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黒木のなんでも掲示板2 (0024)

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Id: #b20000606222314  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 22:23:14 2000
URL: mah@kcat.zaq.ne.jp
Name: はらだだよ
Subject: 権利はあると思うが意味はあるんだろうか.
>『「知」の欺瞞』の著者達があの議論に関して非難されねばいけない形で「精神医学を理解してない」と
>はらださんは思ったのでしょうか? 

はい,そうです.ただしあまり本の趣旨とは関係ないようにも思うのですが.

>もしもそうであるなら、その具体的根拠は何でしょうか? 

論点は二つあると思います.ラカンが明らかに数学的概念を誤解していることと,数学的言明と精神分析との
関係を明確にしていないこと,の二つが.

一番目に関しては,その通りなんですが,二番目に関しては,ではどうのような言明なら精神分析との関係を
明確にしていることになるのか,ということは問題になるはずです.それは精神分析はどういうスタンダードを
持っているべきか,ということです.それに関して

> 著者達は自分達が様々なことを理解してない可能性を明言した上で自分達の意見を述べています。

とはこの場合は思えないのです.51pからの一般的な評がありますが,これは精神分析全体にかんしては,
曖昧な表現ですが,価値を否定しつつも一応は判断を保留して,そのなかでラカンは,さらに無意味だ,といって
いることになってないでしょうか.全員が裸かもしれないけど,それはいわないで,とりあえずあそこの
王様は裸だ,と.なぜこの王様が裸でないといけないか,というと,裸にしたい家来がいるからだ.

私は精神分析全般が,意味のない文章を並べ立てるだけだ,というのは立派な見識だと思う.ファインマンも
そう書いていたし,私も昔はそう思っていた.

>最も決定的な反論の仕方は、 Sokal と Bricmont が引用している一節を彼らとは別の自然なやり方で解釈する
>ことによって晦渋で尊大なスタイルによる科学用語の濫用ではないことを具体的に示すことです。

でも晦渋で尊大なスタイルで濫用されているのは,科学用語だけではないのが精神病というものだと
いうのがスタンダードになっていたら,どうなるんですか.引用されているのは中心的な問題ではないし,
いわばはっきりと間違っているところを選んで切り出してきただけの,するが為の議論で,なんら生産的では
ない,なんていうのは,ありうるとは思います.(私がすることはできないけど.)

私はラカンが書き残したことすべてが無意味だとは思ってません.かなりの分が理解できないし,数学に関する
少なからぬ部分が単純な誤りだということは大いにあり得るでしょう.でも理解できないからありがたがられて
いるとも,不明瞭だから神秘的だと思われているとは思いません.そういう傾向は,あるのかもしれないけど,
全てがそうではない.数学の引用も,そうとしかいえないから,使ったのだと信じてます.誤解はあるにせよ.

じゃそれを明確に述べろ,説明しろといわれても出来ません.どれほど混乱した形でも,人にすこしでも
伝えることができたフロイトやラカンは,実は偉いのかもしれない,というくらいなんですけど.

Id: #b20000606211304  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 21:13:04 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000606114137
Name: こなみ
Subject: 追記

すみません。引用しておきながら何もコメントしていない大事なところが残っていました。
親告罪等の裁判まで考えると、犯罪は「社会構成的」と主張することもできるような気もしますが、考えすぎでしょうか?
これは的外れです。親告罪というのは、事実そのものの揺らぎとは関係無く、犯罪被害に対して、 被害者は法的処罰を訴える措置を留保したり行使したりする権利をもつというものですから、 まったく「社会構成的」ではありません。

たかつかさんの言われる「社会構成的」の意味が、 「事実は事実として客観的なものであるが、それへの対応は立場による」ということであるならば、 たしかにこの事例は社会構成的といえますが、それはそもそも意味を取り違えている。 社会構成的というのは、「事実は事実として客観的である」という最初の前提を否定するのですから。 主観的な対応の違いを許容するのは、人間の合理的判断のうちであって、問題にはしようがありません。


Id: #b20000606210124  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 21:01:24 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000606114137
Name: こなみ
Subject: 犯罪は社会構成的か?

たかつかさんの議論は、よく読むとおかしいですね。
仮説(見込み:理論)に基づいて証拠(実験)を集める。 実際に日本の捜査は被害者の周辺捜査に偏る傾向があります。 被害者や関係者を調べること で事件を解決しようとする。 これは経験的には有効な方法なのですが、 犯人が被害者と面識が無い場合には初動捜査や証拠集めの遅れとなります。 例えばM氏による連続幼女殺人事件、 1983年の拳銃連続殺人事や件神戸の事件での2少女死傷で少年が逮捕されなかった事などの例があります。
このことから結論できるのは、日本の警察の捜査方法が(個人)経験的、主観的、従人的であって、 そのために本来存在したはずの客観的物証を取り落としたり、論理的に積み重ねたりする能力に欠けている。 それが、「真犯人」を決定できなくする原因になっているということですよね。

だとするとこの文章は、非客観的な方法は解決につながらなくて、客観的で事実に基づいた方法が 有用であるということを意味します。つまり、真実を明らかにするには、実在論的に振舞うことが 正しいということを暗に示しているわけです。

科学哲学に関するものとしては、伊藤著「科学の哲学」放送大学振興協会の5章に「犯罪捜査」を例にしたものがあります。
親告罪等の裁判まで考えると、犯罪は「社会構成的」と主張することもできるような気もしますが、考えすぎでしょうか?
さて科学哲学というのが、法哲学とどの程度つながっているものか知りませんが(機会があったら法律の勉強を しているかみさんにでも聞いてみましょう---ただし現在別居中)、 客観的証拠がない犯罪を相対主義的な見方の例に取ることは、芥川龍之介の「藪の中」(映画では黒澤の「羅生門」)がきわめて有名であるために、 昔から行われています。だから、たかつかさんの挙げられた伊藤氏の著書のスタンスについては、 そもそも犯罪捜査や司法のプロとしてのものではないのに話しの譬えとして出した可能性が高く、 「あ、そうですか」という感じにはなれません。その本の概略の内容や著者の守備範囲について分かると、 もう少し考える材料にはなりそうです。まあ、 日本における「科学哲学」の流れを見ると、ソーカルの批判が的中するような言説を著者がやっているんじゃ ないかな、とも思いますしね。

ところで、現実の司法に関わる人々の状況はどうでしょうか。 私は友人に弁護士が多く、 労働事件や環境保護に関する訴訟に対する支援者として関わったことも数度あります。 そういう世界での基本的な信条は、英語のナイーブという言葉の語感のないまさに「素朴な」もので、 「真実は一つ」です。多くの弁護士は真実と正義という言葉を少なくとも 建前としては基本においているものです。まあ、私が協力した人々が、よい意味で左翼的で 権力と対決することが多かったこともありましょうが、しかし、例えば日弁連の憲章的文章にしても、 真実、正義という「素朴」な言葉で言いきっていますから、立場の相違は超えて、司法の世界での 理想はそこに置かれているのでしょう。「真実はどこにあるのか?それは社会構成的な概念で あって、実在論的に語るというのはナイーブな話しだ」といったことは、司法の現場では通用しない と思います。


Id: #b20000606171730  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 17:17:30 2000
Name: おおまめうだ
Subject: 「素朴」

「素朴」の前に「小学生なみ」とかの形容詞がつくからなあ。 (で、こなみさんの言っていることにつながる。)
Id: #b20000606130812  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 13:08:12 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000606114137
Name: たかつか
Subject: 補足

誤解されるかもしれないので、補足します。私はソーカルらが「犯罪捜査」の実際を知らないとは思っていません。知っていても尚あのように書いたと考えています。

彼らは、しっかりとした倫理観を持っていて、それに従うと「犯罪捜査」もしっかりと事実を見据えて科学的に行うべきものだとなるのだと思います。

ソーカルの行った一連の事は彼の持っている純粋な倫理観に基づいているのだと思います。それを「素朴」と言うとまた怒られるのでしょう。


Id: #b20000606114137  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 11:41:37 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602173551
Name: たかつか
Subject: 「知の欺瞞」と素朴について

ソーカル事件関係のこの掲示板となんでも1の過去ログを見て「素朴(というかナイーブ)」に関する反感の理由みたいなものが分かった様な気がしますが。

ただ、私が「知の欺瞞」の第一間奏を読んで「素朴な科学的実在論」と感じた理由はこなみさんの書かれた理由とは違います。弁明を取り消すわけではありませんが、ちょっと説明します。

まず、第一間奏でとSokal, Bricmontは懸命に「新科学哲学」に反論しています。ここには好感を覚えました。 彼らは注意深く反論しているのですが、途中にアナロジーとして犯罪捜査の話を出します。わたしは、ここでギャフンとなって「どうして犯罪捜査なの?」と思ってしまうのです。私などから見ると「犯罪捜査」は逆の主張につながるのですが。でもその後を読んでいくとSokal, Bricmontは科学とか真実に対して純なのだなと感じました。そこで「素朴」という言葉がでてしまったのです。

何故「犯罪捜査」が逆の主張につながる様に思ったかを簡単に説明します。「犯罪捜査」をSokal, Bricmontのように考えることは勿論可能ですが、犯罪学などでは違う見方をしていると思います。

仮説(見込み:理論)に基づいて証拠(実験)を集める。実際に日本の捜査は被害者の周辺捜査に偏る傾向があります。被害者や関係者を調べることで事件を解決しようとする。これは経験的には有効な方法なのですが、犯人が被害者と面識が無い場合には初動捜査や証拠集めの遅れとなります。例えばM氏による連続幼女殺人事件、1983年の拳銃連続殺人事や件神戸の事件での2少女死傷で少年が逮捕されなかった事などの例があります。

科学哲学に関するものとしては、伊藤著「科学の哲学」放送大学振興協会の5章に「犯罪捜査」を例にしたものがあります。

親告罪等の裁判まで考えると、犯罪は「社会構成的」と主張することもできるような気もしますが、考えすぎでしょうか?


