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黒木のなんでも掲示板3 (0002)

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Id: #e20000323004201  (reply, thread)
Date: Thu Mar 23 00:42:01 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322222207
Name: 辻下 徹
Subject: ウィトゲンシュタインと岩澤健吉

> 于論茶サイト
はどういうサイトでしょうか。
>1)”数学的帰納法”
>自身以外に
>2)”明晰”
>ウィトゲンシュタインの書いたものや、解説を読むときいつも気になるのは
>2)を自明とみなし、1)のみを疑問に付するというダブルスタンダードで、

ウィトゲンシュタインをたいして読んでいないようですね。

彼は明晰性については一切語っていません。「ウィトゲンシュタイン的明証性」は、私が勝手に「デカルト的明証性」と対照的に言った言葉に過ぎません。彼はただ明晰に語ろうとしただけです。明晰に語ることだけが明晰性が何かを示す、というのが彼の無言のメッセージです。そして「明晰に語ることだけが明晰性が何かを示す」ということすら言っていない、なぜなら、その文自身が何も意味しないから、という具合です。こういった明晰性の説明の仕方を、ウィトゲンシュタイン的明証性と言ってみてはどうか、と思ったわけです。

ウィトゲンシュタインが何を主張したのか、という問いは彼が20年間何を苦闘したのかを理解する道を最初から閉ざしてしまいます。1930年にヴァイスマンが彼との議論を整理して「テーゼ」(全集第5巻p335−378)としたとき、ウィトゲンシュタインは、そのような滓に何の価値もない、というようなことを言っています。

> 大変失礼な言い方になってしまうのですが、数学者としてのプロ意識という点です。

保守性・非寛容性・閉鎖性・mannerism に堕落しないでプロ意識に徹するのは容易なことではない。私自身でいえば、プロ意識を最優先していたら微分幾何から離れてこのスリルのある領域に入ることはできなかったと思います。そういう意味ではプロ意識という自負の誘惑に勝てたことを幸運だったと思っています。

それなら、黙ってやって自他共に許す完成度に達してからものをいえ、という声も聞こえるのですが、それをやるとこの掲示板でのような批判をしてもらえない。ここでしている議論は私には極めて重要で、自分の見過していることや議論していなかった色々な点に目を向けることができます。はた迷惑なことは承知ですがお許しを。

> 生の形で論文や講義という形で出てくるのには正直言って違和感があります。

Annals of Math(?) に掲載されたPost の日記(論文としてではなかったのかも知れませんが)の例などもありますから、そのようなものを書くことが許される<数学者としての格>についての違和感なのでしょう。

> 辻下さんの講義録は一応目を通したのですが、ご本人の基準からしても
> 漠然とした研究プログラムでしかないようにおもえます。

研究プログラムではなく、数学の不定性というものを、色々な角度から気付いてもらうための教育的講義です。と同時に、数の不定性について、自分自身、もう少し感触を深めたかった、ということです。

実際には、独立行政法人化の問題が動き始めてしまいま、講義の内容を余り深められなかったのが残念です。しかし、数学の不定性についての自分の研究の方は2〜3年遅れても「どうということ」はないが、独立行政法人化問題の方は数カ月単位で事が進行し、今の我々の対応の一つ一つが胎児期の子供への処置と同じように大きく将来の大学(だけでなく日本の知的風土)を左右するものであるということを考えて、事の軽重を間違えないようにしています。

> 少し話題になった岩澤さんについていえば、何回か講義や講演を聞いたことがあるのですが、
> 高齢にもかかわらず思い出話や哲学でなく、具体的な数学的問題を語る姿勢にプロとしての
> さわやかさを感じたものです。

プロとしてのさわやかさなどが問題ではないのです。語られた具体的な数学的問題が岩澤さんの人格に直結したものであることが重要な点です。それを通して、数学がパーソナルであることを語っていた、と言うことができるでしょう。それはウィトゲンシュタインの語りかたと通じるものでしょう。


Id: #e20000322235629  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:56:29 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322230415
Name: いまだ
Subject: で,辻下さんの理論だと,その問題は具体的にどう解決されるの?

少し判ったような気がします.もし誤解だったら訂正してください.
「生物」を機械として見る、というときには、実は新しい機械概念をも同時に構築しなければならない。 「原理」以前に新しい概念装置一式を捜さなければならないのです。

なるほど.生命現象の理解と記述のためには,新しい概念装置が必要であると. でも,辻下さんの「数学の不定性」の議論は,単に

数学の不定性はボタンの掛け違えを示唆する役割を持っている
だけにすぎず,新しい概念装置なり,生命現象の理解と記述のための処方を与えてくれるものではない. あくまでも「ボタンの掛け違えを示唆する役割を持っている」ことで「生命科学に寄与する」 ということですね.
Id: #e20000322233951  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:39:51 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322201259
Name: 大'
Subject: 物理的に違うじゃん

すすす、すいません! つい母国語で書いた方を出してしまいました!(おい)
で、以下が原文。


問題を単純化して(心と生命の問題はレベルが違うという考えはありますが)心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる主張したとします と、この主張は自分自身を無意味にしてしまいます。というのは、「心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる」という主張自身も物理的なプロセスに過ぎないことになりますし、「それが正しいかどうかを議論する」というは別の物理的プロセスでしかなく「ワンワン」と吠えるのとの違いは物理的にはわからない(と考えることもまた物理的プロセスでしかなく...等々)

で、ここから導ける結論としては、

といったところですか。問題になるのは、この議論が「物理的なプロセス」として完結して何が悪いのか?というとこですかね。なぜそれが「無意味」だということになるのか。心が「物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる」ようなモノ(=物理的なプロセス)であるという前提なんだから、当然の帰結だと思いますが。もっと神秘的なモノでないと納得できませんか?


Id: #e20000322232534  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:25:34 2000
Name: わたなべ
Subject: 二元論?
> ところで、確認しておきたいのは、「心が現象である」といわれたのは、
> 心も物質的現象である、という意味でしょうか。それとも、二元論的な
> 「心的現象」のようなものを考えられているのでしょうか。

記事を書いている間に辻下さんが投稿しておられました。私の質問は「辻下さ
ん御自身はその点についてはどうなのでしょうか?」というのに近いものです。

もっとも「心も物質的現象である」という前提に立っていても心の問題だけ切
り離して考える事はありうるし、二元論を前提にしていても「一石二鳥で同時
に説明してしまえる」という考えもありうるかもしれませんが。

Id: #e20000322231752  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:17:52 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322213230
Name: 辻下 徹
Subject: 数学者のすることと数学との関係

> 非形式的な数学はアプリオリに存在する。

という超越的な主張をしているのではなく、普通に我々が数学を「する」のは踊ったりするのと違うことではない。歌ったり踊ったりというのもいくらでも形式化できるでしょうが、それは歌ったり踊ったりするのとは違うことは自明です。そして、そういう「数学者のする」という部分と切り離して数学がある、という思いなしは、数学の本質を見失うだろう、ということです。

> そうだとすると、Cで書いたCコンパイラが現実に稼働しているのは、なぜなんでしょう?

ご質問の意図を測りかねますが。CコンパイラをCで書けるということが何か関係があるのでしょうか。ある形式を使って、その形式と同型なものを実現する、という話しは数学では普通のことではないですか。

あるいは、物理系としてCが<実現>している、という相を問題にされているのでしょうか。


Id: #e20000322231601  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:16:01 2000
Name: わたなべ
Subject: 物理的なプロセスの不定性
辻下さんの御意見を拝見して、主張されている内容に良くわからない個所があ
るので質問させていただきます。

私は辻下さんが「数学の不定性」と呼んでおられるものについてはっきりとし
たイメージを掴めておりませんが、その事についてはとりあえず置いておいた
ままごく大ざっぱな事を言うと、「生物は(従来の数学を用いて記述されるよ
うな)物理的世界像の中で完全に整合的には説明できないような性質を持って
いるが、不定性を持った体系を使えばそういった性質を記述して理解する事が
可能となりそうだ。」というのが主張の内容だと理解しております。

しかし、もうちょっと具体的にどのようなアプローチを考えておられるのか、
例えば以下の 1 か 2 のような事なのか、それともどちらとも全く異なる事な
のか、そのあたりは全くよくわかりません。

1. 生物の分子機械としての側面は (従来の) 物理的世界像の中で整合的に説
   明できる。そういう部分には従来の数学を使えば良い。しかし、それ以外
   の側面 (心?) を説明するには不定性を考慮した新しい数学が有効である。

2. 生物は分子機械であるが分子の運動にも不定性がある。そこで分子機械と
   しての生物を記述するにあたって不定性を考慮した新しい数学を用いれば、
   生物特有の不定性 (心の働きとか?) についてもうまく説明できる。

小波さんの質問は 2 のような考えかたであるという前提のもとで、「従来の
分子や原子レベルの運動法則に修整を加えるんでしょうか?」というものです
よね。

また、2 だとすると生物に限らず機械だろうが何だろうが全て不定性を持って
おり、生物だけが特別ではない (万物には魂が宿っている?)、という事になっ
てしまいそうな気もします。

Id: #e20000322231055  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:10:55 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322201259
Name: 辻下 徹
Subject: 少し人が、いや大'が、悪いですね。

辻下> 「それが正しいかどうかを議論する」と「ワンワンと吠える」との
辻下> 間には物理的違いしかなくなってしまう。

ということを言っていることくらいわかっていらっしゃるでしょうに。


Id: #e20000322230415  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 23:04:15 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000322171249
Name: 辻下 徹
Subject: デカルトの言ったことを今強調しても...

