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相対主義に関するよくある質問

黒木 玄


目次


相対主義は絶対主義の否定ではない

質問: 科学に関する相対主義は「科学は絶対的に正しい」という考え方の否定であると言っている人がいるのですが、それは本当ですか?

回答: いいえ、それは誤りです。おそらく、そう言っていた人は相対主義に関する議論を何も知らないのでしょう。相対主義は絶対主義の単なる否定という穏健な立場を意味しません。そもそも「科学は絶対的に正しい」なんて言っている馬鹿はどこにいるの?

これに限らず、相対主義は単純に絶対主義の否定を意味しません。

「我々が信じている考え方はもしかしたら正しくないかもしれない、我々は悪しき決め付けをしているかもしれない、……」と考える慎重な態度は当然の前提であり、狂信者でもない限り、誰も否定してません。この誰も反対してない常識的立場を「相対主義」と呼んでもメリットはなく、せいぜい議論を混乱させるだけでしょう。


相対主義はどういう立場か

質問: それでは相対主義とはどういう立場なのでしょうか?

回答: これは答えるのが難しい質問です。なぜならば、上で説明したように相対主義は単純に絶対主義の否定ではないので、様々な種類の相対主義があるからです。相対主義には様々な種類があることと相対主義に関しては様々な哲学的議論があることは次の論文集を覗いてみればわかります:

J. W. メイランド、 M. クラウス編、『相対主義の可能性』、常俊宗三郎、戸田省二郎、加茂直樹訳、産業図書、1989年 (原書 1982)

この論文集の序論において相対主義は次のように説明されています:

相対主義は懐疑主義同様、誰にとっても同じものである唯一の真理――客観的で絶対的で可知的な唯一の真理――の追及を放棄するのである。しかし相対主義は懐疑主義と異なり、真理といったものは存在しないとか、真理は知りえないとかと結論しない。そのかわりに相対主義者は、真理が各社会やそれぞれの方法論的アプローチにとって、また各個人によってすら、異なっているかもしれないし、また事実しばしばそうであると主張する。病気が悪霊の仕業であるということは、或る社会にとっては真であるかもしれないが、別の社会にとってはそうでないかもしれない。

(『相対主義の可能性』 4頁より)

相対主義者は、懐疑主義者のように真理を知る可能性を否定するのではなく、立場の違いによって多くの真理が存在するという方針を取るのです。

『相対主義の可能性』は、認識的相対主義のパートと道徳的相対主義のパートに分かれています。真善美の分類に基いて、相対主義を次の3種類に分類することがあります: 認識的相対主義 (真偽に関わる相対主義)、道徳的相対主義 (もしくは倫理的相対主義、善悪に関わる相対主義)、審美的相対主義 (美醜に関わる相対主義)。

科学に関わる相対主義は真偽に関わる相対主義なので認識的相対主義に分類されます。認識的相対主義の中で最も重要なのは概念的相対主義です。『相対主義の可能性』に所収されているドナルド・デイヴィドソンの「概念図式という観念そのものについて」は概念的相対主義を批判した論文として非常に有名です。概念的相対主義とは次のような立場のことです:

多くの信条をもつ哲学者達は、概念図式について語る傾向がある。概念図式は経験を組織化する方途であるとか、感覚のデータに形式を与える範疇の体系であるとか、個人や文化や時代が過ぎ行く光景を見渡す観点であるとか言われる。一方の図式から他方の図式への翻訳は行なえないかもしれない。その場合、一方の人を特徴づける信念、願望、希望および一片の知識に真に対応するものは、他方の図式に賛同する人には何もない。実在そのものは図式に相対的であって、或る体系で実在的とされるものが、他の図式ではそうとは言えないかもしれない。

(『相対主義の可能性』 118頁より。強調は引用者による)

概念的相対主義の中には、概念図式としてパラダイムや言語を採用することによって、それぞれトーマス・クーンによる通約不可能性やサピア・ウォーフ仮説 (言語論的相対主義) が含まれます。認識的相対主義批判が問題にするのは主にこの概念的相対主義です。

他にも、本気で心底から相対主義的主張をしているのか、それとも、世間一般に広まってしまった偏見を打破するためにあえて相対主義的主張をしているかの違いで、相対主義を分類することがあります。後者の戦略的・方法論的に採用された相対主義を方法論的相対主義と呼ぶ場合があります。方法論的相対主義はどこまで本気でないかが曖昧になる傾向があります。

以上のように相対主義は絶対主義の単純な否定ではないので、その強さ・過激さは様々です。そして、困ったことに、相対主義色の強いテクストの多くはこの点に関して完全に曖昧です。

まとめ:


「相対主義」が嫌われる理由

質問: 「相対主義」が嫌われているのはどうしてですか?

