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リチャード・ドーキンスの『虹の解体』

黒木玄


リチャード・ドーキンス著、『虹の解体――いかにして科学は驚異への扉を開いたか』、福岡伸一訳、早川書房、2001年3月 (原書: Unweaving The Rainbow --- Science, Delusion and the Appetite for Wonder, 1998) の紹介関連推奨文献のリスト関連リンク集付き。


『虹の解体』の紹介

リチャード・ドーキンスの『虹の解体』の主題は、反科学・エセ科学・オカルトを徹底的に批判することと、それらと違って科学がいかに本物の驚きに繋がっているかを説明することです。

朝永振一郎は「好奇心」に関する講演 (『科学者の自由な楽園』 (岩波文庫、緑 152-2) に所収の「好奇心について」) の中で「好奇心」の複数の意味について説明しています。まず、一つ目の分類に含まれる意味は「奇妙なことを好む」と「物ごとを詮策するのが好きだ」です。このような意味での好奇心は詮策の対象によって良いことにも悪いことにもなる。二つ目の分類に含まれるのは「精密あるいは精緻を好む」と「いい加減なことではなかなか満足しない」です。朝永はこのような意味での好奇心こそが科学の原動力になっていることを強調しています。

ドーキンスが『虹の解体』で説明に挑戦している科学における「センス・オブ・ワンダー」とは、まさに朝永が科学における重要性を強調しているところの好奇心を満足させるような驚きのことなのです。

(注:困ったことに、「好奇心」の悪い側面だけを強調して「だから科学者は駄目なのだ」という類のことを言う人たちもいるので騙されないようにした方が良い。)

『虹の解体』における反科学批判、エセ科学批判、オカルト批判に関する内容の多くはいつものやつです。「いつものやつ」と言われてピンとこない方はそれを知るだけのためにもこの本を読む価値があるかもしれません。

もちろん、その話題に関する新しい見方も含まれているので、「いつものやつ」についてよく知っている方であっても別の知識を得ることができます。新しいのは、グロスとレヴィットの『高等迷信』 (Higher Superstition) やソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』に関わる論争の影響が色濃く見られることです。

以下では、そういうかなり偏った視点から『虹の解体』の内容を紹介することにしましょう。どうせ、バランスの取れた書評は他にたくさん出るでしょうから。 (ここで、「バランスの取れた書評」とは『虹の解体』の二つの対になる主題「反科学・エセ科学・オカルトの徹底批判」と「本物の科学のセンス・オブ・ワンダー」の両方に詳しく触れている書評のことです。この紹介文は前者に偏り過ぎている上に、『「知」の欺瞞』などとの関係する部分のみを扱っている。後者に関するドーキンスの考え方を詳しく解説するのは結構大変だと思う。)

例えば、 40頁では、宗教的右派のファンダメンタリストとアカデミズムにおける左派の有害な共闘に繋がるような主張の例として、 Higher Superstition からアメリカの人類学者マット・カートミルの以下言葉を引用し、手厳しく批判を加えています:

何らかの問題に対して客観的な知識を持つと主張する者が人々をコントロールし、従わせようとする。……しかし客観的な事実などというものは存在しない。一見「事実」と思われていることは、学説によって取捨選択された事実であり、学説はその時々の倫理観や政治の影響を免れることはない。したがって白衣に身を包んだ科学者がこれが客観的事実であると述べたとき、糊のきいた袖の中に何らかの政治的意図が隠されているのである。
「進化論による抑圧」《ディスカヴァー》誌 (1998)

(人類学者マット・カートミルの言葉、『虹の解体』の40頁より孫引き)

このカートミルの言葉は「進化論による抑圧」という題名のエッセイから引用されたものであることに注意。これをドーキンスは以下のように批判しています:

