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黒木のなんでも掲示板 (0044)

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Id: #a19990710205039  (reply, thread)
Date: Sat Jul 10 20:50:39 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990710174440
Name: くろき げん
Subject: 微分の言い抜け

やまのさんにそのつもりがあったかどうかわかりませんが、やまのさんの説明は村上陽一郎氏の「それは結局時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない、という微分の言い抜けである」の擁護にはなってませんよね。この発言とニュートンやライプニッツの時代の科学史がどう繋がるかが全く不明です。それに、現代の知識に基いてニュートンやライプニッツが間違っていたなどと言っても面白い哲学は出て来ないのでは?

そもそも、村上氏はニュートンやライプニッツの時代の科学史の話をしているのではありません。大森荘蔵氏による今世紀の科学哲学について述べるための前ふりをやっているのです。もしも、大森荘蔵氏の科学哲学がまだ厳密になり切ってない大昔の数学や物理学への批判を出発点にしていて、現代における最良の知識との対決を避けているのであれば、村上氏の解説が何らかの意味で正しい可能性がほんの少しはあるかもしれませんが。もちろん、その場合は、現代の最良の知識との対決を避けたことについて無批判であることが非難されることになりますけどね。 (注意:私は、大森荘蔵氏についてよく知らないので、実際そうであると主張することはできないし、そうしているつもりもない。でも、御存じの方がいるかもしれないので質問しておきましょう。大森氏の時間の哲学って、今世紀の最良の科学知識と対決しているのですか?)

さらに、村上氏が微分概念を全く理解してないことの証拠に使える別の文献が、かしのゆうたさんによって紹介されています。かしのさんによると、村上陽一郎氏は「東京大学公開講座 時間」(1980東京大学出版会)という本の「古典物理学的世界像と時間」という講演会の文章の中で、微分を次のように説明しているのだそうです:

 ところでそのごまかしというのはどこにあるかというと、私は微分にあると考えている。微分というのは、とりわけこうした状況における微分とは、 limΔt→0 というオペレーション(操作)であると考えられる。つまり Δt という時間をゼロへ持っていくのである。

もちろん、 Δt をゼロに持っていくだけでは微分の話になりません。微分以前の単なる極限操作自体に(わけのわからない)文句を付けているのでしょうか? (それとも、微分形式としての dt の話をしている? まさかね。) いずれにせよ、「ごまかし」というのは意味不明だ。


Id: #a19990710174440  (reply, thread)
Date: Sat Jul 10 17:44:40 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990710170034
Name: 田崎
Subject: 前の書き込み

山野さん、

最近記事の増殖がものすごい勢いなので、過去ログを追うのは至難の技になってきています。 微分の言い抜け問題については、かなり前の書き込み で山野さんが書かれたようなことも指摘してあります。 その上で、「現代になって『言い抜け』などなどというのは何だろう?」という 話になっていたわけです。


Id: #a19990710170034  (reply, thread)
Date: Sat Jul 10 17:00:34 1999
Name: やまの@村上ファン
Subject: 微分の言い抜け:再考
「微分の言い抜け」が話題になってましたのでちょっと関心が出てきて調べてみました。
この投稿の動機は、どうも村上さんが袋叩きにあっていて、可愛想だから。
山野は、村上ファンの一人。

黒木さんがご指摘の引用文は理解に苦しみますが(誤植かも?)
村上さんは、著書の裏書きによると、比較文化・思想を専攻されたあとで
科学史を専門とされたようです。だから、「微分」という言葉を使うときは
科学史の事例を念頭におかれているのかも。
山野が調べたところでは、ライプニッツやニュートンが微分法を発明した頃は
微分はそうとうにいかがわしい言い抜けであったのはホントの話。
(でも、そこにはある洞察があった。論理的に厳密であるより
物理的な直観が、新しい方法を生む科学史上の事例。)
たとえば、落下距離 x が経過時間 t の2乗に比例することは
ガリレオ以来知られてましたから
x=t^2 とおいて
t=1の時の速度は
時刻 1 と 1+dt の間の位置変化を dx として
dx = (1+dt)^2 - 1 =2dt + dt^2
これから
(dx/dt)=2 + dt
ここで、昔の微分法というのは、dt=0 と置いて
t=1 の時の速度を 2 とした。
これが、「微分の言い抜けだ」と云ったのは、18世紀アイルランドの哲学者、
バークリー。Analyst という論文で、彼はこういってます。
「dt=0 なら dx/dt は 0/0 で定義できないはず。dx≠0 ならば
(dx/dt)=2 というのは近似値であって、厳密に云えば2ではないはず
dxは0か0でないかいずれかだから、どちらにしても、t=1 の
その瞬間に於ける速度は、定義されていない!!」
ところで、このような「微分の言い抜け」をやめて、論理的に
矛盾を含まぬように、瞬間速度を定義するようになったのは19世紀の解析学からです。
それは、理科系の学生にはおなじみの論法ですが、
「イプシロン デルタ論法(多重量化を使う一階の述語論理、変数の値は実数のみ、
<無限少量>は前提しない)で、瞬間速度を平均速度の極限値とするやりかた」
たとえば、
★「任意の小さな正の数εにたいして、ある正の数δがあって、
| t - 1 | < δならば | dx/dt ー 2|< εとなる 」 
←→ t=1 の瞬間速度は2 である
上の落体の事例では、δ=εで、この定義を満たすから
落体の一秒後の瞬間速度は2 であると矛盾なくいえる。
(或いは、教師によってはロビンソンの超準解析の話までするかも)
PS
----これは大学の教養過程の数学の授業には格好の話題かも知れません。
たしか、藤原さんのエッセー「若き数学者のアメリカ」で
ゼノンのパラドックスを、米国の大学1年生の試験問題に
出したって話を読んだ記憶がある---

Id: #a19990710170203  (reply, thread)
Date: Sat Jul 10 17:02:03 1999
Name: 和田 純夫
Subject: 駒場の話