回答: 嫌う理由は人によって様々だと思います。ここでは筆者が「相対主義」を標傍する人たちにありがちだと感じている悪しき振舞いを箇条書きしておきます:

  1. 科学理論の内容に深く触れることをせず (理解してないからできない)、相対主義的な半可通の哲学を持ち出すことによって、その科学理論は絶対ではないという陳腐な意見を述べ続ける人。そのような人は、ある種の科学論の本によく見られるような、一見過激に見えるが、実は常識的でつまらないことしか言ってない。

  2. 相対主義を強く標傍しておきながら、自分自身がよって立つ基盤については全く無批判な人。相対主義を強く標傍する人は、他人から見ると、あらゆる物事を一望のもとに見渡した上で、あらゆる考え方は相対的である、と言っているように見える場合が多いものです。表面的には相対主義の平等主義者のように振舞いながら、裏では自分だけが特権的な立場に立っているとみなしているような奴は、嫌われても仕方ありません。

  3. あらゆる主張を正当化するためのレトリックとして、“相対主義” (?) を用いる輩。これは最も悪質。「あなたの批判は絶対的に正しいわけではないのだから、私の意見は正しいのだ」という型の議論をする馬鹿を見たことはありませんか? 「あなたの主張は誤りである」と批判されたときに、「私が誤っているということをあなたは絶対的に証明することはできない」という当然の認識論的な結論を持ち出して、あたかも自分の主張に意味があるかのように見せかけるというのは典型的です。

ここで挙げたような振舞いは論外なのですが、そうでなくても、相対主義をうまく利用するのは恐ろしく難しいのです。最初の関門は「相対主義が正しいという立場自体に相対主義を適用すると、相対主義の正当性が崩れてしまうのでは?」という疑問に答えることです。

もちろんのことですが、相対主義の哲学的な困難に関する精緻な議論を展開しようと努力している哲学者達を嫌う必要はありません。

補足:「相対主義的科学観」が嫌われる理由については「理科教育における科学と相対主義」を参照せよ。その支持者たちによる「相対主義的科学観」の説明がおそろしく曖昧だったり、デタラメを含んでいたりすることに注意せよ。アラン・ソーカルの「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」における「ずさんなものの考え方 (sloppy thinking)」の説明も参考になる。


『「知」の欺瞞』の相対主義批判

質問: 最近『「知」の欺瞞』という本で相対主義が批判されていることが話題になってますが、そのポイントはどこにあるのでしょうか?

回答: 『「知」の欺瞞』の相対主義批判の最も大きな特徴は相対主義色の強いテクストの曖昧さを強調していることです。そして、科学論に対して「科学論者は科学や技術の専門知識が必要な対象をどうやって研究するのか?」という根本的な問題を提起しています。以下、この2つに論点をしぼり、ラトゥールの事例を用いて詳しく説明しましょう。

「知」の欺瞞』の相対主義批判は主に70頁以上もある第4章「第一の間奏」で行なわれており、「エピローグ」の257-260頁と274-277頁にも議論があります。 (『「知」の欺瞞』が正当だとみなしているタイプの相対主義がどのようなものか知りたければ257頁を見よ。そこでは「社会科学における「自然な」相対主義」が擁護されている。)

『「知」の欺瞞』で批判されている相対主義は、大雑把に言って「事実についての主張が正しいか誤っているかは、個人や社会集団や文化的文脈などなどに依存して決まる」というタイプの認識的相対主義です。

『「知」の欺瞞』の相対主義批判最大の特徴は相対主義色の強いテクストの多くが曖昧であることを強調していることです:

