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黒木のなんでも掲示板2 (0048)

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Id: #b20020810235517  (reply, thread)
Date: Sat Aug 10 23:55:17 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020810185915
Name: すりらんか
Subject: だからターゲット

まず,潜在的な生産能力を下回る経済環境において大幅なインフレが発生す
るのは貨幣そのものへの信任が崩壊する場合のみだという点です.モデルの
上ではこれはエレガントに示されるのですが,貨幣そのものへの信任が崩壊
するというプロセスは19C以降観察されたことがない(ハイパーインフレ期の
ドイツですら貨幣をみんな使用している!).貨幣信任に大幅な毀損がない
(&その信任のバブル的高まりがない)ならばインフレ率は充分コントロー
ル可能であるというのは標準的な経済学のコンセンサスであるとおもいます
(貨幣数量説など).

その意味で,
>インフレを科学的に制御する方法はまだ存在しないので、事前に細心の
>注意を払っておくべきだからである。
という問いかけはインフレ制御可能な条件を踏み外した「貨幣信任に大幅な
毀損があるorその信任のバブル的高まりがある」世界の話であると思います.
現時点での経済環境を「流動性の罠」として理解する思考は現在「その信任
のバブル的高まりがある」という解釈だと思って良いでしょう.そして,継
続的なインフレの期待は少なくとも「その信任のバブル的高まりがある」領
域から経済を脱出させるという点も説得的ではあるでしょう.

ハイパーインフレ論は,「信任のバブル的高まりがある」状態をつぶせば一
足飛びに「貨幣信任に大幅な毀損がある」世界へと移行するという主張に他
ならず,単純に「ほんとかよ?」とおもわされます.

さらには,ターゲット政策は

>「ある」というのと「リアルタイムでそれが判定できる」というのは違い
の部分に関し,判定できる状態になったら自動的に手を離すことにコミット
する政策ですから,その認知はともかく,「政策実行」に関してはラグはな
い……というよりそれが制度化されれば「ハイパーインフレになりそうにな
ったら引き締めがある」という期待の下,それは生じません(「合理的期待
形成下ではオフパスになる」と表現される).

Id: #b20020810210511  (reply, thread)
Date: Sat Aug 10 21:05:11 2002
Name: 岡田靖
Subject: リフレ政策
>山下さん

歴史的に見て、デフレを強力な金融政策で克服した典型的な事例として、世界恐慌
時代の主要国(特に日本とアメリカ)、最近ではニュージーランドのケースがあり
ます。

前者の場合、前年比で10%を越えるデフレが2年以上も続いた後に、大規模な国
債の買い入れ(日本では直接引き受け、アメリカでは買い切りオペ)を行い、通貨
供給量(M1)は大幅に増加しました。その結果は、2から4%程度のインフレが
生じただけです。

もちろん、2.26事件で高橋是清が暗殺されて軍部が日銀を軍事支出の調達の為
の金庫同様に扱い始めた1937年以降は10%台のインフレになっていますが、
ハイパーといえるような段階は、南方からの物資輸入が困難になり、されに本土空
襲などで生産設備が破壊された後のことです。

また、同じく1936年には、ようやく回復し始めた景気(33年の失業率は25.2%
だったが、37年には14.3%まで低下していた)に気をよくした連銀が必要準備率の
引き上げを行い余剰(に思われた)通貨供給を絞りましたが、結果は悲惨ですぐに
デフレが再燃し、失業率は38年には19.1%へ上昇しています。

軍事独裁政権でも成立しない限り、リフレ政策が暴走し、手の付けられないインフ
レに転化する可能性はほとんどないというのが常識的な意見ではないでしょうか?

Id: #b20020810185915  (reply, thread)
Date: Sat Aug 10 18:59:15 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020805140947
Name: 山下ノボル
Subject: 実際的な意味でインフレって制御可能かな?

インフレの害がずばりと出て来るのを楽しみに待つ態勢の山下です。

 すりらんかさんの発言の中で

>ではないですが,止められないハイパー化の前に必ず「インフレが加速する
>がそれはすぐに阻止できる(というか手を離せば元に戻る)」領域があるこ
>とになる.
 とありますが、
 「ある」というのと「リアルタイムでそれが判定できる」というのは違
います。インフレ率を「上げ下げできる」というのと「ターゲットゾーン
の幅の中でコントロールできる」というのもかなり違います。
 それぞれ後者が可能なことを示せと言っているわけではありません。

 インフレ率をターゲットゾーンに収めるにはこういう制御規則で可能な
んだと示せるぐらいなら、どの政策が最適なんだと議論になるはずもなく
やろうという話になるはずなので、そういう制御規則は見つかってないは
ず。そういう状況でターゲットインフレ政策を採用すると、結局上げ下げ
の政策意思決定をする人のセンスで結果が決まることになり、日本の政策
決定をする人達のこれまでの成果を考えると、デフレとハイパーインフレ
の間を振動するような制御結果になりそうな気はします。

ついでですが、
数理科学の02年3月号に「ハイパーインフレーションの数理」
(高安秀樹・水野貴之・高安美佐子)という記事(6ページ)が載って
います。その中で

>インフレを科学的に制御する方法はまだ存在しないので、事前に細心の
>注意を払っておくべきだからである。

という1文がありまして、数理経済学系の人は調整インフレ政策には
反対というのが一般的なのかなと勝手に思っています。

Id: #b20020805230719  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 23:07:19 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020805174825
Name: まきの
Subject: アルゴリズム特許

かもさん

すみません、依然わかってないのですが、かもさんの下の主張「アルゴリズム特許は現行の特許制度の基本原則に反している」は、かもさんの元からの主張「数学上の定理は自然法則である」からきているということになるのでしょうか。黒木さんが書かれていた「フリーマン・ウォルター・アーベレの原則」は(良くわからないのですが多分)数学は自然法則ではないという立場を前提にしてるわけですよね。そうするとかもさんの主張としては、数学定理が自然法則である以上「フリーマン・ウォルター・アーベレの原則」はそもそも意味をもたないとか、そういうことになるわけでしょうか。

特許庁の公式の主張は ここの 第7部第1章「コンピュータソフトウェア関連発明」というのだと 思われます。これだと「関連発明」なるものの定義が「実施にソフトウェアを 必要とする発明」ということで、なんかソフトウェアというよりはアルゴリズ ムが対象というふうに読めます。というか、特許の対象になるのは物理的な実 体をもった「装置」なんだけど、出来合いの計算機に新しい方式(例えば新しいアルゴリズム)によるソフト ウェアをのせたものは新しい装置であるというなかなかアクロバティックな論理で アルゴリズムみたいなものを「発明」とみなすということみたいですね。書いてて自分でもなんだかわからないですが、、、


Id: #b20020805174825  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 17:48:25 2002
In-Reply-To: b0047.html#b20020730001045
Name: かも ひろやす
Subject: アルゴリスム特許とソフトウェア特許

「最近の風潮」という言葉を安易に使ったのは誤りでした。その部分は撤回します。

で、私の主張は、「アルゴリスム特許は、現行の特許制度の基本原則に反しているが、ソフトウェア特許はそうではない。アルゴリスムとソフトウェアは区別せよ」です。カーマイカー特許やRSA特許は、ソフトウェアによる実装ではなくアルゴリズムそのものに特許を認めているので、特許制度の基本原則に反しているということです。

なお、ソフトェア特許なら無条件でOKとはいっていません。基本原則に反していなければ良いというものではないのは承知していますし、現に、ソフトウェア特許で私自身がちょっと困っている問題もあります。アルゴリズム特許の問題とソフトウェア特許の問題は別で、いっしょくたに処理すべきではないといっているのです。現行制度の基本原則がなしくずしに崩されている問題と、現行制度のもつ問題とを混同すると、ろくなことはありませんので。


Id: #b20020805140947  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 14:09:47 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020805054342
Name: まきの
Subject: 枝葉末節

ではあるのですが、、、

塩沢さんのバタフライ効果に関する意味不明の発言や、フリードマンの「実証 主義的方法論」に対する見当はずれな批判は、まあ、なかなか有用な情報を読 者に与えてくれているような気もします。


Id: #b20020805091532  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 09:15:32 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020805054342
Name: くろき げん
Subject: インフレで借金をパーにする? 結局は超インフレ?

他人に頼るだけではちょっとアレなので、Google で「site:www7.plala.or.jp」AND「塩沢由典」AND「インフレ」を検索して自分で調べてみました。以下はそこからの抜粋です:

日本経済論入門各回講義の要旨第3回講義・要旨より:

調整インフレという誘惑
P. クルーグマン教授が唱え、日本にも追随者がでた。3月の参議院予算審議中やその公聴会でも、類似の要求がでている。
クルーグマンは外から眺めて、勝手なことを言っている。インフレで借金をパーにするといった甘いことを考えると、結局は超インフレを招き、日本経済はがたがたになる。
インフレ・ターゲット論
いくつかの国で採用されているが、インフレ抑制の目標であって、デフレをインフレに切り替えようという話ではない。日米構造協議がバブル経済を招いた反省がクルーグマンやその追随者にはない。

これだけからだけでも、塩沢さんがほとんど何も理解してないことがよくわかりました。まず、最初にインフレ・ターゲット論についてはもはやクルーグマンの名前を出す必然性はまったくないことを注意しておきます。「追随者」という言葉はおかしいです。たとえば、岩田規久男氏の公述を読むだけでもとても「追随者」とは呼べそうもないことがわかる。

ほとんどのリフレ論者がすすめてるインフレ目標値は高々3%です。クルーグマンだけは例外的に4%という「高め」のインフレ目標を設定するべきだと言っている。年に数パーセントのインフレで「借金をパー」にできるはずがない。景気が回復して完全雇用が達成される頃には金利もじりじり上昇することになるでしょう。

個人的には思い切った金融緩和をやる場合にはインフレ率の上限を定めたインフレ目標の設定は必須だと考えています。インフレ目標抜きの大規模量的緩和に私は反対です。インフレ目標付きのリフレ政策を批判するときに、ハイパーインフレが起きると脅すのは止めた方が良い。