Id: #b20000606100432  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 10:04:32 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602181353
Name: 鈴木クニエ
Subject: 無精もんの会

田崎さん、黒木さん、コメントありがとうございました。間延びしてしまいまし
たが、思いついたことなど…。

>田崎さん
 邦訳情報がお役に立ったようで、うれしいかぎりです。黒木さんのコメント
とも絡みますが、ベストセラーならいざしらず、邦訳があるかどうかをどう知
るかは難しいですね。調べる量が少なければオプション(翻訳権?)を調べるの
と同じ方法もとれましょうが、あの量ではたいへんです。書店関係のウェブで
原題からヒットできるのなら、それが安くて早いかもしれません(それでもも
れるかも)。

 それから、「一匹狼の会」、笑いました。去年亡くなった落語家・桂枝雀さ
んの落語「いらちの愛宕詣り」の枕のなかに、火事で焼け死んでしまう無精も
ん親子の話があります。その最後に、「一匹狼の会」に似た話がでてきます。
 (無精もんがたくさんいて)
 「無精もんの会でもこさえよったらおもしろいな」
 「じゃまくさいからやめとき」

>黒木さん
 10年前に一度お目にかかったような記憶が…(笑)。でも、ほとんどはじめ
ましてですね。

 読みやすさについてですが、わたしも読んでいる最中に、黒木さんが指摘
されたように注の組み方がいい(訳文ももちろん。ただし引用部分除く)こと
に気がつきました。
 ただ、わたしの場合、本文の流れが注で切れてしまうと、わたしの脳の記
憶バッファが少ないため、注を読んだ後、本文は少し前にさかのぼらないと
なりません。これは『「知」の欺瞞』のような組み方でも少しひっかかりま
した。
 個人的な趣味としては、下(か上)3分の1くらいを余白にして、そこに注
が入っているほうが視覚的には好きかもしれないという気がします。これは
これで問題もありますが、本文の流れをまず追いたいタイプにはいいのかも
しれません。続きの1行をみて安心してから、下段の注を読む感じです。
 一時期、ビッグコミックスピリッツで連載していた木村和久氏の「平成の
歩き方」の見せ方をうまく使えないだろうかと考えていたことがあります。
目が移るべき先と戻るべき先が線でつながっているので、視線の誘導がわり
とうまくいっていたような印象があります。
 が、これは4ページの文字量の少ないものだからできることでもありまし
ょう。上の、3分の1余白方式にしても、ものによってはページ数の増大と
いう問題を抱えています。

 中身の話に踏み込めなくてすみません。
Id: #b20000606063847  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 06:38:47 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000606014044
Name: くろき げん
Subject: 「著者達にはあのようなことを言う権利はないのだ」という方向に進む議論は全て誤りだと思う

はらださん、『「知」の欺瞞』の著者達があの議論に関して非難されねばいけない形で「精神医学を理解してない」とはらださんは思ったのでしょうか? もしもそうであるなら、その具体的根拠は何でしょうか? 「精神医学の論文の読み方は,数学の教科書の読み方とは違う」という当然の話が『「知」の欺瞞』の内容とどのように関係しているとはらださんが思っているのかも全然わかりませんでした。

もしも、著者達が「精神医学を理解してない」から『「知」の欺瞞』の内容は無効であると主張したいのであれば、それは完全に誤りだと思います。著者達は自分達が様々なことを理解してない可能性を明言した上で自分達の意見を述べています。著者達がそのような態度を取っているのだから、「彼らにあのようなことを言う権利はないのだ」という結論を導きかねないやり方で著者達を攻撃してはいけないと思う。残念ながら、はらださんの感想はそういう類のものだと私には感じられました。彼らを批判したければ各論について具体的に議論を展開して、著者達に主張に真正面から対決し、実際に著者達が誤解していることを示す必要があると思います。

最も決定的な反論の仕方は、 Sokal と Bricmont が引用している一節を彼らとは別の自然なやり方で解釈することによって晦渋で尊大なスタイルによる科学用語の濫用ではないことを具体的に示すことです。そのような反論への試みは見物人にとって教育的で好ましいと思います。しかし、残念なことにそのような反論を私は見たことがありません。

個人的には『「知」の欺瞞』の批判に反論するのは難しいと思います。無理して反論するよりは、たとえあのようなデタラメが含まれていても『「知」の欺瞞』で攻撃されている権威ある(とされている)思想家達はやはり素晴しいのだと説明を詳しく行なう方が建設的だと思う。「○○のことを多くの人が認めているから○○の言っていることには価値があるのだ」すなわち「○○には権威があるから素晴しいのだ」というタイプの説得の仕方が基本的に無効になってしまった状況でどれだけしっかりした説明ができるかというのが問題になるのは非常に良いことだと思います。

さて、しかしながら、もしもはらださんは単に「すでに Lacan の信者になり、擬似数学的説明までも受け入れてしまった人を説得するためには、 Sokal-Bricmont のやり方が適切かどうか?」という疑問について述べたいのだとすれば、それはもっともな意見だと思います。

『「知」の欺瞞』を冷静に読めないタイプの人にとって、『「知」の欺瞞』は反感を刺激するだけで余計に意固地にさせてしまう効果を持ってしまうかもしれない。この問題についてはこれから様子を見てよく考えてみなければいけないことだと思う。

ちなみに、私がよく他人にすすめているステーヴン・ハッサンの『マインド・コントロールの恐怖』 (浅見定雄訳、恒友社) という本では、破壊的カルトにはまってしまった人を徹底的な論争で説得しようとするのは逆効果にしかならないことが強調されています。その人の家族や友人への愛情を刺激し続けるのが大事なことなのだそうだ。過去に原理なんかと議論で対決したことがある人は反省するように。(^_^;) 大学の新入生はカルトの勧誘に狙われ易いので、大学入学と同時に『マインド・コントロールの恐怖』を読んでおくことは非常に良いことだと思います。大学のセンセも読んでおくべき本だと思う。


Id: #b20000606014044  (reply, thread)
Date: Tue Jun 06 01:40:44 2000
URL: mah@kcat.zaq.ne.jp
Name: はらだだよ
Subject: わしも「知の欺瞞」途中までだが読んだけど.
>>「自然科学における人文社会科学概念の濫用」ってあるんですかね。

ルイセンコ事件とか,アーリア的物理/数学とか?

こういう有名問題に,いまさら素人が感想を述べるのもなんなんですが,ちょっとだけ;

1.精神医学の論文の読み方は,数学の教科書の読み方とは違うのではないか.

自分が医者で,目の前にラカンのようなことをいう患者がいたときに,それをどう理解して,
どうコミュニケーションをとるのか,というように読むべきなのに,意味が取れるところを
抜き出して,それが自分の言葉では誤り以外の何ものでもない,というのは治療としては
最悪ではないのか.50頁からの結論は,文字通りに受け取って良いのだろうか.
だとしたら,この人たちは,そもそも精神病者と話したことがあるのだろうか,という根本的な
疑問が起こる.著者が精神医学を理解していないことと,クリステヴァが集合(ensemble)には構造
(structure)のようなものが入らないということを知らないのと,どっちが無知なのかは私には分から
ない.

2.欺瞞とは?

数学の定義は,数学者には明瞭だけれども,世の中全てが,そういう意味で明瞭なのだろうか.
そういう意味で明瞭に出来ることを,故意に不明瞭にするなら,欺瞞かもしれないけれど,そうで
なければいけないのだろうか.

たとえばラカンのコンパクト性の記述が混乱しているのは事実だろう.曲面のエンドが有限ということと
コンパクト性を混同していたのかもしれない.一方彼は関係性を記述するのに苦労していたわけで,
例えば,あなたの心の中の私のイメージを,私が想像する,というような関係を少しでも理解するために,
あるときは虚数,あるときは黄金比,またあるときはトーラスの交点数が1のサイクル,またあるときは
まつわり数が1のサイクルを持ちだして苦闘した.こういう関係は,明瞭に語れることなんだろうか.
それらはコンパクト性を誤解していただけで,無意味で笑われることなんだろうか.


