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辻下さんが「相手は誤解している」と思い込みたくなる気持ちはわかりますが、それ以前の問題として辻下さんは相手にとって親切な説明の仕方をしているか否かということを反省すべきだと思います。たとえ「相手が誤解している」ことを示せたとしても、それで辻下さんの考え方が相手にわかってもらえるわけではないでしょう。「ああ言われたからこう言う」というような反応を繰り返すのではなく、自分達のサークルが目指していることとその内容、有効性、根拠などなどを説明すべきだと思います。私の不満は主に辻下さんがそれをやらないことに起因しているのです。
ちなみに、私の批判の主旨は「今の数学が数学だ、ということを懐疑している」と言われても何の変化もありません。「今の数学が数学だ、ということを懐疑している」のようなことを片方で言っておきながら、「生命の本質はこの覚醒の外にあるわけではない」のように大言壮語し、自分達のサークルがやっていることが「生命の本質」の理解に繋がっていることは懐疑してないわけですよね。このような批判に対して「誤解です」と叫んでも無意味です。自分自身がなぜそのように考えているかを具体的に説明すべきだと思います。 (私は数学者なので、例えば、高次元圈という通常の数学の対象が辻下複雑系においてどのような価値を持っているかの説明や「角田氏が呈示した新しい数学」の内容の解説を希望しています。)
P.S. いまださんの言う通りで、辻下さんが「数学と不定性」において「生命」というキーワードをどのような意味で使っているかが全く不明です。そして、(まだ何を意味しているか不明な)「生命の本質」と辻下さんの「数学の不定性」というアイデア (こちらもよくわからない) がどのようになぜ繋がっているかも全く不明です。おそらく、皆が最も疑問に思っているのはこのことだと思います。できれば最優先で説明してもらいたいですね。 (私の数学者としての希望に応えるのは後回しで構いません。もちろん、いまださんへの回答の過程で希望に応えて頂けるのであれば喜ばしいのですが。)
辻下さん、この掲示板を「公共の掲示板」扱いするのだけは勘弁して下さい。
私はずっとここの掲示板群を、話題は「なんでも」構わないが、あらゆる人に開かれた場所にはしない、という方針で管理してきました。利用上の注意にも「必ずしも完全に開かれた世界が良いとは限らないという経験に基いて、ここの掲示板は運営されています」と書いてあります。
もしも、今までの方針を変えた異なるルールで掲示板を運営するとすれば、他にウェブサイトを用意してやりたいと考えています。
いずれにせよ、現在ここでは「複雑系」に関する議論が進行中であり、邪魔されないためにも、「カウンセリング」な話題は別の場所に移動してもらった方が良いでしょう。まあ、しかし、強引であるのはその通りなので、その点は御容赦下さい。お願いします。
「高次元圈」の他に数学的に話題にすべきなのは「角田氏が呈示した新しい数学」についてだと思います。それについて説明して頂ければ話を続けることができるかもしれません。 (「擬似哲学云々」については永久に同意は得られないと思いますし、同意する必要もないと思います。同意は何らかの強い証拠が示された場合のみにすれば良いことであり、「擬似哲学云々」は決してそういう類の議論にならないでしょう。)
角田氏の「数学と存在論的観測」 (ここから get できる) を一応読みました。
最初の節「90±5年」の arithmetic, algebraic, analytic の三位一体説は、通常の数学の範囲におさまっており、当然のことながら非常に面白い話です。 (もしもこの節の内容を詳しく解説してある文献があれば紹介して欲しいです。もしも存在しないのなら、角田氏はその部分だけでも詳しい解説を書くべきだと思います。)
しかし、その次の節で「だから、微分の議論がうまくいくとすれば、逆に x に対応するはずの 1/e は有理数になるのではないか、と思うようになる」と述べた後で、「それはおかしいので、何か天才的なアイデアが必要である」と考えるのではなく、実際に e を有理数にしてしまうために様々な“懐疑”を実行し始めるのです。
それ以後は擬似哲学的論述が最後まで続いています。 (面白いことに文体まで郡司氏や辻下さんにそっくりです。) 最初の節の内容が非常に面白いので残念なことだと思いました。
もしも、角田さんが通常の数学の範囲内で「e が有理数になる」と解釈できるような世界を定式化しようとしているのなら、それはそれで面白い試みかもしれませんが、全然そうではないようです。
色々言いたいことがあるのですが、「(1)ダブルスタンダード」のみについてコメントしておきます。
まず、私は、高次元圏の展開が通常の数学を逸脱しているなどと主張してないし、そのように誤解されるようなことを言ってません。高次元圈は等号を同型に置き換えて行くと自然に出て来る枠組みであるという話も知っています。
さらに、辻下さんは、「ダブル・スタンダード」という言葉で私が何を非難しているかを誤解しています。辻下さんは先の私の記事の「その上」以降の部分を「ダブル・スタンダード」の内容だと思ったようですが、実際には「その上」より前の3つの段落が「ダブル・スタンダード」の主たる内容です。つまり、辻下さんが「他人には厳しく、自分には甘い議論の仕方をしている」ことを批判しているのです。標準的考え方には懐疑の目を向けておきながら、自分自身の説については何の証拠もなしに大言壮語する。
あまりこういうことは言いたくないのですが、辻下さんの議論の仕方は「相対性理論は間違っていた」などと言い出す輩とそっくりなんですよ。そういう輩は、大きなことは言うが証拠を示さず(示せず)曖昧な態度で誤魔化そうとしたり、批判されると「専門家は頭が堅いせいで理解できないのだ」などと反撃するのが得意技です。
