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黒木のなんでも掲示板3 (0003)

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Id: #e20000407001921  (reply, thread)
Date: Fri Apr 07 00:19:21 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000406234410
Name: 大'
Subject: 大'が棒に当たる実験は嫌だな

えー、解釈がどうこう以前に、結局どういう結果が得られたのか、皆目見当が付かないのですが。。。(^^;;;

(2)次に、カメが歩き始めた方に30%の割合で落とし穴を置く実験をする。
結果:何匹かのカメが独特の歩行パターンを作り出すようになる。
(注意:これは、学習した/しない、という言い方で結果を解釈できない実験)

Id: #e20000406234410  (reply, thread)
Date: Thu Apr 06 23:44:10 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000406013636
Name: 辻下 徹
Subject: プラトニズム/暗黙の前提/実験の内容>ふるかわさん、江副さん

(1)プラトニズム

江副>「解釈(F)と「ターゲットを学習したとは言えない」という元の文章とは、論理的に同値ではない

ふるかわ>確実に言えるのは「カメが学習したことを示す結果は得られなかった」ということだけだ

ふるかわ>「学習しなかった」と言い切っているわけじゃあないんですよ.

これらの言明は、「カメが学習した」の真偽に関するプラトニズムが前提とさ
れています。「カメが学習のしたかどうかの真偽値」が我々とは無関係に決まっ
ていて、それを何らかの実験で確かめようという立場です。しかし、「カメが
学習した」と主張するのはどういうことかを考えてみると、「カメが学習した」
という言い方の規定も同時に導入されていることがわかります。その規定の正
しさが「確実か」という問いは意味がないでしょう。ここには確実せいではな
く「説得力」のようなものの問題であると思います。(いつも繰り返しますが、
その良し悪しの問題ではなく、そういうものだという認識が重要だというだけ
です。)



(2)暗黙の前提

ふるかわ>暗黙の前提というのは,そのときの研究者たちが共有している認識 ふるかわ>とか, 研究の流れとか,そういったものでしょう 「共有している認識」という言葉は便利な言葉ですが、これは、食い違いが起 きない限りにおいて認識を共有しているといえるのに過ぎないので、認識を共 有しているから食い違いが起きない、というのはほとんど何も言っていないこ とになります。何が前提か予め全く気付かないという点が重要です。ここでの 議論を聞くと、不十分なことなどわかっているというタイプの主張を良く聞き ますが、それは予め範囲を決め見渡せる中での不十分さでしかなく、高を括っ ているように感じます。逆にいうと、その予想された範囲外の不十分さを視野 にもたらす可能性に対して心を閉ざす危険性もあるように感じます。 >生物の研究なんていうのは,前提次第でどんな解釈も可能ないいかげんなも >の などと言うつもりは毛頭ありません。いいかげんではなく、適切な前提がほと んどですし絶対的にしか見えない前提もあると思います。 しかし、そういう ものですら究極のものではない、と言うのは簡単ですが日常的に意識するのは 難しいということ、それが実験に関する今回の生理的とすら言えるような拒絶 反応に接すると強く感じます。

(3)実験の内容

私が解釈した「郡司さんの意図」は、郡司さんの意図ではなかったようです。 というより、実はあの引用だけでは実験の内容がまだよく掴めていないので、昨 日の書き込みを添えて郡司さんに問いあわせてみましたところ、引用から想像 していた実験とは随分違う内容でした。
(1)落とし穴を左に固定して30匹のカメに試行させる。 結果:どのカメもいずれは右を選ぶようになる。 (注意:これは学習した/しない、という言い方で結果を解釈しても文句はでない実験) (2)次に、カメが歩き始めた方に30%の割合で落とし穴を置く実験をする。 結果:何匹かのカメが独特の歩行パターンを作り出すようになる。 (注意:これは、学習した/しない、という言い方で結果を解釈できない実験) (3)最後に、右も左も落とし穴にし、落とし穴間の通路だけが坂の上に到る経 路であるという課題を与える。 結果:(2)で「独特の歩行パターン」を作り出せたカメだけが(3) に成功した。 (注意:これは(1) と同様、学習した/しない、という言い方で結果を解釈しても文句はでない実験)
この一連の実験の意図についてはまだ私の理解は不十分のようですのできょうはここでやめます。

Id: #e20000406150727  (reply, thread)
Date: Thu Apr 06 15:07:27 2000
Name: 江副日出夫
Subject: 公立はこだて未来大学

この掲示板にも関係者のかたがいらっしゃるかと思いますので、今さらかもしれませんが、

http://www.fun-hakodate.gr.jp/

この春開学したこの大学の目玉は、全国初の「複雑系科学科」です。
学長の伊東氏は、神戸大において郡司氏の前任の教授だった方ですが、ほかの教員の顔ぶれも、このページから知ることができます。

ちなみにこの大学は 函館市とその周辺の自治体が、不況に苦しむ地域産業を活性化するために共同で設立した大学で、総工費が140億円、さらに、毎年の運営費は約10億円、財政再建団体に転落しかかっている函館市の行財政改革によって浮いた予算に見合う額だそうです(NHKニュース11による)。

函館周辺の皆様のご多幸をお祈りしております。

Id: #e20000406143325  (reply, thread)
Date: Thu Apr 06 14:33:25 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000406000841
Name: 江副日出夫
Subject: 実験の考えかたには慣れてないとお見受けしましたが>辻下さん

辻下>解釈(F)「Xは時系列Pの規則性を学習するのに失敗した。」
辻下>(中略)解釈(F)は、実験結果についての意義ある解釈とは言えないように思われます。

注意していただきたいのは、解釈(F)と「ターゲットを学習したとは言えない」という元の文章とは、論理的に同値ではないということです。後者は、「学習したという証拠はない」という意味で、「学習しなかった」ということを積極的に主張しているわけではありません。
したがって、辻下さんの、解釈(F)が不適切であることの説明を述べた部分は、私の疑問(おそらく他の方の疑問も)の解決にはまったく役立っていません。

辻下>解釈の核心は、亀の行動 A に見られる規則性を(強いて解釈しなければならないとすれば)
辻下>どう解釈すべきか。

実験結果からは導けないのにも関わらず、「強いて解釈」することこそ、「観察者の判定基準・前提外部」の「参入」といえますね・・・ふつうの実験手続き上では、それは「反則」とよばれますが。
実際、郡司氏は、最初に「わたくし性を、より積極的に導入した実験である」と書いていますが、本文を読むかぎり、普通の実験と違うところといえば「しかしカメは50%の成功を選択したとも言えるのではないか」の部分だけです。
つまり、「積極的に導入」された「わたくし性」とは、この部分のことを差しているといえます(強いて解釈しなければならないとすれば(笑))。

したがって、私が考える、この実験(?)の「正しい」解釈は、

普通の実験では導入されない観察者の『わたくし性』を積極的に導入することにより、
『不定』でない実験結果を『不定』にすることができる

ああそうですか、そりゃごもっとも。・・・で、それが何の役に立つのでしょう?

きっと郡司氏は、馬を見ても、「あれは鹿だとも言えるのではないか」と主張されることでしょうねぇ・・・

Id: #e20000406052147  (reply, thread)
Date: Thu Apr 06 05:21:47 2000
Name: はまだとらひこ
Subject: メモ
郡司ペギオ幸夫のホームページ
http://shidahara1.planet.sci.kobe-u.ac.jp/nonlinear/gunji.html

これも楽しいです。
http://shidahara1.planet.sci.kobe-u.ac.jp/nonlinear/gunji-mikan1.html

Id: #e20000406013636  (reply, thread)
Date: Thu Apr 06 01:36:36 2000
Name: ふるかわ
Subject: 生物の研究の流れ

辻下さん,そんなしちめんどうな言い方しなくてもいいですよ. そんなこと当然じゃないですか. そもそも「カメが50%の確率で落とし穴に落ちた」→「カメは学習しなかった」という 単純な論理で結論を出す人なんかいるんですか? 確実に言えるのは「カメが学習したことを示す結果は得られなかった」 というだけなんです. で,本当に学習してなかったのか,あるいは実験装置上の不備があったのか, それともカメがヒデオ亀のようにややこしい行動原理に従っていたかは 別途検討する必要がある.そのためには別の条件で実験したり, あるいは他者の過去の研究とつきあわせてみたりすることになります.

ま,多くの場合,「カメは学習しなかったと考えてさしつかえなかろう」という 結論になるでしょう.「学習しなかった」と言い切っているわけじゃあないんですよ. 無限に実験を続けるわけにはいかないから, 「学習しなかったと考えるのが自然な帰結だろう」 ってところで手を打つわけです. もちろんこれはひとつの仮説(解釈)にすぎない. 仮説ですが,さまざまな状況証拠を踏まえた上での仮説です. 郡司氏のような解釈(仮説)も可能性はゼロではないでしょうが, それを支持する状況証拠がない限りは 「その仮説は棄却するのが自然だろう」という結論になるだけです.

「実験結果から解釈を導くときの暗黙の前提・仮説があり、それに基づいて得 られる解釈は、実験よりもその暗黙の前提の方に強く依存していることが起こ る」というのは,生物やっている人にはごくあたりまえのことなんじゃないですか? 暗黙の前提というのは,そのときの研究者たちが共有している認識とか, 研究の流れとか,そういったものでしょう. 実際,実験結果からダイレクトに結論付けられることなんてほんのわずかしかない. 学会発表聞けばわかりますが,大部分は 「以上の実験結果は○○ということを示唆するものである」 ということばかりです.

じゃあ生物の研究なんていうのは,前提次第でどんな解釈も可能ないいかげんなもの なのか.いや,そんなことはありません. 結論の大部分は単なる示唆的な解釈ではあっても, どのような仮説ならばもっともらしいか, どのような仮説は可能性が低そうかを総合的に判断していかなければいけない. そうした判断能力が,いわば生物実験のイロハですよね.