> 生物の活動を支配している分子や原子レベルの 運動の法則の変更が,
> 辻下さんのいう「数学的不定性」というものによって起こりうるのか

という問いに、「存在」と「法則」についての素朴な哲学的思い違いがあると思います。 「なんらかの法則が生物の活動を支配している」という言い方は、次の形而上学的主張が暗黙の前提となっています。

(*)生物という存在が、(法則を表現する前提となる)記述体系に余すことなく写し取られる。

もしも、写し取られていない部分があるとすれば、特定の記述体系に従属する法則が生物の活動を(制約することはあれ)支配することはないからです。しかし、「写し取ったかどうか」などというのは立証しようがありませんから、上の前提は今の自然科学に重宝な形而上学である、と言ってよいと思います。しかしせいぜい重宝なだけなので、この形而上学を色々いじることはできるのは当然のことです。

「数学的不定性」と法則の関係を言えば、

「<数学的法則>が存在を規定するという類の言明をしたくても、そもそも<数学的法則>は何かを完全に規定するような性格のものではない。なぜなら、数学的規則自身が底なしの不定性を持っているから。

という関係です。

>「生命の理解を支えている統計熱力学や化学反応論や分子の量子論といった 道具」

を問題する以前に、生命の理解の前提となっている「生命が物理的現象である」という意味の段階で私は問題があるという立場です。従って、

> 心といった別の次元の現象

という言い方の妥当性も同じ問題になります。

ところで、確認しておきたいのは、「心が現象である」といわれたのは、心も物質的現象である、という意味でしょうか。それとも、二元論的な「心的現象」のようなものを考えられているのでしょうか。

> ようするに 機械としての生命体で起こる現象を理解するためには
> 「何か新しい原理」が必要なのか?ならばその「原理」は 「数学の
> 不定性」と辻下さんが言っているものと関係しているのかというこ
> とをお尋ねしているのです。

ボタンの掛け違えというのは、その後の作業をどれだけ律義に厳格にやっても失望に終わります。「機械としての生命体で起こる現象を理解する」ということで一体なにを目指しているのかを問わなければならないと思うのです。その目的がわからないところで「そのためには何か新しい原理が必要か」という問いは無意味でしょう。

「生物」を機械として見る、というときには、実は新しい機械概念をも同時に構築しなければならない。「原理」以前に新しい概念装置一式を捜さなければならないのです。

数学の不定性はボタンの掛け違えを示唆する役割を持っている、と思っています。

> 認識する主体が認識する行為や仕組みそのものをどう認識できるのだろうか
> その手の議論を論理的に切り分けないで堂々巡りに帰してしまうのは馬鹿
> げていると 思いますが,少なくとも,自然科学における生命(ただし心の問題までは考えない)
> の問題にそれを適用するのは まったく的外れですよね。

というようなことをデカルトが言って300年経ちました。そして、その考えの有効性は現代科学という結晶が見事に実証しています。その有効性だけでいつまでも進めると楽天的には思えない段階にまで達していることは、デカルトも生きていれば言ったでしょう。


Id: #e20000322222207  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 22:22:07 2000
URL: megami@eng.toyama-u.ac.jp
Name: 江上繁樹
Subject: ウィトゲンシュタインなど
はじめまして、江上と申します。
黒木さんとは知人の知人という関係だと思います。
ゲーデルBBSに実名で何回か書き込みましたし
前に、”かきたま”というハンドル名で于論茶サイトに書き込みしたものです。
この時は、
不用意に水路を開いたようなもので、両サイトにご迷惑をおかけしたのではない
かと気がかりでした。

というような自己紹介でいいでしょうか?

さて、辻下さん、角田さんの論文については以前から気になっていましたが
興味深い展開になってきたので、書き込ませていただきます。
長くなってすみません。

結論から先に言うと、かなり否定的なのですが、その理由は二つあります。
一つはウィトゲンシュタインの哲学そのものに関するものです。
例えば”数学的帰納法は明晰でない”という文章を考えるとき、問題になるのは

1)”数学的帰納法”

自身以外に

2)”明晰”

という言葉の意味があると思います。
というのは、言語の意味は用法であるという彼自身の哲学を認めるならば
”明晰”という言葉の意味もまた使用によって定まるもので、
そう考えるとウィトゲンシュタインは”真理”とか”明晰”という言葉の意味を
再定義したに過ぎないともいえます。
ウィトゲンシュタインの書いたものや、解説を読むときいつも気になるのは
2)を自明とみなし、1)のみを疑問に付するというダブルスタンダードで、
そうするだけの必然性がなければ、”お気楽なラディカリズム”に過ぎないと思います
(私から見てそういうにおいが感じられるのは
日本の哲学者では野家さん、野矢さんなどです)。
もっとも、辻下さんたちの場合には、複雑系とか数論幾何という具体的問題が
あるようですからこの批判はあたってないかもしれませんが。

もう一つは優れた数学者であるらしい
辻下さん、角田さんには大変失礼な言い方に
なってしまうのですが、数学者としてのプロ意識という点です。
発想の源泉としては、数学者はどんな哲学を持っていてもかまわないと
思いますし、それをエッセイなど読むのは楽しいです。
岡潔さんの仏教とか加藤和也さんの”鶴の恩返し”とか(^^)。


しかし、それが生の形で論文や講義という形で出てくるのには正直言って
違和感があります。
辻下さんの講義録は一応目を通したのですが、ご本人の基準からしても
漠然とした研究プログラムでしかないようにおもえます。
(もっとも前半は、ロジックの速成入門とも見えますが)
少し話題になった岩澤さんについていえば、何回か講義や講演を聞いたことがあるのですが、
高齢にもかかわらず思い出話や哲学でなく、
具体的な数学的問題を語る姿勢にプロとしてのさわやかさを感じたものです。

Id: #e20000322213230  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 21:32:30 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000320210026
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: <非形式的>と<形式化できない>の違い

辻下さんは、
非形式的な数学はアプリオリに存在する。われわれは、メタレベルでは非形式的な数学を使っている。メタレベルの数学を形式化することはできるが、形式化によって変質する。
と、考えていると理解していいですか。

そうだとすると、Cで書いたCコンパイラが現実に稼働しているのは、なぜなんでしょう?


Id: #e20000322201259  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 20:12:59 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000321234857
Name: 大'
Subject: わわんわんわわわんわ

問題を単純化して(心と生命の問題はレベルが違うという考えはありますが)心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる主張したとします と、この主張は自分自身を無意味にしてしまいます。というのは、「心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる」という主張自身も物理的なプロセスに過ぎないことになりますし、「それが正しいかどうかを議論する」というは別の物理的プロセスでしかなく「ワンワン」と吠えるのとの違いは物理的にはわからない(と考えることもまた物理的プロセスでしかなく...等々)

わ、わんわんわんわんわんわんわ、

わんわんわんわんわん。わんわわんわん、わんわわん「わんわんわんわん」わんわんわんわんわんわんか?わんわんわんわわん。わんわわん「わわん」わんわんわんわんわわん。わん「わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんる」わんわわん(=わんわんわんわん)わんわんわんわんわんわわん、わんわんわんわんわんわん。わんわんわんわんわんわんわんわんわんわんわ?


Id: #e20000322171249  (reply, thread)
Date: Wed Mar 22 17:12:49 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000320221227
Name: こなみ
Subject: レベルの違うものを一緒にされても困ります

問題を単純化して(心と生命の問題はレベルが違うという考えはありますが)心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる主張したとします と、この主張は自分自身を無意味にしてしまいます。というのは、「心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる」という主張自身も物理的な プロセスに過ぎないことになりますし、「それが正しいかどうかを議論する」というは別の物理的プロセスでしかなく「ワンワン」と吠えるのとの違 いは物理的にはわからない(と考えることもまた物理的プロセスでしかなく...等々)
そもそも私が尋ねているのは,生物の活動を支配している分子や原子レベルの 運動の法則の変更が,辻下さんのいう「数学的不定性」(残念ながらこの用語は 理解できませんが)というものによって起こりうるのかという点です。 もとの私の文章自体は平明なはずで,そこで書いている「生命の理解を支えている統計熱力学や化学反応論や分子の量子論といった 道具」が, 心といった別の次元の現象の理解に直接に役立つはずがないことは,馬鹿でも分かります。ようするに 機械としての生命体で起こる現象を理解するためには「何か新しい原理」が必要なのか?ならばその「原理」は 「数学の不定性」と辻下さんが言っているものと関係しているのかということをお尋ねしているのです。

上で辻下さんの書いていることは,ようするに認識する主体が認識する行為や仕組みそのものをどう認識できるのだろうかという 問いに他ならないわけです。その手の議論を論理的に切り分けないで堂々巡りに帰してしまうのは馬鹿げていると 思いますが,少なくとも,自然科学における生命(ただし心の問題までは考えない)の問題にそれを適用するのは まったく的外れですよね。


Id: #e20000321234857  (reply, thread)
Date: Tue Mar 21 23:48:57 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000321020748
Name: 辻下 徹
Subject: ご質問の意図がわかりました

辻下>「ある論理式が公理から推論規則を10^10000回適用して得られる」という文
辻下>にメタ(日常語)のレベルで意味を与えることはできない」...(

志村> 当然この文の「論理式」という概念についても同じ観点から見る必要があります

もちろんそうですが、例えば長さ30くらいの一目で見れる論理式というものは一応紛れがないとしていいと思います(と言っても、これも場合によっては揺らぐこともあるかも知れませんが)。こういう具体的なものについての証明可能性の定義に「10^100000ステップの推論」のような理念的なものが入ってしまうのを排除できるのか、という問題です。

しかし、おっしゃるように、1が10^100000個並んでいるword 、という時にすでに理念的な話しになってしまっていて、記号の世界から逸脱している、という指摘と同じ指摘に過ぎません。

> 積極的に「最大数のある自然数の理論」というものを考える理由づけ

のため、ではなく「「最大数のある自然数の理論」というものを考える」余地があることの基底を与えると思っています。単純化した筋書きとしては、であるとすれば、我々が普段行っている数学に何の影響も与えずに10^100000 にexotic な意味を与えることは可能である、例えば、それが最大数だとしても何も困らない、というようなことです。