なかなか話が通じないのですが、辻下さんも高次元圏の話を通常の数学と考えて研究していることがわかったの収穫であったと考えています。だから、きっと辻下さんは高次元圏についてはクリアな説明ができるはずだと思います。
(1)ダブルスタンダード
高次元圏の展開は、私が20世紀の普通の数学者として身に付けた文化を逸脱はしていません。<ふつうの>数学です。しかし、それは、「違うものが同じ」ということは無意味であるとして、「等号」を徹底して同型に起き直すという、数学の基本的な考え方を徹底するとき、不可避な枠組みとして出てくるものです(Grothendieck の n-stack の「手紙」の最初の方にそういう考えは出てきています)。
しかし、一時、この方向に魅せられて嵌っていましたが、やはり、角田氏が呈示した新しい数学の迫力は、高次元圏の魅力すら越えるものがあるのです。とはいえ、平行してやっています。これをダブルスタンダードと呼ばれるのでしたら、人間は一度獲得した信念を、一挙に全く別の信念に瞬時に変更出来ないかぎり、信念を変えられないことになりませんか。
(2)「通常の数学的議論の正当性」や「数学的に定式化する」を問題にしています。
> 通常の数学的議論の正当性を基本的に全て認めた上で、通常常識とされているいる
> 事柄が成立してないと解釈できるような世界を数学的に定式化して研究する。 (さらに
> 認識論的厳密性が必要な場合は議論の仕方を安全なものに限るようにする。)
という言い方はできないのです。「通常の数学的議論の正当性」というものが数学的議論の唯一の正当性ではない、とい うことも重要な主張だからです。また、複雑系との関係では「数学的に定式化」するとはどういうことか、ということが最も悩んだ問題だったからです。
(3)言明と断言は違います。
> 「基盤という幻想からの解放」を説く辻下さんは自分が支持する考え方については
> 「生命の本質はこの覚醒の外にあるわけではない」などと断言しているわけですよ。
こういう勇み足の誤りは、以前、郡司氏や角田氏にも何度も指摘されています。「生命の本質はこの覚醒の外にあるわけではない」などと言明しても、「生命の本質」や「覚醒」も、まだ不定性を持っていて、この文から何を引きだすか、それが重要なわけです(私にとっても)。
しかし、恐らく、この時点で、既に黒木さんの忍耐の限界に達しているかも知れませんね。つまり、時間に依存しない言明の整合性というものを今問題にしているのですが、これは普通は途中で話しを変えるいい加減なこと、という風にしか思われません。どう説明するか、が難しいのです。重要な点は、言明はその時点では余り多くを言っていない、ということです。
(4)「傲慢」と思われたら残念です。
> もっと自分自身に厳しく謙虚にならないと駄目だと思います。
<謙虚>かどうか、そんなことは自分ではわかりません。謙虚であろうなどというのはこういう場では、失礼なのではないですか。これまで議論してきたのとは別の議論ができれば、ということを願っています。
今の数学の中で数学を語ることがこの掲示板の目的ではない、と思って書き込みをしていますが、今の数学の語り方をせよというのならば、それは職業の中の当たり前の部分としてやっています、しかし、それだけでは今の数学は仕方がないのではないか、という思いが、こういう掲示板を支えているのではないか、と私は思っています。違うでしょうか。
(5)擬似哲学的文体?!
私の書いている文の、どこが疑似哲学的文体なのかが、私にはわからないのです。数学を、今の数学の言葉を使わずに語ろうと四苦八苦していることは確かですが、それが「疑似哲学的」と言われるのがわからない。カントの純粋理性批判ならば哲学的文体なのでしょうか。あるいは、ウィトゲンシュタインならば哲学的文体なのでしょうか。黒木さんのいう、「哲学的文体」の実例を挙げて頂だけないでしょうか。
専門の方からのコメントはとてもありがたいです。 私が素朴に念頭に置いているのは、Post 的な記号変形(書換え規則)の体系としての形式系です。前提とするのは (1)文字列、というものの素朴な確実さ (2)文字列の機械的変形、というものの素朴な確実さ (3)機械的変形を有限回くりかえす、ということの素朴な確実さ に基づいて、数学の理論(と推論)を形式化する、というものです。 この部分に既に誤解があるのでしょうか。
> 形式主義(公理主義)の立場からの誤解を挙げましょう。
形式主義や公理主義についての典型的な誤解に基づく文章だと思います。 林先生のページ にこれらの解説がありますのでお読みになることをお薦めします。
念のために昨日書いた記事の2つ目の段落における質問を繰り返します。
もしも、辻下さんが、
★ 通常の数学的議論の正当性を基本的に全て認めた上で、通常常識とされているいる事柄が成立してないと解釈できるような世界を数学的に定式化して研究する。 (さらに認識論的厳密性が必要な場合は議論の仕方を安全なものに限るようにする。)
という態度を取っているのであれば、これは通常の数学の範中に完全に属した研究であり、擬似哲学的レトリックは不必要になります。そうであるなら、私は文句を言うつもりはありません。
しかし、私にとっては残念なことに、全然そうではないのですよね?
あと、この件について、私が疑っているのは、辻下さんはダブル・スタンダードではないかということです。つまり、他人には厳しく、自分には甘い議論の仕方をしている。
「基盤という幻想からの解放」を説く辻下さんは自分が支持する考え方については「生命の本質はこの覚醒の外にあるわけではない」などと断言しているわけですよ。幻想に一番取りつかれているのは辻下さん自身ではないですか?