忙しかったのでご無沙汰している間に話が進んでしまったようですが、少し時代遅れの 書き込みをします。

(1)通約不可能性の受容度の件ですが、私のいるキャンパス(東大駒場)にある大き な科哲科史グループではどうなのかということを何も言っていませんでした。よく知ら ないというのが主な答なのですが、個人的に話したことのある数人の発言からは、やは り普遍主義をそのまま受け入れるのには抵抗があるという印象でした(ソーカルの批判 の対象になるような人はいないと思いますが)。ある人は、私が先週批判した「ニュー トン力学と相対論的力学間の通約不可能性」をそのまま信用していたようでした。また 教養科目としての「科学哲学」では村上氏の「新しい科学論」(ブルーバックス)がテ キストで使われているというので、偏っているのではないかと批判したら、一つの「問 題提起」であるという答えでした。

 私は現在、文科生向けの物理の講義をしていますが、多くの時間を相対論および量子 論に割き、相対論も量子論も実在論的に解釈可能であることを強調する授業をしていま す。朝日選書の「20世紀の自然観革命」を参考図書にしていますが、これは科学哲学の 本を読み始めたばかり、またサイエンス・ウォーズのことを知らない段階で書いたもの で、現在読み直すと不満足な点も目に付きます。しかしこの本で行なったパラダイム・ シフト論批判が、私の原点になっています。

(2)先週の大豆生田さんの「問題」の文章は科学論プロパーの人が書いたものではな いとのことでしたが、似たような文章が専門家が書かれた本の中にもあります。 「事実なるものが理論の鋳型によって鋳造された「理論負荷的事実」でしかないとすれ ば、そのような観察事実が理論を支持するのは自明であり、それを否定することはあり えなくなるのではないか。このように反問されるであろう。だがハンソンはむしろその ことを積極的に肯定する。・・・・」(著者自身もハンソンの意見に賛成する方向で議 論が展開されます。)

おそらくこの認識が、相対主義的発想(社会構成主義的発想)を生み出す原点になって いると思われます。田崎さんも似たような発言をされていましたが、「いくら実験観察 が理論負荷であったとしても、それが理論を支持するのはまったく自明でない」という 現実、そして、「データが十分に集積した段階では、理論負荷である実験観察であって も、それが唯一の理論を決定してきた(と私には思えるのですが)」という科学の歴史 を認識していただかないと、議論は永久に平行線でしょう。


Id: #a19990710013303  (reply, thread)
Date: Sat Jul 10 01:33:03 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990710012155
Name: 河本孝之
Subject: あっそうか・・・

 浜田さんの書き込みの末尾を再び見ていて今頃やっと気づいたのですが、「無理にここでの書き込みや反論に一つ一つ応じて書かなくともよい」ということでは、皆さんだいたいにおいてコンセンサスができてるということですね? それで御納得いただけるのであれば、ズレたところについては先日の書き込みと同じく、ご用意した原稿にリンクを貼るということでご了解下さい。以上、終わり。

Id: #a19990710012155  (reply, thread)
Date: Sat Jul 10 01:21:55 1999
Name: 河本孝之
Subject: ともかく、

 社会科学や人文科学において、現行の自然科学や自然科学という知識の体系そのものを相対化しようという意図で、新科学哲学の学説に訴えることがあると。そして、そのような科学哲学ユーザーや新科学哲学を唱えている人々の間には、自然科学に対する基本的な誤解ないしは理解不足がある、ということですね。したがって、科学哲学やそれ以外の(特に人文・社会科学の)授業において新科学哲学とそこからもってきた相対主義的な科学観がどんな事例を使ってどのように説明されているかということをお聞きになりたかった・・・これでよろしいでしょうか? 私もこの質問については興味があります。ですから私が意図的に議論をズラしたわけではない、ということについては了解して下さい。

追記・>浜田さんへ
 それはそうと、本人からも聞かなかったので、彼の原稿がPDFになっているとは思いませんでした。浜田さんにとっては或る意味でご迷惑かもしれませんが、御礼申し上げます。
Id: #a19990709165609  (reply, thread)
Date: Fri Jul 09 16:56:09 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990709160405
Name: 田崎
Subject: コンセンサス

河村さんの一連の書き込みと、 たとえば現代思想98年11月号の村上+野家の対談の論調のあまりの相違をみると、 科学哲学全体の単純なコンセンサスなどはないのだろうな、という印象をもちます。 そういう意味でも、「『空気』がわかるのは嬉しい」と前に書いたのです。 浜田さんの追い打ちは、ちと、厳しすぎかと。
Id: #a19990709160405  (reply, thread)
Date: Fri Jul 09 16:04:05 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990709070523
Name: 河本孝之
Subject: うむ、確かにズレっぱなしで

 長々と書き込んでしまったのは事実。申し訳ないです。
 現代のコンセンサスですか・・・ちょっと待って下さいね。何度も言うように、クーンが出てくるような教科書っぽい本はそんなに読んでいませんので。それに、Suppe の本を出したのは「私が何を読んで新科学哲学を知ったか」という問いに答えたもので、この本を使って「現在では新科学哲学はこのように評価されている」ということを主張したつもりはないのです。
 
Id: #a19990709070523  (reply, thread)
Date: Fri Jul 09 07:05:23 1999
Name: 浜田寅彦@口の悪い&科学論ユーザー ^^;
Subject: ログの読み方が足りないのでしょう その2

せっかく黒木さんの「論点のすりあわせ」「問題のやっかいさ」「影響の範囲」「科学論ユーザー」で、
うまく問題が整理されているのにもったいない(ヨイショッ)。>どこかのページにまとめて掲げてほしいです。黒木さん
村上やパラダイムなどは、楽しめる話題ではあるが、些末なことだ。
あんな引用でこんなものを挙げられても???(ハッタリというなら途中に長々とでてくるデカルトや、
Lakatosを使っている所などを挙げるべき。経済学としても、意味も無く写経しているだけなので論外)。

Suppe(編)の本は20世紀の科学哲学で扱われた主要なテーマについての一流の概説(今でも)との 評判を耳にするけれども(良く売れたのはKuhnのSecond Thouhgts on Paradigmsが入ってたからだと想像する)、 せいぜい1970年代初頭までという制約がついているし、たまたま序文を書いただけでSuppeが賢いわけではないし。 どうせなら、現在の英米の科学哲学でのコンセンサスの例として、もっと最近のものを挙げてもらいたい。