形式的証明可能性概念に理念の世界が絡んでいておかしい、というのではなく、形式的証明可能性概念ですら理念に依存しているので、別の考え方をする余地がいくらでもある、という希望がもてるわけです。

>「10^10000の長さの論理式」が証明できるかどうか

ではなく、「10^10000の長さの論理式」という言葉に何か確定した意味があるかどうか、という懐疑が、「最大数のある自然数の理論」の出発点とも言えるものです。

> 短い論理式でとてつもなく長い証明を持つものがあるかどうか

というときの「とてつもなく長い」という言葉が問題の核心なのです。長さ10^100000 であればとてつもなく長い、と言ってしまうと、問題がずれてしまいます。


Id: #e20000321200524  (reply, thread)
Date: Tue Mar 21 20:05:24 2000
Name: くろき げん (管理人)
Subject: 記事の削除のお知らせ

削除した記事予備掲示板2に移してあります。白木氏は管理人の支持にしたがって下さい。

皆さんにお願いですがこの件に関するコメントをこの掲示板には絶対に書かないで下さい。書くならば予備掲示板2にして下さい。表に出し難い情報はメールにして下さい。過去に何があったかを知りたい方はメールを下さい。ずっとこの近辺を覗いている方々は皆知っていることですが。

P.S. 連休のあいだ東北大学数学教室は停電+断水の状態でした。


Id: #e20000321083117  (reply, thread)
Date: Tue Mar 21 08:31:17 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000320224110
Name: 伊藤憲二
Subject: Kripkenstein

はじめて投稿させていただきます。 私は哲学よりも科学史を勉強しているものですが、 社会構成主義を克服する(もうすでに死んでいるという見方もありますが)上で、その基盤となっているWittgensteinのKripke・Bloor流の解釈を踏まえることは必須ですので、関心をもっていました。

Wittgensteinの懐疑主義の評判が悪いというよりも、Kripke流にWittgenstein を懐疑主義として解釈することの評判が悪いのだと思います。例えばこちらなど をご覧ください。そこで上げられているBakerやHackerのほかにも、McGinn、CavellやPutnamなども総じて反Kripke的な解釈、すなわちWittgensteinは懐疑主義を批判しているのだという解釈をとり、また彼ら自身もWittgensteinに基づいた反懐疑主義の立場に立っているようです。もちろん、これを踏まえた上で、WittgensteinではなくKripkensteinの懐疑主義について議論をするのであれば問題はないわけです。


Id: #e20000321020748  (reply, thread)
Date: Tue Mar 21 02:07:48 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000320205643
Name: 志村立矢

> 辻下>「ある論理式が公理から推論規則を10^10000回適用して得られる」という文
> 辻下>にメタ(日常語)のレベルで意味を与えることはできない

> 志村>と言い切るためには、その論理式の長さが 10^10000よりもずっと短い必要が
> 志村>あります。

> どうしてでしょうか。もう少し説明して頂けないでしょうか。

意味を与えることができると言っているわけではなく、積極的に「最大数のあ
る自然数の理論」というものを考える理由づけにはならないでしょうという意
図でした。元々この文は「証明可能」という概念に対する批判として挙げたも
のですから、当然この文の「論理式」という概念についても同じ観点から見る
必要がありますよね。
端的に言えば「10^10000の長さの論理式」が証明できるかどうかというのは、
「最大数のある自然数の理論」からはどうでもいいこと (理論の対象外) だと
思うのですが違いますか。

で、そういうことならば、短い論理式 (証明の長さとの相対的な問題ではなく
絶対的な意味で短い論理式) でとてつもなく長い証明を持つものがあるかどう
かということぐらいは考えているのだろうと思ったのでその例を尋ねてみたの
です。

Id: #e20000320224110  (reply, thread)
Date: Mon Mar 20 22:41:10 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000312004419
Name: 辻下 徹
Subject: 「古典的な」懐疑主義

田中 裕 様

哲学の方からの励ましにとても勇気づけられました。

>デカルトの時代においては、スコラの自然哲学のほうが「普遍的」な学問の
>(定冠詞付きの)「基準」を与えているとみなされていた

「普遍性」概念が普遍的なものではなく歴史的なものである、という歴史的な実例ですね。
その当時には、きっと、古代の学問の「普遍性」とは違う真の普遍性であるという議論が当然されていたのではないかと想像されます。

> ヴィトゲンシュタイン・クリプケの懐疑的議論を、
> こういう「古典的な」懐疑主義の文脈で

しかし、哲学者の間でも<ヴィトゲンシュタイン・クリプケの懐疑的議論>(だけでなくウィトゲンシュタイン自身、特に後期の仕事)は評判が悪いと聞きますが、どうしてなのでしょうか。最近はクリプキも余り懐疑論について述べていないという話しも聞きますが、まだ理解されそうもないと諦めてのことなのでしょうか。確かに、ヴィトゲンシュタインは学問という形式そのものに対し否定的であったようですので、アカデミズムには整合しにくい面があることは仕方がないのかも知れませんが。
Id: #e20000320221227  (reply, thread)
Date: Mon Mar 20 22:12:27 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316091452
Name: 辻下 徹
Subject: 生命と不定性が直結しています > こなみさん

>数学の 基礎となる数概念をとりまく疑念

「数概念をとりまく疑念」と「数の不定性の主張」は異質なものです。疑念というのは何か怪しい、という心理的因子が入っていますが、「数の不定性の主張」の方には、田中さんが書かれていた通り、心理的な因子は何もないと言えます。

「皆が安心して使っている数が怪しいのではないか」と言うのではなく、誤解を恐れず単純化していうと、今の数学の文脈とは違う数学の文脈では、これまでの数学での数概念とは抵触しないような自由度が数概念にはいくらでも残っているだろう、それが時には数学を豊かにするだろう、というような主張です。


> 生命の複雑な様相

が問題の本質だとは思っていません。しばしば「複雑系」という言葉で認識論的な困難(特に「完全記述」が人間の把握力を越していることからくる困難)に焦点が当てられますし、私自身も当初はそういう問題意識でした。しかし、郡司さんの取り組みを通して、問題は全然違うところにあるということが「わかり」ました。その点は「生命と複雑系」の後半でかなり詳しく説明しましたが、要点は、生命は整合的な形式には捉えられないという点です。「整合的な形式には捉えられない」という意味は、たとえば次のようなことです(単純すぎて不満かも知れませんが)。

問題を単純化して(心と生命の問題はレベルが違うという考えはありますが)心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる主張したとしますと、この主張は自分自身を無意味にしてしまいます。というのは、「心を物理的世界像の中で完全に整合的に説明できる」という主張自身も物理的なプロセスに過ぎないことになりますし、「それが正しいかどうかを議論する」というは別の物理的プロセスでしかなく「ワンワン」と吠えるのとの違いは物理的にはわからない(と考えることもまた物理的プロセスでしかなく...等々)

生命を考えるときには、この自明なことを念頭に置かなければならない。しかし、「整合的な形式には捉えられない」という否定形では一歩も前に進めない、どうすればよいのか。そこからの脱出口が「形式の不定性」だったわけです。それを鮮明に見せるのが、形式の粋ともいえる自然数、それが持つ不定性だったということです。

従って、生命の理解と数の不定性とは私には直結したものです。というより、やっと、こういう形で自分が納得できる問題設定できた、という段階です。といっても、肝心なステップで、郡司さんや角田さんの洞察に助けられましたが。


>たとえば細胞内での物質代謝には, 分子がその法則に従って運動すること以外の不思議な様相はない

「分子がその法則に従って運動する」という言い方が引っ掛かるのです。釈迦に説法と思いますが、分子は別に法則に従っているわけではなく、我々が分子というものを理解するときに法則を使って情報圧縮しているだけです。

誤解を恐れずに言えば、分子は「厳密に法則に従っている」と人間には見える以外にはどう振る舞おうと勝手です。数学の不定性を持ちだして別の言い方をすると、立川さんが書かれていたように物理で使う「実数」はふにゃふにゃですので実数を使って記述されている物理法則に「厳密に従っている」という言い方で分子の動きが確定している、という見方自身もできなくなる。


Id: #e20000320210026  (reply, thread)
Date: Mon Mar 20 21:00:26 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316111014
Name: 辻下 徹
Subject: <非形式的>と<形式化できない>の違い

鴨>「形式的体系を数学的に研究するときに使う数学は非形式的である」
鴨> という間違った思い込み

と書かれていますが、「形式的体系を数学的に研究するときに使う数学は非形式的である」という言明を「形式的体系を数学的に研究するときに使う数学は形式化できない」という言明と解釈されているように思います。

メタを形式化しようと思えば意図に応じて色々できると思いますが、それは、もとのメタに替わるものではありません。第一、メタを形式化するという作業自身はメタなものでしかありえない。この高次のメタも形式化できますが、その作業自身はメタなものでしかありない、等々で、非形式的なメタがどこまでも消去できません。

Id: #e20000320205643  (reply, thread)
Date: Mon Mar 20 20:56:43 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316102102
Name: 辻下 徹
Subject: 素朴集合論とユークリッド幾何

辻下> 「素朴集合論で公理的集合論を研究する」のは無意味だという答えを退ける
辻下> のが私には難しい。

志村>「ユークリッド空間の中に非ユークリッド空間のモデルを作るのは無意味か」
志村>という問に対するのと同じ答ではいけないのですか。

ユークリッド空間と非ユークリッド空間とは、同種の数学的構造であり、前者の中に後者を実現するという主張は、数学的主張であり証明できる主張です。ユークリッド空間を使って非ユークリッド空間を実現するのではなく、微分幾何という分野の基盤を使って、ユークリッド空間の中に非ユークリッド空間を実現する、と見るべきです。

議論している文脈では、微分幾何に相当するのが素朴集合論で、「ユークリッド空間の中に非ユークリッド空間を埋め込める」という命題に相当するのが公理論的集合論に関する(無矛盾性などの)メタ的命題です。

