『科学の終焉』を書いたホーガンのレトリック

科学の終焉』を読み終わった方へ

黒木 玄 (東北大学大学院理学研究科数学専攻)

1998年4月5日 Version 1.4
(1998年1月31日 Version 1.3)

内容: 本文書評検索STS ML社ダ

感想は掲示板書いてください。


更新記録

1998年1月31日 (Ver. 1.3) 「社会ダーウィニズムというレッテルについて」を追加した。

1998年1月19日 (Ver. 1.2) 「検索」と「Sci-Tech-Studies ML 1996 からの抜粋」を追加および本文の修正。

1997年12月29日 (Ver. 1.1) 「書評でない」という断わり書きを追加した。

1997年12月28日 (Ver. 1.0) 正式版を公開。


本文

1997年1月19日

これは、"The End of Science" by John Horgan, 1996 の邦訳『科学の終焉』(筒井康隆監修、竹内薫訳、徳間書店、1997年11月)を読み終わった方々に読んでもらうために書かれたものである。ホーガンが一貫してどのような手法を用いて科学記事を書いてきたかについて知ることは、読者にとって大いに参考になると思う。なお、前もって断っておくが、これは、ホーガンのレトリック一般の解説を意図して書かれたものであり、『科学の終焉』の書評ではない。

なお、監修者がなぜ筒井康隆なのか、監修者は『科学の終焉』を本当に読んだのか、さらに、訳者が『「相対論」はやはり間違っていた』などで有名な徳間書店の Shocking Science シリーズの関係者であること、「訳語や人名の発音の過ちというやつは、どうしても残ってしまうらしい」(p.474)と書いているのに、発音や翻訳以前の問題として、菅原寛孝(理論物理学者)の「孝」の字を「訳者あとがき」において一貫して省略していること、索引の構成が変でファーストネームを知らないと人名を引くことができないこと(例えば「ニュートン」を引くためには「アイザック・ニュートン」を「ア」の項目で探さなければいけない)、…などの邦訳者サイドの問題について、ここでは深く触れないことにする。ホーガン自身の手法とレトリックの問題に集中することにしよう。

一般に、インタビューという方法は細かい専門的な知識を得るためには適さないが、専門家の性格や本音を知るためには適していると考えられている。インタビューにおいては、本音を引き出すための挑発的な質問は常套手段になっているのもそのためである。

ホーガンの大きな特徴は専門家へのインタビューの状況レポートという形を好んで用いることである。そのため、ホーガンの記事を読んだ読者の多くは次のように感じるであろう。ホーガンは、著名な専門家の本音を引き出し、その専門分野の将来像を知るための有益な情報を提供してくれているのだと。さらに、ホーガンが書いた文章は、意地が悪く、挑発に満ちていているので、「裏に隠れた都合の悪い真実の姿を暴露してくれている」という印象を読者に与えるのである。

しかし、ホーガンに対するそのような印象は正しいのであろうか? ホーガンは、専門家の本音を読者に伝えてくれているのであろうか? 科学の将来像を知る上で信頼できる情報を提供しているのだろうか?

さて、当事者である専門家(特に科学研究者)のホーガンへの印象はどのようなものであったのか?

まず、ホーガンの The End of Science に対する理論物理学者の菅原寛孝の印象はこうである。

 ――専門の物理学に関しての反論は。

 菅原 非常に偏っているとしか言いようがない。著者は、ほとんど理論物理学者しかインタビューしていない。私も理論物理学者だから、理論物理の限界や学者たちの言葉の意味がよく分かる。著者がそこからねじ曲げた結論を出していくのは、耐え難い。

(読売新聞1997年6月17日の「対立討論」より)

「ホーガンはインタビューによって得た言葉をねじ曲げて結論を出している」という感想には注目して欲しい。

さらに、長谷川寿一(東京大学教養学部/総合文化研究科)は以下の事実を報告している。『日経サイエンス』1995年12月号に掲載されたホーガンによる「新たなる社会ダーウィニズム」(The new social Darwinists)という記事に関して、

取材に全面協力した進化心理学者のL. Cosmides氏(UC.Santa Barbara)が悪意に満ちた記事だと、Human Behavior and EvolutionのMLで激しく反発しました

(Human ML47番の記事より)

取材に協力した人自身が怒っているのである。そして、さらに、「筆がたつこと」を認めた上で、ホーガンの手にかかれば、

Darwinianで人間研究をしている研究者はすべて新「社会ダーウィニズム」というレッテルを貼られてしまいそうです。そしてScientific American(日経サイエンス)読者の多くはそう思い込むことでしょう。 (同上)

と続け、ホーガンのやり方に警告を発しているのである。(1998年1月31日。追記「社会ダーウィニズムというレッテルについて」も参照せよ。)

