全面的に書き直したので新版の方を見て下さい。

「知」の欺瞞ソーカル事件と『知的詐欺』以後の論争掲示板関連情報

金森修によるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態 (旧版)


金森修著、『サイエンス・ウォーズ』 (東大出版会、 2000年6月30日出版) から、金森氏のデタラメなサイエンス・ウォーズ・キャンペーンに関わる部分を抜粋し、批判を加えておきました。

金森氏の記事が『現代思想』に掲載された当時は「金森氏には金森氏の立場があるので、この時点ではまあ仕方がないであろう」とみなして批判を控えたデタラメなサイエンス・ウォーズ・キャンペーンに関わる部分が、『サイエンス・ウォーズ』の出版でどのように扱われているかを調べてみたのです。

金森氏には悪いのですが、その結果は驚くべきものでした。金森氏は「科学者による不当な攻撃」というデタラメなサイエンス・ウォーズ・キャンペーンをさりげなくさらに拡大しようとしていたのです!

金森氏の『サイエンス・ウォーズ』からの抜粋には他の文献からの抜粋と区別し易いように色を付けておきました。

なお、読めばわかることですが、この文書は本全体への書評ではありません。批判対象がひどすぎるので、何も建設的な内容を含んでませんが、このような資料も一つは存在した方が良いと考え、作成しておくことにしました。

この件に類似の村上陽一郎の卑怯な引用の仕方については「藤永茂による村上陽一郎批判」を参照せよ。

掲示板における関連記事


追加されたソーカル氏への人格攻撃

金森氏は『現代思想』 (1998.7, 1998.8) に掲載された「サイエンス・ウォーズ」を論文集『サイエンス・ウォーズ』に収める過程で以下のような註を付け加えている。

金森修「サイエンス・ウォーズ」 111頁より

(92) 同じニューヨーク大学といっても、ロスはカルチュラル・スタディーズ系の学部としては国内でも評価の高い学部で、実に華やかな経歴を歩みつつあった。ところがソーカルが所属する学部は物理学系の学部としては必ずしも恵まれない学部にしかすぎないという (スティーヴ・フラー氏の証言による)。つまりソーカルの、ロスらへの激しい敵意の陰には一種の私怨が隠れていたと考えることができる。

これは明らかにアラン・ソーカル氏への根拠不明の人格攻撃である。金森氏は『サイエンス・ウォーズ』の出版にあたってわざわざこのような註を付け加えているのだ。金森氏はこのような註を喜ぶような読者を望んでいるようだ。しかし、このような下品な註を見て、不快感を示す人の方が多いのではなかろうか?

金森氏はなぜか紹介してないようだが、アラン・ソーカルはレーガン大統領下のアメリカが目の敵にしていたサンディニスタ左翼政権下のニカラグアに数学を教えに行っている。実際、ソーカルのパロディー論文の冒頭の著者紹介にそう書いてあるし、友人の証言をインターネット上で読むこともできる。 (ソーカルの友人の証言については「ソーカル事件について」の「3.いち左翼としてのソーカル」を見よ。) 果たしてそのような人物が自分自身の社会的地位気にして「私怨」にまで高めてしまうなどと考えるのは自然であろうか? (八木猛の「ニカラグアに200mくらい越境したことがある」および田崎晴明の「そーだったのかー」も参照せよ。)

金森氏によるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンは愚弄や挑発と情報攪乱に満ちている。これに対して、ソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』は議論の対象と射程を十分に制限し、著者達の意見だけではなく、証拠と論拠にあたる情報をできるだけ詳しく読者に示そうとしており、読者自身が最終的な判断を下せるよう努めている。 (もちろん、『「知」の欺瞞』に言い過ぎや説明不足が存在しないとは主張してない。『「知」の欺瞞』については「『「知」の欺瞞』に対するよくある誤解」およびパロディー版「『「知」の欺瞞』の教訓 Version 1.0」も参照せよ。)

たとえ罵声が飛びかうような論争の場であっても、『「知」の欺瞞』のようなやり方が正しいのだ。情報操作人格攻撃に頼る金森氏のようなやり方は最低であり、結果的に金森氏自身の信用を傷付けていると思う。よくもまあ、こんなものを恥ずかしげもなく出版できたものだ。


