記事を書く、時刻順、目次、スレッド、検索、過去ログ、最近の記事
各記事の Id ヘッダー行の # から始まる文字列をクリックすると、その記事自身にジャンプします。その記事自身の URL を知りたい場合に利用して下さい。さらに、括弧の中の reply をクリックするとその記事に返事を書くことができ、 thread をクリックするとその記事を中心としたスレッド形式の目次を見ることができます。
なんかこの掲示板を読んでいるといろいろ触されるのですが.落ち着いて書いて行きたいと思います.
ごめんなさい。ここの通常のエレガントな流れをかきまぜる異分子ではあるかもしれないと自分のことを少し思います(苦笑)。でもまぁ私は楽しんでいます。なのでどーぞおてやわらかに(笑)。えーと、ちなみにこうさかです。おーさかのこーさかとお見知りおきを。彼は現代文明が進む中で,抵抗することに生き甲斐を憶えているのであって,なおかつそれでモノを食っている.
うーむ(笑)。いや、勿論なんか知らないとこでいろいろ仕事もおありなんだろうけど、あれを中心にして食っていけるというとこだけ切り取ってみたら至極うらやましいような(笑)。本題です.「経済原則が支配する架空の世界」というのは,「経済的合理性が,あらゆる判断の基準になる世界」と理解して良いのでしょうか?
また,「経済的」という概念は,生き物を対象にしても有効な気がするのですが,どうなんでしょう.
私は有効だと思います。なんか、分子生物学っていうのは生物はみんな「どれだけ多くのDNAを増やせるか」っていう命題の元に生きているみたいな話だったと思うのですが、だとすればすごく経済効率的ではありますね。ところがそれとは違った原則で進んでいるのが文化だということなので、やっぱりひとの暮らしとかっていうものは、経済効率だけでは動いていなくて正解なのかもしれません(笑)。ブラジルのハキリアリは、どの観点から効率的じゃないとおっしゃっているかが判らないのでとんちんかんな答えかもしれませんが、あの葉っぱの形状は実はありさん一個体の最大積載量であり、また最も運ぶときにもバランスがよく、なおかつ切り取る際の手間と速度も最大の、すばらしく効率のよいカタチなのかもしれません。なんかあのまあるい葉っぱを運んでいるシーンしか頭に浮かんでいないものであれなんですけど、きっと他の部分にもぱっと見では窺い知れないようなすごい効率のよさがあるんじゃないかなぁ。ここらへんで、すでに議論はわけわかんないです。コストがかかんないのに、なぜいやがる?
私はそれはすらっと入ってきたことなので、森岡さんの論点ではなく私の理解なのですが、おそらくは前提条件が違っているのだと思います。「コストがかかんないのになぜいやがるかが判らない」ということが「人間はコストのかかることはいやがるが、コストのかからないものはいやがらないだろう」という意味であるならばですが、もしそうなら、もうすでに私の言うところの「経済的合理性が唯一の判断基準になる世界」が到来していることになります。いや、だからといって別に私は現在の世界は徹頭徹尾経済的合理性なんかとは無関係に動いているのだとかっては言っているのではなく、この話になるに当たって私の言い出したことは価値観が次第に経済的合理性一色になっていきそうなことに対する危惧なので(だからどうするかっていうのはまた別の話です)、つまり私に言わせれば、まだそうした世界は到来していない。もしそれが到来しきってはいないのならば、コストとは無関係になにかをいやがったりやりたがったりするひとはまだいることになります。もっともそれも「実は無意識のうちにコストを計算しているのだー」とかって言われちゃうとあれなんですが(笑)。見返りがなきゃ、痛いのはいやです。
まぁ確かに(笑)。誰だってそうでしょ。我慢して頑張ったりするのはその先にいいことがあるかもしれないという期待があるからです。あ、頑張っているハイみたい脳内物質が出てたり痛いのが好きな人とかは知らないけど(笑)。でもまぁ、経済的合理性の世界では、頑張っても報われないときにどうしたらいいか、自分の中でそれをどう受け入れていくか、ということを学んでゆくのは大変そうです。宗教だと「それは試練です」なんだろうけど(笑)。「このような技術は進歩するものなのだ」というのは,潔いかもしれない.でも「進歩するにまかせて良い」と思考停止するのが良いことにはならない.進歩することは認めた上で,ではどう折り合いをつけていくか,という方向に議論がいかないと建設的にならない.
そういうことができればいいなぁ、と思います。「Science Fiction」ならぬ「Economic Fiction」の構想をちっと考えてみました。まず一番最初に思いついたのは「完全合理性」の元で動く「ホモ・エコノミクス」だよなあ、ということで。
最初は何らかの突然変異で数人だけなんだけど「ホモ・エコノミクス」が生まれちゃう。自分たちが「ホモ・エコノミクス」だと気づかないうちは「神童だ」とか「精神異常だ」とかって賞賛されたり、迫害されたりする。ところがある時そのうちの一人が「自分たちは『ホモ・エコノミクス』なんだ!」って気づく。さてそれからというもの、彼らは経済や政治なんかの動向をぴたりとあてて、徐々に社会を制圧していく。そして、権力を手にした「ホモ・エコノミクス」は何らかの遺伝子操作かなんかで徐々に徐々にその人口が増やしていって、一般人はどんどん淘汰されていく。だって、「ホモ・エコノミクス」って無限の将来までを見通して行動するから、一般人から見れば神に近い存在に見えてしまうのだ。なんてのはどうですかね?とりあえず、「ホモ・エコノミクス」の完全合理性をある程度制限しておかないと、滅亡まで見通しちゃうことになるから(タイムマシンと同じジレンマだな)、このへんに気をつかう必要はあるけど。「ああ人類もこれで滅びるのか・・・(ほんとは滅びちゃあいないんだけど(笑))」って嘆いていて、ああこれで終わりかなあとなる。しかし、ある時点で「ホモ・エコノミクス」の数が閾値を超えると、今度はカオスの影響のほうがはるかに強くなっちゃって、経済全体の動きの予測がつかなくなっちゃう(笑)。で「ホモ・エコノミクス」は逆にどんどん非合理的な選択をやるようになっちゃって、最終的には「ホモ・エコノミクス」は絶滅するのだ。一般人のほうはもともとたいして合理的になんて行動してなかったから生き延びる。はっぴーえんど。
あるとき、ブラジルのジャングルで、非常に幸せな部族が発見 されて、で、かれらは何もないけれど非常に高揚した満足感に浸って生きているので す。子供が死んでも、病気になっても、飢えても、みんな文句なしにオッケーで幸せ。 人類学者がそこに入り浸っていても、謎がまるっきりわからないのだけれど実はその 部族があがめている木があった。苦労の末、ある新月の晩に部族の秘密儀式をかいま 見た人類学者は、かれらがある木の実を食べているのを見てしまったのだった。
「これはいったい?」
持ち帰り、ありとあらゆる分析をかけても、その実の正体はわからない。栄養価も皆無。 カロリーもなければ麻薬成分も幻覚成分もなし。しかし、ある日、アマゾンのジャングルに 迷い込んだ経済学者(なにしてたんだ)がそこにやってくる。かれは見た瞬間にその正体 を見て取る。
「効用だ! これは効用だ! しかもこんなにたくさん! ただの伝説か仮想存在だと 思っていたのに、あの言い伝えは事実だったのか!」」
そう、するどい読者諸君ならおわかりだろう。それは実は、あの経済学の伝説の物質、効用の木だったのだ! この木の実を食べると、いやでも効用が高まってしまう。煮てよし焼いて よし干物にするもよし。でも生がサイコー! だからこの部族の人たちは、なにがどう なろうとも生効用を一本キメるとそれで効用が高まってしまい万事快調なのである!