これらのテクストは、しばしば曖昧であり、少なくとも二つのまったく異なった読み方ができることがわかる。「穏健な」読み方をすると、議論に値するまともな主張か、真実であるが自明な主張が読みとれる。「過激な」読み方をすると、人を驚かすが誤った主張が読みとれるのである。不幸にして、「過激な」解釈の方がしばしばもとのテクストの「正当な」解釈だとされているばかりか、 (「Xは以下の事実を示した」という具合に) 確立された事実として受け取られている。われわれが鋭く批判したいのはこの点である。もちろん、そんな「過激な」解釈を本気で信じている人などいないという意見もありうるし、もしそれが本当なら結構なことだ。しかし、観察の理論負荷性、実験的証拠による理論の決定不全性、パラダイムの通約不可能性などの考えが、相対主義の立場を支えるために持ちだされる多くの議論を経験しては、かなり懐疑的にならざるをえない。

(『「知」の欺瞞』 「第一の間奏」 70-71頁より)

筆者は実際に、ある方が「実験、観測によって理論が破棄された例というのはないというのが1960年代以降の標準的な科学史の見解だ」と言っているのを見たことがあります。もちろん、その主張は単純に誤りです。

曖昧なテクストの例として、ブルーノ・ラトゥールの方法の規則の三つ目を挙げておきましょう:

論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、この自然という結果を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決してできない。
(『科学が作られているとき』 177、435頁より)

Since the settlement of a controversy is the cause of Nature's representation, not the consequence, we can never use the outcome -- Nature -- to explain how and why a controversy has been settled.
(Science in Action, pp. 99, 258)

念のために、英語の原文も引用しておきました。強調は原文の通りです。以下を読む前にこれをどのように解釈するかをじっくり考えてみて下さい。「自然の表象」は大体において「科学の理論」を意味しています。

『「知」の欺瞞』はこのラトゥールの第三の規則の曖昧さを以下のように指摘しています。まず、

ラトゥールは何の断りもなく、前半の「自然の表象」を後半では単なる「自然」にすり替えていることに注意したい。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 125頁より)

1. 後半の「自然」も「自然の表象」に置き換え、「論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、この自然の表象という結果を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決してできない」と読み直して解釈:

かりに後半の「自然」も「自然の表象」に置き換えてこの文章を読み直せば、科学者による自然の表象 (つまり科学の理論) は社会的なプロセスによって到達させるものであり、単にその結果を使って、そのプロセスがどう進行しどういう結果にいたったかを説明することはできないという自明な話になってしまう。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 125-126頁より)

2. 全てを文字どおり受け取って解釈:

他方、後半での「自然」を文字どおりに受け取り、そこにあるとおりに「結果」という言葉と結びつけるとすると、外的な世界は科学者の談合によって創られるという主張になる。これは、どう大目に見ても、かなり奇っ怪な型の過激観念論である。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 126頁より)

3. 後半の「自然」を文字どおりに受け取り、そのすぐ後の「結果」という言葉の存在を忘れ、「論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、自然を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決してできない」と読み直して解釈:

最後に、後半の「自然」を文字どおりに取り、かつそのすぐ後ろにある「結果」をきれいに忘れると、

(a) 科学的な論争の推移や結果は外の世界の性質だけでは説明しきれない (ほかのより微妙な社会的な影響に触れないにしろ、少なくともその時点でどのような実験が技術的に可能か決めるというだけでも、何らかの社会的要因が介入するのは当然である) という弱い、そして当たり前の主張か、

(b) 外的な世界の性質は、科学的な論争の推移や結果を左右するような役割を果たさないという強いが明らかに誤った主張が読みとれる(120)

(120) (b) についてはグロスとレヴィット (Gross and Levitt 1994, pp. 57-58) が、窓のない建物の中で働いている人たちが「外では雨が降っているだろうか?」という論争をいかにして決着させるかという身近な例で的確に批判している。

(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 126頁より、引用するとき改行位置を変えた)

相対主義色の強いテクストのスタイルに染まっている人たちは、曖昧な言い方で 3 (b) に限りなく近いことを言っているように聞こえるような発言をすることが多いのです。その上、そのような発言は科学論者たちや科学論ユーザーたちの間でなぜか人気を得ている。