ワイズのケースの利用の仕方

金森修「サイエンス・ウォーズ」 59頁 (『現代思想』 1998.7、34頁上段) より

ワイズ (Norton Wise)という科学史家がプリンストン高等研究所で科学史の職につこうとしたとき、そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまったのである。

金森修「サイエンス・ウォーズ」 100頁 (『現代思想』 1998.8 p.24 上段) より

ワイズのケースのような人事潰しも、もし常習化されるのなら、科学者とは阿諛と追従しか必要としない人たちなのだ、と外部の人々から認識されるに至り、結局は自分たちの利益にならないだろう。

以上のように金森氏はサイエンス・ウォーズ・キャンペーン特有の「科学者による不当な攻撃」という偏った見方を広めるために「ワイズのケース」を利用している。

しかし、『現代思想』に掲載された時点で、金森氏は「ワイズのケース」に関する情報の出処や典拠を示してないどころか、その経緯さえを何も説明していない。要するに根拠にあたる情報を何も示してないのである。真実がどうであれ、このようなやり方には大いに問題がある。

ちなみにインターネット上には次のような情報が存在する。 Liz McMillen の The Science Wars Flare at the Institute for Advanced Study (The Chronicle of Higher Education, 97/05/16) によれば、物理学者の Edward Witten だけではなく、歴史家の Glen W. Bowersock も反対票を投じたのだ。その記事はスキャンダラスな書き方で「サイエンス・ウォーズ」を煽っており、どこまで信用できるかよくわからないのだが、その程度のことはしっかり書いてあるのだ。

これが本当であれば、金森氏の「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」という主張はどこまで信用できるか怪しくなってしまう。「物理学者と歴史家の反対票によって人事がつぶされてしまった」と言う方が正確であろう。しかし、このように正直に述べてしまうと「科学者による不当な攻撃」の宣伝という目的が果たせなくなってしまうであろう。

他国における人事の件であるからと言って、それを金森氏のようなやり方で紹介するのは非常にやばい。日本での人事について同様のことをやったら、当事者に滅茶苦茶非難されるに違いない。

金森氏は『サイエンス・ウォーズ』の出版 (6月30日) の4ヶ月程前に、科学史MLにおける左巻健男氏と浜田寅彦氏の発言によって、理科教育MLにおいて以上の件が「東スポ」的と批判されていること (1, 2, 3) を知っていたはずである。左巻氏は、 The Chronicle of Higher Education の記事には歴史家も反対票を投じたと書いてあり、「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」という金森氏の主張と矛盾していることを明確に指摘している。

以上の点が『サイエンス・ウォーズ』に所収の「サイエンス・ウォーズ」ではどのように扱われているか?

金森氏は『サイエンス・ウォーズ』に所収の「サイエンス・ウォーズ」の「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」 (59頁) に関して新たに次のような註を付け加えている。

金森修「サイエンス・ウォーズ」 108頁より

(63) ワイズは十九世紀の重要な物理学者、ケルヴィン卿の優れた伝記で知られる。人事潰しの模様は次の資料に報告されている。 "The Science Wars Flare at the Institute for Advanced Study", The Chronicle of Higher Education, May 16 1997. その報告にはラトゥールがその六年前に同じ研究所に応募したとき、恐らくは同じ理由のためにうまくいかなかったという事実が書かれている。

文献を示したことは一応評価しても良いかもしれない。しかし、たったこれだけの根拠をもとに「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」などと断言しても大丈夫なのだろうか?

その上、その文献には歴史家も反対票を投じたと書いてあり、すでにそのことを左巻氏に指摘されているのだ。金森氏はそのことについて何も書いていない。註を追加したことはしたが、結局のところ金森氏はそのような都合の悪い点に関しては何も触れずにすませようとしているようだ。それどころか、ラトゥールの人事の件に言及し、サイエンス・ウォーズ・キャンペーン特有の「科学者による不当な攻撃」という偏った見方が真実であるかのように読者に印象付けようとしているのである。

しかしながら、このように文献を示してしまうと、インターネットで検索してそこに歴史家も反対票を投じたと書いてあることに気付く人も出て来るはずである。少なくとも金森氏が新たに示した文献が「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」と言い切るために気軽に利用できる代物でないことは明らかである。

繰り返しになるが、他国における件だからと言って、人事にかかわることをこのような態度で扱って構わないのだろうか? 金森氏はこのようなやり方によって信用を失うのが怖くないのであろうか?