で、もちろんその木を狙う多国籍企業の一味がやってくるんだけれど、かれらも生効用 をくらってしまうと、効用が絶対的に高くなっちゃうので、それ以上何もする必要がなく なり戦意を喪失。そして経済学者と環境学者の努力で、挿し木による栽培が成功。 こうしてたちまちのうちに、何の理由もなくものすごく効用の高い地域が拡大していった のであった!
「こ、これでは世界経済崩壊のききぃ! 文明が! 覇権が! テクノロジィがぁ!」 事態を重く見たアメリカ大統領、ついにアマゾンの核攻撃を決意。デンデンデーン! それを阻止しようとする正義の(クラッキングもする)ハッカーと環境学者(もちろん女。お約束)。 しかしかれらの努力もむなしく、炸裂するプロトン爆弾。世界のどよめき。顔をふせ、苦悩する アメリカ大統領。し、しかし!
「大統領、グラウンド・ゼロの様子が入ってきました!」
「よし、映せ!」しかしホワイトハウス戦略司令室のスクリーンに映ったものは……
「グギャイーン!」
「あ、あれは……」
(部族の古老が恐怖に顔をひきつらせつつ)「んぱにぇ、くにょじ『ゆーとろん』もばいぇっ!」
(人類学者)「え、伝説の森の神、ゆーとろん……?」
そう、それは巨大化した効用怪獣ユートロンだったのだぁっっ!(つづく)
なんかぜんぜんEFでもなんでもないな……
ところで古川さん、ぼくにもその問題についてアイデアとかぜんぜんないです。でも、いや、うーん。いまは なんとも言えません。考えてはいますけど。なるべく社会的にコストを下げてあげて、あとは親の判断に 任せる、という常識的な答えしか思いつかないです。それ以上の決定的な答えがあるとも思わないです。
ただこれでミクロ経済学の基礎部分がすべてカバーされているわけではないんですが、非常にいい本だと思います。来年度の東大文IIの学生はミクロ経済学をこれで履修するそうで、良哉、良哉。
最近、本屋で、
梶井厚志・松井彰彦共著『ミクロ経済学:戦略的アプローチ』日本評論社
という本を見付けました。具体的でかつ身近な感じのする問題をどのように抽象化して数学的に定式化するかを楽しく気楽に読める良い本 (すなわち私が友人にすすめたくなる本) だと思いました。数学的部分が易しく書かれていて、微積分などの知識も必要ありません。そして、読者が感情移入できるような身近な感じのするお話を挿入するように工夫されているので、これを読んで楽しめる人は多いと思います。この本の評判はどんなもんでしょうか?
引っ越しの荷作り中のくろきです。
せっかくなので、この機会に、ふるかわさんかわたなべさん (もしくは別の誰か) には出生前診断に関する基礎知識へのポインタの紹介を希望します。
例えば、「トリプルマーカー検査とは何か」「その結果ハイリスクと言われたがそれはどの程度のリスクなのか」「羊水検査を受けるリスクはどの程度か」および「現実に妊婦はどれだけの理解した上で出生前診断を受けているか、そして結果的にどのような状況に陥っているか」「出生前診断で誰がどのようにどれだけ得すると考えられるか、およびそれに関してどのような言説があるか」などなどについてのまとめがあると嬉しいです。
ふるかわさんが何を言いたいかを理解するためにはそれらの知識が絶対に必要だと思います。
森岡氏の言うことはともかくとして,実際のところ,妊婦の血液を利用した出生前診断にせよ, 着床前診断にせよ,ある意味でうしろめたさや痛みが減る方向へ進んでいる部分がある. そのため,本来なら命という重大な問題を孕んでいるにも関わらず,気軽に検査を受け, 気軽に結論を出す……という方向に進む危険性があります(うしろめたさは親だけでなく 産婦人科医にもあって,それがむしろ動機づけになっている部分があるのですが).
こうした問題を考える時,「命はなによりも重い」などといった単純な価値基準だけでは乗り切れないと思うし (個人としてそのような価値基準を持つ人は尊敬できますが,それを全員に徹底させられるか どうかは別の問題),さりとて「産む産まないは親の自由」の名の下に胎児選別を無制限に行うのが 良いとも思われません.
「このような技術は進歩するものなのだ」というのは,潔いかもしれない. でも「進歩するにまかせて良い」と思考停止するのが良いことにはならない. 進歩することは認めた上で,ではどう折り合いをつけていくか, という方向に議論がいかないと建設的にならない. また,「人と言うのは見返りがないと嫌なことはしない」というのは,事実かもしれない. でも「みかえりがないから障害児なんか産まなくてもよい」という結論に直結するのはまずい.
実際のところ,出生前診断にしても中絶の問題にしても,深刻な状況を持っている人は 必ずいて,それこそ理由はさまざまで,結局はその人の熟考ゆえの結論がベストとしか言えないのではないかと 思えることがしばしばです.だからこうした技術の進歩そのものは, 悪いことではないのかもしれない.でもその一方で,熟考もへったくれもないような形で 胎児の選別がされようとしている.このことも無視はできません.
山形さんが森岡氏を叩くことは(申し訳ないけれど)私自身には関心のないことなのですが, ではこうした問題に直面した時,どう考えていくのが建設的なのか,良い方向なのか というのは現実の問題としてあります.もしこのあたりについて,意見があったら 聞かせてほしく思います.
山形さんへ,ナイスなフォローをありがとう.また笑わせていただきました.実は森岡氏の件ははじめ,高坂さんのおっしゃる「人文系」に応じて,冗談半分で書いたのです.もちろん知ってる方の感想が聞きたいという公平(?)な好奇心もあったのですが.
例の質問とそれに対する森岡氏の回答で,結局自分がキモチ良く生きるためにごちゃごちゃ言ってるのだと分かってしまったので,実は「なんだ,そんなものか」と思った.というオチはかなり重要なのですが.なにせ詳細な状況を憶えていないもので,伝えきれなくて残念.なおかつ,その質問をした時には少なからず挑戦的な気分だったのですが,彼はまったくどこふく風といった様子でした.
結局この無痛文明論と称するものって、科学とか発展とかそういうのをすべて止めましょうというに等しいおバカな議論にすぎなくて
いや,それは彼の主張どおりにみんなで行動するならそうなりますが,実際に彼の話しを聞いて,そのあとでゼミらしきことをやって,その場で最後に例の質問をした様子からは,そうしようなどとは彼はまったく考えていないようでした.この現代文明のなかで,それに抵抗することで彼はアイデンティティを保っていのではないか,などと思ってしまいます.
