の位置付けが奇妙であるという話に戻ろう。金森は次のように述べている:

 自民族の固有性の認知という宝物と引き換えに、普遍的妥当的な科学的知識という理念を放擲することは、結局伝統社会のしがらみをそのまま受容する現状維持的立場につながるというこの指摘は、マルチカルチュラリズムやポストコロニアリズムなどがめざしている場所的な多様性が、思いがけずも保守的勢力と連結する可能性を内包しているという重大な事実に光を当ててくれる。ナンダの論考は単なるサイエンス・ウォーズの枠組みを超えて、既にカルチャー・ウォーズの問題機制とのリンクを明らかなものにしてる力作だといってよい。

(「普遍性のバックラッシュ」144-145頁より)

実は Nanda は結果的に保守的勢力と結託してしまっている人物として Ross と Sandra Harding を名指しで批判しているのだ。これは、金森が Ross と Harding を保守的勢力への抵抗者として絶賛していることと比べて対照的である。しかし、金森の要約を読んでも Nanda が Ross たちを批判していることはわからない。

実際、 Nanda は Ross を次のように批判している

...... As even a cursory reading of their work will show, the left academics who defend some variant of cultural relativism as "liberatory" believe that claims of universality of modern science prevent Westerners from fully empathizing with the moral and cognitive logics of others. Andrew Ross, for instance, seems to believe that supporting popular beliefs, say, in alternative medicine (his example) is a sign of "democratization from below," while those who demand that the popular beliefs be scientifically tested are elitist. According to Ross, only when we attenuate the claims of empirical rationality -- and recognize "different ways of doing science, ways that downgrade methodology, experiment, and manufacturing in favor of local environments, cultural values, and principles of social justice" -- can we begin to move toward true diversity of knowledge systems.

(Nanda の "The Science Wars in India" より)

Nanda は「文化相対主義の幾つかの変種を“解放的”とみなして擁護している左翼の大学人達は、現代科学の普遍性の主張は西欧人が他者の倫理と認識の論理に完全に共感することを妨げていることを信じている」という観察を述べ、 Ross をその典型とみなしているのだ。 Nanda によれば、 Ross のような人たちはインドなどの第三世界の保守主義者達にとって都合の良いことを述べていることになるのだ。

Ross にとって保守的勢力と結託しているのは大雑把に言って科学者達であり、 Nanda にとっては逆に Ross たちがそうなのである。この違いを無視して、「カルチャー・ウォーズからサイエンス・ウォーズへ」という Ross の偏った見方と Nanda の論考を安易に繋げてしまうのはおかしいと思う。読者は Nanda がどういう立場なのか、混乱してしまうのではなかろうか?

読者が Nanda の立場を理解するためには、少なくとも Nanda が Ross たちを名指しで批判していることを知っておく必要がある。金森は Nanda について「科学者陣営寄りの発言」 (145頁) と一応書いてはいるが、それだけでは Nanda が金森が絶賛している Ross たちを厳しく批判していることはわからないだろう。

Nanda の "The Science Wars in India" が発表された文脈についても触れておこう。その論文が発表された Dissent 誌では Alan Sokal と Social Text 側の Stanley Aronowitz の論争が継続中であった。 Nanda の論文が掲載された号には Sokal の Aronowitz への反論も掲載されている。このような文脈で Nanda の論文が発表されたことは金森の紹介を読んでももちろんわからない。

さらに、次に引用する金森の Nanda 批判にも問題がある:

 だがナンダの議論自体にも何ら問題がないわけではない。自国の保守派が民族的特殊性を政治的に利用するという危険性は、科学的普遍性を楯に侵入してくる外国勢力が、その普遍性を楯にその外国自身の国内事情を隠蔽するという可能性を棒引きにするほどに、大きなものといえるだろうか。科学的普遍性に対する社会構成主義的な吟味は、理念的な普遍性自体を拒否するというより、普遍性の名の下に提示されているものが、事実上は文脈的拘束を受けて本当の普遍性になっていないということを明らかにすることをめざしていたはずである。だから、ナンダの議論には、論争の焦点を微妙にずらしてしまう、ある危険な政治性があるように思える。……

まず、 Nanda が非常に具体的な問題を扱っていることに注意を払うべきである。 Nanda は、公立学校で西洋の数学や自然科学の代わりに Vedic Mathematics (古代インド数学) や Vastu shastra (古代インド物質科学) をべきだというインドの保守的勢力の圧力を問題にしている。 Nanda の論考を真正面から批判するためには Nanda が扱っている具体的な問題に関して自分自身がどのように考えているかを述べる必要がある。例えば、科学の基礎的で信頼できる部分は普遍的であるという意見に賛成か否か、それの代わりにインドの公立学校では Vedic mathematics や Vedic shastra を教えることにすることに賛成か否か、などの問いに答えなければいけない。 (私の意見は言うまでもないと思うが、 Nanda と同じく、前者には賛成で、後者には反対である。)