以上によって、次のような教訓が得られたと思う:

通常、誠実な学者に対してこのような疑いをかける必要はない。しかし、金森氏の場合に限っては残念ながらこのような疑いをかけることが必要なようである。したがって、金森氏の主張を信用してしまった読者にも次のように問わねばならない:

あなたは金森氏の主張の裏を取ったのか?

パロディー論文の結論への心の高ぶり

金森修「サイエンス・ウォーズ」 90-91頁 (『現代思想』 1998.8、 19頁上段) より

(E) いまこの詐欺論文の大団円、ポストモダン科学という「解放的科学」を打ち上げた最後の部分を再読してみると、私はある奇妙な感覚に教われる。それが単なるパロディであり、そこでの字面は悪意を隠した仮面なのだと頭ではわかっていても、私はある種の心の高ぶりを覚えてしまうのだ。そして少し反省的にその心の動きを捉えなおしてみると、私だけではない、人間一般の精神というものがもつ特性に対して、妙な言い方で恐縮だが一種のいとおしさを感じてしまう。曰く、客観的真理の専制状態から逃れる、人を隔てる壁を突き崩し、社会生活を革命的に民主化する。近代科学のヒエラルキーを転覆し、流動と不安定性との危うい均衡を生き抜く云々。そこには「主体」としての個人がもちうる一種の矜持、気概、覇気のようなものが感じられないだろうか。「客観的真理」を暴君のようなものとして捉えるという、それこそ準客観的に見ればほぼ無意味な感覚でさえ、ある了解可能性をもっている。子供の頃、時代劇で、例えば虐げられた貧民を救うためにたった一人の主人公が数十人もの武士たちを快刀乱麻になぎ倒すという場面を、私は何度も楽しく見ていたものだ。それがたとえ現実には絶対にありえない架空の戦いにすぎないものでも、それは物語的に美しい稜線を与える一種のダンスのようなものだった。客観的真理から逃走するという快い響きもまた、私たちの脳に愉悦を与えるダンス音楽のようなものではないか。ソーカルはダンス音楽をオシログラフの波形としてしか見ない無粋な人間ではないか。ある「心の高ぶり」のなかでしばしの間、私はそんなことを夢想していた。

金森氏の態度はフェアではない:

ソーカル氏が受けた人格攻撃については『「知」の欺瞞』日本語版への序文 xv-xvi 頁を参照せよ。金森氏の情報操作については「ワイズのケースの利用の仕方」が参考になる。このような汚ない議論の仕方に関して金森氏がどのようなことを言っているかについては「愚弄や挑発と情報攪乱」を参照せよ。

以上の論点とは別に、金森氏による「心の高ぶり」の告白はソーカル氏のパロディー論文がどのような人にどのように効果的であったかをよく示しているように思われる。このことについては、『「知」の欺瞞』の付録 B 「パロディーへのいくつかの注記」が参考になる。関連の箇所を『「知」の欺瞞』から抜粋しておこう。

「解放的科学」を打ち上げた部分について次のように解説されている:

 科学を客観性というゴールから解き放った後には、科学を最悪の意味で政治化しようという提案が続く。科学の価値を、現実と対応するかではなく、個人のイデオロギー的な先入観と合致するかどうかで判断しようというのである。このような政治化をあからさまに表明しているケリー・オリヴァーの引用は、このような主張の常として自己論駁に陥っている。ある理論が「戦略的」であるかどうかを、それが意図している政治的な目標のために真に客観的に有効かどうか問うことなしに、どうして知り得ようか? 真理と客観性の問題は、安易に避けて通ることはできないのである。同様に、マークリーの主張 (註76、「『実在』とは終局的には歴史的な構築物である」) は、哲学的には混乱し、政治的には有害である。ホブズボームが説得力のある形で示しているように (275頁)、このような考え方は最悪の民族主義者や宗教原理主義者の過激活動への門戸を開くものである。
(『「知」の欺瞞』 337頁上段より)

