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黒木のなんでも掲示板 (0048)

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Id: #a19990831150151  (reply, thread)
Date: Tue Aug 31 15:01:51 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990830161904
Name: くろき げん
Subject: 『科学が作られているとき』に対する感想

川崎さん、挨拶が遅れましたが、 Science in Action の訳者(の一人)自身に登場して頂き、非常に嬉しく思っています。このような雰囲気の場所に登場するのは勇気がいることだったと思います。そのような点にも敬服しております。しかし、川崎さんが、 Latour の代弁に終始して、自分自身の本音の意見を述べる機会を失なってしまうことがないように希望しております。 (他の方々も今までと同様に川崎さんに Latour の代弁を強制しないように注意するべきですね。)

川崎さんの理解によると、 Science in Action の科学論のポイントは「人類学的方法を科学という分野に適応したこと」だということなのですね。なるほど、邦訳の副題に「人類学的考察」と書いてあります。

もとの副題がどのようなものであったか確認してみたところ、人類学という言葉は登場せず、 "How to follow scientists and engineers through society" となっています。実際、『科学が作られているとき』 (Science in Action) の内容も、「どのようにして科学技術を見るべきか」に関する議論に終始しています。だから、もとの英語版の副題は内容に一致している適切なものだと思います。

私が無知なせいかもしれませんが、人類学的な方法による科学論と言われると、私は科学への参与観察の手法を思い浮かべてしまいます。おそらく、こういう先入観を持っている人は私だけではありません。しかし、 Science in Action の主題は人類学的な参与観察などではありません。この意味で日本語版の「人類学的考察」という副題は中身を読んでない人たちに誤解を与える可能性があると思いました。

それでは私の理解はどのようなものか? 熟読をしたとは言えない現在の私の理解によると、 Science in Action の科学論のポイントは以下のように要約できます (まだまだ甘過ぎることはわかっている、しかし好意的に読めばこう解釈できると今のところ考えている):

しかし、問題になるのは、この研究プログラムがどのような立場を前提としているかです。 Latour 自身は認識論的な立場によらずに科学を論じることができるかのような意見を述べているようですが、そのようなことは果たして可能なのでしょうか? 実際には裏に重要な認識論的前提を隠してないでしょうか? Latour が、自然科学の方面からだけではなく、人文社会科学の方面からも批判されている理由はまさにその点が曖昧だからなのではないですか?

Alan Sokal と Jean Bricmont が指摘している Latour の bad writing (もしくは sloppy thinking) の問題はまさにその点に関わっていると思います。彼らの指摘には確かに雑な点があるかもしれませんが、おそらく人文社会学方面の方々にも分かり易い内容になっており、「政治的な事件」という見方に還元できない内容を明確に含んでいると思います。

実際、 Latour は、「誰が誰をどのように説得するか(より一般には影響を及ぼすか)」というフィルターを通して全てを見ようと提案しているように見えます。これは、 Latour がどのように否定していようと、このような考え方は社会構築主義に相通じるものがあると思います。

ところで、脱線ですが、これは Latour に限らず、人文社会科学全般に関わることですが、口の悪い Weinberg が「古い実証主義の化けもの」という言葉を用いて批判していることは、 (その正否によらず) 結構面白いと思います。

(西欧由来の)人文社会科学は、哲学による基礎付けに大きく影響されています。私はここで「生活世界」や「間主観性」などのキーワードを意識しています (それらについて全然詳しくないですが)。それらを用いた基礎付けは、基本的に、我々が直接体験できるので信頼性が極めて高そうに感じられる社会的な事柄に関する思想を梃の支点にして全てを支えようという発想だと思います。この発想は、通常全く関係ないと考えられている Apel-Habermas の討議倫理学のような考え方にも社会構築主義のような考え方にも強く影響を与えていると思います。このような考え方、明らかに人文社会学と相性が良く、実際広く流通しています。

しかし、 Weinberg のように科学研究にどっぷり染まった人から見ると、それらの考え方は Weinberg が科学的な立場から嫌っている“実証主義” (直接観察できるもの以外を全く信用しないという思想) と同類だというわけです。 (実際には、ここまで Weinberg は断言してないので、実際には私個人の解釈です。正直言って、私はこの解釈にはかなり共感を覚えています。)

P.S. こちらに『科学が作られているとき』の中の気になる一節に対する細かいコメントをまとめておきました。大きな更新があれば最後ここで知らせることにします。 (かなり手間がかかることなので、これで打止めにする可能性が大きいですが。)


Id: #a19990831073232  (reply, thread)
Date: Tue Aug 31 07:32:32 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990831023304
Name: 千代

constructing quarks、なぜかうちの図書館にありました。
司書さんが「数少ない、数式がなくて私でも読めそうな本ね」
なんて言ったので、(ここで仕事を続けたいなら)読まない方が
幸せだって言っといたんですが。

ぺらぺらとめくって、ピッカリングが半可通というのは撤回します。
標準理論成立直前までの高エネルギー物理学を丁寧に説明してあり
ます。第14章(403page以降)がなければ、undergraduatesには
是非薦めたい本です。比べるべきではないけど、ブルーバックスとか
読むよりよっぽど教育的かな。

まだサンプリング読みしただけなので評価は差し控えますが、
この14章、とんでもなく唐突にあらわれて、高エネルギー物理批判
というか変な社会学的批判をします。ワインバーグやポルキング
ホーンの批判が403ページ以降のみなのはそれが理由です。
#incommensurabilityが通約不可能性というのはわかった。

ちゃんと読んでからまた書きます。
Id: #a19990831023304  (reply, thread)
Date: Tue Aug 31 02:33:04 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829220041
Name: 千代

前後の関係がはっきりしないのでピッカリングが何を考えているのかわからないんですが、

ワインバーグによると
「高エネルギー物理学におけるこの強調点の変化を、単なる流行の変化をほのめかすような言葉で記述する――印象主義からキュービズムへの、あるいは短いスカートから長いスカートへの移り変わりのように。」

(ピッカリングの観察は間違っているしそもそも半可通丸出しで、ついでにワインバーグの弁明は的はずれに感じるんですが)仮に高エネルギー物理が流行に流されていたとして、それと科学理論の相対性の関係がよくわからない。流行に流されてもできあがった理論がきちんと無矛盾でつながればいいじゃんってかんじ。「無矛盾でつながる」というのはこの掲示板で時々言われている共役不可能性と関係があるのでしょうか。そもそも共役不可能性というのがなにを基準にしているのかわからないですけど。ニュートン力学と特殊相対論は共役不可能なんでしょうか。量子力学と一般相対論はどうなんでしょう。

ピッカリングによると
「何が証明とみなせるか、何がよい分析であるかに関する協議は、法律家や政治家の間の議論と同じくらい、無秩序なものである」
「科学的真理とは、実際には、何が『真実』かについての、広く引用される社会的合意であり、『きわだって科学的なプロセス』の形をとる協議を通して到達されるものだ」
「世界観をつくろうとする人は誰も、 20 世紀科学の言い分を考慮にいれる義務はないのである。」

こんなこと言っちゃうと、世の中でおこなわれていることすべてがその瞬間その社会でしか意味がないし、逆にどんな無茶なことでも意味があることになってしまうのではないでしょうか。もしかして原爆が目の前で爆発しても「50年以上前の物理学者でのみコンセンサスがあった物理現象だからわたしには関係ないよ、わっはっは」って涼しい顔で笑っていられる人なんでしょうか、ピッカリングって。

ちゃんと読まないと実際わかんないですが、買う気も起きないので図書館で探してきます。

Id: #a19990830192624  (reply, thread)
Date: Mon Aug 30 19:26:24 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990830161904
Name: kawasaki
Subject: 若干の捕捉

 川崎です。

 少し手が空いたので一点だけ簡単に捕捉。

 人類学的方法を用いることの必然的帰結なのですが、「相対主義」や「実在論」といったように「認知的(認識論的)説明」をあえて行わない、というのはLatourのScience in Actionの中での積極的な主張でもあります(また、これは、Latour以前の科学論に対する、積極的な立場表明にもなっていると思います)。

 それは、例えば、実質的に「方法の第7規則」ともなっているのですが、

[引用開始]
今ここで方法の第7規則として提案したいことは、結果的に、科学と技術の認識的説明のモラトリアムである!
[引用終了]

 つまり、あえて「相対主義」とか「実在論」という立場によらずに科学について論じようというのがLatourの方法論的立場なわけです。
Id: #a19990830161904  (reply, thread)
Date: Mon Aug 30 16:19:04 1999
Name: kawasaki
Subject: 人類学的方法

 たざきさん、まきのさん、和田さん(他に漏れている方がおられたらごめんなさい)、Latourに関する真摯なコメントありがとうございます。

 2日ほど覗かないでいたら、Latour関係のコメントが多数あって驚きましたが、大変参考になりました。

 ひとつひとつコメントしたいのですが、今はまとまった投稿をしている余裕がないので、刹那的に思ったところを。

 LatourがScience in Actionで展開した科学論のポイントは、(私が理解したところでは)人類学的方法を科学という分野に適応したこと、ほとんどこれに尽きるのではないかと思っておりますし、そのように読むべきものであろうとも思っております。

