思えば、仮にも大学で(数学といわず)勉強をはじめようというのに、まるで純朴というべきでした。一口でいえば、 {すべての魔ェ良書であるとは限らない (少くともあなたにとって;仮に教科書であっても)ということです。 教科書はふつう担当教官が選びますが、 その教官の選択があなたの好みとあわないかもしれません。 またたとえば今だと 高校のカリキュラムが変化したのに対応していないかもしれません -- もっとも 大学のカリキュラムは良かれ悪しかれそんなふうにできていて、 必要な知識がすべて順番にお膳立てされる方が、むしろ珍しいかもしれないの ですが。 たとえば数学ではまだとてもやってないような偏微分やら微分方程式やらを、 物理や化学では入学早々使ったりするでしょう。 みんなそんな風だったから怖がることもないのですが、 教科書だけでなく自ら勉強した方が良いようです。
そこで、まずはどの本が定評があるか、情報収集をしましょう。 本誌にも出るであろう魔フ紹介、そしてより身近な先輩、同級生、先生などなど。 自分でも随相ルや本屋に行ってみるのはもちろんです。せっかく買うからにはあまりチャレンジがない(努力を要求されない)本も つまらない、 しかし石の上にナントカという精神だけでも身につくものではありません。 学生時代の友人いわく、「気持ちが書いてある魔ナなくては」。 では「気持ち」とは何か?ちょっと考えてみましょう。
数学のウリの一つとして、厳密であることがあるとされています。 特に 「定義 - 定理 - 証明」といういわゆる演繹のスタイル は、その象徴と考えられることも多いようです。 一方「気持ちがわからん」という不評も、多くはこの形式にあるようです。しかし、ギリシャ時代の「ユークリッド原論」 もすでにこの形式なのでした。 時に微妙でありうる事柄をあいまいでないよう体系的に述べるには、汲ェば回れで順番に一つずつ示していくのが、 ある程度避けがたいと思われます。 また、こうすると(なぜか)短くなる! これに対するのは 「どうしてその定義 (あるいは定理、証明法)に至ったか」を一つずつ述べる、 帰納的または発見法的記述とよぶべきもので、 これこそは気持ちに満ち、物語的な魅力もあります。しかしこれを全ての段階でやるとむしろ記述が長大となって、そのわりに適用範囲が狭かったり、あるいは(少くとも表面上)厳密さが失われやすい、ように思います。 一つの形式として 演繹スタイルが定着したのも意味がある ことでしょう。
しかしあまりに形式を重くみて、もとのアイデアが隠れてしまっては仕方あり
ません。
意味があることを厳密にやってこその数学の価値です。
アイデアが生まれるには、必ずポイントがうきぼりになるような
具体例あるいは具体的問題があるもので、
それらが書いてあることが良い本のひとつの条件といえます。
「定義 定理
証明」
の演繹スタイルが常に抱える問題として、
数学の意味ある問題を考えるときは、
これと全く逆の
「問題の考察(後で問題解決に使うことになるかもしれない
さまざまな断片的議論のつみかさね)
こうなっているのではないかという予想
議論を整理するための定式化」
がフツーだ、ということがあります(帰納!)
。
良い例・良い問題はこの点を補うために重要です。
最初は例や、答えられていなかった問題のみがあって、
それらを統一的に理解するためにこそ定理が生まれるのですから!
例や問題で動機をはっきり納得しないと、
どこが難しいのか問題点がわからないまま答だけを
教えられるということに陥ってしまいがちです。
この点は最近反省されつつあり、例えば
岩波講座「現代数学への入門」全十巻
は(魔イとに著者が違い、バラツキはあるけれども) なるべく動機を述べることを方針としています。意垂詳しく説明すると、その分盛り込める内容が少なくなるともいわれますが、 これはオススメの一つです。 これを読むことに決めなくとも、とりあえず 参考として手にとってみては?