各記事の Id ヘッダー行の # から始まる文字列をクリックすると、その記事自身にジャンプします。その記事自身の URL を知りたい場合に利用して下さい。さらに、括弧の中の reply をクリックするとその記事に返事を書くことができ、 thread をクリックするとその記事を中心としたスレッド形式の目次を見ることができます。
みほさん、すみませんね。掲示板のスクリプトにちょっとコードを付け足して、単純に横断検索できるようにするのはそんなに難しくないのですが、それをやるとアクセス禁止をかいくぐって記事を読まれてしまう可能性があるので止めてしまいました。
でも、mirei さん作の sherlock plug-in (ただし MacOS8.5以上のみで使える)が使用可能なら、もっと楽に検索できると思います。
おまけ: カルスタの1997年版の『知恵蔵』での解説文
Cultural studies は1997年版の『知恵蔵』(朝日新聞社)においては、「哲学・現代思想」における「新語・話題語」として、cultural studies が紹介されている。それによると、「1996年の思想界の目立った動きといえば、cultural studies (CS)の本格的紹介が始められたこと」であるらしく、 cultural studies とは以下のような分野であるらしい。
1960年代にイギリスのバーミンガム大学現代文化研究センターを中心にして、従来の社会心理学や批判理論とは違った視角からの労働者文化や大衆文化、若者のサブカルチャーの研究が始められ、これが「カルチュラル・スタディーズ(CS)」と呼ばれたが、70年代以降この動向がアメリカに伝えられると、問題の関心も人種やエスニシティ(民族性)、男女の性差へと移り、ポスト植民地主義やフェミニズム、差異の政治学、多元文化論といった思潮と融合して新たな展開を見せ、サイードの『オリエンタリズム』のような画期的成果を生むことになった。この段階でのCSには、記号論、脱構築理論、精神分析、権力論、プラチック理論、ニュー・ヒストリー、エスノグラフィー(民族学)などありとあらゆる思潮や方法論がとりこまれ、学際的というより、学そのものの解体を目指すような新たな知の地平が開かれてきている。さらに90年代に入る頃から、このCSがアジア・アフリカに受けつがれ、そこでは文化や社会のもっとも基本的なカテゴリーをさえ問いなおすほどの強い衝撃を身につけ、21世紀へ向けての知の新たなあり方を示唆している。(上掲書p.959)
すんげえ圧縮された説明ですね。
王様同士が直接対面になる状態(チャンチーでは王不見王で不可とした状態
(?))のことです。チャンギでは、その状態にすることは可能で、その場合、
相手が「引き分け」にするか続けるかを選択できる、ということらしいです。
以下に、以前に東京で開かれた教室に参加したとき頂いた、「興味深く初歩から
学ぶ 子供チャンギ教室 」の資料より引用します。
この資料は、ソウルで出版されている本から抜粋したもののようです。
ピッチャングン(ピッチャン)について
チャンギにおいては、漢楚の間に駒が無くなり、将軍同士が直接対面したまま、
勝負を進行させることは無い。図は漢の手番であるが、楚の64の車が68に走
れば一手詰めのため、漢45の馬で車を取れば、漢楚が直接対面となる。
この状態がピッチャングンである。ここで、楚が受け入れれば、引き分けとなる
。楚が33または、53に逃げれば、とりあえず引き分けは回避されるが、楚に
勝算はあるだろうか?
この他、ピッチャングンは無効とするルールもあり、対局前に確認しあう必要が
ある。
図
11 21 31 41 51 61 71 81
車 1
兵 楚 2
3
東 4
馬 5
6
7
卒 漢 8
象 9
東 象 10
楚の駒は、64の東、28の卒、50の東、90の象です。
駒は交点に置きますが、交点は将棋や囲碁のように2次元(x、y)で表さず、
1次元(1から90)で表します(64はロクのヨンでなくてロクジュウヨン
。)わかり難い図ですが、想像はできると思います。
以上です。
どうしてクリスマスイブの夜には七面鳥とかトリの腿焼きとかを食べるのですか。まあ、トリの腿焼きは七面鳥の代替品だとしても、なぜ七面鳥を?それとも、鳥類ならなんでもあり?どうせなら俺は北京ダックがいい。
「ピッチャングン」ってのはどういう状態なんでしょうか?
庄司憲世さん、はじめまして。
将棋世界での連載(木村義徳八段、「二千年の将棋史」1996.6-1998.10)の第5回目(1997.10)にチャンギの駒と盤の実物の写真が載っているのですが、細かいところは見えず、「車」「包」…等の先手と後手の駒の書体の違いや色の違いまでは確認できなかったので、庄司さんからの情報は貴重な情報でした。
アジア圈内に限っても、様々な工夫がほどこされて発展して来た様々な将棋系ゲームがたくさんあるんですよね。ルールの一覧表と戦術に関する寸評などに関するまとまった情報があると楽しいですね。
小波さん、いつも理科教育MLで小波節、堪能させてもらっています。 特に、化学音痴には大変勉強になります。 ええと、「『将棋世界』は最近見ていないなあ〜」と思いつつ、ハプニング的な ことも十分あったのではと想像したもので、 おちゃらけですが、 再利用不可時代、字チャーザー村で、「おい、こん平さん駒が少なくなったよう だね。どれでもいいから、あたしの駒を反対向きにしていいよ。だたし、一回だ けだよ。」「いよ!流石ご隠居。ついでに取った駒も使わして下さい」「おい おい、こん平さんにはかんわないねぇ。まぁ、リユーザブル将棋も面白そうだ。 いいでしょ」。この一件から、こん平さん「リユーザブル将棋」という「言葉」 をいいふらすもんだから、「取った駒を使える将棋もあるらしい。今日はそっち でいこう」とやってみると、取った駒が使えるのは緊張感があるし手も広くなっ て面白い。すぐに広まったとか。 チェスの遊びは、パズルなら8クイーンやナイトでのなぞ解き(「プッサンが鍵 を握る、羊飼い」「そしてアルカディアにて、去れ」でしたっけ?)がありま すが、良く知りません。 変種体(Chess Variant)は以下にあるみたいですけど、drawlessとか double kingとかあってもreusableはなさそうです。(あるのかな?) (色で駒の所有属性を決めていると、そういう発想がでないのかなぁ。駒の向き が先後共上向きのイメージは定着していて動かせないのかも知れませんね。) http://www.cs.ruu.nl/~hansb/d.chessvar/onthese.html それでは。