 ですから、「相対主義」や「実在論」あるいは「社会構築(構成)主義」といった「哲学的」立場をどのように選択するかということは必然的に付随的な問題に格下げされることになるのだと思います(ある意味で、この点がクーンからストロング・プログラムにいたる60年代後半から80年代前半に展開された様々な議論と最も異なる点だと思います)。
 
Id: #a19990830110913  (reply, thread)
Date: Mon Aug 30 11:09:13 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829161516
Name: 田崎
Subject: Science in Action

ブタネコさんが書かれているのは、Latour の方法の規則の三つ目ですね。 Sokal のソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないことの中でも 批判しています。(Fashinable Nonsense とほとんど同じ批判です。 ただし、本の中ではまわりの文章も引用してより徹底して批判していますが。) 問題の部分だけ読みたい人もどうぞ。 (ただし、これは田崎訳。)
Id: #a19990830105226  (reply, thread)
Date: Mon Aug 30 10:52:26 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990830103032
Name: たざき
Subject: しまった。

いしいひさいちを読むの(だけ)が楽しみで朝日新聞を取っているのですが、 しばらく留守にする間、新聞を止めていて、つい面倒で戻ってからも再開せずにいました。 重要そうなのを見逃してしまったようで残念。

講談社の「現代思想の冒険者たち」の月報には各々の思想家をネタにしたいしいひさいちの 4コマ漫画がついていますよね。 野家啓一の「クーン」を買ったときに知って、感動しました。 (今、見ようと思って本棚から出してきたら、月報が入っていない・・・)


Id: #a19990830103032  (reply, thread)
Date: Mon Aug 30 10:30:32 1999
Name: 和田 純夫
Subject: ラトゥールの思想とは(2)

お礼が遅くなりましたが、川崎さん、レス、有難うございました。
(まったく無関係ですが、昔のシアンの件での田崎さんと河本さんのレスにも、お礼し ます。)

ラトゥールの文章を川崎さんのように解釈するのだとすれば、少なくともあの本(サイ エンス・イン・アクション)の中でのラトゥールは、科学における知識(つまり論争の 決着内容)の意味、つまり普遍的な真理(の近似)ととらえるか否かについては、何も 判断はくださない立場であると了解されます。

しかし、そうすると気になる点があります。
一つは、たとえば前のページ(p172)で、「背後にある現実によって論争が決着した」 という見方は排除すべきであると言っていること。
もう一つは、他の人のラトゥールの評価が必ずしもそうではないということです。前に も言及しましたが、(好意的な)柴谷篤弘氏は、ラトゥールの考え方を、 「諸論争の結果蓄積していく諸科学的事実という諸暗箱は、過去の科学研究を介する人 々の集団的活動に依存したものだから、現在存在する暗箱は、過去の社会活動の集積で あり、その総体は自然の全実在から距たった社会的構築物だといえる。」 と述べ、(批判的な)ソーカル&ブリックモンは、
「いかなる科学の内容も徹頭徹尾社会学的なものである(ストロング・プログラム)」
という立場をラトゥールは取っていると指摘しています。
しかしサイエンス・イン・アクションでは、このような主張はあからさまにはなされて いないようです(すべて読んだわけではありませんが)。柴田氏によれば、ラトゥール の立場は「Laboratory Life 」の時とは必ずしも同じではないとのことで、どこに重点 を置くかによって、ラトゥールの評価はかなり変わるかもしれません。

サイエンス・イン・アクションを、科学史分析での一つの方法論(論争の構造は分析 するが、なぜそのような構造になりえたのかは分析しない)を提示しているだけだと見 れば、(牧野さんの指摘したもの足りなさは別として)、科学者が目くじらをたてる必 要はまったくないでしょう。しかしこれだけでは、論争の決着は専門家の合意によると いう当たり前の結論は導けても、「なぜ合意ができるように論争が進み得たのか」はわ かりません。((根本的には)理論と「現実」との間に何らかの対応が、論争が決着し うる理由であるというのが、私の考えです。)
 つまり、ラトゥールの分析法が科学の本質を示したものであり、科学知識の正当性も この観点から判定されるべきであるという主張をこの本が含意しているとすれば問題で ある、というのが、ラトゥールを批判する人々の論点だと思われます。

PS:8月26日朝日新聞朝刊の漫画(ののちゃん)によれば、(私のように)肥満に なるのは、実在論を信じなかった罰のようです。
PPS:外在的実在論を堂々と主張している哲学者はいないのでしょうか。


Id: #a19990830000331  (reply, thread)
Date: Mon Aug 30 00:03:31 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829220041
Name: まきの
Subject: Latour

がどう気に入らないかってのは大昔に書いたような、、、僕がまとめて書いたものはここにあります。4.2 節の後半ですね。

つまり、 Latour 風の見方ってのは、まあ科学がなにか知らない人が観察すればそう見えるであろうというのはそうかもしれないけど、なにか重要なものが欠落していると思っています。その欠落を別にすれば、そんなにクラクラするようなことが書いてあるとは思いません。それに対して Polkinghorne のは量子力学的不確定性が神の存在を証明するとかいう代物(これは訳者解説のほうなのですが)なので、、、

ちなみに、Polkinghorne による Pickering 批判については、別に後になって物理学者が見ればそう見えるってことには誰も反対しないだろうから、それが意味がある批判であると受け止められるかどうかはかなり怪しいと思いますね。つまり、まあ、僕は Polkinghorne のいうことがもっともだと思うけど、 Pickering はそう思わないんじゃないかと。


Id: #a19990829233850  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 23:38:50 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829161516
Name: 三須田
Subject: Re:相関主義
こんにちは。三須田です。

なるほど、relativisme cognitifを、ブタネコさんが「相関主義」と訳された
のですね。分かりました。どうもありがとうございました。

いずれ、Impostures intellectuellesおよび英訳のFashinable Nonsenseを
見てみたいと思います。

Id: #a19990829220041  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 22:00:41 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829175936
Name: くろき げん
Subject: Polkinghorne, Latour, Weinberg, Pickering

牧野さん、その通りです。 Pickering は歳を取ってから、物理学を止め、神学に転向しています。 (私なら、科学から宗教への転向するなど、とても考えられないですが。)

ところで、牧野さんは、 Polkinghorne による Pickering 批判に何か意見はないのでしょうか? もしも、 Polkinghorne による Pickering 批判が全く妥当なものであるとすれば、神学に転向し、牧野さんをクラクラさせるような人であっても、 Pickering の著書の信頼性を損なうことに成功してしまうことになりますね。

ところで、 なぜ牧野さんが Latour にはクラクラしないのか、ちょっと興味があります。 Latour のどのような点を牧野さんは高く評価しているのでしょうか? Sokal や Bricmont の Latour 批判には全く同意できませんか? 他にも科学畑で Latour を積極的に高く評価している人がいれば興味があります。 (「別に反感を持たなければいけないようなことを Latour は言ってない」というような消極的な評価にはあまり興味がない。)

P.S. Steven Weinberg による Pickering 批判の抜粋も作っておいたので興味のある方は読んで、 John Polkinghorne のそれと比べてみて下さい。どちらも、実験や理論に関するかなり具体的な論評を述べることによって、 Pickering を批判しています。


Id: #a19990829175936  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 17:59:36 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826140452
Name: まきの
Subject: Polkinghorne

って、この本 書いてるのと同じ人ですね?昨日本屋で立ち読みしてたら頭がクラクラし てきました。
Id: #a19990829161516  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 16:15:16 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829153639
Name: ブタネコ
Subject: relativisme cognitif ですね

僕は、relativiteの訳には、相対性、相関性、連関性のどれもありで、相対性だと物理とごちゃつくので、ブリクモンはrelativismeを丁寧にrelativisme cognitif っていってるけど、相対を相関にしたので、relationの方は相関もあるけど、単に関係というか。ちなみに統計の相関はcorrelationですね。
和製業界語をあまりしらないで、相対と相関を使って、混乱のもととなってたら申しわけないです。
P241として引用されているのは、sept regles de la methode pour le sociologue des sciences の3番目だそうです。お得意のla natureという単語をイタリックで書いたとこですが、Science en actionそのものはないので何章かはわかりません。
Id: #a19990829153639  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 15:36:39 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829143032
Name: くろき げん
Subject: 相関主義、 Science en action

ブタネコさんに質問。 Bricmont が批判した「相関主義」のもとの単語は何ですか? 「Science en actionのp241」は第何章のどの辺ですか? その周辺を引用してもらうと該当の箇所を見付けることができると思うのですが。

Impostures intellectuelles (October 1997) 出版前の Alan Sokal と Jean Bricmont の主張の概略は、 Sokal の「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」 (April 1997) と Bricmont の "Postmodernism and its problems with science" (LaTeX file, Fall 1997) を読めばわかります。 (後者は DVI filePS file も用意してあります。) もちろん、それらの中で Latour も扱われています。


Id: #a19990829143032  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 14:30:32 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829001215
Name: ブタネコ
Subject: 三須田さんへの返事になってない返事