Id: #e20000406000841  (reply, thread)
Date: Thu Apr 06 00:08:41 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000405212323
Name: 辻下 徹
Subject: 亀の実験結果の解釈における判定基準・前提外部

まず、実験を整理してみます。

落とし穴の場所の時系列 
P=p1 p2 p3 p4...(pi は L または R)
があり、Xの行動の時系列 
A=a1 a2 a3 a4.. (ai は L または R)
がある。ai= piのときXは痛みを覚えるわけです。

引用された実験([ex1] と呼びましょう)では P=LRLRLRLRLR... としたとき
ある番号から先はA は定数列(e.g. RLRRLRLRRRRRRRRRRRRRRRRRR...)になった、
というものです。(解釈の問題は抜きにして、この結果自身は予測はできない
と思います、とくにXとの付きあいがなければ。実際、列 A が気まぐれな時
系列であることも可能性としてあり得ます。)

さて、この結果をどう「解釈」するか、という問題を考えます。 解釈(F)「Xは時系列Pの規則性を学習するのに失敗した。」 野村>結果的にカメは50%失敗する。 野村>これは半分だから、ターゲットを学習したとは言えない。 2行目は、 野村'>ai \neq pi となるi がいくらでもあるから、ターゲットを学習したと は言えない。(\neq は「等しくない」not equal) ともいえます。もっと弱い実験結果であっても同じ結論になります。というこ とは実験結果の情報の重要な点を捨て去る解釈といえます。(偶数列を見て、 「これに属していない数が無数にある」と記述するのと同じです。) ヒデオ亀の例からもわかるように、実は、解釈(F)には自明な前提があるの です。それは (*)「亀は時系列Pの規則性を(人間と同じように)完全に認識するこ とはない」 という前提です。もしもXがヒデオ亀だったすると、A という行動列を取った としても、明らかに(F)という解釈は成り立ちません。従って(F)は正確 にいうと (F1)「XがPの規則性を学習できない可能性があると仮定すると、XがA という行動を取ったことはXはPの規則性を学習できなかったことを意味する」 という解釈になっているのです。この解釈では、結論の主要部分が実験結果か らではなく、前提(*)から由来していることがわかります。(*)はふつう 常識とされていることですが、その前提の「正しさ」がこの実験で確認できた わけではないことは明らかです。 郡司>カメ自らの選択という問題に、学習した・しないを判定する観察者の 郡司>判定基準・前提外部が、不可避的に参入してしまうのだ。 の中の「前提外部」の例が(*)です。
こうして2つの点で、解釈(F)は、実験結果についての意義ある解釈とは言 えないように思われます。解釈の核心は、亀の行動 A に見られる規則性を (強いて解釈しなければならないとすれば)どう解釈すべきか。 野村>しかしカメは50%の成功を選択したとも言えるのではないか というのは、たとえば次のような内容を含んでいると思います。 (S)「時系列Pのパターンを認識することや、その認識を利用して毎回行動 を調整することには大きなコストがかかる。それを考えると痛みを避けるメリッ トは、痛みを耐えてでも単純に行動するメリットよりも小さい、とXは考えた。」 (擬人法をもう少し減らすと「時系列Pのパターンを認識し行動を調整しよう とする能動的生物的負荷よりは、単純行動に伴う肉体的痛みという受動的生物 的負荷の方をXは選んだ」というべきかも知れません。) この解釈は(*)を前提としていません。(S)は人間ではふつうの行動です が、亀で観察されてもおかしくない生物的な行動であると感じます。
ふるかわ>だから実験結果から導かれる解釈や仮説に完璧な正しさを求められない ということを郡司さんは言いたいのではなく、「実験結果から解釈を導くとき の暗黙の前提・仮説があり、それに基づいて得られる解釈は、実験よりもその 暗黙の前提の方に強く依存していることが起こる」、ということを主張したのだ、 と私は思っています。
なお、この実験の周囲には [Ex2]P=RRLRRLRRLRRLRR... の場合に、Rを選ぶようになるのか、それとも、これでも、Lを選んでしまうこ とがあるのか、 [Ex3]P=RRRLRRRLRRRLRRR... ではどうか、 [Ex4] P はランダムな系列とする ときはどうか、他無数の実験があると思いますが、Newsletter が北大図書に はなく、確認していません。

Id: #e20000405212323  (reply, thread)
Date: Wed Apr 05 21:23:23 2000
Name: 辻下 徹
Subject: 宿題の山

が次のように高くなりつつあります、がかならず回答しますので御辛抱下さい。
きょうは亀の実験のことについて議論したいと思っています。

稲垣耕作「ハゲと砂山のパターン認識問題」
ふるかわ「生物の記述に対する数学の貢献」
江副日出夫「ひょっとして、ひょっとして、何か私の発言を誤解してませんか?>いまださん」
いまだ「100年前の議論を見ているような.....」
江上繁樹「おわび、不定性再論」
志村立矢(デデキント)
江上繁樹「コンピュータとの関係」
鴨 浩靖「数学者の行為としての「数学」」
大' 「物理的に違うじゃん」
伊藤憲二「Kripkenstein」

Id: #e20000405100825  (reply, thread)
Date: Wed Apr 05 10:08:25 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000401212222
Name: 稲垣耕作
Subject: ハゲと砂山のパターン認識問題

辻下さん、話がどんどんそれていく傾向が強いですね。こちらは意識的に焦点を絞ることにしましょう。

「ハゲのパラドックス」(あるいは「ハゲの帰納法」ともいう?)ですが、「毛の太さ、長さ、生え方など、あるいは観察者側の要因などあって、毛の本数だけではハゲは決まらない」というのがやさしい答えです。ということは、これは「純粋に数学だけで考えられる問題ではない」ということになります。砂粒が何個から砂山とするかも同じくでしょうね。

この種の問題はパターン認識屋さんなどが長らく扱ってきました。(ハゲかハゲでないかの二分法をやるわけではありませんが)「2つの図形のどちらの方がより左にあるか」だけでも難しい問題です。例題をパズルとして作ってみると面白いでしょう(この問題の方が数学の定式化に希望があると思います)。この種の問題に対する数学を作るのは、少なくともパターン認識問題を解いてしまうほどの手間がかかりそうで、しかも数学というには夾雑物の多いものです。(なお、ぼくはパターン認識屋の端くれです。ついでに、カオスではなくカオスの縁を扱っています)

(別の面白い問題は先日の「2000年問題クイズ」にあるのですが…。これは出題者がてこずっています)

Id: #e20000404232048  (reply, thread)
Date: Tue Apr 04 23:20:48 2000
Name: ふるかわ
Subject: 生物の記述に対する数学の貢献

神経屋のはしくれをしてるふるかわです. 生物の「記述」に対する数学の寄与ですが,神経科学の分野ではその方向を目指す 研究者もけっこういるように思いますね.

たとえば視覚の初期過程で現れるニューロンの空間特性は興奮性の中心領域 と抑制性の周辺領域を持っていますが,この特性を記述するモデルは2つあり, ひとつは興奮領域と抑制領域の差分によるモデル(DOGモデル),もうひとつ は(有名な)ラプラシアン・ガウシアン・モデルです.実際の神経細胞のメカ ニズムに近いのはDOGモデルなのですが,しかし「この細胞が視覚情報処理に 果たす本質的な役割は?」という問題を考えた場合,現実の神経細胞(のメカニズム)とかけは なれたラプラシアン・ガウシアン・モデルの方が有用な情報を提供してくれま す.すなわちガウシアン型のローパスフィルタと二次微分(ラプラシアン)フィ ルタを複合させた処理がこのニューロンにおける視覚情報処理の本質であると. 単に神経細胞の特性を近似的に表現したり,あるいはなんらかの予測を行うな らば,現実のメカニズムを反映し(かつ単純な形で記述された)DOGモデルが 有用です.しかしそれだけでは,その細胞が果たす本質的な役割を見抜くこと がなかなかできません.「生体はラプラシアン・ガウシアン・フィルタを手に 入れたかった.でもそれを直接作ることはできなかったから,DOGモデルのよ うな方法で近似的に実現した(インプリメントした)のだ」.そんな風に考え てみよう,ということです.このような研究の例は,神経科学の分野では他に もいろいろ見ることができます.

神経科学の分野では「(この組織・ニューロンでの)情報処理の本質は?」 「その情報処理はどのようにインプリメントされているのか?」「そのインプ リメントをささえている分子レベルのメカニズムは?」といった感じで問題が 階層化され,それぞれのレベルで研究者が問題にとりくんでいると言っても良 いかもしれません.おそらく辻下さんがおっしゃりたいのは,この1番目のよ うなケースをより一般化したようなものなのでしょうね.(※江副さん,いま ださんの意見に反論しているわけではありません.ご両人の意見はごもっとも と思いながら読んでいます.また辻下さんの意見については非常に危ういもの を感じており,共感を覚えるところはほとんどありません).

話はまったく変わりますが,ペギオ亀の件ではつまらない茶々を入れてしまい ました (^_^; もしカメの落とし穴の実験結果を正当に評価するならば,「カ メが落とし穴について学習できることを示す結果は得られなかった」というこ とだけでしょう.じっさいそれが正直な結論であり,本当にカメに学習能力が ないかどうかはまだ検討の余地があります(たとえば落とし穴を示すシンボル にカメが気づいていなかったのでは?とか).同様に,「カメが学習したと思われる結 果が出た場合(すなわち統計的に有意な確率で落とし穴に落ちなかった場合)」 でも,本当に研究者が意図したシンボルを理解していたかどうかはチェックし なければいけません(たとえば研究者自身が無意識のうちにヒントを与えてい なかったかどうかなど).そうしたプロセスを経て,「まあかなりの確率で< カメは落とし穴について学習した(しなかった)>という仮説を採択しても良 さそうだ」ってことになる.100%正しいかどうかは当然わかるはずもなく,そ れは今後の自他の研究を待つことになる. だから実験結果から導かれる解釈や仮説に完璧な正しさを求められないことくらい, いまさら言われるまでもない(でも十分吟味することで 正解率を上げることはできるし,それに十分吟味された結果ならばたとえ その仮説が間違っていてもその分野に寄与することは多いものですよね).