先にも書きましたように、公理論的集合論の(哲学的)意義を考えるとき、研究に素朴集合論を使うのは私には気持ちが悪いと言っただけです。<数学者の立場>では、公理論的集合論が面白い数学的内容を持つという面の方が重要ですから、素朴集合論で研究することには何の問題もないし、無意味のわけもありません。

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辻下> 「ある論理式が公理から推論規則を10^10000回適用して得られる」という文
辻下> にメタ(日常語)のレベルで意味を与えることはできない

志村> と言い切るためには、その論理式の長さが 10^10000 よりもずっと短い必要が
志村> あります。

どうしてでしょうか。もう少し説明して頂けないでしょうか。
Id: #e20000317002550  (reply, thread)
Date: Fri Mar 17 00:25:50 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000315212450
Name: 辻下 徹
Subject: ハエとの関係 > 立川さんへ

色々な方から様々なコメントや批判や意見を頂いてわくわくしています。対話を続けたいと思いますが、ペースはゆっくりしたものになると思います。


> 2つの演習問題は同じ問いであると僕は思うのですが。

なるほど。『「普遍性」の考え方を用いて』という解き方の制約は無視すれば確かにそうですね。

>「演習問題」という言葉で何を意図しているのか測りかねる

解く方向がはっきりしているとき演習問題と(少し気取って)言うことがあると思います。その方針を実行するときには沢山の技術的問題が生じますが、新しい洞察は必要なく、忍耐と腕力(岡潔のいう「成所作智」)だけで解決できそうである、という見通しがあるときです。

もちろん、実際に始めれば新しい洞察が必要だったということは有るとおもいます。それならば大儲けというべきでしょう。

さて、解答を示せ、と言われました。最近、入試情報開示の方向の中で、数学の正解例の公表の是非が議論されています。正解が沢山あるということが議論の要になっています。この演習問題の解答はいくらでもありますし、そもそも何を解答と考えるかということも問題の一部にもなっています。それが高校までの数学の問題との違いです。

不定性の立場からすると、上の意味の方針がいくらでもあります。

一番安易な解答例は、物理の人の考えている実数概念に近いものを数学的なものにすることです。これは「最大数がある自然数」を使えばできます、ここでは実数と有理数の違いがなくなる(最初に紹介しました「数学と不定性」で簡単に素描したものです)。安易、と言ったわけは、超準解析で行われているhyperfinite を使う議論の焼き直しができるからです。超準解析より初等的になるという点が違います(Nelson は確率解析の初等化をやってみせましたが)。ただ、この焼き直しを実行するには多少のまとまった時間が必要で、その際上手くいかないところがすぐに出てくる可能性はある。

もう一つの解答の方向としては(単にバリエーション程度ですが)、ニュートン方程式自身は、<実数>という理念的なものの具体化(実装)によって初めて意味を持つような、とても underdetermined なspecification でしかない、というものがあります。この立場では、計算機実験で使う実数の実装ごとにニュートン方程式が初めて確定した法則を表す、ということになります。この方向は(「数学と不定性」でも言いましたが)、計算機実験の意味を根底から変える視座をもたらすと思っています。ここで発生する重大な問題は、計算機実験における「実数の実装」は舞台裏のことがらで、最終的な成果に影響してはいけないという「常識」です。これを支えているのが「普遍性」の思想ではないか、と思っています。


> 信念を離れて、具体的問いに関してならば、両者とも理解することができます。

そこが難しい。つまり、問い方が問題だというときに、どういう問いが重要か、という問題は、結局、信念や感性の違いの問題になってしまうわけです。

たとえば、鴨さんや志村さんとの対話では、今までのところ「具体的問い」のところで話しが平行線になってしまっています。

鴨さんが強調する「メタのものを形式的に書けるかどうか」という問題はとても重要だと思います。<複雑系の問題>も、かつて私は「形式化できないことが生命の本質とすら思われるとき、生命的なものをどうやって形式化すればよいのかが問題だ。現代数学の豊かな諸構造を用いて全く新しい形式化ができるのではないか」という問い方をしていました。しかし、そうではなく「形式」自身が生命と同じ深さにあった、という(今の段階ではこういう言い方で勘弁してください)ことが思いもよらなかったことだったわけです。そうすると「形式」の持つ不定性という問題になり<10^10000 は「どういう意味で」自然数か>が、肝心な問題群の一例として出てくるのです。この問いは哲学的な問いではなく(10進法と他の数の記法の関係に関する)<数学的な>問いとなる可能性を持った問いだと思うのですが、そのところで、信念や関心の違いは避けられません。


>なぜ<生命>に関わるのか判らないのです。たとえばハエには関係なさそうである。

ハエでももちろん関係あります。その点はもう少し議論が進んでから議論したいと思います。自然数の不定性についての議論は、いわばその準備のようなものです。この段階で議論がうまくいかないとすると、ハエについては、混乱させる要素が沢山ありますから、さらに議論がおかしくなると思います。


Id: #e20000316225307  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 22:53:07 2000
Name: 大'
Subject: でかくてふにゃふにゃな酵素はたちが悪いのだ。サンプル喰って旨いのが救い。:)

う。日帰り出張の隙にフォローされてしまった。(^^;;

俺が書きたかったことは、古川さんのフォローで大体通じたでしょう(他力本願)。最後の「さっぱりわからない」も同感。ちょっと補足しておくと、俺が実験対象としていたのは Ca2+-ATPase っていう膜にある酵素です。カルシウムポンプって言った方が通じやすいかな。で、実は古川さんの書いたのよりもう1段ミクロなレベルでやっていて、酵素の全反応が Hill plot に乗ったと思ったら競合するサブタイプが2種類混ざってて。。。とかいう感じの話だったのだ。まぁ話の筋が変わる訳じゃないけど。

で、辻下さん。「生き物が作れた」と誰がどういう根拠で判断するのでしょうかって話になると(確かにペギオさんの観察者が含まれる系でうんたら言う話になるんでしょうが)、それって(ふつーに言う)生物学やってる人は気にしてないのでは?「ウィルスは生物か?無生物か?」なんてのも同列の問題だと思いますが、これをハッキリさせることは(ふつーに言う)生物学の本流でも主流でもないと思う。中にはそれが気になる人もいるのかもね、程度で。

あ、そうそう。誤解のないように付け加えておくと、計算機実験はしてないし、した事ないし、(当分は)しようとも思いません。そんな話をまともに始めるには、この実験系だと早くてもあと数十年かかるでしょう。膜のリン脂質の挙動やタンパク質との相互作用だって、全然わけ分かってないし。もひとつ、ピンポン球の話は単なるたとえなので、そう信じている人がいるはずだ!と思ってる訳ではありません。(^^;;

こなみさんは生物出身(現在は言語理論屋らしい)の大'って書いてるけど、実はその言語理論屋の肩書きはこの3月で終わって、システムエンジニヤ〜の(ただし知らない人が見ると医者に見えるという)肩書きだけが残るのだ。:)


Id: #e20000316124627  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 12:46:27 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316091452
Name: 稲垣耕作
Subject: 数学と生命というフロンティア

面白そうな掲示板ができたと思っていたのですが、泥沼探索中で余裕がありませんでした。昨日、嶋正利さん(インテル4004やZ80の設計者)と半日議論して(清水寺散策とかしながらですが)、泥沼を少しは抜けたようなので覗いてみました。

「数学の基礎への疑念」と「生命の未知の原理」がテーマらしいですね。バッサリまとめてくださってありがとうございます。どちらも大事なテーマだと実感しています。言葉のデスマッチ希望というよりは、実質的に参考になる話がもっと読めればと楽しみにしています。ぼくの立場は、自分と違うアプローチを取っている人がいるとか、だれそれのアプローチは間違っているとか思っても、研究には自由こそ大事なので、邪魔はしないというもの(意見は言いますが)。違う意見の人が百家争鳴でどんどん進んでもらうのが楽しいです。ただ、だれの研究が最後に残るかは、時間の経過が最高の審判役でしょう。

砂山のパラドックス? ぼくらは「ハゲのパラドックス」と言っています。毛の数0本はハゲ、k本のときハゲなら1本増えただけではハゲ。よって全員ハゲだと結論される。この問題を複雑系を標榜して議論するよりは、ほかにももっと面白い話題が出てきてくださることを希望したいです。これって複雑系???

複雑系には大テーマが何か存在していると直観する人が多くなっているように思います。ただ問題は深く深く掘り下げないと、適当なレベルでこれこそ大テーマと即断してしまうのは危険でしょう。数理は奥が深いということについて、ややこしい議論はなしにして、下のパズルを楽しんでいただくのが面白いかもしれません。北大名誉教授の木下眞二さんから4ヵ月ほど前に届いた挑戦状です。

2000年問題クイズ
2を7個使って、2000を作りなさい。数学記号は自由に使ってかまいません。答えの一例は「2222−222」です。小中学校レベルの式も可能ですよ。(もちろん2以外の数字はなしです)

研究者レベルでの楽しみ方
2の個数を減らしましょう。最後は複雑系といってよさそうな問題に突入します。(答えは書きません。関西の方は3月20日の産経新聞朝刊で探してみてください)

2を7個使っても骨のあるパズルなのに、高校レベル程度の数学記号でなかなかのところまで深入りします。なおパズルマニアの方は万一「ディラックの解」をご存じかもしれませんが、それは超えてください。

Id: #e20000316111014  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 11:10:14 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316082632
Name: 鴨 浩靖
Subject: 形式的なメタ数学

メタ言語は形式化されることを書いたのは理解してもらえなかったようで。

数理論理学では、「形式的体系を数学的に研究するときに使う数学」をまた形式化することが日常的に行なわれます。たとえば、集合論では、Con(ZFC)→Con(ZFC+I) (ただし、Iは弱到達不能基数の存在公理)の証明不可能性の証明に、典型的なメタ言語の形式化の使用を見ることができます。これは、たいていの集合論の教科書では、わりと早い段階で出てくるものです。たとえば、Jechの教科書[1]では85〜86ページ、Kunenの教科書では145ページ。

したがって、形式的体系を数学的に研究するときに使う数学が非形式的であることを前提とした問には、返答不能です。前提が事実に反しているのですから。

「形式的体系を数学的に研究するときに使う数学は非形式的である」という間違った思い込みが広まっていることは、私も知っています。岩波数学辞典にもその誤解を助長するおそれのある表現があるんですね。以前に読んだ時は、単なる説明不足による意味不明だとしか思わなかったけど、すでに誤解している人が読むとますます誤解を深めるものであることがわかったことは収穫でした。学生に注意を喚起しないと。


Id: #e20000316103311  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 10:33:11 2000
In-Reply-To: http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/e0001.html#e20000314214002
Name: 古川徹生
Subject: 大'さんの掲示の背景

細胞内にはいろんなイオンがあるが,なかでもCa2+は特別に重要. なぜなら細胞内Ca2+濃度によって,さまざまなタンパク (いわゆる分子機械だ)のスイッチがONになったりOFFになったりするからだ. 筋細胞にせよ神経細胞にせよ,細胞内Ca2+なしには機能しえない. そのため細胞内Ca2+濃度は厳密にコントロールされている.

