近縁である物理の場合には、この宇宙あるいは自然を理解するという一大目標があって、
たとえばファインャ唐フ本
[4]を数式はとばしながらでも読むと、物理世界のかなりの展望が(この魔フすばらしいところで、楽しみながら)
得られた気になれます。
一方数学の場合、ここまで目的がはっきりしません。
そして
式をとばすと何も残らなかったりします。
しかし研究するにおいて
「そこに問題があるからやる」
という単なる山登りのような(失礼)ことだけかといえば、
やはりそうでありません。数学するのも他の人間の営み同様、何らかの秩序をそこに見い出す、
うちたてるという 求が根底にあると言って良いと思います。
この「そこ」というのが物理の場合と違って外部になく、
さまざまな例や問題を通じて個人の内部に構築されていく
というべきでしょう。
これを人は
「数学的自然」などと言います。
ところで数学では、避けがたく出てくる高次元の空間が目で見えない等、しばしばわれわれに対象についての「経験が欠如して」います[4]。
これは研究の出発点にもなり、伝える難しさにもなります。
物理でも量子力学では、たとえば電子を2つのスリットを通すと
云々の不可思議から説くものですが、これは経験の欠如をおぎなうためでしょう。
そこで数学も、何を考えようとすると何がおこるか、そして
それはどう考えると良い、と語るのがひとつの理想かもしれません。
しかし物理と違って、対象が万人に生得的に共有されておらず
「目に見えない」!このため問題意識を伝えるにもかなりの工夫を要し、最近の話題ほどそうなりがちです。
数学における「ファインャ燈ィ理学」のようなのがあると良いのですが、それが難しいのも理由があるかもしれません。
それでも、数学の奥深い実質を工夫して伝えようという、
本や雑誌記事がいろいろあります。また問題が生の、素朴な形であったころに戻り、そこから今を理解しよう
というのも健全です。
そこで数学史、まずは 19 世紀でしょう
[4,4]。文末にもいくつかあげましたが、
気になる本があったらとりあえずパラパラやっておくと
なお
セチガライ話ですが、最近は--税金や倉庫代などの関係だそうで--魔ヘ見た時に
買わないとあとでは在庫がなく、
手に入らないことがあります。、
あとで不思議と良いことがあるものです(「この式は見たことある!」)。
そして、機会があれば人の話を聞くと良いでしょう。
我々が論文を読むときに、その著者を知っているか、見たことがあるかで、
だいぶ読みかたが変わります。「あいつがこんなこと言ってる」とか、
「どうせこれはこう言ってるけどこんなつもりなんだろう」とかいうように。
文章を見て、思わずその人の声が聞こえてくるようで笑ってしまうようなこと
もあります。数学であれ何であれ人間のやることですから、
言いたいこと/言うべきことのすべてを
文章にできているとは限りません。
人に話を聞く、対話するというのは、このような理想と現実のギャップを埋めるための良い方法です。
論文でなく魔ナも同じことで、誰かわかった人に話を聞く
のは効用が非常に大きいはずです。
そのためにも、どっちに どういう面白そうなことがころがっているか日頃からアンテナを張っておき、 「こんなことが数せみに書いてあったけど何ですか?」 みたいに、 講義のあとなどに先生や先輩と会話がはずむと良いですね!