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黒木のなんでも掲示板 (0049)

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Id: #a19991001132917  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 13:29:17 1999
Name: ふじわら
Subject: たいへんですね
仕事で外国にいるのですが、今回の東海村の事故は
Webで知り仰天しました。以来Webで知識を仕入れる
だけですが、日本の政府(または関連当局)の対応は
のんき過ぎる気もします。NYタイムス(www.nytimes.com)のWeb
も一日中トップでこの事故を伝えています。(私の知る限り
日本のニュースが一日中トップってのは初めて)
それに比べると朝日新聞のWebは今みたら
トップが「住友金属鉱山ストップ安」。ほんとに頭おかしいのじゃ
ないだろか?? 経過や安全対策伝えるのが大事だろうに、
株の話しとは。。。

今回の件は外国人とも話したが、驚いたというのか驚かれたのが
私の知識のなさ。理科系の研究者が何もしらないのか、まして
日本は原子力は大事だろうにということで、言われてみれば
もっともで、恥じ入る次第でした。

あと聞いたのは、事故直後は政府はひたすら沈静化を
考えるから、政府筋の情報はあてにならないとのこと。
ロシア(まあ極端な国ですが)はチェルノブイリのときは
「ウォッカをたくさん飲むように。放射能よけになる」と
政府はいっていて、何も対応しなかったこともあり、
事故地から2ー300kmのキエフという町(人口数百万)は、
その後、甚大な被害がでたそうです。

話しによると、かりに今後の新たな「もれ」がないにしても、
遠隔地でも、風または雨による被害が考えられ(さらに、その後は
食物を通して)、それについては60kmという東京の距離はかなり
近いともいえる(リークの規模によるが)ようです。
だとしたら、やっぱり政府は(今の時点ではよくわからないのだから)
これから1週間くらいは東京ふくめて学校・会社休みにしても
いいのではとも思うのですが、どうなんだろう?
少なくとも、極力、外出をさけるようにとか言うべきなのではないのかなあ。

Id: #a19991001115609  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 11:56:09 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19991001052448
Name: まきの
Subject: 臨界事故

なんか「一応臨界は止まった」と原子力安全委員会の公式発表があったようで すね。黒木さんがリンクしてたここ をみると、 10/1 午前 3 時頃に線量のピークがあるし、中性子については午 前 3 時以降ほとんど観測されていないということなので、この時になんかあっ てそのあとおさまったということなんでしょう。

しかし、中性子はともかく、問題は外にもれた放射性物質がどれだけかという ことだと思うんですが、科学技術庁のサイトや新聞報道でも今のところそれに は触れていないようですね。最悪の場合を想定すれば広島原爆なみの放射性物 質が出来ているかもしれない(あくまでも、「かも」で、実際には数桁は少な いと思いますが)ので、なかなか不安なものがあります。

なお、広島原爆なみというのは、以下のようなきわめて大雑把な order estimate によるものです。広島原爆で実際に分裂した U235 の量は 1kg 以下 といわれています。(爆弾にあった総量は 10kg 程度)これに対し、今回の事 故で分裂した U235 の量は、今のところほとんど情報がないので推測は難しい のですが、あえてやってみると「ウラン」が 16 kg という報道を信じるとす れば、これが FBR 常陽用の高濃縮(20%?) ウランであったということから U235 の総量は 3kg 程度ということになります。かりにその 10%が燃えたとす れば 300g という計算になるわけです。

もちろん、これはあくまでも上限です。それだけのウランが本当に燃えていれ ば莫大なエネルギーが出ているはずで、建物がまだ立ってるということからし て実際に燃えた量は何桁も小さいのですが、でも実際に出たのがどれ だけかっていうデータが出てこないのはどうも、、、あまり憶測をめぐらせて もしょうがないのですが。


Id: #a19991001110423  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 11:04:23 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19991001093109
Name: くろき げん
Subject: 今はマウントされているけど、頭文字が c 以降のディレクトリーが消えているな

野尻さんのところも災難だな。

P.S. 現在ここには出入り禁止になっているはずの松本真吾の記事は削除しました。


Id: #a19991001093109  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 09:31:09 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19991001052448
Name: くろき げん
Subject: 1999年10月1日午前9時半:野尻ボードのある partition が mount されてないのだ

ProHosting にある野尻ボードですが、現在、 Not Found で読めに状況になってますね。これは、 free.prohosting.com の /usr/home2 が mount されてないからです。トラブルが起こったか、 ProHosting で何らかの作業をやっているのだと思います。後者であれば数時間以内に復帰すると思いますが……。

野尻さん本人のウェブサイトはここにあります。


Id: #a19991001090702  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 09:07:02 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19991001070407
Name: くろき げん
Subject: ファインマンの伝記は邦訳がありますよね

立川さん始めまして。

ジェームズ・グリック著、ファインマンさんの愉快な人生、全2冊、大貫昌子訳、岩波書店。今回の事故との関係抜きでも十分面白い本なのでおすすめ。

何がどのような原因で起こってしまたかについて、関連のデータも含めて、全てをおおっぴらに公開して欲しいですよね。できればインターネット上で。


Id: #a19991001070407  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 07:04:07 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19991001052448
Name: 立川裕二
Subject: Re: 青い光を見た

始めまして。大学2年生の立川と申します。 私の趣味などはホームページを見ていただければ。

東海村の事故の件ですが、Los Alamos での臨界事故の例が J. Gleick のFeynman の伝記の中に出てきていたので興味が あればとここに引用しておきます:

"One man, Harry Daghlian, working alone at night, let slip one cube too many, frantically grabbed at the mound to halt the chain reaction, saw the shimmering blue aura of ionization in the air, and died two weeks later of radiation poisoning. Later Louis Slotin used a screwdriver to prop up a radioactive block and lost his life when the screwdriver slipped."
Los Alamosという章のNuclear Fearという節の冒頭からすぐです。

当時の核濃縮施設の、何を濃縮しているか知らされないがゆえの危機的状況が詳しく書かれていました。一読(もしくは再読)をお勧めしたいとおもいます。 個人的には青い光がどのような機構で見えるのか興味があるのですが、 今の状況ではあまりに不道徳でしょうか…


Id: #a19991001052448  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 05:24:48 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19991001050240
Name: くろき げん
Subject: 青い光を見た

他に私が見ているのは、

一般的な基礎知識を仕入れるためには、

誰か今日 1 日儀牲にして、関連の知識を仕入れるために便利なリンク集を作ってくれると助かりますね。今、何が起こっているかを推測して、どのような自衛策を取れば良いかを知るためには、基礎的な知識が不可欠です。

この掲示板を“臨界事故”に関する情報交換に自由に利用して構いません。ただし、原発反対な論争は情報交換の妨げになるのでここでは禁止します。どうしてもという方は予備掲示板の y.html を利用して下さい。


Id: #a19991001050240  (reply, thread)
Date: Fri Oct 01 05:02:40 1999
Name: 松永洋介
Subject: 東海村某重大事故

みなさんどこ見てますか。
手持ちのブックマークが少ない……。

Id: #a19990929204709  (reply, thread)
Date: Wed Sep 29 20:47:09 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990928225257
Name: YAMANE Shinji
Subject: Re: postmodernisimとclinical trials

ポストモダンな医学とは、民間療法とかニューエイジ療法とかニューサイエンス(を哲学的政治的意匠で称揚する人たち)のことではないかと推察いたします。該当記事を読んでいないのですが、おそらくニューエイジをポストモダニズムとして評価するやり方として暗黙に Andrew Ross 周辺の流儀を指しているのだと思います。
これはかつて論争を起こしました。ニューエイジ系を思想的にのみ称揚する Andrew Ross 著Strange Weatherに対して Gross and Levitt が批判を行ない、それを「冷戦の終結後、予算と尊敬を失った保守的なアメリカの科学者達が、マイノリティーに味方している左翼の学者達の中に新たな敵を求め、不当な攻撃を仕掛けている」と位置づけてサイエンスウォーズ特集と銘打ったSocial Textが出版されたという一連の攻防です。
で、黒木さんのページではそれに続く Sokal (and Bricmont) 対 Social Text の論争?の資料が集められているわけですが、前者についてもいくつか記述があるのですすめられたのでしょう。Gross とか medicine で検索してみるとよいでしょう。
Id: #a19990928225257  (reply, thread)
Date: Tue Sep 28 22:52:57 1999
URL: saio@ppp.bekkoame.ne.jp
Name: 斉尾武郎
Subject: postmodernisimとclinical trials
evidence-based health mailinglist
 http://www.mailbase.ac.uk/lists-a-e/evidence-based-health/
で"postmodernism"という記事を見かけたのですが、さっぱり何を
論議しているのか分からなかったので、ML上で質問したら、Roy Poses
氏から、このサイトを紹介されました。
私自身は人体実験の倫理について、多少勉強を始めた、といった程度
の人間ですが、貴ページで勉強しながら、どのように臨床試験とポスト
モダニズムが関係するのか、考えてみようと思います。
********************************************************
Saio,Takeo MD.                  email;saio@ppp.bekkoame.ne.jp                         
Ando Hospital,Japan
72-1,Hanike Karausu-cho,Tsushima,496-0026,Japan
Tel;+81-567-31-4070     FAX;+81-567-32-1482
////////////////////////////////////////////////////////
"It is a fundamental  right that when any one gets ill, 
they must have access to safe and effective treatment"
********************************************************