そこでCa2+濃度制御に関わるタンパクの特性やメカニズムを調べる ことになる.いろんな測定をして,そのタンパクの特性をグラフに表わしたとしよう. 次にはこの特性を実現するメカニズムを考える必要が出てくる. そこでなるべくシンプルな化学反応で特性が記述できないかと試みる (このあたりから数学のお世話になり始める). 試しにHill Plotしてみたら,うまくフィットできた!やった!! これでおおむねわかった. そのタンパクの挙動を計算機でシミュレーションしたければすることだってできる. さらに言えば,この成果を利用して 筋収縮のダイナミクスとか,神経細胞の発火パターンがCa2+ 濃度で変化する理由とかも説明できるかもしれない.

でも現実の細胞ってのは,どうもそんな単純な話じゃないらしい. 定性的にはおおむね合っていそうにみえても,どこか食い違う. そこで実験精度を上げてみたら,1本のカーブにフィットしてたのが実は2本で, 2つの反応過程を考えないといけないことがわかった…….

とまあ,大'さんの話をわかりやすく書くとこんなところでしょうか? これは一例に過ぎないけれど,生物の研究のこうした流れの中において, 複雑系と呼ばれるものがどのように寄与できるのかさっぱりわからない.


Id: #e20000316102102  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 10:21:02 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000316082632
Name: 志村立矢

(2)の「素朴集合論で公理的集合論を研究する」ことについて。

元の話は、普通の数学を使って(=素朴集合論の枠組で)公理的集合論のモデル
の研究をするということだったと思います。

> 「素朴集合論で公理的集合論を研究する」のは無意味だという答えを退ける
> のが私には難しい。

「ユークリッド空間の中に非ユークリッド空間のモデルを作るのは無意味か」
という問に対するのと同じ答ではいけないのですか。


(3) について。

> 「ある論理式が公理から推論規則を10^10000回適用して得られる」という文
> にメタ(日常語)のレベルで意味を与えることはできない

と言い切るためには、その論理式の長さが 10^10000 よりもずっと短い必要が
あります。失礼ですがそのような論理式の例をご存知ですか。

Id: #e20000316091452  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 09:14:52 2000
Name: こなみ
Subject: 数学の裂け目と生命現象(辻下さんへ)

 精神的に余裕がないので議論を斜め読みしての印象でごめんなさい。 論議の流れを確認するためにごく乱暴な単純化をしてしまいますが, 間違っていたら,あるいは補足していただけるなら,コメントを もらえると幸いです。

辻下さんがこれまで書かれたことは大きくいって2つありますよね。数学の 基礎となる数概念をとりまく疑念,それと生物の活動のもつ複雑さ。 数学の基礎への疑念の例としては砂粒問題や実数の連続性,あるいは ゼノンのパラドックスなども包含されるのでしょうか。生命活動に関しては, 失礼ながらほとんど門外漢でおられるようにもみうけますが, 生命の複雑な様相を理解するための未知の原理がまだあるのではないか, といった漠然とした期待がおありなのかな。 そして,現代数学の基礎概念がいまだに抱えている裂け目を 認識して数学の基礎を捉え直すことと,複雑系としての生命体の様相を解き明かしていくこととは, どこかつながっているのではないかと。 まあ,そこまで強く結び付けてはおられないのかも知れませんが, そういう漠たるイメージは見えてきます。

ただ,私がちょっとそれではまずそうだなと思うのは,これらの問題は 実際にはまったく何の関係もないことだという確信をもっているからです。 私はせいぜい学部の物理程度の勉強しかしてないし,もちろん数学者 ではないので,実数概念といったことについても漠たる理解しかしていない ものの,生命現象そのものは,そういったミクロな問題,たとえば, 実数概念に綻びがあったとして,ひょっとして時空の超ミクロなところで 物理がなんらかの変更を受けるかも知れないといったレベルの 問題は,生命の理解を支えている統計熱力学や化学反応論や分子の量子論といった 道具のきわめてタフな安定性にはおそらく何の影響も及ぼさないだろうからです。

以上は私の勝手な深読みで,勝手に結び付けるなということであれば,それは それで構いません。ただ,辻下さんの書いてこられたことを読むと, かつてシュレディンガーが「生命とは何か」で披瀝した,生命活動には 従来の物理法則で説明できない何かがあるのではないかという期待とか, 最近の「皇帝の新しい心」でペンローズが打ち上げた脳の機能への量子重力の寄与が あるかもしれないという 期待を思い出すのです。 シュレディンガーの期待は結局,「負のエントロピー」という興味深い,そして熱力学的にも 重要な意義をもつことになった結実になって,実は期待外れではあったがそう 悪いことにはならなかったのですが,ペンローズのそれは大方の失笑を買っている。

物理学者が,生命現象に対して一種の生気論的な期待をもつことはしばしば 見受けます。知らないがゆえの過剰な期待かな。それに対してこの下で書いている生物出身(現在は言語理論屋らしい)の大'さん とか,化学出身の私はきわめて「唯物論」的な,たとえば細胞内での物質代謝には, 分子がその法則に従って運動すること以外の不思議な様相はないといった感覚をもつわけです。 それでいて生物がおそろしく面白いことをやってくれる,そのことと ミクロな法則性の関わりというのは,もちろん一直線ではない。田崎さんたちの 書かれている「繰り込み」の説明の譬えは,その意味で非常に腑に落ちる ものでした。


Id: #e20000316085327  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 08:53:27 2000
Name: 辻下 徹
Subject: 近藤義臣氏のアピール<意識改革の勧め>

Reform ML (大学改革情報ネットワーク)の近藤義臣氏のアピール<意識改革の勧め>を紹介します。近藤氏のホームページに(多分同じ文書)が掲載されていますのでぜひ全文を読まれますように: http://www.el.gunma-u.ac.jp/~t-tak/stff/susume.html

独立行政法人化等が論外であるということが自明なCorollaryとなる程、透徹した大学認識が呈示されたと感じています。


Date: Tue, 14 Mar 2000 18:52:35 +0900
From: Yoshiomi KONDOH 
Subject: [reform:02657] revolution of our consciousness (1)
To: reform@ed.niigata-u.ac.jp

  大学の教職員と学生各位:
                        < 意識改革の勧め >  2000年3月14日

                 群馬大学工学部 電気電子工学科  近藤義臣

 突然のE-mailで失礼致します。このE-mail は全国の大学に勤めている関係者にお送り
しています。
今は、国立大学法人化問題に絡んで、各大学において教育と研究にかかわる改組再編構想
が討議されていると思います。省みるに自分を含めて改組を行おうとする大学側の全構成
員一人一人が持っている心構えが気になり、どのような変革をするにしても、まず第1に
大学という一つの小社会を構成する全教職員と学生一人一人の意識改革が根本的に必要不
可欠であるに違いないいう考えに至りました。そこで、いろいろな方の意見も参考にしな
がら自分なりの考えをまとめ、次の様なメッセージを作って一石を投じたいと考えました
。次の世代を送り出す立場の方々にもお読み頂き、もし可能ならば学生達にも配信して頂
き、又、勝手ながらコメントなど頂ければ幸いと思い、ここに送信させて頂く次第です。



 < 大学の全教職員学生一人一人の意識改革の必要性について > 

2000年3月14日                  群馬大学工学部 電気電子工学科 近藤義臣 Home page: http://www.el.gunma-u.ac.jp/~t-tak/index.html

1) 基本的な考え方: 教育と研究の場である「大学」とは、

(イ) 教育の場として、次の世代を担う若者や、自分にとって未知の事を学びに来る人々 に「教養科目や基礎及び専門科目の知識を教える」事だけではなく、「彼らの人間性や人 格を含む全体を育み、かつ、彼らに自ら成長してもらう、と同時に教職員自らも成長して いく」、という高い理想に基づいて築きあげられてきた環境を持つ、一つの自治的な小社 会である。 (人は一生の間、精神的に成長し続けています。) (ロ) 研究の場として、何かを究明し、且つ、全ての人々に幸福をもたらすような新しい 何かを生み出し、それらの成果を世界に向かって無償で提供するという崇高な機能を託さ れた一つの自治的な機関である。   (ここで注意すべき事は、この崇高な機能を託す 付託者とは、今の内閣の日本国政府や税金を納めている日本国民だけではなく、”歴史的 には古代ギリシャ時代のアカデミアの掲げた理念に遡り、現在も未来にも続いて「時間と 共に進化していく人類」であると意識する事です。) (ハ) その時々の社会の要請に結びつきながらも、社会や国家とも一歩離れて、過去、現 在、未来に渡り、時代や時間という流れの上で「普遍的な真理と真実」を追究しながら、 「人類の知という資産」を創生し、且つ、その遺産を引き継ぎ続ける一つの神聖なる機関 である。