Id: #b20000605172840  (reply, thread)
Date: Mon Jun 05 17:28:40 2000
Name: おおまめうだ
Subject: 『「知」の欺瞞』入手

『「知」の欺瞞』のケースとは逆の、 「自然科学における人文社会科学概念の濫用」ってあるんですかね。
Id: #b20000605170639  (reply, thread)
Date: Mon Jun 05 17:06:39 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000605041317
Name: helium kids
Subject: パラドックス

宮台氏の文章をちょっとだけ読んで何となく感じたこと。

例えば、クレタ島人のパラドックスになにかおかしさがあるとすれば、普通「嘘つき」という言葉は「普通の人に比べて嘘をつくことが(かなり)多い」くらいの意味で使われるのに、それを「Aが嘘つきならばAの言明は全て偽である」というような解釈をしてまぜっかえすところにあるんじゃないかと思います。

「脱パラドックス化」については、「意味から強度へ」の問題で例えば「じゃあ、スポーツをやって強度を獲得しよう!」と思い立ったとして、いつまでたっても「俺はスポーツで強度を感じなくてはならんのだ!」という思いが脅迫的に心に居座り続ける人もいれば、心頭滅却してすっかり充実した気分になっちゃう人もいるんでしょう。で、前者が「意味のパラドックスに囚われた人」、後者が「脱パラドックス化した人」ということになるのかな。でも、その差異は論理学的なものでは全然なくて、精神(病理)的なものだと思います。

てなわけで、この種の問題は論理学的なレベルと日常言語的なレベルが混じり合う(混同される)ところに発生することが多いような気がしています。だから、自己言及的な話と見るやゲーデルを持ち出すのはさっぱり話をわかりやすくしてくれないからあまり感心しないことだと思います(すごく議論を単純化・矮小化しているような気もしますが)。

知の欺瞞は少しずつ読んでいます。が、引用で限られた分量とはいえやっぱりラカンの文章を読むのはしんどいっす。「クリスティバの方がまだ意味が通じる」というのはもっともなことっす。というわけで、今のところ間奏が気持ちよく読めて勉強になっとります。

Id: #b20000605150339  (reply, thread)
Date: Mon Jun 05 15:03:39 2000
Name: 立川裕二
Subject: Information Hiding

コンピューティングにおけるobscurityの効用に関しては 言語INTERCALなんかどうでしょう。
簡単な紹介おおもとのページ
Id: #b20000605041317  (reply, thread)
Date: Mon Jun 05 04:13:17 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000605014258
Name: くろき げん
Subject: 崎山さん、自分の言葉で説明して頂けませんか?

崎山さんは「判断材料を増やしたい」と希望を持っているようなので、崎山さん自身の現在の理解を示しておいた方が良いというのはなおさらだと思います。そのように目的がはっきりしているのであれば、崎山さんが示した説明が間違っていても全然構わないだろうし、むしろ間違いを修正してもらう過程で判断材料が増えるかもしれない。

いずれにせよ、私が求めているのは崎山さん自身の言葉による説明です。私は崎山さんに「キーワードだけで偉そうに語る奴」というまことに失礼な疑いかけているのですが、その疑いを払拭したいという目的もあるのでよろしくお願いします。

正直言って、宮台氏のこれを見ても「脱パラドックス化」や「否定神学的なものの否定」の意味を全くわかりませんでした。そして理解しなければいけないとも感じられなかった。崎山さんはよく理解していらっしゃるようなので説明をよろしくお願いします。宮台氏は「ゲーデル」を繰り返して説明を書いているので「ゲーデルの定理」の崎山さんによる理解の仕方についても説明して下さい。

もちろんのことですが急がなくても構いません。しかし、その言葉を使った時点で、雑だったり間違っていたとしても、キーワードの意味を自分の言葉で説明できなければおかしいと思います。

最後に付け足し。「「脱パラドックス化」とか「否定神学的なものの否定」といった概念は、その種の相対主義に陥らないための仕掛けではないかな?」というアイデアの詳しい説明を読みたい人はきっといると思う。上の私の嫌みに答えるならば、その過程でこのアイデアについて掘り下げるのが建設的だと思います。もちろん、崎山さんの説明がそれらのキーワードを使っている他人の主張の解釈として正しくある必要はありません。崎山さん自身のアイデアを聞きたいのだ。


Id: #b20000605033445  (reply, thread)
Date: Mon Jun 05 03:34:45 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000604215703
Name: くろき げん
Subject: 湯山さん、笑って見ているので安心して下さい

湯山さん、始めまして。名前を出されちゃうのは結構あることなのであまり気にしてません。今後もよろしく。短い挨拶で申しわけないのですが今日はこれだけで失礼します。


Id: #b20000605014258  (reply, thread)
Date: Mon Jun 05 01:42:58 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603162549
Name: 崎山伸夫
Subject: 具体的な話をするには読まないといけないので...

まず、私が「社会システム理論が気になってきてた」のは、 「使えるのかどうか」ということであって、 「社会をシステムとして解明したい!」という感じではないのでした (使えるならどう使いたいか、は伏せときます)。

で、私は

自分がどのような理解の仕方をしているかを具体的に説明

できるほどにしっかり読み込んでるわけではなくて、 今回はルーマンの著作を読むお金と時間をかける前に反応を求めたというところです (そもそも、もとの入門書はまさに入門書であって読み込むべきものでもないような)。 明確な回答を求めてそれに従うということを意図したわけでもなくて、 判断材料を増やしたかったというところ。

なお、「ゲーデルの定理」は「ゲーデルの不完全定理」 そのものです(『「知」の欺瞞』11章など)。 「脱パラドックス化」「否定神学的なものの否定」は、たかたさんがリンクをはった 宮台氏が東氏の著作について語ったインタビュー に出てきてそこでも平易に説明されているので、とくにさらなる説明を感じるものではないです。 『「知」の欺瞞』の「エピローグ」との関係ですが、 「エピローグ」はそれまでの章の立場から一歩踏み込んだ形で (そのかわり、「最終的な結論」ではなくて「一連の仮説」と述べている)、 「ポストモダン」的思潮のなかにある、「認識論的相対主義」への懸念を表明しています。 で、「脱パラドックス化」とか「否定神学的なものの否定」といった概念は、 その種の相対主義に陥らないための仕掛けではないかな?、ということで。


Id: #b20000604215703  (reply, thread)
Date: Sun Jun 04 21:57:03 2000
Name: 湯山光俊
Subject: ご迷惑をおかけしました。


黒木さん、はじめまして。
湯山と申します。
匿名の方を挑発するのに、黒木さんの名前を
もちだして、大変失礼いたしました。お許しください。
以前から掲示板を読まさせていただいております。

難解ぶった哲学というのは私も嫌いです。
でもドゥルーズは、間違った数学の知識をつかうかもしれませんが
難解ぶってはいないようですよ。まあ好きなものの贔屓目というのも
あるかもしれませんが、「差異と反復」の序章で、「自分はSFを
かくんだ」と宣言しているくらいですから。デックやレムのように。
むしろドゥルーズを読まないで、ドゥルーズを賞揚するような輩が
批判されるべきでしょう。彼はテキストの中でなんども
自分の概念がいかに深遠にみえてはいけないかを書いています。

科学的な真理命題の濫用で、直接実害をうけるのは、たぶん科学者
たちではないでしょうか。たしかに科学者にとっては
とても迷惑な話しだと思います。しかし現実に科学的真理を
様々に生活へと行使できるのは、科学者たちなわけですから、
このようなたわいもないドゥルーズの作品は、しょせん哲学の一部の
はなしであると一般的にはおもうかもしれません。
数学的な概念をちりばめると豪華なかんじがするどころか、
何だか読みにくいといって読まない学生もおおぜいいるくらいですから(笑)
一時期、ドゥルーズの本がうれたのは、内容が深遠なのではなくて
売り方が上手かっただけだとおもいます。実際学部では、あまり
取り上げる人がいなくなっているほどなのです。

しかし問題なのは、確実に擬似科学の本が権威としてのみ機能
している事実はあるということです。またもし、ドゥルーズが
そのような要素をふくんでいるのであれば、いかに峻別すべきかを
考えてみたいと思っています。

酒井さんをご存知でいらしゃるのですね。物理学をやっておられて
そのあとすばらしい作曲をなさっておられるのに哲学全般にも
詳しい方です。ルーマンフォーラムは角田さんもいらっしゃるし
とても活発なところなので、ぜひご質問のあるかたは、酒井さんの
ページからお入りください。

ながながと失礼いたしました。

*なお、哲学の劇場掲示板に、黒木さんのお名前を
出しました旨を謝罪しておきます。

Id: #b20000604161230  (reply, thread)
Date: Sun Jun 04 16:12:30 2000
Name: くろき げん
Subject: 『「知」の欺瞞』の教訓 Version 1.0

「知」の欺瞞』には大変な成功をおさめたテクストがたくさん引用されている。それらが成功した理由を分析することによって以下のような教訓が得られる。

1.自分が何を言っているかわかってないことは良いことだ。

自分が何を言っているかわかってなければ、読者も何を言っているかを理解できないであろう。読者は理解できないものを恐れ、それに権威を感じてくれるものなのだ。

2.不明瞭なものは深淵である。

なぜなら、不明瞭な表現は読者の想像力を刺激するからである。それによって、読者は深淵さという快感を味わうのだ。そのような読者は特に大事にしなければいけない。

3.科学は「テクスト」である。

自然科学は人間科学ですぐに使うことのできるメタファーを集めた倉庫なのだ。科学用語の意味は日常的な意味とは微妙だが本質的に異なっていることなど完全に無視し、一見して科学用語のように見えるが実際には別の意味で自由に使ってしまおう。そうすることによって、あらゆる分野を科学と関連付け、科学の権威を利用できるのである。科学における複雑に絡み合った理論や実験について調べておくことなど時間の無駄である。どうせ読者は私と同様に科学に関して無知なのだ。