それに、優しいおじさん達が言われるように、無理に話を続けなくても良いし


Id: #a19990709034246  (reply, thread)
Date: Fri Jul 09 03:42:46 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990709015257
URL: http://www.interq.or.jp/jupiter/philsci/
Name: 河本孝之
Subject: ご参考までに
 以下のサイトで共約不可能性に関する文献のリストを入手できます。最近でも
細々とワークショップをやっているようですが、哲学の中で注目される翻訳の不
確定性とか指示の不可測性などに沿って議論されているものが多いように思いま
す。実例を使ってケーススタディをしているらしきものとしては、Bill Brewer
の論文があります。これによると、"the major obstacles to knowledge
change (e.g., from flat earth to round earth) were deeply entrenched
concepts (e.g., that the earth looks flat and that things fall down)
that made it hard for children to accept the Copernican theory" なん
だそうですが、いかがでしょうか。でも、これが共約不可能性の実例なのだろう
か? 私は、共約不可能性を広くとりすぎていると思います。
 http://sun1.rrzn.uni-hannover.de/zeww/inc.conf.litlist.html
 また、このサイトがドイツのものであるということも注意すべきです。もとも
とクーン以前の科学哲学である論理実証主義はウィーン学団という別称が示すよ
うにヨーロッパで産声をあげました。しかしその構成員たちはナチスの手を逃れ
て、多くがイギリスやアメリカへ移住したわけです。その後、ドイツは科学哲学
の流れから取り残されてしまい、Wolfgang Stegmuller という科学哲学者(と
いうより紹介者と見做されていることが多い。まあ、日本の哲学者はひとのこと
を言えた義理ではないが)が多くの弟子を輩出するまで、ドイツでは殆ど科学哲
学は研究されてこなかったという事情があります。そんなわけで、こういったや
や遅蒔きのワークショップが開かれているという次第です。

Id: #a19990709015257  (reply, thread)
Date: Fri Jul 09 01:52:57 1999
Name: 河本孝之
Subject: うーむ、黒木さんの書き込みだけ見て下のお返事を書いてしまいましたが

 こなみさんと田崎さんにもお気遣いいただき、ありがとうございます。そこで、せっかくですから修行とか山籠もりとか言わずに一つ事例をご紹介します。
 以下の引用は、経済学を専攻している私の友人が「ちょっと見てくれないか」と送ってよこした口頭発表の原稿です。彼によれば「思想史と結びつけたハッタリをかます」つもりで書いたらしいのですが、黒木さんによる「科学哲学ユーザー」のよい事例となるかもしれません(本人は科学哲学を権威として経済学に導入するつもりは更々ないらしいのですが)。

 クーンによると、「科学においては・・・専門雑誌の発刊や専門学会の形成や、カリキュラムの中に特殊な位置を要請することは、普通あるグループが初めて特定のパラダイムを受け入れるということと関連する」(Kuhn:1970「発見の論理か研究の心理学か」,p.22)。さて、進化経済学という用語を冠する専門雑誌・専門学会については、(中略、河本)がある。だが、ウェブレンら旧制度学派の伝統を引く[アメリカ]進化経済学会とシュンペーターの名を冠するとおりオーストラリア学派の伝統を引く国際シュンペーター学会はまだしも、欧州進化政治経済学会と[日本]進化経済学会は複数の学派を出自とする(あるいは特定の学派には属さないと自己認識をしている)多様な研究者から構成されており、未だ「パラダイム」を形成するには至っていない。いわんや、以上の学会を横断しての統一的なパラダイムについては語ることさえ困難である。当然のことながら、定評のある教科書というものも存在しない。
(山本英司「進化経済学の発展のために」1999年3月26日、進化経済学会第3回大阪大会での発表原稿より)

 これはもしかすると「オヤジパラダイム」の一例かもしれません。なぜなら、このようなことを述べたからといって過去の経済学説と進化経済学を相対化するわけでもなく、なおまた両者で使用される用語が互いに共約不可能だと言ってもいないようですから。しかるに彼の弁解どおり、これはハッタリであると私は考えましたので、コメントと言われても困ってしまったのですが。
 いかがでしょうか?
Id: #a19990708163941  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 16:39:41 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990708114842
Name: 河本孝之
Subject: なるほど、

 分かりました。お気遣いいただき、ありがとうございます。現在の指導教授を含め、私が科学哲学で指導を受けた先生方は、皆一様に「せめて物理か数学を真面目に勉強しなさい」とおっしゃっています(例えば理学部の授業を正式に履修するといったことです)。そこには、確かに村上先生や大森先生のような議論が「科学哲学の議論」として受け取られるのは心外だという考えがあると思います。
 私自身は、村上先生や大森先生のような議論が科学哲学の議論として受け取られる場合があるということを存じております。また、それらが自然科学の正確な理解に基づく議論ではないということも、先輩からさんざん聞かされてきました(この先輩は以前に理学部を出てから文学部に入ったそうです)し、私自身もそう考えてきました(要するに哲学の議論としても怪しいところがあると思うのですが、自然科学の正確な理解に基づいているという証拠がどこにもないという一点だけからでも、科学哲学の学説としてまじめに取り上げる必要性を感じなかったということです)。このような環境に置かれていましたので、私は学部時代に新科学哲学を聞かされ、大森先生や村上先生の著作を丹念に読んだような学生とは少し異なる見方で科学哲学を見ているのかもしれません。
 そういう次第で、いま私の下に時間論をやっているマスターがいますが、もし彼が大森先生の本を使って研究すると言い出したら、こんこんと「それは止めておく方がいい」と説得するでしょう。とりわけ大森先生の書くものは(指導教授に言わせると)何か得たいのしれない「引っ張られるような」ところがあるそうです。恐らく大森先生の議論のスタイルとか切り口に影響されてどこかが歪んでしまうという意味だと思われます。
 口が悪そう :-D というネット・キャラを無理に作ろうとした覚えはないのですが、ともかく私のスタイルはいまここで書いているようなものです。別に違和感がなければこのままにして下さい。では、再び投稿させていただく前に(ここで述べた範囲にも曖昧なところがあったと思いますので)、もう少し修行します :-)


Id: #a19990708135201  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 13:52:01 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990708083658
Name: たざき
Subject: お詫び

さっきの書き込みの小文字の部分は滑ってしまった悪質なギャグの実例でした。 すみませんでした。
Id: #a19990708114842  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 11:48:42 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990708061913
Name: くろき げん
Subject: 論点のすりあわせ

河本さん、プレッシャーをかけてしまったようで申し訳ありません。確かに「村上先生の見解」や「新科学哲学」に関するサーベイを要求されたのでは、たまったものではありません。私にはそのつもりはなかったのです。失礼ながら、河本さんはその登場の仕方から結構口が悪そうに見えたので、もっと気楽な(可能ならば言いたい放題の)回答を期待していました。 (少なくとも私は口の悪い人を嫌いではない。)

私としては、まずは最も極端な例である「微分の言い抜け説」のようなデタラメもしくは意味不明のたわごとを科学哲学の名のもとで語られていることについて、河村さんがどのようにお考えなのかを聞きたかった。そして、他の方々が指摘しているような実例については、どのようにお考えでしょうか?