一方では標準的に見える考え方 (実は極端に解釈すると必ずしも標準的ではない) を非難し、別の一方では自分自身が支持する考え方は正しいと断言する。しかし、そのどちらについても十分な根拠を示しておらず、見付かるのは曖昧な擬似哲学的晦渋な饒舌による根拠不明の断言のみです。辻下さんが用いている擬似哲学的文体による議論が辻下さんに攻撃されている標準的な考え方よりも信用できる理由も見付けることができませんでした。
その上、辻下さんが非難している標準的な考え方 (例えば自然数に関する通常の直観の類) を辻下さんが実際の研究において用いずに済んでいるかも大いに疑問だと思うし、将来用いずに済ますことができるとも思えません。例えば、三好さんらとの共著の高次元圈に関係する仕事は?
根っ子の部分への懐疑をまともな哲学的議論として成立させたいのなら、もっと自分自身に厳しく謙虚にならないと駄目だと思います。
野村竜也さんおよびここの議論に参加されている皆様方にお願い。野村さん関連の議論は新たに作成した予備掲示板2に引っ越して下さい。野村さんはしばらく予備掲示板2以外には書かないで下さい。お願いします。
いろいろな名前がついているのでこの名前は御存知なかったのかも知れません。 伝統的にはsorites paradox と呼ばれています。 Stanford Encyclopedia of Philosophy に詳しい解説があります: http://plato.stanford.edu/entries/sorites-paradox/ 北大で文系1年生に講義した資料がありますので、御参考までに: http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/doc/lectures/sw99/3-sw99.pdf http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/doc/lectures/sw99/3-sw99.ps.gz (講義の案内 http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/doc/announce/sw99.html )
昨日函館で話したときに配ったメモです。御参考までに
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2000.3.2函館シンポジウム
自然数集合の不定性
辻下 徹(北海道大学)
tujisita@math.sci.hokudai.ac.jp
複雑系研究における個人的問題意識の変遷
問1:物理的世界像で生命・精神をどう捉えられるのか。
概念:創発性(波や風の陰喩、パターン自身のもつ独立した実在性)
方法:数理モデル、シミュレーション
力学系の挙動として生命や心を捉える、
種々のアトラクタ、時空間欠性
生命は複雑性が醸成する認識論的錯覚か?
問2:生命をどう記述すればよいか。
多重記述系が必須:例)脳(力学系)と環境(日常言語)。
何のために記述するのか(記述の仕方から語り方へ)。
生命は原初的なものであると考える。
核心は「予想外」
不定性を含まない数学では表現できない?
問3:数学で「予想外」を扱えるのか?
数学にも実は不定性が遍在している(クリプキのplus-quus の議論)
形式の不定性から基盤の不定性へ
問4:不定性の開示により現代数学はどう変化するか?
その変化は生命科学における数学の新しい役割をどう変化させるか?
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本日の話題:自然数の不定性の諸相
砂山のパラドックス
円周率の十進展開
20世紀数学の中に現れた影
Skolem の定理:モデルの多様性
Godel の不完全性定理:自然数を形式系では補足できない。
Cohen: forcing: 有限の範囲の性質を体現する実無限を作る。
Nelson の predicative arithmetic
数学的帰納法の適用で数が変化する、という描像
文献等:http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/doc/announce/am99.html
その一例が「自然数集合」です。自然数集合は素朴な意味で一意であるということは、ほとんど無意識の信念になっていて、数学的帰納法や推移的閉包操作を支えています。そういう中で、自然数集合が不定だと主張すると、種々の誤解を受けます。例として、形式主義(公理主義)の立場からの誤解を挙げましょう。
「「自然数集合とは何か」と問うのは意味がない。無定義用語<自然数集合> (や<集合>)を明確に使う意味を捨象した、記号操作体系(形式系)を作れ ばよい。こうすれば、実無限などという哲学的問題など何もなく「公理から導 かれる定理」という明確な記号概念にもとづいて自然数について論じることが できる。ただし、ゲーデルの不完全性定理によって、自然数についての性質を、 一つの形式系ですべて補足はできない。そういう意味で、自然数集合は本質的 に不定である。」ところが、この立場の要になる「証明」という概念ですが、これは「有限」概念の一意性に依存しています。しかし、例えば 10^1000 個の推論からなる証明、というものは、既に「理念的」なものであり、自然数と同じだけ、解明を要するものである、と思われるのです。また<我々が補足できる>「具体的な証明」だけに話しを限ろうとすれば、それは、砂山のパラドックスを避けられないことになります。
辻下さん、「自然数集合が確定しているという主張をもう一度考えなおす」の内容をもう少し具体的に説明して頂けませんか?