4.自然科学の猿真似をしよう。

例えば、心理学者が彼らの分野において「観測者は観測の対象に影響を及ぼす」という事実を主張するときには量子力学を持ち出すべきである。このようなやり方によって、自然科学にコンプレックスを感じている同業者の反論を封じることができるであろう。

5.読者が権威を笠に着た議論に弱いことを徹底的に利用しよう。

たとえパリで物理学科を優秀な成績で卒業した人物であっても、ドゥルーズによる解析学に関する難解なテクストの深淵さを疑うことができないものなのだ。自分の思想が高遠であるという評判を得てしまえばこっちのものである。しかし、そうなるまでが大変である。ひとまずは高遠だと評判の思想家の名前と言葉をうまく利用するのが良いであろう。

6.個別的な懐疑と極端な懐疑を混同すべきである。

科学への批判には、大きく分けて二つのタイプがある。一つ目は何らかの具体的な根拠があって特定の理論を問題にするような批判であり、二つ目は古くからある極端な懐疑主義の焼き直しである。二つ目の懐疑は何にでも適用でき、しかも論駁不可能である。それに対して、一つ目の懐疑を誠実に行なうためには具体的な証拠を集めなければいけない。それは大変である。だから、読者に二つのタイプの懐疑を混同させ、二つ目のタイプの懐疑によって具体的に根拠のある個別的な批判が達成されたと信じてもらうことには大きなメリットがある。

7.曖昧さは勝利への道である。

読み方に応じて、正しいがかなり当たり前の主張と過激だが明らかに誤った主張の二 つの解釈が可能になるようにしておいた方が良い。こうしておけば、批判されたときに「あなたは誤解しているに違いない。私は当たり前のことを言っているに過ぎないのだ」と反論できるからである。もちろん、過激な解釈の方が誤っていることを目立たせてはいけない。なぜなら、多くの読者は穏健でつまらない主張よりも過激で面白そうに見える主張の方を好むからである。読者をがっかりさせないように巧妙にダブル・スタンダードを貫くことが肝要である。

類似の教訓については「痴の偽呆」も参照せよ。しかし、「ここに書いてあることは真に受けてはいけません」という一文だけは無視すべきである。


Id: #b20000604141825  (reply, thread)
Date: Sun Jun 04 14:18:25 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000604130757
Name: くろき げん
Subject: 機械翻訳経由でのアクセス

sk さん、 GO Translator の紹介どうもありがとうございました。

ぎゃはは。なるほど、時間論のネタをふった人の後で、例のパロディー論文を真面目な顔をして引用してしまうというベタな冗談をやった常連がいたんですね。 (AW: Luhmanns Erkenntnistheorie (GO Translator による英訳) の Carsten Allefeld の記事 (GO Translator による英訳) 以降の議論を見よ。)

その方がどういう意図でそうしたのかわかりませんが、「そんな説明の仕方じゃあ、あの有名な偽論文と区別がつかないよ。誤解を生まないような説明の仕方をしてよ」と言う代わりに、偽論文のデタラメな一節を大真面目な顔で引用してみせるというのは一つ考えられる茶々の入れ方ですよね。難解で深淵そうに見えること自体に価値を見出す人が出て来てしまいそうな雰囲気になったときには効果的だと思う。まあ、そのせいで、怒りを爆発させる人が出たり、悪のりして偽論文の一節を肯定的にさらに発展させてしまう人が出て来てしまうかもしれませんが。


Id: #b20000604130757  (reply, thread)
Date: Sun Jun 04 13:07:57 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603044227
Name: sk
Subject: Re: Luhmann-Mailingliste
>Luhmann-Mailingliste の去年の1月に "AW: Luhmanns Erkenntnistheorie" に
>関する議論に Sokalの名前が登場しているようです。最初に登場しているのは
>これ。でも、ドイツ語を読めないので何が書いてあるのかわからないのだ。な
>んとなく脱線という感じですが、どういう議論になっているのかについて誰か
>紹介して下さると助かります。

http://translator.go.com/

の独英翻訳を試してみてはいかがでしょうか。

Id: #b20000603221517  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 22:15:17 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603053105
Name: くろき げん
Subject: 「駄洒落の功罪」の紹介

駄洒落の功罪」でも『「知」の欺瞞』が話題になっています。松永さんが 2000/06/02 (金) 14:19 にここを紹介して下さっています。それに対して、金田智之さん曰く (2000/06/03 (土) 06:17):

松永さんの挙げている掲示板を見ると、「フランス現代思想」を哲学一般に誤解し、科学的な視点から哲学を卑下するという態度が目立って、あまりいい気分はしませんでした。

具体的に誰が「「フランス現代思想」を哲学一般に誤解し、科学的な視点から哲学を卑下するという態度」だと言っているのでしょうかね? 今までになかったタイプの誤解なのでちょっと面白いです。

しかし、金田さんが言う通りで、「人間社会は多種多様な変数から成り立っているのであり、その全ての変数を組み込んだ方程式を立てることが難しい」という主張に注目することは大事なことだと思います。

社会科学の対象に比べれば単純かもしれませんが、物理学においても真に全て変数を組み込んだ方程式 (要するに「究極の理論」) を立てることはできていません。しかし、それにもかかわらず、物理学の基礎理論の多くは経験的に極めて高い信頼性を持っている。

このことから以下のような疑問を持つことは自然です。変数の全てを見渡すことができてないにもかかわらず、それらの理論が成功しているのはなぜなのか? その成功はなにか特別な条件に依存しているのではないか? その特別な条件とはどのような条件なのか?

このような疑問に関して、大野克嗣・田崎晴明・東島清の「くりこみ理論の地平」や田崎晴明著『熱力学――現代的な視点から』の1.2節に書いてある「ユニバーサリティ」=「普遍性」は決定的に重要な考え方です。


Id: #b20000603162549  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 16:25:49 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603034010
Name: くろき げん
Subject: もっと具体的に説明すれば反応が得られ易いと思う

崎山さん、自分がどのような理解の仕方をしているかを具体的に説明した方が良いと思います。崎山さんは狭い世界でしか通用しないキーワードだけを挙げて反応を求める傾向があるような気がします。今回の場合は「ゲーデルの定理」「脱パラドックス化」「否定神学的なものの否定」です。キーワードの権威ではなく、その内容の理解に基いて議論しようとしていることを文章のレベルでも表現すべきだと私は考えています。

ゲオルグ・クニールとアルミン・ナセヒの『ルーマン社会システム理論」』のどこがどのように「ゲーデルの定理」の濫用かどうかかなり微妙なのかについて説明すれば反応できる人が増えると思いますし、「脱パラドックス化」やら「否定神学的なものの否定」のどこが『「知」の欺瞞』の「エピローグ」への反論になっているかも具体的に説明した方が良いと思う。「エピローグ」には色々なことが書いてあるのですが、崎山さんはそのどの主張への反論であるかさえ述べてないですよね。「脱パラドックス化」やら「否定神学的なものの否定」に関する崎山さんの理解の仕方も述べておくべきだと思う。

これだけだと何も言ってないことになってしまうので、普段から考えていることを少しだけ書きます。

僕は、『「知」の欺瞞』に挙げられている事例の教訓の一つは「キーワードの持つ権威だけに頼るとトンデモない恥をかく場合があること」だと思っています。やっぱ、「自分が何をいっているかわかっていること」を他人だけではなく自分自身が確認できるような文章を書くようにした方が良いと思う。

他の人が使っている言葉について詳しい説明を書こうと思った途端に自分自身があまり理解してないことに気付くことはよくありますよね。

そのようなときに僕は「果たして他人が使っているその言葉に頼る必要があるのだろうか」と考えるようにしています。自分自身が理解してない言葉の利用が結論のために不可欠であるとすればその結論自体をもう一度チェックしてみる必要があるはずだし、別のやり方で結論が十分確からしいことがわかっているならばその言葉に頼る必要はなくなります。

しかし、世の中には、利用したい言葉が結構有名で世間的に権威を持っていたとき、それを使うことによって自分の主張に箔を付けるというようなやり方も存在していますよね。場合によっては、自分自身を偉く見せかけ、議論の相手を委縮させるための手っ取り早い方法として利用することさえできます。

そして、文筆によって出世しようとする人が、自分自身を偉く見せるための工夫をしたり、少々の誤解があっても自分の言葉を引用してくれる人を大事をするのはある意味で当然だと思う。

こういう問題があることを他人が書いた文章を読むときには常に意識の片隅に置いておきたいですよね。


Id: #b20000603141020  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 14:10:20 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603105313
Name: くろき げん
Subject: どっちもどっちですなあ

湯山氏にしても Erlkoenig 氏にしてもどっちもどっちだよね (議論の内容も僕の名前の利用の仕方も)。

ええと、情報を教えて下さった方、どうもありがとうございます。湯山さん <yuyama1@hotmail.com> はポリロゴスのメーリングリストのドゥルーズ・メーリングリストのモデレーターの湯山光俊さんのようですね。