またその後,彼の著書をたまたま本屋さんで見かけた時に立ち読みしてみると,MDの規格についてイキナリ嘘をついているのを発見(一般消費者が情報を劣化させることなく何度でもデジタルでコピーできると書いていた)してしまって,それ以来彼の文章に目を通すのが嫌になってしまいました.
それはともかく,自覚しているかどうかは別にして,彼は現代文明が進む中で,抵抗することに生き甲斐を憶えているのであって,なおかつそれでモノを食っている.
このことを強烈に見てしまった20になったばかりのボクは,しばらく,人が働いてモノを食ってくってこういうことなの?なのに働かないと食ってけないの?と,かなり絶望的な気分になってしまいました.これは一年半たった今も尾をひいております.
あ,森山和道さんの仕事(量もスピードも質も)はスゴイですね.
岐阜県っていえば、 益田郡のICカード実験 だなぁ。 かしわぎさんとNMDA国分理事と 斎藤貴男さんと小谷洋之さんの真剣勝負な座談会記事とか雑誌に載ったら 絶対買っちゃうなぁ:-)どっかで企画しないかなぁ(とか書いておいてみる)。
で、ディズニーランドの話もつまりは、人はディズニーランドで高いところから落っこちるのを 疑似体験するんじゃなくて、本当に高いところから落ちて痛い目に遭って死ねってことです わね。それこそが生の悦び、と言いたいならそれでもいいけど、そんなことを人に勧めないで ほしいわね。あぶないから。
そうか、無痛文明論って、つまり「ファイトクラブ」なんだ。
無痛文明論は、だらしない優しさが最悪のファシズムになった見事な例ですので、そのうち叩きます。 Webで読んだ範囲で手短にいうと、この議論は、おなかの子供が障害を持つことがわかって中絶する 親の議論から始まります。森岡は、その親が後ろめたさと罪悪感を感じるだろうと論じます(まあそうでしょう)。
んでもって、たとえ福祉が完備して、その障害児の養育、あるいはその子の成長になんら自分の コストがかからなくても、親は障害児を中絶したがるだろう、それは、親が、障害児の親になる のをいやがるからで、そしてそれをいやがっている自分について、その親はやはり後ろめたさを 感じるだろう、と森岡くんは言います。
(ここらへんで、すでに議論はわけわかんないです。コストがかかんないのに、なぜいやがる? 本当にこれ、みんなに聞いて確かめたの? いーえ。そんなことはしておりません。ただの 森岡くんの憶測)
で、かれはそれが悪いことだと言うわけです。うしろめたさを感じる親が。障害児の親になりたく ないという親の心が。そしてかれは、それは親が苦労したくないと思って楽な方(痛みの ないほう)を目指すせいで起きるのである、ぼくたちの文明が痛みのない楽な生活を目指すように なってるから親がそういうことを感じる。よって、そういう無痛状態を目指す文明はよろしくない。
その先はなんか愛がどうしたとか、ふわふわしたお説教が続きます。ここらへんは本当にベチャベチャ の感傷じみたレトリックだけで、中身ないっす。人を愛するのは苦しいけれど、その苦しみから逃げては 人は愛せない、つまり愛のためには苦痛を引き受けなくてはならないので、愛は無痛文明に対する 批判である、のだそうな。とかなんとか。
森岡の無痛文明論って、こんな代物です。
でも人に苦労したくないと思うのをやめさせるわけにはいかないんです。見返りがなきゃ、痛いのはいや です。それを否定するのは勝手だけれど、それ否定したら人間なりたちませんぜ。森岡自身、そんな ことができてるとは絶対に思えない。
で、冒頭で障害児をさんざんダシに使っておいて、森岡は後半の愛だのなんだのの話になると、いっさい 障害児の話はお留守にしちゃうんだけれど、でもこの無痛文明批判ってのが具体的にどういう使われ 方をするかというと、障害児を中絶する親に対しておめーら無痛文明に毒されてる、愛のないやつらだ、 苦労をいやがるとはなんたることか、といじめる方向に働くだけですわな。そんな変な圧力をかけるのは、 十分に悩んでいる親たちにさらに追い打ちをかけるだけしょう。
さらに、障害児に関する追加コストがまったくなくても事態は変わらない、という森岡の主張は、だから そういうコストを低下させる努力なんかするだけ無駄、という議論に直結するだけなのだ。
この人はクローンとか遺伝子操作とかそういう方面できいたふうな口をきく人だけれど、結局この 無痛文明論と称するものって、科学とか発展とかそういうのをすべて止めましょうというに等しい おバカな議論にすぎなくて、考え深そうなことを言いつつ実はこの人何も考えてないのが、この無痛文明 論とやらを読んでぼくはとってもよくわかったのでした。森山和道はよく、この種の進歩について「別の道 があるようなことがよく言われるけれど、実は別の道なんかなくて、こういう道を人は歩むしかないんじゃないか」 と言っていて、この意見の深さと潔さに比べて、森岡の無痛文明論なんか、ただの思考停止で、死ぬまで 勝手にやってろ、という程度の代物だと思う。
かしわぎさん、「基本的人権」を前提にしなくても、 「お金持ちが自分のプライバシーを金で確保できる」というのを、 「裏から賄賂をおくってillegal にことを運ぶ」という意味でなくて システムとして作り込んでおく、という意味で話をするのであれば、やはり
デフォルトはプライバシーはある程度守られている状態を想定しないといけないんじゃないのか。 ...そこから無制限に転売されていくのは(個人の意志によって)阻止できる仕掛けが 必要なんじゃないか
という感じなのですが。
つまり、デフォルトというのは単にシステム中のインスタンスの初期値に過ぎないのであって、 実際にはほとんどのひとが生活上のサービスを安価に受けるために 「プライバシー」を全面的に売り渡してしまっている事態も当然あるということです。 「何にもなし」だとすると、「お金持ち」でも自分のプライバシーを買えないような気がします。
ひょっとしたらどれくらいの「お金持ち」を想定しているかが違うのかもしれないですが、 あんまり希少なお金持ち(経済誌のランキングに載っちゃうようなクラス?)しか想定していないと、 そもそもそのクラスのお金持ちって希少=有名 であるがゆえにプライバシーがかなり制限されちゃう 現実がある気がするので、結局誰も自分のプライバシーを買えなくなる気がするので、 そこそこの小金持ち程度でも買いたきゃ買えるというくらいを私は考えてます。
あと、行政が信頼できるかどうかについて。 彼らにとって「インサイダー」はけっこう広い範囲で、結局集めた個人情報の制御なんて 効かないんじゃないのかなぁ。 「オウム系ソフト会社があちこちで受注」なんて「事件」のあとの各社対応で、 「警察から名簿もらってチェックします」なんて話も談話として出てたりしてるのをみると、 「危機管理」としてオウムに限らず何か事業というと関係者の思想信条チェックなんてのが 恒常化する可能性は十分にあるし、警察経由で出たそういう情報はどんどん洩れていくだろうな、 という気もします。 で、多分かしわぎさんの書いた絵のなかでも、「言論の自由」が基本的人権から外れていく、 という話のなかにはそういうストーリーがでてくるかもしれないな、とも思ったり。
なんかこの掲示板を読んでいるといろいろ触発されるのですが.落ち着いて書いて行きたいと思います.(高坂さんは「たかさか」さんと読むのではないのですか?)