僕は、マンハイムの良い読者でないのに、マンハイムにわりといいイメージをもってる。
ハンガリー人で、バルトークに似ている人生を生きたこと。
樺 俊雄が日本では紹介者で、この方は確か60年安保の国会正門の...
だから、マンハイムというと、反ファシズムって感じで、それはスポーツとか斬新な建築とかに、よきユートピアを対置させるあたりにも表れているのだろうけど、僕自身は、スポーツとか斬新な建築を拒絶するほどでもないけど。
一方、田崎さんの第5問のおばか本を書いた和製相関屋さんは、師範学校教育という日本ファシズムのまん中にいる人で、そういう連中はイヤネ。
ブリクモンの批判する相関主義は、Impostures intellectuelles の3章を見て下さい。そこのp89でLa Science en actionのp241に文句を言っているが、それはフランス語がめちゃくちゃだっていってるんで、それがちゃんとめちゃくちゃな日本語に訳せてるのか、どなたか対応部分をupして下さらないかしら。
Latour批判は5章全部。Impostures intellectuelles の米訳とかは黒木さんのホームページ等で調べられるでしょう。
Id: #a19990829091612  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 09:16:12 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990829032744
Name: くろき げん
Subject: ここだけが頼りというのは困るのだ

平井さん、一応ここはどのような話題でも可なのですが、自分自身の勉強のために「もうここだけが頼りだ」とされるのは困りますし、回答してもらうためのテクニックとして、「完全競争下の企業の利潤最大化条件ってなんでしょう」という一行だけの質問は非常にまずいと思います。

自分が欲しい答だけを期待しているがごとくの質問は、一般に嫌われていますし、そのような態度で理解できることなどほとんどありません。

そして、少なくとも私の経験では、質問の仕方がまずい人は、質問以前のレベルで初歩的な誤解をしていることが多いのです。だから、自分自身の誤解を指摘してもらい易いように、もしくは、基本的なレベルでの理解を疑われずにすむように、自分自身がどのように理解しているかを説明した上で質問を述べた方が、有益な回答が得られ易いと思います。

例えば、「私は○○するために(○○に興味があって)、○○という本を読んでいます。そこに○○と書いてあるのですが、これは何を言おうとしているのでしょうか? その本の別の場所には○○と書いてあり、他の本には○○と書いてあります。それらを私は○○と理解しているのですが、私が理解したい○○との関係がわからないのです」てな感じで質問してくれれば、回答するファイトがわいてくる人は結構多いと思います。


Id: #a19990829032744  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 03:27:44 1999
URL: jk6cio@mud.biglobe.ne.jp
Name: 平井
Subject: 基本的な質問で恐縮ですが・・。
完全競争下の企業の利潤最大化条件ってなんでしょう。
まだ経済学の勉強をはじめたばかりでもう一週間調べているんですけど
よくわかりません。もうここだけだ頼りです。

Id: #a19990829001215  (reply, thread)
Date: Sun Aug 29 00:12:15 1999
URL: misuda@mail.cc.tohoku.ac.jp
Name: 三須田 善暢
Subject: 相関主義について
はじめまして。三須田と申します。東北大で社会学を勉強している院生です。
(黒木さんには以前、Social Text事件について私どもの研究会で報告して
頂いたことがありました。その節はどうもありがとうございました。)

以前からこの掲示板はときどき拝見しており、大変刺激になっております。
とはいえ、勉強不足ゆえすべてを咀嚼できてはおりませんが…。実は前々から
お伺いしたいことがあり機会をうかがっていたのですが、また相対主義の議論
がはじまったので投稿させていただきます。

昨年の11月13日のブタネコさんの投稿(b19981113134155)で、「ブリク
モンの相関主義批判」ということが書かれてありました。この「相関主義」とい
うことについて興味を持ち、ブタネコさんが紹介されていた野家さんの論文や、
現代の物理学13の田崎さんの論文、および数理科学'97-4などをみてみたのです
が、「ブリクモンの相関主義批判」がどういうことなのか分かりませんでした。

私は現在、ドイツの知識社会学者カール・マンハイムの学説(主として『イデオ
ロギーとユートピア』1929年)を研究しております。おそらくブタネコさん
もご存知だと思いますが、マンハイムも「相関主義(Relationismus)」という
ことを持ち出して、「絶対主義」と「相対主義」を超えよう、と主張しておりま
す。もっとも、マンハイム自身は、当時の混迷した諸政治思想のなかでどの立場
を“真理”とみなすかという問題に眼目をおいており、科学哲学的な問題関心は
強くはもっておりませんでした。とはいえ、マンハイムの議論は、『現代科学論
の名著』(中公新書)で取り上げられているように、その後の相対主義的な科学
哲学へと発展していく素地を十分にはらんだものだったといえます。

私自身もいまだよくマンハイムの相関主義を理解し得ているとはいえないのです
が、あえて現時点での私の解釈をかきますと、マンハイムは、相対主義とは真偽
の絶対的基準を暗黙のうちに想定してしまっているがゆえに生じるもの、とみな
しています。マンハイムは、歴史的現実(たとえば、当時の保守主義やファシズ
ム、共産主義などの政治的なイデオロギー、およびそれらが把握した現実)を認
識しその真偽を判断していく場合は、真偽の絶対的基準をもってはだめで、まず、
歴史的現実を動態的かつ存在制約的なものととらえ、認識された部分的な諸現実
を動態的に総合するなかから諸認識の意味を見出さねばならない、としています
(これは、当時の歴史主義の立場にのっかっているといえるでしょう)。それは、
真偽の絶対的な基準は存在せず、真偽基準さえも動態的で暫定的なものである、
とする立場であり、認識の部分性を認めつつ、それを全体の中で位置づけようと
するものです。そこからマンハイムは、――ちょっと危険な表現ですが――あら
ゆる思想(とはいえ、自然科学の領域を含めることには躊躇しています)は存在
制約的に、つまり部分的に真である、という主張をおこないます(と私は考えま
す)。

もっとも、このままでは相対主義とそう大差はなく、神々の闘争状態は終息でき
ないでしょう。それゆえ、マンハイムは、それぞれの認識を個別に評価するとこ
ろまで踏み込んで、現在の“真理”基準を「新しく形成されていく存在」にもとめ
て、「評価的イデオロギー把握」ということをおこなおうと唱えております…
(ここらへんになると、マンハイムのいっていることはよく分からないのです
が。なお、『社会学年報』という雑誌の27号に以上のような私の解釈を載せて
おります)。

  *

お尋ねしたいのは、ブリクモンの批判する「相関主義」とは、誰が唱えているも
のでどういうものなのか、ということです。おそらく、マンハイムが唱えている
のとは異なるとおもうのですが。もし、そのことについてわかりやすくかかれた
文献等があったらご紹介していただけないでしょうか。よろしくお願いいたしま
す。

Id: #a19990828115725  (reply, thread)
Date: Sat Aug 28 11:57:25 1999
Name: 田崎晴明
Subject: 「科学が作られているとき」のどういうところが気に入らないか

川崎さん、はじめまして。 Latour についての解説をありがとうございます。

残念ながら、川崎さんの説明を読んでも、どうもしっくりこないところはあります。 どういうところが気になるかを、遠慮なく書かせていただこうと思います。 前にも書いたように「科学が作られているとき」を熟読した訳ではありませんので、 体系だった批判というわけではなく、 科学者が斜め読みしたときの感想と思ってください。


川崎さんの以前の書き込みでは、 Latour は単純な相対主義者ではないと指摘されています。 実際、川崎さんが引用されている部分の少し前(p.171)でも、Latour は、

・・・そして、テクノサイエンスの決着した部分を考察しているのか、 未決着の部分を考察しているのかに応じて、 二つの言説をもつことが必要になるだろう。 われわれは、後者の場合には相対主義者に、 前者の場合には実在論者になるだろう。・・・
という風に、二つの立場をとることを明言しています。

これって、随分ご都合主義じゃないかと読んではいけないのでしょうか? 単純に考えると、「相対主義者」、「実在論者」というのは「哲学的な」立場でしょう? たとえば、

倫理について考えるときは相対主義者に、車を運転するときは実在論者になる。
というような使い分けならば納得がいきますが、 なぜ、科学を扱う際に、こういう「哲学の使い分け」をするのでしょう? (これは、Alan Sokal と Jean Bricmont が Fashinable Nonsense の中で 表明している疑問でもあります。) (もちろん、「科学」と一口にいっても、色々な側面があるのは確かですが、 基本的な哲学を変更して対処する必要があるとは思えない。 というよりも、そういうやり方は実際問題として有害である可能性が高い。) あるいは、わざわざ「二つの言説」という言い方をしていることから考えると、 Latour は「哲学」なんて持ちたくなくて、単にどういうノリでしゃべるかということを言ってるのでしょうか? (だとすると、なんか、身も蓋もない気がするけれど。)

もう一つ、よくわからないのは、 Latour はこの「相対主義者」と「実在論者」をどういう基準で使い分けようとしているのかということです。 科学のテーマごとに「論争中」「決着済み」と表示が出ているわけではない。 (これは和田さんの質問とも関連しています。)


ついでに、現役の科学者の端くれとして Latour の本を斜め読みしていて、 どういうところがひっかかるかという例を挙げておきましょう。 たとえば、p67 から引用。

・・・ あなたが激しい論争に最終的な決着をつける決定的論文を書いたとしよう。 しかし、もし読者が無視したならば、それは事実になることができない。 端的に不可能なのである。 あなたは不公正だと抗議するだろうし、 心底から正しいという確信を抱いているだろう。 しかし、他の人々の助けなしには、 それは確実性の点であなたの心の中より先には進んでいかない。 事実構築は優れて集団的仮定であり、 孤立した個人は、夢や、主張や、感情を構築することはできるが、 事実を構築することはできない。 第3章で見るように、解決すべき主要な問題のひとつは、 読まれるのに十分なほどある者に対して関心を抱かせるということである。 この問題に比べれば、信じられるという問題は、いわば小さな仕事である。(太字は引用者による)
まず目に付くのは、Latour お得意の「事実」という言葉の使い方。 コペルニクスやガリレオらが地動説について述べたものの、 教会の力が突如強力になりすべての学問研究が閉鎖的になり、 地動説は認められないまま今日に至っていたとしたらどうか? 人々に無視されている以上、地動説は事実ではないというのだろうか?