なんか実験している人には当然過ぎるイロハを書いてますが,このようなイロ ハを知らず,観念的に実験(研究)という行為を理解しようとするから,あん な変なことをいえるのかなあ……と思ってしまいます.


Id: #e20000404151735  (reply, thread)
Date: Tue Apr 04 15:17:35 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000403212004
Name: 江副日出夫
Subject: 下の記事に追加

あ、書き忘れましたが、いまださんの記事の主旨そのものについては、私もほぼ同じ意見です。
Id: #e20000404145921  (reply, thread)
Date: Tue Apr 04 14:59:21 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000403212004
Name: 江副日出夫
Subject: ひょっとして、ひょっとして、何か私の発言を誤解してませんか?>いまださん

「数理生態学などの方」って、きっと私のことですよね。
私のもともとの主張は、

江副>生物学が数理科学に要請していることは、数学的厳密さではなくて理論的予測である e0003.html#e20000331130227

ということでした。それに対して、

辻下>生物学の主な関心が予測である、とは私には思えないのですが。
e0003.html#e20000401223232

この発言は、上記の私の発言を直接受ける形になっているので、辻下さんが「数学に対する」という言葉を省略されたものと私は解釈しました。しかし、さらにこの発言を受けたいまださんの発言、

いまだ>数理生態学などの方などは違う意見かもしれませんが,私にも今の生物学を
いまだ>やっている人の多くには,<予測>が主な関心であるとは思えません.
いまだ><記述>が遠い目標であって,そこに向かって<記載>に勤しんでいるという
いまだ>のがせいぜいで,<予測>には冷淡な無関心というのが,たとえば分子細胞
いまだ>生物学をやっているような人達には平均的な態度でしょう.
e0003.html#e20000403212004

においては、いまださんは「平均的な分子生物学者が、数学が<記載>に役立つと期待している」というようなことを主張されているわけではないでしょうから、もとの私の発言を誤解しているのではという気がします。
さらに言うと、私が「理論的予測」と書いたのは、「生物学上の仮説から理論的に導かれる結果」の意味であって、それが生物学上の(未知の事実に関する)予測に直結するということではありません。

・現代人が時計に要請していることは、計時である。
・現代人の主な関心は、計時である。
は、互いに同じ意味でしょうか?

少なくとも現状では「生物学にとっては、数学はせいぜい道具のひとつにしか過ぎない」ことを強調しておきます。
(理論物理系の研究者の一部に、生物学を「啓蒙」してやろう、という傲慢な態度がうかがえるのは、私の気のせい?)

現実に、生物学の分野で今を時めく分子生物学においては、数学を用いた理論的予測の需要はまずありません。したがって、普通の研究者は数学にはぜんぜん興味なさそうです。
しかし、そういう分野でも数学は「使ってベンリ!今がハシリのお買得アイテムですよ!」ということを知らしめるべく、私の師匠などが努力してるところです。

Id: #e20000403233827  (reply, thread)
Date: Mon Apr 03 23:38:27 2000
Name: こなみひでお
Subject: ヒデオ亀

昔々、大学の教養部というところにいたときのこと、期末試験のまっ最中だ。 ヒデオ亀は保健体育の試験会場に行って試験問題を眺めていた。問題を配っている おじさんが担当の講師だったはずだが、4月に一度出席して以来会ったことがないので、すっかり顔は忘れている。まあ、周りの9割の連中もそうなのだ。まじめに 授業に出てたやつは600名のうち15名ほどしかいないらしい。

問題は2択で、そいつがずらっと並んでいる。ヒデオ亀は問題を解く前にすばやく 計算した。

……ランダムに答を選んだ場合に、最低合格点である40点に達しない確率はというと、チョメチョメのチョメでもって、ふむ、30%はあるわけだな。この 問題は案外難しいから、ぜんぜん勉強してないやつでしかも常識に欠けるやつが 200人としても60人は落第する勘定だ。しかるに、実際のこの科目の不合格者は、例年数名しかいないという実績がある。つまりだな、要するに試験を受けなかったとか、名前を書き忘れてしまったとかいうやつだけが落とされているだけなんだ。 結果にかかわらず答案に記入して提出すれば合格なんだな。…… 
というわけで、ヒデオ亀は 数問の答えの分かる問題だけ考えて記入し、あとはすべてランダムに記入して 誰よりも早く試験場を出てきた。こんなふうに被験者が確率を計算しながら 行動するようだと、動物行動心理学における実験者の意図の問題というのは ややこしいことになってしまうのだ。もちろんその試験には合格したのだが、 実験者が亀の意図を知って評価をしたとしたらどうなったかは知らない。
Id: #e20000403213247  (reply, thread)
Date: Mon Apr 03 21:32:47 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322235629
Name: 辻下 徹
Subject: 遅くなってすみません> いまださん

いまださんの御質問(3/15、3/22)にまだ返事していないのが気になっ
ていたのですが、伸び伸びになってしまいました。いま見ましたら、いまださん
が長い書き込みをされているので、以下は見当はずれかも知れませんが、一旦
投稿させてください。


いまださんの3/15 の書き込みについて いまだ>要するに辻下さんのアプローチの生命科学への寄与は「生き物が分子機械であ いまだ>ることと、自分(や身近な植物や動物)が生き物であることとが繋がって い いまだ>るような理解」が可能になるということなのですね. 「そういう理解が可能と自分には思えるアプローチがようやく見付かった」と思っている程度です。 いまだ>生命現象を分子機械として記述・理解する,という立場とは異なると理解してよい いまだ>のでしょうか? いいえ、異なるとは思っていません. いまだ>それとも,生命現象を分子機械として記述・理解する上で, いまだ>辻下さんの アプローチが有用であるという意味でしょうか? 「生命現象を分子機械として記述・理解する」の適切な意味を明確にするだろ う、という意味では、有用であると、と予想しています。 いまだ>そのようなレベルに留まっている現状を打破し,さらに深い理解に到達するのに, いまだ>辻下さんのアプローチが 有効であるということでしょうか? 打破したいとすれば、むしろ、「そのようなレベルに留まっている現状を打破 し」という言いかたの背後にある暗黙の主張、今の分子生物学の記述法が不完 全であるという暗黙の主張、の方と言えるかも知れません。もちろん、そのよ うな暗黙の主張が、学問的営為を歪めているとは全然思っていません。前にも 書きましたが、記述の適切な詳細度というものが分野ごとにあって、詳細度を 更に高めることが分野の進歩を意味するとは限らない、というのはよく言われ ることです。とはいえ、<適切な粗さを持った描像>と、精密な物理的世界像 との関係を考えようとすれば(そんなことは科学とは関係がない、と言うのは 正しいと思いますが)、後者の(人間の能力の限界から必要になる)粗視化と して前者がある、と考えてしまうおうに思います。 私が関心があるのは、この考えが「的外れ」ではないかという点です(誰がそ んな風に考えようとしたかと問われますと、少なくとも私がしようとしていた、 ということですが)。その間違いというものが、やはり<生命の理解>(この 言葉を出すといかがわしく聞こえる怖れがあることは承知していますが)を阻 む、現代科学の歪み(?)と同根ではないかと思っています。世界の物理的描 像の中で生命を了解することを阻んでいる壁があると思うのですが、その壁の 性質について、色々な思い込みがある。その壁の性質をより適切に理解するの には有効なアプローチではないか、と思っています。 いまだ>『生物を考えるには物理学が不十分だ』というのは,辻下さんの信念 いまだ>と理解すればよろしいのでしょうか.それとも,何か具体的に根拠を いまだ>示すことが できるのでしょうか? 正確に言うと、『生物を考えるには現代数学が不十分だ』と思っています。物 理学の使う数学は現代数学とは違い、不定性を豊かに残して活用していますの で、生物を物理学で考えるのに問題はないかも知れません。松野孝一郎さんの 立場はそういうものだ、と私は理解しています。 私が主張していることは私の中で他の数学的知識と質的に違いはないので、 「あなたの信念か」と問い掛けられてもピンと来ません。ただ、その問いが明 確に私に示していることは、私が伝えたいことを伝えることに全然成功してい ない、ということです。というのは、私は信念を表明しているわけではないか らです。 具体的な根拠を呈示できなければ信念でしかない、というのは少し飛躍がある と思います。つまり、あなたが根拠と考えるものと私が根拠と考えるものとの 食い違いが恐らく問題になると思うからです。根拠として呈示されたXが根拠 であるとわかること、と、Xを根拠として示そうとしている主張がわかること、 とは同時にしか起こらないような場合もあると思うのです。たとえば、砂山の 逆理を巡る議論は「具体的なひとつの根拠」だ、と私は言っているのですが、 それは、多分いまださんはナンセンスと思われるでしょう。 いまだ>不十分かどうかを議論できるほど,生命現象の物理的理解が いまだ>進んでいるとは思えないのです が,私の認識不足でしょうか? もちろん、生命現象はいかなるパターンか、という問いを立てれば、これは決 して終わることのない問い方であるが、しかしその問い方は物理学や現代数学 の内部の問い方であるので、物理学や現代数学が<不十分>であるとは思いま せん。ただ、この問い方自身が生命の問い方のすべてか、という問い方はあっ てもいいでしょう。 いまだ>哲学だか思想だか判らないようなものではなく と言われると、私にはそこが肝心ですので、いまださんを説得できるものは現 在はないようです。私の場合は、自分と分子機械を繋ぐ哲学的見通しがあるか どうか、という点で色々なアプローチを自分なりに吟味してきて諦めかけてい たところで、初めてそういう見通しがあると感じるアプローチを見出した、と いうような次第です。 いまだ>「莫大なデータ」が出て来たり,その組織化の必要性が高まってきたのは, いまだ>つい最近,ちょうど「複雑系」という言葉が話題になりはじめたころから いまだ>のことではないでしょうか. 「データ」と言ったのは、従来の生物学(分類学や行動学など)の観察や標本 や生理学的データのことを念頭に置いていたのですが、いまださんが言われる のは、何となく分子生物学のデータのことのように聞こえます。そう考えてよ いでしょうか。古典的な生物学と、分子生物学とでは、生物学と言っても、方 法だけでなく関心まで違うような印象を受けるのですが、現在は、生物学とい うのは、ほとんどが後者と同一視されるのかも知れませんが。
いまださんの3/22 の書き込みについて 辻下>「生物」を機械として見る、というときには、実は新しい機械概念をも同時に 辻下>構築しなければならない。 「原理」以前に新しい概念装置一式を捜さなけれ 辻下>ばならないのです。 いまだ>なるほど.生命現象の理解と記述のためには,新しい概念装置が必要であると. 生命現象の理解、と言うときには既に特定のアプローチが定まってしまうように思います。 いまだ> でも,辻下さんの「数学の不定性」の議論は,単に数学の不定性はボタンの いまだ>掛け違えを示唆する役割を持っているけにすぎず,新しい概念装置なり,生命 いまだ>現象の理解と記述のための処方を与えてくれるものではない. あくまでも いまだ>「ボタンの掛け違えを示唆する役割を持っている」ことで「生命科学に寄与す いまだ>る」 ということですね. 議論の隙を衝く趣味もおありのようですね。「ボタンの掛け違い」というのは、 意識されていない不適切な基盤の上で議論を展開する、ということの喩えです。 そして、意識されていない基盤の不適切性を示すのは容易なことではなく、そ れ自身、新しい概念(言葉)を必要とすることです。