さらに、インフレ目標を採用している国の目的はインフレ抑制である、とお考えのようですが、それは事実でしょうか? もしもそうならば、インフレ率の上限だけを定めておけば良い。しかし、実際にはインフレ率にプラスの下限を定めている国が多いのです。たとえば、以前のイギリスでは「2.5%以下」となっていたのですが、現在では「以下」が取れて「2.5%」を目標としている。ニュージーランドは 0〜3%、カナダは 1〜3%、スウェーデンは 2%±1%、フィンランドは 2%、オーストラリアは 2〜3%、スペインは 2% を目標にしています (インフレ指標の選び方の説明は面倒なので省略した)。

実際、ニュージーランドでは、 1998年末から1999年にかけてインフレ率がマイナスになってしまったときに強力に金融緩和を行なってインフレ率を上昇させて目標の範囲内に戻しています。ずっとインフレに苦しんでいたニュージーランドでさえこうなのだ。

インフレ目標値に0以上もしくはプラスの下限を設けることが主流になっているのは、インフレ率が上昇することだけではなく、インフレ率が下がり過ぎてしまうことも恐れているからです。

「日米構造協議がバブル経済を招いた反省」の「反省」の内容も大いに問題です。

もしも、引き締めるべきときに緩和ぎみの金融政策を続けたり、緩和すべきときに引き締めぎみの金融政策を続けたりしていたことを問題視するのであれば正しいと思います。しかし、上の引用を見るとこういう「反省」とは全然違うようですね。

1980年代後半に無用に緩和し続けたことがバブルの原因の一つ (もちろんそれだけではない) であることは間違いないでしょう。ところが、バブル崩解直後に危機感が薄い日銀は十分な金融緩和を行なわずに引き締めぎみの金融政策を続けてしまった。その結果、マネーサプライの伸び率はまるでジェットコースターのように上がったり (バブルの原因)、下がったり (その後のデフレの原因) しました。 (この点に関しては、三木谷良一+アダム・S・ポーゼン編、清水啓典監訳、『日本の金融政策』 (東洋経済新報社) が参考になります。特に、その中の地主・黒木・宮尾論文が参考になる。地主・黒木・宮尾はデフレ脱出のためのインフレ目標政策には反対の立場です。たとえ、リフレ政策に反対であったとしても、日本の金融政策がおかしかったことを厳しく指摘している。)


Id: #b20020805054342  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 05:43:42 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020805004016
Name: くろき げん
Subject: 幹になる話題の整理

すりらんかさんに皆さん、すみません。話がそれてしまったことについて、私にも責任があります。この議論の出発点は次の二つにあるのでした:

  1. 出沢敏雄 (日本銀行入行し、2001年内閣府経済社会総合研究所に移籍) による「複雑系」「カオスの理論」発言に対する評価
  2. デフレの悪とインフレの悪

私は、出沢発言を受け入れることは、マクロが専門とは限らない世界中の経済学者たちから非難されていることに対して日本銀行が説明責任を果たしてないことの看過に繋がるので非常にまずいと思います。日銀批判という文脈からそれて、出沢発言を論じるとそういう誤った方向に話が流れてしまう可能性がある。

特に、経済学批判が経済学者に批判されている経済官僚の安易な擁護を促進してしまうというようなことに繋がってしまうのは非常にまずい! 金融政策批判には専門知識が必要です。もしも議論に必要な専門知識として政策担当者の“世間知”が優先されるべきだということになってしまうのは非常に困る。私のような経済についても経済学についてもろくな知識を持ってない人に何が問題なのかをわかり易く説明してくれる経済学者というポジションの重要性は否定できないと思います。

だから、出沢発言が正しいと主張したい方 (たとえば塩沢さん) はここ数年の日銀に対する批判をめぐる論争について賛否を明確にすることによって、以上の不安を払拭して頂きたいと思っております。

インフレの害を主張したいならば、ずばっとその害が何でどの程度であるかをはっきり述べれば良いと思います。多くのリフレ論者主張する 1〜3% 程度のインフレ (クルーグマンは少し高目で 4% の数字を挙げているが少数派である) にどのような害があるかについて、具体的事例を挙げながらはっきり指摘して欲しいと思います。

リフレ政策の是非についても、私が「リフレ政策について」で述べたように、岩田規久男氏の衆議院の公聴会における公述などを引用して具体的な批判をお願いしたいと思います。すでにどこかでリフレ政策批判について書いているのであればその紹介もお願いしたいと思います (塩沢さん本人は忙しいと思うので他の方による紹介でも可)。

なお、私がこの岩田氏の公述を好んで引用するのはリフレ政策について説明するときに私が是非とも強調すべきだと考えている点をほとんど網羅しているからです。ついでに繰り返しておけば私はリフレ政策は「痛みに耐えても状況はよくならない」「良薬口に苦し、ってほんと?」という考え方にのっとったハト派の政策だと考えています。デフレが終了して円の為替レートが自然に切り下がってくれるだけでも、痛みがかなり柔らぐのではないですか?

  1. 経済学者による日銀批判について
  2. リフレ政策を含む経済政策論議について

以上の線で話を進めれば、話題が発散せずにすみ、好ましいと思います。幹から離れた話題に脱線するのは構わないと思いますが、以上の論点がぼけてしまうような議論の仕方は避けた方が良いように思えます。

私も反省しなければいけないのですが、認識論もしくは方法論もしくは経済学史の話をすることによって、話題がそれ過ぎてしまうのは好ましくないです。経済学と社会の関係について考える上でも、日銀批判やリフレ政策をめぐる論争のような具体的な事例に沿って議論することは役に立つと思います。

P.S. 塩沢さん、リプライの木構造は各ページの上の方にある「スレッド」もしくは各記事の「thread」というリンクをたどれば見られます。この掲示板の作者は木構造中心のインターフェースがあまり好きではないらしく、それ関係の機能は非常に弱くなっています。申し訳ない。しかし、木構造に頼らないことは話題を発散させないというメリットがあると思う。


Id: #b20020805004016  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 00:40:16 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804220800
Name: 塩沢由典
Subject: インフレの害

山下さん、ありがとうございます。

そのとおりで、ずばり出すべきですが、いろいろあってちょっと時間をください。 他のスレッドでもしばし休止のお断りをしています。

ひとことヒントをいうと、研究開発にも関係している話です。まあ、インフレ賛成論の方がどなたか考えて答えてくれると一番いいのですが。


Id: #b20020805002159  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 00:21:59 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803125747
Name: 塩沢由典
Subject: ☆☆しばらく、お休みのお断り☆☆

ようやくフリードマンの紹介を終わり、経済学そのものの方法を巡り、議論できる段階にきました。このあと、経済において採用されている諸仮説を巡る議論がきます。わたしが一番重視しているのは、限界原理を巡るものです。

これは、価格変数の供給関数が構成できるかといった争点につながるとともに、学説史的には、1946年から52・3年ごろにかけてアメリカで行われた一連の論争に直接関係するものだからです。フリードマンの本『実証的経済学の方法と展開』の(隠された)狙いのひとつは、この論争に決着を付けることでした。それは少なくとも表面的には成功しましたが、それはわたしに言わせれば、きわめて悪い方法論を経済学に浸透させてしまいました。

ただ、この話も、また長くなりそうですし、仕事の都合から、すぐには(この一週間はだぶん)再開できません。先行きに関心のある方は、ウェブで手軽にみてはいただけませんが、進化経済学会編『進化経済学とはなにか』有斐閣、1998、第8章「複雑系と進化」pp.99-119をご覧いただけると幸いです。


Id: #b20020805001609  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 00:16:09 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803125747
Name: 塩沢由典
Subject: フリードマンの解説例2(葉の繁り方)

フリードマンが挙げるもうひとつの例は、フリードマンが「社会科学における多くの仮説の相似物(ルビ:アナログ)となるよう意図的に構成された」ものである。

一本の木に繁る葉は、どのように配置されているであろうか。フリードマンは、次の仮説を提出する。

フリードマンの説明仮説

葉はあたかもさまざまな位置で受けとる陽光量を物理法則を知っており、ある位置から他の望ましい、空いている位置に急速にまた瞬間的に移ることができるかのように、葉はあたかもそれぞれの葉が、その隣の葉の位置を所与として、受け取る陽光量を慎重に最大化することを追求するかのような位置をとっている。(p.20)

フリードマンは、このあと、この仮説の含意が観察結果と合致していると前提して議論している。しばらく、そのことを認めるとして、フリードマンが指摘するのは次のことである。

植物は意識を持っていないので、木が計算したり思考したりするという面では、上の仮説はまったく偽である。しかし、そこから導かれる葉の繁り方が仮説から導かれるものと一致しているならば、この仮説は有益なものであり、仮定としておかれる「あたかも・・・かのように」と語られる内容がいかに非現実的なものであろうとも、そのことによってこの仮説は棄却されない。

これは、フリードマンが意図的に構成したというだけあって、なかなかの説得力を持っている。しかし、良く検討してみると、これは科学の目指すべき方向からかなり逸脱したものではないだろうか。

まず、その説明仮説が、まわりくどい表現をとっている割りには、あいまいであることである。結局、それは「葉が受けとる陽光量を最大化するかのように木は葉を配置する」といっているのであろうが、木がどのように枝を張るのか、葉は平均どのくらいの密度で付くのか、葉柄は角度を調整できるのか、といった詳細は一切語られないままである。それで、最適な配置が決まるのであろうか。あるいは、最適な配置は一意ではないが、木はほとんど最適に近い状態(ある最大受光量にちかい受光量を確保できるし状態)に自分の葉を配置しているというのであろうか。フリードマンの説明を読む限り、この仮説の確認事実として挙げられているのは、木の南側には葉がたくさん付いていること、丘の急な北斜面では、それが逆転しているのが観察されるといった程度のことである。このことをいうのに、なにも最大化仮説を持ち出す必要はない。たとえば、以下の仮説。