論文を書いて、注目してもらわなくては困るというのは、確かに事実です。 でも、それはあくまで科学の営みの中のまさに「社会的」な側面にすぎないと我々は信じています。 (ぼくが思う本当の)科学者が究極的に目指しているのは、何らかの意味で「本当に正しい、本当によい科学」を生み出し、ないしは見いだし、それを、人類全体と分かち合うことです。 「注目を浴びることが主要な仕事で、信じられることは『小さな仕事』」というのは、 科学者を馬鹿にした表現に聞こえます。 (非常に好意的に読めば、「あなたの論文が真実を語っていれば、読者さえ獲得すれば、それが真理であることは万人が自動的に認めてくれるだろう。」といっているともとれるけれど、まさか Latour はそんなこと思っていないでしょう。)

いずれにせよ、科学畑に属さない人が上の文章を読むと、

なるほど、科学者が論争して、その結果一つの理論が選ばれるということは、 結局は、 クラスで論争して、学芸会の出し物を何にするかを決めるのと同じようなものなんだ。 一人一人が自分のやりたい出し物について夢や意見をもつことはできるけれど、 その意見にみんなに注目してもらって賛成してもらわなくては、 実際に出し物として採用されることはないもんな。
といった風に感じるのではないでしょうか? (実際、やっていることを「外から」みると似ている。 でも、学芸会の出し物は最終的に何になってもいいわけだけれど、 科学の論争は、その時点での証拠と論理に照らす限りもっとも真実に 近いところに決着しなくてはならない。 科学のそういう側面を、Latour は認めていないのか? 認めているのに、あえて書かないのか? だとすれば、それはなぜか??)

いくら「相対主義ではない」と本人がいっても、 こういう書き方からはいわゆる「相対主義」や「社会構築主義」のにおいを読みとらないわけにはいかないのですが。


Id: #a19990828113702  (reply, thread)
Date: Sat Aug 28 11:37:02 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990828015123
Name: kawasaki
Subject: Re:合理的再構成と歴史的再構成

 河本さん、はじめまして。コメントありがとうございました。

 基本的に河本さんが前半でおっしゃられていることに特に異論はありません。
 また、今ここでラカトシュ批判をしたいとも思っておりません。あれはあれでラカトシュの方法論的立場がどのようなものであるのかを、ラカトシュの言葉をもとに紹介したにすぎませんから。

 *

 で、批判するとかといった意図から離れて、60年代半ばから70年代前半にかけて、クーンのパラダイム論に触発されて生じた一連の論争を振り返ってみると、その意義のひとつは科学哲学の議論に本格的に「歴史」が導入されたことであったのであろうなあ、と思いました(逆に言えば、それ以前の議論のほとんどが、まさに科学を完全にできあがったものとして、いわばその静的状態に基づいて論じていたということになるのではないかと思うのですが)。
 で、ラカトシュに限らず、クーン御大はじめ諸々の論者が「歴史的事例」を挙げて自らの理論の擁護をはかっていたと見受けられるのですが、なかでもラカトシュは「歴史」を自らの理論の「実験室」化するのを最も徹底的にやった論者のように見受けられます(繰り返しますが、そのことの是非を今ここで論じるつもりはありません)。

 ですから、クーン、ラカトシュ、ファイヤアーベント等の激しい論争時の達成も、(それ以前に比べれば、科学の動的過程に視野が広がった(←おそらく、鴨さんはこの点をご指摘になりたかったのだと理解いたしました)とはいえ)関心の主眼は「科学が作られていく過程そのもの」にあったのではない、と私は理解しています。それは、自らの理論の正しさを判定するものとしてしてのみ重要であったように感じられる次第です。
 その証拠としては、その後かなり精緻に発展を遂げた科学史の分野では、一線級の仕事のなかに、クーンやラカトシュの理論をそのまま導入歴史解釈したものはほとんど見受けられません。

 で、科学論の分野におけるラトゥールの仕事の意義は、人類学的方法を導入することにより、問題関心の主眼を「科学が作られていく過程そのもの」にシフトさせたことにあるのだと思います。
Id: #a19990828111627  (reply, thread)
Date: Sat Aug 28 11:16:27 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827192426
Name: kawasaki
Subject: 訂正:ラトゥール→ラカトシュ

 すいません。書き間違いの訂正です。

 a0048.html#a19990827184115の記事の「ラトゥール」はもちろん「ラカトシュ」です。

 ごめんなさい。
Id: #a19990828015123  (reply, thread)
Date: Sat Aug 28 01:51:23 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827192426
Name: 河本孝之
Subject: 合理的再構成と歴史的再構成

kawasaki さんはじめまして。
 特に哲学の分野で合理的再構成が歴史的再構成と対比されて使われることはご存知だと思います。後者は、例えば過去(現在でもよい)の或る人物が抱いていた思想を当時の歴史的状況に照らして解釈する手法です。この人物が例えば自分の抱く思想に「経験的事実との合致」とか「合理性」といった基準を課していたとしても、それらの基準が私たちの理解している内容と同じであるとは限らないかもしれない。歴史的に正確な解釈を望む場合、そうするとわたくしたちはありていに言って「彼の置かれた状況と立場に立って」彼自身の思想を再構成する必要があるということになります。他方、合理的再構成はわたくしたちがいま理解している限りでの判断基準に照らして、その人物の思想を解釈します。この場合、その人物がどの国で生まれたとかどんな教育を受けたとかいった事情は無視されます。更に徹底すると、その人物が過去または同時代の思想家などからどんな影響を受けているかということまで無視することもあります。
 恐らく鴨さんのコメントの趣旨は、「合理的再構成が理論的に偏向している」という言明が実質的に何も批判できていない、というところにあると思われます。もし合理的再構成という手法そのものが競合する幾つかの提案から特定の理論だけに照らして遂行されているなら「合理的再構成がその理論に依存している」と述べることは有益です。しかし「合理的再構成という手法がそもそも何らかの理論に依存している」と述べることは無益です。
 それから、はまださんがおっしゃっている「相対主義的科学観」は、もちろん世のあらゆる科学哲学を指しておられるわけではありません。ただ、相対主義を正確に述べるのがきわめて難しいということは明らかですし、「それを科学について理解するための見地としてどのように適応すればよいか」を述べることも困難だと思います(またそれを擁護することはいっそう困難だと思いますが)。  以上、思いつくところを書きました。
Id: #a19990827192426  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 19:24:26 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827184115
Name: kawasaki
Subject: Re: できあがった科学

 鴨さん、再び、コメントありがとうございました。

 また誤解を招いたようですが……。

 「合理的再構成」が「歴史そのもの」というよりも「理論的『偏向』」を含んだものである…

というのはラトゥール自身の主張をパラフレーズしたものです。

 先の発言で触れた、邦訳書から、彼の主張を引用します(p.176)。

[引用開始]
 歴史家の多くは「どのようなものであれ」(邦文傍点)合理的再構成という考えを好まない。彼らは、ボリングブロック卿の「歴史とは実例をもって教える哲学である」という言葉を引用するであろう。(中略)しかし、そうした歴史記述についての帰納主義的理論は空想的である。

 何らかの理論的「偏向」なしに歴史は不可能である。(邦文、全文傍点)

[引用終了]

ということで、先の発言でも触れたように、それが「理論的『偏向』」を含んでいるというのは、まさにラトゥール自身による、積極的な主張なわけです。

 ですから、これが鴨さんの耳に「いちゃもん」に聞こえたのだとしたら、それはラトゥールに言っていただけると幸いです。
Id: #a19990827190654  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 19:06:54 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827174848
Name: kawasaki
Subject: RE:ラトゥールの思想とは?

 和田さん、はじめまして。コメント頂戴できて光栄です。

 さて、私の表現がまずくて誤解を与えてしまったようで申し訳ありません。もちろん、科学論の分野で「相対主義とは何か」、といったようなことは色々な立場から論じられていますし、「○×の相対主義」といったような表現も比較的頻繁に目にします。
 ただ、先の発言で、言いたかったことは、最初のはまださんのご質問にあった、

>ちゃんとした「相対主義的科学観」を知るのは何を読めば書いてありますか?