パロディー論文の中にある「ケリー・オリヴァーの引用」は以下の通り:

……革命的であるためには、フェミニストの理論は、何が存在するかとか「自然界の事実」を記述すると称することはできない。フェミニストの理論は、むしろ政治的な道具たるべきであり、特定の具体的な状況で抑圧をはねのけるために戦略たるべきである。つまり、フェミニストの理論の目標は、戦略的な理論――正しい理論でも、誤った理論でもなく、戦略的な理論――を発展させることであるべきなのだ(80)。

(80) Oliver (1989, p.146)

(『「知」の欺瞞』 305頁より)

Oliver, Kelly. 1989. Keller's gender/science system: Is the philosophy of science to science as science is to nature? Hypatia 3(3): 137-148.

さらに、ホブズボームに関しては以下のように説明されている:

 しかし、相対主義のもっとも深刻な文化的帰結は、社会科学に適用したときに現れる。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、この点をはっきり難じている。

……西欧の大学で、特に文学部と人類学部で、客観的な実在についてのすべての「事実」は単に知的構築物にすぎないとする「ポストモダン的な」知的潮流が広まった。簡単にいえば、事実【ファクト】と作り話【フィクション】には明確な区別はないというのだ。しかし、違いはある。そして、歴史家にとっては、たとえもっとも過激な反実証主義者にとっても、両者を区別する能力こと根本的に重要なのである。 (Hobsbawm 1993, p.63)

ホブズボームは、つづけて、インド、イスラエル、バルカン諸国などにおいて、反動的な民族主義者が広めようとする作りごとを論駁するために、歴史の厳密な研究がどのように有効であるかを示す。さらに、このような脅威に直面したときに、ポストモダン的な姿勢がわれわれをどのように無力にするかをも示している。

 迷信、蒙昧主義、民族主義的狂信、宗教的原理主義が、西欧「先進」国をも含めた世界に蔓延している時代にあって、歴史的に見てこれらの愚挙に対する最大の防御策であった合理的な世界観をこれほどいい加減にあつかうのは、どう控え目にいっても責任ある態度ではない。蒙昧主義に肩入れすることがポストモダンの書き手たちの意図でなかったことに疑いはないが、それは彼らのやり方の避けがたい帰結なのだ。

(『「知」の欺瞞』 274-275頁より)

そして、ソーカルとブリクモンは次のように述べている:

 知識人、特に左派の知識人が、社会の発展のためにプラスになる貢献をしたければ、そのための最良の道は、世を風靡している考えを明確に分析し、支配的な言説から神秘的な匂いを取り払うことだ。自分で神秘を付け加えることではないのである。それらしい表題をつけたからといって、思想が「批判的に」なるわけではない。真に批判的な内容のある思想を持たねばならないのだ。

(『「知」の欺瞞』 276-277頁より)

ソーカルはパロディー論文でこの逆を徹底的に実行したのである。この点を無視すると、パロディー論文がどのような政治的意図を含んだ作品なのかを理解できなくなるのだ。


愚弄や挑発と情報攪乱

金森修「普遍性のバックラッシュ」 132-133頁 (『現代思想』1998.11、 58頁) より

2――戦争は続く

 戦争は単に武力だけで闘うものではない。それは相手の愚弄や挑発という心理戦や、情報攪乱【こうらん】や情報収集などの情報戦を必然的に伴う。サイエンス・ウォーズもまたひとつの戦争だとするなら、その「武力」つまり議論の内実自体での巧拙の競い合いだけではなく、相手を怒らせる修辞のやり取りが散見されるのも無理もないことかもしれない。例えば科学者側から何度も槍玉に挙げられたラトゥールだが、彼も黙っているわけではなく、まるでイエズス会師を激怒させるヴォルテールさながらの筆致でこう書きなぐる(23)。物理学者たちにとって、フランスはもうひとつのコロンビアに、つまりデリディウムやラカニウムというハードドラッグを作るディーラーの国になった。アメリカの博士課程の学生たちはクラックにも弱いがそれらの麻薬にも弱い。彼ら学生たちはきれいな水のような分析哲学を毎日飲みほすことも忘れて相対主義にかまけている。信念堅固な社会学者が右派の雑誌に人種の不平等を科学的に証明するという内容の論文を受理させ、それが公刊された後で左派の雑誌に自分が書いたことはまるででたらめだと述べたとしよう。そのとき人々は哄笑し、快哉【かいさい】を叫ぶだろうか。ソーカルのパロディー論文(24)のことを念頭に置きながら、そうラトゥールは問いかける。だがこの種の挑発的言辞のやり取りを追跡するのは心理的負担が大きい割には理論的深化に乏しいのは否めない。単なるどたばた劇にして、それを桟敷から見物するに留めるには、科学と科学論をめぐるサイエンス・ウォーズは本来あまりにも重要な問題群を抱えているはずだ。だからこの種の心理戦からは離れよう。

