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小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を読んだのか?

小池隆太氏の「ニセ・クリティーク: 5. 『知の欺瞞』の欺瞞」へのコメント

2001年5月3日微更新 (2001年4月30日公開)

『「知」の欺瞞』は大学新入生におすすめ!


小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を本当に読んだんでしょうかね?

自分自身が『「知」の欺瞞』のターゲットになっていると自覚してしまった方がどのようになってしまうかの典型例に興味のある方は「ニセ・クリティーク: 5. 『知の欺瞞』の欺瞞」を読むと良い。

1971年京都市生まれの小池隆太氏による「『知の欺瞞』の欺瞞」は2000年9月5日に公開されました。菊池誠さんの書評にある『「知」の欺瞞』は『トンデモ本の世界』説への反応から始まってますが、公開された当初は菊池書評への言及がありませんでした。しばらくして、同じ大学内にいる菊池さん本人からメールが届いたので、あわてて言い訳とリンクを追加したようです (2000年11月24日)。

これだけでも相当なイメージ・ダウンだと思うのですが、それ以前に2000年7月23日の「<書評三文野郎> NO.6」における小池隆太氏による『「知」の欺瞞』の「評価」がちょっと笑えます。小池隆太氏曰く、

評価:リファレンスとして手元にあっても良いが,思想の解読には何ら貢献しない

なんと小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を「思想の解読」に貢献するか否かで評価しちゃっているのだ! 実際に『「知」の欺瞞』を手に取ってみたことのある方は当然わかっていることですが、このような「評価」の仕方は完全に的を外しています。前評判だけからでも、『「知」の欺瞞』を「思想の解読」に貢献した本とみなして手に取る人はいないでしょう。『「知」の欺瞞』は思想の解読に貢献しようとした本ではなく、ある種の思想の中に科学のデタラメな濫用に支えられた部分があることを証拠となる長い引用によって明確に指摘した本なのです。

さて、小池隆太氏の「『知の欺瞞』の欺瞞」の話に戻りましょう。小池隆太氏は一所懸命書いたようですが、皆が期待する通り、見事に外しまくってます。しかし、何も知らない方が小池隆太氏の言っていることを真面目に受け取ってしまう心配もあるし、『「知」の欺瞞』の内容の一端を紹介しておくのも悪いことではないので、詳しくコメントしておくことにします。

『「知」の欺瞞』のジャック・ラカン批判に対して小池隆太氏は次のように述べています:

 さて細かい内容について見ていくとキリがないのだが,例えばラカンについて取り上げた節,37頁では或る「式」について彼らは批判を加えているが,彼らはこの「式」の読み方すらわかっていない.これが単なる分数ではなく,その典拠をフロイトにもつことを彼らは知らない(というか勉強していない).この「式」の横棒が,分数ではなく「抑圧」を意味しているという,精神分析学上の常識的知識も持ち合わせていないのである.同頁の注(28)もきわめていい加減なモノなので,筆者が代わりにつけておく:「注(28) これは,主体の形成の根底にある筈の「大文字の他者」が本源的に知られ得ない,という主体のあり方を示している.ここで,S=「シニフィアン」とは,自分の生の「意味」(つまり「シニフィエ(記号内容)」)を知り得ない存在,つまり「人間」を示しているのである.」なんでも代数としてしかみていない彼らには,確かにこのような注はつけられまいが.
 まあラカンの「数学」がきわめていい加減なのは事実(この点のみ彼らの指摘はただしい)だろうが,ラカンが数学プロパー的には矛盾する表現を用いて語ろうとしているのは,常に矛盾を抱え続けた存在である人間主体のあり方(これをラカンは「トポロジー」といいたいわけだ)についてだということが,まず彼らには読めていない.