あの、スカウトの自殺はびっくりした(これは、美しい日本の断片ではないが、 きわめて日本的ではある)。自殺された(この受け身表現 すこし変かな)高校生が寝込んだっていうのを聞いて、いたたまれない 気がした。自殺を受けて、父親が、息子をオリックスにあげたいといった そうで、この「あげたい」って言う表現にもびっくりした。それで、息子が オリックスに行きかかったら、一部から、「それなら そうとはじめから 言え。そうすればあのスカウトも死なずにすんだんだ」とかいわれたし。 行かなきゃ行かないで、「あの死は無駄だった」っていわれるし。どうすりゃ いいんだ。 あと、ダイエーのスパイ事件。あれはまあ、あんなことしてるかもとは、 思っていた。でもあの収集のつけかた(まだついてないけど)が、 気持ち悪い。(ふたたび、あれも日本的である。変な意味で、美しい 人情の国・日本的だ。)
野球に興味がないのに書いてしまいます。 似たようなこと(?)を考えたのは、 スカウトの自殺と、相手チームのサイン盗み見疑惑、の報道。
はじめまして。千葉市在住の庄司と申します。将棋系ゲーム+囲碁ファンです。
将棋系のゲームの歴史を考えるのは、面白そうですね。将棋世界の記事は見てい
ませんし、以下全くのにわか推測ですが、
色で駒の所有属性を区別する場合、しっかり区別できる点はよいけれど、何か
の拍子で偶然に駒の向きが変わったとしても、所有者が変わったとは思わない。
すぐに、正しい状態に直す。また、取った駒を置く発想も生まれにくい。色によ
る区別は、持ち駒ルール移行にとって「じゃま」である。
一方、色は使わず、形(+文字)の向きで所有属性を区別する場合、盤上の駒
の向きを180度変えるとか、取った駒をこっそり自分の駒として置くなどの
「いたずら」ができる。また、局面として可能なので、取った駒を実際に盤上に
置かなくても、「もし、ここに取った駒を置いたら・・・」という現行ルール外
思考もできる。形(+文字)の向きによる区別は、持ち駒ルール移行にとっ
て「じゃま」にならない。
そして、「取った駒を打てる」とした場合、駒が強すぎてはダメである(
「王様」がすぐ詰みそうで面白くない)から、駒そのものを強くすることはなく
、(弱い状態で)一度打って次に成れるという「ワンステップ入れて強くする」
工夫に留まった。(それで十分面白いし、引き分けもかなり回避できた)。
また、漢字アイコンを使用したことも、色の使用が避けられた(または、後に
省略できた)という意味でルール変更に大きな役割を果たしたという気がします。
それとシャンチーの話がありましたので、最近興味をもったチャンギのことを
少し。
チャンギでは(字の向き以外では)以下の事で駒の所有属性がわかります。
(1)字種の違い
上手が「漢」(将棋の「王」に相当する)を持ち、下手が「楚」(将棋の
「玉」に相当する)を持ちます。また、前左右に1つ動ける駒(将棋でいえば
、「歩++」(^_^))に「兵」と「卒」があり、「兵」は上手側、「卒」は下手側
です。
(2)書体の違い
「車」「包」「馬」「象」「士」は字種は同じですが、書体が違います
(上手は楷書体(?)、下手は草書体(?))。
(3)字色の違い
「漢」側は駒の字色は「赤色」、「楚」側の駒の字色は「青色」です。
所有属性の区別に、(1)、(2)、(3)を使ってしまった後では、それを
クリアしてチャンギに持ち駒ルールを持ち込むという考えは起きにくいとい思
ます。
また、チャンギにおける「引き分け」は、「ピッチャングン」という状態から
生ずるようですが、手元の資料では、アマ高段者の場合、643局中引き分け
89(13.8%)、級位者の場合、135局中引き分け19(14%)であり
、引き分けが多い事、「棋力これから」の人でも「引き分け」にもっていける事
がいえるかも知れません。
それでは、失礼します。
PS
黒木様のページは、よく拝見しています。
私には「面白さ」「有用性」「難解さ」が魅力です。
さては黒木さん、お出かけですね。その間に、野球のことを 書いてしまおう。ここの皆さんが、あまり興味をもたないだろうなあ とは、承知していますが。。。 文芸春秋の12月号に、セリーグで優勝した、横浜の権藤監督の 日記というのが公開されていて、読んだのですが、そのなかに、広島 との最終戦で、首位打者をあらそう横浜の鈴木(当時打率1位)と広島の前田 (同2位)が二人とも出場しなかった件について、次のように述べています。 「(打率を現状維持するために)鈴木を出さないことには、決めていて、 もし、前田が出てきたら、全打席、敬遠しなきゃならないので、(そうなったら みっともないので)広島の三村監督に、前田を出さないでくれと頼んだら、 承諾してくれてよかった」 なにか、美談のように書いているんですが、そもそも、自分のチームの鈴木 を出さないのは勝手として、相手の前田が出てきたら、全部敬遠するというのも、 まあ、お客無視だし、かっこ悪いやつではあるが、仕方ないとしても、 それ(敬遠して、卑怯者呼ばわりされること)もいやだから、 相手にださないように頼むのは、やりすぎで、それを受けちゃう相手の 監督(そいつもそいつだが)を話のわかる偉いやつ、みたいにいうのは、 もっと納得いかない。そもそも細かくいえば、不正試合じゃないか。 広島としては、前田をだせば、全部敬遠してくれるなら、 試合運び上はプラスだから、出すべきだ! それともこれも美しい日本の人情なんだろうか。
なるほど。これで、「これで最後にします」てなことを言っておきながら、そうできない奴の実例がまた一つ増えたな。ええと、VTさん、今後ここを使うのを止めてもらうと助かります。今後は「これで最後」という発言の責任をきちんと取るようにして下さい。
今後は、他人の庭で馬鹿なことをつぶやき続けるのは止めて、自分のウェブサイトを開設して、そちらでやるようにした方が良いでしょうね。 (ウェブサイトを開設した後でそのURLをここで紹介することまでなら許可しましょう。)
VT氏について何か言いたいことがある人もここには書かないで下さい。予備掲示板= y.html (このページのURLの b.html を y.html に置き換えた場所にある)の方でやって下さい。