(23) B. Latour, "Y a-t-il une science apr\`es la guerre froide?", Le Monde, 18 Janv. 1997.

(24) A. Sokal, "Transgressing the Boundaries: Toward a transformative hermeneutics of quantum gravity, Social Text 46/47, pp.217-252.

ここで金森氏はあたかも客観的な立場に立って「相手の愚弄や挑発という心理戦や、情報攪乱【こうらん】や情報収集などの情報戦」について説明しているように見える。しかし、実際には金森氏自身も「愚弄や挑発」「情報攪乱」などの汚ない議論の仕方をしていることを読者は忘れてはいけない。 (例えば、 「ワイズのケースの利用の仕方」と「パロディー論文の結論への心の高ぶり」を見よ。)

金森氏の最大の問題点は出発点からずっと「科学者と科学論者の戦争」という見方をしていることである。しかもその図式の中で自分自身を含む科学論者を「科学者による不当な攻撃にさらされている人」として描いている。金森氏のような人達は「不当に攻撃されている人」を演じることによって利益を得ようとしているのだ。 (「サイエンス・ウォーズ・キャンペーンとは何か」と「「サイエンス・ウォーズ」なんてのを信じちゃ駄目」も参照せよ。)

金森氏は「戦争」という見方を採用してしまった出発点において間違っているだけではなく、論争のスタイルにも問題がある。『「知」の欺瞞』は、証拠と論拠にあたるものをできるだけ詳しく示し、最終的な判断を読者にまかせるというやり方を採用している (「『「知」の欺瞞』に対するよくある誤解」も参照せよ)。これに対して、金森氏は、証拠と論拠にあたるものを必ずしも読者に示さずに、様々なレトリックによって読者の感情に訴えるという手段を多用しているのだ。上に引用した一節にもその特徴がよく表われている。

金森氏による事例の紹介の仕方もアンフェアである。「科学者と科学論者の戦争」という見方に不都合な情報を金森氏は示そうとしない。金森氏の読者はこの点には注意しなければいけない。金森氏の言うことを鵜呑みにせずに、別の情報源を用いて裏を取るようにしなければいけないのだ。

特に、金森氏による「ワイズのケースの利用の仕方」は典型的である。金森氏は、物理学者だけではなく歴史家も反対票を投じたことを隠し、「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」と断言することによって、「科学者による不当な攻撃」をでっちあげようとしているのだ。

そして、実は上の抜粋中におけるラトゥールの「冷戦後に科学は存在するか」 (ル・モンド紙、 1997年1月18日) の紹介の仕方にも問題がある。 (この件については Emmanuel Marin による Summary of Articles from Le Monde (Feb 25th, 1997) を参考にした。)

なぜならば、ラトゥールがソーカルに騙されたソーシャル・テキスト誌を次のように馬鹿にしていることを金森氏は隠してしまっているからだ (Marin による Latour の記事の要約も参照せよ):

... Pourquoi donc cet article rasant fut-il accept\'e par une revue complaisante ? Parce que, tout simplement, c'est une mauvaise revue, ...