このようなホーガンのやり方は、『日経サイエンス』1993年12月号に掲載された「証明は死んだ」においてもまた同様である。

この記事も、例によって、多くの数学関係者へのインタビューによって得た言葉を、ホーガンにとって都合が良いように、上手に並べることによって構成されている。その記事の結論の一つは、論理的に厳密な証明を書き下すという作業を中心とした数学は時代遅れになりつつあるという主張である。この結論に説得力を持たせるために、コンピューターを用いて数学の研究をした人達へのインタビュー結果を肯定的な形で利用し、一方、コンピューターを用いずに論理的に厳密な証明を目的に研究している人達へのインタビュー結果をあたかも時代遅れの頭の堅い考え方のごとく扱うのである。

ところが、実際には、コンピューターを用いて数学の研究をすることと、紙と鉛筆だけを用いて論理的な証明を書き下す研究の間に、矛盾があるわけでもないし、研究者どうしの対立があるわけでもない。そこを、ホーガンは、レトリックを駆使して、あたかも互いに対立しているかのように見えるように工夫しているのだ。

このホーガンの記事を読んで、インタビューに応じた研究グループの一人が激怒していたという話を私は聞いている。そのグループは極小曲面の研究をコンピューターを用いて行ない成功したので、「証明は死んだ」においてかなり好意的に扱われている。それにもかかわらず怒りを感じたのだ。怒った理由は、自分達の言葉をねじ曲げられ、ホーガンにとって都合が良いように利用されたからだ。

以上によって、ホーガンの基本的手法は、

インタビューされた人の真意をねじ曲げ、インタビューで得た言葉を、自分が出したい結論を出すために、都合良く利用すること

であると結論しても良さそうである。これは、でっちあげの芸能スキャンダル記事を書くためのレトリックそのものではないか?

一般に、芸能人に関するスキャンダル記事の多くは、対象とする読者の欲望を満たすように、意地悪く工夫して書かれている。場合によっては、単なるでっちあげであることもある。たとえ、でっちあげであっても、読者が面白いと感じるものを提供することを目指して書かれているのだ。

ホーガンの『科学の終焉』もやはり同様である。インタビューで得た言葉を適切に選んで、上手に並べ、ホーガンが持って行きたい結論にとって都合が良いように、インタビューを受けた有名人達を意地悪く描写しているのだ。

以上をまとめると次のような図式を書くことができると思う。

ジョン・ホーガン ⇔ スキャンダルを書くことが好きな芸能人記者
有名な学者達   ⇔ 有名な芸能人達
ホーガンの記事  ⇔ 有名な芸能人のスキャンダル記事
ホーガンの読者  ⇔ 有名な芸能人に興味がある人達

ホーガンの『科学の終焉』はこのような対比で説明できる手法の集大成として書かれた本なのである。

すでに、『科学の終焉』を読んでしまった人達の中には、この本は、面白おかしく読める本であり、しかも十分に知的である、という感想を持った人は多いと思う。私が以上で述べたことは、その感想を否定するものではない。実際、ホーガンは、知的な雰囲気を出そうと心掛けているし、読者を飽きさせない挑発的で面白い文章を書いていると思う。ホーガンにインタビューされた有名人達に興味がある人は、芸能人のスキャンダル記事を読む態度で『科学の終焉』を読む限りにおいては、十分に楽しめることは確かなのだ。 (自分自身の言葉をホーガンにとって都合が良いように利用されてしまった人達のことを思うと、心が痛むのではあるが。)

しかし、『科学の終焉』は生々しいインタビューのレポートの形で構成されているからと言って、そこに書かれている内容が十分にインタビューを受けた人たちの真意を十分に伝えていると考えてはいけない。信頼度という点においては、芸能人のスキャンダル記事を読むときと同様の心配りが必要なのである。面白おかしいことと、信頼できることは、当然のことながら、区別しなければいけないのだ。

『科学の終焉』を読み終わった多くの人は、他の人達による感想にも関心があると思う。我々の有名人に対する好奇心はえてして意地が悪いものになり易い。 (その典型的な例が芸能人のスキャンダルに対する好奇心だ。) したがって、ホーガンに対する好意的な書評を書くことは、ある意味で、ホーガンによって励起された自分自身の趣味の悪い側面を表現することでもある。『科学の終焉』を読んでしまった人(特に好意的に読んでしまった人)は、他の人達による好意的な感想(それらの多くは意地が悪い)を読むことによって、自分自身のどのような側面がホーガンによって刺激されたのか、よくよく考えてみた方が良いと思う。


追記

『科学の終焉』の書評について

1997年12月29日 阪大理学部物理学科の菊池誠さんによる『科学の終焉』の批判的な書評が

http://www.so-net.or.jp/SF-Online/no9_19971125/review_book2.html#12

にある。「一見、インタビュー集の体裁をとっているけれど、一読すればわかるとお り、著者の論旨に都合のいい発言だけを集めてきたにすぎない。」という感想は、私 が述べたホーガンのレトリックに対する感想にかなり近い。