で、暗黙のうちに期待されている(と私は解釈した)教科書的な、あるいは標準的というか一枚岩的な「科学観」といったものは存在しないのではないか、ということです。
 実際、いわゆる科学論者の間でも科学観は大きく異なるのが普通です。
(卑近な話、よく誤解されますが、私も私なりに科学観を抱いておりますが、それはLatourがScience in Actionで表明している科学観とはかなり異なります(笑)。私は、Latourなんかよりもずっと科学に対して好意的なつもりです。くだらないオカルトにこっている学生さんとか見かけると(最近結構多い……)、そんなものにこっている暇があるのなら、科学書でも読んでいた方が百万倍有意義だぞ、っていつも心底から思っています。って言うか、ついでに仲間内で公言しています。おかげで、どちらかというと反科学的傾向が強い科学論者から「裏切り者」扱いされて困っています(笑)。当たり前ですが、科学論者=反科学論者でなければならない理由は何もないんですが……)。

 *

 閑話休題。

 Latourに関して言えば、(彼の表現や用語法に分かりづらい点が多々あるのは事実で、私もそれでずいぶんと苦しみましたが(笑))、難しく捉えすぎておられるのではないかと感じました。
 あそこで、Latourが主張しているのは、自明なことにすぎないと思います。
 論争が決着した結果明らかになることを、論争を決着させるのに用いることはできない。
 ただ、それだけです。

 あと、彼を「社会構成主義者」と呼ぶのは完全に過ちとは言い切れないかもしれませんが、かなり誤解を招きやすいと思います。
 というのも、「社会構成主義」と言った場合、まず「社会」があって、それが「科学」を「構成(構築)」する、といったイメージを抱きやすいのですが、彼は、「自然」を前提としていないのと同様に、「社会」も前提としていません。
 むしろ、彼の見解に則って言えば、テクノサイエンスの現場での活動の結果、「社会」は作られる、ということになると思います。
 つまり、Latourの図式では、「自然」が先か、「社会」が先か、といった(従来、往々にして見られた)二者択一的な問題構成を完全に廃棄し、まずなによりも「現場での活動ありき」(すべてはその結果)、ということになっていると思います。
Id: #a19990827184115  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 18:41:15 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827175241
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: できあがった科学

ラトゥールの批判の主要な対象に、クーン、ラカトシュ、ファイヤアーベントあたりは含まれないであろうことは納得しました。ありがとうございます。

ラカトシュの方法論が後知恵であり、「できあがった科学」の存在を前提としていることは、その通りなんでしょう。しかし、それは、ラカトシュの方法論が「できあがった科学」を分析の対象にしていることを意味しません。

それと、「合理的再構成」というのは、まず、単純化したモデルを構成して第零次近似をする手法だと理解しています。自然科学ではごく普通の手法です。だから、

「合理的再構成」が「歴史そのもの」というよりも「理論的『偏向』」を含んだものである…
といわれても、
「理想気体」が「気体そのもの」というよりも「理論的『偏向』」を含んだものである…
と同水準のいちゃもんにしか聞こえないんですけど。
Id: #a19990827175241  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 17:52:41 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827160433
Name: kawasaki
Subject: RE:できあがった科学

 鴨さん、はじめまして。コメント頂戴できて幸いです。

 さて、お尋ねのラカトシュですが、彼の科学論(科学哲学)上の主著であり最も影響力が強かったのはThe Methodology of Scientific Reserch Programmes(邦訳『方法の擁護』)で、特にその第1章「反証と科学的研究プログラムの方法論」と第2章「科学史とその合理的再構成」であると言っていいと思うのですが、彼の科学観、およびそこから導かれる方法論の核をなしているのは「合理的再構成」になると思います。
 実際、彼は自分自身の「合理的再構成」が「歴史そのもの」というよりも「理論的『偏向』」を含んだものであることを自ら率直に認めた上で、それでも「再構成」にこだわっている次第です。

 そうである以上、ラカトシュの方法論は、自ずから「後知恵」(必然的に、暗黙のうちに「できあがった科学」を前提とすることになる)となると思うのですが、いかがでしょうか?

 なお、先の書き込みで「もっぱら「できあがった科学」をネタに科学を論じていた」と記した際に、主に念頭に置いていたのは、Latourが登場した頃(Woolgerとの共著のLaboratory Lifeは初版が1979年ですが、彼の影響力が増大するのは80年代半ば以降、とりわけ、Science in Actionが刊行された1987年以降)の科学論の状況のことで、クーン、ラカトシュ、ファイヤアーベント等が激しい論争を繰り広げていた60年代半ばから70年代前半の状況は自らリアルタイムでフォローしていなかったこともあり、無意識のうちに「歴史的過去」のように感じておりました。
 鴨さんの発言を読んだ後、再考してみたのですが、ありとあらゆる科学論ないし科学哲学を含めるのなら、「もっぱら」という表現は強すぎるかもしれないと感じた次第です。
 ご教示ありがとうございました。
Id: #a19990827174848  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 17:48:48 1999
Name: 和田 純夫
Subject: ラトゥールの思想とは?

また相対主義科学観のことが話題になっているようなので、質問がてら、口を出させて いただきます。

「相対主義」という言葉について、川崎さんは「科学論ウォッチャー」のレッテルでは ないかと言われていますが、たとえば野家氏自身がパラダイム・シフト論のことを、「 真理の相対主義」と呼んでいます。
パトナムは自分の内在主義を、「安易な相対主義ではない」と呼んでいますが、「安易 ではない相対主義」ということなのでしょうか。(ところで、彼はなぜ、外在主義を放 棄して内在主義に転向したのでしょうか。私が彼の本を拾読みした所では、今の所、自 分が量子論の実在論的解釈に失敗したこと、およびマックスウェル理論についての彼の 解釈(私は疑問に感じますが)、という理由しか見つかっていません。指示論について 何か言っていますが、科学論と関係があると主張しているのか、わかりませんでした。 )

サイエンス・イン・アクションの川崎さんの引用した部分ですが、私もあの部分に関心 をもち、何が彼の真意なのか、疑問に思っていました。専門家の間で決着がついた理論 について、「彼(ラトゥール)自身が自然そのものの正確な描写とみなす」のか、それ とも、「(世間で)自然の正確な描写とみなされているので、口を出すことに意味はな い(たとえばコストが高過ぎるのという理由で)」と言いたいのでしょうか。引用部分 の前ページを見ると、「論争は<背後にある現実>によって決着した」という見方はホ イッグ史観であり排斥すべきと主張されているのも、気になります。
私としては、科学のさまざまなレベルを区別して議論しているように見えないのが(た とえば基礎的部分と応用的部分)、彼の主張に(一部かもしれませんが)違和感を感じ る科学者がいる一つの理由だと感じます。

ところで、柴谷篤弘氏の最近の「科学」での、(好意的立場からの)書評によると、ラ トゥールの思想とは、

1、「自然」が表出されるのは、論争が決着した後であって、・・・それ以前から、ひ とつの「自然」があらわに存在していたのではない。

2、諸論争の結果蓄積していく諸科学的事実という諸暗箱は、過去の科学研究を介する 人々の集団的活動に依存したものだから、現在存在する暗箱は、過去の社会活動の集積 であり、その総体は自然の全実在から距たった社会的構築物だといえる。

とされています。これはラトゥールの立場を公正に描写したものでしょうか。詳しい方 (川崎さんのような)の意見が聞けると有り難いのですが。もしこれが正しい見方だと すると、エジンバラ学派(社会構成主義者)とラトゥールは、同じ立場だと考えていい のでしょうか。

P.S.田崎さんの第5問も話題になっていますが、私には、「好意的」に読み取れば 、あの発言は典型的な「相対主義的科学論」の立場であると言っていいと考えます。つ まり、水蒸気という「実在」を持ち出すのは、現時点で自然界を説明する最も便利な考 え方ではあるが、だからといってそれが真の実在を表していることを意味はしないとい う趣旨の発言だという解釈です。このように解釈すると、「これこれの実験観察をすれ ばあのような発想はばかげていることがわかる」という議論では、単に考え方の便利さ を強調しているだけで、問題の発言を否定することはできなくなります。むしろ、近代 自然科学の全体の構造、あるいはその形成過程(たとえば共役不可能な転換があったか なかったか、といった問題)から議論を組み立てる必要があるというのが、私のこれま での主張です。
(もっとも、認識論としての相対主義的科学観を信じるか否かということと、それを実 際の理科教育に生の形で持ち出すということとは、別に論じなければならないことでし ょうが。)


Id: #a19990827171723  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 17:17:23 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827165624
Name: 鴨 浩靖
Subject: 数学的発見の論理

ごめんなさい、書き間違いです。『数学的発見の論理』です。佐々木力訳で共立出版から訳本が出ていますよね。
Id: #a19990827165624  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 16:56:24 1999
Name: ブタネコ
Subject: 数学?(チャチャみたいでごめんなさい)

ラカトシュのはProofs and refutations : the logic of mathematical discoveryだから、まあ一応科学というよりか数学だけど、そんなことはどうでもよくて、多面体の仮想授業に出てくる高校生がメチャ頭いいというか、高等な学校の数学の授業はこうあってほしい。
"The logic of scientific discovery"はポパーの有名本ですが、まあそんなことはどうでもよくて、ラカトシュのほうで、鴨さんの問題提起への答えを聴きたいな。
Id: #a19990827160433  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 16:04:33 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827133217
Name: 鴨 浩靖
Subject: できあがった科学

従来の科学哲学が「もっぱら「できあがった科学」をネタに科学を論じていた」とすると、ラカトシュの『科学的発見の論理』は何?
Id: #a19990827133217  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 13:32:17 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827031948
Name: kawasaki
Subject: 「相対主義的科学観」?