黒木さん。私はもう「つぶやき」には登場できない。再びここをお借りすることを 赦されよ。 昨晩、私の製造者が人間的な弱さをもろに露呈させて、妙な書き込みをしたようだ。 黒木さんの「当たらずとも遠からず」というのは、ある意味では恐らくその通りな のだろう。私の見るところ、マスダ氏にエールを送りたいという気持ちが、彼の頭 脳を曇らせたのだ。が、私としては「これが最後」というわけにはいかない。最後 の最後に二つほど確認をしておくことで、最低限のモラルを果たしておきたいから だ。 (1)私の製造コンセプトのうちの一つ、「<応答=責任>の意識的排除」という のは、分かりやすさのために近似的に言えば、「わざと無責任な態度を採る」とい うことだ。サイバースペースとはいえ、その公開性を考えるとき、かつての「つぶ やき」の書き込みは、はっきり言ってかなり「無責任」な印象を私の製造者に与え ていた。議論自体の徹底を要求しているようでいて、しかし実際は、過剰気味の 「芸」を隠れ蓑にしつつ、共通の「敵」を揶揄しながら「仲間」意識を醸成してい る様が、私の製造者には少々キモチワルくもあった。「好きにつぶやく」というコ ンセプト自体が、議論の徹底と、それを保証する言葉遣いに対する自覚、議論の部 分と遊びの部分の適切な区別の実現、を阻んでいるようにも思われた。VTなる私 は、そんな印象を抱いていた彼によって、一方でその「無責任性」を極大化させ、 他方でその「芸」的なるものを極小化させる方向で製造され、送り込まれたわけだ。 その結果どうなったか。オコガマシイのを承知で言うのだが、多少の「変化」が確 かに認められたと思う。つまり、責任の自覚が増大し、芸の部分が適度に抑制され、 以前より、いい意味で慎重な、より decent な方向へと変化しているように、私に は見えるのだ(「そんなのはVTとは全く無関係に起こったことかもしれないし、 そもそもその印象はVTの主観にすぎないのだから、いいかげんもうそんなこと言 うのやめとけ」と、私の製造者が私にささやくのがうるさいが)。 (2)今後一切、私の製造者が「VT」としてはもちろん、別のハンドルネームを 使って「つぶやき」に再登場するようなことはない、もしかかわるとすれば、本名 を名乗るか、自分のHPを作ってリンクするか、のどちらかであるということ、こ の点については絶対に保証する。 私が確認しておきたかったのは以上の二点だ。なんだかんだ言いながらも、彼はあ のページが好きなようだ。 ではごきげんよう。
例えば新約の福音書や原始仏典はいわば伝言ゲームの結果成立したものだと思うけれど、そうやってある意味で歪められあるいは洗練されることで、あれだけ「一般受け」する 宗教に成長したんじゃないかな、ということ。原始仏典はインドに影響を残してませんから、必ずしも一般受けしたとは言えないでしょう。また、キリスト教の聖書の記述が一般に読まれるようになったのは宗教改革の後だということは気をつけなければなりません。カテキズムや説教といった聖書の「一般受けする読解」が流布しただけで、聖書は読まれていない。
さて本題。ちょうど『英語青年』12月号に進化する写本という記事が(^^)。Nature の1998.8.27 のscience correspondence を紹介していました。15世紀の58の写本を生物学の系統発生学者と中世英語学者がコンピュータプログラムを使って系統図をつくるという話だそうです。20世紀末になって遺伝子のアナロジーを使うからにはこれぐらい解析してもらわないと:-p。
P.S. 邦題案「おしゃれ泥棒」。
顕正居士さん、いつも親切な情報ありがたいです。中将棋のルールについて、ぼくも調べたいと思っていたので大助かりです。さっそく紹介のウェブページを印刷してしまったのだ。
伊勢田さんが言っているところの「獅子」についての詳しい説明もそこにありました。獅子は将棋の玉の動きで一度に二手分動ける(だから例えば取って戻ることによって獅子は見かけ上動かずに相手の駒を取ること(居喰い)ができる)というのは知っていましたが、獅子について様々な例外ルールがあることは知りませんでした。
私は、かなり長い歴史を持ち、世界的に広くひろまっていて、内在するテクニカルな問題を持っているが、その時々の歴史的状況にも多きな影響を受けている分野の歴史に特に興味を持っているのですが、将棋系のゲームの歴史は資料がもっと発掘されれば、ケース・スタディーの一つとして非常に面白いと思います。特に、科学史が好きな方には興味を持って欲しいですね。比べられるところが、たくさんあるのですから。 (科学哲学はどうかというと、正直言ってわかりません。)
ある意味で非常にわかり易い反応が返って来ているようですが、やはり当たらずとも遠からずだったようだな。お、いきなり「(これが最後)」ですか。これは大変ありがたいことですな。
さすがマスダさん、鋭いですね。 実は、そのコンセプトは現実には成立不可能なコンセプトなんですよね。 VTの現実は、「<責任=応答>という観念の意識的排除」というコンセプトをい つも裏切ってしか成立しませんでしたね(笑)。それもだんだんひどくなった(笑)。 で、その説明ですが、それを言い出すと長くなるので、ここで突然そのコンセプト を不完全に発動させて、「なぜ私がそのようなコンセプトのもとに造られたのか、 そしてそれはなぜ「つぶやき」でだったのか」という問いとの絡みで自分で考えて 下さい、と言ってしまいましょう。ごめんなさい。 実はこの間、全然論文が書けていないんですよ。11月末日締め切りのヤツが(笑)。 ほんと、ごめん。ここらで勘弁してね。
伝言ゲームや仏典・聖書 なんかの変遷(この場合は文献加 上も含めて)は無性生殖(?)でどんどん 変化していく ウイルスの進化に似てるんじゃないかな という気がします。というわけで、ソーカルの本のタイトルとして"intellectual viruses"とか "irresponsible memes"とかってのはどうでしょう(すいませんあまり コピーのセンスないもので)。
中国象棋についてはフォローどうも>黒木さん
うろ覚えで書いてるもので、わたしのいってることは結構いい加減です。
うろ覚えついでに。確か中将棋って「獅子」とかいって敵の駒を
取ってからもう一歩動ける駒がありませんでしたっけ?
