『虹の解体』『「知」の欺瞞』相対主義FAQ掲示板ホーム

アメリカ先住民の起源騒動


以下の文献からの抜粋 (抜粋中のリンクは引用者による、前者からの抜粋後者からの抜粋):


『虹の解体』38-42頁より

 ……別の問題として、科学に対する反感を、最先端の流行に身をやつした批評という形で世に問う者がいる。言葉が巧みな彼らは、科学を一種の神話とみなし、他のさまざまな文化の中に相対化してしまう。かつて米国でアメリカ原住民の歴史的扱いをめぐって誤った正義が行使されたことがあるが、その経緯はある意味では笑える話となった。ケネウィック人の話である。

 一九九六年ワシントン州で発見された人骨は、ケネウィック人と命名され、炭素測定によって九〇〇〇年以上前の人骨と判明した。骨の特徴は、現在のアメリカ原住民とは異なっており、人類学者たちは色めきたった。そしてケネウィック人はベーリング海峡あるいはアイスランドから渡ってきた、より古い移民ではないかということになった。そこで決定的な証拠を調べるためDNA鑑定がなされようとした。まさにその時、弁護士たちがやってきて、人骨を差し押さえてしまった。その地域に住むインディアンたちが人骨の所有権を主張し、あった場所に埋めてそれ以上の科学的な調査を禁止したいと言い出したのだった。当然ながら学界や人類学者たちから大きな反対の声が上がった。仮に、ケネウィック人が現在のアメリカ原住民と何らかのつながりがあるとしても、九〇〇〇年後の現在、そこに居住している部族と何らかの関係があるとは到底考えがたい、と。

 しかしアメリカ原住民たちは強力な法的手段を行使して「古代人骨」の帰属を主張した。ところが事態は意外な展開となった。アサツル部族と呼ばれる、古代ノルウェー神トールとオーディンを崇拝

(以上38頁より)

する人々が別の訴訟を起こし、ケネウィック人は自分たちの祖先のバイキングであると主張したのである。このノルウェー系部族の主張は一九九七年の《ルーンストーン》誌夏号に詳しいが、彼らは彼らで、人骨に対し宗教上の儀式を執【と】り行なう権利を有するという。これに対してこんどはヤキマインディアンたちが怒りだした。バイキングの宗教儀式は、骨に宿ったケネウィック人の魂が自分の帰るべき肉体を探すことを妨げるというのである。インディアン部族とノルウェー系部族との対立はDNA鑑定を行なえば決着がつくということになり、ノルウェー系部族はDNA鑑定を行なってよりと主張した。人骨を科学的に調査すれば、いつ、最初の人間がアメリカ大陸に足を踏み入れたかという興味深い問題にも光を当てることができる。しかしインディアンの族長たちはまさにその調査を行なうことをいやがった。なぜなら、自分たちこそが創成以前アメリカに住み続けてきたと信じたいからだ。ユマティラ族の宗教上のリーダー、アーマンド・ミンソーンはこう述べている。「われわれの口伝【くでん】によれば我が祖先は、この世が始まって以来この土地にあったとされている。科学者が言うように、どこか他の大陸から移り住んだなどということは信じられないことである」

 こうなったら、考古学者も対抗して、自分たちにとってはDNA鑑定のパターンこそが聖なる崇拝物だと主張するしかないだろう。こっけいとしかいいようがないが、これが二〇世紀終わりの米国のまぎれもない姿である。信仰には信仰で対応するくらいが関の山である。炭素年代測定、ミトコンドリアDNA、考古学的解析、これらのデータを取り揃えていくら言いつのってもたいした効果はない。むしろ「我が文化にはぐくまれた本質的かつ疑う余地のない信念に基づいているのです」と主張した方が裁判官の同情を引くことができるというものだ。

 一方、このような状況は、二〇世紀も終わりかけようとするとき、新しく立ちあらわれてきた反科学論に注目している研究者の関心を引くことにもなる。この反科学論は科学のポストモダン的批判と

(以上39頁より)

も呼ばれているが、その最も特徴的な批判は、ポール・グロスとノーマン・レヴィットによる著書『ハイアー・スーパースティション――アカデミック左翼と科学界の論争』 (1994) に詳しい。アメリカの人類学者、マット・カートミルは次のように要約している。

何らかの問題に対して客観的な知識を持つと主張する者が人々をコントロールし、従わせようとする。……しかし客観的な事実などというものは存在しない。一見「事実」と思われていることは、学説によって取捨選択された事実であり、学説はその時々の倫理観や政治の影響を免れることはない。したがって白衣に身を包んだ科学者がこれが客観的事実であると述べたとき、糊のきいた袖の中に何らかの政治的意図が隠されているのである。
「進化論による抑圧」《ディスカヴァー》誌 (1998)