高坂さんいわく:
オンラインでは難しそうです。私自身がまだ慣れていないからかもしれませんが、オフラインでのTPOみたいなものってオンラインではあっさり覆されると思うんですね。
とのことですが,ボクが「現実世界においては,難無く状況に応じてふるまいを変化させることができるけれども,それをオンライン上でどうやれば実現できるか?という点で興味深い」と書いたのは,それはジュディス・ドナースらが研究していることが,それを技術的に実現しようという方向だからです.実際どの程度実現されるのか分かりませんが,人間がオンラインのメディアとしての性質に馴染もうとする一方で,馴染みやすいインターフェイスを開発しようとしている連中もいるということの紹介でした.
あと,「「無痛文明論」なるものを転回してらっしゃる」というところで,誤変換をやらかしました.「展開」ですね.「無痛文明論」というのを非常に大雑把に書きます.現代文明は,基本的には危険を回避することを目指すが,安全の内での危険性は(エンターテイメント的な形態で)仕組まれている,しかし根本的には安全の枠を保つことが目的とされて,それを脅かす危険性を予防的に排除するという狡猾な仕組みになっている.というものだそうです.無痛文明的なものの典型的な具体例としてディズニーランドを挙げてました.そして彼はそれを批判して,そこでは生きているという喜びが失われて,非常に虚しい,そして逃れられない仕組みになっているので,とても窮屈な世の中になる,と仰ってました.
稲葉さんの掲示板にあった,山形さんの民主主義論批判に「さて民主主義ってそんなに寛容だろうか」という一言がありましたが,この無痛文明論と現代の民主主義を同一視できるかどうかはともかく,共通するところのある指摘だと感じました.(とても感覚的な書き方しかできなくてゴメンなさい.あたまの動きがトロイもので,全然まとまってないのです.)
なお,前回書きそこねておりましたが,「(無痛文明を批判することについて)それは,何が正しいか,あるいは何が良いか,ということではなくて,自分がどう生きたいか,という問題なのですか?」という旨の質問にたいして,森岡氏は「(基本的には)そうだね」という答えを返しました.「なんだ,そんなものか」と思った.
それはそうと,セックスは消滅するか?だとか,自殺はもっと一般的になるし,その幇助も立派なビジネスとして成立するようになるだろう,とかいうような山形浩生さんの考察にリアリティを感じるのはどうしてだろう?ボク自身が自殺を選ぶ者だからか.
本題です.「経済原則が支配する架空の世界」というのは,「経済的合理性が,あらゆる判断の基準になる世界」と理解して良いのでしょうか?
ところで経済学に関してはいつも不思議さを感じているのですが,いわゆる経済的合理性ってどうやって測れば良いのでしょう?素朴な意味でのお金だけではないだろうし.経済学ではなんでもかんでもお金にして計算するのですか?(申し訳ありません.ド素人かつ若造の素朴な疑問なのです.)俗に「プラグマティック」という形容詞がしばしば使われますが,「プラグマティックな人」はなにをもって行動の指針にしているひとのことなのだろうか?それは場合によって,「時間」であったり「労力」であったり「お金」であったりするのだろうけれども,その中でどれを優先するかはどうやって決めるのだろう?
また,「経済的」という概念は,生き物を対象にしても有効な気がするのですが,どうなんでしょう.エネルギーなんかも考慮に入れないと.自然は驚くべき光景をみせてくれることもあるのだろうけれど,きっと「なんでこいつらはこんな面倒なことをやっているのだ?」と思われるようなこともたくさんあるのだろう,ブラジルのハキリアリが葉を切って手に入れる作業がとても効率的とは思えないように.
それでも経済性という観点から生物を観察するのはおもしろそうだと思いました.(エドワード・ウィルソンの『社会生物学』読みたい,でも高い)
これじゃあ、「水で割った山形浩生」ではないですか!いや、さっきまでまさに山形さんと飲んでたもので(笑)。
かしわぎさん、なんか、どこもかしこも予想通りの解答すぎるですよ。もっと異常な反論を期待しておりましたのに。うい。もうちょっとお時間をいただければ。いや、実はプライバシーあたりに関しては、それなりに考えてることがあるんですがね。
刮目して待て!(いや、ほんとに刮目されると困るんですがね(涙))
>かしわぎさん
ええと、僕も世襲制は認めてません(僕は一時期相続税を100%にしろと思っていたくらい)。僕の言う知的階級差別は山形さんのコメントに集約されるかと。ま、資源の有効利用という点でも世襲制は望ましくありませんし、逆に能力的な差を認めずに意思決定のテーブルにつかせるというのも、資源の有効利用からは外れるかなと思っているということです。
親と同じ階層を子供がそのまま受け継ぐ規則はなくとも、子供の育つ環境が決定的な要因になり、実質世襲制に近付かないかという不安です。現在でも親の職業、知的レベルや収入などは大きな要因でしょうが、地方に共同体が散らばって、各共同体がそれぞれ特色を出すとなると、さらに格差が大きくなるのではないかと。企業城下町みたいなところだと、優秀な人材の青田狩りのために、つぶしのきかない教育をやりだしかねないという危惧もあります。怪し気な宗教団体のコロニーだったらなおさら。
いっそ子供が成長してからより自由に進路を選べるように、義務教育年代専用のドームでも建設したらどうかと思います。物理的な環境も、無菌状態ではなくていいけど、地震だのゴミ処理場だの原発だのからは比較的安全な場所に。――家族神話が生きているかぎり実現はとても難しいだろうし、誰がその学校を仕切るんだという大きな問題がでてくるでしょうけど。
# ごみ処理や原発を出したのは、近所にその手の施設が建設されるという話が持ち上がったりしたら、能力的に不足だろうが何だろうが意地でも議論のテーブルにつこうとするぞ、という感想が尾を引いています。^^;
個人名が特定されなきゃいいや、という意味でのプライバシーの侵害はおきにくくなるかも知れませんが、それ以上に現在受けていられる「平等」なサービス(ガンになる確率が人より高いけど、同じ掛け金の保険に加入できるとか、酒は飲むけどやっぱり時速200kmで走る車は買えるといったサービス)は受けられなくなりますよ、という意味です。
後者については、自分で運転しないせいもあり、100 年先の未来になっても公道を人間自身が運転する車が走っていたら、そっちのほうがイヤかなぁと感じるので……。乱暴な運転をする誰ともわからないヤツの車にはねられて死ぬかもしれないという現状は好きではないし、そもそもこの現状って別に自発的に選んだおぼえはあまりないし。
前者については、ふと思ったのですが、プライバシーの問題を超えて、「あなたは DNA のここを変更しないと、こちらの保険には入れませんよ」の方向にいったりしないでしょうか? まあ、でも、自分で遺伝子を設計した覚えも……。
これは救いがたく抜けているからなのか、何か決定的な要因を見落としているのかと、自分でも不安になってきてはいます。「悪魔の囁き」を悪魔の囁きとすら思わないで、契約してしまいそうです。# 移行期にはシステムの未熟による不安定さに警戒する気持ちが歯止めになるだろうけど、それが落ち着いたら何が障害となるか……。
その、例ばかりつつくのも問題かもしれないのですが (_ _);、掃除はともかく介護のほうについては、人間が蓄積する「現場の経験」とか「ノウハウ」に依拠するのではなく、システムとロボットなどの機械に多くが置き換わってほしいし、高齢化社会に向けてそういう方向にいくのではないかと、願望と予測がごっちゃまぜになっております。
一人 (または複数人) を長時間拘束できるだけの経済力を皆がもてるようになると思えないし、家族やボランティアに頼ったり、政府の福祉をあてにするのは、ちょっと世の中の趨勢が変わったら (福祉削減してその分を他所にまわそうとか) どうなるかわからない危うさがつきまといます。身体の不自由な人向けの介護犬のような動物を使えば人件費削減になるとしても、訓練終了までに相当コストがかかっているはずで、盲導犬なども待っている希望者の数に比べて供給が追いついていないと聞いてます。その点、機械だったら複製がきくし、機械の権利が云々という団体も当分でてこないだろうから酷使しても平気だし、なので、すぐには無理でも 50 年後くらいには何とかなって欲しいです。
しかし、これが実現するようだったら、元気だけどナマケモノの人間の部屋の掃除など楽勝でロボットにやらせることができるような気も。出来のよい人間にはかなわなくとも、もとから素質のない人間よりはマシなことができればよいかと。
何か話を混ぜこぜにしてすみませんが、こういう生存と最低限の快適さを保証するために機械化に力を注いで、かつ、それが一定の成果をあげられたとして、機械に置き換え不能な「地道なサービス」とはどのようなものになるのか、それとも一定の成果を期待する前提自体が間違っているのか、どうなのでしょう?