Id: #a19990926050740  (reply, thread)
Date: Sun Sep 26 05:07:40 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990922060732
Name: 宮崎恵彦
Subject: 構築主義批判の基本文献

私も遅ればせながら、WoolgarとPawluch(1987)の"Ontological gerrymandering: The anatomy of social problems explanttions (Social Problems, 32, 214-227.)"を読みはじめました。

  「面倒なことを括弧に入れて良いの?」と言うのは社会的構築主義に対しては明らかに的外れな、ナンセンスな疑問だと思いますが、「本当にそんなうまい具合に面倒なことを括弧に入れることが可能なの?」というのは、社会的構築主義の方法論的妥当性を考える上で最も基本的な問いであると、私にも思えますので。


Id: #a19990922140739  (reply, thread)
Date: Wed Sep 22 14:07:39 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990922060732
Name: 山尾貴則
Subject: 構築主義の議論のやり方の胡散臭さについて確認。

こんにちは。ずいぶん昔に投稿させていただいた&お話を聞かせていただいた
山尾ともうします。ちょっと確認です。

くろきさん>これらを読んで再確認できたように感じたことは、
くろきさん>「判断を停止して括弧に入れること」全般の胡散臭さですね。

このようにあるのですが,これは「判断停止っていうのは
こんなふうに問題があるぜ(停止してるふりして自分の議論に都合のいい前提を
密輸入してるぜ)」と三者は批判してるけど,その議論自体がすでに自分たちの
批判にひっかかってしまってるんじゃないかなーと,くろきさんが感じたと
理解してよろしいでしょうか。

くろきさん>面倒なことをどんどん括弧に入れ、他人よりも厳密な議論ができる
くろきさん>立場に立ったつもりでいても、実際には全然そうではないということ。

そういうことは確かにあるんですよね(しみじみ)。日本において構築主義を
積極的に広めている中河伸俊さんなども
このあたりの説明には四苦八苦してるようです。中河さんなんかは「胡散臭くても
いいじゃん」と開き直っているような気がします。
それも一つの手だなあと,個人的には思っています。そのことを明示すれば。


中河伸俊,1999,『社会問題の社会学 −構築主義アプローチの新展開』,世界思想社。

Id: #a19990922060732  (reply, thread)
Date: Wed Sep 22 06:07:32 1999
Name: くろき げん
Subject: 構築主義の問題点に関するリンク

以下は某所ではまださんに教えてもらったリンクです:

これらを読んで再確認できたように感じたことは、「判断を停止して括弧に入れること」全般の胡散臭さですね。つまり、面倒なことをどんどん括弧に入れ、他人よりも厳密な議論ができる立場に立ったつもりでいても、実際には全然そうではないということ。 Bruno Latour およびその好意的読者もそういうミスをおかしてないんですかね? (もしかして、 Arthur Fine の NOA なんかもそうなんじゃないか? そうでないというならその理由は?)


Id: #a19990920185445  (reply, thread)
Date: Mon Sep 20 18:54:45 1999
Name: はりがや
Subject: プリゴジンの本
田崎さんの書評が,
http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/jps/jps/butsuri/rev.html#10
に掲載になりました.

謹んで,Update 分を紹介させて頂きます.

Id: #a19990919151435  (reply, thread)
Date: Sun Sep 19 15:14:35 1999
Name: こなみ
Subject: パロディまで出るほどの売れ行きらしいな

西村有史さんのところで出している パロディ版「買ってはいけない」 は爆笑物ですね。相手の論理をそのまま使って書いているところがミソ。

薬害エイズにも関わった医師の西村さんにとって, 科学的にも論理的にもクレイジーな「買ってはいけない」が許し難い ものであることは想像に難くない。


Id: #a19990917094235  (reply, thread)
Date: Fri Sep 17 09:42:35 1999
Name: くろき げん
Subject: 小川正賢著『「理科」の再発見』をめぐって

理科教育MLより、小川正賢著『「理科」の再発見――異文化としての西洋科学』農文協について:

さらに、最近の次の記事も参照せよ:

理科教育MLにおける左巻さんと右近さんの発言はいつも楽しみに読ませてもらっています。私自身は、小川氏の『「理科」の再発見』も岩波講座「科学/技術と人間」第9巻『思想としての科学/技術』も読んでないのですが、読んだ人はいますか? 日本人が「異文化としての西洋科学」と言うことに関して、科学哲学や科学論や理科教育学の若い専門家の方々はどのように考えているのかな? 誰がどのような文脈で言うかによる話ではありますが、以上のリンクは典型的な文脈を与えていると思います。


Id: #a19990916092306  (reply, thread)
Date: Thu Sep 16 09:23:06 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990916082531
Name: はりがや
Subject: あ,単に,
「風間さんはこんなところでも活躍しているのですね」
と云いたかっただけです.学会や研究会で会って話する
という,専門的な交流の側面しか知らなかったです.

Id: #a19990916082531  (reply, thread)
Date: Thu Sep 16 08:25:31 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990915203843
Name: たざき
Subject: 何がいいたいの?

こういうところで活躍されているのですね.
は、
こういうところで活躍されているのですね.
の書き間違いではないのですか? その前に、わざわざ「学会で・・」と書いているのがひっかかりますが。
Id: #a19990915203843  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 20:38:43 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990914225608
Name: はりがや
Subject: 風間さん

って,導電性高分子(ポリアセチレンなど)についての, 実験の専門家です.しばらく,学会等でお会いしていませんが, こういうところで活躍されているのですね.
Id: #a19990915190807  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 19:08:07 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990915170631
Name: くろき げん
Subject: 「匿名」による批判の禁止ルールをよろしく

Xさん、今後も議論に参加するなら、「匿名」による批判の禁止のルールを読んで下さい。

そうそう、謝罪するまで出入り禁止を言い渡されているある人物とXさんの remote host が一致しているようですが、もしもXさんがその人物であるならここに出入りするのは止めて下さい。

この件についてはここに書き込まずに y.html の方に書き込んで下さい。


Id: #a19990915184339  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 18:43:39 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990915170631
Name: こなみ
Subject: 名を名のってほしいとは言わんが、氏はやめてくれんかな。いんぎん無礼のたぐいに見える

 そうですねえ。タバコをやめている人の集合と酒を止めている人の集合ってずいぶんと違うような気がしますが、 そういうことを抜きにして、「同様だから同様の結論が出るはず」とは言えないですよね。 現在それほど問題がなくても健康維持のためにタバコを止めてしまった人は(私も含めて)ごまんといるが、 別に健康に不安はないけど酒を止める人っています?
 また、酒とタバコの健康に対する影響は、その表れかたが異なります。 悪影響の大きさにおいても、時間的経過についても、また表れる疾病の種類においても。
 だから、「Aで成り立つことはBでも成り立つ」という推論の根拠となる、 「AとBは同等である」という前提が欠けているように思います。手短ですがこのへんで。

 もっと議論を続けたければ、なんか名前を名乗ってね。あ、それから、「こなみさん」と呼ばれないと 返事しないかもしれません。(呼ばれて返事をしなきゃならんというものでもないが) とはいえ、私の前の議論もひとつの説明に過ぎませんから、 もっとまともな議論をしていただくことを期待してはいるのです。  


Id: #a19990915170631  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 17:06:31 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990915113132
Name:
Subject: 統計の数字

こなみ氏の主張が当たっているなら、タバコについても同様の
統計結果が得られるように思われますが如何でしょうか?
ワタシの聞いた限りでは、タバコは吸わない人が一番ガンに
かかりにくいようです。
Id: #a19990915113132  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 11:31:32 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990915102232
Name: こなみ
Subject: 統計の数字