あと、「今まで自由に使ってきた推論の一部をあえて使わないことにすればどのような世界が見えてくるか」という考え方なのか、それとも「今まで自由に使ってきた推論の一部が実は間違っていたのだと疑うべきである」という考え方なのか、はっきりさせて欲しいです。 (辻下さんが使った「懐疑」という言葉は通常後者を意味すると思います。) 前者の考え方であればそれはごく普通の発想なので擬似哲学的レトリックは無用になると思うし、後者の考え方であればその根拠を明確に説明する必要があると思います。
アクビさん、「直観主義」と「有限の立場」はもちろん異なります。例えば、岩波数学辞典の184数学基礎論の項目を見て下さい。あと、林晋さんの「公理主義、形式主義、証明論、構造主義」と田中一之さんの「ヒルベルトのプログラム」も参考になると思います。
今後アクビさんは自分の意見を述べる場合はその根拠を常に示すようにした方が良いと思います。 (例えば、文献を挙げて、それを引用するとか。)
まあ、同様のことはあほな喧嘩を売りたがっているらしい辻下徹氏にも言えるのですがね。「歴然としています」という断言の根拠は全く不明だし、「数式を最小限にする努力が余り払われていない、と思いませんか」と根拠不明の事柄について同意を求められてもどう答えたものやら……。
もしかして、辻下さんは「数式で説明せずに擬似哲学的文体で説明すべきだ」と主張したいのかな? たとえ「歴然としています」という断言が正しいとしても、辻下さん自身による擬似哲学的文体による根拠不明の大言壮語が正当化されるわけではありません。
まあ、いずれにせよ、辻下さんは何の根拠も典拠も示さずに誰かを非難するのは止めた方が良いですね。ほとんど電波系の人のように見える。
「有限の立場」というのは私の勘違いです.辻下さんの 「数学と不定性」を読んでいまして,``1.3 有限の立場'' という節で無限集合というものを批判していたので,そう いうのを有限の立場と呼ぶのかと思ったのでした. 元の疑問の主旨は,「無限」というものを認めない場合に ゼノンのパラドックスはどう解決できるのかということで した. # 「明証性」って一般的な言葉なのでしょうか?私は初めて # 見ました.
TV受像器は、視聴者にとっては放送電波を映像に変換する機器です。しかし、陰極線管にのみ着目すると、電気信号を映像に変換する装置に過ぎません。電気信号が放送電波に由来するかどうかは、陰極線管からはわかりませんし、陰極線管の動作に影響ありません。実際、チューナーを外してビデオゲームの出力端子を接続しても、陰極線管は同じように動作します。チューナーに着目すると、その出力がさらにどのように変換されるかはわかりませんし、それはチューナーの動作に影響しません。実際、陰極線管ではなくビデオ録が装置に接続すれば、映像ではなく磁気テープ上の磁気パターンに変換されます。これは、TV受像器の不定性でしょうか
ブラウア−の,所謂直感主義のことを指して「有限の立場」と呼ぶことが多いようです.
ちょっと疑問なんですが,「有限の立場」では,いわゆる ゼノンのパラドックスはどうなるんでしょうか. # 答:アキレスは架空の人物なので,パラドックスは成立しない(笑)
かつて、こんなことを小波さんがおっしゃっています。
これは良い情報をありがとうございます.現場の方の具体的な文章はやっぱりおもしろくて好奇心が刺激されます.
ひょっとしたら、分かるという時の納得のレベルが分野によって微妙に違うのかもしれません。
そうですね,その感覚自体はパーソナルなものですし.と同時に,分かるという時の感覚(ユリ〜カ!ってやつですか?)が起こるときに,脳ミソではどんな現象が起こっているのか,ということあるいは逆に,どういう時に,そういう感覚を持つのか,ということについても興味があります.
生物関係の話とかだと、ややこしすぎてモデル作成自体が、(化学に比べて)きわめて限られた範囲でしか行えないということが多い
なるほど.ただ,
生物を扱う時の「実用レベルかつ汎用のモデル作成技法みたいなもの」
と,おっしゃいますが,このときの「生物を扱う時」とは,どういう場合を想定しているのですか?たとえば,
のように大雑把なレベル分けができると思うのですが,たかたさんが「生物を扱う時」と書いたときには,どんなことを具体的に思い描いていたのか知りたいと思いました.
もちろん,上のレベル分けは必ずしも一意的ではないでしょうし,とても大雑把なものです.たとえば,(これはボクの生物学に対する無知のせいかもしれませんが)神経系を扱うのは,上のどのレベルに該当するのかちょっと迷います.また,最後のカテゴリーに,いきなり経済などを持ち出したのも,無理があるかも知れません.
しかし,人間を対象にするならば,おそらく所謂組織論だとか,経済なんかが問題になるのでしょう.
ところで,サイモンの『システムの科学』は,昨年だったか第3版の翻訳が出版されたんですね.読みたい.