Id: #e20000403212004  (reply, thread)
Date: Mon Apr 03 21:20:04 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000401223232
Name: いまだ
Subject: 100年前の議論を見ているような.....

なんだか,内省を基本的な方法論としていた心理学から行動主義などを規範 とした実験心理学への過渡期の議論を見ているような気がするのですが, 心理学史が専門な訳ではないので,この感想について 具体的に論じるつもりはありません.また,ここで紹介されている郡司さん の議論が何を言いたいのか私には理解不能なので,笑うどころか論評する ことすら出来ませんので,何か根本的に勘違いしている可能性も否定でき ませんが,その場合は御容赦下さい.

生物学の主な関心が予測である、とは私には思えないのですが。 生物学の最初の困難は記述にあるのではないでしょうか。
数理生態学などの方などは違う意見かもしれませんが,私にも今の生物 学をやっている人の多くには,<予測>が主な関心であるとは思えません.
<記述>が遠い目標であって,そこに向かって<記載>に勤しんでいるという のがせいぜいで,<予測>には冷淡な無関心というのが,たとえば分子細胞 生物学をやっているような人達には平均的な態度でしょう.
生物学が数理科学に要請することのひとつとして、予測を主要 な意図とする力学系的概念装置以外の数理的概念装置ではないか
実験系の生物屋が,数理科学を含む理論をやっている人達に期待している のは,実験的に検証可能な仮説でしょう.
現実的には,観察された現象 あるいは実験結果に矛盾しないような(後追い的といわれても仕方がない) 説明が出来ればマシな方といっても,現状から遠く離れてはいないと 思います. (もちろん私の認識不足かもしれません.その場合,実例を 御紹介下さい).
そして,実験的に検証不能な高邁な概念装置は,敬して 近寄らずというのが正直なところでしょう.(功なり名とげた大先生なら とりあえず有難く拝聴するだけしておき,そうでなければトンデモ扱い ってところでしょう.もちろんトンデモ扱い=トンデモとは限りま せん.生物学の歴史を見ても,トンデモ扱いされた theory で後に 定説となったものは数多くあります.メンデルの遺伝の法則然り, ミッチェルの化学浸透圧説然り.ただし,いずれも実験的に検証 可能な theory であったことは強調しておきたいですが.)

このあと述べられている昆虫の概念学習実験に関する実験ですが.別に このような例を挙げるまでもなく,対照実験の不十分さなどの理由で,後に 誤りであったことが判明した生物学上の実験的結果は数多くあります. 有名な例を挙げれば,1900年代のノーベル医学生理学賞のリストをご覧 下さい.癌の寄生虫説をはじめ,様々な実例がみられます.

さて.実験科学である限りは,その実験が行われた時代のテクノロジー 的な制約,あるいは概念的な(無知あるいは意図的な無視による)制約 などの制限を受けるのは当然のことです.で,辻下さんの<数学の不定性> を考慮に入れた理論だと,これらの限界をクリアすることが出来るの でしょうか? (将来的に,クリア出来る可能性がないとはいえない, という程度ならば,生命科学をダシに使うのは,ちょっとフェアじゃない と思うのですが)  それとも,辻下さんの理論と,この議論は特に関係の ない別個の議論だったのでしょうか? もし,そうなのでしたら, 辻下さんの理論の生物学への貢献という論点に直結した話題にも 戻って欲しいと思うのですが.

以前の質問 の回答も頂いていないような気がするので,何か回答していただけないような 失礼があったかもしれません.その場合は,当人に自覚がありませんので, その旨御指摘頂ければ幸いです.


Id: #e20000403114842  (reply, thread)
Date: Mon Apr 03 11:48:42 2000
Name: ふるかわ
Subject: 亀の捨てぜりふ

そうか,行動実験をするときは 「学習できなかったんじゃないやい. 答えは分かってたんだけどわざと半分間違えてやったんだぜ,こんちくしょう」 という可能性も検討しないといけないということなのですね (ここまで書いてまだ辻下さんが笑ってくれなかったらどうしよう……).
Id: #e20000403002350  (reply, thread)
Date: Mon Apr 03 00:23:50 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000402190911
Name: くろき げん
Subject: ペギオ亀は幸福であったか?

(Subject は記事の内容にあまり関係ないので無視して下さい。)

辻下さんは「ペギオ亀」の件を笑えなかったということなのでしょうか?

せっかくなのでここに再録し、リンクを張り易いようにしておきました。「カメ」をクリックしてみて下さい。


カメ

郡司・野村・森山 (1999)「私を含む動物=不定性を含む動物」日本動物行動学会Newsletter No.34 p.16-23 より:

Nomura&Gunji(1999)の実験は、実験の前提に関する不定さという形で、わたくし性を、より積極的に導入した実験である。(中略)野村は、落とし穴をセッション毎に、左右交互に変える実験を行った。(中略)カメは最終的に、左右いずれかの道を選んだ。ここで野村は次のように問うた。「結果的にカメは50%失敗する。これは半分だから、ターゲットを学習したとは言えない。しかしカメは50%の成功を選択したとも言えるのではないか」と。カメ自らの選択という問題に、学習した・しないを判定する観察者の判定基準・前提外部が、不可避的に参入してしまうのだ。

Id: #e20000403000345  (reply, thread)
Date: Mon Apr 03 00:03:45 2000
Name: わたなべ
Subject: ペギオ亀の謎

辻下さんのおっしゃる

昆虫の行動と、(昆虫の関知しない)実験者Aが注目する<資料の形>との 関係を主張するには、他の因子が行動に影響を与えないという対照実験を行 う必要があります。しかし、対照実験を「尽くす」ということはあり得ず、 とりあえず実験者(と同時代の実験者が)思いつくかぎりの他の因子につい て対照実験を行えばよい、ということではないかと思います。

のように、「思いつくかぎりの因子について対照実験を行う」というのは実験 として普通のとりくみ方だと思うのですが、それと件の亀の実験がどう同じな のか理解不能です。

そもそも「実験結果の評価において、判定者の定めた判定基準の関与が不可避 である」という事を説明するために、わざわざ亀が落し穴に落ちる頻度を測定 する事にどういう必要性があるのかわからないのですが、どういう意義がある のでしょうか?


Id: #e20000402190911  (reply, thread)
Date: Sun Apr 02 19:09:11 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000401223232
Name: 江副日出夫
Subject: 実験というより、カメいじめてるだけですよ

>辻下さん

辻下>生物学の最初の困難は記述にあるのではないでしょうか。

生物学に貢献するという視点からすれば、そんな「最初の困難」で悩んでもしかたのないことです。
まず単純な記述から始めればよいのです。

数理生物学(の主流)では、生物の本質を余すところなく、みたいな大上段な記述ではなくて、まず「リンゴが10個、ミカンが5個」程度の素朴な記述から始めます。そのあとで「リンゴといっても大きいのと小さいのがある」みたいなことを考えたらどうなるか、とか。
もちろん、そんな簡単な記述で実際のデータと完全に合致するわけもないのですが、大雑把でもいいから傾向を説明できれば、という方針です。

辻下>予測の問題も、どういう記述における予測なのか、というように、記述に依存していると思います。

現時点の生物学の知識では、生物の完全な記述は不可能です。
したがって、予測が記述に依存しているとしても、それは単に記述が近似に過ぎないからという以上の問題ではないと思いますが。

辻下>他の因子が行動に影響を与えないという対照実験を行う必要があります。
辻下>しかし、対照実験を「尽くす」ということはあり得ず、とりあえず実験者(と同時代の実験者が)
辻下>思いつくかぎりの他の因子について対照実験を行えばよい、ということではないかと思います。

実験の時点で未知の因子を考慮できないのは、おっしゃるとおりです。
しかし「観察者の判定基準」は、実験者が思いつかない因子ではないどころか、むしろ実験系を組むにあたっては非常に重要な点です。実験デザインの他の部分が正しくても、誤った判定基準を用いれば、誤った結論しか得られないからです。
実際、さきに引用した文章を読むかぎり、野村氏(この人はたぶん郡司氏の学生です)も、統計的にみて妥当な判定基準を用いて「ターゲットを学習したとは言えない」という結論を一旦は導いています。しかし、その結論がどうして直後に覆ってしまうのでしょうか?判定基準を変更すべき合理的な理由はまったくないのに。
そんなあやふやな判定基準だったら、手間ヒマかけて実験するなよ、と言いたい。
無意味な実験で何回も落とし穴に落とされたカメに同情します・・・