「炭坑のカナリヤほど」という表現はなんかステキですね.いつかどこかで使わせていただきます(笑).
どーぞどーぞ(笑)。なんかねぇ、そういうの、好きなんです。でも炭坑のカナリヤだったらさえずればちゃんとみんなが動いてくれるー(笑)。場面に応じて適切に個人を表現することは,確かに本質的な問題の解消(より良い「そりゅーしょん」っていうのかな?)になるのではないかと思います.現実世界においては,難無く状況に応じてふるまいを変化させることができるけれども,それをオンライン上でどうやれば実現できるか?という点で興味深いと思います.
オンラインでは難しそうです。私自身がまだ慣れていないからかもしれませんが、オフラインでのTPOみたいなものってオンラインではあっさり覆されると思うんですね。「ここは個人のサイトで内輪でお喋りしているんだー」と思っていてもそれは「オンラインにある限りは個人サイトといえども誰からでも閲覧可能な公共の場であり云々」みたいなことを言い出すひとはいそうですし。その辺のバランスもだんだんと解決されていくとは思いますが、その時の基準となるのは個人サイトの場合はやっぱりサイトのオーナーのスタンスなんだろうか、とか。「みっつめは、ガンバレ人文学です(笑)。」
というのは,「無痛文明論」なるものを転回してらっしゃる森岡正博さんのような方向でしょうか?
高阪さんは、マニュアル化のことを「標準化」と呼んでいるんでしょ。
というより「標準化」ってコトバが頭の中でぱっと「すたんだーだいず」って置き換わってしまって、そしたら「標準化の進行→知識の陳腐化」がますます判らなくなってしまったのです(笑)。もしも「じぇねららいず」みたいな感じだったらなんか判るかな?資本主義万歳のアングロ・サクソン的世界を想定しているわけではなく、経済原則が支配する架空の世界を想定していると考えていただければ幸甚。
うーむ、そういうのをちゃんと分けて考えるのって難しいですね。なるほど。でもやっぱり「経済原則が世界に通用する」っていうの、事実としてそうなんだろうしその方向に進んでいくのでしょうが、カナリヤとしてはムダにさえずりたいです(笑)。歴史に「もし」は禁物ですが、イギリスが産業革命をして経済力(或いはそれは武力だったり政治力だったり議論力だったりなんかいろいろあるんでしょうけど)というぱわーでもって世界に進出し、世界は既にそういう方向に転がりはじめてはいますが、ちょっと待ってくれー、っていうかね。おっしゃる通りだと思いますが、ここでは議論の枠組みとしてそこに理屈を引っ付けていただけるともっとありがたいのです。例えば、「DNA的にはそんなプログラミングはされていない」なんて話しがあるとおもしろいかな。
むずかしいこと(というよりDNAとかってハヤリものかな?)は判りませんので、極論ではありますが経済原則(ってなに?っていうのもありますが・・・<テクニカルターム苦手など素人っス。とりあえず経済的な効率とか利潤を上げることなんかが判断基準になるということだとして話を進めます)だけじゃマズイんじゃないかみたいな話を二三してみます。あんまりそれを書くと「論点がずれてる」とのお叱りがありそうで遠慮してたりしたんですが(笑)。あ、Subjectは、かつて、僕が言われたセリフです(涙)。
かしわぎさん、なんか、どこもかしこも予想通りの解答すぎるですよ。もっと異常な反論を期待しておりましたのに。これじゃあ、「水で割った山形浩生」ではないですか!長いのに誰に対する反応についても面接の想定問答集みたいで面白そうな突っ込みどころがないです。
なんだか、「この気体は水素だろうか?酸素だろうか?」みたいな話をしていたら、「理想気体」の話をされて逃げられたような気分だ。
で、マニュアル化(自動化)がなされると知識+技能+サービス(「技芸」とかいう言葉を使ったほうが良いか)がどのように変化するかの関連については、いくつか議論のための例(工場の操業の管理者と、科学の教育と、僕の知ってるとある酒造会社の杜氏さんの話)を考えていたのですが、とりあえず、しばらくはまとまりそうな感じがしないので後日あらためて。
とりあえず、「完全な市場」や「究極の自動化」といった抽象モデルの話をする時は、現実の市場や機械化とどういう乖離があるかを検討しながら議論しないと不毛なモデルになってしまうと思う。
一つは、マニュアル化と自動化の間のギャップに無頓着であることです。これはどうやら僕の脇が甘いようなので、もう少し説明していただければありがたいです。無頓着というのはどのあたりでしょうか? マニュアル化は言語的な手続きで、自動化は技術的な話とかって感じなんですかね?