そして、別の場所で、極端なことを言っているのではないかと非難された場合には、 3 (a) に近い穏健だが当たり前の主張を述べて批判をかわします。このようなやり方は、科学者相手の論争では特に有効です。なぜなら、周囲の人たちに「科学者は科学の論争への社会的な影響に全く気付いてないから (もしくはそれを完全に無視したいから)、このような当たり前の主張にも反対するのだ」というような印象を与えることができるからです。

『「知」の欺瞞』の「第一の間奏」はラトゥールの第三の規則のもう一つの解釈を述べています:

第三の規則を、実験や観察から得られたデータが本当に科学者たちが導いた結論を保証しているかどうか自分自身で独立に判断するだけの専門知識を持たない科学社会学者が用いる方法論的原理として読んでみよう(124)。このような状況では、社会学者が「研究対象である科学者社会がXという結論に達したのは、Xが実際にこの世界のあり方だからだ」と言うのに躊躇することは理解できる。たとえ本当にXが世界のあり方で、それこそが科学者たちがXを信じた理由だったとしても、社会学者にとっては、研究対象である科学者社会がそれを信じるようになったという事実以外にXが実際に世界のあり方だと信ずべき独立の根拠がないからである。もちろん、この行き詰まりから導かれる分別ある結論は、科学社会学者は、自分では事実について評価を下せない科学の論争を、そのような独立の判断をあおげる信頼できる別の科学者社会 (たとえば後世の科学者社会) がない限り、研究すべきではないということである。むろん、ラトゥールはこの結論を好ましく思わないだろう(125)

(125) スティーヴ・フラーも同じ意見だろう。彼は、「STS [Science and Technology Studies] の実践者は、研究対象の分野の専門家でなくてはならないなどという条件なしに、科学の『内的過程 (inner working)』と『外的性格 (outer character)』の双方を見抜くことができる方法を使う。」 (Fuller 1993, p. xii) と書いている。

(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 131-132頁)

さらに続けて、『「知」の欺瞞』の著者たちは根本的な問題を指摘します:

 実はここにこそ「科学が作られているとき」を研究する社会学者の根本的な問題があるのだ。科学者たちの同盟関係や力関係を研究するのは大切なことかもしないが、それだけでは十分ではない。社会学者の目には単なる力関係のゲームのように映るものが、実際には完壁に合理的な考察に裏付けられているということもあるのだ。しかし、それは科学の理論と実験の詳しい理解があってはじめてわかることなのである。

 むろん、社会学者が自分自身で必要な知識を身につけたり、そういう知識を持っている科学者と共同で研究を進めたりすることは一向に構わない。だが、ラトゥールは彼の方法の規則の中のどこでも、科学社会学者がそういう方向に進むように勧めてはいない。実際、アインシュタインの相対性理論に関して、ラトゥール自身はそうはしなかったことを示すことができる(126)。このような研究に必須の知識を身につけるのは、たとえわずかに異なった分野の科学者にとっても、容易なことではない。それを思えば、こうなるのも理解できないではない。しかし、かめないほど口に入れても何一つ身にはならないのだ。

(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 132-133頁)

ちなみに、これを「ラトゥールが“同盟関係”という政治的概念を使い、科学の社会的側面ばかりを強調していると批判している」と言っているのだと誤読し、反論を書いた科学論の方がいらっしゃいます。 (『科学』2000年10月号898-899頁に掲載された平川秀幸による『「知」の欺瞞』の書評を見よ。残念ながら平川もまた『「知」の欺瞞』の相対主義批判の肝腎な点 (科学論者にとっては最も都合の悪い点) をすべて無視してしまったようです。)

もちろん、上の引用を読めばわかるように、『「知」の欺瞞』の著者たちはそんなことを言ってません。著者たちが強調しているのは、研究対象とする科学と技術に関する専門知識を持たない科学論者は「物的対象や装置など物質的なもの」に関する信頼できる研究をできないという当たり前の事実なのです。 (『「知」の欺瞞』の共著者の一人であるアラン・ソーカルが科学の社会的研究から得られるプラスの事柄にはどのようなものがあると考えているかに関しては「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」の始めの方にある要約がわかり易い。)

確かに、ラトゥールは科学に関わるあらゆる対象 (物質的なものを含む) で構成されている「テクノサイエンスのネットワーク」 (と彼が呼ぶもの) を研究することを提案しています。しかし、もしも専門知識が必要な対象の研究を科学者や技術者を観察することを経由して行なわざるを得ないとすれば、結局のところ科学と技術の社会的側面の研究に退化してしまうことになります。

残念ながら、ラトゥールは「科学論者は科学や技術の専門知識が必要な対象をどうやって研究するのか?」という問題に明確な解答を与えるのを避けています。 (フラーは研究対象の分野の専門知識抜きに科学の「内的過程」を理解できると本気で考えているのだろうか?)