辻下> 実験者A(と、その属する学術社会の人々)の主観が、実験の結論を正当とする判断の基底にあると言えます
辻下>(それがまずい、というようなことを言っているわけではなく、そういうものだ、と言っているだけです。)。

「学術社会の人々」というより、おそらくはあまり統計に強くない人々でさえも妥当と考えること(今回の例で、50%の正答率で「学習したとはいえない」という判断基準)を疑うに足る合理的根拠は、どこにもないと思いますが。


>黒木さん
この掲示板はしばらく前から寄らせてもらってます。たいへん面白いですね。
「サイアス」ですが、「科学朝日」だった時代はまあよかったと思うけど、最近は困った記事が載っているのをよく見かけます。
名前をfashionableにしたら、中身がnonsense、という。

Id: #e20000401230020  (reply, thread)
Date: Sat Apr 01 23:00:20 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000401223232
Name: こなみ
Subject: 江副さんの紹介してくれた郡司さんのレポートはジョークとしか思えないので、まじめに取るほうが失礼かと思ったほどですがね

 動物の能力を試すための実験に統計的方法が用いられるのは当然のことで、 二者択一で正解率50%だったら、試された項目についての、その動物の能力は 基本的にゼロですよね。あるいは我々が二者択一の試験問題を作成してみて、 ある受験者の正解率が50%だったら、「おまえは何も勉強しとらんだろうが!」 というのも正しい。もちろん、問題数と実際の正答率から判断の信頼性を付記する 必要はあるのだけれど。

 郡司さんのカメを使った実験に関する考察は、その意味で噴飯ものだし、本人が本気でそう考えているのだったら、大方のまともな人に嘲笑されてもしかるべきでしょうね。まあ、一種のジョークだろうと、私は信じたいけど。


Id: #e20000401223232  (reply, thread)
Date: Sat Apr 01 22:32:32 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000331130227
Name: 辻下 徹
Subject: 「トンデモ実験」ですか > 江副さん

江副>生物学が数理科学に要請していることは、数学的厳密さではなく...

物理学ですら数学的厳密を要求していないと思いますから当然です。

江副>生物学が数理科学に要請していることは、...理論的予測である

予測はもちろん要請することのひとつですが、それが要請のすべてと思われますか。

また、生物学の主な関心が予測である、とは私には思えないのですが。生物学の最初の困難は記述にあるのではないでしょうか。予測の問題も、どういう記述における予測なのか、というように、記述に依存していると思います。

生物学が数理科学に要請することのひとつとして、予測を主要な意図とする力学系的概念装置以外の数理的概念装置ではないか、というのが私の少し前の立場です。

------

江副>上のような、科学実験のイロハを無視した解釈が許されるのなら、
江副>何のために実験したのやら、です。

江副さんが動物実験をされているか知りませんし、江副さんのテーマではないかも知れませんが、たとえば動物の概念学習を示す実験は市民権を得ているではないでしょうか。

(これは特定の実験を想定して言っているのではないのですが)昆虫が特定の形を認知しているということを示す実験を考えましょう。昆虫の行動と、(昆虫の関知しない)実験者Aが注目する<資料の形>との関係を主張するには、他の因子が行動に影響を与えないという対照実験を行う必要があります。しかし、対照実験を「尽くす」ということはあり得ず、とりあえず実験者(と同時代の実験者が)思いつくかぎりの他の因子について対照実験を行えばよい、ということではないかと思います。これは科学実験とみなされませんか。しかし、思いついた対照実験のセットが実験の鍵となっている以上、実験者A(と、その属する学術社会の人々)の主観が、実験の結論を正当とする判断の基底にあると言えます(それがまずい、というようなことを言っているわけではなく、そういうものだ、と言っているだけです。)。

江副さんがトンデモ実験と呼ぶ実験と、上のような動物概念学習実験との違いは何でしょうか。

Id: #e20000401212222  (reply, thread)
Date: Sat Apr 01 21:22:22 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000329134912
Name: 辻下 徹
Subject: パラドックスの序列には関心がありません > 稲垣さん

稲垣>ぼくは「生命」を先にしていて、「数学」は後ですが、
稲垣>自然を考えているうちに数学の不十分さがときどき出てきます。
どのような点でしょうか。

稲垣>ハゲはパラドックスとしての位置付けが低いでしょう。

パラドックスに序列を付けることには私は関心はありません。それぞれが独自の輝きを持っていると思います。むしろ、解決できるかどうか(つまり詭弁であることを示せるかどうか)という点にしか関心はありません。2000年以上も「万人が認める解決」がないという点では、真性のパラドックスのひとつだと私は思っています(ダメットの解決もひとつ飛躍があります)。

一般的にどう思われているかということを御聞きしたわけではなく、稲垣さん自身が(砂山のパラドックスが真性かどうかについて)どう思われるているのか、を御聞きしたかったのです。

稲垣>「アリストテレス」かと思ったら、「アルキメデス」?

実数に関するアルキメデスの公理(ゼロでない正実数数を何倍かすればいくらでも大きくなる)に基づく変化の描像です。微小な変化が蓄積されて目に見える変化が生じるという漸増的変化の考えは数学的にはこれに基づいていますが、ここでは「有限」という厄介なものが不問にされています。この原理をもう一度考えてはどうか、ということです(p進体を考えては、というような反射的反応はご免被りたいですが)。

稲垣>複雑系のよさの一つは百家争鳴のところかなあ。

上田さんを挙げたところを見ると、「稲垣さんの複雑系」はカオス系統の話しのようですね。これは複雑系などという言葉を必要としない、ふつうの数学と私には思われます。

「百家争鳴」に関連してひとつ思うことを書かせてください。

流行(どうやら意図的に引き起こされたらしい、というのは、自分(達?)が起こしたと自慢する人がいましたので)前には、複雑系研究者の間には、今からすればかなり明確な共通認識があったと思います。過度の単純化を承知の上で敢えて言うと、「生命をテーマとするときに歴然としている(と思われる)自然科学の諸限界は、自然科学の(方法論や表現等の)基盤の所で新しい試みをしなければ乗り越えられない」という共通「認識」だと思います。そして、その共通認識が今なお「複雑系研究者」の苦闘の原動力となっていると私は感じています。「複雑系」という言葉を使うことに学術的意義があるとすれば、従来の自然科学の方法を越えたものを模索すること以外にはない、と私は思っています。

百家争鳴が進むと、さる方の非難
A \cap B \cap C = \emptyset,
where
A={person:researchers of complex systems}、
B= {person:intelligent}、
C= {person:conscientious}.
という非難が、正当な非難となってしまうかも知れません。

Id: #e20000331161549  (reply, thread)
Date: Fri Mar 31 16:15:49 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000331130227
Name: くろき げん
Subject: 江副日出夫さん、面白い話どうもありがとうございます

最近私用(より広い住みかへの引っ越し)で忙しく、ここをほとんど覗くことができないでいました。久々に覗いてみたら江副さんの記事が一番上にありました。「これを読んで、笑うなというほうが無理じゃないでしょうか」というのは全くその通りで私も爆笑してしまいました。辻下さんも一緒に笑っていてくれていれば喜ばしいことですがどうでしょうか?

私は数学畑の人間であり、趣味の科学ファンなのですが、「数学の不定性」が本物の生物に具体的にどのように関係しているかを全く理解できないし、辻下さんも結局のところそれについて何も説明してないと思います。 (一方それに対して、高次元圈に関する仕事は純粋数学としての価値があり、たとえ生物と関係なくても (実際具体的に関係を示した仕事の存在を知らない) 意味のある仕事だと思います。)

P.S. そう言えば、『サイアス』2000年4月号で郡司氏に関する解説を含んだ「内部観測」の特集がなされていたようですね。江副さんが引用したような爆笑記事を書いている方でもああやってポピュラー・サイエンス誌で好意的に取り上げてもらうことによって世間的な名声を得ることができるという仕組みが現実に存在している。ちなみに、その特集を書いた木幡赳士氏 (正確には「赳士」の「赳」の字はちょっと違う) は『朝日キーワード2000』に「サイエンス・ウォーズ」に関するコラムも書いているようです。しかし、その内容はアンドリュー・ロスなどによる「予算と尊敬を失った保守主義の科学者達がその原因を求めて弱者や小数派に味方する学者へ不当な攻撃を仕掛けて来た」というトンデモなく偏った見方に基いています。まあ、もともと「サイエンス・ウォーズ」はそのような見方を広めるためのキャッチ・フレーズとして宣伝された用語なので、そのような用語の解説としてはそれなりに「正しい」ことを書いているということになるのかもしれませんが。そして、そのような見方が広まってくれれば科学者による批判の正当性が疑わしいと思う人が増えるのである種の人達にとってはありがたいのでしょう。『朝日キーワード2000』のようなメディアを通じてデタラメが広まるかと思うとちょっと気が重いです。 (cf. 1, 2)


Id: #e20000331131645  (reply, thread)
Date: Fri Mar 31 13:16:45 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000331130227
Name: 江副日出夫
Subject: 「不定性」に関する郡司氏のトンデモ記事(訂正)

すみません、私の投稿内容に誤りがありました。

(誤)郡司・野村・森山 (1999)「私を含む動物=不定性を含む動物」日本行動学会Newsletter No.34 p.16-23
(正)郡司・野村・森山 (1999)「私を含む動物=不定性を含む動物」日本動物行動学会Newsletter No.34 p.16-23


