日曜社会学#スペンサー=ブラウンなんていらない?花野報告 [archive.org]

花野報告2001年11月23日へのコメント

黒木 玄 (2001年12月2日)


もくじ


これは次の報告へのコメントです:

花野>」から始まる引用は花野さんの報告からの引用であり、それ以外は別のところからの引用です。

このファイルは次のメールをもとに作成された。節のタイトルを短縮したり、タイポや日本語のおかしい部分は修正した:

Date: Sun, 2 Dec 2001 22:03:36 +0900
Posted: Sun, 2 Dec 2001 22:02:51 +0900 (JST)
From: Kuroki Gen <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: [luhmann:03196] [SB] 花野報告へのコメント
To: luhmann-lst@y7.net (luhmann ML)
Message-Id: <200112021302.WAA29125@sakaki.math.tohoku.ac.jp>

0. Spencer-Brown はトンデモ

最初に George Spencer-Brown に関して率直な意見を述べておきます。私自身は、

George Spencer-Brown を真面目に相手にした時点でその人は誤った道に入り込んでしまっている!

と考えています。 Spencer-Brown はトンデモであり、学問的にはクズに過ぎないのです。その理由は

で詳しく述べておきました。その理由のまとめ:

個人的に Spencer-Brown のような笑える面白い人を貶めること自体には何の価値もないと思いますが、以上のような意見に反発を感じたり、無視したりする“学者”の存在について議論することにはおおいに意味があると思っています。 (具体的に“学者”の名前のリストを示すこともできるのですが、ここでは止めておきます。)

このような立場から見ると、花野さんの報告は Spencer-Brown を真面目に相手にしてしまっているので、最初から誤った道に入り込んでしまっており、学問的な価値は全くないということになります。

もしも花野さんが Spencer-Brown を真面目に相手をすること自体を潰すための論稿を書き上げていれば、トンデモを正すという意味で学問的な価値が生じた可能性があります。残念ながらその逆を行なってしまったようです。

花野さんが、 Spencer-Brown だけではなく、郡司ペギオ幸夫のような人たちも含めて(以下の註を参照せよ)、おかしなことを言っている人たちを非難し始めたとしたら応援したいと思っているのですが、どうでしょうかね?

私にはどうして自分の人生をトンデモに賭けられるのか理解できません。

註:郡司ペギオ幸夫の「不定性」については以下の引用文を読んで各人が判断して欲しい:

 Nomura & Gunji (1999)の実験は、実験の前提に関する不定さという形で、わたくし性を、より積極的に導入した実験である。野村は当初、カメの落とし穴実験を行っていた。カメを坂道の下に置くと、自ら登り出す。このとき坂道の途中、左右いずれかが落とし穴になっている。例えば落とし穴を左に設定しておくと、何回かのトレーニングの後、カメは落ちないよう、右の道を登るようになった。次に野村は、落とし穴をセッション毎に、左右交互に変える実験を行った。カメが交替を学習するかというわけだ。カメは最終的に、左右いずれかの道を選んだ。ここで野村は次のように問うた。「結果的にカメは50%失敗する。これは半分だから、ターゲットを学習したとはいえない。しかしカメは50%の成功を選択したとも言えるのではないか」と。カメ自らの選択という問題に、学習した・しないを判定する観察者の判定基準・前提外部が、不可避的に参入してしまうのだ。

(郡司・野村・森山 (1999)「私を含む動物=不定性を含む動物」日本動物行動学会Newsletter No.34, pp.16-23のpp.21より。 http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Tmp/kame.html から孫引き。強調は引用者による)

私はこれを読んで爆笑してしまいました。


1. 「01:Spencer-Brownのcalculus」へのコメント

最後の段落より:

花野>また、原子算術内における各種演算の証明においては、我々が持つ直観的な推論が許容されているのに対し、原子代数内における演算の証示(≠証明)の手順は、原子代数の発端や、定められた変換規則のみに基づいて行われる約束になっている(註01)。

註01:

花野>01:原始算術においては、発端1と発端2により、その crossの複合形式−複雑表現ecは、tokenが存在する空間(マークされた状態)か、tokenが存在しない空間(マークされない状態)  のいずれかの単純表現esに一意的に還元される。一方原始代数では、同一文字で示される変数の同一変換 a=a、b=b等が認められるが、aや bの値は確定されていない(しかし「原始代数の完全性」により、算術に関する諸定理は代数内ですべて証示され得る:Spencer-Brown[1969→1994:50-2=1987:57-60]参照)。