私の印象では、河本さんは、『世界』に発表された和田さんの論説の中で語られているような「科学哲学」と河本さんの立場における研究としての「科学哲学」の間のあまりのギャップにいらだちを感じて、ここに登場したように見えたのです (cf. 6/25 の河本さんの発言)。

ギャップの由来を理解するためには、自分がどうであったか (例えば河本さんがどのような科学哲学教育を受けたか) だけではなく、他人がどのようなものを読みどのような教育を受けたかに興味を持つ必要があると思います。このような流れで、私は河本さんと論点をすりあわせようと思ったのです。 (「科学哲学ユーザー」や「科学論ユーザー」や「問題のやっかいさ」について語ったのもその一環のつもりです。)


Id: #a19990708083658  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 08:36:58 1999
Name: 田崎晴明
Subject: 気楽にやりましょう

河本さん、

色々ありがとうございました。 ある種の「空気」がわかってくるのは、嬉しいことです。 いずれにせよ、こういう掲示板は、研究など本来やるべきことの時間をあまり割かない範囲で、他人にも自分にも有益だったりおもしろかったり(くだらなくて楽しかったり、雰囲気にゆるみをもたせようとしてとぼけて滑ったり)する事を書いて、楽しむ場だと思います。 気楽に楽しくやりましょう。 (それに、物理の研究の現場にいる私のような者が、広い意味での物理教育に関しては猛烈に無知であることを考えると、科学哲学の研究の現場にいる河本さんが、責任を感じて全部お一人で答えようとする必要はないと思いますよ。 もちろん、黒木さんにもそんなおつもりはないだろうし。)

個人的には、統計物理の基礎や量子力学の観測問題について日々悩んでいるので、河本さんの研究テーマ(ですよね?)の確率の意味づけについて色々とだべりたいところなのですが、今はちょっと無理そうなので、その内このあたりが片づいて暇になったらお願いします。

それにしても、

私の問題の出所はこ×みさんの書いた本です。 私は本屋で見て、「買う価値無し」と・・・
には、びっくり。 こ×みさんが、そんな本をお書きになる人だったとは、がっかりです!
Id: #a19990708083537  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 08:35:37 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990708061913
Name: こなみ
Subject: 遠慮は無用と思います

 河本さんは、話しの流れにそぐわないことを述べることを懸念しておられますが、 少なくとも私は、科学哲学を学んだ人がどのようなことを教わったのか、 それをどう感じたのか、それを今どういうふうに専門に絡み合わせておられるのか 等々の諸事情が分かることは、とても知的好奇心をそそられます。また、 私とつきあいのある科学哲学の分野の人との交流においても、 そのことはとても有益なことです。

 ネット上のコミュニケーションではしばしば関連を持たない複数の流れが錯綜しますが、 テレビドラマ3本、週刊誌の小説、連載漫画、新聞小説2本、将棋の対局2つくらいを並行に楽しめるほどの 能力はごくふつうの人間に備わっているわけですから、どうってことはありません。もし河本さん自身の負担が ひどくて大変だというのなら話題はいつでも打ち切っていいですし、何か書いて下さるなら よろこんで読ませてもらうつもりです。


Id: #a19990708064404  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 06:44:04 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990708061913
Name: 河本孝之
Subject: 言い訳

 第一の答え(教わっていない)について、期待外れだとお考えの方がおられてもおかしくはありません。いま二つ目の返答を用意している(古いノートとかをひっぱり出している)ところですので、後の回答には幾つかご参考になるかと思われる記載をつけます。ただ、一つだけ理解していただきたいのは、科学哲学であれ何であれ、哲学系の学科には本当のところ教科書によって学ぶべき常識とか基礎知識はあまり過大に要求されていないということです。ただ、これがいいことかどうかは私にも分かりません。教科書に「カントのこの考えは決定的に間違っている」といった記載がなされて、それを学ぶことによって不必要な解釈を重ねないで済むならそれはそれでよいことかもしれません。従って、「哲学は上げ膳据え膳ではない」という趣旨の意見を聞いたことがありますが、それでいいのかどうかは正直なところ分かりません。
Id: #a19990708061913  (reply, thread)
Date: Thu Jul 08 06:19:13 1999
Name: 河本孝之
Subject: ちょっと長い返答(その1)

 黒木さんからご指摘いただいたように、どうも私の勘違いで話題が(私だけ)ずれてしまったようです。そこで、ずれた話題についてお答えするよりも、先に再び挙げていただいた問いへお答えする方がよいと考えましたので、「私あるいは科学哲学界において村上先生の見解や新科学哲学の主張がどのように評価されているか」という話は(それにも興味があるという方がいたとしても)やめておきます。
 勘違いをしていたらしい時分には、上の話を誠実かつ正確に述べようとすれば正規の論文を書くくらいの準備や再考が必要になると考えましたので、先の書き込みで述べましたとおり「もう少し待って下さい」と、お答えするのを保留した次第です。しかし、それが私の誤解にもとづく見当はずれの作業であった以上、ここで議論されている方にとってみれば不必要どころか議論の焦点がずれるという実害があるでしょう。またそのようなものである以上、私にとっても不必要な作業でありますから、進行中の研究を妨げてまで時間を費やすことではないと考えました。
 という次第で、「新科学哲学、通約不可能性、パラダイム・シフト論などが、どのように教えられているか。たとえば、どのような例をあげて説明されているか」(黒木さんの書き込み #a19990706050933 からの引用)というご質問にだけ応じたいと思います。多少は長くなりますが、どうかお許し下さい。
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 過去の書き込みで触れましたとおり、私自身は科学哲学を修士課程から専攻しています。従って科学哲学概論といった授業を「はじめて科学哲学にふれる学生として履修した」経験はありません(それ以外の、TAとして加わったといった場合は除きます)。それゆえ、「私がどのように教わったか」という点でお答えするなら「教わっていない」という答えしかありません。
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 「私が新科学哲学をどのように知ったか」という点については、全くの後知恵になります。つまり、次のような文章が伝えているように、私は新科学哲学をはじめから「過ぎ去った学説」として読んだということです。