Id: #e20000331130227  (reply, thread)
Date: Fri Mar 31 13:02:27 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322230415
Name: 江副日出夫
Subject: 「不定性」に関する郡司氏のトンデモ記事

皆様、はじめまして。 数理生態学を専門としています。どちらかというと生態学寄りです。
数学の研究者が生物学をどうみているのかはよく知らないのですが、生態学を含む生物学が数理科学に要請していることは、数学的厳密さではなくて理論的予測であると思っています。それはほかの応用数学と同じことです。
もちろん、生物学から着想を得た題材が、数学理論として発展するのは喜ばしいことですが。

私は、「数学の不定性」というのはよく理解できないのですが、どうやら郡司ペギオ幸夫氏が言うところの生物の「不定性」と関係があるのですよね。
私は郡司氏の文章はほとんど理解できないし、ましてやそれが生物学上どのような意味があるのかまったく理解できないのですが、ほとんど唯一理解できた部分がありますので、引用します。引用は、
郡司・野村・森山 (1999)「私を含む動物=不定性を含む動物」日本行動学会Newsletter No.34 p.16-23
からです。

(ここから)
Nomura&Gunji(1999)の実験は、実験の前提に関する不定さという形で、わたくし性を、より積極的に導入した実験である。(中略)野村は、落とし穴をセッション毎に、左右交互に変える実験を行った。(中略)カメは最終的に、左右いずれかの道を選んだ。ここで野村は次のように問うた。「結果的にカメは50%失敗する。これは半分だから、ターゲットを学習したとは言えない。しかしカメは50%の成功を選択したとも言えるのではないか 」と。カメ自らの選択という問題に、学習した・しないを判定する観察者の判定基準・前提外部が、不可避的に参入してしまうのだ。
(ここまで)

・・・これを読んで、笑うなというほうが無理じゃないでしょうか。
上のような、科学実験のイロハを無視した解釈が許されるのなら、何のために実験したのやら、です。
もし「不定性」がこんな類のことを差しているのならば、少なくとも、生物学に貢献できる数学には決してなり得ないのではと思いますが。
Id: #e20000329225111  (reply, thread)
Date: Wed Mar 29 22:51:11 2000
Name: 江上繁樹
Subject: おわび、不定性再論

辻下さん、最初のお尋ねを忘れておりました。
于論茶サイトはここ
また、なんでも2で(于論茶、宇論茶、ウーロン茶)で検索すれば、関連した議論が出てくると思います。

さて、辻下さんのサイトをみていて、”不定性”に関連する数学論文がすでに
かなりあることを知りました。したがって、私の最初の投稿の”プロ意識”云々、
と2番目の投稿における批判はまったく的外れです。ご本人に失礼であることはある程度、承知の上だったのですが、さらに掲示板を見ている人にあらぬ誤解を与えてしまったことをおわびいたします。

ただ、それらの論文では公理の意味が不定性を示唆するものであっても、そこからの理論展開は普通の数学や論理学の推論プロセスになっているのではないでしょうか。いや、その中にも本当は不定性が潜んでいるのだ、と(暗黙のうちにであっても)主張されるのなら、それは独我論を
定義上存在しない他人に向かって説くのに似たパラドックスに陥ってしまうような
気がするのですが。
また、不定性を強調することは、数学による現象記述の自由度を増すかもしれませんが、問題解決や推論の価値を低めることにならないでしょうか。

実際、ウィトゲンシュタインは、
”哲学は数学をそのままにしておく”
と述べる一方で
”未解決の数学の問題には確定した意味がない”といっていますし、集合論や実数論に反対する議論もしています。
ウィトゲンシュタインが言った事自体にとらわれる必要はないとのことですが、
不定性を認める限り、こういう考えは自然です。

自然数による世界の理解を目指していたらしいピタゴラス学派が、はからずも無理数を発見してしまった、というような数学における予想外の発見は、むしろ数学の
”確定性”に依存しているような気がします。
”こう考えれば無理数という興味深い対象が発見できるが、別の考え方をすれば
有理数になって、それはそれなりの興味と用途がある”
というのは、私には好ましい数学とは思えません。

辻下さんの目指されているのがこういうことであるならば、
対岸の泉がこちらで洪水を引き起こさないことを祈るばかりです。

以上のような議論が基礎論でないのは承知しているつもりです>鴨さん
Id: #e20000329160824  (reply, thread)
Date: Wed Mar 29 16:08:24 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000328192145
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: 啓蒙、教育の場合

どうも、江上繁樹さんは数学哲学のことを数学基礎論だと誤解しているように見えるのだけど、断定できません。それ以前に、他人がどういう事実誤認をしているかには興味ないし。

後継者云々については、 「Newtonの『神の一撃』の自然観は、われわれのNewton力学とは関係ない」 と答えておけば十分でしょう。


Id: #e20000329134912  (reply, thread)
Date: Wed Mar 29 13:49:12 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000328215331
Name: 稲垣耕作
Subject: 辻下さんお返事ありがとうございます

「数学の基礎への疑念」と「生命の未知の原理」という問題意識(これも心理?)はいいなと思うんですよ。ここは評価したいんです。ぼくは「生命」を先にしていて、「数学」は後ですが、自然を考えているうちに数学の不十分さがときどき出てきます。

「ハゲのパラドックス」はどこかの本に載っています(野崎昭弘さんあたり?)。伝統的なパラドックスは、「ここに書いてあることはウソである」のように「自己言及」と「否定」が入っていますので、ハゲはパラドックスとしての位置付けが低いでしょう。

 >進化のような<目に見えない変化>のモデルとしては、アルキメデス的描像と、相転移的描像

ふっと「アリストテレス」かと思ったら、「アルキメデス」? アリストテレスは「生物学の始祖」と呼ばれますが。

複雑系のよさの一つは百家争鳴のところかなあ。もう一つのよさは、「日本で創始した」といばれることかもしれません。湯川秀樹さんもできなかった。下記は一昨日の産経(西日本版)。長尾さんは上田さんの友人ですが、友人でも総長だとこんな紹介はできないのですが……。(シリーズでたった1回の「先生」使用です、ご容赦を)

***

複雑系の最終講義 稲垣耕作 (情報文明の交差点 第10回)
 京大の上田目完亮(よしすけ)先生の最終講義を聴きに行った。大講義室が満員で、立ち見も出ていた。いわずと知れた学者と書きたいが、長く注目されなかった。それが日本の学問上の危機を象徴するのかもしれない。
 ただ、まだしも京大は独創を重んじる。長尾真総長のあいさつ付きだったからだ。停年の講義で総長が紹介するのは、異例中の異例。まるでノーベル賞受賞者ほどの扱いだ。総長は「世界最初のカオスの発見者」として上田教授をたたえた。
 水を打ったように静かな講義室で、ごく小さな声で講義が始まる。だれもが必死で耳を傾ける。控えめな人柄、在りし日の湯川秀樹さんを思わせる風貌。神戸で空襲を受けた生い立ちから、研究者生活へと淡々と進む。
 一九六一年、いまでいう複雑系のカオス現象を発見した。しかしカオスとはいったい何だろう。講義からわかってきたのは、解説書などがそれをごく一面的にしかとらえていない現状だった。
 独自の見解は『複雑系を超えて』(筑摩書房)などの著書にある。もし一言でいうなら、そこには「否定の学」があるとみたい。カオスを発見するまでの道のりは、まさに否定の連続だった。
 整然とした体系中に、混とんとしたカオスなる現象が顔をのぞかせる。従来の常識では考えられない。実験法を否定し、現象自体を否定し、それでも否定しつくせないデータだけが残った。それなら旧来の理論を否定するしかなかったのだ。
 京都学派は古い学説を否定する反骨精神とともにある。それにしても、この科学の確立はあまりに壮絶だったようだ。学士院賞受賞者でもある教授が、九年間も発表を差し止めさせた。学界でカオスという表現が使われ始めたのでさえ一九七五年。それより十四年も前の発見だったからだ。
 いまだにアメリカ人がカオスの発見者だとみなされることが多い。京都賞の栄誉もそちらに与えられた不幸。けれども最終講義では、決定的な一言はすべて心に納めた表現にとどめられた。
 一枚の十一面観音の写真が映された。「今の気持ちは、その観音像の裏側に彫られた顔だ。科学上の発見の喜び、そして別の深い悲しみが交錯している」という。ただ肝心の裏の顔は、けっして見せてもらえない。
 複雑系の先駆者は、カオスや複雑系という言葉さえ否定する。等身大の物理現象として、そこに「第二の自然」なる新しい自然観を導入する。講義の核心的部分は、四十年の自分史を総括しながら、深遠かつ鉄壁の構えに満ちていた。
 どんな業績もいつも里程標にすぎない。自己否定を繰り返しつつ、一歩ずつ足元を踏み固めていく。「最初に成果を見通せる研究は大学に不要」「基礎研究は十年の単位の時間が必要」が最後のメッセージだった。
 偉大な反骨がまたキャンパスを去っていく。

Id: #e20000329040234  (reply, thread)
Date: Wed Mar 29 04:02:34 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000328231728
Name: 志村立矢

> デデキントはラッセルの逆理が出たあと、集合を使うことが心配になり、「数
> は何か」の出版を止めたという有名なエピソードがありましたが、一生そのま
> ま出版を認めなかったのでしょうか。

岩波文庫で翻訳されている版の序文をご覧ください。

Id: #e20000328231728  (reply, thread)
Date: Tue Mar 28 23:17:28 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000324232547
Name: 辻下 徹
Subject: 火事ではなく泉なのですが... > 志村さん

TJ> 例えば長さ30くらいの一目で見れる論理式という(中略)具体的なものにつ
TJ>いての証明可能性の定義に「10^100000ステップの推論」のような理念的な
TJ>ものが入ってしまうのを排除できるのか、という問題です。
言い方がまずかったようです。私が気になっているのは、「証明可能性の定義に「有限回」という言葉を使う。しかし「有限回」とはどういうことかという問いは、自然数とは何かと同じ深さの問いだ。そうすると、形式的体系で数を明確にするというのは循環していることになる。」という問題点です。