2) 大学という小社会を構成している全教職員と学生一人一人の意識改革の必要性。

( A ) 上の1.(イ)(ロ)(ハ)のような大学というものは、全ての教職員と学生一人一 人の協力なしには、正しく機能し得ません。逆に、この大学という機関が良く機能するた めには、全ての教職員と学生一人一人が、「この神聖な大学という場で仕事をし且つ学ん でいるという自覚と意識を持つ事」が必要であります。もっと正確には、一人一人が、「 今その大学という場の一つの席を借りながら、神聖なる活動に専念させてもらっており、 やがては次の後継者に、より良い状態で引き継ぐ責務を持っているという自覚と意識」を 持たねばなりません。 ( B ) 学生を教育するのは教官だけだと思いがちですが、実際には、「学生は、教官の みならず事務官や技官の方々も含めた教職員全体で構成されているこの大学という小社会 全体の中で、多くを学びながら成長しています。」 教職員の方々が、教官は教官の、事 務官は事務官の、技官は技官のそれぞれの専門職と、より多くの人生経験を基にして、大 学という概念で結ばれながら学生達に接している「その時間の流れ全体こそが、正に“自 らと次の世代を引き継ぐ人々”を育んでいるのだという現実に気がつく事」が大切であり ます。「教職員と学生一人一人が、この神聖なる活動に携わっていると自覚し意識する」 というその事自体が、「一人一人の生きがいや誇りいうものの形成と、大学という小社会 が正しく機能するための、必要条件である」と考えます。 ( C ) 大学は「学生というお客さんに、教育というサービスを提供するサービス産業で ある」という見方は、「大学という人類が築き上げ継承してきた自治的な小社会」が持つ 「根幹の理念」を、「矮小化する誤った見方」である事に気付くべきです。「自らも高め ながら、次の世代を託し“世界で活躍できる個性のある後継者を育む事”の出きる“研究 ・教育システムの再構築”」こそが「日本の大学」に課せられた課題であると考えます。 ( D ) 明治時代に外国から「輸入して造られた日本の大学及び初等中等教育制度」は、 その“歴史的な浅さと成り立ち”から“大学及び初等中等教育の持つ根本理念”の一部が 歪められて来たと考えます。「日本の大学及び初等中等教育は,“追いつけ追い越せ”の ための“均質で優良な兵隊を大量に送り出す為の道具としての工場やスーパーマーケット のような側面を持つ」ようになり、現在に至っています。あの「我が帝国と自称する小集 団」に、この「歪められた側面を利用された歴史が、結果的に“侵略と戦争に協力”した 戦前の状況」でしょう。又その反動として、戦後は「平等主義」という名の“不平等”き わまりない「新しい常識」によって、「各々異なる個性や未知の能力を持っているはずの 子供達や生徒達や学生達」が正に「“平等”に教育」されてきました。彼らの持つ各々の 未知の能力そのものも、「異なる成長の段階と成長の早さがあるという事実」も無視され て、ある方向に人一倍に延びるはずの子供は抑えられ、学業に後れる子は馬鹿にされると いう風潮が更に強まってきました。学業成績の上下が、あたかも「人の能力全体を測る物 差し」であるかの様な「錯覚」を人々は心理的に持ちやすいものです。その「錯覚と人の 持つ心理現象」の当然の結果として、「少数の優越感を持つ集団」と「大多数の劣等感を 持つ集団」が、この日本列島に広く分布して、今も産み出され続けています。 ( E ) ここ数十年は、「偏差値を使って学業成績の上下を評価するという一つの方法」が 、「世間の常識」として通用してきました。人の陥りやすい結果として、「教育とは何か と問い続ける事が影を潜めて、教え子の学業成績の偏差値を上げることが教育」であると 考える「反転現象」が生まれます。この「教育の意味についての反転現象」の結果として 、「偏差値教育という名の“非常識”」が当然の結果として氾濫してきます。誰もが御存 知のように、「受験産業界の方々の涙ぐましい努力」と「利己的な満足を得る傾向を持つ “一部の”中学と高校の進路指導の先生達や校長先生達の努力」によって、「日本の“大 学(更には学部間)と高校が序列化されてしまう”という本質を表し得ない危険な物差し 」が、又「世間の常識」として横行しています。その結果として悲しきかな、中学生、高 校生、浪人生、更に、大人達の間に「受験戦争」という「友情とは正反対の敵との戦い」 が日常化して、「勉強嫌いな多くの若者達」を「しきりに育てているという奇妙な現実」 に気付く事になります。この様な実状を単に、「日本は学歴社会だから」とか「大学の入 学制度が悪いからだ」と片付ける事が出来るのでしょうか。 ( F ) 学生も大学の重要な構成員であります。もしも、学生達の意識が低下して「私立 ちは大学というマーケットのお客さん」という様な意識で大学を利用する様になったり、 又一方で、教職員達が「利己的な殻」に閉じこもったり、「自分の学生達を見下げたり見 放すような意識」を持つような状況になれば、大学はその本来持つべき機能を失い、やが てはスラム化する事になるでしょう。 ( G ) 「大学」に崇高な機能を託す付託者は、今の内閣の日本国政府や税金を納めている 日本国民だけでなく、“歴史的にはギリシャ時代のアカデミアの掲げた理念に遡り”、現 在も未来にも続いて「時間と共に進化していく人類」であります。もし仮にその付託者が その時代の政府や一般国民であるとすると、日本の戦前の様に大学で兵器の研究や殺人道 具の研究開発をさせられることになるでしょう。「その様になるべきではないという思想 」は、「大学人のみならずあらゆる段階の全ての教育者」が、歴史から再確認して学んだ 「教育のあるべき理念としての基本的な思想」であります。 ( H ) 今、日本の大学がより良く機能する為に大切なことは、「大学が持つ本来の理念 とは何かを模索し続けながら」、大学という小社会を構成する教職員と学生一人一人が、 お互いに尊重しあい、相手の意見を最後まで聞き、それを真摯に受け止めながら建設的な 討論を通して、お互いの考え方を深めて行けるような「意識上の環境」を回復することで はないでしょうか。

3) その他、意識改革へ向けた考え方と問いかけ、アラカルト

(32項目の珠玉のメッセージがありますが、近藤さんのホームページへ)

近藤義臣  群馬大学工学部電気電子工学科教授       電子応用講座第2研究室 Home page: http://www.el.gunma-u.ac.jp/~t-tak/index.html

Id: #e20000316082632  (reply, thread)
Date: Thu Mar 16 08:26:32 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000315004046 
Name: 辻下 徹
Subject: 素朴な質問 > 志村さん、鴨さん

(1) 鴨さんが
> 実際には、メタ言語は、モデルを記述できる程度に集合
> を取り扱うことのできる理論であれば、何でもよいのです。
と書かれているのを見ると、メタ(専門用語)しか考えるに値しないと無意識に考えておられる節がある。確かに数理論理学ではメタ(日常語)のことは序文で注意を促すに留まることが普通です。しかし、Skolem の定理では、今一度その注意をする場合が多い。その例が数学辞典にもあったので、Skolem の定理の解釈として先に述べたことは「非標準的」なわけではない、ということを主張するために、引用しました。

しかし、志村さんがされたような吟味、数学辞典の内容の専門家の目から見た吟味は、各分野でどんどんすべきであり、次期の数学辞典に反映させてもらいたいものです。あるいは、そういうニュースを岩波が定期的に出すのも重要かも知れません。さらに欲を言えば、数学辞典もオンラインにして無料で公開し、絶えずupdate してほしい。アクセス料1回10円位はとってもいいかもしれませんが。

余談ですが、項目によっては旧数学辞典の方が素人が最初に読む場合には説明がわかりやすい項目も少なくない、という印象があります
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(2) おっしゃるように「素朴集合論で公理的集合論を研究する」ことは数学的研究としては少しもおかしいことではないという考え方もあります。そう考えることに何も問題はないと思います。

しかし学生や素人が勉強するとき「なぜ公理的集合論なのか」と素朴に問います。高度な知的ゲームとして魅力があるという(分野の重要性への問いに対する答えとして数学では何も問題もない)答え以外に、意義という次元で答えを捜すとき「素朴集合論で公理的集合論を研究する」のは無意味だという答えを退けるのが私には難しい。公理的集合論(とその変種)が、無数の形式的体系のなかで、ここまで数学的に深まった背景は、この形式的体系が素朴集合論の抱える哲学的なナンセンスを克服しなければ一歩も前に進めない、という切羽詰まった気持ちがあったからではないでしょうか。この哲学的ナンセンスの思いは、20世紀前半の数学者には看過できなかったし、現代でも看過できないと感じている数学者は少なくないのではないか、と思います。ただ、素朴集合論が余りに多産的であった(し今もそうである)という「証拠」の前に、その思いは無益な懐疑として(哲学的な側面に無関心な人達には)色褪せてしまった、というべきでしょう。

なお、実際には、公理論的集合論では、素朴な集合論的議論はインフォーマルなものとしてしか用いず、それを形式的体系に関する記号的言明に翻訳しなければ意味がない、というのが公式なスタンスではないのでしょうか。
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(3) 志村さんや鴨さんにお聞きしたいのは、形式的体系を数学的に研究するときに使う数学(これをインフォーマルな数学という人もいるそうですが、ここでの文脈ではメタ数学(日常語))と、形式化された数学との関係には関心はないのでしょうか、ということです。

話しを具体的にしましょう。形式的体系に関する証明の多くは「構成規則に関する帰納法」に基づきます。このメタ数学(日常語)は<理念世界>など無関係のものと思われていますが、実はこれも理念的領域に依存していると思うのです。