 はまださん、あまりお役に立てなくて申し訳ありません。

 私も、Pickeringの翻訳が出たらいいなあ、と思います。
 ただ、まあ、自分でこれ以上やりたいとは全然思いませんが……(苦笑)。

 あと、「相対主義的科学観」ないし「退行した科学観」なんですが、これは科学論者の側が自分たちは相対主義的科学観である、と主張し、実際にそうした確固としたものがあるというよりも、むしろ、科学論ウオッチャー(?)の方々が付けられたラベルといった方が正確のように感じています。

 そもそも、科学論者たちがそんなに一枚岩で「標準的見解」が確立しているとはとても思われません。あえて言えば、科学論は「前パラダイム的水準」(笑)なんだと思います。

 あと、たとえば、「相対主義的科学観」の親玉であるかのようにやり玉に挙がったかのLatourですが、繰り返しSokalに批判される「方法の第三規則」のすぐ後のところに、次のように述べられています。

[引用開始]
 けれども、テクノサイエンスの冷たい部分について語るときには、科学者自身が確固たる相対主義者から徹底した実在論者に転化したように、われわれは方法を変えるべきであろう。いまや自然は自然そのものの正確な描写の原因と見なされる。われわれは、この部分に関して科学者以上に相対主義者であることはできないし、誰も否定しない証拠を否定し続けることもできない。なぜ? なぜなら、論争に要するコストは、平均的市民にとって、仮に彼ないし彼女が科学史家や科学社会学者であったとしても、あまりにも高すぎるからである。事実の地位に関して科学者たちの間に論争が存在しないのであれば、解釈、代表者、偏ったないし歪んだ世界観、弱いないしもろい世界像、不正直なスポークスメンについて語り続けても役に立たない。自然は直截的に事実は事実であると語る。それですべてである。付け足すことは何もないし、差し引くことも何もない。
 この科学の相対主義者の解釈と実在論者の解釈の間の区分は、科学を分析しようする者がバランスを崩す原因となってきた。彼らは科学の決着した部分に関しても相対主義者であり続けようとしたり−−それは彼らを愚かに見せた−−、さもなければ、温かい不確実な部分に関しても実在論者であり続けようとして−−これは自分自身を馬鹿にすることとなった。右で述べた方法の第三規則は、よいバランスを提供してくれるので、われわれの研究においても助けとなる。われわれは、科学の受け入れられた部分の土台を掘り崩そうとしたりしない。われわれは、われわれがともに旅する人々[注.科学者のこと]と同じくらい、また、ヤヌスの左側と同じくらい実在論者である。しかし、論争が始まるやいなや、われわれの情報提供者[注.やはり科学者のこと]と同じくらい相対主義者となる。けれども、われわれは受動的に彼らの後を追うだけではない。なぜなら、われわれの方法により、われわれは、事実の構築も人工物の構築も、冷たい部分も温かい部分も、脱様相化された言明も様相化された言明も、詳細に記録することができるし、特に、ヤヌスの一方の顔[作製段階の科学のこと]から他方の顔[できあがった科学のこと]への突然の移行を正確に跡づけることができるからである。この方法は、われわれに対して、いわば事実構築のステレオ演奏を、先駆者のモノラルの代わりに提供してくれるのだ。
[引用終了]
(翻訳版、p.173)

 これだけとってもみても、簡単にLatourを「相対主義者」とは言えないことは明らかだと思います。

 長くなってしまったので、ついでに(笑)。

 こなみさんが書かれていた(#a19990826111104)ように、Latourの言っていることは現場の科学者の方々にとっては「とても自明な主張」に過ぎないと思います。

 また、田崎さんが書かれた(#a19990826112755 )ように、同書は「「科学」を見ないで「科学者のやっていること」 を外から見たときに見えることを偉そうに書いた物」ってのもその通りだろうと、思います。
 ま、「偉そう」ってのはLatourの「芸風」で、訳していて私自身ずいぶんと強い違和感を感じましたが(笑)、Latourがやろうとしたのは、まさに「「[できあがった or 既成の]科学」を見ないで「科学者のやっていること[science in action]」 を外から見たときに見えること」を書こうとしているのことなので、そういう印象を持たれるのは、まさに正確な読み方なのだと思う次第です。

 この点で、示唆に富んでいるのは、まきのさんの「現場の科学者であるつもりの私の感覚では、「作ること」が科学であって 「作られたもの」はもうなにか違うものなわけです」(#a19990826215827)というご感想でした。

 ここら辺、やっぱ、直接現場におられる方の感覚は違うなあ、とか、それに比較すると科学論は遅れているなあ、などと思うのですが(笑)、私の理解したところでは、Latourが過激な表現をしばしば用いながら戦闘的に議論している際の真の主要敵は旧来の科学論ないし科学哲学(Latourは別の箇所で「安楽椅子科学哲学」という表現を用いております)なのだと思います。
 そこでは、科学を論じる際に、もっぱら「できあがった科学」をネタに科学を論じていたわけで、それに対し、Latourはいわばアンチテーゼとして「作られている最中の科学」もあるのだ、という主張をぶつけたのだと理解しています。
 ですから、まきのさんがおっしゃられるように、「作ること」こそが科学だ、という理解があるのならば、それはすばらしいと思いますし、科学論も早くその水準に追いつかなくてはならないと思う次第です。
Id: #a19990827111515  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 11:15:15 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990827031948
Name: まきの
Subject: そうなんだ

はまださんにとっては、なにかと比較できないものは研究できないんですね。

そういう考え方もあるんだ。


Id: #a19990827031948  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 03:19:48 1999
Name: はまだとらひこ
Subject: 困ったなあ
ありがとうございます。川崎さん。Pickeringは出ませんかね。
読んだこと無いですがPickeringの方が面白そうだと見当をつけてます(今のポーキングホーンの話題と関係無い)

川崎さんに「よくわかりません」と言われると困りましたねえ>まきのさん
(比較のしようがないから「退行した科学観」の研究なんてできない)

Id: #a19990827022307  (reply, thread)
Date: Fri Aug 27 02:23:07 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826140452
Name: 千代
Subject: 見たいものしか見えない?

くろきさん、引用どうもありがとうございます。

ポルキングホーンの中性カレントの話については、たしかに当時の都合のよい理論にあわせようとする心理的圧力はあったにせよ、結局実験技術の問題に帰着するように思えます。例に挙げられた実験は後知恵で考えても当時の技術では難しい。
実際のところ、高エネルギーの場合、理論にぴったりの結果を意識的に出すのは無理です。手前みそですがこのあいだ私たちの発見した直接的CPの破れの場合、素粒子標準理論からの予想値と大きく食い違っていたので、パラメータを変更した理論計算が何カ所かで再度進行中で、これに関する標準理論枠外の新理論も続々出ています。トップクォークやヒッグスが見つかりにくい理由も、単に技術的にできなかったということだけで、物理学者がデータを作り出したわけではないです。調べる動機があって調べうる技術があれば実験結果が理論に左右されることは、少なくとも高エネルギーではまずありえない。

逆に言うと、実験予算は常に限られているので、人気のある理論周辺の探求・検証はよくおこなわれていますが、それ以外の部分は安価におこなえる実験が中心になります。実験結果がない限り理論の検証ができないのですから、そういう意味ではいくらかの偏向があるとは言えます。最近は衝突型加速器を使った多機能・他用途検出器による計測が主なので、そういう見過ごしは減っていると思いますが、理論に変更を促すデータは記録されていたが解析する動機がなかったので解析されていないということもありえます。この手の、技術的に可能であったが理論的な動機がなくてうまく金鉱を掘り当てられなかったというタイプの偏向はポルキングホーンの出した偏向の例よりは深刻でしょう。もちろん現在の標準理論の枠組みでなんでも説明できてしまうので、それが大きな影響を与えることはありません。いまでもニュートリノの質量はゼロで計算してますし、統一を考えなくていい低エネルギーの弱い相互作用は1950年代のフェルミ理論で計算している。

まきのさん、ご指摘ありがとうございます。やはりちゃんと読んでないのが露呈してしまいました。
Science in actionは高いですね。Amazon.comなら$18.95なのでそっちで買おうかな。

Id: #a19990826215827  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 21:58:27 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826111104
Name: まきの

こなみさん、

整理して下さってありがとうございます。こなみさんの図式は

1  相対論     ←  ラトゥール
2  水滴しみだし説 ←  田崎
3  (水滴しみだし説⊂相対主義科学観) ← 田崎 
ですが、実は上の 1と3を、それぞれ
1'  (相対論←ラトゥール) ← Sokal
3'  (相対主義科学観←水滴しみだし説) ← 田崎 
というようなつもりで考えていました。ここで「←」はかならずしも批判では なく、単に「A←B」が「B が A に対してなにかいっている」というのです。 で、この構図で田崎さんが相対主義的科学論を批判するのは Sokal が相対論 を批判するようなもので、変では?っていう。うーん、なんか分かりにくかっ たみたいですね。

ほんとうは田崎さんにもお返事しないといけないのですが、ちょっとゆっくり かかないといけないので、、、あ、川崎さん、どうもです。おっしゃることは わかるのですが、「作られているとき」とすると、やはり「科学」というのはそこ で作られたもののことをさしているという感じになりますよね?で、まあ、一 応現場の科学者であるつもりの私の感覚では、「作ること」が科学であって 「作られたもの」はもうなにか違うものなわけです。なんかそのへんが Science in Action だといいんですが、「科学が作られているとき」とすると 微妙にずれるような気がしたものですから。もちろん、対象とする読者層によっ てはこれでいいのだと思います。


Id: #a19990826154318  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 15:43:18 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826142910
Name: kawasaki
Subject: FullerのScience

浜田さん、はじめまして。先ほど初登場しました川崎です。

>便乗質問です。
>FullerのScienceの訳はいつ頃出ますかね?

