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浅田彰のクラインの壺について

黒木 玄

2001年8月7日更新 (2001年8月1日作成)


追記2002年4月5日:掲示板2における菊池和徳による異論およびそれに対する回答も参照せよ。


要約:『構造と力』を実際に覗いてみると、 3次元空間内でのクラインの壺の擬似的な実現に頼った説明の仕方をしているのは、山形浩生ではなく浅田彰の方であることがわかる。山形は浅田の方針にしたがえばどんなに変なことになるかを面白おかしく指摘しているのだ。そのことを理解せずに、浅田ではなく山形の方をクラインの壺の擬似的な実現にとらわれて誤解していると非難する人たちがいる。この議論に参加したければ『構造と力』の実物を見てからにした方が良いだろう。


『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)」の下の方からリンクしてある森岡正博のリンク集の「話題の文化人・学者」のコーナー (森岡正博は自分自身も「話題の文化人・学者」だと思っている?) に次のような見ていて恥ずかしくなるようなコメントがあることに今頃になって気付きました:

山形浩生さんの浅田彰クラインの壺批判ページと、 nackさんによるその批判 山形さん完璧に負けてるのにナイスな負け惜しみ(Q12「なかなかいい」と)。そのnackさんのJeepster。とても知的な人ですね。

森岡正博は山形浩生から批判されたこと (1, 2, 3) に対する恨みをこういうせこいやり方で晴らそうとしているのでしょうか? いずれにせよ、森岡が議論の中身を全く理解してないことはこの引用から明らか。

そこからリンクされている「nackさんによるその批判」の全文は以下の場所で読めます:

個人的には予想以上に楽しめました。特に GIF アニメーションを使う一発芸には本当にうけてしまいました。それは、

 しかし、自己交差しないクラインの壷というのも、物体としては想像するのが難しい。そこで、Fiedorowicz 教授のサイトにあったクラインの壷の疑似図を加工しgifアニメにし、「自己交差しないクラインの壷」を動的に表現してみた。ついでに、循環のようすをしめすために「有名なネズミのシルエットのようなもの」を付随させた。クリック!(280Kぐらいあります)これをみれば、物体がクラインの壷を循環する模様をある程度直観的にとらえることができると思う。

というコメントのリンク先にある

です。これは本当に力作なのでフリーなデータとして流通させて欲しいと思う。

しかし、惜しいことにクラインの壺の管の中をクマさん (私にはクマのぬいぐるみの顔に見える) が通っているように見えるアニメーションを作成してしまってます。クマさんがクラインの壺の表面にへばりつきながら、表と裏を行ったり来たりするアニメーションであれば良かったのですが。

そのアニメーションを見ると、 nack は以下の3種類のクラインの壺の違いについてあまり理解してなさそうであることがわかります:

なぜならばアニメーションの内容が完全に「3次元ユークリッド空間内で擬似的に実現されたクラインの壺」に騙されたものになってしまっているからです。

クラインの壺の内と外という概念はクラインの壺を3次元空間で擬似的に実現した場合にのみ意味を持ちます。曲面の表と裏であれば内在的な意味を持っていると言って構わないと思うのですが、曲面から離れた地点 (例えば壺の内と外のような場所) について語るためにはその曲面がどこで実現されているかを決めないと駄目なのだ。

個人的には、クラインの壺をメタファーとして利用したければ、クラインの壺をどこで実現したかによらないクラインの壺の内在的性質 (向き付け不可能でかつ閉じているという性質など) を利用して欲しいと思います。そういう使い方が本当にできているのであればめくじらを立てる必要はないと思う。

ところが、浅田彰の『構造と力』を見ると、こう書いてあるのだ:

……。実際、金は自らのうちに過剰な価値を集積した何ほどか彼岸的な存在で あり、それゆえにこそ、人々は金を壺に入れて棚の上に退蔵するかと思えば祝祭の場で惜しげもなくバラまいてみせたのである。ところが、近代資本制の貨幣は超越的な位置に休らうことを知らない。静止した退蔵貨幣は資本としては死んでいるのであり、それが生命をもつためには、絶えず再投下され、価値増植の運動を続けなばならないのである。いったん超越性へと投げ出された貨幣が再び商品世界の内在性の只中に投下されること。ひとたびメタ・レベルに排除されていた筈の中心がいつの間にか何くわぬ顔でオブジェクト・レベルに戻ってきていること。これこそ近代資本制における脱コード化の運動の基本形である。それを図2の《クラインの壺》で表わし、図1と対比することにしよう。この図に示す通り、貨幣は、中心といっても静止した超越的な原点ではなくい わば吸入口のようなものであり、すべてはそこから絶えざる運動の中に吸い込まれていく。……

(浅田彰『構造と力』 (勁草書房) 195-196頁より、強調は引用者による)

……。しかし、すでにみたように、《クラインの壺》は外部をもたない、というよりも外部がそのまま内部になっているのであり、内外の境界【フロンティア】に定位して内部の秩序と外部の混沌との相互作用をクローズ・アップしようという構えを、最初から受けつけないのである。……

(浅田彰『構造と力』 (勁草書房) 199頁より、強調は引用者による)

以上の引用を読めば、浅田が通常の壺の内と外の関係とクラインの壺の内と外の関係を対比しようとしていることがわかります。しかし、そういう対比が可能であるためには、上に述べたように3次元空間内に擬似的に実現されたクラインの壺を考えなければいけません。

浅田は、3次元空間内でのクラインの壺が擬似的な実現に過ぎないことを忘れて、上に URL を示した GIF アニメーションのようなことをおおまじめに考えたのでしょうか? (まさかね!)