> 実際にそういうことが起きなければ、証明可能という概念そのものにそのよう
> な理念的なものが入っていようがいまいが実用的には問題ない
その通りです。<実用的に>問題がなければ問題がない、というのがプロのプロたる姿勢と思います。ただ、私は、別の文脈から関心があるので実用的な観点だけでは済ませたくないのです。

> 定理そのものは短いのに証明が非現実的な長さであるような例を示すか

「非現実的な長さ」という言葉で何を言おうとされているか志村さんは説明できますか。この言葉を明確にしようとすれば(私が問題にしている)問題の核心に突き当たるはずだ、と私は思います。


>それから、例の講義録について困ったことだと考えていることは、数学基礎論
>の種々の定理が示すモデルの多様性と、おっしゃっている「不定性」との関係
>をきちんと論じていないことです。
(「講義録」ではなく、講義の時の補助でしかない「講義資料」です。)
講義資料でも、かなり何度か書きましたし講義では何度も言ったことですが、「講義の主題である<不定性>は今の数学の中では一理論体系内部で特定の概念として把握することはできない、しかし、それは今の数学の到る所に「現象として」姿を顕わしている、その例をいくつか挙げる」ということです。 「きちんと論じる」ことはできないという点が核心なのです。これは、ふざけていっているのではありません。「有限回」というのをきちんと論じることができないのと同じです(形式的体系で「有限」を論じることは、きちんと論じることにはならない、形式的体系が「有限回」ということを使っているから)。


>少なくとも僕にとっては、あの内容は
>「地球にはいろいろな人種がいます。だから「火星人」もいるかもしれません」
>程度の意味しかありません。
強いてその方向の比喩で言えば「地球にはいろいろな生物がいます。しかし、我々がまだ知らない生物の方がはるかに多いし、我々が生物と呼ぶことをためらうような度肝を抜くような生物も居るかもしれない」という感じですね(tube worm をTVで見たときの衝撃は忘れられません)。
>『代数系としての群や環にはいろいろなものがあります。
>これは群や環の不定性の表れです。』という文章と講義録の主張との区別
自然数の形式化が複数のモデルを持つことが重要なのです。なぜなら、自然数は我々の日常的経験の範囲ではカテゴリカルだからです。それなのにモデルが一つに決まらない−−そこに驚きがある。群や環にいろいろなものがあることに何も驚かない。実際にここに2つの群を呈示できる。しかし、自然数では、目に見える形で2つのモデルを出せるわけではない。理念の領域でしか差は出てこないからです。そして、ここに不定性の積極的意義が如実に現れている−−−我々の経験の範囲では確定しているものでも理念のところではふにゃふにゃである。そして、ふにゃふにゃなおかげで超準数学ができる。これが、不定性の意義を象徴的に示している、というのが講義で伝えたかったことです。
>数学基礎論という学問に対する誤った先入観
どこが誤った先入観か、具体的に指摘していただけないでしょうか。

数学としての数学基礎論の詳細についてはたいした専門的知識もないので私は何も主張していませんので、その点について「誤った先入観」と言われる覚えはありません。とすると、数学ではない部分について私が言ったことを問題にされていることになります。(「数学基礎論という分野」といわず「数学基礎論という学問」と言われているのはそういうことだと理解できます。)そうすると、「意義」を問題にせざるを得なくならないですか。たとえば、数の概念を形式系で明らかにするという営為は、Nelson のような慎重なやりかたをしない限り、哲学的には無意味な循環になり兼ねない、ということを実用的な視点だけで不問にはできなくならないですか。

>デデキント風の実数論を展開する

積りは全くありません。角田氏の不定な最大数を持つ自然数が、物理学者には十分な実数論になると思っています。

デデキントはラッセルの逆理が出たあと、集合を使うことが心配になり、「数は何か」の出版を止めたという有名なエピソードがありましたが、一生そのまま出版を認めなかったのでしょうか。


「対岸の火事」と思われて大丈夫ではないか、と思っています(火事ではなく、新しい泉なのですが...)。ただ、志村さんとは別の意味で、対岸の火事ではない、と思って頂ける方が基礎論の方におられれば嬉しいというのが率直な気持ちです。
Id: #e20000328215331  (reply, thread)
Date: Tue Mar 28 21:53:31 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316124627
Name: 辻下 徹
Subject: 「砂山のパラドックス」は真性と思いますか? > 稲垣さん

>「数学の基礎への疑念」と「生命の未知の原理」がテーマらしいですね。

他でも書きましたが心理的な「疑念」ではありません。生命科学への数学の役割というもの考える限りにおいては、今の数学の特性と表裏一体ともいえる盲点があって、それが生命を見えなくしているというテーマです。また<生命の原理>という普通の表現自身に、現代科学の生命へのアプローチに隠された前提が現れている、という感じも持っています。そして、その前提と現代数学の盲点とが一体となっている、ということがテーマです。

>砂山のパラドックス? ぼくらは「ハゲのパラドックス」と言っています。

どういう議論があるのか興味があります。真性のパラドックスと御考えでしょうか。

>この問題を複雑系を標榜して議論するよりは、ほかにももっと面白い話題が出
>てきてくださることを希望したいです。これって複雑系???

<複雑系を標榜して議論>しているのではなく、複雑系の問題の核心の一つ(特に、単一の記述系で同時には表現できない2つの記述系の間の関係の理解)に関係していると思っています。

たとえば、進化のような<目に見えない変化>のモデルとしては、アルキメデス的描像と、相転移的描像しかないと思うのですが、砂山の逆理は2つの異質な時間スケールを結ぶ新しい描像を持っているように考えています。(これをEessenin Volpin にならって Zenon 的描像と呼んではどうかと思っています)


> 複雑系には大テーマが何か存在していると直観する人が多くなっているように思います。

> 最後は複雑系といってよさそうな問題に突入します。

「複雑系」について、かなり明確な概念を稲垣さんは御持ちのようですが、どのような感じを持たれているのでしょうか。とても興味があります。この掲示板でも「複雑系な公募」という形容詞動詞形まで出現していますので。


Id: #e20000328192145  (reply, thread)
Date: Tue Mar 28 19:21:45 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000328154708
Name: 江上繁樹
Subject: 啓蒙、教育の場合

後継者というとき考えていたのは、例えば
Foundations of Constructive Mathematics
の著者Beesonとかそこに直観主義者、構成主義者としてあげられている人たち
です。昔の林晋さんもそうかもしれません。
(誤解を避けるために言っておきますが、私はこの本は
序文や歴史的付録をぱらぱら眺めただけですし、それ以前に基礎論というか
ロジックのちゃんとした勉強をしたこともないです)

また、広い意味での後継者である鴨さん自身が、
基礎論入門のようなコースを非専門家や学生に講義する場合はどうでしょう。

私自身が数学の研究や勉強をする場合、たしかに問題解きや、対象の面白さ
せいぜいその分野での重要さのようなことにしか目が向かないのですが、
学生に微積分の講義をするときなどには、
”数学は科学技術の一つの基礎で・・・”
のようなことも言うし、実際、それはある程度事実だと思う。

もちろん、逆にそういう思い込みの強すぎる相手に対しては
カウンターバランスの意味で
”数学の目的は科学技術への応用ではない”
ということもありますが、
応用が目的で数学を研究している人もいることも知っています。

まあ、こういうことからの類推なのですが、
基礎論とそれ以外の数学の間には、こういう関係はないのでしょうか。

なお、同じ投稿の中なのでまぎらわしかったかもしれませんが
私の質問の中の”数学"の"基礎”というのは、ここでずっと問題になってきた
ウィトゲンシュタイン(クリプキ)のパラドックスのような話ではありません。

皆さんには、掲示板の趣旨から話の方向がずれて申し訳ないと思いますが
一応関係があると思いますので。
Id: #e20000328154708  (reply, thread)
Date: Tue Mar 28 15:47:08 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000328123221
Name: 鴨 浩靖
Subject: 返答不能

まだ、返答不能です。

後継者とは? たとえば、広く解釈すれば、ここにいる人の多くは、アルキメデスの後継者です。


Id: #e20000328123221  (reply, thread)
Date: Tue Mar 28 12:32:21 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000327173013
Name: 江上繁樹

専門外の人間から見ると、たとえば統計数学といえば
応用を目的としている人もいるんだろうと思うようなもので
元々明確な質問ではなかったのですが、できるだけ具体的に書きます。

1.Brouwerや一時期のWeyl(直観主義), Bishop(構成主義)、およびその後継者が今でもいるのではないかという(あまり根拠のない)推測。

2.ある種の数学(集合論や解析学)の概念や推論には明晰でないものが含まれて
いると考えて、使用を取りやめたり、別の言い方で置き換えたりすること。
そのように従来の数学を改良するために新しい体系を作ること。
また、体系自身のメタ論理的研究をする際も、上のようなことを意識しているというような状態。

3.正確な年代は良く知りませんが、HilbertとBrouwerが論争したり、Weylが
直観主義に転向したころ。

もちろん質問内容自体に事実誤認が含まれているかもしれませんので、
そうでしたらご指摘ください。



Id: #e20000327173013  (reply, thread)
Date: Mon Mar 27 17:30:13 2000
In-Reply-To: e0003.html#e20000325024321
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: コンピュータとの関係

問いがもっと明確でないと答えようがないので、反問します。
Id: #e20000325024321  (reply, thread)
Date: Sat Mar 25 02:43:21 2000
Name: 江上繁樹
Subject: コンピュータとの関係

辻下さん、素人談義に付き合ってくださりありがとうございます。
自分の投稿を眺めてみて、ネガティブでいやみな点が目に付き
少し反省しています。

角田さんがコンピュータとの関連について述べられていたのを思い出し
”不定性”について自分なりに推測してみました。

われわれが、自然数論の命題、たとえば
”すべての自然数a,bに対して a+b=b+a が成り立つ”
をどう理解しているかを考えます。

現実のコンピュータ、メモリも有限で時間的にも有限
(たとえば5年経ったら返納廃棄処分にする)とすると
本当に有限の数学しか実行できません。
(とゲーデルBBSで書いたら、鴨さんに可能無限と実無限の
中間領域の探索に使えると教えられましたが、人間の解釈が
介在しなければ、やはり有限だと思う)
a,bをintegerだと思うと少なくともメモリの制限にぶつかるし
a+b=b+aを文字列だと思うと、意味を欠くことになる。
どう考えても人間の理解とは差がある。

ということをいったん認めておいて
ところで、人間とコンピュータはこの議論に関する限り
どういう差があるのか?
と、問うことにします。
人間とコンピュータは何らかの違い(生物的、社会的、霊的!)
がありそこに未解決のなぞがあるのだ、というのが普通の考え方。
いや、全然違いはなく、われわれが理解していると思うのが
錯覚なのだ、というのがウィトゲンシュタインのパラドックス

という理解でいいでしょうか?