事後調節仮説

木は、種の固有の性質に従って枝や葉を配置するが、葉の陽光量が一定以下になると枯れて落葉する。

これはもっと精密化できるが、当面は、これでかまわない。この仮説は、最大化追求仮説ほど荒唐無稽ではないが、フリードマンの仮説とたぶん同等以上の予測能力を持っている。しかし、ここでは、ふたつの仮説の帰結がまったく同じものであると仮定してみよう。そのときでも、最大化追求仮説よりも、事後的調整仮説の方が科学の説明原理として優れているといえる。

たとえば、事後調節仮説では、「受光量がどの程度少なくなったとき、葉は枯れるのか」といった新しい検定すべき仮説を生み出すし、さらに受光量が小さくなったとき、葉緑素の再生がとまり、葉柄が落ちる機構を植物の生理の一部として調べることができる。最大化追求仮説では、このような研究の拡大は望めない。言いかえれば、最大化仮説はリサーチ・プログラムとして孤立的・停滞的であるのにたいし、事後調節仮説はリサーチ・プログラムとして前進的であり、植物の他の理論などとの統合の可能性を秘めている。

フリードマンは、多く実証分析家たちとおなじく、仮説やもろもろの説明原理の整合性・統一性・一般性などにほとんど関心を示さない。ただ、仮説の含意が検定されるか、棄却さけるかに関心を払うのみだ。理論について、かれはたとえば次のようにいう。

理論は、それを言語としてみるならば、なんら実質的な内容をもってはいない。それは一組の同語反復(ルビ:トートロジー)である。その機能は、経験的資料を組織したり,またそれについてわれわれの理解を容易にするための整理体系(ルビ:ファイリング・システム)として役立つことであり、それを判断する基準は整理体系にとって適切なものかどうかということである。(p.7)

フリードマンは、理論構築の努力が新しい問題意識と仮説を生み出し、実験や観測を準備し方向付けるといったことに注意しない。かれにとって理論は、事実を分類放り込むためのブァイリング棚にすぎない。かれには、理論を育てより完全なものにしていくという科学の一番重要な営みに対する配慮がない。

過去の経済学の論争において問われたのは、大気が真空とおなじとみなせるかどうかではない。どのような仮説体系のもとに、検証作業・理論構築作業を進めていくかという路線を巡る争いである。帰結が観測結果と一致しさえすれば、仮定はむしろ非現実的であるほうがよいというがごときものいいは科学の方法を議論する仕方としてはきわめて不用意なものと言わざるをえない。


Id: #b20020805001312  (reply, thread)
Date: Mon Aug 05 00:13:12 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803125747
Name: 塩沢由典
Subject: フリードマンの解説例1(落体の法則) フリードマンの解説例1(落体の法則) フリードマンの解説例1(落体の法則)

別にやらなければならないこともあるのですが、「フリードマンの「実証主義」の紹介」で終わってしまっては、読者をあまりにいらいらさせすぎでしょう。少なくとも、フリードマンがどんな説明をしているか、概要が分かる程度には、はやめに一度、紹介しておかなければ、こうしたことを言い出したものの義務が果たません。

ここでは、まずフリードマンが引いていて、前回もすこしだけふれた「落体の法則」に関するフリードマンの説明を紹介します。以下は、私なりの説明ですので、バイアスがあることはご了解ください。原文を読んで、読み間違えているのではというご指摘、歓迎します。

落体の法則は、「真空において落下する物体の加速度は一定値gであり、物体の形状、落下の仕方などから独立である」という命題をいう。この系として、落下距離をS、落下始めてからの時間をtとすれば、S=(1/2)gt^2という「公式」がえられる。

この公式を建物の屋上から落下する硬いボールに適用するとすれば、それはそのように落下するポールがあたかも(「あたかも」に力点)真空を落下するかのように(「かのように」に力点)行動するということと同義である。この仮説をその仮定によってテストするということは、たぶん実際の気圧を測定し、そしてそれがじゅうぶんゼロに近いかどうかを決定することを意味する。(p.17)
(中略)
[一気圧が1平方センチあたり約15ポンドとなることに関係して]15という数はその差が有意ではないと判断されるほどじゅうぶんに、ゼロに近いかどうかという始めの問題は、あきらかにそれ自体ばかげた問題である。・・・これらの数字を”小さい”とか”大きい”とかよぶ根拠はありえない。また、適切な唯一の比較の基準は、与えられた諸条件のもとで公式を有効ならしめたり無効にしたりするところの気圧である。(p.17)
(中略)
この例は、理論をその仮定によってテストすることが不可能であること、および”理論の仮定”という概念があいまいであることを例証している。公式S=(1/2)gt^2は、真空における落体について妥当であり、そのような物体の行動を分析することによって導出することができる。したがって、つぎのようにいうことができる。つまり、広範な状況のもとでは、現実に大気内で落下する物体は、あたかもそれが真空中において落下しているかのように行動する、と。このことを経済学できわめて一般的に使用されていることばでいえば、このことはただちにつぎのことばに翻訳されよう。すなわち、公式は真空を仮定していると。(p.18)

この最後の一文は、経済学で完全競争や利益最大化などを仮定するのは、上の問題においてあたかも「物体が真空中を落下する」と考えて、運動方程式を導きだそうとするのと同じことだと言うためである。

質量が十分大きく、空気抵抗があまり大きくならないような形状の物体なら、上空から落下させるとき、その運動は重力係数をgとするとき、S=(1/2)gt^2で与えられる式で近似できる。このことは、空気の粘性があまり高くなく、物体が真空中とほぼ変わりない変わりない運動をするといっているにすぎない。

経済学で完全競争の仮定に疑問を出すのは、ただ市場が完全競争ではないという主張ではない。完全競争でないことが、市場の働きに変化を引き起こし、完全競争とはことなる市場状況が出現する。したがって、完全競争とはことなる前提のもとに問題を定式化し、理論を組み立てなければならないと言っているのである。

これは、空気中の落下についていえば、次のことをいうのに近い。フリードマン自身が言及しているように、非常に上空から落下させれば、落体の運動は、空気抵抗を無視できなくなる。たとえば、速度が非常に早くなるにつれて、空気抵抗が大きくなり、重力とつりあうところまで早くなると、物体は定速度運動をするようになる。空気中で落下する物体の運動を観測するのは、空気が真空であることを証明するためではない。そんなことはすこしまともな批判者ならみな知っている。問題は、たとえば空気抵抗が無視しうるほどのものなのかどうかということである。そして、無視できない場合には、その説明理論をどう構成するかである。話を経済学に戻せば、不完全競争で、企業の行動が変化するなら、その変化した状態を記述できる理論をどう形成するかである。

物理学では、空気抵抗を考慮した理論は、あらたに創造しなくても、すでに獲得されている。すでに空気力学がかなりの程度に出来上がっており、一気圧の空気中の落体についてもそれが第一近似としては空気抵抗を無視できる程度のものであることが分かっている。本当に問題にしなければならないのは、経済学と物理学のこの差異であろう。実際、この理論・観測体系がなければ、S=(1/2)gt^2がどの程度の領域まで適用可能かも、見通すことはできない。フリードマンは、この点で問題をまったくミスリードしている。


Id: #b20020804220800  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 22:08:00 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804152325
Name: 山下ノボル
Subject: インフレの害

久しぶりの山下です。
自動車会社に勤めてエンジンの設計をしています。


塩沢さんの書かれた
>インフレはほんとうにこんなコストだけでしょうか。とくにコストの第一に靴底効果を挙げて
>平然としている神経には驚かされます。そんなことしか考えていない人たちがインフレを起こ
>そうと提案していても、一般の人たち(つまり経済学専門家ではないが、経済に関心をもって
>いるある程度知的水準の高い人たち)がかれらをあまり信用できないと考えるのはむしろ良識
>的なことではないでしょうか。
を読むと、塩沢さんは、コストとも言えないような靴底効果以外のインフレの害を把握している
ように私には思えます。インフレの害が何なのか?というのがまさに私の知りたいことです。
マイルドインフレ政策擁護派の人の重要な論拠のひとつが、マイルドなインフレにはほとんど害
がないという主張だと私は理解していますので、ここをズバッと答えていただくと非常にクリア
になると思います。インフレの害は何なのでしょうか?


Id: #b20020804183301  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 18:33:01 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804172340
Name: すりらんか
Subject: Applied Econome

>これはフリードマンの主張の否定ですか、支持ですか。もし、否定ならど
>ういう理由でかれの主張を棄却したのでしょうか。
否定といって良いでしょう.理由はデータ(過去のデータにかんしてでも外
挿でも)を上手にリプロデュースする(フリードマンは予測といいますが)
モデルは無数に考えられるからです.したがって

正:「正しいモデルはデータをリプロデュースする」
誤:「データをリプロデュースするモデルは正しい」

というわけです.ただし,人によってはマクロ経済学の仕事は内的矛盾が生じ
ないDGEによって現実を説明するモデリングを模索し,その予測精度を比較す
ることであって,そのモデルの個々の仮定の検証はApplied (Micro) Econome
の仕事であり分業の観点からも妥当な棲み分けなのだという言い方もされるよ
うです(<これは私は大いに疑問).
Id: #b20020804182334  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 18:23:34 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804125649
Name: まきの

>まきのさんが何を言いたいのか理解できません

フリードマンとか読んだのは 20 年以上昔で、内容もすっかり忘れたので関連して説明するってのはちょっと御勘弁を。とりあえずいいたいことだけを書くと

黒木さんの「普遍性」という言葉の使い方は全然気にいらない

ということです。御理解いただけたでしょうか?