崎山さんはすでに御存じだと思いますが、ポリロゴスにはルーマン・メーリングリストがあるのでそちらに参加して質問してみると良いかもしれません。そこのモデレーターの一人である酒井泰斗さんは親切に色々なことを教えてくれるなかなかの人物です。


Id: #b20000603105313  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 10:53:13 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603061923
Name: やぎ
Subject: そのあとの

Erlkoenig(erl king[発音記号]n.《北欧神話》(暴風雨を起し,また子供に害を与える)魔王.(岩波デイリーコンサイス英和)))氏による 書き込み:6月3日(土)09時28分31秒

黒木さんなら、もっと冷たいでしょうね(笑)

の方がイカしてる。


Id: #b20000603061923  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 06:19:23 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603053105
Name: くろき げん
Subject: なんじゃこりは? (^^;)

大笑い。ついさっきリンクした「哲学の劇場 : 掲示板」の6月2日(金)20時32分43秒を見ると「湯山」 (yuyama1@hotmail.com) と名乗っている方が以下のようなことを言ってますね:

Erlkoenigさん、なんだか黒木さんとしゃべっているような
かんじですが、あなたが紳士的な態度をこわされて
いないので、だれだかわかんないけど話しをつづけます。

「湯山」とかいう失礼な知り合いがいたかなあ? 湯山氏に関する情報を求む。


Id: #b20000603053105  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 05:31:05 2000
Name: くろき げん
Subject: 哲学の劇場掲示板の紹介

哲学の劇場 : 掲示板」でも『「知」の欺瞞』の話題が出ているようですね。

見付けた場所のリンク集


Id: #b20000603052020  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 05:20:20 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602121135
Name: くろき げん
Subject: 「April 8, 1997」と「1998年第10号」

まだ誤解している方がいるかもしれないので、たかつかさんがリンクをはっていた『思想』1998年第10号に発表された野家啓一のエッセイについてコメントしておきます。 (ここが初めての方は「「サイエンス・ウォーズ」なんてのを信じちゃ駄目です」も見て下さい。)

たかつかさんの記事を見ると、野家の「CSの科学批判に対抗して「科学の神殿」を守護する科学者云々」という主張が『「知」の欺瞞』にも関係あるかのように書いてあるのですが、実際には関係ありません。

実はそのことを知るためには『「知」の欺瞞』を読まなくても1997年の時点ですでに英語版がウェブで公開されていた「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」で予習しておくだけで十分です。少なくとも、その最初の方を読めば、野家のように科学批判に敵対する科学者の典型として「ソーカル」の名を挙げ、政治的に利用するのは全く不適切であることがすぐにわかります。

野家は1998年の時点で批判対象である Sokal が何を言っているかについて調べずに、みっともないエッセイを発表してしまったのだと思います。

以上のようにどのようなエッセイがいつ発表されたかを調べてみれば、論争の経緯をろくに調べもせずに「過剰防衛反応」しているのが実際には誰なのかが一目瞭然ですよね。

なお、「モラル・ハザード」云々という野家の主張に対する批判として、哲学者の Paul Boghossian と Thomas Nagel による文芸批評家の Stanley Fish に対する批判が参考になります。 (ここで読める。これは1996年の夏にはすでに出版されています。はなばなしい論争を日本で紹介したいというなら、こういうのを紹介して欲しかったのだ。) 偽論文投稿が本当に「モラル・ハザード」の引き金を引いてしまった事例ってあるんですかね? 偽論文を投稿するのが好きな科学者って昔からいますよね。


Id: #b20000603044227  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 04:42:27 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602031500
Name: くろき げん
Subject: Luhmann-Mailingliste

Luhmann-Mailingliste の去年の1月に "AW: Luhmanns Erkenntnistheorie" に関する議論に Sokal の名前が登場しているようです。最初に登場しているのはこれ。でも、ドイツ語を読めないので何が書いてあるのかわからないのだ。なんとなく脱線という感じですが、どういう議論になっているのかについて誰か紹介して下さると助かります。

(崎山さんが知りたいことに全く関係なかったら御免なさい。)


Id: #b20000603034010  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 03:40:10 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000603004940
Name: 崎山伸夫
Subject: Re: 社会システム理論

うーん、櫻田さんが紹介してくれたやつはたぶん前に読んでる。 で、そこにしても私の読んだ入門書にしても、 それが「ゲーデルの定理」の濫用かどうかというとかなり微妙なところで、 濫用でない解釈として読める範囲ではないかと一応思ってますけど自信がない、というくらい。 それより、私の頭はその手の議論を比較的すんなり受け入れちゃう一方で、 ソーカルの批判(ただ、「欺瞞」のなかでも、「間奏」とか「エピローグ」にかかる部類のほう) の対象になりうる領域で議論をしている印象もあるのでひっかかってました。

ちょっと考えてみると、社会システム理論用語の「脱パラドックス化」、 東さんが書いたところの「否定神学的なものの否定」といった概念が 「エピローグ」への反論になってるところはあるのかな、という気はしますけど、 言い切る自信がなかなかない...。


Id: #b20000603004940  (reply, thread)
Date: Sat Jun 03 00:49:40 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602031500
Name: 櫻田
Subject: 社会システム理論

 ルーマンの社会システム理論ですが、それを踏まえた議論をしている宮台真司の、コレなんかをきっかけに議論するのはいかがでしょうか?(ゲーデル云々のところをソーカル的にみて)

宮台のリベラリズムは、文化的相対主義(おそらく黒木さんの仰る「悪しき相対主義」とは異なる、と思う)に基づいているそうだけど、これは少なくともボクにとっては、極めて自然な考え方でした。

(という話題を振ると生産的な議論のきっかけになるかも知れないと思ったのですけど>山形さん)

(いやボク自身「サクラ」という音に過剰に反応してしまうのですが…、いやそれはともかく、田崎さんの熱力学入門もいづれ読みたいと思います>こなみさん)


Id: #b20000602200059  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 20:00:59 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602165514
Name: たかつか
Subject: 弁明

田崎さん、私のような素人に返事を頂き恐縮です。

私の表現が拙くてちょっと誤解をさせた面があると思います。 私は Sokal, Bricmont を「ナイーヴな実在論者」 とは思いません。 「素朴な」と言う表現が拙かったのですが、4章で使われている(と思う)表現だとSokal, Bricmontは「穏健な科学的実在論」を述べていると思います。「過激な科学的実在論」だと彼らが否定している「科学的相対主義」につながるためです。素朴という表現を用いた事はお詫びします。

また、4章は非常に良く考えて書かれていると思います。従って4章の内容に不満や欠陥があると思っている訳ではありません。

現象学の科学批判は生活世界と科学世界の関係に関するものなので4章の範囲外になると思います。 例えば、竹田青嗣「現象学入門」NHKブックス p203 「現象学は科学を否定するか」を引用すると次の様になります。

といってこの「解明」は、一切の学を批否し、学の無用性を説くのでもまったくない。科学を科学の本来の合目的性へ立ち戻らせ、思想(哲学)を思想本来の課題に立ち戻らせようとするだけである。 <中略> たとえばひとつの地図を作ってみることはひとつのフィクションを思い描くことだ。完全な地図というものはありえないから。しかし人間はこのフィクションによって、A点からB点までの最も近い道がどれであるかを験すことができる。Aという土地とBという土地はどちらが広いかを験すことができる。また実際にその道を歩いたり土地を使用することによってのみ、フィクションとしての地図を験すことができる。この様な実践関係が、人間だけに、直接経験できないはずの世界を「経験」しうる能力を与えるのである。  科学の理論的努力と人間の生活世界の関係の本質はそのようなものだ。<以下略>

分かり難いと思いますが、現象学の科学批判とは上のようなものです。それに対する科学哲学からの回答としては、例えば次のようなものがあります。

 フッサールの生活世界論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、生活世界や日常言語の世界の科学的世界に対する独自性を主張する点で説得力をもつが、それが科学的知識の源泉であるとか科学的作業の理解モデルであると主張する限りでは明らかに誤っているといわなければならない。科学的探求のスタンスと日常の生活世界でのスタンスとでは、そこに求められるものが基本的に異なっており、二つのスタンスは、一方が他方を無効にするような関係にないのである。そのことをわきまえれば、われわれは、偏狭な科学主義も生活世界論や言語ゲーム論に基づく科学批判も退けることが出来る。(小林「科学哲学」p178より)

このような主張はあまり見たことが無く、科学哲学の中でどれだけ支持されているのか分かりません。逆にだからこそ、「知の欺瞞」にどの様に書かれているかに興味があったのです。 「知の欺瞞」に書かれている内容に反対している訳ではありません。

追記: 黒木さんのコメントにあった 金森 修氏は第13期の「科学史学校」の中で7月22日に「サイエンス・ウォーズをめぐって」という講演をされるようです。


Id: #b20000602181353  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 18:13:53 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602173551
Name: 田崎
Subject: solipism = 独我論

という訳語は、岩波「哲学・思想事典」に従いました。 唯我論のほうが雰囲気がでているとは思うのですが。

むかし、「一匹狼の会」というネタがあって、気に入って流用したりしているのですが、 ラッセルのこの話はそれに似ていて笑えます。


Id: #b20000602173551  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 17:35:51 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602165514
Name: こなみ
Subject: 「素朴実在論」