この小池隆太氏の主張のレベルがどの程度であるかを知るために、『「知」の欺瞞』から対応箇所の36-38頁を引用しておきましょう (以下の引用はラカンの言葉の引用から始まる、紛らわしいので『「知」の欺瞞』の著者達が書いた文には色を付けて強調しておいた):

 われわれとしては、略号の頭文字 S(A/)【引用者注:「A/」は実際には A の上に / が重なっている】が(28)、まず最初にひとつの記号表現であることによって示しているものから出発しよう。……

〈引用中略〉

 そこで、その結果として、われわれの用いている代数にしたがって、この意味作用を計算すると、次のようになる。

S(記号表現)
-----------  = s(言表されたもの)、 S = (-1) によって、 s = √-1 が得られる
s(記号内容) 

(Lacan 1977b, pp.316-317、一九六〇年のセミナーから、佐々木他訳 p.819)

(28) ここで A はラカンにとって中心的な概念である Autre (他者) を表わす。

こうなると、ラカンは読者をからかっているとしか思えない。たとえ彼の「代数」に何らかの意味があるとしても、式の中の「記号内容」、「記号表現」、「言表されたもの」は数ではないし、式の中の (勝手に選んだ記号としかみなしようがない) 水平な線が分数を表現しているわけでもない。ラカンの「計算」は、ただの空想の産物に過ぎない(29)。しかし、二ページ先で、ラカンはまたしてもこのテーマを取り上げている。

(29) Nancy and Lacoue-Labarthe (1992、第I部、2章) は、ラカンの「アルゴリズム」についての、原文とほとんど同じくらいばかげた注釈である。

 おそらく、クロード・レヴィ-ストロースは、モースを注釈しながら、そこに象徴ゼロの結果を認めようとしたのだろう。しかし、われわれの場合に問題になると思われるのは、むしろ、この象徴ゼロの欠如の記号表現である。そして、このような理由から、われわれは、何らかの不興を買うのを覚悟のうえで、われわれの使用する数学的算式の方向転換をどこまで進めることができたかを示したのである。複素数の理論においてはいまも i と記されている象徴 √-1 は、ただその後の使用においてはいかなる自立性も求めないことによって正当化される。

 ……

 このようにして、勃起性の器官は、それ自身としてではなく、また心象としてでもなく、欲求された心象に欠けている部分として、快の亨受を象徴することになる。また、それゆえ、この器官は、記号表現の欠如の機能、つまり (-1) に対する言表されたものの係数によってそれが修復する、快の亨受の、前に述べられた意味作用の √-1 と比肩しうるのである。 (Lacan 1977b, pp.318-320、佐々木他訳 pp.334-336)

正直にいって、われらが勃起性の器官が √-1 と等価だなどといわれると心穏やかではいられない。映画「スリーパー」の中で脳を再プログラムされそうになって「おれの脳にさわるな、そいつはぼくの二番目のお気に入りの器官なんだ!」と抗うウッディー・アレンを思い出される。

(『「知」の欺瞞』36-38頁より)

以上で引用終了 (色の付いた強調されている部分が『「知」の欺瞞』の著者達の主張であり、残りはラカンの言葉の引用)。ここで、「佐々木他訳」というのは『エクリIII』 (弘文堂) のことです。

『「知」の欺瞞』を読むだけでは、「この「式」の横棒が,分数ではなく「抑圧」を意味しているという,精神分析学上の常識的知識」を『「知」の欺瞞』の著者達が知らないという小池隆太氏の結論は得られません。上の引用を見ればわかるように、『「知」の欺瞞』の著者達は、ラカンの「代数」という言葉をかぎ括弧付きで引用している上に、「分数である」とは言わずに「分数を表現しているわけでもない」と言ってます。

まあ、この点はそんなに本質的な論点ではないでしょう。小池隆太氏が示すことに失敗している著者達の無知が本当だとしても、『「知」の欺瞞』のラカン批判の論旨が崩れるわけではありません。

実際、小池隆太氏が言うところの「横棒が「抑圧」を意味しているという常識」を上に引用されているラカンの説明に適用したとしても、「式」を理解できるわけでもないし、「S = (-1) によって、 s = √-1 が得られる」「数学的算式の方向転換をどこまで進めることができたかを示した」「勃起性の器官が…… √-1 と比肩しうる」のようなラカンの言葉の理解が進むわけでもない。フロイト以来の精神分析の常識で解釈すれば「数学的算式」や「√-1」はどういう意味なんでしょうかね? 実際にそれらの解釈を実演してくれると嬉しいのだ。

まあ、しかし、「S(A/)【引用者注:「A/」は実際には A の上に / が重なっている】」につけられた註(28)「ここで A はラカンにとって中心的な概念である Autre (他者) を表わす」が「きわめていい加減」というのはその通りなんでしょうね。しかし、それを小池隆太氏が考えた註

(28) これは,主体の形成の根底にある筈の「大文字の他者」が本源的に知られ得ない,という主体のあり方を示している.ここで,S=「シニフィアン」とは,自分の生の「意味」(つまり「シニフィエ(記号内容)」)を知り得ない存在,つまり「人間」を示しているのである.