swarmですね.個人的には,シミュレーションによって何を理解することができるか?という点に興味があるのですが.かつて、こんなことを小波さんがおっしゃっています。化学以外でも生物学などでは、数式の挙動が完全には理解できないということに対する抵抗感のようなものが弱いような気がしますし、ひょっとしたら、分かるという時の納得のレベルが分野によって微妙に違うのかもしれません。技術に近い観点からは、「このモデルではこうなるけど、その計算過程はとても想像できない」という時にでも、実験結果と比べて正しい結果であれば、細かいことは考えずにそのモデルを使って仕事をしようなんてことは多々あるはずです。ただ、生物関係の話とかだと、ややこしすぎてモデル作成自体が、(化学に比べて)きわめて限られた範囲でしか行えないということが多いです。僕としては、そういう、生物を扱う時の「実用レベルかつ汎用のモデル作成技法みたいなもの」を現在の複雑系(あるいは計算機科学)の人に期待したいのですが。
Rubyは,Gtk+を使うための拡張ライブラリがリリースされていたと思うので,開発はできるRuby/Gtkですね。でも、きちんとした専用のフレームワークがないと、いろんなエージェントの同期をとったり、考えなくてはならないことが多いので(たぶん、現在公開されているライブラリを組み合わせるだけで、そういう物は作れるのではないかと思うのですが)、めんどうかなぁと。
早川さん、金子さんのは、うーん、金子さんが PI なんだから名前はあれでいいような気がしますが、だめでしょうか?そういえば、「複雑系」という言葉が、どこから始まってどんな風に広まったかというのの実証的な歴史研究みたいなのって、誰かやってないでしょうか。誰もやってなくてよほど時間があったらやると面白いかもと思うのですが。
私に言わせれば、<晦渋な数式の饒舌>を使わずに語る努力をしない日本の数学者の風潮こそ問題があると思いますよ。
これまでの経験ですと、基礎論の方が「当たり前のことで馬鹿げたこと」と誤解する傾向が顕著ですので。
と言ってますが、「日本の数学者の風潮」や「基礎論の方」のようにターゲットが曖昧で不用意に広く感じられるような発言は避けてもらえると助かります。
「饒舌」や「晦渋」も問題ですが、こういうアホな喧嘩を売るのをまず止めた方が良いと思う。
辻下さん、「饒舌」もしくは「晦渋」であると感じられたのは「数学と不定性」のほとんど全てです。だから特定はできません。しかし、その一部を典型例として引用することならできるのでそうすることにします:
3.2 懐疑がもたらす覚醒
ウィトゲンシュタインの懐疑は、自然科学がもたらした種々の呪縛からを我々を解放する覚醒をもたらすが、覚醒に至る前は人類のこれまでの歩みを無と化すような除去不能な深淵として不気味に現れる。しかし、そこから覚醒したとき、それ以前の〈整合的な世界像〉が張り子の虎であることが明僚になる、生きた虎が産声を挙げる。これからの学問に課せられた使命は、この覚醒をもたらす世界像をあゆる方向で展開していくことであろう。
ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」によりこの新天地を独り踏破を試みた。ウィトゲンシュタイン死後50年を経て、ほかならぬ日本で、松野孝一郎の「プロトバイオロジー」[8]・郡司ペギオー幸夫の「存在論的観測」[2]・角田秀一郎の「数学の脱構築」[17] などの本格的な作業が開始されはじめたのである13。
生命の本質はこの覚醒の外にあるわけではない。むしろ、この覚醒が生命性そのものであるとすら思われる。これが通常の神秘主義と決定的に違う点は、この覚醒は隠れているものではなく、いままで全く見えなかった、人間の基本的なあり方への開眼であり、デカルトの明証性がいま数学者にとって当然のものとされるように、いずれは、少なくとも学者にとっては当然のものとなるようなものを伴っている。
(辻下徹「数学と不定性」 (1999.11.3) より)
最初の段落の「呪縛からを我々」と「あゆる方向」はそのまま正確な引用です。
「ウィトゲンシュタイン云々、ほからなぬ日本で云々」は部外者には無意味な権威付けに過ぎないし、「生命の本質はこの覚醒の外にあるわけではない」と断言できる理由もわかりませんでした。上で引用ような議論の仕方は引用した部分に止まらず、辻下さんの論説全体に共通しています。
せっかく砂田さんの書評に反論するのだから、辻下さんはまず最初に砂田さん(および砂田さんの書評を支持している数学者)に理解し易いように書くべきだと思います。もしも理解してもらわなくても良いのなら、自分達のサークル内でのみ通用する文体で語り続けても構わないと思いますが。しかし、そうすると、反論することに学問的意味はなくなり、自分達のサークルの単なる宣伝になってしまうと思います。
繰り返しますが、例えば 2.3.2 節の応用例の数学的内容を地道にわかり易く説明した上で、それを「複雑系」と関係付けることにどのようなメリットがあるのか、そして、そのメリットがデメリットを上回る理由を説明してもらえれば会話が成立する可能性があるのではないかと思いました。私自身は、高次元圈の話も面白そうだと思っているし、「代数体の数論」「有限体上の代数幾何」「実数と複素数を基にした多様体の幾何」の三位一体も大事な考え方だと思っています。しかし、上で引用したような「擬似哲学的議論」によって (辻下さんの意味での) 「複雑系」と関係付けることは全く支持できません。
しかし、怒りを感じるほどに重たいなあ(笑)。NT上でJavaで駆動してるからかなぁ。でも、やってることを考えると、ネイティブでも重そうだ。たしかに軽くはありませんが,PPCネイティブの方は,他の処理をせずにstarlogoだけを動かしておれば,さほど怒りは感じません(笑).
個人的には、こういうことをしたいのなら、こちらをお勧め(軽いし、それにオープンソースだ)だが、サンタフェでやってるってことはこいつも複雑系なのか?swarmですね.個人的には,シミュレーションによって何を理解することができるか?という点に興味があるのですが.
logoでなくて、Objective Cってとこがlogo好きな人には難点かもしれないが、変なモデルを作って遊べるという点では同じ(できればRubyでやりたいのだが)。Smalltalk(というか,Squeak)好きなので,Objective Cは抵抗ないかも.あと,Rubyは,Gtk+を使うための拡張ライブラリがリリースされていたと思うので,開発はできると思いますが.