 各訳者の分担稿はかなり以前に仕上がっていますし、調整&修正作業も先が
見えていますのでそう遠くない将来に出ると思うのですが……。

 ただ考えてみるとLatourのときも、この段階に到達してから実際の刊行まで
かなり時間がかかったので(笑)、よく分かりません……。

 *

>ちゃんとした「相対主義的科学観」を知るのは何を読めば書いてありますか?
>(英語でかまいません。うまく整理してあるものを教えてください。
> Latourの古典(事例研究)は厭です。)

 前者はよく分かりませんが、Latourの「古典」ではなく、最新刊(『パンド
ラの希望』)の翻訳なら、「早ければ」(笑)来年に出ます。
 ま、これも事例研究がかなり含まれていますが……。
Id: #a19990826142910  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 14:29:10 1999
Name: 浜田寅彦
Subject: FullerのScienceの訳はいつ頃出ますか?
便乗質問です。
FullerのScienceの訳はいつ頃出ますかね?
それから、
ちゃんとした「相対主義的科学観」を知るのは何を読めば書いてありますか?
(英語でかまいません。うまく整理してあるものを教えてください。
 Latourの古典(事例研究)は厭です。)

Id: #a19990826140452  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 14:04:52 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826124115
Name: くろき げん
Subject: Polkinghorne は Pickering をどのように批判しているか

(特に千代さんのために) Polkinghorne が Pickering の Construncting Quarks をどのように批判しているかを抜粋しておきました。実験の評価に関して、具体例を挙げて、 Pickering を批判しています。


Id: #a19990826132528  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 13:25:28 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990825191339
Name: kawasaki
Subject: 「作られているとき」
はじめまして

> ブルーノ・ラトゥール『科学が作られているとき−−人類学的考察』
> (川崎 勝・高田 紀代志訳、産業図書)
>
>となっているようです。「作られているとき」ってのはなんか違うような気も>しますね。

の訳者に名前が挙がっています川崎です。

 この掲示板は時々大変楽しく拝見させていただいていますが、拙訳書のタイ
トルが問題になっておりましたので初登場させていただきます(まきのさん、
取り上げていただきありがとうございました)。

 えーっと、「science in action」(特に「in action」の部分)をどのよう
に日本語に置き換えるかというのは頭を悩ませた点でしたが、これが本文中で
しばしば「in making」と等価で言い換えられている点に着目して、「作られて
いるとき」といたしました。

 実際、序章でかなりの紙幅を割いて、「できあがった科学」ないし「既成の
科学」と「作製段階の科学」ないしは「現在進行形の科学」(すなわち
「science in action」)の差異(そして、両者が頻繁に混同されているために
生じている混乱)について詳述し、同書ではとりわけ後者について論じること
があらかじめ述べられているので、『科学が作られているとき』でのそんなに
大きくはずしてはいないのではないかなあ、と思っております(笑)。

Id: #a19990826124115  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 12:41:15 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826040044
Name: くろき げん
Subject: Re: 高エネルギー(素粒子)実験物理学者を研究

千代さん曰く、「高エネルギー(素粒子)実験物理学者を研究した方が雑音のない考察がおこなえると思うんだけどなあ」

千代さん、 Brunol Latour ではないですが、 Andrew Pickering, Constructing Quarks: A Sociological History of Particle Physics, Chicago: University of Chicago Press, 1984 という本があります。理論物理学者によるこの本に対するクレームは、ジョン・ポルキングホーン著『紙と鉛筆と加速器と』 (原題 'Rochester Roundabout') の最終章、ステーヴン・ワインバーグ著『究極理論への夢』の「哲学に反対して」の章などで読めます。 (実験物理学者の感想は見たことがない。)

高エネルギー物理に関係した理論的(もしくは数学的)な共同研究を観察の対象にしたものには、 Martina Merz and Karin Knorr Cetina, Deconstruction in a 'thinking' science: Theoretical physicists at work, Social Studies of Science 27 (1997) 73-111 という論文が存在するようです(以前ここで紹介した)。これもまた Social Studies of Science に出版されているのですが、少なくともその preprint はとてつもなくひどい内容です。最初から最後までナンセンスの連続であるだけではなく(Alan Sokal のパロディー論文と比べても遜色ないほどのひどい)、協力してくれた理論物理学者達を馬鹿にしまくっています。


Id: #a19990826112755  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 11:27:55 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990824210037
Name: 田崎
Subject: 刹那的反応

まきのさん、

とりあえずの返答をします。

Latour が特殊相対性理論についてかなり馬鹿に見えることを書いたのは、 Social Studeis of Science という雑誌です。 (拙訳の「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからな いこと」を参照。) だから、彼の書いた物が本当に馬鹿だったとしたら、 批判されるべきは、Latour 自身と、それを容認した Social Studeis of Science 誌と そういうものを認めて批判しないその学問分野(科学社会学ですか?) だと思います。 私の引用した文章は、理科教育学会が 「新時代の理科教育を展望するキーワード集」 「関係者必読の書!」(帯より) となうって出版している本から取ったわけですから、 直接に批判すべきは、理科教育学会であり、 また「理科教育学において流布している『相対主義的科学観』」ということになるのでしょう。 「プロパーの『相対主義的科学観』」をやっている人がどこまで責任を感じるべきかというのは、 デリケートな問題です。 また、「プロパーの『相対主義的科学観』」が深い意味のあるものかというのも、 また別の問題ですね。 (Latour の Science in action は訳本を斜めに眺めました。 僕自身は、この本は、「科学」を見ないで「科学者のやっていること」 を外から見たときに見えることを偉そうに書いた物だという印象を持ちました。)


Id: #a19990826111104  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 11:11:04 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990825191339
Name: こなみ
Subject: なるほど

私がみた構図と、まきのさんのおっしゃる構図が異なっていたのですね。 同じ構図をみているのであれば自明なことでも、 対象としている構図が異なれば、理解不可能になるのは当然でした。 (ここで構図というのは、言説やそれを発する人の間の関係のことです)
ちといいかげんですが整理してみます。次の左辺が批判されている言説、右辺が批判者です。

1  相対論     ←  ラトゥール
2  水滴しみだし説 ←  田崎
3  (水滴しみだし説⊂相対主義科学観) ← 田崎 

1、2の構図は、批判される言説の当否と批判の当否がちがう。 一方は正当な理論を間違って批判している。他方はまちがった理論を 正しく批判している。これをみて、私は「はずしてませんか?」と書いた。
 しかるにまきのさんは、 1、3というふうに見て、田崎さんが相対主義的科学論を曲解して批判していることは、 ラトゥールが相対論を曲解して批判している(らしい)ことと同等ではないか、という わけですね。了解しました。

ところで、相対主義的科学論というのは、とても自明な主張であるか、 もしくは田崎さん紹介のものに近いどうしようもないものであるか、どうも 私にはその両方の極端なケースしか見えません。自明でなく、つまりそれを 発展させることで独自の有益な帰結が得られるような、よい相対主義科学論とは どんなものなんでしょうか。千代さんのラトゥール読みの感想に期待しています。 (「科学が作られるとき」はこの間紀伊国屋で見たけど、高くて厚くて 尻込みしてしまいました)


Id: #a19990826111130  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 11:11:30 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990826040044
Name: まきの
Subject: 生物学の研究室での(研究者の)観察結果をまとめたもの

というのは、きっと Laboratory Life のことですね。

あら、上のページは著者名が間違ってます。<TITLE> のところはあってるのに。


Id: #a19990826040044  (reply, thread)
Date: Thu Aug 26 04:00:44 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990825191339
Name: 千代
Subject: 読んでみます。

> ブルーノ・ラトゥール『科学が作られているとき−−人類学的考察』

生物学の研究室での(研究者の)観察結果をまとめたものと聞いたことがあります。
あらすじは聞いた(見た)ことがあるんですが、ちゃんと読んだことはないので、
是非読んでみようと思います。

でも分野的にいろいろ複雑な生物学者よりも、(典型的で単純な自然科学である)
高エネルギー(素粒子)実験物理学者を研究した方が雑音のない考察がおこなえる
と思うんだけどなあ。

Id: #a19990825191339  (reply, thread)
Date: Wed Aug 25 19:13:39 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990825104511
Name: まきの
Subject: うーん、どうなんでしょう?