「あいつらは素朴実在論で、ようするに哲学も何もわかっとらへんねん」という言い方を 投げつける人がいるわけなんだけど、それってのは、相手が外界が実在するのかそれとも自分の意識が 作り出した影にすぎんのかってことを悩んだこともないんだろうという、一種の軽蔑があるように 見えます。裏返せば、悩んだことがあるぶん上等なんだよ、わしゃあ、ってわけだ。

実際にはそういう疑問を人生のどっかではぶつかって、「答えが論理的に出せる問題じゃない」という、 まったく妥当な結論にたどり着いてから、また実在論を前提とした行動をとるというのが、 科学者だけではなく多くの人のやっていることでしょう。そもそもそういうことを 考えない人もいれば、考えておかしくなって社会生活ができなくなる人がいるかも知れないけど。

独我論者として行動することについては、「知の欺瞞」の注釈でソーカルが述べている

独我論についてのバートランド・ラッセルのエピソードは面白い。 「私は高名な論理学者、クリスティン・ラッド・フランクリン女史から手紙を受け取ったことがある。 それによると、彼女は独我論者なのだが、ほかにそういう人がいないのを驚きに思っているとの ことであった。」(p.74-75)
が笑わせますよね。これは実に厳しいとこを衝いているのだけど。

「素朴実在論」に立っている人というのを、そういう疑問を生来なんら持たずに外界が実在していると 思っている人という意味で使うのなら、それは構わないとは思います。そういう人は 何らかの知的な欠落をしているわけでもないと思うけど、まあちょっと散文的な人生かも知れない。 でも、独我論(これを唯我論とふつうに訳さなかったのは理由ありかな?)と実在論の間で 自問自答してから、論理的にはともかく自分の立場として外界の存在を認めている多くの 人に対して、「ナイーブ」という軽蔑の呼称を与えるのはおかしいと思うのだけど、 「素朴実在論」という侮蔑を投げたい人は、そこらを区別しているのでしょうかね。


Id: #b20000602165514  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 16:55:14 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000602121135
Name: たざき
Subject: かんたんに

たかつかさん、

田崎です。訳者の一人ではありますが、 あくまで一読者として、気楽にコメントします。

『「知」の欺瞞』の4章では、認識論や哲学の本格的な議論に入ることを意図的に避け、 科学の実践に直接かかわる問題だけを簡潔に議論することを目指していると思います。 ですから、道具主義と実在論の対立といった問題にも触れないと明言しています。

そして、4章の冒頭で、 「感覚以外のものが外に存在すると証明できるか?」 という問いには、 それは証明できないと答えています。 ぼくは哲学については本当に無知なのですが、 この点にさらに踏み込んでいくとすれば、 とうぜん現象学についての議論が避けられないのだろうと思います。 ですが、彼らはそこに踏み込むことはせず、 「独我論は論駁できないが、独我論を認める人などない」 という立場を軸に、そこから先の議論を進めています。

これは、哲学のプロからすれば物足りない議論でしょうが (本当に意味があって「もの足りる」議論が可能かどうかは今は考えません)、 筋の通ったひとつの立場だろうと思います。

「日本語版への序文」には、 Sokal, Bricmont を「ナイーヴな実在論者」と頭ごなしに決めつける人はたくさんいるが、 4章の議論を吟味して、どういうところに不満や欠陥があるのかを指摘してくれた人はいない、 そういうことをしてくれればもちろん大歓迎だといったことが書いてありますね。


Id: #b20000602121135  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 12:11:35 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000601144303
Name: たかつか
Subject: 科学的実在論

黒木さん、「サイエンスウォーズ」の説明有り難うございました。 多少驚きましたが、紹介していただいたものを見てみます。 村上陽一郎氏とその考え方は存じています(科学的な内容に乏しいことも(^^;;)

さて、「科学的実在論」についてですが、誤解があるかもしれませんので多少補足します(釈迦に説法のような気がしますが、お許し下さい)。 私は専門家ではないので勘違いしているのかもしれないのですが 小林道夫の「科学哲学」(産業図書)第10章での 「科学的実在論」の定義は

科学的実在論というのは、原子、電子、場といった直接的には観察できないが物理理論の核を構成している理論的存在、あるいは物理学理論の原理を構成する基本法則が物理的世界に実在的な根拠をもっているとする立場である。

もっともな話なのですが、実際には「理論的存在」の実在性が問題になるのは結構多いと思います。中間子や電磁気のベクトルポテンシャル、モノポール、クォーク等の実在性が過去議論になったかと思います。 また「科学的実在論」を強く主張すると理論面が強調されるため科学的相対主義が出やすくなると言われています。 これらの意味から先のコメントで「素朴な科学的実在論」と表現しました。

もう少し「知の欺瞞」で分からなかった点を言うと、西洋哲学は近代になって科学の挑戦を受けて神学的な基盤を失い「哲学の危機(主観と客観の問題)」を迎えます。デカルトの「神の証明」に始まる、カント、ヘーゲル、ニーチェらの哲学の主題の一つは「哲学の危機」への回答にあります。20世紀になりフッサールらの現象学はこの問題を解決したと主張します。そして彼らは現象学の立場から「科学の主観と客観の一致」を再検討(現象学の科学批判)します。(ここは竹田青嗣「現象学入門」NHKブックス1章と5章から) この時の「主観」は「仮説(理論)」で「客観」は「経験(実験)」になります。ウィトゲンシュタィンの「言語ゲーム」は良く分からないのですが、カルチャースタディーズ(CS)は現象学や「言語ゲーム」の影響を強く受けていると思います。(現象学は「科学の内容に口を出している」訳ではありません、念のため。)

そのため、個人的には「科学のCS」の批判をするには、現象学などの現代哲学の科学批判に答える必要があると思います。「知の欺瞞」の中には「還元主義」の話が出てくるので、回答しているのだと思うのですが良く分からない(多分に私の能力の問題になるのだと思うのですが)。

私には難しいテーマなので もう少しゆっくり読む必要があるのでしょうね。

黒木さんには不毛な話をさせたようで申し訳有りませんでした。 ”「わかり易い説明」「明僚な説明」を目指すことの重要性について”と「知の欺瞞」がそのために最適な本であることは理解しているつもりです。


Id: #b20000602082037  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 08:20:37 2000
URL: http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
Name: てるてる
Subject: 臓器移植法の改正案のこと
前に、臓器移植法の改正案のことについて、投稿致しました。
その後、とぎれてしまいましたが、先日の「NHKスペシャル 世紀を越えて」
の「脳死・臓器移植」の回を見て新たに関心を持たれた方の投稿が
yahoo に現われたり、Lycos にも、関連の投稿があったりしています。

先日、厚生省の審議会を傍聴に行ったのですが、今年3月4月に
行われた、脳死・臓器移植の事例についての、検証会議の報告が
メモ程度の簡単なものだったので、これでは議論ができない、と
委員の方がおっしゃっていました。
今までは、厚生省の議事録を見てもわかりますが、一つ一つの
事例について、審議会がくわしく検証していました。
検証会議ができたから、もう、審議会の検証の役割は終わったのだ
と言ってもいいのかもしれませんが、検証会議は非公開なので、
今まで、厚生省の議事録で読むことができたような程度の内容が、
一般の人に知らせてもらえなくなってしまうのは、残念だと思いました。
委員の一人の町野朔さんが、小児移植のこと、脳死を死とするのか
どうかなど、まだ積み残している議論がたくさんある、とおっしゃって
いました。

森岡正博のサイトでも、対案(てるてる案)を訂正したり、掲示板で
議論を続けたりしています。
よろしければ、どうぞお越しくださいませ。
森岡正博の無痛文明論には批判がたくさんあって当然だと思います。
私にはわからない部分がたくさんあって、全部を読むこともできません。
それはともかく、臓器移植のことについて、いろいろな方のお知恵を
拝借させていただきたいと思っております。
よろしくお願い申し上げます。

Id: #b20000602031500  (reply, thread)
Date: Fri Jun 02 03:15:00 2000
Name: 崎山伸夫
Subject: ルーマンをお勉強しようかと思ってるんですが

最近、社会システム理論が(肯定的に)気になってきてたのでとりあえず 「ルーマン 社会システム理論」(ゲオルグ・クニール、アルミン・ナセヒ) という入門書を読んでみたのでした。 ただ、「知の欺瞞」のほうを読みはじめたところ(まだ「第一の間奏」あたり)で、 ソーカル的視点で上記入門書の記述をみると 気になるところが出てきていて (「観察理論」が認識論的相対主義を含んでいるような気がするのだけど、 ソーカル的批判を逃れる形で構成されているのか否か?))ます。 どうなんでしょうね。


Id: #b20000601224608  (reply, thread)
Date: Thu Jun 01 22:46:08 2000
Name: くろき げん
Subject: TFJ's Sidewalk Cafe の Conversation Room の紹介

TFJ さんのところでも『「知」の欺瞞』に関する話が出ています。そこにおける TFJ さんの発言はバランスが取れており読む価値があります。ただし、そこでの議論への参加者で『「知」の欺瞞』を読んでいるのは今のところ TFJ さんだけのようです。(^^;)


Id: #b20000601151537  (reply, thread)
Date: Thu Jun 01 15:15:37 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000531140835
Name: くろき げん
Subject: でも、そのベタなパロディーに「心の高ぶり」を覚えた方もいるようです