 数日前に報道された,「酒は二日で一合程度飲んでいる人の場合に, ガンに罹る率はもっとも低かった」というやつですね。 酒が発ガンを抑制するというのはちょっと考えにくいわけで, この数字の裏を読んで眉に唾をつけておいたほうがいいとは思います。 ちょっとの酒がストレス解消になるということはあるかも知れませんがね。 ともあれ, 「統計の数字というのは,かえって疑いたくなる」というだけでは, 批判にはならないから,もう少し突っ込んで考えるというのがよいのではないでしょうか。

例のやつでは,まったく「酒を飲まない集団では, すこし飲む集団よりもガンに罹る率がかえって高かった」というところが, もっともクリティカルな問題です。
 酒を飲む人に対する結果が示しているのは, 酒の量が増えるに従ってガンにかかる率が高いという傾向です。一方で, ゼロにまで減るとまた増加する。つまり,ミニマムが「二日で一合」という 健康的な?飲み方のところに出現した。これは自明でない結果ですから, 研究者にはとってもうれしい。酒は百薬の長の俚諺にも合致している。で, マスコミも大喜びで触れ回る。
 ところで,酒を飲まない人の集合というのは,「飲めない人」, 「飲むのを禁じられた人」,「飲めるけど飲まない人」などを含みます。 飲まない人の集合というのは, 実はかなりコントラストの強い性格をもつ複数の集団を部分集合としてもっているのです。 飲む人の集合にもいろいろなものが混ざるでしょうが, 「幸福はどの家族でも同じようなものだが,不幸は家族によってみな違う」 というトルストイの至言と同様, 「飲まない事情はいろいろあらあな」ということになる。
 と人生論にひっかけると却って議論があらぬ方面にいきますから,もどすと, 要するに,酒を飲まない人の中には,飲めるような健康状態でない人が必ず 含まれているわけです。体を悪くしても飲みつづける人はままいますが, 体を悪くしたら酒を飲まなくなるのが,一般の傾向ではあるでしょう。
 また,酒を多く飲むという行為が, 強いストレスから発するものであるということもしばしばある。 「ちょっとだけ楽しみで飲む」という理想的な飲み方は, ストレスの少ない人に許された行為かもしれない。そうしてみると, 酒の量が,健康を左右するという,原因の側にあるのか, 健康を阻害するストレスによって左右されるという,結果の側にあるのか, これも両面あるはず。少量の酒が体にいいということにはならない。
 そういう事情を考えると,あの「研究結果」は信用できるんかな, と思います。ニュースで知っただけで詳しく内容に当たってないから, きちんと批判はできないけれど,疑っておく必要はある。

統計の結果の信憑性を疑わせる事例はいくらもありますが, それらを解説した本もたくさんありますね。例によってグールドを引き合いに出すと, 「人間の測りまちがい」(河出書房新社)は,統計の結果の社会的な文脈からの読み方, 数学的な問題点と両面から詳しく論じた名著です。野崎昭弘さんも何か書いてなかったっけ?


Id: #a19990915102232  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 10:22:32 1999
Name: 白石清
最近,論拠に「統計的」数字を出されると,
逆に疑いたくなってくるような体質になってきてしまいます。

「適度に酒を飲んでるほうが癌になりにくい」っていう
最近の新聞記事に出ていた話もつい疑ってしまいます。

どなたか関係者の方の御意見はうかがえないでしょうかね?
(酒造会社から寄付金とか補助があったりして。)

Id: #a19990915082931  (reply, thread)
Date: Wed Sep 15 08:29:31 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990914225608
Name: くろき げん
Subject: 「授業時間数が少ない方が生徒の成績はよい」の論拠について

風間重雄氏による二つの報告 (1, 2) は「有馬文部大臣が科学的な人物であるか否か」に関しても重大な疑問を突き付けていると思ったのですが、これは大袈裟でしょうかね?

二つ目の報告はもう笑うしかないような内容なのですが、一つ目の件も問題ありです。

有馬氏は「中学校2年理科の週当たりの平均授業時間数」と「得点」の関係に関する次のデータに基いて、「授業時間数が少ない方が生徒の成績はよい」と主張しているようです:

2時間未満:   得点618点(生徒の割合5%)
2-3.5時間未満:   569点(同94%)
5時間以上:     〜 点(同1%)(〜は数値が示されていないがデータはある)

しかし、風間氏によると、

日本の場合の内部情報としてわかっているのは,2時間未満の調査対象となった集団(5%の群)は国立あるいは私立中学校ですでに1年生の時に通常割り当ての3時間よりも多い時間を理科に割り当てられて勉強していた「優秀校」だということです。

「中学2年のときに2時間未満」の集団と「1年生のときに通常よりたくさん理科を勉強していた優秀校」がリンクしていたとすれば、「2時間未満」の方が得点が高くて当然であるわけです。そして、もちろんのことですが、他の国に関するデータもその国の内情を考慮せずに安易に利用してしまってはまずい。

科学的な厳密性に関して、なにがしかのことを少しでも考えたことがある人であれば、少数の数値的なデータをもとに推測を行なう場合には、そのデータをもとにした推測の信頼性がいかにしてどのような意味で保証されているかについて、慎重になるはずです。 (ちなみに、例えば田崎さんなどの物理学者たちが強調するところの「普遍性」というものの考え方はその辺の科学的厳密性の話に直接関係している。)

しかし、科学的厳密性をないがしろにして良いなら、「データに基いて結論を出しました」てな科学っぽい雰囲気のもとで、政治的に都合の良い結果を自由に導き出すことが可能になってしまいます。

科学者出身の文部大臣がこんなんで大丈夫なんですかね?


Id: #a19990914225608  (reply, thread)
Date: Tue Sep 14 22:56:08 1999
Name: くろき げん
Subject: 有馬文部大臣によると、理科では566点から576点の範囲には99.7%の生徒が分布することになるらしい!

高等教育フォーラムにおいて、物理学者出身の有馬文部大臣がどのような分析に基いて「授業時間数が少ない方が生徒の成績はよい」と主張しているかが以下で紹介されています:

この記事の Subject に書いてあることはこの後者の記事で詳しく説明されています。常識的には 100 のオーダーの幅で分散しているはずなのに、どうやったら、幅が 10 点の中に 99.7% が含まれているのだと解釈することができるんでしょうかね? 不謹慎かもしれませんが、私は爆笑してしまいましたよ。

有馬文部大臣って一体誰が支持しているんだ?


Id: #a19990914170604  (reply, thread)
Date: Tue Sep 14 17:06:04 1999
In-Reply-To: a0047.html#a19990822150712
Name: 八木
Subject: ものすごい古い記事に対してお笑いで表にでてみる

いろいろあってヒマなので、たぶん、その筋ではとぉぉても有名なサイトのこれを読んでいて、水蒸気の話を思い出した。


Id: #a19990910162752  (reply, thread)
Date: Fri Sep 10 16:27:52 1999
Name: 時田 節
Subject: 超幾何関数読書会

超幾何関数(共立)読書会
9月12日  10月24日
都立戸山高校 数学教員室近くの 定時視聴覚室
午後2時から
Id: #a19990907230137  (reply, thread)
Date: Tue Sep 07 23:01:37 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906024642
Name: 宮崎恵彦
Subject: 知識社会学なのか科学批判なのかが問題なのでは?

>宮崎さん、具体例を挙げて説明して頂けませんか?