それどころか、ラトゥールは自分自身の科学的無知に気付いてないように見えます。高校レベルの数学と物理学をマスターしている人が本気で取り組めば特殊相対性理論程度は確実に理解できるはずなのですが、その程度の努力さえもラトゥールは行なわなかったのです。そのことは『「知」の欺瞞』の第6章で紹介されている「アインシュタインのテクストを代表の派遣に関する社会学への貢献として読む」というラトゥールの論文の存在によって証明されています。ラトゥールのような科学論者は、科学論を研究するためには科学に関する正確な知識を身に付けなければいけないとは思ってないようです。 (日本の事例については「村上陽一郎の「微分の言い抜け」説」を参照せよ。)

そして、さらに馬鹿げたことに、『「知」の欺瞞』の最初の版が1997年10月にフランスで出版され、その中でこっぴどく批判されたのに、それを無視して、ラ・ルシェルシュ誌1998年3月号に掲載された「アマチュア科学」の連載記事の中で「ローベルト・コッホが1882年に発見した桿菌【かんきん】が原因で、ファラオが亡くなったというようなことがありえるだろうか?」「コッホ以前に桿菌は本当の存在をもたない」などとラトゥールは言っているのです。どうもラトゥールは、コッホが発見するまで結核菌は存在しなかった、という考え方を宣伝したいらしい。 (このことに関しては『「知」の欺瞞』130-131頁の註123を見よ。さらに「相対主義批判の要点」およびそのすぐ上に書いてあることも参照せよ。)

最後に、相対主義を批判することが社会的に重要である理由を説明している部分を『「知」の欺瞞』から引用しておきます:

 しかし、相対主義のもっとも深刻な文化的帰結は、社会科学に適用したときに現れる。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、この点をはっきり難じている。

……西欧の大学で、特に文学部と人類学部で、客観的な実在についてのすべての「事実」は単に知的構築物にすぎないとする「ポストモダン的な」知的潮流が広まった。簡単にいえば、事実【ファクト】と作り話【フィクション】には明確な区別はないというのだ。しかし、違いはある。そして、歴史家にとっては、たとえもっとも過激な反実証主義者にとっても、両者を区別する能力こそ根本的に重要なのである。 (Hobsbawm 1993, p.63)

ホブズボームは、つづけて、インド、イスラエル、バルカン諸国などにおいて、反動的な民族主義者が広めようとする作りごとを論駁するために、歴史の厳密な研究がどのように有効であるかを示す。さらに、このような脅威に直面したときに、ポストモダン的な姿勢がわれわれをどのように無力にするかをも示している。

 迷信、蒙昧主義、民族主義的狂信、宗教的原理主義が、西欧「先進」国をも含めた世界に蔓延している時代にあって、歴史的に見てこれらの愚挙に対する最大の防御策であった合理的な世界観をこれほどいい加減にあつかうのは、どう控え目にいっても責任ある態度ではない。蒙昧主義に肩入れすることがポストモダンの書き手たちの意図でなかったことに疑いはないが、それは彼らのやり方の避けがたい帰結なのだ。

(『「知」の欺瞞』 274-275頁より)

そして、ソーカルとブリクモンは次のように述べている:

 知識人、特に左派の知識人が、社会の発展のためにプラスになる貢献をしたければ、そのための最良の道は、世を風靡している考えを明確に分析し、支配的な言説から神秘的な匂いを取り払うことだ。自分で神秘を付け加えることではないのである。それらしい表題をつけたからといって、思想が「批判的に」なるわけではない。真に批判的な内容のある思想を持たねばならないのだ。

(『「知」の欺瞞』 276-277頁より)