Contemporary philosophy of science, although strongly influenced by these Weltanschauungen views, has gone beyond them and is heading in new directions. The Weltanschauungen views, in a word, today are passe(原文のeにはアクサン-テギュがつきます), although some of their authors continue to develop them and they continue to be much discussed in the philosophical literature.

Frederick Suppe (ed.), The Structure of Scientific Theories, 2nd edn., University of Illinois Press, 1977,p.633f.

この部分は編者(これはシンポジウムの記録です)のサッピが第二版で加えたあとがきから引用したものです。彼はここで言及されている世界観的な見解(新科学哲学)に批判的なので幾らか差し引いてみたとしても、この本の影響力が大きかったという事実から、既に70年代の終わりにはこう言ってもよい状況があったのでしょう(ちなみに指導教授によると、サッピはこの本の売り上げで農場を買ったそうです)。但し、和田先生が「なんで今更カントなんか持ち出すんだ」という趣旨のことをおっしゃっていたところでお答えしたように、過ぎ去った学説だからといってそれに学ぶべきところが何もないと考えているわけではありません(恐らく和田先生もそうお考えだとは思います)。ただ、こうした評価を詳しく述べると、また的はずれになる恐れがありますのでやめておきます。

Id: #a19990707195447  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 19:54:47 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990707020315
Name: 彦坂暁
Subject: Re: ひげの生えた電子

『科学と幸福』の僕が引用した部分の後には、それに対して物理学者はこう反応するだろうという幾つかのパターンが書かれていました。ただ、田崎さんが解説して下さったような物理学的な内容(これはとても参考になりました、ありがとうございます。)ではなく、もっと哲学というか認識論よりの内容です。(フーコーの権力論にもほんのちょっと触れています。)「なぜ、絶対的な差が原子の階層にあるのか?」についての佐藤氏ご自身の解答は書かれていないように思われます。

Id: #a19990707173518  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 17:35:18 1999
Name: 大豆生田
Subject: 問題の出所ほか

私の問題の出所はこなみさんの書いた本です。 私は本屋で見て、「買う価値無し」と判断したので持っていない。 著者の池田清彦氏は山梨大学教育学部の教官 (のはず) だが、 講義でもあんなことを言っているのだろうか? 講談社学術文庫収録の池田氏唱えるところの「構造主義科学論」の本も 最初の方を見たら新科学哲学バンザイで、 同じ様なことを言っていたので、二度と見ていない。

ついでに、佐藤文隆先生の主張によると、科学者が科学哲学を批判するのは、 「自分達 (科学者集団) を研究対象にしているからである」そうだ。 (それは違うと思うぞ。)


Id: #a19990707145054  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 14:50:54 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990707112022
Name: 田崎
Subject: ちょっち補足

「電子には「二種類」あり、別種のものは区別できるが、同種のものは原理的に区別できない」 という表現は、少しまずかったか。 「二種類」というのはスピンの向き(ある約束のもとに、「上」と「下」の二種類にとれる) のことですが、電子が他のものと角運動量をやりとりして、スピンの向きを変えることは可能です。 電子には、生まれつき二種類のものがあるのだと思わないで下さい。
Id: #a19990707133050  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 13:30:50 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705221627
Name: こなみ
Subject: とんでも本の推薦者

 実はこの池田清彦氏のインチキ本について、けしからんから読んで書評書いてくれ! と私にけしかけたのは、黒木さんなのだ。気が進まないけどこのおっさんのインチキぶりは 他でも目に付いていたから、本屋でたまたま見つけてついふらふらと買ってしまった。 (主体性のない情けない男と笑って下さい)

 で、読んでみたらまったく噴飯物で到底書評に耐えるシロモノじゃない。しかも下らん本を 所有していることは自分のプライドに関わる。ということで 裏表紙に書き込んだ。

あまり読みたい本でもないが、黒木氏に感想を求められているので購入した。 案の定、書評に値する本ではない。
そして本文中にも貶し文句をめたくそ書き込んでおいたから、 この本を手にとって、所有者の見識を疑う奴はまあおらんであろう。学生や自分の子供たちに 悪い影響与えるのはまずいからねえ。
Id: #a19990707112022  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 11:20:22 1999
Name: 田崎晴明
Subject: 電子の区別のはなし(なんか情けないタイトル)

ええと。 ゆっくりと書き込んでいる暇はないですが、電子レベルのものを扱うこともある物理学者として、また「量子力学で基本的な粒子が区別できないというのはどいうことか?」を毎年講義の中で多大の時間を割いて説明している者として最低限ひとこと。 (長いですが、超スピードで書いたものなので、ちょっとラフです。嘘はないと思うけれど。)
異なった電子も、スピン状態が異なっていれば、区別できます。 しかし、同じスピンをもった二つ以上の電子は原理的に区別ができないというのが、今日の理解です。 「ひげがない」ということです。(というよりも、「スピン」という「ひげ」しかない。)