「サイエンス・ウォーズ」という不毛な話をしたついでにさらに不毛な話を紹介してしまいます。

鴨さんや小波さんが言う通りで、あのパロディー論文は本当に素直なパロディーだと思います。しかし、そのベタなパロディー論文の大団円に「心の高ぶりを覚えてしまう」方も存在するようです。ここにパロディー論文が成功した理由の一端が垣間見えると思います。金森修、「サイエンス・ウォーズ」、『現代思想』 1998.7 vol.26-9 pp.8-27、1998.8 vol.26-10 pp.8-27 の 1998.8 p.19 上段より抜粋:

(E) いまこの詐欺論文の大団円、ポストモダン科学という「解放的科学」を打ち上げた最後の部分を再読してみると、私はある奇妙な感覚に教われる。それが単なるパロディであり、そこでの字面は悪意を隠した仮面なのだと頭ではわかっていても、私はある種の心の高ぶりを覚えてしまうのだ。そして少し反省的にその心の動きを捉えなおしてみると、私だけではない、人間一般の精神というものがもつ特性に対して、妙な言い方で恐縮だが一種のいとおしさを感じてしまう。曰く、客観的真理の専制状態から逃れる、人を隔てる壁を突き崩し、社会生活を革命的に民主化する。近代科学のヒエラルキーを転覆し、流動と不安定性との危うい均衡を生き抜く云々。そこには「主体」としての個人がもちうる一種の矜持、気概、覇気のようなものが感じられないだろうか。「客観的真理」を暴君のようなものとして捉えるという、それこそ準客観的に見ればほぼ無意味な感覚でさえ、ある了解可能性をもっている。子供の頃、時代劇で、例えば虐げられた貧民を救うためにたった一人の主人公が数十人もの武士たちを快刀乱麻になぎ倒すという場面を、私は何度も楽しく見ていたものだ。それがたとえ現実には絶対にありえない架空の戦いにすぎないものでも、それは物語的に美しい稜線を与える一種のダンスのようなものだった。客観的真理から逃走するという快い響きもまた、私たちの脳に愉悦を与えるダンス音楽のようなものではないか。ソーカルはダンス音楽をオシログラフの波形としてしか見ない無粋な人間ではないか。ある「心の高ぶり」のなかでしばしの間、私はそんなことを夢想していた。

ううむ……。読み直してみると、これってかなりひどいですよね。信仰告白? まあ、「心の高ぶりを覚えてしまう」のは個人の自由だと思います。しかし、金森氏は、「心の高ぶり」を覚えてしまう自分自身と同様の感覚を持ってない人は「人間一般の精神というものがもつ特性」を共有してない「無粋な人間」だという態度を取っています。これはひどい。たとえ「夢想」と断わっていたとしても、わざわざ「ソーカルはダンス音楽をオシログラフの波形としてしか見ない無粋な人間ではないか」なんて書いてしまっちゃ単なる人格攻撃だ。そのような「夢想」が自分自身のどのような偏見によって生じてしまったのかを反省すべきだと思う。 (『「知」の欺瞞』の「日本語版への序文」 pp.xv-xvi には Alan Sokal が受けた中傷についてちょっとだけ書いてあります。それも笑えるので一緒に見ておくと良いと思います。)

金森氏による「サイエンス・ウォーズ」の紹介の仕方については以下も参考になります:

「物理学者1人と歴史家1人が反対票を投じたので人事がつぶれてしまった」と「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」 (金森氏の主張、『現代思想』 1998.7 p.34 上段) では大違いなのだ。金森氏はワイズの人事の件を「科学者による不当な攻撃が行なわれている」という「サイエンス・ウォーズ」信者特有の言説のキャンペーンに利用しています。しかし、その件については典拠を示してないだけでなく、経緯の説明さえ一切していません。単に「そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまった」と書いてあるのみです。真実がどうであれ、事例の紹介の仕方としては最低のやり方だと思う。まさに「東スポ」並。さらに、これはかなり不快なのですが、歴史家も反対票を投じていたことを正直に書いてしまうと利用価値が下がるので事実を隠したという見方さえできます。この不快な解釈が誤りであってくれれば嬉しいのですが……。

以上、不毛過ぎる話を長々としてしまって、読者の皆さんには申し訳ない。「わかり易い説明」「明僚な説明」を目指すことの重要性について建設的な議論ができた方が個人的には嬉しいのだ。そのためには、みほさんが言っているように「晦渋で曖昧でふにゃふにゃであるがゆえに 行間から深遠そうなものを読みとった気になることのほうに満足したがるタイプの読者」の問題について考えてみると良いかもしれませんね。あと、そのような読者をありがたがる筆者側の問題というのもあると思う。


Id: #b20000601144303  (reply, thread)
Date: Thu Jun 01 14:43:03 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000601132623
Name: くろき げん
Subject: 「サイエンス・ウォーズ」なんてのを信じちゃ駄目です

たかつかさん、「サイエンス・ウォーズ」という言葉はもともとは「科学者による不当な攻撃によって生じた論争」という見方を広めるために作成されたキャッチ・フレーズです。このことについては「サイエンス・ウォーズ・キャンペーンとは何か」を見て下さい。特に "Science Wars" キャンペーンに対する Sci-Tech-Studies mailing list における反応を見て下さい。かなりの不評を買っています。

「サイエンス・ウォーズ」という言葉を好んで利用している人達は大抵の場合「科学者による不当な攻撃」という見方を広めることにメリットを感じている人達なので要注意だと思います。そのような人物の典型例については、村上陽一郎の「微分の言い抜け」と21世紀の社会と科学技術を考える懇談会における発言を参照して下さい。

あと、 Sokal と Bricmont が「素朴な科学実在論」を主張しているというのもありがちな誤解ですよね。「第一の間奏」で彼らは科学的知識について素朴に考えてはいけないことを積極的に強調しているのでそれは間違いです。


Id: #b20000601132623  (reply, thread)
Date: Thu Jun 01 13:26:23 2000
Name: たかつか
Subject: 『「知」の欺瞞』の感想

私は20年ほど前に物理系の大学院を出て企業で材料開発を行ってきた技術屋です。最近ちょっと思想に関して興味をもっています。

さて黒木さんの「科学的立証」で「科学と言えども様々だ」と言われた後、『「知」の欺瞞』が出版されるとのコメントがあったので「ソーカル事件」に関する「なんでも1」の過去ログやリンク集をざっと見ていました。

『「知」の欺瞞』を購入して読んでいるのですが、率直に言うと過去ログ等で予想していたより「過激でない(感情的でない)」事に驚いています。「サイエンスウォーズ」の一局面というよりも、素朴な科学実在論の主張なのですね。

怒られる事を覚悟して書くと「第一間奏」は「科学哲学(例えば小林道夫「科学哲学」産業図書)」でのクーンの批判と同じように感じた。また「第二間奏」と「エピローグ」の内容が今ひとつ良く分からなかった。

「サイエンスウォーズ」は科学論、特にクーン以後の新科学哲学の影響を受けた科学社会学と科学の間の論争(?)とのこと(例えばこれ)である。その点からすると「第二間奏」や「エピローグ」は「ポスト・マートン」の科学社会学の方向そのもの(ブッシュ主義なのかな)に反対しているのでしょうか。

それにしても、ラカン等があんないい加減な事を書いているとは・・・


Id: #b20000601110543  (reply, thread)
Date: Thu Jun 01 11:05:43 2000
Name: たざき
Subject: 『「知」の欺瞞』の誤植や追加

第一での鈴木さんの邦訳書情報をはじめ、いくつかの誤植や追加の情報をお寄せいただいているので、散逸しないうちにと思って『「知」の欺瞞』第一刷の訂正・追加のページをつくっておきました。 虫のいい話ですが、これからも何かお気づきのことがありましたら、掲示板ないしはメールでご教示いただければとても助かります。

「熱力学」の誤りの指摘はまだひとつも来ない。 演習問題の解答あたりはちょっとあやしいのだが・・


Id: #b20000531180915  (reply, thread)
Date: Wed May 31 18:09:15 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000531142714
Name: みほ
Subject: わははは・・・(笑ってごまかす)

はずしましたか。面目ない。あわてて懺悔しておくと、 わたしは見えないほうの○○○です。


Id: #b20000531171048  (reply, thread)
Date: Wed May 31 17:10:48 2000
In-Reply-To: b0023.html#b20000529231818
Name: くろき げん
Subject: 仙台からの報告(3)

昨日、『「知」の欺瞞』を一番町の丸善で探してみたら、岩波のコーナーに平積みになってました。 (そのすぐ側の金港堂の地下の岩波のコーナーにもあるし、 e-beans 内の淳久堂の哲学・思想のコーナーのドゥルーズ本が置いてある棚にもあるはず。)

今日、東北大学理・薬生協の方に、「ここの書籍部には『「知」の欺瞞』は入らないのか?」と聞いてみたら、「(理系向けの本ではないと思っていたので)ここには入らない。文系の書籍部には入っているはず」という回答が返って来たので、「この本は理・薬生協で売れるはずの本だからここにも入れたらどうか?」と頼んでおきました。じきに入ると思います。近所の方で買おうと思っている方はチェックしておいて下さい。