Id: #b20020804172340  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 17:23:40 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804161214
Name: 塩沢由典
Subject: 少しずれていますが、重要なことだと考えています。

これはすりらんかさんの2本の書き込み「お答えありがとうごさいます」「話がそれていってませんか?」の双方に対する応答です。こういう場合,どうリプライをつければいいか、くろきさん教えてください。木構造にならないから、無理なんでしょうか。

すりらんかさんのご指摘のように、話がすこしずれてきて、おもわぬ長い説明が必要になって困っています。しかし、フリードマンの方法論は、いろいろ言われながらも、現在の経済学者の「常識」として、現在も経済学の基礎に批判が起きた場合の逃げ口上になっています。

わたしが問題にしたいのは、これが学説史的に重要だというのではなく、まさに現在の問題だと考えるからです。

ここで、ちょっと批判めいたことをいわせてもらうと(あまりけんかを売るつもりはないのですが)、マクロ経済学や計量経済学の人たちの方法論議は、ちょっとおおざっぱにすぎるのではありませんか。「まあ、あのあたりでいいのでは」という感覚的な水準にとどまっているという印象です。もっともすりらんかさんがこうしているという証拠をもっているのではないので、直接すりらんかさんに言及した発言ではありません。

「話がそれていってませんか?」の方で、「仮定の妥当性に関してはApplied Metricsによるチェックが行われており,その意義を否定する理論家は少ない(というか相当変わってる)といって良いでしょう.」とありますが、これはフリードマンの主張の否定ですか、支持ですか。もし、否定ならどういう理由でかれの主張を棄却したのでしょうか。


Id: #b20020804161214  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 16:12:14 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804152325
Name: すりらんか
Subject: お答えありがとうございます.

お答えありがとうございます.

インフレの問題点に関しては,過去の(ハイパーでない)インフレを観察し
てそれ以外のコストがあったという実証的結果を見たことがありません(と
いいますか所得移転・インフレヘッジの無形コストはともに重要な話題であ
ると思います).人為インフレの可能性・ハイパーインフレにかんしてはそ
れこそ繰り返しになるので控えます.

ハイパーインフレに関し,
>しかし重要な機構であるポジティブ・フィードバックが働くから
という返答をいただいたのはありがたいです.私はカオス云々によるインフ
レ主張を聞くたびに「真面目に複雑系をやってる人はホントにそんなこと言
ってるのだろうか」と思っていたものですから.フィードバックを重要視し
てハイパーインフレを考える(Kiyotaki and Wright的な)流儀にしたがうと
>こんな因果関係が重要なのではなく、東京でもニューヨークでも嵐が近づく
>ときには気象観測によってある程度、事前に知ることができます
ではないですが,止められないハイパー化の前に必ず「インフレが加速する
がそれはすぐに阻止できる(というか手を離せば元に戻る)」領域があるこ
とになる.これを機能させるためにも日銀の政策目標の決定ルールとその達
成手段の独立……そのためのインタゲ法制化が必要であると思います.

最後に,
>経済学がその基礎理論の理論構造に対する批判に耳を傾けることなく、それを
>無視することで切り抜けてきたことの帰結がこうした現状に反映している
ですが,確かに「経済学作法にしたがいパーツを組み合わせて」できたおもち
ゃの品評会になっている部分−−またはそれこそが経済学だという身内ルール
みたいなところがあるのは認めざるを得ない部分かもしれませんね.その意味
で,塩沢さんとは全く違う方向として,モデル自身のrobustさを中心的に話題
にして従来の議論の取捨選択を行っていくというのは面白い作業とおもいます
(黒木さんのあげているSuttonの研究など).フリードマンの研究が重視され
るのはフリードマン自身の方法論(<これが怪しいって言うのは比較的マクロ
の者の間では常識化しています)がすばらしいと言うよりも,結果として……
あとからみてみると頑健さある研究になって「いた」点ではないかと思います
(<これは感想なので学説史的にはどうなんでしょう).
Id: #b20020804154230  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 15:42:30 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804135530
Name: すりらんか
Subject: 話がそれていってませんか?

当初の塩沢さんの問いかけは,

>野口旭さんの論調は、権威の確立した経済学理論以外のものは知識にあ
>らずというものですが、経済のような複雑な体系を理解しようとすると
>き、もうすこし世俗の知恵というものからも学びとる姿勢が必要

という方法論に関する部分と

>インフレターゲット論の人たちは、デフレの悪を盛んにいうのですが、
>インフレの悪について、どのくらい理解しているのでしょう。

という個別政策のCost&Benefitの2つです.この話の課程で黒木・塩沢両
氏ともにフリードマンの発言の一部分に議論が向かっていますが,これは
(レトリックの妥当性を議論するような)あまり本筋と関係ないところの
ような気がしてなりません.

フリードマンの方法論についてふれておられる
>理論の”仮定”について問われるべき適切な問題は、それらの仮定が記述
>的に”現実的”であるかどうかではなく、というのはそれらは決して現実
>的ではないからであり、当面の目的にとってそれらの仮定がじゅうぶんに
>良好な近似であるかどうかということである。そしてこの問題は、理論が
>働くかどうかを、つまり、その理論がじゅうぶん正確な予測をうむかどう
>かを、見さえすれば答えることができるのである。
という部分は,現在のマクロ屋は(モデルの妥当性)必要条件の一つの実証
であるという把握をしているのがふつうです.仮定の妥当性に関してはAppl
ied Metricsによるチェックが行われており,その意義を否定する理論家は
少ない(というか相当変わってる)といって良いでしょう.学説史の重要性
については,ここには専門家がいるので私はたいしたことを語れませんが,
すくなくとも塩沢さんの当初のふたつの問いかけにとってはと副次的な問題
としか見えないのです.
Id: #b20020804152325  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 15:23:25 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803104700
Name: 塩沢由典
Subject: インフレの害

すりらんかさんのコメントにすぐにお答えでないで、すみません。全体の展開が速く、なかなか応答できません。

すりらんかさんの問題提起のうち、「経済学の危うさ」に直接、全面的に答えることは、ここでは到底できません。

ただ、前回のわたしの提起との関係でいえば、インフレの害ないしコストについて、どのくらい正しい(ことの軽重にふさわしい)理解をもっているか、いないかは、政策を議論する際にも重要なことでしょう。インフレ・ターゲット論そのものの是非をここで展開しょうとはおもいません。わたしは反対派ですが、どうもそれはこれまでこの掲示板、あるいは経済/経済学@いちごひびえすでなされてきた議論の蒸し返しになりそうだからです。

インフレ・ターゲット論を主張する人たちにわたしが問いかけたいのは、賛成されるのは結構ですが、「インフレのコストについてキチンと考えられた結果ですか」ということです。

アメリカの経済学の教科書がすべて判断の基準になるとはもうとう考えていませんが、野口旭さんのように「正統的=教科書的なディシプリンを最大限まで擁護すべきである」 と考えられている人に対しては、正統的教科書がどのような理解を提示しているかは重要なこととおもいます。

(本格的な調査でなくて)本屋さんで何冊かページをめくってみただけの結果なので申し訳ないのですが、そこに書かれていたインフレのコストというのは、ほとんど重大なものはありませんでした。

☆だれか、きちんと調査して報告してくれる人がいるとありがたいのですが。☆

所得移転効果は、もしそれが意図されたものであるなら、すりらんかさんのいわれるようにコストではないことになります。それを除いては、靴底効果価格表を取り替えるコストなどが主なものですが、インフレはほんとうにこんなコストだけでしょうか。とくにコストの第一に靴底効果を挙げて平然としている神経には驚かされます。そんなことしか考えていない人たちがインフレを起こそうと提案していても、一般の人たち(つまり経済学専門家ではないが、経済に関心をもっているある程度知的水準の高い人たち)がかれらをあまり信用できないと考えるのはむしろ良識的なことではないでしょうか。

これは正確には「経済学の危うさ」よりも、現在の「経済学の不毛さ」の例でしょうが、ものごとの重要さにかんする適切な判断を欠いた(とわたしにはおもわれる)説明・解説がまかり通っていることが現在の経済学の問題点でしょう。

経済学がその基礎理論の理論構造に対する批判に耳を傾けることなく、それを無視することで切り抜けてきたことの帰結がこうした現状に反映しているとわたしは考えています。これはわたしの判断であって、このような判断をすりらんかさんに押し付けようとしているのではありません。その点は誤解しないでください。


もう一点。とくに「塩沢さんの見解を伺いたい」といわれているハイパーインフレーションについてですが、カオス云々とハイパーインフレーションはほとんど関係ないでしょう。それがおこるのは、もっと単純な、しかし重要な機構であるポジティブ・フィードバックが働くからでしょう。

この関連でいえば、複雑系でよく取り上げられる「バタフライ効果」についても、度をすぎた強調がなされているとおもっています。たとえば、「ジャングルの中の蝶の羽の動きが、ニューヨークに嵐をもたらす」などという表現をときどき目にします。ジャングルが正確に東南アジアの熱帯雨林であるならば、東京に嵐をもたらす可能性があっても、ニューヨークにはまず嵐をもたらすことはありません。それに、こんな因果関係が重要なのではなく、東京でもニューヨークでも嵐が近づくときには気象観測によってある程度、事前に知ることができます。いくらでも小さな因果関係があるというのなら、なにもカオスを持ち出さなくても、どんな熱方程式もそういう構造をもっています。

カオスがあっても、一挙に任意の精度で予測不可能というのではなく、リャプーノフ指数が1より大きい過程を何回も経過することで予測精度が落ちていくのだということを、ふつうはきちんと説明していませんね。このあたりの説明がいい加減なところが、複雑系に懐疑的な人たちを無用に作りだしているとおもいます。一般の人(専門家ではないが、関心をもっているある程度知的水準の高い人たち)をだますのは良くないですよ。このあたりは、複雑系を標榜している人たちにわたしからも苦言を呈したいところです。


Id: #b20020804135530  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 13:55:30 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803125747
Name: 塩沢由典
Subject: フリードマンの「実証主義」の紹介