…… それではどうしてこの退屈な論文が親切な雑誌に受理されてしまったのだろうか? それは、極めて簡単なことで、それが駄目な雑誌だからなのだ。……

(Bruno Latour, Y a-t-il une science apr\`es la guerre froide?, Le Monde du 18 Janvier 1997 より)

科学論者のラトゥールがソーシャル・テキスト誌を馬鹿にしていることがばれてしまうのは金森氏の立場では確かに都合が悪い。さすがに「まるでイエズス会師を激怒させるヴォルテールさながらの筆致でラトゥールはソーシャル・テキスト誌を罵倒したのである」とは書けないだろう。

これに対して、ソーシャル・テキスト誌を馬鹿にしまくったラトゥールをソーカルは次のように批判している:

Latour is, by contrast, too modest when he tries to minimize the lessons of the "affair" by claiming that Social Text is "quite simply a bad journal". First of all, that's not true: Social Text's latest issue, devoted to the crisis of academic labor, is well written and extremely interesting. But above all this reasoning evades the real scandal, which lies not in the mere fact that my article was published, but in its content. And here's the secret that makes the article so amusing, and which Latour would prefer to hide: the most hilarious parts of my article were not written by me! Rather, they are direct quotes from the Masters (whom I flatter with shameless praise). And among these Masters one indeed finds Derrida and Lacan, Aronowitz and Haraway -- but one also finds our overly modest friend ... Bruno Latour.

(Alan Sokal, Les mystifications philosophiques du professeur Latour, Le Monde du 31 janvier 1997 (「ラトゥール教授の哲学的ごまかし」) の英訳より)

ここでソーカルは、ソーシャル・テキスト誌はラトゥールが言うような駄目な雑誌ではないことおよびパロディー論文に笑える一節としてラトゥールが書いたものが引用されていることを指摘しているのだ。

これは痛い。やぶへびもいいところだ。ラトゥールは、「まるでイエズス会師を激怒させるヴォルテールさながらの筆致」で、偽論文を掲載してしまったソーシャル・テキスト誌を馬鹿にし、アメリカの学問をも馬鹿にしているのだが、そのラトゥール自身が書いたものが実はソーカルのパロディー論文に引用されて笑いものになっていたのである。

以上は1997年1月の事件である。ラトゥールに対する痛烈な批判を含む『知的詐欺』がフランスで出版されたのは1997年10月である。しかし、ラトゥールはその批判を無視し、ラ・ルシェルシュ誌1998年3月号に掲載された「アマチュア科学」の連載記事の中で「ローベルト・コッホが1882年に発見した桿菌【かんきん】が原因で、ファラオが亡くなったというようなことがありえるだろうか?」「コッホ以前に桿菌は本当の存在をもたない」などと言っている。もちろん、このようなデタラメをソーカルとブリクモンは見逃さなかった。『「知」の欺瞞』の130頁の註 (123) でこの件は批判されている。その後、 1998年7月2日のロンドンでラトゥールはソーカルと直接対決した。しかし、長谷川真理子の「社会的構築としてのアヒル」 (『科学』 1998 年 9 月号の 700-701 頁、『科学の目 科学の心』岩波新書 623 の 163-167 頁) によれば、ソーカルによる「たとえば、恐竜というものと、恐竜についてのわれわれの考えというものとを、はっきり別のものと区別しますか」という皆が聞きたがっていた質問にラトゥールは結局答えなかったのである。

このような「単なるどたばた劇」の存在とラトゥールがソーシャル・テキスト誌を馬鹿にしていたという事実を読者に示すことは、「科学者と科学論者の戦争」「科学者に不当に攻撃されている科学論者」という見方を宣伝したい金森氏にとっては都合が悪いのだ。

しかし、自力で判断を下したいと考えている読者にとっては、それらの事実を示してもわらないと困る。インターネット経由などで海外の一次情報に触れて裏を取るだけの余裕がある人であれば、金森氏がどのような情報を意図的に隠そうとしているかを見抜くことができるであろう。しかし、日本における一般読者にはそこまで労を払う余裕はないのだ。


『「知」の欺瞞』に対するよくある誤解

金森修「戦後――サイエンス・ウォーズ補論」 300頁より

『科学的詐欺』に所収されているそれ以外の論文のなかでは、自ら地球物理学の専門的訓練を受けた後、科学の公衆理解問題に携わっているベルジェロンの「科学の輪を広げる?」(23)や、カロンの「科学論の擁護と例示」(24)などが興味深い。ベルジェロンは、ある小説を味読する過程でそこに地震の描写がでてくるに及び、それまで純粋に亨受していた文学的経験が、自分の専門的知識による「検閲」によって台無しにされたという経験を語っている。そして『知的詐欺』はそれと似たような検閲、監視、監査的な精神の表れであり、確かに個別事例の摘発自体は間違いとはいえないが、全体としての読後感はきわめて不愉快なものだと述懐している。……