科学界の内部にもこの考え方に同調する、いわば内部告発者がいて、科学の営為に水を差そうとする。

 カートミルの主張は、宗教的右派としての無知なる根本主義者と知識あふれるアカデミズム左派の、予期せぬ有害な共闘につながってくる。この共闘は奇妙なことに進化論反対という点で一致団結するのである。根本主義者は創造説を信じるので、進化論に反対するのは当然である。一方、アカデミズム左派による進化論反対は科学一般に対するルサンチマンによっており、また創造説という主義に敬意【リスペクト】を払うという文化的相対主義のポーズ (“リスペクト”というのは現代社会における万能語である)、そしてさまざまな政治的意図から成り立っている。かくして、奇妙な友情で結ばれた両者は、人間尊厳を守り、ヒトを動物の一つとして扱うことに反対するという考え方を共有することになった。

(以上40頁より)

バーバラ・エーレンライヒとジャネット・マッキントッシュは、一九九七年の《ネイション》誌の記事中で、彼らを「生ぐさい創造論者たち」と呼んで同様の問題点を指摘している。

 文化相対主義者、あるいは先にあった「科学も宗教も一つ」と主張する人々たちは、真理の究明という姿勢にあざけりを示す傾向にある。この傾向は次のような由来を持っている。まず第一に、“真理”とは文化によって異なるという共通認識 (これはケネウィック人にまるわる論争に如実に示されている) があるため。第二に、科学哲学を論ずる人々がそもそも真理という概念に意見の一致を見ることはないからである。もちろん、それは本質的な哲学上の難問だという意味もある。……一方、どんな哲学であろうと、自分が無実の罪で訴えられたり、配偶者に不倫の疑いが持ち上がったりすれば、真理という言葉を使用するのに何のためらいもないはずである。「それは本当か?」というのは真っ当な問いであり、日常生活でこれが論理的な詭弁かどうか案ずる人間はまずいない。量子論上の思考実験なら、シュレーディンガーの猫が死んだということがいかなる意味で真実なのか迷うかもしれないが、私が子供のころ飼っていた猫が死んだという事実の真偽は明白である。まったく同様に日常レベルの感覚で真偽が判定できる科学上の問題も数多い。もし私とチンパンジーは共通の祖先をもつと主張し、あなたがそれに疑念をもてば、この主張をくつがえす証拠を探せばよい (無理だが)。この場合、何が真実で何が間違っているかという真偽の概念については、両者に共通の理解がある。それは、「あなたはその犯罪が起こった夜、オックスフォード市にいたというのは真実ですか」という質問と同じ意味で真実である。しかし「ある種の量子は位置をもつというのは真実ですか」という質問における真実とは異なっている。確かに哲学上、何を真実とするかは大変な難題である。しかしそこまで心配をする

(以上41頁より)

のは早すぎるのである。早々と哲学上の認識論を持ち出すのは、往々にして煙幕をはって論点をはぐらかすための方便にすぎない。


『「知」の欺瞞』257-260頁より

 4 社会科学における「自然な」相対主義。社会科学のある種の分野、特に人類学などで、人々の嗜好や習慣を研究しているときには、ある種の「相対主義的な」姿勢をとるのが方法論的にはもっとも自然である。人類学者は、ある社会において様々な習慣の果たす役割を知ろうとしているわけだから、その研究に自分自身の審美的好みを持ち込んだところで得るところはないだろう。ある文化における認識論的な側面、たとえば、その文化の宇宙観が社会的にどのような機能を果たすかを研究する場合に、この宇宙観が本当に正しいかどうかは人類学者にとって主要な問題ではないはずだ (251)

(251) この点は、それにもかかわらず、かなり微妙である。すべての信念は、神話のようなものでさえ、少なくとも部分的に、それらがとりあつかう現象に制約される。方法論的相対主義は、そのような現実の制約から十分に隔たっているときに限り有効なのだ。そして、 4章で示したように、科学の社会学における「ストロング・プログラム」――それは現代科学に応用された人類学的相対主義の一種だが――が足を踏み外すのは、まさに自然科学で決定的な役割を演じる現象による制約を無視するからである。

 ところが、このような理にかなった方法論的相対主義が、思想と言語における諸々の混乱の結果として、極端な認識的相対主義にときとしてつながってきた。つまり、古来の神話であれ現代科学の理論であれ、事実についての主張が正しいか誤っているかは、「特定の文化の文脈の中」でしか意味をなさないという考え方である。だが、こう言い切ってしまうのは、ある思考体系が心理的、社会的にどのように機能するかという論点と、世界認識の方法としてどの程度意味があるかという論点を混同していることになる。また、

(以上257頁より)