さて、ここからが本論。前前回、フリードマンの主張に関するわたしのコメントを引用しました。フリードマン自身からの引用をすべきでしたが、手元に本がなく、やむをえず私のコメントを引きました。今回は、フリードマンの引用を中心にします。引用だけでは、退屈してしまうかも知れません。途中にすこし雑音をいれます。

問題にするのは、M.フリードマン『実証的経済学の方法と展開』富士書房、1977年(Essays in Positive Economics, 1953)の第1章「実証経済学の方法論」(pp.3-44、以後ページはすべて日本語訳のもの)です。この論文から、さわりと思われるところを抜書きします。なお、ここにいう「実証的経済学」は、規範経済学に対立しているので、いわゆる「実証」とはやや意味が異なります。フリードマンの立場は、ポッパーの反証主義に近い(あるいはそれに立脚した)実証主義です。

理論は、それを実質的な仮説のあつまりとみなすならば”説明”しようとする現象のあつまりにたいしてどの程度それが予測能力をもつかにしたがって判断されるべきである。事実の証拠がありさえすれば、それが”正しい”か”誤っている”か、あるいはさらに、試論的に妥当なものとして”受け入れられる”か”しりぞけられる”かを示すことができる。のちにいっそう詳細に論じるように、仮説の妥当性に対する唯一(「唯一」に力点)の適切なテストは、その予測を経験と比較することである。(pp.8-9)

混乱を避けるために、仮説の妥当性をテストする”予測(ルビ:プレディクション)”は、まだ生起していない諸現象に冠するものとはかぎらないこと、つまり、将来の事象に関する予測(ルビ:フォーカースト)とはかぎらない、ということをはっきりと注意しておいた方が多分よいであろう。(p.9)

ここらあたりは、まず、あたりさわりのないところでしょう。「予測prediction」についても、それはforecastとは限らないと断っています。

予測によって経済学の仮説をテストすることが困難なために生ずる、いっそう重要な結果は、理論的な研究において経験的な証拠が果たす役割にたいする誤解を助長することである。経験的証拠は、密接な関連はあるが、異なった二つの段階で重要である。すなわち、仮説の構成とそれらの妥当性のテスト、これである。(p.12)

・・・誤解が集中的に現れるのは、”仮説が説明しようとする現象のあつまり”という語句である。社会科学では、この現象のあつまりに対して新たな証拠を獲得したり、またその証拠が仮説の含意に一致するかどうかの判断をするのが困難なために、もっと容易に入手できる他の証拠が仮説の妥当性にひとしく適切な関連をもつと想定しようとする――つまり、仮説には”含意”だけでなく”仮定”も含まれており、しかもこれら”仮定”が”現実”に一致することが、含意によるテストとは異なった(「異なった」に力点)、あるいはそれを補足する(「補足する」に力点)仮説の妥当性のテストになると想定しようとする――ことになる。(p.14)

わかりずらい表現になってますが、ここで言っている内容がかなり重要です。経済学で用いられているさまざまな仮説についてどう議論すべきであるか、フリードマン流の主張が含意されているからです。

ここで、フリードマンが「仮説」、「仮定」、「含意」を区別していることに注意してください。この用語体系でなにを言おうとしているかは、一般論ではわかりません。かれが、このような用語体系でなにを言おうとしているかは、かれが物理学や経済学から例を引いて議論しているところに入らないとよく分からないとおもいますが、今回はまずフリードマンの一般的主張をかれの言葉に忠実に紹介しておきます。

この広く支持された見解は、根本的に間違っており、また多くの悪影響を生み出している。それは、妥当性をもたない仮説を妥当性をもった仮説から篩いにかけるための一層容易な手段を提供するどころか、ただ問題を混乱させ、経済理論に対する経験的証拠の意義をますます誤解させ、実証的経済学の発展に捧げられた多くの知的努力の方向を誤らせ、そして実証的経済学における試論的な仮説に関する同意の成立を妨げるだけである。(p.14)

結局、ここをフリードマンは方法論上の争点としていることが分かります。かれが例を挙げて議論しているところをみると、「”完全競争”の仮説」や限界原理、さらには「収益最大化仮説」などに対する批判的言説が、この「広く支持された見解」「根本的に間違っ」た見解によってなされていると考えているようです。

理論には、いやしくも”仮定”があるといわれうるかぎり、そして仮定の”現実性”が予測の妥当性と独立に判断されるかぎり、理論の意義とその”仮定”の現実性とのあいだの関係は、批判の対象となっている見解が示唆するそれとはほとんど対立する。真に重要かつ有意義な仮説の”仮定”は、現実についての、むやみに不正確な記述的表現になってなっているであろう。そして、一般にその理論が有意義であればあるほど、(この意味で)仮定はいっそう非現実的である。(pp.14-15)

ここも、フリードマンの出す例を見ないと良く分からないかもしれません。かれが挙げているのは、落体の法則に関連した事例です。実験される地表面の大気圧が1気圧であることを指摘し、仮説は大気が真空であるという仮定に基づいて立てられていると説明しています。地上が真空であるという仮説は、真空の定義にもよりますが、偽といったほうがいいでしょう。だから仮定はむしろ偽であるべきだというのが、フリードマンの主張です。それが以下の部分です。

その理由は簡単である。仮説がわずかの仮定によって多く"説明する”つまり、説明されるべき現象をとりまく多くの複雑で詳細な状況から共通した決定的な要素を抽出し、それらの要素のみに基づいて妥当な予測が可能となるばあいには、その仮説は重要である。したがって、仮説が重要であるためには、その仮定は記述的には偽でなければならない。仮説の他の多くのそれに付随した状況をなんら考慮も説明しない。というのは、その仮説の成功こそ,まさにそれらの情況が説明されるべき現象にとって適切な関連をもたないことを示しているからである。(p.15)

この点をいま少し逆説的でなく表現するならば、理論の”仮定”について問われるべき適切な問題は、それらの仮定が記述的に”現実的”であるかどうかではなく、というのはそれらは決して現実的ではないからであり、当面の目的にとってそれらの仮定がじゅうぶんに良好な近似であるかどうかということである。そしてこの問題は、理論が働くかどうかを、つまり、その理論がじゅうぶん正確な予測をうむかどうかを、見さえすれば答えることができるのである。このようにして、独立だと思われた二つのテストが一つのテストに帰するのである。(p.15)

いままで、科学の方法論について長く考察されてこられたくろきさんやこの掲示板の読者にあまり解説することはないでしょう。フリードマンは、落体の法則を検証することと、「真空中と仮定する」という仮定を置くことの理論的関連をとり違えているのではないでしょうか。かれはどうも、法則の有効領域がどの程度かというように問題を検討することと、ある近似の仮定を置くこととを混同しているように思われます。そこから、非現実的な仮定から測定上正確な結果が得られるなら、どんな仮定を置こうと、かまわないばかりでなく、むしろその仮定は日現実的であるわうがよい、そのような仮定から、正確な帰結あるいは「含意」が検証されることが重要なんだというフリードマン一流の主張が出てきているようです。

このような一般的主張をフリードマンが具体的な事例でどう展開するか。それは、次の書き込みで紹介します。


Id: #b20020804130019  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 13:00:19 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803125747
Name: 塩沢由典
Subject: cyui g)h\y w@rt そんなに極論ですか

タグの使い方、配慮がたらず、すみません。以後の書き込みでは、blockquote使わせてもらいます。

フリードマンの方法論を本格的に議論しなければならないようですね。そうなると、フリードマンの主張自体の紹介がかなり必要になます。その前に、ちょっとくろきさんの応答に対するわたしの感想を記しておきます。

くろきさんも意外にいらちですね(失礼!)。理屈の通らない「複雑系」な人たちと応酬してきた心理的なトラウマかな。以下の部分です。

一方では「経済学の思考のあるべき位置は、数学とオカルトのあいだにあると考えている」だとか「新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう。そのとき、われわれは日常言語あるいは散文の特徴について自覚的でなければならない」のような極論に聞こえる言い方をしておき、批判されると「すぐに数学的定式に載らないからといって、有用な知識・学問的考察ではないと切り捨ててしまってはならないでしょう」という類の穏健な主張に徹退する。

塩沢さんの議論の仕方は、私が嫌う相対主義者たちのレトリックにそっくりだと思います。その最大の特徴は、批判を過激に見せかけたり、穏健に見せかけたりすることを行ったり来たりすることです。
(くろきさんの前回( #b20020803125747)の書き込み。ただし、段落の順序は反対。)

「経済学の思考のあるべき位置は、数学とオカルトのあいだにあると考えている」は極論かもしれません。表題と同じく、ある種のレトリックとして使っていますから。これも本文を良く読んでもらえれば、「数学にならない部分も積極的に認めよう」という主張だということが分かると思います。しかし、「新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう。」というのがそんな極論ですか。

「新しい冒険」のイメージにもよりますし、「新しい」の内容にもよりますが、あまりよく分かっていないことに挑戦しようとするとき、それがすぐ数学的定式に載るとはくろきさんも考えないでしょう。まずは、漠然としたイメージをもち、それをなんとか言語化し・分節化して考えをまとめようとするのではありませんか。その思考過程は、最初は、論理的に整理されたものではなく、その思考内容を(自分自身を含め)人に伝えようとすれば、ほとんどは日常言語による漠然とした表現にならざるをえないでしょう。この部分を非科学として切ってすてるのでなく、もうすこし積極的に意識的に考えようというのですから。

これが数学における「新しい冒険」なら、証明できていない命題としてはじめから数学的な表現をとるかもしれません。しかし、わたしの発言は、数学の進め方ではなく、経済学をどう進めるかについての提案です。

上の「この部分を非科学として切ってすてるのでなく、もうすこし積極的に意識的に考えよう」という表現も、このあいまいな部分も科学だと主張しているのではありません。科学になっていない部分・思考過程にたいする十分に反省された方針を持つことが大切だと思っています。


Id: #b20020804125649  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 12:56:49 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020804113020
Name: くろき げん
Subject: フリードマンについて

リンク先の問題ですが、普段は www-cc が生きていたのですが、今は死んでいるみたいですね。

まきのさんが何を言いたいのか理解できません。フリードマンもしくは経済学などの話と関係付けて説明して頂けませんか?