もう一つは、マニュアル化や自動化によってはじめて発生する業種についての考察がないこと。マニュアル通りに行動できるような訓練を提供する教師とか、機械の設計業やメンテナンス業などなどです。ええと、これは後づけの説明なので言い逃れっぽくなりますが、このような新たに生まれる業種については「対人関係のコミュニケーション能力」が必要になるという点で、 僕は「地味なサービス屋」のほうに分類すればいいのではないかと思います。
僕の言っている「シンボル分析家の消滅」というのは、決して知的作業を全て否定しているわけではなくて、ホワイトカラー的な作業は自動化されて 将来的には価値がなくなるという意味です。ただし将来的には、人間しかこなせないような知的作業であれば、それは「シンボル分析的」ではなく、 「地味なサービス的」作業に近づくであろうという意味です。
で、「標準化」は「マニュアル化」の間違いだとわかれば、かしわぎさんの言いたいことが理解できました。ついでに、考察の弱点が二つ見えてきました。一つは、マニュアル化と自動化の間のギャップに無頓着であることです。もう一つは、マニュアル化や自動化によってはじめて発生する業種についての考察がないこと。マニュアル通りに行動できるような訓練を提供する教師とか、機械の設計業やメンテナンス業などなどです。
とにかく長いです。時間稼ぎだということで。
まずは、baud rate R.A.さん>
知的階級差別があってもよいのですが、世襲制みたくなってしまうと資源の有効利用とかの点でもったいない気がすると引っ掛かっていたので。ええと、僕も世襲制は認めてません(僕は一時期相続税を100%にしろと思っていたくらい)。僕の言う知的階級差別は山形さんのコメントに集約されるかと。ま、資源の有効利用という点でも世襲制は望ましくありませんし、逆に能力的な差を認めずに意思決定のテーブルにつかせるというのも、資源の有効利用からは外れるかなと思っているということです。
−−−−−
ついで「標準化」
鴨さん>
標準化とは、選択肢が複数あり、どれを選ぶことも可能だが、どれかに揃える必要があるときに、そうすることです。乾電池の形状、自動車の左側通行、電源周波数60Hz、狭軌、などなど。標準化をすると、たいていは、適合試験のプロが必要になります。それが、なぜ、陳腐化につながるのでしょう?僕がいっている「標準化」というのは「規格の標準化」という意味ではなく、「知識の一般化・自動化」という意味に近いです。例えば、昔はコンピュータでなんかの計算をしようと思えば、何らかの言語を覚えて、ラインエディタを駆使して、さらに・・・というような「高度な知識」が必要でしたが、今ではGUIのExcelで一発、みたいなイメージで使ってます。で、僕が言っていた「標準化」というのは、「シンボル分析」という職業がどの程度まで生き延びるかという点に関しての考えです。
クルーグマンの言う「シンボル分析家」とは、誤解を恐れずに言えば今の「高給取ホワイトカラー」のことです。彼らのやっている作業とは、ようはなんか数字を適当にいじったり、「高度な意思決定」と称して予測通りの常識的な判断を下してたりしてるに過ぎない。で、これは将来的にはコンピュータなどに置き換わるだろうと。そうすると、今の「シンボル分析家」よりは、「地味なサービス屋」のほうが必然的にニーズは高まるということです。僕の言っている「標準化」というのは、ここでいう「コンピュータに置き換わる」という感覚に近いです。つまり、ある特定の作業を行うのに個人の能力差があまり関係なくなるという意味での「標準化(というよりは「一般化」といったほうがいいのかな)」です。その結果、「高度な知識」は将来的には「陳腐化」するだろうと思うわけです。
で、ここからがたかたさんとの議論の対象になっていたのですが、たかたさんは「シンボル分析家」と「地味なサービス提供屋」の両方の性質を持つ職業は当然あるし(実際には、「経験やサービス」と「知識や思考」とに明確に分けることができず、両方が必要な仕事が、かなりあるので、未来には、そういう仕事に知識のある人が従事する)、そのような職業(医師を想定されておっしゃっていると思っているんですが)が存在する限り、ある程度の専門知識を持った人間が、一定数以上存在するような空間的集積が必要だろうと想定されているわけです。で、そのような空間的集積は僕が想定している「村落」規模ではだめで、やはり「都市」の規模が必要だろうと。
さて、僕はどう考えるかというと、たかたさんが想定されている「医師」という職業は、実は「地味なサービス屋」に分類されると思っているんです(怒らないでね(汗))。これは言葉が悪いから誤解を招きそうで怖いんですが、ようはクルーグマンの想定している「シンボル分析家」というのは、さして専門的でもない(ようは自動化できる)知識を売り物にしているホワイトカラーを指しているわけです。ただ、医師は専門知識を持たなければいけないし、さらには手術などの高度な技能を必要とするわけです。その意味で医者という仕事は「サービス」を行うほうに分類されると僕は思っています(ただし、バイタルサインを全て測定して、さらにあらゆる検査を行うことができて、しかも診断を下し、手術もできるなんていう機械が現れれば、医者も「シンボル分析家」の仲間入りですが)。
こっからさきは僕の悲観的な(笑)意見です。僕は究極的には遺伝子なんかがほんとに分析され尽くしちゃうとこれくらいまで行ってしまうのではないかとおもっているんです。そうなると、ほとんど人間のやっていることは自動化できて、ただ対人関係を見極めながら地道に行うサービスくらい(ホストとか(笑))しか残らないのではないか。そうなると「村落」程度の規模でも(機械やインフラさえ整っていれば)成立しうるのでは、と考えているわけです。とーぜんながら僕の意見は極端な(医療すら自動化される!という)想定を置いているので、たかたさんの意見とは一概には比較できません。
−−−−−
さて、お次は「プライバシーの商取引」についてだ。
baud rate R.A.さん>
プライバシーと自動車および保険の加入について――自分の身体データがどこかのコンピュータか何かで、それこそ機械的に処理されるのなら以外と平気かも。いちいちデータを中央に送信したりせずに、独立した装置内でローカルに処理する方式 (のほうが効率的でないですか?) ならなお気にならないですし。その方が効率的だと思うし、そういうシステムを考えてはいますが、ただどこかで確実に人間(というか社会)に利用されるという点は変わらないんです。例えばその人のDNAデータはどこかのサーバに生まれた瞬間に採取されて保存されるとしても、そのデータを(直接見ることができるかどうかは別として)医療や保険加入の際の情報として利用されるという点ではプライバシーは侵害されるんです。個人名が特定されなきゃいいや、という意味でのプライバシーの侵害はおきにくくなるかも知れませんが、それ以上に現在受けていられる「平等」なサービス(ガンになる確率が人より高いけど、同じ掛け金の保険に加入できるとか、酒は飲むけどやっぱり時速200kmで走る車は買えるといったサービス)は受けられなくなりますよ、という意味です。
高阪さん>
まず、経済的合理性をそうした基本軸に据えるというのは実は普遍的な価値ではなくてアングロサクソンというひとつの文化のものさしなのではないかとも思うし、そうでもないのではとも思うし。ただ一ついえるのは経済原則って基本的には世界共通に通用するんだということです。ただし、その経済原則は理想化・単純化された世界での出来事ですので、現実世界は必ずしもそうならないというのは当たり前ですが、経済原則に従うとどういった世界が想像できるかというのはやっといても損はないかなと思ってます。ちなみに、どっちかといえば「プライバシー」に関しては西洋のほうが敏感で、これを保証しようとする動きは日本なんかよりは強いと思います。ですので、資本主義万歳のアングロ・サクソン的世界を想定しているわけではなく、経済原則が支配する架空の世界を想定していると考えていただければ幸甚。