異なった思考体系の優劣を比較する際に、経験に基いた論拠が重要であることも忘れさられている。

 以下は、このような混乱の一例である。アメリカ先住民族 (インディアン) の起源に関して、少なくとも二つの競合する理論がある。広範な考古学的な証拠に支えられた科学的な定説では、人類は一万年から二万年前にベーリング海峡を経てアジアからアメリカ大陸に移り住んだとされている。これに対して、多くのアメリカ先住民の創世神話では、彼らの遠い祖先が地下の精霊の世界から地上に出現して以来ずっと彼らはアメリカ大陸に住んでいたとされる。そして、ニューヨークタイムズの記事 (一九九六年十月二二日) によれば、多くの考古学者は「自分自身の科学的な資質と先住民文化の尊重の板ばさみになった結果……、科学も一つの信念にすぎないとするポストモダン的相対主義近くまで追いつめられてきた」という。たとえば、ズニ族の人々と仕事をしてきたイギリスの考古学者ロジャー・エニオンは、次のように語ったとされている。「科学は、世界について知るための多くの方法の一つに過ぎません。……先史時代については、[ズニ族の世界観も]考古学的なものの見方とまったく同様に妥当なのです (252)。」

(252) Johnson (1996, p. C13). エニオンの見解のより詳しい解説が、 Anyon et al. (1996) にある。

 もしかしたら、エニオン博士の見解は誤って伝えられたのかもしれない (253)。しかし、昨今こういう意見を耳にすることが多いので、この見解を詳しく見ておこう。まず、「妥当な」という言葉の意味が曖昧であることに注意しよう。これは、世界についての正しい知識を得るという意味で使っているのだろうか、それともそれ以外の何らかの意味で使っているのだろうか? 後者ならば、とりたてて反論することはないが、「世界について知るための」という書き方は前者であることを示唆する。さて、哲学においても、日常生活においても、知識 (正当だと認められた真である信念の意と大まかに解釈する) と単なる信念は別のものである。

(以上258頁より)

そういう意味で。「知識 (knowledge)」には肯定的な響きがあるのに対して、「信念 (belief)」は中立的なのだ。では、「世界について知る」という言葉でエニオンは何を意味しているのだろうか? もし彼が「知る」という言葉を伝統的な意味合いで使っているなら、彼の主張は単なる誤りである。二つの理論はお互いに両立しえないのだから、それらが共に正しいことは (近似的に正しいことさえも) ありえない (254)。他方、もし彼が、単に異なった人々は異なった信念をもっていると言っているだけなら、それは正しい (そして当たり前である) が、それならば「世界について知る」という強い表現を用いるのは誤解のもとである (255)

(253) だが Anyon et al. (1996) でもほとんど同じ意見を述べているところをみると、そうではなさそうだ。

(254) ニューヨーク大学で開かれた討論会において、この例を取り上げたところ、この当たり前の事実が理解できないか受け入れられない人が意外にも多かった。おそらく、この問題は、少なくとも部分的には、こういう人たちが「真実」という言葉の定義を変えて、「近隣の人々の間で受け入れられている信念」とか、一連の心理的、社会的な役割を果たす「解釈」といった意味で用いていることから来るのだろう。たとえば創世神話を (真実という言葉の普通の意味で) 真実だと思っている人と、上のような「真実」という言葉の再定義を一貫して使う人のどちらがよりショックを与える存在なのかは決めがたい。この例について、特に「妥当な (valid)」という言葉のとりうる意味についての詳しい議論が Boghossian (1996) にある。

(255) 論争になると、相対主義的な人類学者は、知識 (正当化された真である信念) と単なる信念に区別があることを否定してしまうことがある。たとえば外的な世界のあり方に関する信念にしても、信念というものは (文化を離れて) 客観的に真であったり偽であったりはできないというのだ。しかし、そんな主張を真に受けるのは難しい。ヨーロッパ人の侵入に続く時期には、何百万人ものアメリカ先住民が実際に死んだのではないのか? それは一部の文化においてのみ真だとされている単なる信念なのか?

 もっともありそうなことは、この考古学者は、政治的、文化的な観点から先住民たちに同調するあまり、

(以上259頁より)

理性が曇ってしまったということだ。しかし、そのような知的混迷は決して正当化できるものではない。彼らの社会に伝わる創世神話を無批判に (あるいは偽善的に) 受け入れなくとも、われわれは、悲惨な大量殺戮の儀牲者たちのことをしっかりと記憶に留め、その子孫たちの正当な政治目標を支援していくことができるのだ。 (もしアメリカ先住民の土地の所有権の要求を支援したいとして、アメリカ先住民が北アメリカに「永遠の過去」から住んでいたのか、たった一万年しか住んでいないのかが本当に問題になるだろうか。) さらに、相対主義者たちの姿勢はお為ごかしでもある。彼らは、複雑な社会を一枚岩のように単純化し、その中での意見の対立を曖昧にし、もっとも蒙昧主義的なグループを社会全体の代弁者として扱ってしまうのだ。

(以上260頁より)