4次元以上の空間でクラインの壺を実現したとすればそもそもその内と外というのは最初っから意味を持たなくなるんだよね。そして、その理由は3次元空間内の壺と対比できるようなものではない。

例えば、2次元平面の上の円周は平面を内と外の二つの領域に分割しますが、 3次元空間内の円周はそうではない。それと同様に、 4次元以上の空間内で実現された2次元の多様体 (例えばクラインの壺) は入れものの4次元以上の空間を内と外に分けたりはしないのだ。一般に次元が2以上下がると入れものの空間を異なる領域に分割できなくなります。

「クラインの壺は裏と表の区別が付かない」という言い方であれば「クラインの壺は向き付け不可能である」というクラインの壺の実現の仕方によらない内在的性質を一般向けに説明するための優れた表現だと思いますが、 3次元空間内での擬似的な実現の図を示して「クラインの壺は内部と外部を持たない」と言ってしまうと擬似的な実現の仕方に頼った説明があたかもクラインの壺の本質と関係しているかのように読者を誤解させてしまうことになります。

少なくとも読者は「クラインの壺は内部と外部を持たない」という見方が3次元空間内でのクラインの壺の擬似的な実現に依存していることを了解しておく必要があるのだ。

山形浩生の「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)」が指摘していることは実質的にそういうことに関係しています。山形は浅田のように3次元空間内に擬似的に実現されたクラインの壺だけに通用する比喩になってない比喩を大真面目に受け取るとどんなにおかしなことになってしまうかを面白おかしく指摘しているのだ。

(池上大介2001年08月04日の日記でそのことを理解できずに浅田自身の誤りを山形のせいにしてしまっている。池上は「浅田本は見てない」と述べている。池上はそのようないいかげんな態度で山形を非難してしまったのだ。池上の指摘は正しい部分を含んでいるので非常に残念である。池上は本当は山形を応援しなければいけない立場であると思う。池上は「浅田本」の実物を見てないせいで矛先を誤ったのだ。【追記2001年11月4日池上大介の日記の2001年11月3日#4にこの件に関するコメントがある。「浅田本」の中身を知っていれば防げた誤解や浅い読み方まで山形のせいにしてしまうのはまずい。「浅田本」と山形による批判の両方を読んでいればどちらがまともなことを言っているかは一目瞭然である。いずれにせよ、山形批判を撤回せずに繰り返したいのであれば、「浅田本」を読まずに山形の方に矛先を向けてしまったことを十分謝罪した後にそうするべきであり、十分な証拠も示すべきである。】 ちなみに nack も「ぼくは浅田彰の「構造と力」を読んだことはない」と述べている。やはり論争に参加したいのであれば実物を見てからにすべきだと思う。)

さて、それでは、山形に対する浅田の反応はどうであったのか。浅田は、自分自身が3次元空間内でのクラインの壺の擬似的な実現に完全に依存した説明の仕方をしていることを忘れて、次のようなことを言っているらしい:

むしろ、山形浩生の方が、クライソの壺を三次元立体として近似的に示したモデルにとらわれて、初歩的な誤解に陥っているのではないか。

実は、イソターネット上ではすでにそのような指摘を読むことができる。

他人の議論を誤りと決め付ける前に、そのくらいはチェックして自分の足場を固めておくべきだろう。

山形浩生という道場破りは、自分で道場を開くには、もっと他流試合を重ねて腕を磨く必要があるようだ。

(http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0021.html#kohobu20010608093438 から孫引き)

以上は i-mode の「浅田彰チャンネル」の2001年3月頃のバックナンバーからの引用らしい。「クライン」「インターネット」が「クライソ」「イソターネット」になってますが、原文自体がそうになっていたのだそうだ。追記2002年1月9日:誤植が訂正済みの原文と浅田による2001年8月1日の付記が http://www.criticalspace.org/special/asada/i010313b.html にある。その付記を見ると、浅田は自分自身の誤りを認識できないせいで、山形の方が誤解していると誤解し続けていたことがわかる。】

山形に指摘されたことは格好悪いけど別に大したことじゃないんだから、浅田彰は自分自身の失敗を認めた方が良かったと思う。上に引用したような偉そうな態度をしてしまったのでは、その事実が広まることによって、理解力のある人たちに馬鹿にされるようになってしまうことでしょう。

まあ、『構造と力』の表紙が「クラインの壺×24」なので、山形浩生に厳しく指摘されて困ったことになったと感じるのはよくわかるのですが、傷口を自ら広げるようなことをする必要はなかったのだ。

上に引用したような言葉が自分自身に跳ね返って来ることによるダメージの方が山形浩生の指摘によるダメージよりもはるかに大きいと思う。

私自身は上に引用した山形への反応が浅田彰自身の言葉であることを最初はまったく信じられなかったぐらいです。あまりにも不用意な発言。浅田彰はどこかで自分自身の非を認めるべきでしょう。