塩沢さんと私の今までの話では、フリードマンが一方的に非難されるという感じになっているので、少しコメントしておきます。

「長期では貨幣の量が増えた分だけ物価水準も上昇する」という考え方は貨幣数量説と呼ばれています。この説は各国の経済統計では結構よく成立している。他の様々な状況証拠と合わせて、経済には長期で貨幣から独立な均衡が存在する、と考えることができます。このような考え方と「普遍性」の関係は明らかでしょう。フリードマンはこの方向で様々な議論を展開しています (私はあまり詳しくないのですが)。しかし、均衡から乖離している短期の場合 (経済政策との関わりでは非常に重要な場合) では難しくなる。こういう類の議論を、「経済学批判」という文脈でとりわけ強く批判する必要はないと考えています。

しかし、それではフリードマンに罪が無かったかというとそういうわけではない。 (ここでは面倒なのでフリードマンの極端な自由主義的な傾向の政治面での影響については触れないことにする。) フリードマンは貨幣数量説の議論を押し進めて、中央銀行はマネーサプライを潜在的な実質経済成長率に合わせて増加させれば良い、それ以外の余計なことは一切やるな、と主張してしまったんですね。しかし、現実に試してみたら散々な結果を招いた。

以上のような歴史を背景に、塩沢さんによるフリードマンの発言の説明を読むと、「フリードマンさん、お気楽過ぎませんか?」と言いたくなってしまうわけです。フリードマンの議論の中には「普遍性」が味方してくれそうな部分がかなりたくさん含まれていた (その部分を安易に否定してはいけない)。しかし、全然そうでない現実との政策の繋がりにおいて有害な部分もあった。

現実の経済は複雑ですから、あらゆる場面で「普遍性」が味方してくれることは期待できそうもないんですね。「長期では」という形容詞を付けたり、それと大体同じことですが「完全雇用を仮定すれば」という前提では「普遍性」が結構味方してくれる場合がある。

それに対して、ケインズが「長期では我々はみな死んでいる」という有名な言葉に示されている通り、現実の経済政策では「短期」や「不完全雇用」の場合について考えなければいけない。その場合においては「普遍性」が全然味方してくれないかもしれない。

フリードマンが提案した単純な金融政策のルールが失敗したのは、そういうことに注意をあまり払って無かったからだと思うのです。

しかし、経済政策の方針を決めるときに、経済研究のサポートなど無視した方が良いと考えるのはまずいと思うのです。それではどうしたら良いかというの問題になる。これは難問だと思います。

私が提案したいのは、「普遍性」が味方してくれそうな場合とそうでない場合の区別をできるだけはっきりさせる努力をしよう、ということです。味方してくれそうもない場合の結果は「取り扱い注意」のステッカーを貼っておいた方が良い。それだけでも、過去のある種の失敗をかなり防ぐことができるのではないですかね? そして、たとえばフリードマンのようなタイプの経済学者の良い点だけを後世に伝えることに成功するかもしれない。


Id: #b20020804113020  (reply, thread)
Date: Sun Aug 04 11:30:20 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803125747
Name: まきの
Subject: 科学にとって普遍性とは何か

なんていうだいそれた話をする気はないのですが、田崎さんの美しい文章(ちなみに 黒木さんの下の書き込みではURL が間違ってます)のどこをどう理解すれば
出発点における非現実的なほど単純化された仮定が科学的に正当化されることは滅多にありません。何か非常に特殊な条件が必要です。モデルを立てるときに無視された詳細が悪さをしないことが保証されなければいけない。これがモデルの「普遍性」です。この基準が理論的にも数値的にも実験的にも様々な証拠によってサポートされなればいけない。
というようなお気楽なことが書けるのかちょっと不思議な気がします。 以下は田崎さんの文章からの引用:
残念ながら,スピン系の実験で「普遍性」が見られる本当の理由を我々は理解していない. これらの実験が(あるいは,もっと広く,有史以来の科学が)成功裏に進んできたという経験事実が,「普遍性」の存在を示唆しているだけである. そういう意味で,「普遍性」の起源を理解しようとすることは,物理 (physics) の範囲から半歩外へ踏み出した "metaphysics" の領域に属するのかもしれない. [ 私は,「普遍性」は自然科学に存在基盤を与えてくれる(健全な)信仰であると思っている. ただし,全ての研究分野で「普遍性」が人類の味方をしてくれる(あるいは,してくれている)と信じるほど楽観的ではない. ]
黒木さんの態度はどっちかいうと 今までの数値計算で熱力学がみえてないから、これも駄目に違いないとかいう態度 に近いものがあるような。
Id: #b20020803125747  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 12:57:47 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803120410
Name: くろき げん
Subject: 「仮定の非現実性は理論にとってなんの問題でなく云々」について

色の出ないブラウザでは引用文とそうでない部分の区別が付き難くなく可能性がある (実際そういう環境を使っている場合がある) ので、以下のように、 blockquote のタグを入れるなどして頂ければ嬉しく思います。 (段落を <p> </p> で囲み、長い引用文を <blockquote> </blockquote> で囲む。その引用文は <p> </p> で囲まれた複数の段落を含んでいて良い。注意すべきことは <blockquote> の直前で段落を </p> で閉じておくことです。)

さて、ここからが本論です。まず、引用:

フリードマンは、仮定の非現実性は理論にとってなんの問題でなく、それが経験科学として容認されるかいなかは、その理論から導かれる結論が予測能力をもつかどうかにあると主張した。正しい結論を導くならば、仮定が非現実的であるほど、その理論には驚きがあり、優れた理論であるとも主張している。しかし、理論はもちろん一体のものであり、恣意的に仮定と結論とを分離し、結論のみを検証・反証のテストに掛けてよいものではない。仮定の任意性は、検証も反証も不可能な命題にたいしてのみ認めうるにすぎない。

(塩沢由典「数学とオカルトのあいだ」より)

フリードマンがどのような文脈でこういう発言をしたのかわからないので、私なりの解釈で書くことになるのですが、上に引用した意見には肝腎の考え方が欠けていると思いました。

「仮定の非現実性は理論にとって問題にならない場合もある」という穏健な主張であれば正しい。たとえば、イジング模型のようにほとんど非現実的なぐらい極度に単純化されたモデルは科学的に正しい。むしろ、あそこまで単純化しても物理的に意味があること自体が驚きであり、物理学の深さの一端をそこに感じることができるわけです。

しかし、出発点における非現実的なほど単純化された仮定が科学的に正当化されることは滅多にありません。何か非常に特殊な条件が必要です。モデルを立てるときに無視された詳細が悪さをしないことが保証されなければいけない。これがモデルの「普遍性」です。この基準が理論的にも数値的にも実験的にも様々な証拠によってサポートされなればいけない。

「普遍性」が成立しているケースがおそろしくまれであること、成立していても実際にそれを正確に抽出することがこれまたおそろしく難しいこと、などなどを知っていれば、上に引用したようなことを気軽に言えるはずがない。

しかし、ここで強調しておかなければいけないことは、有名な経済学者が科学的な方法についておかしなことを述べているからと言って、塩沢さんの考え方や議論の仕方が正当化されるわけではないということです。 (しかも、方法論については滅茶苦茶を言っていても、研究成果の方が真理を含んでいるということは珍しくない。)

塩沢さんの議論の仕方は、私が嫌う相対主義者たちのレトリックにそっくりだと思います。その最大の特徴は、批判を過激に見せかけたり、穏健に見せかけたりすることを行ったり来たりすることです。

一方では「経済学の思考のあるべき位置は、数学とオカルトのあいだにあると考えている」だとか「新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう。そのとき、われわれは日常言語あるいは散文の特徴について自覚的でなければならない」のような極論に聞こえる言い方をしておき、批判されると「すぐに数学的定式に載らないからといって、有用な知識・学問的考察ではないと切り捨ててしまってはならないてしょう」という類の穏健な主張に徹退する。

穏健な主張だけならば私はすべて賛成です。穏健とは言えない部分の主張を明確にすることによって、穏健な主張への徹退による言い逃れが不可能なタイプの議論を展開して頂きたいと思います。悪しきレトリックが混じっているせいで、私は塩沢さんが何を言いたいのか全く理解できないでいます。理解可能な説明があるまでこれ以上の反応ができなくなるかもしれません。


Id: #b20020803120429  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 12:04:29 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803104700
Name: くろき げん
Subject: すりらんかさん、はじめまして

すりらんかさん、ここでは、はじめまして。

すりらんかさんの場合は他の場所に自分の意見を大量に書いて公開しているし、すりらんかさんのハンドルはその名義で間違ったことを言ってしまうと痛みを感じざるを得ないだけの歴史を経ていることは明らかなので、「匿名」による批判の禁止ルールの意味での「匿名」とはみなしません。

P.S. 私の塩沢さんへの返答では出沢氏の件には結局触れなかったのですが、その件に関しては、出沢氏が日銀出身であり、日銀擁護の姿勢が鮮明であることも無視してはいけないと思います。世間知にも十分考慮する価値があるものが少なくないと思いますが、あの文脈での「世間知」は「日銀を擁護するために利用可能なあらゆる考え方」と同一視可能だと思う。


Id: #b20020803120410  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 12:04:10 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803090554
Name: 塩沢由典
Subject: 本格的な応答、ありがとうございます。

くろき げん様

早速、本格的に応答してくださり、ありがとうございます。経済学を科学的に検証しようとなると、それこそいろいろなことを言わなければならなくなり、とても一回の「反論」とか「主張」ではすみそうもありません。

くろきさんのご主張のキーワードである「普遍性」(ユニヴァーサリティ)についても、それがキーワードになってきたくらいにしか認識していませんので、この点での議論は、もうすこしくろきさんご自身の説明を読んでからにしたいと考えています。