帰納法以前に、例えば「論理式が証明可能である」という概念ですら理念的領域に依存しています。「公理から推論規則を有限回施して得られる論理式を証明可能という」と定義するわけですが、「有限回」が理念的なものです。実際に、「ある論理式が公理から推論規則を10^10000回適用して得られる」という文にメタ(日常語)のレベルで意味を与えることはできない、と思うのです。(これは10^10000 は「どういう意味での」自然数か、という問いから派生するものですが。)
Id: #e20000315234630  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 23:46:30 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000315000120
Name: 辻下 徹
Subject: こんにちは大'さん。

マックファン(単なるユーザ)として嬉しくなる内容が満載の、楽しいホームページを作っておられますね。URL にも一瞬驚きました。

> それを人工的に完璧に再現したとして(生き物が)作れたとすれば

というときに「生き物が作れた」と誰がどういう根拠で判断するのでしょうか。これは人工知能と同じ問題ですね。「生命とは何か?」を「熱とは何か?」と同じ種類の問題と考えて色々な「客観的基準」を模索するという方向になると、ある基準を採用する客観的基準は何かといった話しになるでしょう(cf.脳死判定)。ですから

> これまでの記述がすなわち「生命とは何か?」に対する答え

ではなく、上の判定基準の問に生命の問題の核心が隠れていると言いたい。それが(大野流の醒めた用語を流用すれば)基礎生物学としての複雑系研究の根本的な問題だと思っています。

> 「記述が足りないんじゃ?」という疑問

これは、コンピュータ実験で取り入れる因子が足らない、ということですか。

> いろいろ条件を変えながら実験しまくって、プロットしまくって、「お。Hill plot し
> たらバッチリだ!」とか喜ぶ。で、数年後には実験精度が上がって「う。Hill 係数
> が違うのが二つ重なってるかも。。。」とか困ったりする。(^^;;

実際の酵素反応を実験もされているのですね。実験データにより酵素反応系のモデルのパラメータを調整して計算機実験を行う、という研究スタイルなのでしょうか。どういう酵素反応を実験されているのでしょうか、興味本位だけですが教えてください。

ところで、私と同じように無知な方のために生物学辞典から引用しておきましょう:
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ヒルのプロット
 [英Hill plot]
 酵素の反応速度,最大反応速度をそれぞれv, Vmax,基質濃度を[S]としたとき,横軸にlog[S],縦軸にlog{(Vmax-v)/v}をプロットした図.複数のサブユニットからなり複数の基質結合部位が存在する物質(酵素など)の場合,それらの間にはたらく協同性を測定するのに用いられる.それらの物質では,アロステリック効果のため基質飽和曲線がミハエリス-メンテンの式に合わないことが多い.この場合,経験式としてA.V.ヒルがヘモグロビンの酸素解離曲線を表すのに用いた式(ヒルの式,1910年)を次式のように変形して用いる(式中Kmはミハエリス定数).
 
    v=Vmax[S]n/(Km+[S]n)
 
nをヒル係数(Hill coefficient)とよび,ヒルプロットでは直線の勾配を示し,サブユニットの基質結合部位が相互に無関係に働く場合はn=1(ミハエリス-メンテンの式と同一),協同的に働く場合はn>1となり,基質飽和曲線はS字状となる.
----------------------------------------------------------------------
ミハエリス−メンテンの説
 [英Michaelis-Menten穆 theory]
 L.ミハエリスとM.L.メンテン(1913)が提出した酵素反応の速度論.のちG.E.BriggsやJ.B.S.ホールデーンの手で訂正された.その根本は,酵素Eと基質Sとの間に中間複合体ES(酵素-基質複合体enzyme-substrate complex)が生成し,その分解によって反応の生成物Pが生ずると仮定して,酵素反応の速度と基質濃度との関係式を導くにある.いま
 
    E+S → ES → E+P
 
の各反応段階に質量作用の法則があてはまるとすれば(k+1,k-1,k+2はそれぞれの速度定数),濃度[S]における反応速度vに関し
 
    v/V=[S]/(Km+[S]), Km=(k-1+k+2)/k+1
 
の式を得る.
(以下略)
------------------------------------------------------------

> 立てた楊子の上にピンポン球を同じように手で置いても、そのたびに転がる方が違う。
> 「なるほどこれが複雑系なんですね!」なんて納得

しているのは小学校理科部の部員くらいではないですか。

Id: #e20000315212450  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 21:24:50 2000
Name: 立川裕二
Subject: 物理(もしくは自然科学一般)と数学

立川です。以下の2つの演習問題
辻下さん> ニュートン力学を、実数概念を用いずに定式化せよ。そのとき何が失われるかを考察せよ。
黒木さん> ニュートン力学は数学的には実数の概念を用いて記述される。そのように実数の概念を用いることの正当性について「普遍性」の考え方を用いて論ぜよ。
は同じ問いであると僕は思うのですが。 僕はNewton力学に「物理をする上で必要な」実数論はデデキントやコーシーの名が冠せられるものほど精緻なものでなくて構わないと信じているので、「実数を使わないと何が失われるか」と「実数を使うことがなぜ正当であるか」とは一つの問いの裏表になってしまう。但し実数は現代数学の知っているあの実数だという形容をつけたとして。

お二人ともこれを「演習問題」とおっしゃるので答えをお聞かせくださるととてもとても有難いです。(というか大学に職を持つ方が「演習問題」という言葉で何を意図しているのか測りかねる次第。)僕にはそんなに簡単に答えられません。

以下は駄言です。各人の信念はそれぞれで、相手の信念を変えようとするのはえてして不可能です(EinsteinとBohrを見よ)。ですが信念を離れて、具体的問いに関してならば、両者とも理解することができます。ですから辻下さんにはもっとその<不定性>の具体例、特に<生命>に関する適用例を挙げてくださると助かります。<不定性>の数学における辻下さんの考える意義の具体例は講義録からかなり読み取ることが出来ましたが、僕にはそれが人間の認識ならともかく、なぜ<生命>に関わるのか判らないのです。たとえばハエには関係なさそうである。


Id: #e20000315173344  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 17:33:44 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000314232819
Name: 鴨 浩靖
Subject: モデル理論と集合論

モデル理論と集合論の関係については、Jechの教科書[1]の§10で触れられています。

[1] Thomas Jech: Set Theory, Academic Press, 1978.

Id: #e20000315133045  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 13:30:45 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000314232819
Name: 鴨 浩靖
Subject: 数学事典

「形式的述語」というのがオブジェクトレベルのことで、「超数学的述語」というのがメタレベルのことです。ちなみに、コンパイラの言葉を使うと、「対象言語」がオブジェクトレベルのことで、「記述言語」がメタレベルのことです。

「実質的な内容をともなって用いられるべきものである」という表現は、感心しません。何をいっているのか、わかんないじゃないですか。形式化されたメタレベルというものが理解できていない人の書いた文章にも読めます。そういえば、瀬山士朗の『はじめての現代数学』にも、似たようなまずい表現があった記憶があるので、後で探してみます。


Id: #e20000315132759  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 13:27:59 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000314214002
Name: いまだ
Subject: お題目としての生命科学なのかな?

要するに,辻下さんのアプローチの生命科学への寄与は,「生き物が分子機械 であることと、自分(や身近な植物や動物)が生き物であることとが繋がって いるような理解」が可能になるということなのですね.生命現象を分子機械と して記述・理解する,という立場とは異なると理解してよいのでしょうか?
それとも,生命現象を分子機械として記述・理解する上で,辻下さんの アプローチが有用であるという意味でしょうか? 「説明様式は絵と日 常言語で記述されたモデルを用いた素朴な言語的因果連鎖のレベルに 留まっている」というのは,仰る通りです.生命現象の分子機械と しての理解・記述といっても,まだまだ極めて低レベルのもので,機械 システムのアナロジーでいえば,構成部品の列挙が始まったばかりで 部品間の連関や各部品の形状・機能の理解にようやく手が届き始めた 程度にすぎません.はたして,「人類が知っていたどの機械とも異なる」 か否かも明らかではありません.そのようなレベルに留まっている現状 を打破し,さらに深い理解に到達するのに,辻下さんのアプローチが 有効であるということでしょうか?

『生物を考えるには物理学が不十分だ』というのは,辻下さんの信念と理解 すればよろしいのでしょうか.それとも,何か具体的に根拠を示すことが できるのでしょうか? 分子生物学の黎明期に,シュレーディンガーの 「生命とは何か」などに感化されて新しい物理学を求めて生物学に流入した 生物物理の人達を彷彿とさせる主張ですね.私には,不十分かどうかを 議論できるほど,生命現象の物理的理解が進んでいるとは思えないのです が,私の認識不足でしょうか?

「現時点で成果があるのでしたら,ポインタでも御紹介下さい.」というのは, 私のようなものには,辻下さんの難しい一般論ではよく判らないので,個別 具体的な実例をみたいということです.哲学だか思想だか判らないようなもの ではなく,辻下さんのアプローチならではのカクカクシカジカのナントカを このように適用することで,このような現象のこのような理解がはじめて 可能になった,というような話はありませんか? ということです.批判など の意図はありません.そもそも,批判しようにも,まだ私には理解できていません から.