しかし、「ひげがある」か「ない」かなどは、単に考え方の問題であって、たとえ「ひげがあって」も現代の装置では区別できないなら「ない」のと同じ事だし、逆に装置が進歩したときに「ひげ」がみつかるかもしれないじゃないかという疑問が当然あると思います。 実際、こうやって日常言語で話す限りはこれは正しいようにみえます。 (そして、実は古典力学に従って世界を理解する限りでも、この意見は正しいのです。 なんとデリケートなことか! 実際、「ひげ」がなくても、神様(ないしは人間)が宇宙の(あるいは実験の)最初に電子たちに一郎、次郎・・と名前をつけて、その後、一人一人の行く末を見守っていれば、実質的には「ひげ」があることになる。) しかし、量子力学に従った世界の記述を採用する限りは(そして、一連の経験事実を理解するためには、量子力学を退けることは人類の知性の能力では不可能といっていいほど難しい(と我々物理学者は理解している))、本当に「ひげがない」ことと単に「ひげが見えない」ことには根本的な差があり、 散乱実験の結果や、粒子の集団の挙動にまで本質的な影響を与えてきます。 この事情を多少なりとも理解するには、(少なくとも現時点での人類にとっては)きちんと数学的に定式化された量子力学の知識が絶対に不可欠ですので、ここでは説明しません。 (ぼくは物理学科三年生の後期の講義の中で、かなり時間を割いて取り上げます。 残念ながら、三年くらい必死で物理を学んでもらわないと説明できない。 でも、逆にいえばたった三年でいいのです! この神秘に人類が気がつくまでにどれほどの年月を要したことか!! (位置と速度の不確定性が一つの鍵です。))

そして、電子に関していえば、これまでの膨大な経験事実(散乱実験だけではなく、金属が電気を通すとか、そもそも物質がクーロン引力でぶっつぶれないで安定に存在しているみたいなことも含めて)が、「同一のスピン状態をもった複数の電子は原理的に区別できない」という理論的な仮説と完全に整合しています。 逆に、電子が区別できるとして、同じだけの実験事実を説明する方法は今のところ一つも知られていません。 (もちろん、電子にも「スピン」以外のひげ(内部自由度)があるものの、我々の知っている全ての電子はその内部自由度については等しい値をとっていたという可能性は残ります。それは、(少なくとも今の文脈では)大した問題ではない。)


「電子は区別できないのに、パチンコ玉はどんなにそっくりでも原理的には違うものと思うのは何故か」という問いにも、完全に整合した答えがあります。 電子を特別扱いしているのではなく、すべて、同じ扱いをしているというのが答えです。

既に強調したように、電子といえども、スピンという内部自由度が異なれば、実験的にも理論的にも区別できます。 ただし、(以下のことは量子力学を知らないと本当には説明できませんが、実は、この話題にとって極めて本質的なことです。)スピンは、ある専門的な意味で、「二つ」の値しかとることができません。 よって、(これは、かなり不正確ですが、どう不正確かさえ、量子力学を知らない人には説明しがたい。すみません。)ある意味で、電子には「二種類」あり、別種のものは区別できるが、同種のものは原理的に区別できないといえます。

(ここで水素原子の例を詳しく議論すると、量子力学を学んだ人には極めて見通しがいいのですが、時間を取りすぎるので割愛。) 水素原子、水素分子、・・・と粒子(あるいは一般に系)が大きくなるに従って、この許される「種類」が次第に多くかつ「(比喩的表現ですが)細かく」なってきます。 たとえ、水素原子であっても(たとえば電子は 1S 軌道にいて、電子と陽子のスピンは特定の状態にあるといった風に)まったく同じ状態をとっていれば、またしても、原理的に区別できません。 けれど、電子軌道の状態が違えば(ただし、ここで、「ちょこっと」違う軌道はあり得ないといところが味噌!「内部状態の量子化」がこの話のもう一つの本質です。)、二つの水素原子は、その違いが理由で区別できます。 そして、その違いを認識しようが、しまいが、ある種の実験(たとえば弾性散乱)には、その違いが明確に現れます。 パチンコ玉にしても、量子力学のレベルでみて、完全に同じ状態にある二つの球を用意することができれば、両者は原理的に区別できないはずです。 しかし、それは実質的に不可能(あまりにも不可能なので、原理的に不可能とさえいいたくなるほど不可能)なので、パチンコ玉は区別できるのです。


要するに、ナントカさんの「装置が・・」は(言わずもがなですが)完璧な言いがかりです。 佐藤さんの本は知りませんが、それは、今ぼくが書いたような話の枕だったのだと思います。
Id: #a19990707053226  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 05:32:26 1999
Name: くろき げん
Subject: 最近の理科教育MLより

サンプルの追加です。最近の理科教育MLにおける岡林さん関連の議論はここでの話題に直接関係しているように思えます。


Id: #a19990707052528  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 05:25:28 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705024622
Name: くろき げん
Subject: 問題のやっかいさ

私は、一昨日、科学哲学や科学論の政治的含意に気を配らなければ、問題のやっかいさを理解することはできないという意味の話を書きました。今回は、私の立場からどうやっかいだと感じているかを書くことにします。

で、何がやっかいかというと、科学を理解せずに、科学論を応用しようとしている人達の多くが、科学論におけるある種の考え方(「通約不可能性」「観察の理論負荷性」などなど)と自分自身の政治的主張を直結させていることなんです。

だから、科学論のある種の考え方を否定されると、自分の政治的主張自体が危機にさらされているかのように感じています。そのため、たとえ批判している人達と批判されている人達の間で政治的方向性の大部分が一致していたとしても、批判されている側は全く納得してくれないことになる。そして、多くの場合において、批判している側は素朴に考え過ぎているから、そのような批判を行なうのだ、などと言うのである。

科学論者の多くは、自分達の社会的権威を支えてくれている科学論ユーザー達が科学論の政治的含意に魅力を感じていることを意識していると思うし、その人自身もそこに魅力を感じているのだと思います。だから、科学論において重要だとみなされている考え方を否定してもある種の政治的主張は生き残るという考え方を認めることがなかなかできないのでしょう。

このようなことに気を配らないと、行き過ぎた相対主義的科学観にすでに染まってしまってしまっているように見える人達が耳を傾けてくれることはないと思います。少なくとも、相対主義的科学観と政治的主張の関係について十分留意する必要があると思います。その上で、我々の批判対象が例えば「微分の言い抜け」などの馬鹿げた話や個々の科学理論に関する誤解を広めてしまっている文献をどのように扱うかを見た上で今後の態度を決めれば良いのだと思います。駄目な主張や駄目な文献をはたして斬ることができるか?