この前紹介した草稿は、実は、数理科学の連載「数学の未解決問題」の一つとして書いたものでしたが、途中で、この方向で最も深い洞察を持っている角田秀一郎さんに書いてもらいたくなり、替わってもらったために草稿のままで終わりかけているものです。角田氏の記事は今月号に掲載されていますのでご覧ください。
「数学と不定性」は、黒木さんから「生命と複雑系」と同じくらい晦渋で饒舌であると断定されてしまいました。これの目的は、今の数学に大きな盲点ができているということを知ってもらうことでした。その盲点が存在することを感じてもらえればこの小論の目的は達したことになるのですが、それが感じられない、というのならば私の力不足ですし、それは感じるが、それがどうした、と言われると、残念です、というしかありません、
近い内に本の形でもう少し「わかりやすく」したいと思っているところですが、独立行政法人化問題が落ち着くまでは少し無理かも知れません。しかし、折角始まった議論の風を活かさないのはもったいないので、当面はここでの議論を通しても、郡司−角田が見出した「驚くべき地平」を、私が「わかった」範囲で、呈示できればと考えています。
最初に参考資料を追加させていただきます。
いずれも<不定性>の理解において不十分なものですが、それへの準備としては不可欠な面を述べた積りです。砂田さんは晦渋だと言われましたが、わかりやすいと言う方もおられます。「生命と複雑系」を読まれて単なる饒舌と思われるかどうか、もしも、読む暇と興味のある奇特な方がおられましたら、ぜひ、御意見を御聞かせください。
かつてシーモア・パパートが開発した,タートルグラフィックスで有名なlogoというプログラミング言語の,タートルの数をたくさんに増やしたもので並列分散系のシミュレーションに強力なものです.なるほど。
例えば計算機科学,経済学,精神医学などは科学であるとかないとかいう議論に 以前からさらされてきたわけで、計算機科学に一応たずさわるものとしては その点については敏感にならざるを得ません。 複雑系に対する批判を行うときにはこのような点に対して神経を配って 議論してほしいということです。
具体的にいうと「経済学自体もうちょっとしっかりしろと言いたくなります」 というときに暗黙に措定されている「しっかりする」とは どういうことかをはっきりさせないと議論にならないということです. 真面目に複雑系をやっている人は「しっかり」しているつもりなのですから. 田崎さん,早川さん,黒木さんといった方々は, ご自身ではたぶんその辺りをちゃんとお考えだとは思いますが, すべての方々にとって言わずもがなというわけでもないと思いますので。
また誤解があるといけないのではっきりさせておいた方がいいと思いますが, 私は辻下先生と圏論について共著論文を書いていますが, 私自身は黒木さんが名前を出されたような角田,辻下,郡司 といった方々の複雑系研究には少なくとも今のところはコミットしていません。 共著の論文はもっぱら技術的な(ドライな)論文であり, 複雑系のことはコメントはあっても深い内容には触れていなかったと思います.
私が高次元圏を研究する動機は主に圏論そのものの要請と 計算機科学や物理学における応用から来る関心です。 ですから圏論としてどこが面白いかという話はできますが, 複雑系としての話は辻下先生にうかがった方がよいでしょう. 後者については実際にはあまり議論をしていませんし、 おそらく私と辻下先生では意見の相違があるのではないかと思いますから.
私自身はむしろ圏論とは別の計算機科学的な動機 (具体的にはcomputational reflectionについての考察です) からある問題意識を昔から持っていて、 それが複雑系研究で問題にされていることとある程度関連を持っています。 私が複雑系のコミュニティに関わっているのは実際には主にこちらの方からの関心です。 しばらく店晒しにしておいたのですが,最近きっかけがあって もう一度それについて考えてみようと思っています. しかしそれについては今のところ上記の方々のようなやり方ではなく 自分のやり方でアプローチをしていくと思います。
慌てて投稿したためにミスがありました.starlogoについての大雑把な紹介のところです.
かつてシーモア・パパートが開発した,タートルグラフィックスで有名なlogoというプログラミング言語の,タートルの数をたくさんに増やしたもので並列分散系のシミュレーションに強力なものです.
というのが,意図した文章でした.消去ミスにより一部抜け落ちておりました.
ダウンロードしたアーカイブを展開すると,サンプルがたくさん入っており,蟻の群れが餌を運ぶときの様子,交通渋滞の様子,ハチたちが六角形のハチの巣を形作る様子などのシミュレーションがすぐに実行できます.ただし,かなりメモリを消費するのが難点.
さっそくウェブにリンクをはっていただいたようですが.あれはまたもやイチからつくりなおそうとしていた代物で,おそらく当分人様に見せるようなモノにはならないだろうと考えていたので,ほとんど人に紹介していないものだったのです.加えて近々大移動する可能性もありますので.言い訳はこのくらいにしておきますね(なさけない).
クォーテーションマーク他,各種特種文字/記号の作法などをはじめ,黒木さんの過去の掲示板などを良く読まずに投稿したことをお詫びします.加えて,皆さんが具体的な科学やその周辺の社会的事情に関する知識をもとに発言していらっしゃることは過去の掲示板などを参照すればすぐに分かることであるにも関わらず,ほぼ無内容な一般論を投稿したこともお詫びいたします.あの投稿には,特に建設的な意見などが触発されるような内容はないと思われますので,ゴミログだということで無視していただければ幸いです.そしてそのようなゴミログでサーバのハードディスクをたとえ一部であっても占拠することをお許し下さい.
ゴミログを残すばかりではいけないので,前回の投稿に書いたstarlogoに関する情報をくわえておきます.
The Epistemology and Learning Groupのページ
starlogoのページ
starlogoについて大雑把な紹介をします:かつてシーモア・パパートが開発した,タートルグラフィックスで有名なlogoというプログラミング言語の,タートルの数をた
こどもたちにlogoを使ってもらった経験をもとに,学習するとはどういうことかを論じた本が,パパート著『マインド・ストーム』(未来社)です.
このページには,人工社会モデルに基づく進化と学習の相互作用に関する構成的研究(ミームの概念を用いた行動様式の変化を導入したマルチエージェントモデルについて書いた愉快な修論)があり,このなかでシミュレーション・ツールとしてstarlogoを使ってらっしゃいます.