私が「社会的構築主義」として念頭に置いているのは、Potter、EdwardsやBilligなどの英国の言説心理学者なので、そこからは少し脱線する喩えとなりますが、たとえば、「トイレットペーパーの買い占め行動」を分析する場合、「トイレットペーパーが不足している」という「事実」ではなく、「トイレットペーパーが不足しているらしい」という「言説」のほうがより重要なのではないでしょうか。ですから、「トイレットペーパーが不足しているらしい」といったような「社会的知識」を主に研究の対象とする分野では、社会的構築主義の方法論が有効ではないかと思います。

私の理解するところでは、社会的構築主義は、Berger と Luckmannによる "The Social Construction of Reality(邦訳『日常世界の構成』新曜社)"に端を発するもので、本来、知識社会学の一方法論として誕生したものです。それは実在する(であろう)客観的事実についての問い(つまり、認識論的問題)を棚上げにすることで「知識」に対するより効果的な社会学的アプローチを目指したものであったように私には思えます。そして、その認識論的問題を棚上げにすると言う方法論的な利点ゆえに、社会問題論や社会心理学の分野にも浸透していったのではないか、と考えています。

と言う訳で、私には社会的構築主義は相対主義的科学批判とはそもそもの出自が異なるのではないかと思えるのですが、現状はその二つがなにやら融合されてしまって、何かおかしいことになっているような気がします。もし科学批判ならば、やはり認識論的な問題は避けて通ることができないのではないでしょうか。言い換えるならば、知識社会学の対象に科学的知識は含まれるべきだが、科学批判のツールとしては社会的構築主義は有効だとは思えない、というのが私の意見です。


Id: #a19990907125956  (reply, thread)
Date: Tue Sep 07 12:59:56 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906182953
Name: 田崎晴明
Subject: すみません。「ふにょふにょ」と「ぐちょぐちょ」の区別がふにふにだった

早川さん、

ちょっといい加減に書いたので、「ふにょふにょ」と「ぐちゃぐちゃ」の区別が曖昧でした。

発展途上の科学が論理だけで割り切れない混沌であること。 前にぼくは、これを「ぐちょぐちょ」とか「どろどろ」とか書きました。 あまりいい書き方ではないですね。 単に「混沌としている」というのがいいかな。

ぼくが「ふにょふにょ」と書いたのは、 「自らを律する厳しさに欠け、状況に安易に流される弱い精神と生の方向性のあり方」 とでもいう意味でした。 科学の研究に即して言えば、 問題の選択にあってはただ流行に流され、 論争の解決にあってもただ多数派の意見に無批判に従っていくというような腐った状況を指します。

というわけで、ぼくの(当たり前の)意見を要約すれば、

科学の研究にぐちょぐちょ・どろどろしたものがあるのは当たり前。 だからといって、ふにょふにょになってはだめだ。
となります。 敢えてこういうことを言うのは、現実にふにょふにょになってしまった科学の分野も存在し、 そして、今もまた様々な理由からふにょふにょになりそうな分野が存在すると考えているからです。 (「ふにょふにょ」と「(必然的な混沌としての)ぐちゃぐちゃ」 をどう区別するのだという質問がありますよね。 ぼくの答えは「においでわかる」、「目を見ればわかる」 といった極めて非論理的なものです。 自分が誤った判断をしている可能性があることはわかってますよ。 でも科学者が建設的な偏見を持つのは正しいことだと思っています。)
Id: #a19990906182953  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 18:29:53 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906163412
Name: 早川
Subject: 「ふにゃふにゃ」の科学

会議がようやく終りました。残念ながら生協にはピッカリングの本は 店頭には置いておらず、質的に異なる発言は出来ません。

大体において黒木さんの最後の発言に同意致しますが、個人的に何で こうした問題に拘りを見せているかを説明したいと思います。 まずこれは皆さんの合意事項であると思いますが、発展途上の科学は 田崎さん流に言わせれば「ふにゃふにゃ」しているのが普通です。 逆に言えば数学はともかく物理では「ふにゃふにゃ」していない処から本質的な 発展があることは殆んどない。だから最先端ではふにゃふにゃしたものに 真向から取り組まないといけないし、それを固めて後世の人に伝えるのが 科学者の責務であると思われます。「ふにゃふにゃ」を固める際には 大概、論理的な道筋に依らず、超越論理が出て、実験で検証され、理論化される というプロセスを経ます。

科学を論じる際に科学論の中途半端さを攻撃する余りに、 上で論じた当たり前のプロセスを理解しないと、そうした議論は かえって科学者の卵には有害でしょう。一見するともう我々の世代には 「ふにゃふにゃ」はないように思ってしまうのも困り物です。(例えば 「ふにゃふにゃ」の科学(ゲルとかね)はひと昔前に比べれば随分 固まってきた気がしますがまだふにゃふにゃです。)

もっとも 物理学者は気が早い人が多いので「ふにゃふにゃ」に「にがり」の入った 瞬間にもう終ったと思う人が多いのも困り物です。逆に「ふにゃふにゃ」 したものばかりに世の中がなってしまったら自重を支え切れずに崩壊します。


Id: #a19990906163412  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 16:34:12 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906132716
Name: くろき げん
Subject: Re: ロングスカートからミニスカートへの流行の変化

何度も強調していることですが、困ったことに、少なくとも Thomas Kuhn の『科学革命の構造』以降の科学論の文献の多くは、その曖昧で大袈裟で雑な説明の仕方のために無用な混乱をもたらせていると思います。

Kuhn と Popper 学派の論争 (I. Lakatos and A. Musgrave (eds.), Criticism and the growth of knowledge, Cambridge U.P., 1970 (森博監訳、『批判と知識の成長』、木鐸社、1985)) を眺めてみると、もともとの Kuhn の言い方が曖昧で大袈裟過ぎるという事実が決定的な役目を果たしていることがわかります。 (特に、その論文集に所収の、 Kuhn 自身による言い訳と、 Feyerabend による Kuhn 批判を比べてみよ。) しかし、その教訓がその後の科学論という分野で活かされているかというと、私は大いに疑問なのです。

曖昧で大袈裟で雑な説明の仕方の存在を認識した上で議論を進めるべきだと思います。そして、私はそのような説明の仕方自体が批判にさらされるべきだと何度も主張しています。 (cf. Sokal (April 1997) による Latour に対する批判の仕方)

まず、「ロングスカートからミニスカートへの流行の変化」のごとく科学理論の発展を描いている場面にさえ、科学研究者が共感を持つことは可能なことには注意を払うべきです。普段から科学的な厳密性にうるさい科学研究者は他の科学研究者達のあまりのいいかげんさに頭に来ているに違いありません。そのような人が、「ロングスカートからミニスカートへの流行の変化」のごとく科学を描いている文献を読んだとき、それに共感を示すのは不思議でもなんでもないのです。 (おそらく、早川さんの立場はこれに近いのだと思う。)

ところが、それとはまた別の共感の示し方があります。それは、科学理論の変遷は全て「ロングスカートからミニスカートへの流行の変化」のごとくであり、科学の発展という考え方は幻想である、という解釈のもとで共感を示すことです。この解釈の中には、科学的厳密性にうるさい科学研究者の姿はどこにも出て来ません。むしろ、科学的厳密性という考え方自体が全くの幻想に過ぎないという極端な解釈を導くものです。特に、科学と権力の関係を批判するために科学的合理性という考え方そのものを打破したいと考えている科学論ユーザー達はそういう極端な解釈に走りがちだと思います。 (千代さんは、このような極端な解釈を導く説明が雑な議論に基いて展開されていることに反発を感じているのだと思う。)

私は、前者の立場 (したがっておそらくは早川さんの立場) を肯定しつつ、田崎さんや千代さんらと共に、後者の極端で雑な考え方を否定したいと考えています。


Id: #a19990906143551  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 14:35:51 1999
URL: watanabe@tohoku.ac.jp
Name: わたなべ
Subject: ミチューリン生物学
> ある特定の科学分野の混沌とした時期

例えば1940年代前後に吹き荒れたルイセンコの遺伝学説とか?

Id: #a19990906132716  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 13:27:16 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906120233
Name: 千代

田崎さん、こんにちは。

 歴史の進み方が違ったら、(クォークという名称や理論の書き方が異なるの
 は当たり前だが)最終的に合意の得られる理論そのものが全く別のものになっ
 ていた可能性を信じるかどうかです。

標準理論のaltanativeがあり得たかもしれないという話なら絶対ないとは言い切れないですが、

Convesely, the old-physics theories had nothing to say on
the rare phenomena of the new-physics, and the new-physics
theories had nothing to say on the common phenomena of the old
physics.(p411)

とピッカリングは長期的にみた科学の発展性を否定しているので、それこそワインバーグのいう「ロングスカートからミニスカートへの流行の変化」のように科学理論の発展をとらえているんです。


 確かに、科学と一口に言ってもいろいろあり、科学者と一口に言っても
 いろいろあることが、この掲示板であまり語られていないのは事実。

御意。ただ、高エネルギー物理学は自然科学の本丸ですし、理想的なくらいには単純ですから、これを料理するに社会構築主義がどのくらい有効なのか非常に興味があったのですが、ピッカリングにはがっかりさせられたと感じました。よく調べているとは思うんですけど、議論がかなり雑でした。

早川さん:
ピッカリングに関して想像から言うと高エネルギー物理のような高度に
洗練された分野を例に出したのがまずかったのであって

というか、社会構築主義は「科学とは〜」みたいなかなりうわてに構えた分析をするのに少なくとも現在は力不足なのでしょう。でもある特定の科学分野の混沌とした時期を解析するなら、つまらない見栄を張らずに謙虚に通せばという条件付きですが、まともな研究として共感を得ることもできるのでは。