アラン・ソーカル氏は、このような状況において、自分自身が何に反対で何に賛成かを明確に表現していますよね。 (これの最後から2番目の段落を見よ。ちなみに「なんでも2」の方でその田崎さんによる試訳が半秘密裏に半公開されています。興味のある方はこっそり見に行きましょう。)


Id: #a19990707020315  (reply, thread)
Date: Wed Jul 07 02:03:15 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990706184127
Name: くろき げん
Subject: Re: ひげの生えた電子

佐藤文隆著『科学と幸福』 (21世紀問題群ブックス 7、岩波書店) が手許にあるはずなのですが、部屋が汚な過ぎて見付かりません。 (^_^;)

本が見付からないので、確実なことは全然言えないのですが、彦坂さんが引用した部分だけを読むと、単に「なぜ、絶対的な差が原子の階層にあるのか?」 (例えば「“ひげが生えた電子”を考える必要がないのはなぜか?」) の説明を試みるためのまえふりをやっているように見えます。その続きに何が書いてあるか見たかったのですが、本が見付からないのだ。

ところで、「こんな話を物理学者にしたら青筋立てて怒るだろうが」なんてレトリックを佐藤文隆氏が使用するようになったのはいつからなんでしょうか? それとも単に『科学と幸福』ではそうしているだけなのでしょうか? 『科学と幸福』を読んだとき結構気になったおぼえがあります。 (池田清彦氏の方はオッサン的で下品な揚げ足取り的なレトリックが売りになっていると思うんですけどね。)


Id: #a19990706184127  (reply, thread)
Date: Tue Jul 06 18:41:27 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705221627
Name: 彦坂暁
Subject: ひげの生えた電子

佐藤文隆氏の「ひげの生えた電子」は、岩波書店の「21世紀問題群ブックス」7『科学と幸福』(佐藤文隆)の第三章「ヒゲを生やした電子 ――ダーウィンの衝撃」に出てきます。御参考までにちょっと引用してみます。(p101-)

われわれは電子を四つの相互作用だけを媒介にして見ており、それでいうとこれこれの同一の性質を持つとなる。ここで恐ろしい質問が飛び出したとする。「それ以外の性質は個々に違っていてよいということか?」と。

(中略)

こんな話を物理学者にしたら青筋立てて怒るだろうが、分子より大きい対象を扱っている者には、目的の物理量を揃えても完全には同一ではないというのはむしろ当然である。たとえ物理的現象に限っても、そのレベル以上では物理量の種類は多過ぎてとても全部を取り上げて考慮できず、関心のある現象の記述に必要な物理量に種類を限るという粗視化を行う。関心のある量は同一でも存在としては全く同一ではないと。そんなら電子も同じではないのか、電子を扱う仕方が固定しているから同じ顔に見えるにすぎないのではないのか? なぜ、絶対的な差が原子の階層にあるのか?

というような議論です。「ヒゲ」というのは、「それ以外の性質」のたとえですね。
僕も「分子より大きい対象を扱っている者」ですので、この議論は面白いと思ったのですが、実際に電子くらいのレベルを扱っている物理の方は、どう思われるのでしょうね。

Id: #a19990706182900  (reply, thread)
Date: Tue Jul 06 18:29:00 1999
In-Reply-To: a0043.html#a19990702230839
Name: TFJ
Subject: パラダイムの用例

たまーに通りすがる者です。

話の流れが速いので、もはや obsolete 気味ですが。面白いかどうか別にして、教育や研究に関係した用例といえば、 計算パラダイムとかプログラミング・パラダイム というのはどうなのでしょう。 今の議論からはちょっと的外れなような気がしますが…。

情報工学系の出身者(20代前半)はパラダイムという言葉は「どっかで聞いたことがある」だけ。」 って、いう意見もあるようですが、僕は30代前半の情報工学系出身者ですが、この意味でのパラダイムは、周囲でも比較的知られているような気がします。 少なくとも、僕にとって、パラダイムといったら、まず、これを思い浮かべます。ここの読者の多くもよくご存知ではないかと思います。
「科学におけるパラダイム転換? 今まで手続き型で書いていたプログラムをオブジェクト指向で書くようにすることですか?」(←ボケ)

1年ほど前、いきつけのカフェで事の成り行きでオブジェクト指向の説明を他の一般人な常連客にする羽目になったことがあったのですが、 「プログラムの書き方にはいろんなパラダイムがあって」みたいなことを言ったら、やたらウケたというか、妙な誤解をされてしまったような気がした (ちょっと不快だったのでよく覚えている。) のですが、 ここのやりとりを読んでいて、あのリアクションはいわゆる「オヤジ・パラダイム」と思われていたからなのだろうか、とか、ふと思ってしまいました。


Id: #a19990706164255  (reply, thread)
Date: Tue Jul 06 16:42:55 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990706050933
Name: 河本孝之
Subject: ありがとうございます。

 ご負担をかけてしまい、申し訳ありません。上のリンク先も参考にさせていただきます。
 ちなみに、私が知っている先生方は、とりわけ村上先生の見解が出てくるようなテキスト(要するに日本の先生が書かれたテキスト)は使っていないようでした。授業の形態が講義プラス購読である場合が多いので、英米の教科書を訳しながら解説するということになっています。従って、このような授業形態をとっておられる先生は他にもいらっしゃると思われますし、またそこで使われる教科書にはクーンやファイヤアーベントに言及する記述があっても村上先生に言及する記述がないのは確かです。従って、そういう内容の授業を受けた学生であれば、個人的に先生から勧められたとか偶然に図書館で見つけたとか雑誌で知ったとかいう事情がない限り、村上先生の本を、科学哲学について勉強するプロセスの中で読む機会は全くないと言えるように思います。
 クーンをはじめとする新科学哲学の見解は、もちろんどのような教科書においても紹介されています。従って、新科学哲学を科学哲学の授業でどのように教え、どのように評価しているかは、私の場合に限ってまたのちほどご紹介します。
 黒木さんにはたびたびご迷惑をかけまして、再度お詫びいたします。


Id: #a19990706055148  (reply, thread)
Date: Tue Jul 06 05:51:48 1999
Name: くろき げん
Subject: 「聖俗革命」関係の雑多なリンク集

話のネタにできますかね?