当面の問題は、くろきさんの以下のコメントでしょう。

しかし、「新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう。そのとき、われわれは日常言語あるいは散文の特徴について自覚的でなければならない」と極論にジャンプしているところを見ると、賛成可能な範囲をはるかに超えてしまっているように思えました。

経済学の対象とする現象の中には、もちろん数学的定式化に適したものもあります。そうすることによりよく見えてくることがあるとすれば、数学的定式化は(科学といえないまでも)学問の進歩に貢献することを否定しません。しかし、数学的に定式化されないが、あるいは数学の問題ではないが、学問の進歩に有用な働きをする思考があるということも否定できない事実ではないでしょう。そのことを認めると、日常の言語による考察を否定することはできません。

この主張は、そのあとできるなら数学的な定式化の努力をすることを否定するものではありません。しかし、すぐに数学的定式に載らないからといって、有用な知識・学問的考察ではないと切り捨ててしまってはならないてしょう。理論経済学者たちのあいだにみられる「数学化されないものは、理論ではない」という風潮にたいし、すこし問題ではありませんか、いいたいのです。

一例をあげれば、マルクス経済学において、長い争点となった「価値」(労働価値)と価格(簡単には、生産価格)の関係については、それが数学的に定式化されるようになって(さらにいえば、多くの経済学者がその定式化を自分でも理解し、使えるようになって)急速に問題が煮詰まりました。たとえば、「創価値=総価格」という等式と「総剰余価値=総利潤」という等式を同時に成立させるには、非常に制約的な条件を前提にしなければならないといったことが理解されるようになりました。

しかし、この問題が数学だけで解決しなかったことも確かです。「価値が価格を規定する」といった主張が怪しくなっても、「利潤の源泉は剰余価値の搾取にある」といった主張は生き残りました。(これは、置塩信雄の定理、あるいは森嶋通夫によりマルクスの基本定理と名づけられたものです。)このとき、マルクスやその後のマルクス経済学者の多くが考えてきたことは、理論体系の説得的効果であるとわたしは指摘しました。同様な指摘は、法哲学者の碧海純一がしていた以外には知りません。最近、碧海先生が電話をかけてこられたところでは、他に類例はあまりないようです。これらは倫理学のスティーヴンスンの「説得的定義」という概念にヒントを得た議論です。(『近代経済学の反省』第6節「マルクスの搾取論」219-288ページ、ただしこの本は現在、絶版です。)

数学問題としてある命題が真か偽かといった議論とは別に、われわれが議論している理論全体をどう理解・解釈するかといったことも、(つねにとは言いませんが)必要になることもあります。そのような議論が数学を離れたものになるとしても、それが意味のないものであるとかはいえないことでしょう。

このあたりまでは、あまり反論もないでしょうが、わたしが「新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう」といったことに対しくろきさんは疑問を呈していられます。わたしの論稿の最後にこういう主張をしたのは、それ以前に注意したこと、つまり以下の部分にたいする当面の対策として提案していることなのです。

 数学は強い光だ。だが、数学化のみを理論の営みと考えると、上の酔っ払いと同じことになりかねない。数学の光が当たっているところだけが研究され、他のもっと重要な課題は放っておかれることになる。1970年までの100年間、理論経済学はほぼ数学の光により進歩してきた。そのこと自体には罪はない。ただ、数学の光が当てやすい枠組みとそうでない枠組みとがある。最適化と均衡(=平衡)とは、そのような光の当てやすい枠組みであった。その結果、論理的には巨大な進歩が得られた。しかし、それは同時に経済学が誤った方向にさまよいでることでもあった。数学の光がそこにあたり続けることで、皮肉なことにその誤りが隠されてきた。これも、また、経済学にひそむ危険な道のひとつである。

 数学の論理が適切に適用できる範囲は、まだ十分広くない。数学が証明できることを意味するなら、証明はできないが正しいと思われる多くの知識が経済学ではありうる。数学の光が当たらないからといって、それらを系統的に排除してよいであろうか。( 「数学オカルトのあいだ」

すこし古い話をすれば、経済の制度についてどう考えたらいいか、といったテーマがあります。1970年ごろまでは、そんなテーマは古いという反応が強かったとおもいます。(こういうことを明確に主張した文章はあまりのこっていないので、実証的な主張でないといわれても仕方ないのですが、「制度」をキーワードにした論文がそのころまでの10年間にどのくらい書かれたかといった形では、傍証できることでしょう。)ところが、現在では、青木昌彦先生たちの努力により、比較制度分析が有力な存在となり、現在、「制度は重要だ」という人は、たくさんいます。

わざわざこういう事例を引き合いに出すのは、この動き自体に、経済学と数学の関係を考えるいろいろなヒントが隠されているからです。比較制度分析は、青木先生が制度をナッシュ均衡として定義されて、制度の分析にも数学的な定式化、論理的な厳密化が可能であると示したことが、主流の新古典派の経済学者たちにも受け入れやすいものになったという背景があります。この意味で、青木先生の「戦略」はあたったというべきでしょう。しかし、制度をナッシュ均衡として理解してしまっていいのか、といった問題は残っています。制度設計といった考え方も盛んですが、これは従来の数学的手法よりは、マルチ・エージェント・シミュレーションの方が有望のように思われます(もちろん、数学的な定式化でできる不文もあるでしょう)。これは、一種の実験ですから、すぐには数学的に確立しうる命題にはつなりません。しかし、その中に数学化できる性質が含まれていることをわたしが否定しているわけではありません。

問題は、(旧来の)数学的定式化に載らないものは、理論・学問・科学にならないと考えている理論経済学者があまりにも多いということです。現在の理論経済学者の多くは、自分が獲得した数学手法にしがみついていて、新しい領域の開発には乗り出していません。もちろん、そんな能力は少数の人にしか備わっていないことはみとめますが、そういう努力にもっと関心を持ってほしいし、大胆な試みにも踏み出してほしいとわたしは考えています。

くろきさんは、「塩沢さんによる経済学批判の方針は極論に走っているせいで説得力がない」といわれています。極論に走っているとは、わたしは思っていませんが、そう受け取られていることは認めます。経済理論の根幹にまで、さまざまな疑問があるということを理解してもらうことは、経済学者にも経済学以外の方にも難しいことでしょう。それがときに極論と受け取られても、それを指摘し続けるのが私の役割と考えています。

「やるべきなのは」として、くろきさんはいくつかの具体的なリサーチ・プログラムを提案されています。それについては、また、別の機会に議論したいとおもいますが、その前にくろきさんはわたしが書いた以下のフリードマンの主張について、どうお考えですか。これが経済学における「実証的方法」として、いまだに有効なものとされている考え方なのですが。

フリードマンは、仮定の非現実性は理論にとってなんの問題でなく、それが経験科学として容認されるかいなかは、その理論から導かれる結論が予測能力をもつかどうかにあると主張した。正しい結論を導くならば、仮定が非現実的であるほど、その理論には驚きがあり、優れた理論であるとも主張している。しかし、理論はもちろん一体のものであり、恣意的に仮定と結論とを分離し、結論のみを検証・反証のテストに掛けてよいものではない。仮定の任意性は、検証も反証も不可能な命題にたいしてのみ認めうるにすぎない。( 「数学とオカルトのあいだ」

わたしは、こうした考え方に反対です。これは物理学や他の自然科学の発展における理論のつも意義を否定してしまっていますし、ひいてはそれに貢献した数学の意義をも否定するものと考えています。


Id: #b20020803114750  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 11:47:50 2002
In-Reply-To: b0048.html#b20020803104700
Name: すりらんか
Subject: 訂正

第2段
「貿易黒字維持のために投資に励もう」のまちがいです.
Id: #b20020803104700  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 10:47:00 2002
In-Reply-To: b0047.html#b20020801173356
Name: すりらんか
Subject: 政策論と経済理論

匿名で失礼します.他の掲示板(2chではない)で時々経済に関する雑談
などをしている者です.専門はマクロ経済学,比較的純粋理論よりは応用
・実証をフィールドにしています.

さて,塩沢さんの話はおそらく野口氏と出沢氏の議論をベースにされてい
る議論と思いますが,確かにあなたのおっしゃる
>経済のような複雑な体系を理解しようとするとき、もうすこし世俗の
>知恵というものからも学びとる姿勢が必要ではないでしょうか
という主張がなされるとき,これに反論するのは非常に困難です−−まさ
に正論ですし,大人の対応でしょう.しかしながら,多くの経済論争の場
において問題になる「世間知」は,
・定義に関する誤り
・背理法による反証が容易
なものです.例えば「マネーサプライは1年間に日本で使用された貨幣の
総額」「貿易黒字を維持するために節約に励もう」という世間知(実際に
そうかかれている本があるのです)にうなずく人を,(経済学ではなく)
経済を知る知識人として扱う気には(私は)全くなれません.また,背理
法によって示すことができる命題−−まさにインフレの話題に関しては
Benenkeの反論などが良い例です−−はモデルに依拠しない強力な証明で
す.このような反論が可能な議論は以下に人口に膾炙しようとも省みる必
要のないレベルで間違えているのです.インフレ・デフレの問題に関して
も,特定産業の価格低下(相対価格変化)と価格水準の変化(絶対化格
変化)を区別することなくユニクロ効果に言及し,また相対絶対価格変化
の区別に加え為替レートに対する理解もなく中国発デフレ論からこのデフ
レを不可避(場合によっては望ましいとすら!!)と主張してしまう……
このレベルで経済について語ってしまう自称エコノミストが政策論議には
跳梁跋扈しています.これらがいずれも不可避なものではないという点な
どはまさに定義レベルの話題であることに気づかれるでしょう.

もちろん蓄積された経験から導かれた命題の重要さは言うまでもないこと
です.またそこから帰納法的に理論体系が導かれるきっかけにもなる……
しかし,世の中には迷信は多い……上の2つで容易に反論可能な「世間知」
がその後の展開に継続することはないでしょう.確かにアカデミズムの世
界において「経験の集積」に注意すべきだという言及は必要な部分もある
と思います.何年かまえの私なら賛同したかもしれません.しかし,政策
論を細かく見るようになると……残念ながら「それ以前」が重要な水準な
のがわかります.