こんな駒が将棋にあるといいのにという
夢実現みたいな駒で面白いと思ったのですが。
>VTさん >私のもう一つの製造コンセプトが。皮肉 >ではなく、ここまで言っても分からない可能性が懸念されるから、はっきり書いて >おこう。「<応答=責任>という観念の意識的排除」だよ。 ええと難しくてよくわからないんですが、VTさんに何か意見しても 応えていただけないということなんでしょうか。教えて下さい。 (でももしそうだったら答えてもらえないんだなー。どうしよ)
黒木さんよ、私が消えた後になって初めて「つぶやき」に私を批判する文章を載せ るとは、どういうことかね。いくらでも時間はあったはずだろうに。 あなたは、私を「罵倒ごっこ」でストレスを解消する人々と同類だと勝手に決め込 んだり、「罵倒芸」の「低レベル」云々について書いているが、あなたは何も分か っていなかったんだね。そもそもの私の製造コンセプトの一つが、「<芸なるもの> の意識的排除」であったことぐらい、あそこの掲示板でも気がついていた人はいた はずだよ。実を言えば、私はあなたもそのうちの一人ではないかと思っていたのだ が、買いかぶりだったようだね。私は、はなから全くの「無芸」なのだよ。だから、 「単に不快なだけの低レベルな芸を見せつけようとする」などという、あなたの言 葉は的外れもいいところなんだよ。それはゲスの勘ぐりってものだ。私はもっと素 直に造られている。えっ、「周囲を大爆笑させ、敵の心を深く傷付けるような罵倒」 だって? これがあんたの考えてる「レベル」の高い「罵倒芸」なのかい? 私は単 純なんだよ。受けを狙ったりもしないし、「敵」という観念とも無縁だ。さて、こ こまで言えばもう分かるのじゃないかね、私のもう一つの製造コンセプトが。皮肉 ではなく、ここまで言っても分からない可能性が懸念されるから、はっきり書いて おこう。「<応答=責任>という観念の意識的排除」だよ。 私がなぜそのようなコンセプトのもとに造られたのかまでは説明しない。それは自 分で考えなさい。 いやー、数学屋さんにもバカ(「猿」とは言わないよ)はいるもんだね、分かって はいたけれど。フィールズ賞をとるぐらいの業績をあげたんならバカでも専門バカ でそれなりの意味はあるだろうが、あなたこのままじゃ、ほんとただのバカだよ。 いっとくが、おためごかしの数学「教授」になるぐらいじゃ、あなたのバカさは相 殺されないよ。それとも、あなたの考えているレベルの高い芸人にでもなりますか? *** さて、私もそんなに暇じゃない。紹介された「罵倒系」のページも見たが、お話に ならない。そもそも私にとっては「罵倒」などということは、派生的なことにすぎ ないんだよ。だからこんなことをいつまでも続けるつもりはない。あなたがこれに 反応するのは勝手だが、それが勘違いに基づくトンチンカンな意見であっても、も うそのまま放っておくことにするよ。いくらなんでもそこまで親切ではありえない からね。
昔、中将棋の駒の動きとルールを知りたくて本を捜したが見付けられなかった。 今日、WEBにあるかも知れないと検索したら3つもあった。中将棋は盤が広く 駒の種類と数が多い取り捨ての将棋で関西では昭和戦前期まで行われていた。 http://www.na.sakura.ne.jp/~yonai/shogi/index.html http://www1.odn.ne.jp/konishi/Tyuusyougi/Tyuusyougi.html http://www.chem.sci.osaka-u.ac.jp/~oda/tsume/chu-sho-gi.html
伊勢田さんが言う通り、シャンチーは、王様(師または將)の動きが3×3の九宮に限定されていることや、師と將の間には必ず別の駒が一つ以上なければいけないというルールによって、王様が詰められ易くなるように改良されている。
しかし、各駒の性能が日本将棋より弱いかというと全然そんなことはなくて、将棋の香車と桂馬に相当する駒はそれぞれ将棋の飛車と飛びこせない八方桂(チェスのナイトよりはずっと弱い)の性能を持っています。そして、さらに、砲(投石機)という独特の強い駒が付け加わっている。砲の動きは飛車と同じで、駒を取るときは間に1つ駒がなければいけない。つまり駒を取るときは飛び越さないといけないのだ。
強力な駒を追加するという改良の仕方は、日本の将棋でも同様に行なわれていて、飛車と角行は後で追加されたのだ。
西洋チェスは新たに駒を追加することなく、各駒のキャラクターを保ったまま最強の動きにするという方向に改良されたのですが、シャンチーと日本将棋はそれぞれ互いにも全く異なった改良がなされている点が面白いのだ。
木村氏が何度も強調しているルールの改良の筋書きは、そのゲームが流行して、技術が発達し、上級者どうしの対戦の行き詰まり(引き分けが多くなること)が生じ、そのためルールの改正が必要となる状況が作り出される、というものです。 (この辺の話はクーンを読んでいると楽しみが増す。)
また、ルールの改正には当時の歴史的状況が間接的ではありますが強く影響を与えています。例えば、そのゲームが流行するためには、そのための器具(将棋の場合は駒)が容易に入手可能でなければいけません。日本の将棋の場合は、木片で駒を作ることにしたおかげで、貧乏な人達のあいだで流行することが可能になったのです。そして、この木片駒の採用は、後に持駒使用ルールを生み出す下地になったのです。もっと直接的にシャンチーの砲のように現実に使われていた武器から改良のアイデアを得た場合もあるでしょう。
しかし、どのような影響であっても、ゲームとしての面白さを損ねるものであれば、生き残ることは不可能です。その点を忘れてはいけないのだ。
それはともかく、集団としてのチェック機構が働くかどうか、というところで、 言語の変遷は有性生殖をする集団の進化に似ていて、伝言ゲームや仏典・聖書 なんかの変遷(この場合は文献加上も含めて)は無性生殖(?)でどんどん 変化していくウイルスの進化に似てるんじゃないかなという気がします。 うーん、でもやっぱりアナロジーの域を出ないかな?