Id: #a19990906132238  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 13:22:38 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906120233
Name: くろき げん
Subject: 科学と言えども様々、あやしげなコンセンサス

なぜ早川さんが「ここで展開される議論の多くが出来上がった科学のことばかり論じて、出来上がりつつある科学を意図的にか/無意識的にか隠蔽しようとしている」と心配したのかさっぱり理解できないので、その心配を真面目に受け取る気は起こりません。

しかし、早川さんも「高エネルギー物理のような高度に洗練された分野を例に出したのがまずかったのであって、もっと怪しげなコンセンサスが何となく受け入れられている分野は山のようにあります」と私や田崎さんがすでに述べている「科学と言えども様々だ」という意見を改めて述べてくれたのは良いことだと思いました。「科学と言えども様々だ」という考え方はここにおける共通認識であると言って良いでしょう。共通認識であることを納得していれば、上で引用したような早川さんの心配がなぜ出て来たのか、わからなくなります。

「科学と言えども様々だ」という共通認識の確認が不十分だというなら、早川さん自身が「あやしげなコンセンサスが何となく受け入れられている分野」の具体例を挙げることによってバランスを取るようにすれば、議論が informative になるので良いと思います。

しかしながら、「あやしげ」とみなされている「コンセンサス」はどのような意味でコンセンサスなんでしょうかね? 果たして「コンセンサス」という言葉で表現するのは適当でしょうか? 俗流パラダイム論の宣伝みたいになってしまうのは、ちょっと嫌な感じだよな。

おまけ: Michel Foucault も「科学と言えども様々だ」を強調した発言をしているので引用しておきましょう:

…すなわち、もし理論物理や有機科学のような科学にたいして、そうした科学が社会の政治・経済構造といかなる関係にあるのかといった問題を提出するなら、それはあまりにもこみいった問題を提出することになるのではなかろうか。また、それは求めるべき説明の水準をあまりにも高くおくことになるのではなかろうか。ところがこれにたいし、もし精神医学のような知を対象にするなら、問題の解決は、逆にずっとやさしいのではないか。精神医学は認識論的な側面がいかにも低級でしかも、精神医学的実践は、社会制御にかかわる、その時その時の経済的要請、政治的緊急性およびもろもろの制度などの全体と、密接に結びついているのだから。精神医学のような「いかがわしい」科学の場合は、権力と知の相互作用を、より確実な仕方で把握できるのではないか。…
(『ミシェル・フーコー1926-1984』(新評論、新装版)の73頁より)

Id: #a19990906122700  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 12:27:00 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906120233
Name: 田崎
Subject: やっぱり、一言足りない。

早川さん、
それがその後、ブラックボックスとして受け入れられる様に なったりするとまさに ピッカリングの主張通りになったりします。
それで?

ぼくは、そんなふにゃふにゃの分野は認めたくないし、 自分が関心を持っている分野からはそういうふにゃふにゃしたものを少しでも減らしたいと思って努力しているし、 これから科学を志す人が最初からふにゃふにゃになっては非常に困ると思って悩んでいる。 本当の科学者というのは、そういうふにゃふにゃを克服すべく努力して行くべき存在で、 本当にいい科学というのはそれを克服できたもののことでしょう。 早川さんは、そんなことは当たり前だと思っていて、ご自分もそういうつもりで研究をしているのは ぼくは知っていますが、この掲示だけ読むとわからない。

確かに、 科学と一口に言ってもいろいろあり、科学者と一口に言ってもいろいろあることが、 この掲示板であまり語られていないのは事実。


Id: #a19990906120233  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 12:02:33 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906105256
Name: 早川
Subject: 日本風素粒子論 日本風素粒子論 日本風素粒子論2,ピッカリング

まず第1にピッカリングの本を読んでいないし、おそらく下らないであろうことは 容易に想像がつきます。昼休みに買ってみて、午後に2つある会議の間に 読んでみます。
勿論先の掲示に書いた通り、収束した スタンダード理論 は批判に値するものではなく、人類が20世紀に手に入れ得た 上級の財産の一つです。
私がわざわざ自明とも思える掲示をしたのにはここで展開される 議論の多くが出来上がった科学のことばかり論じて、 出来上がりつつある科学を意図的にか/無意識的にか隠蔽しようと していることを感じたからです。一般の読者には例えば古典量子論を見れば 分かる通り、正しい道筋と思われる途中にも超越論理は頻繁に用いられています。
ピッカリングに関して想像から言うと高エネルギー物理のような 高度に洗練された分野を例に出したのがまずかったのであって、 もっと怪しげなコンセンサスが何となく受け入れられている分野は 山のようにあります。例えば私の研究分野では教科書の1ページ目が間違っていて それに関するNatureの論文が出て(それも間違っている)、不毛な論争が あったりします。それがその後、ブラックボックスとして受け入れられる様に なったりするとまさにピッカリングの主張通りになったりします。
Id: #a19990906105256  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 10:52:56 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906091813
Name: 千代

早川さん、はじめまして。

朝永や坂田の話は知っていますが、ここでの話とあまり関係ありません。

 私は少なくとも科学の(一分野が)黎明期にある場合には
 ピッカリングの1-5は全て当てはまっていると思います。

 勿論混乱期を過ぎてきっちりしたデータが取れる様になれば
 百家争鳴の時代は終り、文字通りスタンダード理論に収束して
 いきます(たというべきか)。

そのことについては全く同意しますが、ピッカリングはそんな当たり前のことをわざわざ本にして言おうとしたんじゃないはずでしょう。題名からもわかるように、彼は標準理論が社会的構築物であることを証明するために、黎明期の素粒子物理の発展(における紆余曲折)を援用しているのです。で、この点について早川さんはピッカリングを支持されるんでしょうか。


Id: #a19990906104624  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 10:46:24 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906091813
Name: 田崎晴明
Subject: それは、そうだが、

早川さん、

さすがですね。 面白かったです。 しかし、ああやって Picering を擁護して終わると、誤解を生むのではないかと気になります。

Pickering の 1-5 が妥当かどうかというのは、 言葉や状況の解釈等々によるデリケートな問題でしょう。 科学の研究の際にどろどろしたことがたくさんあることは事実です。

問題は、様々な段階を経て形作られた今日の標準的な理解が、 単に社会的な合意で作られたものと見るのか、 (たとえ、その過程はどろどろぐちょぐちょだろうと) この世界の真実に近似的に近く、合理的だったから選ばれたと見るかです。 歴史の進み方が違ったら、(クォークという名称や理論の書き方が異なるのは 当たり前だが)最終的に合意の得られる理論そのものが全く別のものに なっていた可能性を信じるかどうかです。 もちろん、ぼくは、(現在の素粒子論のすべてに満足ではないですが) 今日の標準的な見解はもっとも真実に近いと思っています。 (特にフェルミオン+ゲージ場の量子論の持っている理論的(および経験的)説得力は すさまじいと思っています。)

だが、Picering の見解は明らかに違う。 彼の本の最後は、

... Word-Views are cultural products: there is no need to be intimidated by them. In the irreverent words of a scientist from a byegone age: 'The lofty simplicity of nature all too often rests upot the unlofty simplicity of the onw sho thins he see it.'
となっています。(以下、一発訳)
・・・[科学の、特に文脈では、高エネルギー物理学の] 世界観は文化的な産物に過ぎない。 そんなものに怖れをなす必要はないのだ。 過ぎ去りし時代のある科学者は大胆にもこう書いている。 「自然の崇高なる単純さは、往々にして、 自分は自然の中に単純さを見たと思っている人間の 崇高ならざる単純さによるものである。」
まあ、「科学者」といっても色々な人がいるでしょう。 それに「往々にして」そうであっても、ごく希に本当の単純さ・美しさを知ることが できるというのが、正しいかもしれないし。

いずれにせよ、Picergin は二十世紀の(高エネルギー)物理学が 人類全体にとって信頼に足る世界観を見いだしたということを 真っ向から否定しているのです。 早川さんだって、それは絶対に受け入れられないでしょう?


Id: #a19990906091813  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 09:18:13 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906062639
Name: 早川
Subject: 日本風素粒子論

千代さん


Quark物理の黎明期には随分混乱があって日本風の素粒子論とか
中国風の素粒子論とかある意味で共産圏素粒子論
が存在したことは良く知られた事実です。
それどころか60年代は自国に根をおろした物理の重要性が強調されていた
時代でもあります。勿論、背後に文化大革命の影響はあったことは否めませんが、
特に坂田等の理論はeta粒子の質量を半定量的に預言するなど大きな影響力が
あり、Salam等一部の海外の人や日本人はQuarkのことをSakatonやUrbaryon
と呼んでいました。
こうした事実を若い世代の専門家が知らない/知っていて無視するということ自体
は驚きですが、裏を返すと
ピッカリングの


5.今までの理論は新しい理論ができたときに忘れ去られ、
研究されなくなる(通約不可能性?)