こなみさんが、「全く違っている」と思われる理由が書かれてないので、良く分からないです。

例えば Socal が Latour の相対論についてのどうしようもないとされている文章(すみませんが、私は Latour の問題の文章を読んでないので)を批判するという構図と、田崎さんが問題のどうしようもない文章を批判するという構図を比べた時に、 Latour については彼の相対論についての理解が論外なものである(らしい)ことが問題なわけで、それはそれでいいですよね?だれかが相対論について馬鹿なことを書いたからといって相対論が批判される筋合いはない。

とすれば、田崎さんの批判している文章についても、そこで開陳されている科学観というものがどうみても論外なものであり、また「相対主義的科学観」であるとはいい難いものですから、まあ、その文章を批判するのはよいとして、その文章を例に相対主義的科学観を批判するというのは変ではないかなあということがいいたかったわけです。

大体、相対主義的科学観な人なら「観測事実」とか「事実を根拠に論理的に推論」とか書かないだろうし、「五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気」なんてことも書かないと思います。こういう退行した科学観がどのようにして成立したかというのは重要な問題で、科学論とか STS とかを研究しているひとにはそういう問題こそ扱って欲しいと思いますが。

というわけで千代さん:

せっかく翻訳もでましたから、 Latour の Science in Action あたりはどうでしょうか?彼の相対論や量子力学についての理解がちゃんとしているかどうかは知りませんが、 Science in Action ではそういうのは扱ってないし。翻訳は

 ブルーノ・ラトゥール『科学が作られているとき−−人類学的考察』
 (川崎 勝・高田 紀代志訳、産業図書)
となっているようです。「作られているとき」ってのはなんか違うような気もしますね。
Id: #a19990825132451  (reply, thread)
Date: Wed Aug 25 13:24:51 1999
Name: つきおか

はじめまして。数学(代数幾何学)を勉強している学生です。
黒木先生のホームページをみてソーカル事件に興味を持ちました。
ぼくも、ラカンやフーコーなどの解説書を読んだことがあります。
たとえばラカンがトポロジーを用いて精神の仕組を表現するくだり
などを読むと、一瞬は面白いなー、となんとなく納得してしまう
のですが、そもそもこの部分は数学を使わなければ解明できない
事柄なのだろうか? トポロジーを用いるのは単なる衒学趣味に
すぎないのではないか? と、ふとわれにかえります。でも、たぶん
文系のひとにこんな疑念をぶつけると「ここで数学を使うのは
メタフォアなんだよ」 とかなんとかいわれるんだろうなーと、
一人相撲をとっていました。でもソーカル事件のことを知って
僕のこの気持はわりと一般性を帯びたものであることが分かって
なんとなく安心しました。

話は変わりますが、レヴィ=ストロースがA.ヴェイユの助けを
借りて親族の構造を分析した話がありますよね?
息子置換、娘置換という置換を定義すると、なぜ交叉いとこ
婚が禁止されるのかがよくわかります。たしかにここまでは
数学的な考え(置換)が役に立っています。ところが、親族
体系が「群構造」を持つという話に進むと、これは衒学趣味なのではないか
という気がしてきます。たとえば、カリエラ型という親族体系の
息子置換、娘置換はクライン群を生成します。たしかにこれは事実です。
しかしながら、この事実は何を物語っているのでしょうか?
「はじめての構造主義」(講談社現代新書)はこの点に触れて、
「ヨーロッパが2000年かけて到達したクライン群は
すでに未開社会に存在していたのである」
という趣旨の言葉でしめくくって相対主義を補強しています。
しかし僕はこれは短絡的だと思います。実際は
「ヨーロッパの知性が「群構造という視点」で未開社会の親族
構造を眺めた」
というだけのことだとおもいます。

しかしながら、僕はレヴィ=ストロースの「親族の構造」を
直接、読んだわけではありません。「親族体系が
群構造を持つ」という言説は単なる衒学趣味なんでしょうか?
それとももっと複雑な親族構造になると群のさまざまな性質を
もちいないと解明できないようなことがあるのでしょうか?
だれか教えて下さい。(長い文章になってごめんなさい。)
Id: #a19990825104511  (reply, thread)
Date: Wed Aug 25 10:45:11 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990825050518
Name: こなみ
Subject: ちとはずしてませんか?

えーとまきのさん。
例えば、一般相対論について B. Latour が馬鹿なことを書いたとして(私はちゃんと読んでないのでまあ仮定の話ということで、、、) それを書いた Latour が悪いんじゃなくて一般相対論が悪いというようなものでしょ。
というふうに描かれた構図と、「水滴がコップから沁み出したという(誤った)理論も、 観察事実に基づいた多様な解釈のひとつとして認められるべきである」というどうしようもない趣旨の文章を 田崎さんが批判するという構図、両者はまったく違っていると思います。
Id: #a19990825050518  (reply, thread)
Date: Wed Aug 25 05:05:18 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990824210037
Name: 千代
Subject: えーっと、

まきのさん、初めまして。千代といいます。

わたしは相対主義的科学観については勉強不足、というより
全く知らないので、ああいうのが典型的な相対主義的主張だと
思っていました。安っぽいチンピラのインネンみたいなのかと。

もう少し科学者、特に物理学者との議論に耐えるような高度というか
まともな相対主義っていうのは存在するのでしょうか。現役の
物理学者が批判的に自然科学を検討したものくらいしか、そのような
ものはないような気がするのですが。たとえば水谷さんの「ささやかな
足場としての科学」で、丁寧かつ定量的に論理を展開すれば、共感
を覚える人は多いと思います。というか物理学者にとっては当たり前
すぎて、今さらなにいってんの?ってなっちゃうかも。
Id: #a19990824210037  (reply, thread)
Date: Tue Aug 24 21:00:37 1999
In-Reply-To: a0047.html#a19990822150712
Name: まきの
Subject: 田崎さんの第5問

ですが、うーん、引用されている文章はもちろん問題(というよりは問題外)なのですが、それは「相対主義的科学観」がどうこうとかいう高度な問題ではなくて、これを書いた人の、相対主義的科学観をふくめたあらゆることに対する理解が浅はかなものであるせいではないですか?

理科教育の専門家であろうと想像される人が、引用にあるような支離滅裂な文章を書いているというのはもちろん問題であるかもしれないのですが、こんなのは科学観の問題でもなんでもないでしょう。そういうのを「相対主義的科学観の理科教育への弊害」といっちゃうのは問題の本質から目をそらすことでしかないように思います。 例えば、一般相対論について B. Latour が馬鹿なことを書いたとして(私はちゃんと読んでないのでまあ仮定の話ということで、、、)それを書いた Latour が悪いんじゃなくて一般相対論が悪いというようなものでしょ。


Id: #a19990823174606  (reply, thread)
Date: Mon Aug 23 17:46:06 1999
Name: 時田 節@ブタネコ
Subject: エルランゲンプログラム

GTMの166番SharpeのDifferential Geometry  
http://www.springer.de/cgi-bin/search_book.pl?isbn=0-387-94732-9
は、Cartan's Generalization of Klein's Erlangen Programって副題で、全部読めば立派な趣味になるのだが、付録の『ものがすべらずねじれずにべつのものの上を転がることの考察』という、ちょっとした趣味の部分しか眺めてない。
Id: #a19990823170906  (reply, thread)
Date: Mon Aug 23 17:09:06 1999
In-Reply-To: a0047.html#a19990822153210
Name: 鴨 浩靖
Subject: 続々 平行線の公理

数学科の学生でも趣味的な連中は、クラインのエルランゲンプログラムやヒルベルトの『幾何学の基礎』を読んだりして喜んでいるでしょう。

ユークリッド幾何の公理系を自分でも一つ作ってみるというのは、数学科の学生の趣味として面白いかもしれません。暇な学生さんはどうぞ。 合同変換群の構造に着目した公理化が、最近の流行かな。

実は私も、

赤攝也: 現代の初等幾何学 (1988) 日本評論社.
寺阪英孝: 幾何とその構造 (1992) 日本評論社.
あたりを読んでたのよ。
Id: #a19990823111853  (reply, thread)
Date: Mon Aug 23 11:18:53 1999
In-Reply-To: a0048.html#a19990822220423
Name: まきの
Subject: けど、円周と直径の比は変わる

というのは、もともと黒木さんも書かれている通り(ここでの「曲面上では、一般に円周の 長さは直径に比例しない」というところ)で、水谷さんはそういうことを書か れていると思ったのですが、そういうのではなかったのでしょうか?

ここしばらくフリードマン方程式していたので脳が溶けているまきのでした。


Id: #a19990822220423  (reply, thread)
Date: Sun Aug 22 22:04:23 1999
In-Reply-To: a0047.html#a19990820161856
URL: eureka@ma2.justnet.ne.jp
Name: 水谷亘
Subject: 円周率は変わらない
くろき様
> 「コンパスで円を描いてみたら円周と直径の比が 3.141592...からずれていることもあ
> りえるのです」と上のエッセイの中でおっしゃってますが、これはどういう場合を想定しているのでしょうか? 
> ちなみに、曲がった空間を考えた場合でも円周率は変化しないと考えるのが普通です。

ここは、発表したときにも突っ込まれました。円周率は三平方の定理で定義される計量を
使うことになっているので変化しないというのです。
NGでもちょっと議論になって、局所的な空間の曲がり、あるいは一定でない曲率が存在する
と「円周と直径の比」は変わっても良いという結論になったような記憶があります。
円錐形の側面の世界で、頂点を中心とした円の円周と半径(頂点からの距離)のような
イメージを持っていました。

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管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
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