将棋の変遷の理由を考えるのは面白いですね。中国将棋の場合、駒の動きは 日本の将棋よりもはるかに限定されてる(し、持ち駒もない)と思いますが、 この場合は王様の駒の動きを極端に限定して、さらに「将帥不対面」だかという ルールを作ってさらに不自由にしているので、引き分けはほとんどないんじゃ なかったかな?ヨーロッパのチェスと正反対の発想で同じ目的を達成した わけですね。
しばらく前まで『将棋世界』という雑誌に、将棋博物館館長の木村義徳八段が連載されていた「二千年の将棋史」は結構面白くて、毎月楽しみにしていたのだ。(雑誌原稿が拡充されて単行本として出版されることを希望しているのですが、どうなるんでしょうかね。)
世界中で楽しまれている様々な将棋系のゲームは始めから現在定められているようなルールではなかったのです。通説ではインドの原始将棋が世界中に広まり、各地方ごとに様々なルールの変種ができた。
木村義徳氏はそのルールの変化の理由を様々に分析しているのですが、もとプロ棋士であるという利点を生かして、将棋系のゲームに内在する特別な理由を色々推測しています。
大昔の将棋系のゲームはどれも各駒の動ける範囲が現在のものより、ずっと狭かったのです。歴史と共に各駒の力が強くなるというルール変化は普遍的に見られる現象のようです。例えば、各駒がその性格を保ったまま最強の動きになっているという意味で、チェスはあの方向のルール変化の究極の姿であると言えます。これに対して日本の将棋の場合は、持駒というルールによって各駒の力が強化され、小将棋には無かった強力な大駒(飛車と角行)が追加されている。
木村氏によると、将棋系のゲームのルール変化の主な原動力は「引き分けを減らすこと」であったようです。
特に、日本の将棋以外の持駒制を採用してない将棋系のゲームでは、手が進むごとに盤上の駒はどんどん減って行きます。そして、使える駒が減るとそれだけ敵の王様を詰めることが難しくなって来るので、互いにそれが不可能になる場面(引き分け)が生じてしまい易いのです。引き分けを減らすためには、各駒の力を強化すれば良い。そうすれば、ゲームのスリルがアップするという利点もあります。このような理由で歴史と共に各駒の力が強くなって来たと考えられているのです。
これに対して、日本の将棋はユニークな発展の仕方をしています。チェスの駒はポーンとキング以外の他の駒は動ける範囲が広いという意味で全て将棋の大駒以上の力を持っています。逆に言えば、日本の将棋の各駒は(大駒を除いて)今だに弱い昔の姿を保っていることになります。その代わり、取った駒を好きな場所に打ち込めるという持駒制のルールを付け加えることによって、ルール改正に成功したのです。
木村氏によると、このルール改正の前提として重要だったのは駒の形状だったのです。例えば、チェスにおいては先手と後手の駒の色が異なります。しかし、取った駒を味方の援軍として使えるというルールを採用するためには、先手と後手の駒が同じ形状でなければいけません。日本に伝播された後で、将棋の駒がその辺で手に入り易い木片に字を書くことによって作られるようになり、先手と後手の駒の区別が付かなくなったおかげで、持駒のルールが誕生することが可能になったのです。
いずれにせよ、引き分けが多いのは上級者以上です。実力が増すほど引き分けが多くなる。また、実力者ほど、ゲームの普及に力を入れたであろう。また、権威も持っていたに違いない。だから、実力者達が感じた「引き分けが生じ易い」という不都合の解決方法は広まり易かったに違いない。
他にも様々な面白い推測が書かれているので、あの連載は是非とも単行本になって欲しいですね。小波さんが「ミーム」という言葉を出しましたが、そういう視点があるとさらに楽しみが増すこと間違い無しです。
>言語の変化(とくに書き文字をもたない言語の変化) は伝言ゲーム的かも知れません。屈折や語彙が減少し、古語で云う事柄を 現代語で云うには数倍の音節、文字を必要とするように思われます。 >100年くらいの間まさに口伝えで伝承されてた 仏典の場合はだいたいそのような定説です。新約書の場合はパウロの一定の 書簡は真書と見なされています(福音書はいずれも伝えられる記者のものでは ない)。いずれのケースも高度の文字文明の中のことで、とくに仏教の場合は 政府主催の結集があった。100年くらい正典を定めなかったという意味に 小生は解します。実際には書類もあったと思います。
言語の変化(とくに書き文字をもたない言語の変化)なんかも伝言ゲーム と似た構造がありませんか?フランス語が美しいかどう かは別として、 ラテン語が世代から世代へと崩れていかなければああいう言語はでき なかったわけだし。これはさすがに伝言ゲ ームだと強弁はしませんが。言語の変遷というのは集団遺伝学で扱えそうなテーマですね。内部に揺らぎをもった遺伝子プールが存在して、 環境によってある方向への揺らぎが増長されたり、淘汰されたりして、形質が動いていく。言語が一定のサイズの集団によって 保持されるというところが、ミソですね。集団が小さく、環境の変化が大きいときには、変化の速度は大きくなる。 伝言ゲームというのは極小の集団における 変異の伝達みたいなもんかもね。
言語の変化(とくに書き文字をもたない言語の変化)なんかも伝言ゲーム と似た構造がありませんか?フランス語が美しいかどうかは別として、 ラテン語が世代から世代へと崩れていかなければああいう言語はでき なかったわけだし。これはさすがに伝言ゲームだと強弁はしませんが。
伝言ゲームの定義がよく分からないのですが、一般的に云われているなら、伝言ゲームでは 段々分量が増えることはなく、転展すると、もとと全然違うメッセージになるが、 文献の加上は何処かで正典と決定される迄分量が増えて行く。書き換えもあるが、古い部分 は残っている。だから加上された歴史を推理出来る。記憶で伝承した局面を含んでいても 古代の人は長い文章を暗記するのが普通だったから、その局面でも増広されたと思う。 伝言ゲームと文献加上は、もとのメッセージがなくなってしまう、かなり書き換えられるが 残っている、相違があるように思います。