また,少々質問なのですが,モデルを全く経由しない背理法による証明な
どは塩沢さんがリンク先で指摘されている経済学の危うさから逃れている
と考えられます.また,ご存じのように経済学の多くの命題は裁定行動を
通じても導くことができる−−−これらについても同様の感想を抱きます.
そうした際にあなたの主張される「経済学の危うさ」とはいかなるものな
のでしょうか.

さて,質問に答えずに先に別の話題から言及してしまい失礼しました.

>アメリカで作られた経済学の教科書をみますと、その第一に「靴底効果」
>なんていうものが出てくるので
これは多分にレトリカルな表現でまさに危ういと言わざるを得ません.靴
底効果はインフレヘッジを行うことの無形費用を比喩的に言うものです.
確かにこれはインフレのコストでしょう.その他のインフレのコスト(?)
は所得の移転です.しかしこれに関してはインフレ時に誰から誰へ所得移
転が起こるかを考えるならば悪(コスト)ではなくむしろbenefitである主
張すらなされます.なお,現時点の日本経済に関してはデフレによる移転
の後に逆方向へ行われる移転ですからその「意義」を否定するのは困難で
しょう.また,価格調整能力の相違から相対価格体系に変化が生じるとい
うアイデアもありますがそれはデフレの際も同様であり……さらにはその
厚生への評価はむしろ厚生改善的といって良いというのが通常の解釈です.

この様に主張したときの返答のひとつが「ハイパーインフレ」への言及です.
しかし,経験的には実体経済の悪化なくハイパーインフレに陥った例
は過去にないとの点/理論的には複数均衡での安定均衡回帰によって封じ
るのが通例です.するとさらには現在の状態からの乖離により経済がカオ
ス的な環境に陥りハイパーインフレになるという反論が聞かれることがあ
りますが,これに関しては私の理解を超えているのでむしろ塩沢さんの見
解を伺いたいところです.第1の疑問は今までの経済には数多くのショッ
クが加わっていたというのに,なぜ日本におけるインフレターゲットのみ
がカオス的状況に経済を導くのか?なぜ新しい政策・今まで行われたこと
のない政策全てに対して「ハイパーインフレになる」と警告しないのか,
全く理解できません.


ランプの下のみを探す経済学者を嘲笑して,ランプを廃止しましょうとい
う人のなんと多いことか?それでは光に照らされないまでも薄闇の中に見
えていた領域も闇に閉ざされてしまいます.

Id: #b20020803090554  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 09:05:54 2002
In-Reply-To: b0047.html#b20020801173356
Name: くろき げん
Subject: 経済学的思考は数学とオカルトのあいだにあるべきか?

塩沢由典さんの「数学とオカルトのあいだ」 (『数学のたのしみ』特集「数学にたくす夢」 第30号 pp.36-42 2002年4月) を読みました。

現実の経済のような複雑な系について数学的なモデルをどんなに立てても、モデルの「普遍性」 (1, 2, 3, 4) が保証されない限り、科学的に信頼できる結果は得られない。 (警告:「普遍性」を「広く適用できる」という類の日常的な意味で解釈しないこと! リンク先に繋がらない場合は『数理科学』1997年4月号に掲載されている大野克嗣、田崎晴明、東島清の共著の原稿を参照せよ。)

ある種のモデルのファミリーの研究が学界で主流になってしまうことによって、ある種の考え方が科学的証拠も無しに単なる権威として流通してしまい、現実の政策提案に悪影響を与えてしまうかもしれない。これは好ましいことではない。

もしも塩沢さんが以上のようなことを述べたいのであれば賛成です。

しかし、「新しい冒険は、数学の言語よりも、まず最初は、日常の言語でなされるであろう。そのとき、われわれは日常言語あるいは散文の特徴について自覚的でなければならない」と極論にジャンプしているところを見ると、賛成可能な範囲をはるかに超えてしまっているように思えました。

塩沢さんによる経済学批判の方針は極論に走っているせいで説得力がないと思います。そのようなやり方では経済学の科学的に怪しい部分が悪用されることを防ぐことはできないと思います。

やるべきなのは以下のようなことだと思います:

こういうことをやろうとすれば、激論になることは必至だと思います。しかし、経済学の中にほとんど自明過ぎて誰も否定できそうもない部分が含まれているので、その点を真っ先に強調して、コンセンサスを形成しておくことには意味がある。

たとえば、「GDP = 消費 + 投資 + 政府支出 + 純輸出」や「経常収支 + 資本収支 + 外貨準備増減 = 0」 (誤差脱漏は無視) のような各項の定義から自明に正しい会計恒等式があります。このような自明な恒等式であっても、一国の貯蓄性向が急激にかつ大幅に変化したりしないという経験則を合わせれば、政策面で大きな意味を持つわけです。しかも、巷では会計恒等式でさえ無視しまくっているトンデモが跋扈しているのだから、このレベルの話を強調しておくことは大事なことだと思います。

経済学の基本的な考え方の中には、皆が近似的にどのように行動するかに関する仮説の部分と、「無い袖は振れない」という事実を表現した予算制約条件の部分があります。前者は取り扱い注意ですが、後者は全然そうではない。前者に対する批判はよく話題になるのですが、後者の「無い袖は振れない」という事実を情け容赦なく主張する点も経済学の重要な特徴であり、しかも誰もが認めざるを得ない真実を含んでいると思います。

経済学を何も知らないしろうとに向かって、経済学をほぼ全否定するような言説を広めるよりは、専門家にしかできないやり方で経済学の考え方とその信頼性の程度を率直にわかり易く説明し、その政策面での含意 (すなわち経済学の正しい使い方と誤った使い方) について説明する方が有効な批判活動になる可能性が高いと思います。

まだ Economics and Philosophy, Vol.18, Issue 01, April 2002 (権限があればインターネット上で全文を読める) の特集号の方しか見てないのですが、 John Sutton, "Marshall's Tendencies: What Can Economists Know?", Leuven University Press and The MIT Press, 2000 で展開されている経済学の方法論に関する批判的な分析は参考になるのではないかと考えています。 (書評の一つ)

P.S. 野口旭氏が書いたものに「正統的=教科書的なディシプリンを最大限まで擁護すべきである」 (『経済学を知らないエコノミストたち』 p.17) という類の誤解を招くことが必至の表現がよく出て来ることや経済学のかなりの部分が実際には信用できないことをあまり強調してないことは確かに批判されてしかるべきだと思います。しかし、「権威の確立した経済学理論以外のものは知識にあらず」と野口旭氏が述べているとみなすのは誤解だと思います。そういう類のことを野口旭氏は言ってません。よく読んでみれば、野口旭氏の議論で重要なのは「教科書的ディシプリンの擁護」ではなく、「教科書的なディシプリンを適切に応用する仕方」 (同書 p.17) の方だということがわかります。たとえば、経済学入門書によく書いてある類の会計恒等式などの使い方を示しながら、トンデモ経済論を叩いている点は啓蒙活動として肯定的に評価されてしかるべきだと思います。もちろん個別の議論については批判の余地が大いにあると思いますが、それなら個別の議論を通して批判をするべきだと思う。


Id: #b20020803090227  (reply, thread)
Date: Sat Aug 03 09:02:27 2002
In-Reply-To: b0047.html#b20020801173356
Name: くろき げん
Subject: リフレ政策について

塩沢さんは、リフレ政策 (デフレを終了させて1〜3%程度のマイルド・インフレを目指す政策) はトンデモであるとお考えのようですが、その批判の内容がよく見えません。私自身はすでにこの掲示板で長々と自分の意見を述べているので繰り返しませんが、たとえば岩田規久男氏の衆議院での公聴会における発言 (2002.2.27) には大いに共感しています。岩田氏の発言を引用しながら、具体的に批判して頂けませんか? 批判を述べるだけではなく、賛成できる点についても説明して頂ければ建設的な議論になる可能性があると思います。

「インフレの悪について、どのくらい理解しているのでしょう」と述べてますが、 2%のインフレと2%のデフレでは害の度合が全然違いますよね。ほとんど天国と地獄程度に違う。

数パーセント程度のマイルド・インフレにはほとんど害がない、マイルド・インフレが継続している経済においてインフレが原因で皆の生活が悪化することはほとんどない、まさに靴底がすりへる程度の害しかない、というのは世界中の経験によって確定している事実と言って構わないと思います。

それに対して、マイルド・インフレに適応している経済がたとえ 2% 程度であってもデフレ (しかも日本の場合はひどい資産デフレを伴っている) に突入してしまうとひどい目に会うということについては本当に様々な理由が考えられる。

私がずっと不思議に思い続けていることは以下のようなことです。スティグリッツの「痛みに耐えても状況はよくならない」という言葉やクルーグマンが "No pain, no gain" という某国の総理大臣の発言を世界大恐慌での経験の紹介を通して強く非難していたりすることを見ればわかるように、リフレ政策はハト派の政策なんですね。それにもかかわらず、日本の左派に属する人たちの多くがリフレ政策について冷静な議論ができなくなっているように見える。


Id: #b20020801192126  (reply, thread)
Date: Thu Aug 01 19:21:26 2002
In-Reply-To: b0047.html#b20020801173356
Name: 時田 節
Subject: 大阪のグランドデザイン

最近の塩沢さんの社会的提言では、藤原書店『環 vol.9』の座談会『大阪のグランドデザイン』が世俗の知恵にあふれててたのしかったです。
野口、岩田、岡田らは、都市再生で一致するだろうけど、都市再生は、この座談会的というか、森まゆみ的であってほしくて、慎太郎的ではあってほしくないような。
数学のたのしみ では29号に砂田利一さんが書いている『ゴキブリ原理』が世俗の知恵かも。声のでないゴキブリだけど。

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管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
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