さらに、中央大学理工学部物理学科の田口善弘さんがまとめている『科学の終焉』の書評のリンク集

http://www.granular.com/science/EoS.html

に登録されている「肯定派?」に分類されている書評(森山和道さんの書評、彦坂暁さんの書評、「MANSURI− みくら」における書評)も、よくよく読んでみると、「有名人達に対する我々の好奇心を満足させる本」として高く評価するという内容であり、私の分析とも矛盾していないと思う。

検索

1998年1月19日

★ Excerpts from Sci-Tech-Studies Mailing List 1996

1998年1月19日 The End of Science が英語圏でどのように話題になったかを知る上で大変参考になる。常連の生物学者 Paul R. Gross は数学者の Norman Levitt と共著で Higher Superstition: The Academic Left and Its Quarrels with Science を書いたことで有名である。この本はソーカル事件の下地になった。

社会ダーウィニズムというレッテルについて

1998年1月31日 ホーガンが、 Scientific American 誌上において、進化心理学に対して「社会ダーウィニズム」のレッテルを貼ろうとした件に関して、

佐倉統、「人間生物学と科学者の“製造物責任”」、岩波『科学』1997年4月号「特集:人間のこころの進化」、pp. 239-241
に以下のような説明がある。

1995年の `Scientific American' 誌は、進化心理学を中心とする人間生物学の最近の動向に関する紹介記事を掲載した(5)。科学ジャーナリストが“新たなる社会ダーウィニズム”という挑発的なタイトルで発表したこの記事は、進化心理学が社会生物学の欠点を克服しつつあることを評価しつつもかなり斜に構えた紹介のしかたをしており、生物学的決定論として重大な過ちを犯す可能性をほのめかしている。しかも、人間の配偶行動や性選択について、女性を蔑視するかのような研究が盛んに行なわれているという雰囲気が散りばめられている。進化心理学の第一人者であるレダ・コスミデスは、この記事にはいくつかの重大な事実誤認があるとして `Scientific American' 誌に抗議の手紙を出した(6)。しかし、学問的な厳密さや理論的な検証とは別に、人間を生物学的に扱うことがどのような社会的な“雰囲気”をもっているかを、この記事はかなり忠実に表現しているといってよいだろう。社会一般が受けとめるイメージという点では、現代の進化心理学も20年前の社会生物学も、30年前の‘裸の猿’や‘攻撃’も、おそらく大きな差はないのではないか。(pp.240-241 より)

(5) J. ホーガン:日経サイエンス、1995年12月号、p.122
(6) http://www.psych.ucsb.edu/kurzban/scilet.htm

なお、文献(6)の URL は、現在、
http://www.psych.ucsb.edu/~kurzban/scilet.htm
に移動している。

引用中の「しかし、学問的な厳密さや理論的な検証とは別に、人間を生物学的に扱うことがどのような社会的な“雰囲気”をもっているかを、この記事はかなり忠実に表現しているといってよいだろう」という部分は、ホーガンが書いたものの研究者の側から見た特徴をうまく表現していると思う。“新たなる社会ダーウィニズム”に限らず、ホーガンが書いたものを読むと、学問的な内容や厳密さよりも、世間一般に流通している偏見や恐れや悪意がそのまま忠実に表現されているような印象を受ける。まるで、Scientific American という科学雑誌を利用して、世間一般に流通している偏見や恐れや悪意を増幅するために記事を書いているかのように見えることさえある。このようなやり方の集大成として書かれたのが、The End of Science なのである。

ホーガンは、科学に対する偏見や恐れや悪意を増幅することが科学ジャーナリストの役目であると信じているのだろうか? それとも、自分自身の科学に対する偏見や恐れや悪意に何も気付いてないのだろうか? 科学ジャーナリストは一般人としての感覚と学問としての内容や厳密さの間でうまくバランスを取らなければいけないものだと思う。しかし、ホーガンはその努力を放棄しているように見えるのだが、どうであろうか?

いずれにせよ、別の見方をすれば、ホーガンの著書は世間一般に流通している誤解や偏見や恐れや悪意がどのようなものであるかを確認するためには便利な文献である。そのような見方で読めば、また別の面白さがあることは間違いない。そして、ホーガンが忠実に表現している類の誤解がどのような仕組みで生じているかについて色々考えてみることは実際に必要なことだと思う。

なお、上で挙がっている岩波『科学』の1997年4月号の特集は「人間の進化論的理解研究」という学際的分野の大変優れた紹介になっている。


KUROKI Gen <kuroki@math.tohoku.ac.jp>