このように金森氏は、ベルジェロン氏の感想を肯定的に引用することによって、『知的詐欺』 (邦訳は『「知」の欺瞞』) は科学者の専門知識による検閲・監視・監査的な精神の表れであるとみなしている。

専門家が、理解不足によって生じた単なる誤りを検閲し、必要以上に強く非難することは不愉快であり、私も好ましくないと思う。

しかし、『「知」の欺瞞』が批判しているのはそのような単なる誤りではない。そのことは『「知」の欺瞞』の中で何度も強調されている。単に誤りだと指摘するだけでは不十分な悪しきスタイルを『「知」の欺瞞』は批判しているのだ。例えば、『「知」の欺瞞』のエピローグの「教訓」を見よ。そこで否定されているスタイルを全て肯定するとどのようなことになるかについては、パロディー版「『「知」の欺瞞』の教訓 Version 1.0」がわかり易いと思う。

ベルジェロン氏や金森氏のような誤解を広めることは、『「知」の欺瞞』が批判している悪しきスタイルの存続に手を貸すことになる。悪しきスタイルの存続が誰を傷付けることになるかについて、金森氏に好意的な読者はよく考えてみるべきである。『「知」の欺瞞』は悪しきスタイルに翻弄され続けて来た人達もしくはこれからそうなってしまうかもしれない人達を救済するために役に立つ本なのだ。 (デタラメなサイエンス・ウォーズ・キャンペーンに関わる他の誤解については「「サイエンス・ウォーズ」の扱い方に関するよくある誤解」を参照せよ。)

補足:ソーカル以外の偽論文については「偽論文はソーカルの専売特許ではない」も参照せよ。偽論文を投稿することはソーカルが発明したわけでもないし、ソーカルの偽論文以降も行なわれているし、それによって学問の倫理規範が危機に瀕しているわけでもない。しかし、残念なことに、偽論文について大袈裟に騒ぎ立て、にっくきソーカルの信用を潰すことによって、批判をかわそうとする人達がいる。このことについては「『思想』1998年第10号に発表された野家啓一のエッセイについて」および「サイエンス・ウォーズ論者達」を参照せよ。「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」 (April 8, 1997) を読めばわかるように、ソーカルはカルチュラル・スタディーズやサイエンス・スタディーズ (科学論) の敵ではないのだ。


宣伝文句

http://www.utp.or.jp/shelf/200006/010085.html から金森修の『サイエンス・ウォーズ』の宣伝文句を資料として、以下に抜粋しておく:

学界を席巻した科学をめぐる「戦争」.それは科学論批判に始まり,ソーカルの偽論文事件を契機として激烈なポストモダニズム叩きへと転じてゆく――.本書はその委細顛末を沈着に跡づけながら,文化政治学的視座から犀利に検討,現代社会の本質へ迫る.気鋭の哲学論集.

〈類書〉

・構造主義生物学 柴谷篤弘 2800円
・講座進化2 進化思想と社会 柴谷・長野・養老編 2400円
・物と心 大森荘蔵 5000円

編集担当から

 待ち合わせの喫茶店に,若返ったアンソニー・ホプキンスみたいな人が現れた.初対面だったが,すぐに金森先生とわかった.2時間ばかり話し込んだ.「科学について考えることは,ある意味では,現代社会の本質について考えることなんです」という一言が印象に残った.あれから2年,その言葉を体現したような本がまとまりました.装丁は平野甲賀さんです(HJ).

「戦争」=「激烈なポストモダニズム叩き」という見方を強調していることに注目。「本書はその委細顛末を沈着に跡づけながら云々」の実態がどのようなものであるかはこの文書でレポートした通りである。 (編集者の長谷川一氏による推薦の言葉も参照せよ。)

大森荘蔵がどのようなことを言い、それが村上陽一郎によってどのように利用されているかについては、「大森荘蔵にとっての「物理学者」」を参照せよ。


黒木 玄