に置き換えることにどういう意味があるのか不明。この程度の註であればラカンの解説書から S(A/) に関する説明をひっぱってくれば誰にでも付けられます。『「知」の欺瞞』の著者達がわざわざそうしなかったのは正解だと思う。なぜなら、もしもそうしていたら、その無意味さを指摘する手間がさらに増えてしまうからです。

さらに、小池隆太氏は次のように続けます:

ラカンが数学プロパー的には矛盾する表現を用いて語ろうとしているのは,常に矛盾を抱え続けた存在である人間主体のあり方(これをラカンは「トポロジー」といいたいわけだ)についてだということが,まず彼らには読めていない.

ここまで来ると、小池隆太氏は本当に『「知」の欺瞞』のラカンの章に目を通したのだろうかと不安になって来ます。実際、『「知」の欺瞞』の27頁にはラカンの講演の後の次のやりとりが引用されているのだ:

 ハリー・ウールフ この基本的算数とこのトポロジーは、それ自身、精神生活を説明するための神話か、よくしても単なるアナロジーではないでしょうか?

 ジャック・ラカン 何かのアナロジーですって? 「S」は厳格にこのSのように書くことのできる何かを指定しているのです。そして主体=患者を示す「S」はある喪失を示すための道具、材料なのだと申し上げました。いいかえれば、それは意味を刻印したあるものと、私の実際の言説であるところのこの別のものの間にあるこの裂け目【ギャップ】なのです。私は、この実際の言説を、あなたが、もう一人の主体=患者としてではなく私を理解できる人々としてのあたなが存在するところに置こうと試みるのです。どこに類比【アナロゴン】があるのでしょう? この喪失は存在するか、しないかなのです。もしあるとすれば、記号のシステムとしてこの喪失を指定するしかありません。いずれにせよ、この喪失は記号下がその場所を示すまで存在しないのです。これはアナロジーではありません。それは実際に現実のある部分にあるのです、このトーラス類は。このトーラスは現実に存在し、それは正確に神経症の構造なのです。それは類比【アナロゴン】ではありません――抽象化したものでもないのです。というのは、抽象化は現実のある種の矮小化であり、私はそれが現実そのものだと考えているからです。 (Lacan 1970, pp.195-196)

(『「知」の欺瞞』27頁より)

これを読む限りにおいて、小池隆太氏がそう考えているように、ラカンは「常に矛盾を抱え続けた存在である人間主体のあり方」のアナロジーとして「トポロジー」を利用したのではありません。

ラカンは「それは実際に現実のある部分にあるのです、このトーラス類は」と言っています。『「知」の欺瞞』のラカン批判に反論するためには、「矮小化」を伴わない形で、「トーラスが現実に存在し、それは正確に神経症の構造」であることを、皆に納得できるように示さなければいけません。

『「知」の欺瞞』のターゲットになっていると感じている人たちは、『「知」の欺瞞』によって挙証責任がどちら側にあるかがはっきりしてしまったことを無視してはいけません。『「知」の欺瞞』の揚げ足取りをどんなに行なってもその事実は消えないのです。ここで、『「知」の欺瞞』の序文で紹介されているジャック・ブーヴレスの言葉を色付きの強調された文字で引用しておきましょう:

挙証責任を反転してはならない。用いられている表現に理解可能な意味を与えることに成功していることを示す責任は、まず第一に、異義を唱えられた著者の側にあるのだ。読者には、髪をかきむしってまで、意味を発見したり発明したりする責任はない