櫻田和也さん自身がリンクしてくれなかったので代わりにリンクしておきます:
櫻田さんは「このひと」のファンですか? (personal webpage review)
私は、「何を科学と考えるかという立場を明確にせざるを得ない」というのが必然であるとは思わないし、少なくとも私の問題提起に関してそういう議論を前もってしておく必要はないと思います。なぜなら、「科学とは何か」に関する議論抜きで話し合えそうな事柄が存在しているからです。
例えば、辻下さんが「数学と不定性」の 2.3.2 で紹介している(しかしたったの 13 行) Higuchi-Miyoshi-Tsujishita preprint 1999.4.30 の n-category の話については数学的に実質的な内容は何でどこがどう面白いのかという話ができると思います。
いずれにせよ「科学とは何か」のようなウルトラ一般的な問題について何らかの同意を取るという無謀を試みる前に、会話できそうな項目をピックアップして地道に議論を積み重ねて行く方が建設的だと思います。会話できそうな項目が何もないというわけでないのですから、なおさらそうだと思います。
まあ、いずれにせよ、「科学」であろうがなかろうが、「饒舌」や「晦渋」抜きに誠実で正直にわかり易く説明する努力をサボっている人達が反感を買い非難され孤立して行くのは仕方ないことだと思います。ある人が天才的なアイデアを持っているがわかり易く明僚に説明する能力に欠けていても、周囲の人の誰かがわかり易く説明をする努力を払えば集団として非難を受けることはなくなります。実際、そのような形で機能している研究者集団は少なくないと思います。しかし、それとは全く逆に周囲の人達も「饒舌」と「晦渋」を増幅し続けるとすれば集団として反感を買ってしまうのも仕方がない。
早川さんの批判では, 複雑系というまとまった分野やアプローチは存在しないのだから 個別の分野に戻れとおっしゃりたいのか, それとも複雑系という名前がトラブルを引き起こしているだけで 独立したサブジェクトとして考えるべきものはあると お考えなのか,はっきりとは読み取れなかったものですから. でもその後の発言をみると前者のようですね.
私は数学をやっているので、一部の数学の人達およびそのような人達が褒め讃えている人によって行なわれている(ように見える)「晦渋な擬似哲学的議論による権威付け」が気になっています。 (この問題は早川さんによる問題の分類で言えば 2 に最も近い。)
辻下さんには悪いのですが、この批判のターゲットとして想定している人物の名前を具体的に挙げると、辻下徹さん、角田秀一郎さん、あとその2人が高く評価している郡司ペギオ幸夫氏です。
最近辻下さんが公開された草稿「数学と不定性――砂田利一氏の〈書評〉に応えて」は『数学セミナー』1999年4月号に掲載された砂田さんによる高橋陽一郎・辻下徹・山口昌哉著『複雑系の科学と現代思想:数学』(青土社、1998年6月)の書評への反論として書かれたものです。 (砂田さんにもその草稿を渡しておきました。)
砂田さんの書評から辻下さんの論説「生命と複雑系」に触れている部分を抜き出しておきましょう (3人が書いた論説は互いに独立している):
……。そして、全体の半分以上が、辻下氏の論考からなっている。
……
……。科学では(特に数学では)、啓蒙のためならいざ知らず、ジャーナリスティックな饒舌は不必要である。
数学がどのように「複雑系」に向かうべきかの試みの一端を、辻下氏の論考から伺うことができる。「生命」という、捉えようのない対象を数学はどう扱うべきか。ウィトゲンシュタインのパラドックスを交えながら、氏の考え方を推し進めている。しかし、正直言って、辻下氏の文章は晦渋である。「饒舌」を取り去った後のエッセンスが何であるのか、非才の評者としては明確に言い当てられなかった。……
辻下さんには残念なことですが、この砂田さんの感想は辻下さんの反論「数学と不定性」にもそのまま当てはまってしまいます。砂田さんが言うところの「ジャーナリスティックな饒舌」と私が気にしている「晦渋な擬似哲学的議論による権威付け」を除けば何が残るのか? 真に新しい実質的な内容がないから、「饒舌」と「晦渋」によって難解で価値ある問題に挑戦しているように見せかけようとしているだけなのではないかと疑いたくなります。そして、そのように疑われるような文章を数学者が書いてしまうこと自体に問題があると私は考えています。
辻下さんは他の数学者まともに相手をしてもらえるような議論を展開したいのなら、「饒舌」と「晦渋」を全て消し去り、最初に実質的な内容について明晰でわかり易い説明をすべきだと思います。
「数学と不定性」の中にもそれが可能だと思われる部分は確かに存在しています。しかし、その機会を辻下さんは逃してしまっている。特に、 2.3.2 節「不定性の応用例」の内容を詳しく説明すべきだと思います。その説明の仕方も「驚くような豊かさと躍動性を持っている」のような「饒舌」な表現ですませるのではなく、数学的な内容が伝わるように明晰でわかり易く説明すべきだと思いました。数学的に明確な話をもとにした議論にしないと不毛な水かけ論に終わってしまうと思います。
金子さんを中心とするCOEプロジェクト 自体はそれほど問題にしているつもりはありません。 個別に見れば反論はあるでしょうが、マクロ生物(物理)学へのトライと 見れば億単位でお金が使われたとしても、一つのプロジェクトとしては あり得るお金の動きでしょうし、世間から見た複雑系の御本尊としては ささやかなものかもしれません。勿論名称は絶対によくないと思っています。
