「分数ができない」 [2] といわれる現在の状況をどうとらえるべきか. 私は高校の先生と話したりもした結論として, 原因には計算ドリルや考える問題をする場が 減っていることがあり, 生徒の個性化をうたい, 基本教科の時間数を削減した現在の指導要領の方針に問題がある, という立場に立つ.[2][3]などと同じ立場である.
この「学力低下」への反応は, 文系の人(文系の教育をうけた人)か理系の人(同)かで 分かれるかもしれない. (私は文系・理系の乖離を残念に思う者だが, 便宜上この言葉を使う. ) 私は科学技術の今後ももちろんながら, 一般の人の科学への理解がどうなっていくかが非常に心配である.
1995 年におこなわれた 第 3 回国際数学・理科教育調査によれば, 中学 2 年の段階で理科が「すき」と 答えた生徒は 56 %で, 調査の対象となった 21 ケ国中最下位だそうだ [4]. 高校生の多くは文系に特化して大学入試に臨むだろう. 日本社会の主要な意思決定は, 報道であれ政治であれ, 文系出身者が担うことが多い. 彼らに理系の知識がない結果正しい判断がなされなければ, 将来は経理から環境問題にいたる種々の場面で失策が生じよう. 科学の底の浅い理解にもとづくとしかいいようのない, 国立研究所や国立大学の法人化論議の内容も, そのような未来を暗示しているように思われる.
次の言葉を引用しておこう: いわく, 「王様が``計算はワシは知らん. 全部, 奴隷にまかせているよ.''といったら, 尊敬に値するだろうか?」(I.アシモフによる.)
10 年後を考えると, 問題はもっと深刻だ. 現状では理科を専門的に学んだことの ない理科教師が養成されうる[4]. 高齢化しつつある現職の先生が退職したあとを考えると 背筋が寒い. すでに理科を教科書の朗読ですませる先生があるというが, 教わっている子供たちが大人になり, 社会を動かす時代には何が起きるだろう. 「ゆとり教育」「生きる力」のスローガンの下, 数学の内容は 2002 年から現在の 7 割に, 時間数に至ってははかつての半分にまで減るという. 精選といいつつ, すでに 計算ドリルなどをくりかえして「体で覚える」機会が(時間配分や教科書の問題として) 失なわれている.600 兆 の赤字を 1 億 2 千万の国民で負担すれば一人あたり 500 万 になるという 暗算ができなくては, 合理的判断ができない時代である. 電卓を使っても押し間違いはある. 桁数の感覚がなくては正しいかどうかわからない. また, 今の社会で算数や数学ほど「どうにも難しい」「わかって嬉しい」 体験をするのも, なかなか貴重なのではないか.
上で触れた教員養成の問題も, 「受験で捨てられるものは頭に残らない」, つまりは 「やらなくては身につかない」という単純な事の反映である. 単純に入試科目を増やせばいいのかもしれないが, この際状況を整理しておくのもムダではあるまい. そう思って, 制度面での 問題を私見で表にしてみた. 他の方の稿との重複も多いと思うが御容赦いただく.
身につかない教育を放置すれば, 国民的な学力低下が社会に広く影響し, 統計の分からない官僚, 経理のできない会社員, 文献が理解できない技術者, 原因を特定できない調査委員会 等々が未来の日本を担うだろう. { -- 主な制度的問題一覧 --
註
小学校低学年での学級崩壊は, 社会の変化などの漠然とした理由の他に, 保育方法がかわった幼稚園との接続問題との説や, 環境ホルモンの影響という説などがある [7]. 無償教科書の価格の据えおきは, 算数/数学では練習問題の数が減るなどの形となって現れている [8].
大学受験は, 共通一次〜センター試験の導入, 増加した私大の生き残り策, 大学への文部省の行政指導などによって, 科目が減らされてきた. 理科の先生になるためのコースに, 理科をとらずに入学できるなどの不都合も 生じている. 共通一次試験を境に 学力や文章力の低下がおこった, と いう教授も多い. 高校によってはセンター試験対策を一年以上反復練習するといい, 先生は頭脳の浪費だと嘆いている.
国家公務員 25 %削減という内閣の目標を, 国立の博物館・研究所・大学等の法人化で実現 しようというのが独立行政法人化問題である. 大臣が業務を指示する単純行政サービスのための法律を, そうでない機関に適用する無理が指摘されている[11].
註 1〜5 でもそれぞれ問題だが, これらの複合した新たな問題もおきる. 政策相互の関係は考慮されていたのだろうか. {A. 乱ャされる教員の質. (3 + 5) 高校で理科をとらなくても大学で理科教師の養成コースに 入ることができれば, 理科について中学までの知識しかない理科の先生ができるが, これで 深さ面白さを伝えられるとは思えない. 影響がうかがわれる例として, 理科離れをなげく化学の教授が高校に出前講義を申し出たのに対し, 「難しい話は必要ない」と断わられた話や, 「センター試験の数学に論理はいらない」と指導する先生の話, などを聞く. 教員養成課程の入試科目を増やす, または 採用試験で大学で学んだことを出題する, のどちらかまたは両方が必要ではないか. 教員 養成課程の内容も教科重視に戻すべきだと思う.
B. 高校と大学の「接続問題」. (1 + 4)本来高校までで学習されるべきことがらを, 大学入学後に学ぶ必要がおこっている. 一方(旧)教養課程の授業を専門に行う教官はいない. 産業界からの応用重視の圧力もあって, 専門性の高い講義を早い段階から うけることにもなっている. 2002 年からの新課程後, このギャップはより深刻になるだろう. 一部の大学では予備校の教師による補習を行なっているという. しかし これまで高校で済んでいた知識の修得を, 大学生が 高校並の時間をかけて行うことは, 大学の内容と平行してはできないことである. これまで高校参考書レベルだった本も, 大学生の教科書となれば倍以上の 値段になるだろう. 補習は解決にならないのは明かだが, その結果高校の内容を大学に, 大学の内容を大学院に 移すとしたら, 大学院の内容はどうするのだろうか.
C. 総合学習と先生の数. (1 + 2) これから予定されている総合的学習では, 先生は多くの方面に高度な能力を発揮しなくてはならない. 少子化が進んだ今も 40 人学級が標準である. この人数に対して 通常の授業以上の内容を行なうことは可能だろうか. 一部の先生は, パート(臨時任用)という不安定な身分で独自の授業を開発 しなければならない [6].