(『「知」の欺瞞』xx頁より、 Jacques Bouveresse, Prodiges et vertiges de l'analogie: De l'abus des belles-lettres dans la pens\'ee, Paris: Raisons d'Agir, 1999 の p.10 にある言葉)

(ちなみに、 Henry Krips という人がラカンのトポロジーを真正面から擁護することを試みています。 Debate in Metascience で読めます。『「知」の欺瞞』の著者達の反論 ("Reply by Jean Bricmont and Alan Sokal" の第3節) を見ればわかるように、 Krips はすぐにわかるような数学的なデタラメと的を外した反論を書きまくって沈没しています。 Krips は「閉集合」=「開でない集合」というレベルの理解で位相空間用語を使ってます。無理しなきゃいいのにねえ。)

小池隆太氏はラカンの章以前の問題として『「知」の欺瞞』の序文にさえ目を通してない可能性が高い。実際、小池隆太氏は「第4章もほぼクズである」と言ってますが、『「知」の欺瞞』の序文にはこう書いてあるのだ:

また別の評者たちは、われわれが哲学について無学であると非難する。彼らは、われわれを、認識論と科学哲学に関する一世紀に及ぶ論争を無視する「ナイーヴな実在論者」あるいは「常識」の極端な信奉者として描くのである。だが、これらの論者たちは、われわれがこれらの問題を議論した長大な4章からたったひとつの言葉さえ引用することを注意深く避けている。

(『「知」の欺瞞』xiii頁より)

小池隆太氏の振舞いは『「知」の欺瞞』の著者達が用意周到に序文の中で釘を刺しているくだらない攻撃そのままなのだ。

以上で示したように、小池隆太氏による「罵倒」は威勢が良いだけで的を外しまくってます。『「知」の欺瞞』に引用されているラカンの言葉を全て読まずに、浅はかな理解で「罵倒」したつもりになっているだけだ。おそらく序文にさえ目を通してないのだろう。その上、残念なことに、ユーモアも辛辣さも欠けており、「罵倒」そのものとしての面白さもない。小池隆太氏が書いたものは私が発見した『「知」の欺瞞』の書評の中では最も低レベルなものに属します。一般読者よりも学者系の人の方がひどいものを書いていることが多いようです。

『「知」の欺瞞』へのくだらない反論の存在はその出版が必要でかつ効果的であったことを証明していると思う。

ちゃんちゃん。

ちなみに、小池隆太氏の専門のロラン・バルトは以下のような形で『「知」の欺瞞』に登場してます:

(3) まったく無関係な文脈に、恥もなく専門用語を投入して、皮相な博識ぶりを誇示すること。科学を知らない読者を感服させ、さらには威圧しようとしているとしか考えようがない。ときには、学術的な注釈者やマスコミの解説者までもがこの手に乗せられる。ロラン・バルトはジュリア・クリステヴァの仕事の精緻さに感服し (五三頁)、ル・モンド紙はポール・ヴィリリオの博学をたたえている (二二六頁)。

(『「知」の欺瞞』7頁より、強調は引用者による)

ジュリア・クリステヴァは物象が占めている場所を変える。彼女はつねに、人がこれで安心していられる、これで威張っていられると思うその理由になる類いの、最も根強い偏見を破壊する。彼女が定位置から動かしてしまうのは、既-言 (既に言われたこと)、すなわち、記号内容の執拗な反復、すなわち、愚かさである。彼女が転覆するのは、独白的な科学の権威、系統の権威である。彼女の仕事は全面的に斬新で、的確だ。……
――ロラン・バルト、「クリステヴァの『記号の解体学――セメイオチケ』について」 (Barthes 1970, p.19)

(『「知」の欺瞞』53頁より)

批評家としての実力は、他人をけなす場合ではなく、他人を絶賛するときにより鮮明に表われるものです。

バルトの専門家で「我々専門家は既に百も承知」と言う小池隆太氏には、バルトによる「全面的に斬新で、的確だ」という『セメイオチケ』の評価について説明してもらいたいものだ。バルトはかっちょよく褒めたつもりが、褒めた対象が悪かったせいで二十数年後にこういう形で引用されてしまったわけです。


黒木 玄