「こっちを説得しうる理屈がなければこっちの価値観が通る」みたいなことでなく「こっちを説得できるほどの合理的な説明はないけれど、なんかよく判らないけれど大事なことがあるのかもしれない」という姿勢も必要ではおっしゃる通りだと思いますが、ここでは議論の枠組みとしてそこに理屈を引っ付けていただけるともっとありがたいのです。例えば、「DNA的にはそんなプログラミングはされていない」なんて話しがあるとおもしろいかな。
個人の幸せはどこにあるのか、だとか、ひとがひとを大切にするのはどういうことなのか、だとか、ほんとうの豊かさとはいったいなにか、だとか、そういうことがああいう動きを止める力としてもっと機能してほしい
崎山さん>
まずデフォルトはプライバシーはある程度守られている状態を想定しないといけないんじゃないのか。これこそが「基本的人権」の考え方だと思うんです。これを認めるのであれば、僕の議論は成立しません。僕は「とにかく個人にプライバシーなどない」という前提から出発してます。で、そこから段階的に「プライバシー権」を(それも物理的な価値を媒体とした交換によって)獲得していくという社会を譲歩しながら想定してます。プライバシーが基本的人権なら、とりあえず最初は必ず不可侵であるという条件が必要でしょう。しかし、基本的人権にプライバシーは含まれないと考えるのであれば、この条件は必要ないと思います。
無制限に転売されていくのは(個人の意志によって)阻止できる仕掛けが必要
とくに ITS の場合は位置情報がからんだ個人情報でもセンシティブな部類が とれて、それが警察や警察の配下の団体に集まるわけで、信頼できるかっていうと そりゃ信頼できない。へへへ、実は僕仕事で「ITSの情報セキュリティ」ってやつをやったことあるんですけど(ニヤリ)。うん、確かに信頼できるかっていうと××××××かも(伏せ字にさせていただきます)。ただ仮に警察などの国家権力に個人情報を監視されたとしても、国家権力が国家権力として機能してる限りは、それほどのデメリットではないのではないかなあ、というのが僕の意見です。逆に民間企業に利用されるほうがデメリットとしてははるかに大きいし、僕はプライバシーを売買するというこっちの動きの方が必然性を持っていると思います。
−−−−−
後は雑感です。
崎山さん>
ところでこの文脈じゃないけど「人権市場」みたいな話では 警察ってどう扱うんでしょう? 「守ってくれる」ほうの話はあったけど、「守ってくれる」だけじゃないわけだし。 自分の契約してる警察と他人の警察で採用する治安ルールが違って、そのせいで 他人の警察から何かされそうになったら、自分の警察が守ってくれるのでしょうか?そうなるでしょうね。リベラリズム的立場で言えば「僕が独立して自由であるのと同時に、他人も同様に自由だ」ということになるんだろうし。その大原則を守れないようではこのシステム自体は崩れるでしょうね。ただ、そんなことが現実問題として可能かときかれると、僕は「逃げちゃだめかな」に引っ込まざるをえないなあ(笑)。
高阪さん>
移動の自由は法律やなんかでは保証されそうでも、移動にはコストがかかることを考えるとやっぱり経済的には自由でないそうそう、完全情報を仮定したとしてもこういった物理的制約(距離とか言語能力とか)は乗り越えられないっすよね。
不誠実な政府かどうかを子供たちは親の価値観やなんかを離れて判断できるのかなぁという疑問
うっ、僕もそういった意味で使ってた・・・なので、そういう意味で使っていると割り引いた上で読んでください↑↑↑↑
#いじめないでね
マニュアル化と標準化の違いを実感するには、職人芸に支えられた標準化の例がいいのかな。
ちなみにマルチメディア地域振興はちょっとやりすぎかなとも思うんですが。 仮にマルチメディア産業が興ったとしても、それが地域振興に つながるかといわれると僕は疑問符だなあ。だってマルチメディア産業って 実は人件費ビジネスだから、設備投資とかもあんまりないので、 たいした波及効果も生まれないと思うので (いやそれをいうなら「首都機能誘致」のほうがやりすぎだ、という説も あり)。
もし梶原さんが愛知県知事だったら、「愛知万博」にどういう結論を出すのか 聞いてみたいところではあるなあ。
あ、ちなみに「ボスが元気良すぎるところ」は岐阜県です。
皆さんの議論にのっかって,話題の枝葉をつけるようなことばかりですが悪しからず. まず,「炭坑のカナリヤほど」という表現はなんかステキですね.いつかどこかで使わ せていただきます(笑). ところで,プライバシーのことについてですが,とりあえず危険かもしれないから,あ まり個人情報を公開しないでおこう,という風潮は確かにあるとは思うのですけど,一方 で,オンライン上でのコミュニケーションにおいて,アイデンティティの果たす役割に着 目して,オンライン上でも状況に応じて個人を表現するインターフェイスを研究している 人がいます.メディア・ラボ,ソシアブル・メディアグループのJudith S. Donathです. http://judith.www.media.mit.edu/judith/ 彼女の目的は,オンライン上での円滑なコミュニケーションであって,プライバシーを 守る,という方針とは異なりますが,場面に応じて適切に個人を表現することは,確かに 本質的な問題の解消(より良い「そりゅーしょん」っていうのかな?)になるのではない かと思います.現実世界においては,難無く状況に応じてふるまいを変化させることがで きるけれども,それをオンライン上でどうやれば実現できるか?という点で興味深いと思 います. 「みっつめは、ガンバレ人文学です(笑)。」 というのは,「無痛文明論」なるものを転回してらっしゃる森岡正博さんのような方向 でしょうか? http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ http://wwwhs.cias.osakafu-u.ac.jp/~morioka/ (実はこの人に直接お会いする機会があって,「それは,何が正しいか,あるいは何が良 いか,ということではなくて,自分がどう生きたいか,という問題なのですか?」という 質問をしたことがある.)
かしわぎさんへの反論をちょっと試みてみます。
もしプライバシーを(徹底して)「売買可能なもの」としてシステムをつくるなら、 まずデフォルトはプライバシーはある程度守られている状態を想定しないといけないんじゃないのか。 そして、複数ある「行政サービス体」のどれかを指定してサービスを受けることを通じて、 あるいは単に金銭によってそのプライバシーの一部をバラ売りするとして、 そこから無制限に転売されていくのは(個人の意志によって)阻止できる仕掛けが 必要なんじゃないか、と思います (技術的には copyright protection 系の技術が応用可能なんじゃないかという気が しなくもない)。
あと、(理想のじゃなくて現実の)国家がそれほど信用できるかというと、 私は信用できないんじゃないかと思ってます。 ICカードの行政利用とか ITS とかのからみのところでのプライバシーやセキュリティの 扱いについて書かれて公開されているものをみていると、 どうも「アウトサイダーのアクセスからの防護」という視点はある意味徹底しているとは 思うんですが、複数の行政セクションをアクセス制御の観点でわけて個人の情報がある 範囲で閉じ込められた範囲でしかまわらない、ということを言葉だけじゃなくて システムとして確保していくような形にするような気はあんまりなさそうだし。
とくに ITS の場合は位置情報がからんだ個人情報でもセンシティブな部類が とれて、それが警察や警察の配下の団体に集まるわけで、信頼できるかっていうと そりゃ信頼できない。
ところでこの文脈じゃないけど「人権市場」みたいな話では 警察ってどう扱うんでしょう? 「守ってくれる」ほうの話はあったけど、「守ってくれる」だけじゃないわけだし。 自分の契約してる警察と他人の警察で採用する治安ルールが違って、そのせいで 他人の警察から何かされそうになったら、自分の警察が守ってくれるのでしょうか?