科学界の内部にもこの考え方に同調する、いわば内部告発者がいて、科学の営為に水を差そうとする。

 カートミルの主張は、宗教的右派としての無知なる根本主義者と知識あふれるアカデミズム左派の、予期せぬ有害な共闘につながってくる。この共闘は奇妙なことに進化論反対という点で一致団結するのである。根本主義者は創造説を信じるので、進化論に反対するのは当然である。一方、アカデミズム左派による進化論反対は科学一般に対するルサンチマンによっており、また創造説という主義に敬意【リスペクト】を払うという文化的相対主義のポーズ (“リスペクト”というのは現代社会における万能語である)、そしてさまざまな政治的意図から成り立っている。かくして、奇妙な友情で結ばれた両者は、人間尊厳を守り、ヒトを動物の一つとして扱うことに反対するという考え方を共有することになった。バーバラ・エーレンライヒとジャネット・マッキントッシュは、一九九七年の《ネイション》誌の記事中で、彼らを「生ぐさい創造論者たち」と呼んで同様の問題点を指摘している。

 文化相対主義者、あるいは先にあった「科学も宗教も一つ」と主張する人々たちは、真理の究明という姿勢にあざけりを示す傾向にある。この傾向は次のような由来を持っている。まず第一に、“真理”とは文化によって異なるという共通認識 (これはケネウィック人にまるわる論争に如実に示されている) があるため。第二に、科学哲学を論ずる人々がそもそも真理という概念に意見の一致を見ることはないからである。もちろん、それは本質的な哲学上の難問だという意味もある。……一方、どんな哲学であろうと、自分が無実の罪で訴えられたり、配偶者に不倫の疑いが持ち上がったりすれば、真理という言葉を使用するのに何のためらいもないはずである。「それは本当か?」というのは真っ当な問いであり、日常生活でこれが論理的な詭弁かどうか案ずる人間はまずいない。量子論上の思考実験なら、シュレーディンガーの猫が死んだということがいかなる意味で真実なのか迷うかもしれないが、私が子供のころ飼っていた猫が死んだという事実の真偽は明白である。まったく同様に日常レベルの感覚で真偽が判定できる科学上の問題も数多い。もし私とチンパンジーは共通の祖先をもつと主張し、あなたがそれに疑念をもてば、この主張をくつがえす証拠を探せばよい (無理だが)。この場合、何が真実で何が間違っているかという真偽の概念については、両者に共通の理解がある。それは、「あなたはその犯罪が起こった夜、オックスフォード市にいたというのは真実ですか」という質問と同じ意味で真実である。しかし「ある種の量子は位置をもつというのは真実ですか」という質問における真実とは異なっている。確かに哲学上、何を真実とするかは大変な難題である。しかしそこまで心配をするのは早すぎるのである。早々と哲学上の認識論を持ち出すのは、往々にして煙幕をはって論点をはぐらかすための方便にすぎない。

(ドーキンス『虹の解体』40-42頁より、リンクは引用者による)

「ケネウィック人にまつわる論争」については『虹の解体』の38-39頁を読んで下さい。 (『「知」の欺瞞』のエピローグ257-260頁にも関連の騒動に関して説明があるので参照した方が良いだろう。)

ドーキンスが言うように、相対主義に染まっている人たちが煙幕をはるために早々と認識論に関わる議論を持ち出すのは確かによくあることだと思う。そして、反科学やエセ科学やオカルトにまで“リスペクト”を表明することが自分自身の開かれた精神の証明になると信じている人が存在するようだ。この二つが合わさると、いきなり認識論に関わる議論を持ち出して煙幕をはり、反科学・エセ科学・オカルトに警告を発している人たちを偏狭な精神の持ち主とみなして糾弾し始めることになるのです。

これに関連して、相対主義色の強いテクストにひそんでいる「ずさんなものの考え方」 (sloppy thinking) を批判しているアラン・ソーカルの「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」も参考になると思います。

ソーカルとドーキンスの批判のターゲットがかなり近いことに注意しながら、ソーカルが糾弾している「ずさんなものの考え方」とドーキンスが糾弾している「真理の究明という姿勢にあざけりを示す傾向」が合体したとき、学問と社会に対してどれだけ悪影響を及ぼすことになるかについて、読者はよく考えてみた方が良いだろう。

68頁では、Postmodernism Generator が生成した文章を引用し、それとそっくりなコールリッジの文章を比べています。 Nature に出たドーキンスによる『「知」の欺瞞』の書評でも Postmodernism Generator を引き合いに出してました。