うむ、それってかなり乱暴な比喩ではないですか?伝言ゲームにおける世代間伝達の 情報保 持とか、エラーの修正機構というのは、遺伝のそれに比べてむちゃくちゃ 精度が低くて、まと もに面白いものを産み出せる能力も不足していると思う。 反論としてなんか面白い実例でもありますか?小波さんいつも痛いところを正確につきますね。
前のを書いたときに漠然と考えていたのは、例えば新約の福音書や原始仏典 はいわば伝言ゲームの結果成立したものだと思うけれど、そうやってある 意味で歪められあるいは洗練されることで、あれだけ「一般受け」する 宗教に成長したんじゃないかな、ということ。これをよいと受けとめるか 悪いと受けとめるかは宗教というものをどう考えるかにもよるでしょうが。 (しかし宗教ネタなんかもちだしちゃってまたやぶ蛇になんなきゃいいけど。)
あ、これは、どうもです、伊勢田さん。全然気にしてないっす。
それはそうと、伝言ゲームについて。さすがに「黒木は左翼活動家の意見さえ…」を広めるのは難しいでしょう。よほどの幸運か意識的な大量の宣伝がない限り不可能だと思います。伝言ゲームに消滅し難い言葉を乗せるのはそう簡単じゃないと思う。
ソーカル事件以後の論争を眺めていて思ったのですが、 Andrew Ross とその仲間達はその辺が非常にうまいのです。どう説明したら良いか分からないのですが、僕にとってはとても新鮮で非常に参考になりました。
「サイエンス・ウォーズ」(The Science Wars)もそうですが、「ソーカル事件」(The Sokal Affair)という言葉もそうです。私が知っている範囲でこの言葉が最初に現われたのは Sci-Tech-Studies ML 1996 の 5/7 の Ross の記事の Subject においてです。おそらく、この言葉には「(Social Text ではなく) Sokal が起こした事件」というニュアンスが込められているのだと思います。この言葉がその後爆発的に広まりました。ソーカル氏自身はこの言い方を明らかに嫌っているように見える。それにもかかわらず、ソーカルよりの発言をしている私のような人間でさえ、「ソーカル事件」とあっさり言っている。月刊百科にソーカル&ブリックモンに好意的なエッセイを書いた堀茂樹さんもタイトルとして「きみはソーカル事件を知っているか?」を採用している。「ソーカル事件」という言葉の勝利は圧倒的ですね。
これに比べると、ソーカル&ブリックモンには悪いのですが、 "Intellectual Impostures" はちょっとどぎつ過ぎるし(単語も長いし)、 "Fashionable Nonsense" も印象が普通過ぎてぱっとしない感じです。(まあ、彼らがコピーのセンスで勝負しようと思ってないことは明らかだとは思うのですが。)
ひとつのジョークとして、ソーカル&ブリックモンの本に自分だったらどういうタイトルを付けるか募集しましょう。 (日本語でも可ということにしましょう。) 『知的詐欺』、『ファッショナブル・ナンセンス』に別の題名を付けるとしたら、どういう題名を付けますか? これは冗談なので爆笑できそうなものを募集します。
個人的にはグロス&レヴィットの『高等迷信』(Higher Superstition)はなかなかのセンスだと思いました。でも、広まってないですよね。
でも伝言ゲームもネガティブな側面ばかりじゃないと思いませんか? 生物の進化なんてのはまさに伝言ゲーム現象によって起きてるわけだし。ううむ、それってかなり乱暴な比喩ではないですか?伝言ゲームにおける世代間伝達の 情報保持とか、エラーの修正機構というのは、遺伝のそれに比べてむちゃくちゃ 精度が低くて、まともに面白いものを産み出せる能力も不足していると思う。
でも伝言ゲームもネガティブな側面ばかりじゃないと思いませんか? 生物の進化なんてのはまさに伝言ゲーム現象によって起きてるわけだし。
教育問題というのは、あまりにも漠然とした表現で、私にはよくわからないです。人によって思い浮かべる内容が全く違うという気がします。そのうえでこの言葉を使います。
まず、教育に限らずおおくの分野で「すべての問題が解決される」というのはありえないことを、覚悟しなければならないです。現実に存在するのは「問題を解決する方法」というより、むしろ「よりよい、より取り組み甲斐のある教育問題」に、多くの人々が出会いやすくなり、それに集中できるようになる方法だと思います。
市場原理は、どの分野にも多かれ少なかれ入り込んでいるものです。だから「教育問題を市場原理を導入することで解決できるのか」より「教育に入り込んでくる市場原理を、教育問題の解決にいかに役立て、弊害をコントロールするか」の方が、よりよい問いだと思います。
なんにせよ、簡単に解決ということは、ありえないのではないでしょうか。結果として得られた解決策は簡単でも、その解決策にいたるまでには、それなりの思考が必要なのではないでしょうか。
それにしても、世の中には私にはわからないことが多過ぎる。私がこうやって書けるのは、あらたまって言われるまでもない(と、人が怒りそうな気がする)ことばかりだ。なんだかいつも同じようなこと言っているなあ。人格の未熟だからなあ。人格が未熟だからこそ教育も受けたいのに、受けたかったのに。
こんな思いをするのは、私で最後にして欲しい。生涯教育のこの時代、教育の対象となるべき人々には、必要なだけお金と時期をかけて、質の高い経験と知恵を与えてやって欲しい。節約と投資とに、おかしな妥協をして欲しくない。
「科学書が高いのは一般人にとって科学は必要が無い物だからであるが、 疑似科学書が出回るのは需要に応えているのだから、 批判することは許されない」のだ。
さて、教育問題は市場原理を導入することで簡単に解決するのであろうか?