このことに関して、私は次の事実を指摘しています:

(http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/e0007.html#e20001215092731 より)

Spencer-Brown はどこからネタを引っぱって来たかは論理学のイロハを知っている人が見ればすぐにわかると思います。まず、 primary arithmetic は数学的には二値論理そのものです。そして、二値論理の基本的な性質を取り出すことによってブール代数もしくは古典命題論理 (の syntax) を定式化することができます。実際そういうやり方で『形式の法則』において primary algebra が定義され、 primary algebra は『形式の法則』の中では古典命題論理 (の syntax) の役目を与えられています。標準的な論理学の教科書では二値論理と古典命題論理の syntax の説明の後で完全性定理を証明することになってますが、『形式の法則』の第9章のタイトルは "Completeness" であり、その定理17として完全性定理が書いてあります。『形式の法則』の内容はこういう筋道で進むわけです。

Spencer-Brown は正直に「primary arithmetic と primary algebra の話は古典命題論理に関するよく知られていることをそのまま風変わりな記号法で書き直しただけである」と言うべきだったのです。ところが序文を見ると、それとは全く逆に深淵で新しい仕事がなされたかのように書いてあります。それはもちろん嘘っぱちです。そこには Spencer-Brown の山師ぶりがもろに現われていると思う。 (実は、序文に書いてある嘘を無視して、「間違ってはいないが陳腐なことしか書いてない」と評価を下すのはおそろしく好意的な読み方なのです。ところが困ったことに序文あたりに書いてある嘘を信じている人たちがいる。)

例えば、標準的な論理学において syntax と semantics を区別することは常識であり、その区別があるから完全性定理が意味を持つことになるのですが、 Spencer-Brown によればそれを発見したのは彼自身だということになっています。 Spencer-Brown 曰く、

 もうひとつの興味を引く点は、原始代数とその算術を用いてなされる次のような明確な区別、すなわち定理の証明 the proof of theorem と、帰結の証示 the demonstration of a consequence との間の区別です。定理および帰結の概念、そして証明および証示の概念は、最近の文献では広範に混同されていて、そこでは両者の概念が交換可能なものとして用いられています。原始代数の完全性を述べる言明 (定理17) に見られるように、証明されるべきものごとは、上記の区別が適切に保持されることで、著しく鮮明になるのです (同様の混同が、公理 axiom と公準 postulate という2つの概念に関して、特に記号論理学の文献においてあからさまに見られます)。

(スペンサー・ブラウン著『形式の法則』 (大澤・宮台訳) 序文 p.xiii より)

上で述べたように、原始算術 (primary arithmetic) は二値論理そのものであり、原始代数 (primari algebra) は古典命題論理 (の syntax) の役目を果たしているので、 Spencer-Brown の意味での証明 (proof) と証示 (demonstration) の区別は通常の論理学における semantics と syntax の区別の特別な場合にほぼ対応しています。……

さらに、「同様の混同が……特に記号論理学の文献においてあからさまに見られます」と述べ、既成の分野を攻撃して自分を偉そうに見せかけるやり方にも注目! Spencer-Brown の信者は「記号論理学は Spencer-Brown に比べれば大したことないな」なんて思っているかもしれませんね。……

以上の指摘は http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/SB/ の「必読」となっているリンク先で読むことができます。

Spencer-Brown の本における「完全性定理」はよく知られている古典命題論理の完全性定理 (これは易しい定理) を風変わりな記号法と言葉で書き直しただけなのです。

Spencer-Brown が自分自身のオリジナルなアイデアだと主張している「定理の証明 the proof of theoremと、帰結の証示 the demonstration of a consequence との間の区別」は、あらゆる論理学の教科書で解説されている「semantics と syntax の区別」に対応しています。「完全性定理」はその二つを繋げる定理であり、 Spencer-Brown もその論理学用語をそのまま採用しました。

とにかく、 Spencer-Brown が述べていることをそのまま何の批判的コメントも付けずに引用し、必要な説明をサボるのはまずいです。自分を偉そうに見せようとしている山師の行為に協力してしまうことになる!