253頁では、歴史家であり科学哲学者であるノレッタ・ケルトゲ (Noretta Koertge、「ケルトゲ」と読むのかな? 「ノレッタ・カージ」だと思っていたけど) の以下の言葉を引用して、ドーキンスは Koertge と共にある種のフェミニズムが科学と女性に関して歪んだ見方 (実際にはひどく差別的な偏見) を広めていることを批判しています:

科学や論理学、数学を学ぶことでさまざまな専門科目を身につけるよう若い女性に勧める代わりに、論理学は支配のための道具に過ぎないであるとか、……科学的な研究の標準的な基準や手法は、「女性による知識獲得の方法 (women's way of knowing)」と相容れないので性差別的である、と今、女性学を学んでいる生徒たちは教えられているのである。この Women's Way of Knowing というタイトルの、賞も受けた本の著者たちは、インタビューをした女性たちの大半が、「主体的理解者」の範疇に入っていた、と報告している。この「主体的理解者」には、「科学や科学者の言うことを激しく拒絶する」という性質があるそうで、このような「主体論者」の女性は、論理的な手法や解析、抽象化に触れたとき、「男性世界の異文化領域」であると考え、「直観を、より安全で効果的な真実への道であるとして評価する」のだという。

(Noretta Koertge, "How feminism is now alienating women from science", Skeptical Inquirer, March-April 1995 v19 n2 p42(2) より、『虹の解体』 253-254頁から孫引き、周辺の原文の抜粋、リンクは引用者による、 "Way" は "Ways" のタイポ)

訳文中の「主体的理解者」と「主体論者」はそれぞれ「客観的理解者」 "objective knower" と「客観主義者」 "objectivist" の反対語としての "subjective knower" と "subjectivist" なので「主観的理解者」「主観主義者」と訳すべきだったと思う。

Koertge はソーカルの「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」を掲載した House Built on Sand: Exposing Postmodernist Myths about Science の編集者をつとめています (Interview with Noretta Koertge)。彼女のウェブサイトCurrent Research のページで「フェミニスト認識論」や「社会構築主義」に対する批判を読めます。 ("Women's Ways of Knowing" と Koertge 以後の激しい論争については Laura Miller の "Women's Ways of Bullying" を読めばその様子の一端を知ることができます。)

ところで、例のパロディー論文掲載事件に関するリンク集を作っていて印象的だったのは、ソーカルの味方をする女性の発言がかなり目立っていたことです (Noretta Koertge 以外で目立っていたのは例えば Barbara Epstein, Ruth Rosen, Katha Pollitt, Meera Nanda)。

アメリカのアカデミズムにおける左派の反科学的な傾向が広めた女性に関する偏見 (例えば「女性は感情的であり論理的ではない」「女性は主観的であり客観的ではない」のようなひどく差別的な偏見) は、論理と証拠を適切に扱う優れた能力によって社会貢献しようとしているアメリカの女性たちにダメージを与え続けてきました。そういう現状に対する強い不満が Higher Superstition やパロディー論文掲載事件で吹き出し、ソーカルの強力な追い風になったんだと思う。それに対してそういう流れにあわてて反論しようとした人たちは、自分たちに対する批判は実は保守派による不当な攻撃の一種であると宣伝して何とか乗り切ろうとしたのだ。 (そういうでっちあげられた不当な攻撃を「カルチャー・ウォーズ」とか「サイエンス・ウォーズ」と呼んでいる人たちがいる。「○○・ウォーズ」とか言う人にはろくな奴がいないと思う。最近では「ダーウィン・ウォーズ」というのもあるらしい。 (「スター・ウォーズ」とか「スクール☆ウォーズ」とかはもちろん関係ない。))

この話を続けると長くなるのでこの辺で止めます。誤解してはいけないことは、ドーキンスが左翼やフェミニストの全体を不当に攻撃しているのではないことです。むしろ、健全な左翼とフェミニズムの視点を守るためにはドーキンスがやっているような批判は必要不可欠だと思う。

さらに教養を広げたいと思っている方は、ちょっと毛色の違った方向として、松田裕之著『環境生態学序説 持続可能な漁業、生物多様性の保全、生態系管理、環境影響評価の科学』 (共立出版、 2000.12) を読むと面白いかもしれません。ドーキンスの世界と中西準子の環境リスク論のあいだを繋げることができます。