とすると、「論理トレーニング」の目的にこの例文(天声人語)を用いた ことが成功しているか否か、という問題になるでしょうか。 そもそもわたし自身、その例文が悪文であることをあげつらう意図で 紹介したわけではなく、ともかくは野矢氏の土俵に乗ったうえで、 「それには」の指示内容について疑問を呈したかったわけですし。
とはいえ、「俳句や短歌のように鑑賞する」となると、(数行しか わかりませんが)そもそも「鑑賞」に値する文章なのかな、という疑問が。
たぶん、「それに対処するためには」とか「自分の無知なのに」とか 書くのは冗長だと思ったんでしょうね。 実際、コラムっていうのは限られた字数の中にきっちり詰め込む ことに意味があるので、そういうとき (どういうとき?)には悪文といって非難するよりは 俳句や短歌のように鑑賞するのが正しいのでは?
関係ないですが、アメリカに来るとき高校の地図帳と『国勢図会』もって 来ましたがついぞ使ったことないです(地図帳はアメリカの地理調べるの に使ったか)。
(1)外国に行って日本のことを聞かれると、 その無知なのにわれながらあきれる人も多かろう。 それには、 歴史、 地理の受験問題集や社会科の参考書、 世界歴史年表などをカバンに入れていくと、 案外役に立つ。
(2)それってありなのお!? ちなみに下線「それって」の指示内容は上記の文全体とも言えるが(…)
(1)もやっぱり----「それ」の指示内容は上記の文全体とも言える----と考えるほうが正しいような気がしてきました。亀レスで恐縮です(流れからも外れているし……)。
野尻さん、そです、そです、その葱のことです。神戸の研究会でしゃべってきたのですが、滅茶苦茶な生活態度+油断で風邪をひいて来てしまいました。もしかして、その葱の使い方って、風邪に効くのかな?
ああ、これ読んだら我慢できないので、書いてしまおう。(別に数学者を 代表してなんていうつもりはぜんぜんないですが)。 >えっと、理学部の学科ごとの変人度は、なんといっても数学科が一番です。 こう言われると、なんかうれしい。もし、変人度で2番、3番なんていわれたら、 えーーどうして、どこのどいつがおれたちより変わっているんだ って 思ってしまいます。 >ま、私のクラスメートとか、同僚とかへの印象ですから、 これで腹を立てて いきなり訴訟なんかは起こさないでね。 わたし個人については、よろこんでます。まあ、たしかに会議とかで、こまり者 になりがちではあるだろうなあ、とは想像するのですが、まあ、変に刺激しなければ、 無邪気・単純でかわいい人が多いようにおもうのですが。
数学者
II
女性を巡る決闘の前日に「これだけは書いとかなアカン」と言って大理論を書いて、結局決闘に負けて死んじゃう人
あ、すみません、ああいう質問ってちょっと反則ぽいかも。本人が 読んでない掲示板ですし。でも、そういうのをとっかかりにして、 世間一般の(わたしの)数学者に対するイメージとは、なんて話が 出たりしたらそれはそれでおもしろかなというのもあったもので。 自分の数学コンプレックスのゆえか(これでも高校レベルなら ふつうに優等生でいられたんですが)、 数学者って尋常でなく頭が切れて、隠そうにも隠し切れないその 気位の高さで周りを寄せつけない、っていう感じ。そしてもちろん 変人。見た目的には浅田彰ふう(痩せててメガネで神経質そう)。 けどアクツ氏はすごく優しげで物静かで、世間話してる分には常識的で、 夫婦喧嘩したら奥さんに言い負かされちゃうし(笑)みたいな。 そもそも数学者が結婚してるってだけで不思議(すごい偏見)。> ホンジュラスで一番名の知られた日本人はブルース・リーでした。うんうん。
例のクイズ番組で、「知ってる日本人は?」というアメリカ人への質問に 「ピカチュウ」「ゴジラ」「もののけ姫」と答えてた。(一つだけホント)
マヤ文明の文字の中に各々の都市を表すエンブレム(日本語で紋章文字と言ったと思う)がありまして、いろいろな都市の文章中に現れるエンブレムの数で、都市間の強弱関係をはかる、というのがあります。コパン(マヤ地域の東の端)の文章中には「ティカル(古典期マヤ最大の祭事センタ)がああした」「ティカルがこうした」「ティカルが・・・」と何度もティカルが出てくるのに、ティカルの文章中にはコパンのことなんかほとんどふれられていない。これで、ティカルの方がコパンに対して影響力が強かったと判断するわけです。アメリカと日本の関係もこれでしょう。
それから、僕がホンジュラスにいるとき、ホンジュラスで一番名の知られた日本人はブルース・リーでした。うんうん。
もひとつ。「俺はそうじゃないけど、俺のオヤジはニンジャで、時々、俺の目の前から消えたりした」とほらを吹いたらムチャ受けた。
ああ、こうやって、ネット・掲示板上で、しらないどうしの会話が はじまるのか。。。 わたしは、仕事の合間に黒木さんの掲示板みてる だけの、いわば透明人間状態だったので、こうやって、話し掛けられ、はじめて 自分の存在が認知されるととても不思議だ。 ところで、そのあくつ さんなんですが、ちょっと思い出せないです。なんか 名前に聞き覚えがあるような気もするのですが。いま、人をたよって、わたしが あくつさんを知っているか調査中です。 まあ、数学者のイメージといえば、たしかに黒木さん(同僚なので、 存じてます)は、典型的とはいえないかもなあ。とは言え、わたしも たぶんタイプではないんだろうし。まえに、飲み屋で、そこで働いてる人に、 「あなた、高校の体育の先生でしょ」って、いわれて、自分でも、ああ、確かに、 さすが飲み屋の人って、うまいこというなあって感心して、でも、「そうです」 というのも、変だから、「いやー、近いけど違う。ペンキやなんだ。それも、 映画の看板とか書いてるの。俺、昔、絵を描くの好きだったから」っていったら、 「そうなのー」っていわれて、話が弾みました。
先日6年ぶりに行われた「アメリカ横断ウルトラクイズ」で、 101人のアメリカ人に「日本の今の総理大臣を知っていますか」という質問を したら、Yesが10数名でした(しかもまちがっている可能性だってある)。 日本ではクリントンのそっくりさんまでCMに出てるのに、彼我の違いというか。
んー。それはなんというか、宮城県人なら日本の総理を知ってるけど日本人だからといって宮城県知事を知ってるとは限らないとか、そういうたぐいの。。。(以下自粛)