Id: #b20000531142714  (reply, thread)
Date: Wed May 31 14:27:14 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000531112347
Name: 田崎

表紙の訳者名が○○○には決して見えないようになってる
み、みほさん、どこからそんな情報を・・。 それを知っているのは××××だけのはず。

邦訳者謝辞が、 ソーカルのパロディ論文(付録A)の文末の謝辞そっくり
それは深読みというもの。 (あせって見たけど、そんなに似ていない。) お名前の挙がったみなさんにご迷惑がかかっては、と真面目に書いたのです。 原著者の序文の最後の謝辞にも、同じような注意書きがあります。
Id: #b20000531140835  (reply, thread)
Date: Wed May 31 14:08:35 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000531120130
Name: こなみ
Subject: 私の印象

「なんて素直なパロディなんだ」
「こんなんでよく引っかかるなあ」と私も思いました。「こんだけ書いてるんだからここらでばっちり見抜いて くれよなあ」とソーカルがぶつぶついいながらパロディを仕上げているのが目に浮かんでしまった。

でも物理屋が査読してくれなかったら、編集者側がそれを見抜くような状況はおそらくなかったんだろうなという ことも、本文を読んでいると感じますね。


Id: #b20000531120130  (reply, thread)
Date: Wed May 31 12:01:30 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000531042846
Name: 鴨 浩靖
Subject: 例のパロディ論文の第一印象

例のパロディ論文を最初に読んだ時の私の感想は、「なんて素直なパロディなんだ」でした。もっと巧妙なインチキを勝手に期待していたため、あまりにお約束通りでわかりやすいことに、拍子抜けしたことを思い出します。
Id: #b20000531112347  (reply, thread)
Date: Wed May 31 11:23:47 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000531042846
Name: みほ
Subject: 先を越されないうちに :-p

黒子に徹する邦訳者たちの 仕掛けを発見する楽しみもありますね。 表紙の訳者名が○○○には決して見えないようになってることとか、 日本版への序文のうしろにさらりと顔をのぞかせる邦訳者謝辞が、 ソーカルのパロディ論文(付録A)の文末の謝辞そっくりに書かれている ところとか。

まだ半ばほどですが、 誰もが「わかり易い説明」や「明晰な説明」を求めている わけではなく、それよりも晦渋で曖昧でふにゃふにゃであるがゆえに 行間から深遠そうなものを読みとった気になることのほうに満足したがる タイプの読者(信者)がいるのよね、なんてことについて思いを馳せたり なんかしつつ読み進めています。


Id: #b20000531042846  (reply, thread)
Date: Wed May 31 04:28:46 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000530005114
Name: くろき げん
Subject: 確かに読み易いのだ

鈴木クニエさんが言っている通りで (鈴木さん始めまして)、『「知」の欺瞞』は確かに読み易いのだ。

翻訳書を買うときに僕は内容や文体だけでなく以下の項目をチェックします:

ちょっと昔話。僕が例のパロディー論文 (『「知」の欺瞞』の付録A) を発見してしまったのは AltaVista で "Green AND Schwarz AND Witten AND Chern-Simons" のような検索をしたからです。今でも上位(12番目)でヒットします。何の予備知識も無しに読んでしまったときには「なんじゃこの馬鹿者は!」と思いましたよ。ラカンのわけわかめな理論がウィッテンによって確証されたというような滅茶苦茶なことが書いてある。でも、そのすぐ後にことの経緯を知って大笑い。周辺の情報をランダムに集めて (すでにちょっと古くなってしまった) このリンク集ができあがるまではあっというまでした。何も知らずに「なんじゃこの馬鹿者は!」と思ってしまった私は大いにこの件で楽しませてもらいました。

こうして自分自身がどのように楽しんだかを思い出してみると、小波さんが言っているように、『「知」の欺瞞』はなにはともあれ付録Aから読み始めるのが正解かも。

『「知」の欺瞞』が建設的なのは、論争的な部分ではなく、これを読んだ読者は誰であっても「わかり易い説明」「明晰な説明」の大事さが実感できることだと思います。反面教師として有効な文章が権威ある文献からたくさん引用してありますから。科学用語の権威的でデタラメな濫用や認識的相対主義に関わるレトリックに対する批判書として読むだけではなく、より一般的に「どのような文章を書いてはいけないか」、よりわかり易く言えば「どのような文章を書くと馬鹿にされるか」に関するテキストとしても役に立つと思います。この点についてはエピローグに「自分が何をいっているかわかっているのはいいことだ」などなどの簡潔なまとめがありますよね。完壁を期す必要はないし、あまりにも厳密過ぎるのはむしろ有害だと思いますが、『「知」の欺瞞』に引用されているひどい事例よりはましなものを書くべきだと意見は完全に正しいと思います。そして、ソーカルがそれらの事例から学んだ“テクニック”の集大成があのパロディー論文であるわけです。


Id: #b20000530183928  (reply, thread)
Date: Tue May 30 18:39:28 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000530122515
Name: たざき
Subject: 俺は翻訳やったくらいじゃ変わらないぞー。

と、冗談にマジで応対したら、後がつづかなくなったぞ・・

『「知」の欺瞞』は「哲学・思想」書に分類されているので、 本屋さんが内容を知らないとまずそちらのコーナーに置くだろうと思います。 ぼくが、発売日の翌日に(東急ハンズに次の日に講義でデモにつかう地球ゴマを買いにいったついでに)池袋のジュンク堂書店を覗いたら、思想書の新刊コーナーに二冊だけ平積みで置いてありました。 ううむ、まあまあと思いつつ、ついでに理工書を覗いたら、「熱力学」が表紙をこちらに向けるようにして6・7冊おいてあったので、やはりジュンク堂はあっぱれじゃ、立派な本屋じゃと感じ入った次第。

講義で地球ゴマを回したのは愉しかったですが、 その話は、暇ができたら改めて書きます。


Id: #b20000530122515  (reply, thread)
Date: Tue May 30 12:25:15 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000530005114
Name: こなみ
Subject: 「『さくら』だ」 と読んでしまいました。失礼

   感情がこもっていても感情的にならない文章が素敵でした。

同感ですね。良質の科学の専門書にも、ああ、このことを言いたくて書いてるんだ、 と 思わせる個所があるものです。著者の熱がふわっと感じられるというか。そんなのとどこか 共通するものを、私もソーカル本から感じていました。 最近の本だと田崎さんの熱力学入門にもそんな熱っぽいところが あって気に入ったのですが、翻訳しているうちに熱病のウイルスに冒されてしまったとか?>たざきさん

黒木さんとの若干の読みの違いについては、この先読んでからまた話しを戻したいと思います。 エピローグを読むと効率がよさそうだけど、それやると楽しみが減るような気がするんで(芝居の ビデオを後ろから追うのはつまらないですからね)、いったん先頭に戻っています。

で、非常に面白いところはというと、ラカンやクリステヴァら個々の言説に対する批判はさておいて、 「第一の間奏」、「第二の間奏」が、なかなか読み応えがあります。「第一」は科学的認識論に 関する突っ込んだ議論、「第二」はカオスとポストモダンの関わりに関する最近の潮流への 検討を行っています。こっちのほうが勉強にはなるかも知れない。

ラカンら個々の言説については、理系の常識的感覚さえ持っていれば、思いきって長くとってある引用を読む だけで、解説抜きでもわかるというか楽しめるというか。大して勉強にはならないけど、 娯楽にはなりますね。引用が長いというのは読者に対する大変なサービスです。ありがたい。

というわけで、娯楽として笑いたい人は個々の論者への批判を、勉強したい人は間奏のほうを、という 読み方があるかも知れません。


Id: #b20000530034244  (reply, thread)
Date: Tue May 30 03:42:44 2000
In-Reply-To: b0024.html#b20000530005114
Name: やまがた
Subject: 遠い★からやってきた 正義の味方 チノギマン

あの本の一つの醍醐味は、むかし浅田彰にだまされてポストモダン本をいっぱい買い込んで さっぱりわけわかんなかった人たちや、わかったふりした連中にえらそうな顔をされて恨みに 思っていた人たちが、

「わっはっは、やっぱわかんなくてあたりまえなんじゃないか! あいつらがバカだったのだ!」

と溜飲を下げられるところにあると思うです。やっぱいっちゃん大きいのは、そういう「ざまみろ ジュリア・クリステヴァ!」という人たちの怨恨需要でしょう。それはそれで、健全でよいことだ と思うんですが、その後、もっと生産的な方向に話をもってくにはどうしたもんか、というのも ちょっと考えといたほうがいいかな(なーんて一人や二人で動くものではないけど)。


Id: #b20000530005114  (reply, thread)
Date: Tue May 30 00:51:14 2000
Name: さくらだ

『「知」の欺瞞』、大阪難波のOCATで立ち読みしました。おそらく難波の ジュンク堂あたりでは平積みだと思います。金欠病がましになったら是非購入して精読したいと思います。(しかし大学の図書館はどうして希望図書への対応がおそいのだろう?)

立ち読みしていて、すがすがしい爽快さを感じました。レジス・ドブレへの突っ込みなどでも、極めて明解な指摘を行っていながら政治学や社会学への繊細な配慮が感じられ、感情がこもっていても感情的にならない文章が素敵でした。

つたない感想だけでごめんなさい。


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管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
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