問題は便乗してお金や利益を誘導しようとする政治家の動きです。gooで検索 したらいっぱい出て来ましたが、最初の方だけでもこんなばらばらの総体としては 意味のないものになっています。 こことか ここ とか、 こことか、 こことか、 こことか こことか。 他にも元日本物理学会の女性の会長が主催していた科研費の重点がありました。
複雑系経済学を真面目に考えるのは正気とは 思えないのですが、何せ金融工学の使っている数学があまりにもレベルが低いので そうした所で何かをよそから輸入して済ましている御仁もいらっしゃるでしょう。 経済物理という怪しいのもあって、経済学自体もうちょっとしっかりしろと 言いたくなります。
こういった下らない動きに個人のモラルで対応するのは難しいというのが 印象です。死して盗泉を飲まずという事は或は可能かもしれませんが、 現実には難しい。いずれにしても上の動きは牧野さんの印象とは別に 完全に政治的なものと捉えています。(勿論、政治をする科学者のモラルは 低下していることが問題になり、完全に分離は出来ません)。
で、はまださんによれば揚げ足とりであるらしいところの話を続けます。確か にここ数年新しい学科とか研究科ができる時に「複雑」とかいう言葉が入っ た名前がつくことが、特に工学系で多い、というか少なくとも昔は例えば「複雑系工 学講座」(これは一例で、本当にこの名前であるところが特にどうというわけ ではありません)なんてものはどこにもなかったのに、そういうものが結構出 来るようになったということは事実です。
で、なぜそうなるかということなんですが、身近なケースから想像すると、な んかそういうのが看板にないと予算がこないとかいうことがあるのかなという気もし ます。これは多分早川さんの分類では4になると思うのですが、この場合には 確かにそういう人を批判してもしょうがないというか、批判するべき対象はそ こにはないでしょう。
が、そういう観点からすれば、早川さんの分類で 3 であるものは多くの場合 に同時に 4 でもあって、あんまりそういうのは複雑系固有の問題ではないの ではないかなあ?というようなことを考えたのでした。
で、まあ、物理とか天文とかに話を限れば、もっとも問題が大きいのは2で、 well-defined ではない言葉を使って意味ありげなことをいっているつもりに なるということだと思います。で、これも、一般化した議論というよりはやは り個別に批判していくことが重要ではないかと思うのですが、どうでしょうか?
つまらない揚足とりに反応してしまって、すいません、みなさん、早川さん。 せっかくのスレッドを中断させたようで申し訳ないです。
「科学」のは自分のとこにというより(今来ても使い切れない)、大学、特に VDEC みたいなところにもうちょっと最新の技術をという意図で書いたものな ので、はまださんのような読み方をされると(まあ、しょうがないところはあ るのですが)ちょっと残念です。
http://www.kier.kyoto-u.ac.jp/cces.html これの3億円とかは巨額じゃないんですな。 そういえば「科学」という雑誌の記事は出だしが良かったのに、 俺にもちょっとぐらい予算まわせ、でオチてましたね。
もうひとつ http://www.etl.go.jp/ にあるものを紹介します. 「非線形動力学、複雑系、統計物理学(日本)」についての, リンクリストです(物性理論グループかわばた氏作成): http://www.etl.go.jp/~shiro/link/chaos-j.html
http://www.etl.go.jp/ の木下さんが複雑系についての リンクリストを作成してますのでご利用ください. http://www.etl.go.jp/%7Eyoshiki/complex-systems.html
個人的には「複雑系」っていうと、なんか四畳半物理っていう感じであんまりビッグサイエンスにならないような気がするんですが、そうでもないんですか。
これは僕の個人的な意見ですが複雑系にはいろいろなレベルの問題があり それらをいろいろ分けて考えないと混乱すると思うのです。
複雑系の問題は
3の問題は金子さんのような研究としては面白いのだが、政治的な動き(或は啓蒙活動 では)問題がある人たちです。また
3':自称複雑系
というのも覚悟がいい加減なだけに更に困ります。ここには複雑系と称して 研究会を開いたりした人もあります。3'の場合は4より積極的にコミットしていると 見てよくちょっと問題があるのかもしれません。3と3'にどのように批判を 加えていくのかは自明ではありません。
1と2は個人の問題ではないので一般化した議論でどんどんやるべきでしょう。 おそらくは批判のしやすいのは2だと思います。 複雑系を研究していると称する人達は能力の高い人も多く、個々の研究としては 注目に値するものも少なくありません。しかし一旦複雑系という何とでも 取れる言葉を使いだしたら、(如何に金子さんが複雑系の定義を与えようとも) 自己増殖的に定義や適用範囲は増えて、よく言っても老舗のどっちが本家という 争いと同レベルの話になってしまいます。従って複雑系という言葉を使った 時点でもう既に科学を逸脱しています。勿論、金子複雑系というのは科学の対象 としては明確でしょうが、それほど一般性を持っているとは思えません。 この危惧は91年から92年にかけて複雑系に対するe-mail討論が行われたときにも 最も感じたものですが、その後の推移はまさに予想通りという気がします。
狭苦しくなってきたので増築しました。「なんでも」および「なんでも2」と同様に利用して下さい。
予備掲示板 2000/02/24、なんでも 2000/02/24 でこちらに「複雑系」の話題を引っ越すことを御願いしたので、関連の議論がこちらで始まるかもしれません。どのような文脈の議論であるかを知りたい方はそちらも参照して下さい。