金森はこの具体的な問題には触れずに、 Nanda の意見に対して、「科学的普遍性を楯に侵入してくる外国勢力が、その普遍性を楯にその外国自身の国内事情を隠蔽するという可能性」の方が危険ではないか、という疑問をぶつけている。しかし、実際には、どれだけ危険かの評価はケース・バイ・ケースであり、状況を具体的に確定させないと不可能である。そして、たとえ金森が想定している具体的状況が Nanda が示した状況よりも危険であったとしても、金森の Nanda 批判は的を射ているとは限らない。なぜなら、金森が想定している問題への対処と Nanda が扱っている問題への対処が互いに相容れないとは限らないからだ。

ついでに述べておくが、「科学的普遍性」という言葉の意味も曖昧だ。「科学の基礎的で最も信頼できる部分が持つ普遍性」を意味しているのか、それとも「科学的普遍性に対する社会構成主義的な吟味は……」で述べられているような「科学の名のもとで騙られている贋物の普遍性」を意味しているのか? (Alan Sokal による「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」の「ずさんなものの考え方 (sloppy thinking)」に対する批判を参照せよ。)

次に、金森による「科学的普遍性に対する社会構成主義的な吟味は、理念的な普遍性自体を拒否するというより、普遍性の名の下に提示されているものが、事実上は文脈的拘束を受けて本当の普遍性になっていないということを明らかにすることをめざしていたはずである」という批判は論争の文脈を無視している。

Alan Sokal は相対主義色の強いテクストの多くが過激な解釈と穏健な解釈を許すことを指摘し、 Barbara Epstein はポストモダニズムを「強い」バージョンと「弱い」バージョンに分類しており、二人は共にそれらを使い分けるダブル・スタンダードを問題にしていた。この点は少なくとも Sokal の偽論文が Social Text 誌に掲載されてしまった後の論争ではずっと問題になっていた。

さらに、 Sokal と Epstein 以外にも、哲学者の Paul Boghossian と Thomas Nagel が Epstein と同様の批判を述べている:

Fish also takes Sokal to task for misunderstanding the central claim of postmodernism. According to Fish, no one has ever asserted the radical thesis that reality is socially constructed, but only the far more innocuous thesis that scientific theories of reality are socially constructed. Here Fish is just being disingenuous, for he is presumably aware of the many texts in which it is precisely the radical thesis that is advocated.
(Letter from Paul Boghossian and Thomas Nagel, Mystery Science Theater -- Lingua Franca (July/August 1996) より)

Fish もまた、ポストモダニズムの中心的主張を誤解しているという理由で、 Sokalを非難している。 Fish によれば、実在は社会的に構成されていている、という過激なテーゼを強く主張している人は誰もいないし、実在に関する科学的な諸理論は社会的に構成されている、というずっと悪気のないテーゼのみが強く主張されているのだ。ここで Fish は不正直であるに過ぎない。というのは、おそらく彼は過激なテーゼをまさにそのまま唱道している多くのテクストの存在に気付いているからである。

金森による社会構成主義の説明は「穏健な」「弱い」バージョンである。これに対して、 Nanda が気にしているのは、「過激な」「強い」バージョンとみなせる相対主義色の強い言説が保守的勢力に利用されてしまうことである。

Nanda が具体的に誰のどのような主張を危険視しているかに関しては、 "The Science Wars in India" における Ross 批判と Harding 批判を見ればわかる。 Nanda が名指しで批判している対象に「過激な」「強い」側面が存在することを無視してはいけない。繰り返しになるが、金森による要約を見ても、金森が絶賛している Ross たちを Nanda が名指しで批判していることはわからない。

要するに、金森が絶賛している人たちが「過激な」「強い」バージョンとみなせるテクストを書いていることに、金森は触れずに済ませているのだ。上で引用した Boghossian と Nagel による Fish 批判はそのまま金森にも当てはまる。


このページの歴史

2000年9月10日 「藤永茂による村上陽一郎批判」「バーバラ・エプシュタインについて」「ミーラ・ナンダについて」を追加した。

2000年8月23日 公開。旧版には言い過ぎの部分が多数あった。そのことを反省して、全面的に書き直してできたのがこの文書である。 (恥をさらすために旧版へのリンクもそのまま残しておく。) 「追加された註92」「パロディー論文の結論への心の高ぶり」「ワイズのケースの利用の仕方」「愚弄や挑発と情報攪乱」「補足:相対主義批判の要点」「『「知」の欺瞞』に対するよくある誤解」「補足:偽論文について」「ダイアン・フォッシーについて」「宣伝文句」。


黒木 玄