中国・韓国の数学の発展に尽くした卒業生

留学生 陳 建功氏について

東北大学名誉教授 猪狩 惺

 陳建功氏(1893-1971)は中国からの留学生で、東北帝国大学理学部数学教室を1923年(大正12年)卒業しました。彼は中国現代数学の発展に大きく寄与したことで既に中国数学史上の人物となっている本教室が誇る同窓生の一人です。それは、三角級数論、複素関数論など多岐にわたる優れた数学上の研究は勿論のこと、学問・数学に対する真摯な態度、先見性、優れた教育・指導によります。彼が東北大学入学一年目に東北数学雑誌に発表した論文は中国人による現代数学の最初の論文(同時に他の研究者によるもう一編の論文がある)であり、大学院在学中に数十編の論文を著しています。師藤原松三郎教授の薦めによって岩波書店から出版された著書「三角級数論」(1928年)は、この分野における当時の書物として構成、内容において国際的にみて際立って優れたものです。現在その本は北京の国家博物館に収蔵されており、そのことは彼の研究の評価のみならず、彼の故国で果たした偉業を示しているといえるでしょう。
 実は、陳建功氏は東北大学に留学する以前、1913年に来日し東京高等工業学校(現東京工業大学)で染色科を1918年卒業、翌年東京物理学校(現東京理科大学)で数学を学び卒業していますから、日本の学校を三つ修めていることになります。
 ホームページに掲載されている文章は、杭州で行われた陳建功誕辰100周年記念事業の際に書かれたものですが、彼の生涯や業績についてより詳しく述べられております。更に詳しく知りたい人は、その文末に記されている蔡猗瀾著(白鳥富美子訳)「陳建功 その学者としての生涯」があります。

(東北大学理学部同窓会誌 記事より)

蘇 歩青先生について

東北大学名誉教授 剱持 勝衛

 蘇先生は1902年9月中国淅江省に生まれ、中学校卒業後、日本へ留学し1927年(昭和2年)東北帝国大学理学部数学科を卒業、直ちに東北帝国大学附属第9臨時教員養成所の講師に採用されました。外国人留学生が帝国大学の先生になるということで、当時でも大変珍しく新聞に報道されました。専門は微分幾何学で指導教官は幾何学講座の窪田忠彦教授でした。  1931年(昭和6年)に東北大学から外国人としては2番目に理学博士の学位を取得されました。その2年前には日本人女性と結婚しましたが、淅江大学の教授として着任するため帰国しました。
 佐々木重夫先生の「東北大学数学教室の歴史」によると、1937年、日本軍による中国侵略を機に淅江大学は戦火を逃れて西に向かい2、500キロを踏破し戦後の1946年にやっと杭州にもどったということです。このような困難な状況にもかかわらず、蘇先生の数学の研究と教育にたいするご活躍はめざましく、国内外から蘇学派と呼ばれるほどの多数の数学研究者を中国で育て、中国における現代数学創設者の一人とされています。
 蘇先生は中国では、数学のみならず科学全般にわたり重要な貢献をなしています。そのことは、次のことからも理解できるでしょう。東北大学の広報誌「まなびの杜」第6号(1999年)の魯迅特集で、当時の阿部 博之総長による「江沢民主席と東北大学」と題する記事があります。そこでは中華人民共和国の江沢民国家主席(当時)が1998年秋に仙台を訪ね、東北大学で魯迅ゆかりの品々を見学されたとき、同時に展示してあった蘇歩青教授の書に目を留められ教授の近況について総長にお話されたことが報告されています。
 蘇先生のご子息である蘇 徳昌奈良大学教授によれば、江 沢民氏が主席になる前、上海市長、共産党市委員会書記(委員長を書記というそうです)であった時、蘇先生は復旦大学長、上海市科学技術協会会長であったので、江 沢民氏と随分と交際があったそうです。
 その後、蘇先生は中国全国政治協商会議副主席を務め、復旦大学の名誉学長であった2003年3月17日に老衰のため亡くなられました。享年100歳でした。

朴 鼎基(新井文雄)氏について

東北大学名誉教授 剱持 勝衛

 当数学科の卒業生である朴 鼎基(Chung Ki Pahk)氏について、大韓民国・慶北数学誌のSungwoo Yuk氏と本学大学院・数学専攻博士課程終了の金 順徳氏から寄せられた知らせに基づいて紹介します。
 朴氏は1915年5月大韓民国の慶北居昌郡で生まれ1940年3月大韓民国・延禧専門学校数物科を卒業後来日し、本学数学科を1942年(昭和17年)9 月卒業しました。直ちに、東北大学理学部数学科の助手に採用されましたが、太平洋戦争が終結した1945年8月故国である大韓民国へ帰国しました。その後、朴氏はソウル大学助教授、延禧大学教授、高麗大学教授を歴任し、1952年大邱市の慶北大学文理学部に数学科が創設されると初代教授として、数学科の基盤固めに貢献しました。この期間における朴氏の際だった業績としては、1958年に韓国における初めての欧文の数学論文雑誌である慶北数学誌(Kyungpook Mathematical Journal)の創刊があげられるでしょう。このことは、朴氏が私たちの東北数学雑誌が日本における初めての欧文の数学専門誌であることを承知していて、成されたことのように思えてなりません。
 また1963年には慶北大学から理学博士号を得ています。その後、1968年から1971年にかけて朴氏は慶北大学の総長として数学科のみならず大学全体の発展のため活躍しました。1967年に大韓民国学術会員に選ばれ、1974年からは学術院の自然科学第一分科委員長として大韓民国における学術行政に多くの貢献をしていましたが、2000年10月6日に85才で亡くなられました。

ページトップへ戻る