はある程度当たっていると思われます。


勿論混乱期を過ぎてきっちりしたデータが取れる様になれば
百家争鳴の時代は終り、文字通りスタンダード理論に収束して
いきます(たというべきか)。しかし収束した後は科学としては
もうin actionの時代は終っています。


私は少なくとも科学の(一分野が)黎明期にある場合には
ピッカリングの1-5は全て当てはまっていると思います。


Id: #a19990906062639  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 06:26:39 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990901051823
Name: 千代

ピッカリングの`Constructing Quarks'を読み終わったので感想を。

結論だけ書くと、どのような好意的な読み方をしても彼の言う以下のような
結論を導き出すことはできません。

1.実験データは理論にあうようにいくらでも解釈できる、もしくは都合の悪いものは取捨選択できる。
2.理論も変更を加えていくらでもデータにあうようにできる。現在(1984年)までにほとんどの理論は(実験によって)大きく制限されることはなかった。
3.研究者個人のレベルでは理論をランダムに選んで実験データにあわせることができる。
4.研究者社会では共生symbiosisに都合のよい理論を選択する。
5.今までの理論は新しい理論ができたときに忘れ去られ、研究されなくなる(通約不可能性?)

5.はとりあえずナンセンスです。多くの最新実験(CDF/D0やLEP、多くの固定標的実験)も過去の理論・実験結果、特に彼がold-physicsと呼んでいる頃の理論を参照しています。ピッカリングの大好きな固定標的実験もばっちりおこなわれていて、忘れられたりしてないので安心してください。

1.については実験精度の低いデータを基に理論が揺動している時期を見て主張しているのだと思いますが、当時実験的に確立しているもの、たとえば題名に強く関係するチャームクォーク(J/ψ,D中間子)とボトムクォーク(Υ,B中間子)の発見について、ピッカリングは明確な判断を下していません。2.3.を主張するのに必要な裏付け、つまり実験精度が向上して理論が誰の目にも確立された時期のデータを参照してもいません。中性カレントの問題についても、シグナルとバックグラウンドの運動学的形状が物理学者にも区別できないということをことさらに強調して1.を主張している(シグナルと区別できないからバックグラウンドとよぶんだってば)。1.2.3.に大きな影響を与えるCP非保存の発見(理論的必然性もなく全く偶然に見つかった)についてはどうでもいい説明を1行書いているに過ぎない。彼が400ページにわたっておこなったケーススタディは1.2.3.を説明していない。

4.は、ピッカリングにとっては当たり前のことなのか、全く説明がありませんでした。まあ、クォークがあるのもカラスが黒いのも社会的に決まっていると言えば何でも説明した気になれるのでめでたいんでしょう。でもそういうのならアメリカとヨーロッパと共産圏ではそれぞれ都合があるんだから(ピッカリングは何度となくアメリカとヨーロッパの素粒子物理学界が対立関係にあることを示唆している)、アメリカ派素粒子物理学とヨーロッパ派素粒子物理学、共産圏素粒子物理学があってもいいだろうし、米国内でもシカゴ学派とスタンフォード学派があってもよいはず(もちろん実際にはない)。ヨーロッパの結果がアメリカによって否定されたことやその逆も何度かはある。でもいつでも最終的に決着が付いて素粒子物理学の分裂にいたらないのはなんでかな。是非知りたいな。ピッカリングが自分の理論を正しいと思っているなら、社会学のプロのピッカリングに聞けば今後10年の素粒子物理のトレンドを教えてもらえるんでしょう。

あんな(データを恣意的に取捨選択して妄想を裏付けしたような)ずさんな研究で研究費がもらえるのなら立派な詐欺だなあ。どおりで素粒子物理よりとんでもなく難しい、根拠付けすらまともにできそうにない社会学を平気で研究できてその結果を強く喧伝できるわけだ。まともな神経ならそんなことできるわけがない。僕も良心の呵責さえなければ社会学に転向できるのになあ。
Id: #a19990906024642  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 02:46:42 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990906013005
Name: くろき げん
Subject: 宮崎さん、具体例を挙げて説明して下さい

そろそろいつもの御願いをしなければいけなくなりました。

宮崎さん、具体例を挙げて説明して頂けませんか?

一般論として、「人間の社会行動を調べる」という見方は重要であると思います。しかし、あらゆる物事をそういうフィルターを通して見ようとしたり、そのフィルターを通して得られた結果だけを用いて他人を説得しようとしたりするのは、あまり賢いやり方ではないと思います。自分自身の主張の信頼性を高めたければ、それ以外の見方も平行して用いた方が良いと考えるのが常識的だと思います。例えば、「科学」を批判すると言っても、「科学」と言っても様々だし、批判の目的や方向性も様々なので、ケース・バイ・ケースで批判に用いるツールを変えた方が良いと私は考えています。これ以上のことは、個々の具体例に基かないとちょっと説明し難いな。


Id: #a19990906013005  (reply, thread)
Date: Mon Sep 06 01:30:05 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990904024649
Name: 宮崎恵彦
Subject: 補足

そもそも、社会学的、心理学的レベルにおいて、人間の社会行動を制御する因子として重要なのは、「事実」ではなく、むしろ「事実の表象(個人的にはどうもすっきりしないのですが、'representation'の定訳として)」なのではないでしょうか。

確かに黒木さんのおっしゃるとおり、社会的構築主義は、「定説」や「常識」を相対化するためのツールとしておもに用いられてきたことは確かなのですが、本来的には以下の2点の疑問に答えるべきものであると私には思えます。

1.事実の表象は、いかなる社会的機能ゆえに構築されるのか
2.事実の表象は、どのようにして社会的に構築されるか

そして、1については、現在の社会的構築主義の方法論でそれが可能なのかは私にも疑問なのですが、2についてはさまざまなレトリックの説得場面における機能といったことを含め、様々なことを明らかにしてきたと思います。


Id: #a19990904024649  (reply, thread)
Date: Sat Sep 04 02:46:49 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990903132637
Name: 宮崎恵彦
Subject: とりあえず

とりあえず黒木さんの二つの疑問にお答えします。

>私の疑問は、最初からどうして“「事実」についての言説”と言わなかったかです。

たしかにいかにも社会的構築主義者的な「大袈裟な表現やレトリック」ですね。この掲示板には不適当な表現であったと思います。

二番目の疑問、

>・我々の「科学」という営みについても、それは「事実」に対する言説のひとつに他ならない
>と言い切れるだけの根拠があると本気で思っているか否かが問題なのです。
>そういう見方から、我々の科学の営みの全てが理解できるのか?

ですが、私は「科学」、「疑似科学」、「迷信」、あるいは「常識」と我々が呼んでいるものを「行動」として分析するためにはそれらを「事実についての言説」と定義するしか方法がないと考えています。もちろん、それらを「行動」として分析するのは、それらを理解するためのひとつのアプローチに過ぎない訳ですし、「『事実についての言説』の分析」もまたひとつの「事実についての言説」でしかないということも承知していますが。

ところで、私は社会的構築主義を、むしろ「レトリックについての科学」という観点から捉えています。つまり、いかなるレトリックが相手を説得することに有効かということを分析するうえで、社会的構築主義は、認知科学的な語用論より生産性が高いのではないかと思う訳です。


Id: #a19990903201126  (reply, thread)
Date: Fri Sep 03 20:11:26 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990831150151
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: 『科学が作られているとき』に対する感想

昨日まで、箱根で缶詰になっていました。

黒木さんのコメント中の引用文だけでは、単なる誤訳の可能性が否定できません。原文もおかしい可能性が高いとは思うけど、それを確認するためだけに原文を読むのは面倒です。どうしましょう。

一見、日常生活的な直感に反する結果だけを切り離して取り上げ、そのことの分野全体の中での位置付けには無頓着なまま論を暴走させるのは、通俗啓蒙書だけを読んで理解したつもりになって、妄想を膨らませるタイプの人の文章のスタイルにそっくりだとはいえます。これは、原文からおかしいのであろう状況証拠ぐらいにはなるでしょう。忙しいから、それだけで満足すべきかな。