なお,言葉尻になりますが,「生物学では莫大なデータを組織化して見ること を許す新しい概念が決定的な役割を果たしたてきたのではないですか」は, ちょっと疑問です.「莫大なデータ」が出て来たり,その組織化の必要性が 高まってきたのは,つい最近,ちょうど「複雑系」という言葉が話題になり はじめたころからのことではないでしょうか.
Id: #e20000315004046  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 00:40:46 2000
In-Reply-To: e0002.html#e20000314232819
Name: 志村立矢
Subject: 数学辞典はそれほど正確ではない。

Skolem の逆理には直接関係ありませんが、引用したものが数学辞典で 
Loewenheim-Skolem の定理としているものならばそれは元々証明された命題で
はありません。

「公理系が無矛盾」を「公理系がモデルを持つ」としたものがより正確です。
「公理系が無矛盾」では Skolem はなぜ完全性定理を証明できなかったかとい
う有名な話ができない。(講義ノート (2am99.ps) では両方書いてありますね)


Loewenheim-Skolem の定理を話題にすると Skolem の逆理の話ばかり出てきま
すが、「赤い猫でも白い猫でも鼠を捕る猫は良い猫だ」という側面を持ってい
ることに注意しましょう。(元の発言が赤と白だったかどうかは忘れた)


それから、

>> モデル理論を、「素朴集合論で公理的集合論を研究している」と勘違いす
>> るのは、よくある誤解です。

に

> それをしたらお笑いものですね、(素朴集合論を基盤とすることで)公理的
> 集合論が必要がないことを行為で示しながら公理論的集合論を研究するわけ
> ですから。

と答えているのですが、少しもおかしいことではないし、そもそも元の文章の
後の部分を全然読んでいないのではないのかと疑ってしまいます。

Id: #e20000315002842  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 00:28:42 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000313174045
Name: 辻下 徹
Subject: あのー 黒木さん

岡潔、佐藤幹夫、等、世紀に数人いるかいないかという人達に向けて「数学はパーソナルだ」というようなことを岩沢さんが言ったと思いますか。私くらいの「普通の数学者」へのメッセージであったのだと思います。志村五郎さんの「ガロアのようにはじめよ」という有名な言葉がありますがそれも同じことでしょう。既存の定式化や問題設定を当然の出発点として数学をしてはいけない、才能の多寡と関係なくそういうことをしてはいけない、それは数学ではない、というメッセージであったと私は思っています。

>辻下さん、私が挙げた演習問題に回答できますか?

申し訳ないが私は黒木さんの演習問題には関心はない。あなたが前提としている多くのこと、たとえば、「数学的理想化」「数学的存在」「実数の概念」等が今の私には一番問題なのです。こういったものを自明とすることで肝心な問いをすべてパスしてしまうことになる。

なお、問題への回答の代わりに、私ならばどういう演習問題にするかを書いておきます。(なお、ニュートンのころは実数概念はなかったことをお忘れなく)

> ニュートン力学を、実数概念を用いずに定式化せよ。そのとき何が失われるかを考察せよ。

> 矛盾を持つモデルを上手く使うと現象の説明が正当にできるとき、「矛盾を持つモデル」をそのまま数学的理論にする方法を考えよ。

Id: #e20000315000120  (reply, thread)
Date: Wed Mar 15 00:01:20 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000314214002
Name: 大'
Subject: 生物の機械性(なんだよそれ)

生き物が分子機械であることと、自分(や身近な植物や動物)が生き物であることとが繋がっているような理解の仕方をしたい、というのが長年の夢です(これは生物学の基本的な夢ではないのでしょうか)。

この「生き物であること」ってのがどういう事なのか?ってのが、生物学の目標とするところじゃないんですかね。オパーリンじゃないけど、生命とは何か?とか、「生きている」という状態はどういう状態なのか?という。それに対するアプローチの一つが「生物を分子機械として記述する」という事なんでしょう。このアプローチの最終目的は、分子機械としての記述が完璧に出来て、さらにそれを人工的に完璧に再現したとしても、まだ「生きているモノ」が作れないかも知れない、という所。作れたとすればこれまでの記述がすなわち「生命とは何か?」に対する答えだし、作れなければ「生命の実体」はその不足部分のどこかに限定される。

しかし実際には、「生きているモノ」が作れない、または、それに必要な記述が出来ないからと言って、「分子機械を記述するだけじゃダメなんだ!」という話にはなりませんよね。常に「記述が足りないんじゃ?」という疑問が付きまとう。なんで、いろいろ条件を変えながら実験しまくって、プロットしまくって、「お。Hill plot したらバッチリだ!」とか喜ぶ。で、数年後には実験精度が上がって「う。Hill 係数が違うのが二つ重なってるかも。。。」とか困ったりする。(^^;;

こんな状況で「複雑系だから云々」とかいう説明が出てくると、実験条件をもっとツメたら何とかなったりしないのか?とか気になったりする訳です。立てた楊子の上にピンポン球を同じように手で置いても、そのたびに転がる方が違う。「なるほどこれが複雑系なんですね!」なんて納得する前に、楊子の先端やピンポン球表面の微細な形状やピンポン球の重心の正確な位置の測定とか、そもそも手で置くなよ (^^;; とか、いろいろとやる事があるはずなのだ。


Id: #e20000314232819  (reply, thread)
Date: Tue Mar 14 23:28:19 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000313151435
Name: 辻下 徹
Subject: メタ(日常用と)とメタ(専門用語) > 鴨さんへ

 
>「○○(日常用語)」と「○○(専門用語)」という表現が気に入ってもらえたようですが、
>Skolemの逆理は、そういう問題ではありません。メタレベルとオブジェクトレベルの問題です。 
数学辞典とは違う解釈ですね。数学辞典第3版の解釈(p479)を紹介しましょう。Skolem の逆理を知らない方の解説を込めて前後も引用しておきます。
Skolem-Lowenheim の定理.これは、つぎのように述べられる超数学的定理である:『第一階の述語論理において、たかだか可算個の公理からなる公理系が無矛盾ならば、その公理系をみたし、しかも可算個の元からなる対象領域が存在する』
 この定理によれば、公理的集合論は第一階の述語論理の上のたかだか可算個の公理をもつ形式的体系と考えることができるので、集合論の公理が無矛盾である限り、可算個の元からなる対象領域において集合論の公理をすべて満たすようにすることができるのである。これを集合論の可算モデルという。一方、集合論の公理からは、可算個より多くの集合の存在が証明される。そしてそのことは、上記の可算モデルにおいても当然に成立する性質でなければならない。ところが、集合論をモデルに翻訳した場合には、集合とはすなわちモデルの元であり、それは全体として可算個しかない。集合論の公理系を無矛盾と仮定して得られるこの事実を、通常Skolem の逆理とよぶ。
 Skolem の逆理は、必ずしも集合論の公理が矛盾を含んでいることを意味しない。可算個より多くの集合が存在する、というときの「可算」という言葉は数学的述語であり、公理的集合論という形式的体系の中の形式的述語とみなされるべきであるが、可算モデルというときの「可算」は、公理的集合論を考察するときに用いられる超数学的述語で、実質的な内容をともなって用いられるべきものである。これを混同するときに、はじめて逆理が生じるということにほかならない。

ここでいう、超数学的定理、というのは素朴な集合論を使う<普通の数学>の定理のことです。もちろん、これを、公理論的集合論という形式的体系の中の(集合(数学用語)を用いない)相対的モデルの話しに翻訳する、という<演習問題>はありますが、鴨さんの言われる解釈はこの演習問題の回答の方に関するものであると思われます。しかし、素朴な数学の概念と形式化した数学の概念の違いを明確に意識させる役割を果たすいう帰結を持つ数学辞典の解釈の方が本質を衝いていると私は考えます、どちらが「標準的か」など、どうでもいいことですが。

なお、Skolem の定理の考察としてはA.W.ムーア著(石村多門訳)「無限−その哲学と数学」(東京電機大学出版局ISBN 4-501-61490-0) (1996)の第11章5節「滞留するパラドクス」(256-259)が透徹していると思います。



> モデル理論を、「素朴集合論で公理的集合論を研究している」と勘違いするのは、よくある誤解です。
それをしたらお笑いものですね、(素朴集合論を基盤とすることで)公理的集合論が必要がないことを行為で示しながら公理論的集合論を研究するわけですから。

なお、数学としてのモデル理論は(他の多くの数学と同様に)公理的集合論とは直接は関係がないのではないですか。


> メタレベルとオブジェクトレベルは違う
それはオブジェクトレベル(専門用語)内の、メタレベル(専門用語)とオブジェクトレベル(専門用語)の違いという単なる数学的様相でしょう。<メタ>という符牒を取れば何の変哲もない数学的定理です。今私が関心のあるのは、形式的体系を議論しているときに使っている数学(日常用語)の方です。それを消去した話しにしか鴨さんが関心がないのならば残念です、というのは、数理論理学はこの問題はどうやっても退けることができないところに独自の使命があるのではないか、と思うからです。
Id: #e20000314231051  (reply, thread)
Date: Tue Mar 14 23:10:51 2000
Name: まきの
Subject: 複雑系な公募

「関心のある方に転送していただければ幸いです。」って書いてあったから、 ここにのせていけないってことはないと思うので。まあ、だからどうというわ けではなくて、こういうのもありますというだけです。とはいえ、いったいど ういう分野の人を想定しているんだろうという気はしますね。

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お茶の水女子大学 理学部物理学科 公募

1. 職名・人数: 助教授・1名。 
2. 所属部門:理学部物理学科。
3. 専門分野:複雑系物理、非線形開放系物理、の理論。
4. 着任時期:2000年10月1日を希望します。 
6. 応募資格:博士の学位を持つ35才程度以下の方。
7. 提出書類:◎以下の書類の組を2セット。
  ○履歴書(本人に関して所見を述べ得る方2名の氏名と連絡先を含む) 

  ○研究歴  ○論文リスト   ○主要論文3篇の別刷あるいはコピー
  ○研究計画書(教育に関する所見、抱負を含む)
8. 締切り:2000年4月10日(当日消印有効)
9. 問い合わせ先と書類送付先:
        〒112−8610
        東京都 文京区大塚2−1−1
        お茶の水女子大学 理学部物理学科 主任 森川雅博 
        電話:03-5978-5312、Fax:03-5978-5898、           
        e-mail: hiro@phys.ocha.ac.jp   
10.  その他、
  ◎表に「応募書類在中」と書いて、簡易書留で郵送して下さい。
  ◎受領確認の返信をしますので、書類送付と同時に上の
        e-mail アドレスに応募の旨、お知らせください。

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