「うんうん、ボスが元気良すぎると大変よね。わかるよ。」という話になると勝手に予想柏木さん、これ、東京都庁?
そのわりにはお客さんの前じゃあ口が裂けてもいえねーようなことを書いてるなあ(笑)。
まぁそんなもんでしょ(笑)。しかし、いやでもなんでもそっちのほうが経済合理性があると判断されれば利用される可能性は当然ありますよね。その際に、「経済合理性」に対抗しうるだけの理屈を持ってないといかんでしょう。
確かに可能性は当然あります。しかし私はそうした「経済合理性をひとつの判断軸として捉え、それを覆すには理屈が必要だ」という世界そのものに対しては似通ったみっつの違う切り口から反対したいです。例えば、あの動きを止めるような力ってどういうのがあるんだろうか?と思うわけです。
こういうのに対して、個人の幸せはどこにあるのか、だとか、ひとがひとを大切にするのはどういうことなのか、だとか、ほんとうの豊かさとはいったいなにか、だとか、そういうことがああいう動きを止める力としてもっと機能してほしい、と思う訳です。ちょっと月をほしがるコドモのような気がしないでもないですが。将来的には移動の自由が保障された分散型バーチャル都市国家群になっていると仮定してみる必要があるだろうと。すると、こういった不誠実な対応をする政府は、逆に(皮肉ですが)「市場から」淘汰されていくのです。
ほんとうにそうだと素敵だなぁと思いますが、理想的にそうなってはくれなさそうな理由が二点あります。さらっと行きますが、移動の自由は法律やなんかでは保証されそうでも、移動にはコストがかかることを考えるとやっぱり経済的には自由でないというか、理想の国がどこかにあってもそこまで行けない低所得者層が存在しそうなことです。そして二点目は、やっぱり子供たちの話ではありますが、不誠実な政府かどうかを子供たちは親の価値観やなんかを離れて判断できるのかなぁという疑問です。それと、僕は、市場で責任を持ち得ない若年者に保護者の社会的立場によって差が生じるべきでないと思っているので、乳幼児から中学生くらいまでは教育や食料、医療などを安価に享受する事ができる保護措置が必要と思っています。
現行の国家という枠組みがそのままあるとしたら、親の職業収入その他で子供たちの受ける教育に差が出ないように国家にはもっと頑張ってもらいたい。差がないといってもささっと判る子にもじっくりゆっくり理解していく子にも同じ進度で教える、という意味ではないのですが。私はたかたさんと違って高校卒業くらいまでは保証してほしいなぁ。それをどうやってやるかについてはヴィジョンは特にないんだけれども。「高度な知識」というのは、必然的に「標準化」という営為によって「陳腐化」する
鴨さんのおっしゃる「標準化」とはちょっと違いそうですし、現状では高度な知識は陳腐ではない、とひっくりかえしてみても判るような判らんような・・・。どうもどういう立場でどういうことをおっしゃっているか、というのがはっきりしないうちはそれについて話を進めることが苦手なもので、予備知識なしでも判りそうなかみくだいた説明をしてくれると助かります。若年層への教育については、機会均等なサービスを皆が受けられるようになってほしいので、いっそ機械まかせになっていて欲しいという願望はあります。また、こういうのは、トップクラスに頭の良い人たちが理想に燃えて作成してくれるのではないのと思ったり。そうですね。まず、教育を例に出したのはあんまり適切な例ではなかったかもしれません。ただ、僕があそこで言いたかったのは「シンボル分析的なホワイトカラーの仕事はコンピュータで代替できるけど、介護とか掃除とかみたいな、細々したサービスはコンピュータでできないから、将来就職する時に必要なのは、大卒の知識などではなくて、現場の経験みたいなものなんだ」というのは、現実のモデルとして適切ではなくて、実際には、「経験やサービス」と「知識や思考」とに明確に分けることができず、両方が必要な仕事が、かなりある(現在、知的と思われていないが、知識があった方が望ましい仕事もかなりある)ので、未来には、そういう仕事に知識のある人が従事するのでは?ということなので、教育の例が適切かどうかは、あまり議論の本質ではありません(ただ、多分、クルーグマンが間違ってるというのではなくて、クルーグマンは、僕がここで言ってる「シンボル分析を伴うサービス」を「シンボル分析」とはみなしていないだけなのでしょう)。
標準化とは、選択肢が複数あり、どれを選ぶことも可能だが、どれかに揃える必要があるときに、そうすることです。乾電池の形状、自動車の左側通行、電源周波数60Hz、狭軌、などなど。標準化をすると、たいていは、適合試験のプロが必要になります。それが、なぜ、陳腐化につながるのでしょう?
こんにちは。たかださんの「100年後のマンハッタンでのサービスでも高度な知識は必要」に興味を覚えたのですが、専門知識と相手の反応を見て巧みに応答する能力を兼ね備えた人材の多くは、利鞘の大きい商品の (広義の) 営業をする部門に流れていくのではないのかなと思います。現在のコンピュータでも、たとえば個人でのパソコン購入に、製品知識と顧客とのコミュニケーション能力も兼ね備えた SE がマンツーマンで応対してくれるわけではなくて、雑誌など本を読むなり友人に聞くなり会社からネット接続するなりして情報を集めているのが現状でしょう。
それを「お金持ちは高度なサービスを受けられていいなあ」とするのか「お金持ちはセールスマンの応対で大変よね」となるのかはわからないのですけど、若年層への教育については、機会均等なサービスを皆が受けられるようになってほしいので、いっそ機械まかせになっていて欲しいという願望はあります。また、こういうのは、トップクラスに頭の良い人たちが理想に燃えて作成してくれるのではないのと思ったり。
(たかたさんが「生徒の反応をうまく見て相手に合わせて教えられるけど数学ができない教師と、数学はできるけ生徒にうまく教えられない教師」と書いたのは説明のための一例であり、教育制度について言ったのではないと怒られるかもしれませんけど……知的階級差別があってもよいのですが、世襲制みたくなってしまうと資源の有効利用とかの点でもったいない気がすると引っ掛かっていたので)。
プライバシーと自動車および保険の加入について――自分の身体データがどこかのコンピュータか何かで、それこそ機械的に処理されるのなら以外と平気かも。いちいちデータを中央に送信したりせずに、独立した装置内でローカルに処理する方式 (のほうが効率的でないですか?) ならなお気にならないですし。余程のことがないかぎり人間が介在しないシステムになれば、「こいつ、こういうことしてるよ、ひゃひゃ」と喜ばせるネタになるのを心配しなくてよいし、企業などの側も名簿の横流しをする社員が出てこないよう心配しなくてすむし――人間不信すぎますでしょうか。
(プライバシーと言えば、昭和 30 年代くらいの少年雑誌には、漫画家や野球選手の住所が堂々と載っていたという話も。身の危険さえなくなれば、そういう牧歌的な時代にあっさり戻れるのではないかと思ったりしています。)