『虹の解体』の266-278頁にはお約束のグールド批判について書いてあります。個人的にはグールド独自の説の科学的評判の悪さはもっと常識的になった方が良いと思う。ダニエル・C・デネットの『ダーウィンの危険な思想』 (山口泰司監訳、石川幹人、大崎博、久保田俊彦、斉藤孝訳、青土社、 2001) の方がより精緻なグールド批判を行なっているので、そちらの方が個人的には好みです。断続平衡説に対する批判については、河田雅圭のウェブ版『はじめての進化論』の第5章第2節および第6章第2節も参考になります。

あと、『虹の解体』ではスティーヴン・ピンカーの "How the Mind Works" (1997) が何度も引用されてますが、残念ながらまだ邦訳されてないようです。ピンカーの『言語を生み出す本能』 (NHK ブックス 740, 741) は面白い本なのでおすすめ。こちらを読むだけでも、なぜドーキンスがピンカーを好きなのかを理解できます。

なお、参考文献欄には書いてありませんが、文献40の Dumber, R. (1995) The Trouble with Science は『科学がきらわれる理由』 (松浦俊輔訳、青土社、 1997.6) に翻訳されています。


以上で紹介した本

ここで紹介してない推奨文献のリストも見て下さい。

まとめて読むと吉。科学書は一冊だけで世界が閉じることがない。以上の本は文系・理系を問わず、大学新入生くらいの方にプレゼントすると良いかも。合計すると幾らぐらいになりますか? 色々なことを知っていることは楽しいことであり、そして実際に何かを考えるときに役に立つことがわかるような本ばかりです。

さらに以下のウェブページも一緒に読むと良いと思う:


関連リンク集

追記2001.11.26書籍関連掲示板で森岡正博は書評に対する上記のような評価に対して何か反応したかという質問を受けた (11月24日(土)14時26分32秒)。それに対して森岡正博は次のように答えている:

Amasakiさん 投稿者:森岡正博  投稿日:11月24日(土)19時15分06秒

ああ、それ知ってますよ。

彼らの文体もここ数年おんなじでマンネリだし、ほぼキョーミなしなんです。ごめんね。

さらに「興味がないんじゃなくて、対象となる本を読まずに、本のテーマとは無関係のことを書評として公開したのを指摘されて、今更反論できないんでしょう」という匿名者の指摘に対して次のように答えています:

ほらほら、罠にかかった、かかった 投稿者:森岡正博  投稿日:11月26日(月)00時43分56秒

>対象となる本を読まずに

はぁ? ついに超能力者の登場ですねえ。他人が、ある本を、読んだのか読まなかったかを遠隔から透視できる人がいたとは! ほかにも、某1名、透視能力をもった方がネット上におられることは以前から存じておりましたが、もうお一方おられたとは。感服いたしました。
p8bf22d.htotpc00.ap.so-net.ne.jp
ここを経由すると、透視できるのかな? 

ところで、あなたには興味あるな。だって、わらっちゃうくらい典型的だもん。収集しとこうかな。うふふ。
ま、今後、投稿していただいても、全部削除しますけど。ごめんなさいね。この掲示板はそういうお約束だから。(掲示板インデックスをご覧あれ)お友達にも、そう伝えておいてね〜。

真に「罠にかかった」のは誰だろうか?

個人的には『虹の解体』のどこをどう読んだのかについて簡単な説明があると嬉しかったのですが残念です。森岡正博の書評「人間は遺伝子たちの築いた砂上の城」は、ドーキンスの『利己的な遺伝子』やその続編である『延長された表現型』などの主題には触れてますが (しかしながら遺伝子単位での自然淘汰という科学的に有用な考え方に関するひどい誤解に基いた批判になってしまっている)、『虹の解体』の二つの主題「反科学・エセ科学・オカルトの徹底批判」と「本物の科学のセンス・オブ・ワンダー」には全く触れてません。『虹の解体』の二つの主題は森岡正博のような言論活動をしている方に対する批判にもなっていると思う。だから、森岡正博のような方は自分自身が批判されているつもりになって反論を書くべきだったのだ。