最終更新:2001年2月4日 (作成:2000年12月19日)
Yahoo! Groups : sociocybernetics Messages
Ole Thyssen: Interview with Professor Niklas Luhmann, Oslo, April, 2, 1995 (CYBERNETICS & HUMAN KNOWING, Vol. 3 no. 2 1995) における「Why the stress on distinctions and observers?」という質問への回答:
This is partly due to the Laws of Form of Spencer Brown - the idea that you cannot observe anything withoutdrawing a distinction and that the concept of observing is very broad, including for example actions. Youcannot act on something without making a distinction: you do this and not something else, you cannot act without choosing to do so or without defining a goal and an objective, and in that connection you also have to talk about, for example, theory and not about politics. So, in the Laws of Form of Spencer Brown, it was seen as a necessity to construct or to create or to describe the identity of elements, for example of numbers or of variables in algebra. Why is there 1 and 2 and 3 and 4? This is simply presupposed in normal mathematics. In Spencer Brown's calculus you have a first injunction, "draw a distinction", which just differentiates a marked space from the unmarked space. But how to get to a first definition or indication of something? This has to do with the whole structure of this kind of calculus: only at the end and only by exploding the possibilities of mathematical operations can the observer enter the system, so that you can say that the primary distinction is the observer. This kind of move from distinction to the observer coincides with the theory of second order observation by Heinz von Foerster as well as other approaches to developing or enlarging the framework oftraditional cybernetics.
「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」 (InterCommunication No.12 1995) より:
浅田――ある意味でポストモダニズムがカント以前のヒュームに近いというのはおっしゃるとおりですね.たとえばドゥルーズは,カント的批判の徹底としてのニーチェ的批判というのを主軸にしているとはいえ,ヒュームへの傾斜においては柄谷さんの言われる傾向と合致する部分を持っている.と同時に,ポストモダニズムがカント以降のフィヒテからロマン派への流れに近いというのも事実でしょう.たとえば,大澤さんを前にして言うのもなんですが,システムの自己組織化あるいはオートポイエーシスの理論というのはその典型で,ノルベルト・ボルツなんかはフィヒテとスペンサー=ブラウンを対応させるわけだし,日本でも村上淳一なんかがロマン派の現代的展開として自己組織システム論を捉えている,それはかなり正しいと思うんです.まず情報的原理を立てておいて,他者をも内側に巻き込むような形での自己組織化が論じられる.柄谷さんの文脈で言えば,すべてをゲーデル的な自己言及のループの中から見て,ヴィトゲンシュタイン的な他者を内部化してしまうわけです.ちなみに,デリダのディコンストラクションを前者に還元するのは誤りだと思いますけれど,流行としてのディコンストラクショニズムの方はほとんどそこに還元できるでしょう.いずれにせよ,後期資本主義の消費社会の内部に囲い込まれた中でのヒューム的多元論にせよフィヒテ的観念論にせよ,90年代に入るともたなくなるわけですね.
共同討議「トランスクリティークと(しての)脱構築」(東浩紀+大澤真幸+浅田彰+柄谷行人) (『批評空間』II-18) より:
浅田 実際、新左翼くずれのカルチュラル・スタディーズのほうは、否定神学よりも、むしろある種の肯定性の思想のほうに親和性が高いと思うんです。ネグり的に単純化されたスピノザみたいなもの、つまり「今ここわれわれ」の力能を無媒介的に肯定する自律(アウトノミア)の思想といったものですね。そういう自律的なマイノリティが横につながっていけばいいのだ、と。確かに、ジジェクのように亀裂をもった者同士がまさしくその亀裂によってつながるとか、ナンシーのように分割(partage)されていること自体が共有(partage)されるとか、そういう共同体の否定神学のようなものもあるけれど、今やその程度の洗練さえ珍しくて、むしろ小さな肯定性の思想が細かい実証主義的研究や弱いアクティヴィズムと結びついている例のほうが多いんじゃないか。
その点で、むしろ大澤さんの社会学のほうが、もっとも洗練された否定神学と結びついていると言えば言えると思うんです。諸身体の対のシステムが自分を根拠づけようとするとき、不在の超越論的シニファンとしての第三者が要請される。それはゼロ記号と言ってもいいし、ラカンやスペンサー=ブラウンのようにもっと洗練して虚数iと言ってもいい。そういうものを虚の焦点とするシステムという、非常に大きな枠組みをつくってしまえば、何でも説明できる、と。
大澤 もちろん、ぼくらの議論が否定神学と同じだと認めるわけにはいかない(笑)。ぼくは、スペンサー=ブラウンについて書いたときに、おまえの論文は前半と後半が分裂している言われたんです。
確かに、スペンサー=ブラウンにかなり密着して書いている前半部分は、否定神学的にやっている、と言ってもいいと思う。否定神学ということであれば、ここでもう終わってるんです。それに対して、身体ということを積極的に導入している後半の議論には、否定神学とはとは異なるモチーフがある。それは、端的に言えば、コミュニケーションの問題です。意識的なコミュニケーション以前の他者との不可避的な共存へと人を巻き込むようなコミュニケーションの問題から、議論を上向かせたかったわけです。前半の議論と後半の議論の関係は、ネガとポジというか、石膏の型と石膏そのものの関係のようなものです。石膏の型を構築しておかなくては、石膏はつくれない。
あるいは、あんまりうまい比喩ではないかもしれないけれども、東さんの論文の中の話題に託していえば、こんなふうに言うこともできるかもしれない。つまり、固有名というのは、対象を固定し、固定する固定指示子の一種ですね。しかし、固有名が固定指示子であって、確定記述ではないということは、東さんが言っているように、固有名というのは、他でもありえたということを、つまり偶有性や差異を伝達しているのだ、と見ることもできます。つまり、固有名は、同一性を指示しているまさにそのことによって、差異性を指示しているということができる。
これと類比的な両面性を、論理として確立したかったわけです。一方では、否定神学論に見える(同一性の局面)が、まさにそのことにおいて、他方で、否定神学からの脱出になっているような議論(差異性の局面)にすることはできないか。そういう具合に、社会学を組み立てたいわけです。
あくまでも自己言及・自己創出の閉じた環のなかにとどまり、その悪循環を良き循環としてとらえなおすという方法を打ち出したのが、マトゥラーナでありバレーラである。とりわけバレーラは、スペンサー=ブラウンの理論を発展させ、あるいはローヴェルやスコットの論理を展開しながら、自己言及のパラドクスと背中合わせになった自己創出の可能性を厳密に示してみせた。だが、忘れてはならないのは、こうした論理的作業の背後に、生命の世界に対するしなやかな感性、生物を制御対象ではなく自律的主体としてみる柔軟な眼差しがあるということだ。それを自由自在に発揮して書かれたまったく新しい生物学原理が、ほかならぬ本書なのである。
「オートポイエーシス/内部からの視点/来歴」より:
やっとわかってきたけど、郡司ペギオ―幸夫氏の内部観測の話というのも、もとはオートポイエーシスでVarelaが使っていたスペンサー・ブラウンの算法を使っているあたりから始まっているようです。あれマスターする意義あるんでしょうか、やっぱり。加筆 2000/1/11
(10)Gunji, Y. & Nakamura, T. (1991). Time reverse automata patterns generated by Spencer-Brown's modulator: invertibility based on autopoiesis, Biosystems, 25, 151-177.