鴨さん、こちらでははじめまして。
素人談義を御笑覧ください。

ついでにひとつ疑問があるのですが、
数学基礎論が単なる数学であるというのは、あくまで
鴨さんの立場であって(もちろん多数派かもしれないけれども)
たとえば、直観主義の人とか、構成主義の人とかは
本当に”数学”の”基礎”を念頭においているということはないですか?
少なくとも、基礎論が誕生したころは。



Id: #e20000324232547  (reply, thread)
Date: Fri Mar 24 23:25:47 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000321234857
Name: 志村立矢

> 例えば長さ30くらいの一目で見れる論理式という(中略)具体的なものにつ
> いての証明可能性の定義に「10^100000ステップの推論」のような理念的な
> ものが入ってしまうのを排除できるのか、という問題です。

排除できるのかという問題が問題とするだけの価値があるということを人に納
得させるためには、定理そのものは短いのに証明が非現実的な長さであるよう
な例を示すか、少なくともそのような例がありそうだという具体的な現象を示
す必要があるはずです。

実際にそういうことが起きなければ、証明可能という概念そのものにそのよう
な理念的なものが入っていようがいまいが実用的には問題ない (積極的に排除
しようとする意義がわからない) という意見は当然あり得ると考えなかったの
でしょうか。

# というよりも、まず自身で考えておくのが当然であると思ったので、例を知っ
# ているかという質問をしました。


それから、例の講義録について困ったことだと考えていることは、数学基礎論
の種々の定理が示すモデルの多様性と、おっしゃっている「不定性」との関係
をきちんと論じていないことです。少なくとも僕にとっては、あの内容は
「地球にはいろいろな人種がいます。だから「火星人」もいるかもしれません」
程度の意味しかありません。もう少し穏やかな表現にすると、「『代数系とし
ての群や環にはいろいろなものがあります。これは群や環の不定性の表れです。』
という文章と講義録の主張との区別がどのようにしてできるのか僕には読みと
れません」ということになります。

「数学の不定性」について語るとき、数学基礎論について論理的な裏付けのな
い言及ばかりがなされるのは不当なことであると考えています。特に、数学基
礎論という学問に対する誤った先入観とともにこのような主張をされるのは、
とても困るのです。そういうことさえなければ、この議論は対岸の火事ですか
ら黙って見ているだけだったのですが。

「不定性の理論」そのものについては、僕の立場からはそもそも議論すべき材
料は今のところ何もないので、ほとんど言えることはありません。何か具体的
なものが出てきたときに、素人としてコメントができるかどうかでしょう。
具体的なものとしては、集合の定義もせずにデデキント風の実数論を展開する
ような不完全なものは御免蒙りたいとは思いますが。

Id: #e20000324200803  (reply, thread)
Date: Fri Mar 24 20:08:03 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322231752
Name: 鴨 浩靖
Subject: 数学者の行為としての「数学」

辻下さんのいう「非形式的なメタ」というのは、数学者の行為としての「数学」のことであるということだということだと理解しました。そういうことなら、 「素朴な質問 > 志村さん、鴨さん」の(3)
志村さんや鴨さんにお聞きしたいのは、形式的体系を数学的に研究するときに使う数学(これをインフォーマルな数学という人もいるそうですが、ここでの文脈ではメタ数学(日常語))と、形式化された数学との関係には関心はないのでしょうか、ということです。
に答えることができます。

数学者の行為としての「数学」は、数学基礎論の対象外です。数学基礎論の対象は、あくまでも、数学的構造としての論理体系や証明などです。歌のたとえを借りれば、録音という技術の対象は、歌声という音であって、歌唱という行為ではないということです。

数学基礎論は数学の一分野であって、それ以上でもそれ以下でもありません。

なお、Cで書いたCコンパイラを持ち出したのは、それと、Con(ZFC)→Con(ZFC+I) の証明不可能性の証明で行なっていることとが、テクニカルには同じものだからです。


Id: #e20000324085755  (reply, thread)
Date: Fri Mar 24 08:57:55 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322232534
Name: 辻下 徹
Subject: 「不定性」は対象の性質ではなく対象を捉える基盤の不定性です>わたなべ様

(なんだか法人化の話しが腹立たしい展開で、こちらへの書き込みは少し遅くなります。)


不定性は、基盤の不定性だ、という点が一番わかりにくい様相です(そして、言うまでもなく「基盤の不定性」という基盤にもそれがあてはまる、という懐疑論の本質がここにはある)。

書かれた2択では

2. 生物は分子機械であるが分子の運動にも不定性がある。そこで分子機械と
   しての生物を記述するにあたって不定性を考慮した新しい数学を用いれば、
   生物特有の不定性 (心の働きとか?) についてもうまく説明できる。

は、私の考えに近いですが、「不定性」が何か我々とは無関係に存在するもののように聞こえます。実在する「不定性」をどう表現し捉えるか、といった話しになりかねません。

そうではなく、分子機械を今は物理的世界像という基盤で余すところなく捉えられるとしても何も問題がない、しかし、この基盤というのは仮のものだ、という極く極く当たり前の自然科学の懐疑的態度に過ぎないとも言えるのです。ただ、今世紀に生じた物理学の基盤変更と「同じようなスタイル」で基盤が変更されていくとは限らない、ということが重要ではないか、と思うのです。

例えば、物理学者が使っている数学と数学者の数学との違いがかなり重要な意味を持ってくる事が有りうるとも思える。物理学者の使う数学は「いい加減」なのではなく、「丁度良い加減」の数学である、とも思える。「丁度良い加減の数学」は「厳密な数学」を崩したものである、という理解ではなく、それ自身が独自の数学である、という数学観が出てこないのか、そして、そういう形で数学の基盤が動くことで、同時に物理学の基盤が動くとうことも有りうる、といったシナリオも有りうる。

2を、こういったことを含めて言うのでしたら、私の考えていることだとも言えます。


辻下> ところで、確認しておきたいのは、「心が現象である」といわれたのは、
辻下> 心も物質的現象である、という意味でしょうか。それとも、二元論的な
辻下> 「心的現象」のようなものを考えられているのでしょうか。

わたなべ> 記事を書いている間に辻下さんが投稿しておられました。私の質問は「辻下さ
わたなべ> ん御自身はその点についてはどうなのでしょうか?」というのに近いものです。

こなみさんが「心といった別の次元の現象」ということを言われたので、「別の次元の」という修飾語が、心は物理的現象の中で特別な種類の現象という示唆なのか、心は2元論的な別の存在という示唆なのか、確認したかっただけです。

私自身は「心が現象である」という言い方が誤謬であると思っています。


Id: #e20000323192239  (reply, thread)
Date: Thu Mar 23 19:22:39 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000323004201
Name: 江上繁樹

>ウィトゲンシュタインについてたいして読んでない・・

といわれてしまうとまあ一言もないのですが。
”哲学の役割は言語を明晰にすることである”(正確な表現はうろ覚えです)
とどこかで言っていたような気がします

無言のメッセージというのはと思考の態度や姿勢に学ぶべきだ
という意味でしょうか。
しかし、実際にウィトゲンシュタインが目指していたという明晰性の内容が問題だと思います。
それは彼にだけ通用するものではないでしょうか。

私の言いたかったことの別の例を出すと、
講義録の第13講に角田さんの言葉として
”暗算と計算とは何の関係もない”
というのが出てきます。

ここでは暗算と計算を別のものとして考えようという意図でしょうが
”関係”の新しい意味が発明されているのだも思えます。

いずれにしろ、このように数学(論理学)に対する態度を変更する必然性がウィトゲンシュタインからは読み取れないのです。それが単に”明晰性”を求めるためというなら、そこでいう”明晰性”は宙に浮いているような気がします。
ごく原始的な数学をも懐疑の対象にするような”明晰性”をわれわれは知っているのでしょうか?あるいは必要としているのでしょうか?

ただ、前にも言ったように
”複雑系なり数論幾何なりの具体的問題の解決のために数学や論理学の新しい見方が必要になるのだ。”というなら話の筋としては分かります。
実際、第14講でサンプルとして示された"Algebraic axioms"のような語り方ならば
その妥当性の問題を除けば、通常の数学や論理学の言葉として理解できますし、体系として豊かであるか有用なものであれば、当然支持されるでしょう。

でも、そう言うことではないんでしょうね

それ以前の講義にあるような、発想の段階の哲学はそれこそパーソナルなものなので、辻下さんと同じくらい、同じように(例えば)複雑系について考えた人との間でないと通じないのではないでしょうか。そうでない人は出来上がったものを見て
哲学を推測すればいいと思います。

特殊相対論の論文で、最初の、例えば”同時性の定義”の部分のみが単独で出版されていたとしたら、多くの物理学者は無視したでしょうし、そうあってしかるべきだと思います。


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