2. 「02:Luhmannによる calculusの「援用」」へのコメント

花野>要するに Luhmannの議論は、calculusの基礎としての原始算術の体系において採用され明示化されている所の、われわれの共通感覚common sense(としての直観的な推論)がもっぱら援用=吟味されている訳である(Spencer-Brown[1969→1994:xix-xx=1987:x])。

と書いてますが『形式の法則』のxix-xxを見ても全然理解できません。何を言いたいのか、さっぱりわからないのだ。


3. 「03:大澤による calculusの全面的援用」へのコメント

大澤真幸の『行為の代数学』はトンデモ本ではないのですか?
Spencer-Brown のトンデモ本をさらに拡張したような本ですよね。


4. 「04:calculusへの批判」へのコメント

私による批判について、

花野>上の批判はある種の単純化=形式化を前提とする批判である

と述べてますが、これは本当ですか?

指摘されているのは、形式化された記号計算や代数のレベルの問題 (すなわち primary arithmetic や primary arithmetic が実はすでによく知られている古典命題論理の話に過ぎないこと) だけではありません。

例えば、「定理の証明 the proof of theorem と、帰結の証示 the demonstration of a consequenceとの間の区別」が通常の論理学における「semantics と syntax の区別」に対応しており、「完全性定理」という用語は通常の論理学におけるそれと同じ意味で用いられていることなども指摘されているので、 Spencer-Brown がどこからネタを引っぱって来たかは論理学のイロハを知っている人にとって完全に明らかだと思うのですがね。

既存の概念についてオリジナルであるかのように Spencer-Brown が主張しているという事実の指摘は形式化された記号計算や代数のレベルの問題に関する指摘とは異なります。

Spencer-Brown は、様々な概念の区別 (例えば semantics と syntax の区別) や基本定理として何を選ぶか (完全性定理) などなどについて、ほぼ完全に既存の理論に沿った議論の仕方をしているのです。


5. 「05:数学的フレームの〈外部〉と calculus」へのコメント

花野> ここで、原始算術と原始代数との関係を見てみると、「数学的には」、それはそれぞれ、Bool代数の特殊例としての2値論理(2元Bool代数)と、一般的なBool代数とに比せられる。

ここまでは正しい主張である。

花野>しかし Bool代数の場合、一般的なBool代数から、その特殊例として二値論理が導出されるのに対し、calculusにおいては、原始代数から原始算術が導出されるのではなく、その逆であるという事実を見落としてはならないだろう。

しかし、これは正しくない。

見落とすもなにも、花野さんは、 Spencer-Brown は通常の論理学の教科書にいかにも書いてありそうな議論をしているだけということを見落としてしまっています。

数学においては、具体的例がどのような性質を持っているかを調べ、その性質を出発点として採用して「××代数」を定義するというようなことは日常茶飯事なのです。

Spencer-Brown がやっているのもそれと同じことです。二値論理と完全に同等な primary arithmetic の性質を調べ、それらの性質を出発点として採用することによって primary algebra を定義しています。

花野>そして更に言えば、原始代数を導出する原始算術は、無定義術語から構成されているのではない。

これは何を言いたいのでしょうか?

二値論理は具体的な 0 と 1 という数への演算によって定義されています。このことを「二値論理は無定義述語から構成されているのではない」と述べて良いのだとすれば、確かにそれと同様の意味で「原始算術は無定義述語から構成されているのではない」というのは正しいです。

具体的なデジタル回路における信号のことを 0 と 1 という記号で書くことにして、組み合わせ論理回路が行なう計算に関する理論を「二値論理」と呼ぶことにすれば、「二値論理は無定義述語から構成されているのではない」という主張はさらにもっともに聞こえるようになります。

しかし、それと同様の明確さで「原始算術」における「区別」と「指示」の概念が説明されているわけではありません。その点に関して『形式の法則』はものすごく曖昧であり、ほとんど議論らしき議論はなされてないのです。

花野>Spencer-Brown[1969→1994:xix-xxi=1987:x-xi]における宣言から明らかなように、calculusにおける公理や、そこから導出される原始算術は、従来の数学的なフレームを明らかに逸脱した場所に、その存在意義を有している。

まず、一般論として、 Spencer-Brown は山師なのでその宣言を無批判に信用してはいけません。 Spencer-Brown がどのように宣言していようと、それを引用しただけでは議論にならないのです。