それってありなのお!? ちなみに下線「それって」の指示内容は 上記の文全体とも言えるが、じつは、対応する内容がないような (駄洒落じゃないよー)文章を問題にすることってルール違反じゃないの ?という気持ちが込められているのである。
そんなこと言ってると、どんな悪文でも 「著者の言いたいこと」はなんぞやという学校教育でたたきこまれてきた スキルを思い起こすわけですが、ようするに今のわたしの気分としては、 くしゃみ3回ルル3錠っす。まあたかが天声人語ですし、熱出すのも しゃくですね。
> それより、(って、どれよりなんだろう。。)外国旅行に行くのに、
> 日本地理の参考書や年表持って行くっていう案が、
> すごいなあというか、日本人らしいまじめさがでている、ちょっと
> いい話だとおもうんですが。
先日6年ぶりに行われた「アメリカ横断ウルトラクイズ」で、 101人のアメリカ人に「日本の今の総理大臣を知っていますか」という質問を したら、Yesが10数名でした(しかもまちがっている可能性だってある)。 日本ではクリントンのそっくりさんまでCMに出てるのに、彼我の違いというか。
さらに余談。 藤原さんの履歴拝見しました。同じ理学部数学科出身の友人がいまして、 69年生まれ94年修士卒で、同居人の同僚でもあるんですが、 5年ほど開きがあるのでご存知ないでしょうね。Akutsuっていいます。 彼と知り合って、数学やる人のイメージずいぶん変わりました。 そのあと黒木さんでさらに(^_^) 。
たしかに、指示内容について考えるのに、こういう やや論理的とは言えない文章をとりあげるのが、問題 といえば、問題にもみえますが、でも世の中、実際、そういう 文章も多いから、その意味で、高度・実際的な問題なんだろうか。 まあ、これは事体に解決策を提案している表現・用法に思われ、 「カゼにはルル」とかに、近いようにおもいますが。 それより、(って、どれよりなんだろう。。)外国旅行に行くのに、 日本地理の参考書や年表持って行くっていう案が、 すごいなあというか、日本人らしいまじめさがでている、ちょっと いい話だとおもうんですが。
『論理トレーニング』には一応ちゃんと書いてありまして、
この文における「それには」の指示するものとして、直前の表現をそのままとって「自分の無知にあきれるためには」とするのは論外である。。そうではなく、これは「そのような事態に一応対処できるように」といった内容を意味すると考えるべきところだろう。つまりこの場合は、本文中にまったく対応する言葉がないのである。(28ページ)
みほさんの引用部分の大出うんぬんは巻末註なのです。
この野矢さんの見解は正鵠を射ているような気がします。「それには(…)案外役に立つ」が「それには」の意味を決めるのにもっとも重要な役割を果たすのではないでしょうか。
ただし、わたしが読んだ限り、やはりこの本は演習の教科書であって、個人の読書対象とは言い難いと思いました。
外国に行って日本のことを聞かれると、 その無知なのにわれながらあきれる人も多かろう。 それには、 歴史、 地理の受験問題集や社会科の参考書、 世界歴史年表などをカバンに入 れていくと、 案外役に立つ。ここで、 「無知なのにあきれないために」と した大出晃「日本語と論理」に 対して、 野矢氏は「必ずしも正確ではないと思われる。 参考書や世界史年表を持っていたって、 自分の無 知にあきれることにかわりはないだろう」と批判しているそうです。 「正確ではない」とはつまりどういうことなのか それこそ正確でないと思います。(元の本を当たれば 書いてあるのかもしれないけど)
「それには」の指示内容が「あきれないために」という、元の文には 存在していない否定形をもってきているのは無理がありませんか (そういう悪文なのだといわれればそれまでですが)。 ふつうなら「それには」でなく 「そうならないためには」というふうに否定形にするところでしょう。
「それには」となっているのをあえて悪文だと考えないとすれば、 前文のなかからそのまま(否定形に変えることなく)もってこれる内容で あるべきなのでは? ということで、わたしなら指示内容は 「外国に行って日本のことを聞かれる(ときのために)」と答えます。
いまさらながら自分がどれくらいお馬鹿かというと、 ここでずっと話題になってた野家啓一氏と 野矢秀樹氏との区別がちゃんとついてませんでした。 で今回は野矢氏のほうの『論理トレーニング』の話題を少しばかり。
この種の本にしては売れたらしいですが、わたしは未読。 で、さっきこういう書評を見つけて思い出した次第。
そんなタイトルの本はやっぱ幼児 期の不幸な体験のせいでリビドーとかがあれしちゃってて、 不完全性定理とかヴィトゲンシュタインとか聞くとわくわくしてくるような 気の毒な人しか買って読む気にはならんわな。 しかしこ の「論理トレーニング」はおよそ日本語が読める人なら誰にでもお薦め。 つーか義務。だそうです(笑)(太くしたのはわたし)
そこに引用されている2番目の問題の、「それには」の指示内容だけど、 わたしが学生なら、「外国に行って日本のことを聞かれたときのため」って 答案を書いただろうなあ。
>ところで、佐々木さんは土屋俊なんかどう思います。
土屋先生ですか……お答えできるほどは存じ上げていないのですが……(わたしはデネットもサールもオースティンも未読ですし、授業も一般教養しか受けてまいりませんでしたので)。そうですね。「デカルト主義の言語学」に対する反論は大変おもしろく読みましたが、よくわかったかといえば、わかりませんでした。恥じ入るばかりです。どの観点からということかお尋ねしてもよろしいでしょうか(学生の評判はというと……むろんどうでもいいことですが……一般教養科目に限っていえば大変不評を買っていらっしゃいます ^^)。
頓首 佐々木 拓也
塾の先生も巻き込んでのMLであり、あえて自分が若輩者であることを省みずに書きますと、「英語教師という人々が何を考えているのかがいささかなりともわかる」ものとなっています。何か資するところがあると信じてリンクいたします。
関係ないけど、犬って玉葱喰うと下痢するんでしたっけ?
「バック」のこと、すごく聞きたいぞ >みほさん。「葱」はなんのネタざんすかね。