派手な部分だけ切り出して「不思議でしょう、面白いでしょう」とやるのは、通俗啓蒙書の常套手段であり、通俗啓蒙書としては効果的な戦略なんだけど、妄想癖のある人をあっち側に送る手助けになるという副作用もあって、難しいものです。


Id: #a19990903132637  (reply, thread)
Date: Fri Sep 03 13:26:37 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990903022535
Name: くろき げん
Subject: 方法論的相対主義全般の実際面での問題を指摘していることになっているのだと思う

最初に、些細な点ではありますが、何度も繰り返し繰り返し登場した論点なので、あえて揚げ足を取っておくことにしましょう。宮崎さんは次の2通りの言い方をしています:

私の疑問は、最初からどうして“「事実」についての言説”と言わなかったかです。これと同様の指摘が、 Latour に対してもなされていて、 Nature と Nature's representation の区別の曖昧であることが批判されています。ここの議論を読んでいたと言いたいならば、このことが何度も指摘されていることに注意を払うべきでしょう。

さらに、もう一つの疑問は、「事実についての言説は社会的に構築される」という見方そのものが他の見方に対して優位とは限らないことを承知の上で社会構築主義を支持しているかです。例えば、

と言い切れるだけの根拠があると本気で思っているか否かが問題なのです。そういう見方から、我々の科学の営みの全てが理解できるのか? 私は本気でそう信じてしまうのは馬鹿げていると思うし、社会構築主義のアイデアの使用者でそう信じている人はほとんどいないのではないかと思います。

私の理解では、社会構築主義の要点は、「通説や常識を批判するために、あえて確信犯的に、言説という側面に注目し、それが社会的にどのように構築されているかを論じること」です。つまり、私は、社会構築主義を方法論的相対主義の一種だとみなしているのです。私は、方法論的相対主義そのものにはかなり好意的な態度を取って来ました。

しかし、実際には、「通説や常識を批判する」という目的を方法論的相対主義的なやり方で達成することはそれほど簡単ではないし、その大袈裟な物言いのために馬鹿扱いすれすれの扱いを受けている場合さえある。

方法論的相対主義は、少なくとも以下の2つの問題をかかえているため、堕落し易いのです。

1つめは「あえて確信犯的に」という態度が徹底できなくなるという問題です。ある説明の仕方の説得力を増すためには、それが認識論的に優位であることを前提にすれば非常に楽になります。そのため、「あえて確信犯的に」という態度が徹底できなくなって行くのです。もともとは「確信犯」であったはずなのに、最終的には、そのやり方の認識論的優位性を信じてしまう人が出て来てしまうことになるのだ。 (注意: Latour のように、認識論に関わる論争の一時的停止を提案していても、その裏に社会構築主義にかなり近い認識論的前提を隠していると疑わざるを得ない場合もあるので、騙されないように注意しなければいけない。)

(ところで、「あえて確信犯的に」という態度って徹底できるものなんですかね?)

2つめは、「嘘、大袈裟、紛らわしい」という過大広告の問題です。方法論的相対主義には、「通説や常識を批判する」という目標の達成を読者に印象付けるために、大袈裟な表現やレトリックが使われる傾向があるのです。そのため、批判的で厳密な読み方を好む読者は、どこまで本気で言っているのか、わからなくなり、そうでない読者はその大袈裟な言い方に騙され誤解し間違った考え方を信じてしまうことになるのです。

この2つめの堕落の最終形はダブル・スタンダードです。すなわち、一方では、大袈裟な言い方によって人気を得ておき、別の一方では、批判されると「それは単に言い方がまずかっただけで、本当に言いたいことはほげほげなんだよ」 (ここで「ほげほげ」は穏健でつまらない主張) と言い返す。

私の解釈では、 Sokal と Bricmont による科学論に対する批判は、以上で述べたような方法論的相対主義全般の実際面おける欠点に関係しています。 (Alan Sokal の「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」 (April 1997) と Jean Bricmont の "Postmodernism and its problems with science" (Fall 1996, DVI, PS) を参照せよ。)

ついでに述べておけば、 Steven Weinberg の『究極理論への夢』の第7章でさえ上で述べた観点と深く関係しています (そのほんの一部の抜粋)。「古い実証主義の化けもの」という言葉を用いた批判は私が上で述べた1つめの堕落に関係しているのだと解釈することができますよね。 (抜粋した部分以外に、第7章には Weinberg が気に入らなかった大袈裟な物言いが多数引用されている。)

Kuhn の『科学革命の構造』から Latour の『科学が作られているとき』まで (おそらく Pickering の "Constructing Quarks" もそうでしょう) 多くの科学論の基本文献は以上の見方で批判されるとかなり苦しい立場に立たされるのではないかと思います。しかも批判の要点は、科学の専門知識とは無関係なので、あらゆる人にとってわかり易いものになっている。そして、私は、上で述べたような批判を受け入れ、より慎重になることは、科学論 (より一般には方法論的相対主義を利用している分野全般) にとっても良いことだと考えています。

ソーカル事件以後の論争は日本で紹介される以前にすでにこのような段階に達していたのに、日本ではそれ以前のくだらない部分だけが主に紹介されており、私はそれが残念なのだ。


Id: #a19990903085214  (reply, thread)
Date: Fri Sep 03 08:52:14 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990901130649
Name: 田崎
Subject: 数理科学 1997 年 4 月号

の冒頭の記事:大野・田崎・東島「くりこみ理論の地平」 は全文を web 上で公開しています。 最初から読んでいって、わけがわからなくなったら、最後の節にとんでざっと読むというのが、 正しい読み方かもしれない。 この記事の構想を思いながら子供といっしょに大学の中を散歩していて、 池に石を投げて波を見ていたのが懐かしい。

黒木さん、宣伝して下さってありがとうございます。


Id: #a19990903084128  (reply, thread)
Date: Fri Sep 03 08:41:28 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990903083125
Name: 田崎
Subject: あ、そうだ

書くのを忘れていましたが、ずっと前に、ぼくの web page の中に 「『黒木のなんでも掲示板』における田崎の掲示から」 というのを作って、ぼくがここに書いたものをテーマごとにまとめておきました。 (掲示板付属の記事の検索とダンプの機能を使うと、こういうのが簡単にできます。 あるいは、個人の書いたものではなく、テーマごとにうまく編集すれば、 かなり読んで面白いものができると思います。) 「複雑系と計算器」というところに、ぼくの「頑固じいさん」的意見が色々と書いてあります。
Id: #a19990903083125  (reply, thread)
Date: Fri Sep 03 08:31:25 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990901232431
Name: 田崎
Subject: そうです

登場しそこなっていたら、黒木さんと牧野さんが実にきちんとまとめて下さいました。 計算機だけでは終わりにしたくないというこだわりについても、 以前にしつこく書いたので、 本質的にはこれ以上いうことはないかな。

それでも、蛇足的にいいたいことはあるのですが、 新学期の雑用がおそってくる前にできるだけしたい仕事をしている(朝の7時半くらいから大学にいる!) ので、また今度にします。 まきのさんが書かれたように、「普遍的な『物理』」を見いだすために計算機で世界を旅しているのか、 工学的なセンスで「ある状況で何がおこるかを知りたい」と思って計算しているのかの区別が曖昧で、 前者しかあり得ないような題材について後者のような姿勢で(しかも実用性がないから、 いい加減に)計算して解析している人が多いことが最大の問題ですね。 そんなことをしていても、論文は書けるだろけれど、 それ以外には何の意味もない。 君だよ、君!そこの複雑系! (偏見があることをお詫びしますが、本当にいい仕事をみせてもらわなければ偏見はなくならない。)


Id: #a19990903022535  (reply, thread)
Date: Fri Sep 03 02:25:35 1999
Name: 宮崎恵彦
Subject: 社会的構築主義について

宮崎@ワイカト大大学院(一時帰国中)です。

Latourをめぐっての一連の議論を拝見すると、何か社会的構築主義そのものが批判されているような印象を受けるのですが、私の場合、自分の修論のタイトルが"Minority and majority influence as different strategies for speakers to establishing facts: A discursive approach"であったように、「事実」が社会的に構築されるという、社会的構築主義の基本的な立場には賛同するものです。より正確にいえば、「事実」についての言説は社会的に構築されるものであり、我々の「科学」という営みについても、それは「事実」に対する言説のひとつに他ならないであろうということです。

なぜそのようなことを考えるかと言うと、このような社会的構築主義の視点が、私の本来の専攻である行動分析学の言語観によく一致するからなのです。行動分析学的に言えば、事実に対する言説とは、「言語行動」に他なりません。そして言語行動は、他のすべての生体の行動と同じく、遺伝子か環境によってのみ制御されうる存在であると考えられます。そして、言語行動の場合は、他者の存在、つまり「社会」が最もその行動に影響を及ぼす環境的要因と言えるでしょう。