せめて自分の言葉で説明しましょうね。

『形式の法則』の x-xi には数学者でなくても数学を真面目に学んだことのある人にとっては常識的な考え方が確かに説明されています。

しかし、 Spencer-Brown 自身は既存の理論や議論の仕方をいかにもオリジナルであるかのように語っているだけなのです。

花野>つまりそこでは、Bool代数におけるShefferの公準の(公準というその性格上数学的には疑う術のない)明証性を、我々の共通感覚に照らして疑問視し、calculusの公理、ひいては原始算術の発端を我々の共通感覚に馴染みよい地点から始めることを提唱しているのである。

上にも述べましたが、具体的で「何を正しいと考えるべきか」に関する直観が通用し易い題材を調べて、その性質の一部を取り出して、そこを新たな出発点にして議論を進めることは数学においては日常茶飯事です。

しかし、花野さんは数学のことをほとんど何も知らないと思うのですが、それにもかかわらず、上で引用したような「従来の数学」のような言葉を用いて安易な議論を進めることに何も疑問を持たなかったのですかね?

というわけで、以下に引用する段落には学問的価値がありません。

花野> 要するに Spencer-Brown[1969→1994=1987]は calculusの構築によって、従来の数学のフレームを越境し、そのフレームを拡大=再編成しようとしているのであり、そのフレーム再編成の試みをどう評価するか、においてcalculusに対する評価が決まる・分かれることになるのだ。つまりそのようなフレームの再編を拒否する立場から見れば、calculusは従来の数学的議論を風変わりで不確実な方法で焼き直しているに過ぎないということになり、フレームの再編を許容するような立場から見れば、calculusは従来の数学の形式を超えた説明能力を有する体系として積極的に評価されるということになる訳である。そして後者の立場を取る Luhmannと大澤にあっては、calculusの体系が我々の共通感覚に根ざした―それゆえ社会的な―地点に出発点を求めているという「数学的逸脱」こそが、社会理論へ繋がる可能性を有するものとして認知されたのではないか。Luhmann[1986=1998]における再−参入の援用法や、大澤[1992]における行為の定義は、まさにそのような認知の産物であるように見える(註09)。

誰も「再編を拒否」してないですよね?

問題にされているのは、社会学的にそういう再編にどれだけの価値があったかについてです。『形式の法則』では「区別」と「指示」について社会学的に深い議論は全くなされてません。ものすごく好意的に受け取ったとしても、二値論理的に単純化された「区別」と「指示」の概念を出発点にした陳腐な話をしているに過ぎません。

あと、既存の理論の再編であるならば、そのように正直に書くべきなのです。 Spencer-Brown は全く逆の態度を取っています。そのことを四色定理に関する件と合わせてみると、 Spencer-Brown が自分自身を偉そうに見せようとしている山師だということがはっきりわかります。そういう詐欺の疑いに一切触れないというのは議論の仕方としておかしいでしょう。

Spencer-Brown を扱う場合にはまず「山師」であるという疑いを否定するだけ十分な議論をすることから始めるべきでしょう。それができないのであれば、最初から相手をする価値がないということになります。

あと、「従来の数学のフレーム」という言葉を他にもたくさん使用してますが、花野さんは理解してない世界について語っているだけです。花野さんは、従来の数学がどれだけ柔軟な世界なのかについて完全に無知なようです。引用しなかった段落もことごとくひどいありさまでした。

花野>してみれば、calculusは、自らの(再−参入という)形式を遂行する、自己言及的な体系であると言う事ができるだろう。とすれば、自己言及的な視点を出発点とせざるを得ない社会理論にとって calculusの二値論理的構成は、必然的な存在として認識される理由がある、ということになろう。

「必然的な存在」ということになってしまった理由は何ですか?

「必然」ではなく「一つの単純化としてあり得るが、それを出発点にした理論が他の理論よりも優位であるとは言えない」と主張するのであれば、よくある謙虚な議論としてあり得るかもしれないですが。 (もちろん、 Spencer-Brown のやり方はそういう謙虚なものではないし、謙虚なものだったとしても真面目に相手をするに足るレベルに達してない。)


6. 最後に

Spencer-Brown は『形式の法則』の序文で既存の分野に欠けていること (実際には既存の分野は Spencer-Brown よりも柔軟で完壁だったりする) を指摘することによって、自分自身の理論がオリジナルで価値あるものであることを読者に信じ込ませようとしています。

花野さんは Spencer-Brown の思う壺に嵌ってしまっています。

早く目をさました方が良いと思います。

以上です。