と言う訳で、私は、ある種の社会的構築主義の持つ、「事実」そのものが社会的に構築されるという、反実在論的傾向については反対する立場です。そして、伊勢田さんが以前指摘されたように そのあたりの問題をあいまいにしているというのが、逆にLatourの最大の問題点であるように私には思えるのですが。


Id: #a19990901232431  (reply, thread)
Date: Wed Sep 01 23:24:31 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990901130649
Name: まきの
Subject: そうですね。

くろきさん、その通りだと思います。計算機「実験」という時には、それはそこからなんらかの普遍性(「物理」と物理屋がいうところのもの)を見つけて、それを確認しようというものなわけです。そこが非常にうまく表現されていうて、答える井田さんもですが森山さんの関心の方向性と構成の腕前に脱帽です。

とはいえ、計算機を使った研究の全部がそうかっていうと、やはりそうでないもの、普遍性というよりは個別性を扱うものもあって、そういうのが研究として意味がないかっていうと、それはまた必ずしもそうではないこともあると思います。 例えば工学というか、テクノロジーの分野における計算機シミュレーションというのは、これから作ろうという製品(個別のもの)がどう振舞うかをあらかじめ知りたいというものなわけで、ここでは、計算機を使う目的は上の「物理」を見つけようというのとは全く違ってくるわけです。この二つのどちらをやっているのかが自分で分かっていないのではないかとしか思えないような研究というのもあって、これはなかなか困ったものなのですが。


Id: #a19990901130649  (reply, thread)
Date: Wed Sep 01 13:06:49 1999
In-Reply-To: a0049.html#a19990901113942
Name: くろき げん
Subject: ええ、あれは私も面白いと思いました

私も、森山さんによる NetScience Interview Mail の「井田茂氏(惑星形成論)No.05 は特に面白かった。

その第14節で述べられている考え方は、『数理科学』1997年4月号で強調されている「普遍性」という考え方と明らかに密接に関係していますよね。 (その号には、田崎さんが記事を書いていて、その抜粋をウェブで読めます。でも、「普遍性」の様々な具体例を知らない人は、『数理科学』1997年4月号の全文にあたって、扱い易い例にどういうものがあるかを見てみないと、田崎さんが何を言おうとしているかを知るのは難しいと思う。)

P.S. 森山さんは別に Popular Science Node というメール・マガジンを発行しています。興味のある方はそちらもどうぞ。現在、田口善弘さん超弦理論の解説に挑戦しています。超弦理論について述べるためには、それ以前に、まず、スケールによって世界が違って見えてくること (特に高エネルギーではどうなるか)、標準理論とそれを越えるための様々な試み、重力の量子化の困難、……とかなりたくさんのことを説明しなければいけないので大変です。 (第1回目はスケールの話をしていますよね。) おそらく、やらないとは思いますが、超弦理論の理論的・数学的な発展の話 (実際には理論的・数学的な面白さが超弦理論の研究を支えている) をしようとすると、現代数学の最先端の話題に触れなければいけなくなる……。 (cf. 1999年度原子核三者若手夏の学校素粒子パートホームページ過去の夏の学校素粒子パート講義録) あ、なんか、こういうことを書くと誤解されそうなので付け加えておきますが、 Popular Science Node は "popular" の名に恥じず、かなり気楽な読物になっています。 (こういう excuse を述べるたびに、 mathematical science と popular science の関係について、ちょっと考えさせられてしまうのだ。)


Id: #a19990901113942  (reply, thread)
Date: Wed Sep 01 11:39:42 1999
Name: まきの
Subject: 森山さんによる井田さんへのインタビュー

ですが、面白いですね。なんか森山さんの日記には出来に不満みたいなことが 書いてあったような気もしますが、そんなことはないと思います。まあ、僕が良く知っているところなので面 白く思うだけかもしれませんが、特に第5回 の計算機実験に対する考え方、CG を作る意味とかについてのところが良 いです。田崎さんの感想を聞いてみたいみたいな。広い読者層を目指すにはちょっ と玄人受け過ぎないかと心配ですが。
Id: #a19990901051823  (reply, thread)
Date: Wed Sep 01 05:18:23 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990831073232
Name: 千代
Subject: クォークを創るの読書日記

まだ1/3しか読んでませんがピッカリングの言いたいことはだいたいわかりました。

1.実験データは理論にあうようにいくらでも解釈できる、もしくは都合の悪いものは取捨選択できる。
2.理論も変更を加えていくらでもデータにあうようにできる。現在(1984年)までにほとんどの理論は(実験によって)大きく制限されることはなかった。
3.研究者個人のレベルでは理論をランダムに選んで実験データにあわせることができる。
4.研究者社会では共生symbiosisに都合のよい理論を選択する。
5.今までの理論は新しい理論ができたときに忘れ去られ、研究されなくなる(通約不可能性?)

う〜ん、まいった。これって社会学のことちゃうん?それにしてもワインバーグの批判はやっぱり的はずれだと思うなあ。理論屋だからしょうがないけど。
今晩J/ψの発見の部分を読んで、社会学を知らない人間がピッカリングの仕事について評価を下します。ほんとは1983年のウィークボソンの発見に対するピッカリングの評価を聞きたいんだけど1984年じゃ間に合わなかったのか恣意的に落としたのか。
#しかし、CP violationの発見についての章、評価がないのは恣意的に外したとしか思えない。


Id: #a19990831184822  (reply, thread)
Date: Tue Aug 31 18:48:22 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990831150151
Name: kawasaki
Subject: 歓迎ありがとうございます

 黒木さん、突然の乱入者に歓迎ならびに諸々のご配慮ありがとうございます。

 今回の黒木さんのコメントは、先の田崎さんのコメント(#a19990828115725 )とともに、訳書を刊行していらい頂戴した諸々のコメントの中で最も本格的なものであり、訳者として強く感謝しております。

 さて、日本語版に「人類学的考察」という副題を与えたのは他ならぬこの私なのですが(笑)、この点に関する黒木さんの問いかけにできる範囲内(&個人的に理解した範囲内)でお答えできたら、と願います。

 黒木さんが想定されているような「参与観察」のレポートにあたるのはScience in Actionの前著(Woolgerとの共著)Laboratory Lifeであると思います。
 それに対し、Science in Actionの位置づけは、その内容を元にした理論的考察ということになると思います。
 で、この点はポイントだと思いましたので複数の文化人類学の専門家と議論した(というか確認させていただいた)のですが、同書での議論の運び方、とりわけ「訳者あとがき」でも簡潔に指摘したのですが、最終的に「連関一元論」とでも呼ぶべきものにテクノサイエンス像を収斂させていく議論の運び方は「人類学的発想」と呼んでさしつかえない、との反応を得ました。
 また、その際に、あえて認識論的な次元を排除するやり方も「人類学的」で構わないだろう、とのことでした。
(もっとも、ややこしいことに、文化人類学ではもっぱら認識論的次元を扱う「認識人類学」という下位分野もあるのですが、逆にそうした独立した下位分野が存在すること自体が、どうしても優劣の問題(言うまでもなく、文化人類学はこれを克服することに努力してきました)と結び付きやすい認識の次元の問題が取り扱いに繊細な注意が必要であることの証明であるように思われます)。

 私が理解したところでは、Latourの科学論の最大の意義は、科学をあえて哲学的ないし認識論的な概念を用いないで語ろうとした点にあると思いますし、彼の研究プログラムの最大の特徴はこの点にこそ求められるのではないかと思います。
 あえて言うならば、Latourの科学論の最大の特徴は、旧来の人文社会科学的(すくなくともその主流)の観点からのからの科学の分析に反旗を翻した点にあると思います。
 Latourが哲学的(認識論的)志向の強い科学論者ないし科学哲学者たちから(自然科学者たちから以上に)強く嫌われるのも当然のことであると思われます(笑)。
(ちなみに、黒木さんが意識されている「生活世界」や「間主観性」は、やはりフッサールの現象学由来の概念ですが、この流れを汲む議論は科学論の中ではせいぜい傍流だと思います。哲学的志向が強い科学論の主流は、デカルト−ヒューム−カントといった流れを汲む、認識論的な近代西洋哲学の主流そのものか、さもなければ、そうしたものへのアンチテーゼとして登場した実証主義の末裔のいずれかのように個人的には理解しています)

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