Id: #a19990706050933  (reply, thread)
Date: Tue Jul 06 05:09:33 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990706013649
Name: くろき げん
Subject: 曖昧

例えば、「村上先生が何か一貫した観点をもたれているだろうという予想はつく」というのは、なぜなのか私にはわかりません。まあ、各論の細かいところばかりにこだわり過ぎてもつまらないので、その辺についてはあまり突っこまないようにしたいと思っているのですが。

脱線し過ぎないように、議論の出発点がどこにあったかを思い出しましょう。和田さんの最初の投稿は、単に科学哲学界内部で相対主義的科学観がどのように評価されているかを聞いているだけではなく(これが質問(1)の内容)、それがどのように教えられているかについても聞いています(質問(2))。

河本さんは、「科学哲学内部における影響力」や「河本さん自身による評価」が曖昧だと言われたとお考えのようですが、「教育や出版物など各種メディアを通じて広められている科学哲学の“定説”」に関する見解が抜けていては、結局のところ(少なくとも私などにとっては)不満な回答になってしまうと思います。

例えば、ある考え方の現在の科学哲学研究における影響力はほとんど皆無であったとしても、“定説”として大学の授業では教えられていたりすることはあるだろうし、科学哲学ユーザーに現在も利用されていることもあるだろうし、各種メディアで宣伝されていたりすることもあるわけです。

というわけで、(和田さんの代わりに)再度情報を募集します:

新科学哲学、通約不可能性、パラダイム・シフト論などが、どのように教えられているか。たとえば、どのような例をあげて説明されているか。

Id: #a19990706013649  (reply, thread)
Date: Tue Jul 06 01:36:49 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705184035
Name: 河本孝之
Subject: 整理します。

 私が述べたことは、再び整理しますと、村上先生は科学史や科学哲学や安全学など幅広いトピックについて言及されていますが、結局それら、科学についてのさまざま話題を扱われている際に、村上先生が何か一貫した観点をもたれているだろうという予想はつくものの、それが何であるかを簡潔に述べることは難しいという事でした。従ってこれだけでは、仮に村上先生の観点がはっきりしたとしても、私がそれについて同意するのかしないのかは分かりません。
 従って、黒木さんが私の述べ方を「相当に曖昧だ」とおっしゃったのは、村上先生の見解が科学哲学の内部であまり影響力をもっていないということは分かったが、影響力をもっていようといまいと、河本自身はその見解について同意するのかしないのかということがはっきりしないからであったと理解しています。それゆえ、私は村上先生の見解を基本的には怪しいものだと考えていますが、その理由を科学哲学の話題に限定して、もっと正確に述べる必要を感じました(「評価する」という表現で 'esteem' を意味しているわけではなく、中立的に使っています)。恐らく私は、科学哲学の話題に則してみた場合に相対主義的な見解や村上先生の見解がどのように検討されうるかを説明すべきだと心得ています(自然科学そのものの話題に則してみた場合の検討は皆さんがされていることですから、私がする必要はありませんし、そうする権利もないでしょう)。これでよいでしょうか?

Id: #a19990705221448  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 22:14:48 1999
Name: 鴨 浩靖
Subject: よく見る間違い

これは、数理哲学の本で実際に見かけたものです。表現はもとのままではありません。

Russellのパラドックスの発見により、数学は危機を迎えた。危機を解消するために考えられたもののひとつが、直観主義である。直観主義では、R∈Rでも¬R∈Rでもない中間的な真偽値が存在するため、Russellのパラドックスは回避される。

数学史的にも間違っていますが、それ以前に、数学的に間違っています。さて、どこでしょう。


Id: #a19990705221627  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 22:16:27 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705215732
Name: こなみ
Subject: これはパロディじゃない。天下の講談社の本の引用

池田清彦の「さよならダーウィニズム」からの引用
物理学者の佐藤文隆は、電子にはひげが生えている電子と生えていない電子があるかも しれない話しをしている。電子は一個一個違うかもしれないという可能性を 現代の科学は排除しきれていないということだ。(p228)
つうのがあります。誰か思い当たるひといませんか?

さらに、次の段落はこうなっている。

我々は、電子はインバリアントでユニバーサルな存在だと決めて理論を作っている。 なぜそういうことが可能かというと、我々には電子や原子が見えないからである。 装置や機械を使ってしか見えない。

ところが、その装置や機械は、電子や原子はインバリアントでユニバーサルなものだということを 前提にしてつくられている。したがって、その装置を見る限り、電子はユニバーサルで インバリアントなものだという以外の帰結にはなり得ない。

昔、放射性同位元素を認知する機械がなく、別な化学的なはかり方をしていたときは、 放射性同位元素であろうと何であろうと元素は元素として認知される他なかった。

もっとも、こういうまったくのインチキ人物の書くものを、科学社会学者全般の傾向に重ねてしまうというのは 妥当ではないでしょうね。
Id: #a19990705215732  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 21:57:32 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705180157
Name: こなみ
Subject: 異なったパラダイムでパロディしてみました

現代の科学とパラダイムを異にする、 つまり異なった文化的背景をもつ社会において構成された物理学では「電子は赤い電子と白い電子の二種類が存在する」とされている。 現代の我々の社会では、 電子の同一性は実験で確認されているという人がいるかもしれないが、 異なったパラダイムの物理をもつ社会では、 実験装置は二種類の電子を前提とした科学の理論に従って作られているので、 検出される電子の種類はちゃんと色分けされて観察されるのである。
Id: #a19990705184035  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 18:40:35 1999
Name: くろき げん
Subject: 科学は進歩してる?

例の追加です:

P.S.1. 理科教育MLホームページに繋がるようになってますね。今年の2月から3月頃の理科教育MLにおける「相対主義」に関わる議論に関する作りかけのリンク集1997年8月25日から11月12日頃の議論へのリンク集

P.S.2. やはりちょっと気になるので言っておこう。河本さん、私は「相当に曖昧だ」と言ってはいますが、「不正確な評価しか与えていない」とは言ってません。「曖昧」と「不正確」では大違いですよね。


Id: #a19990705180157  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 18:01:57 1999
Name: 大豆生田
Subject: 問題です (大豆生田編)

以下の文章を批判せよ。
現在の科学では「どの電子もその性質は同一である」とされている。 電子の同一性は実験で確認されているという人がいるかもしれないが、 実験装置自体が電子の同一性を前提とした現代科学の理論に従って作られているので そのような反論は成立しない。

Id: #a19990705173357  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 17:33:57 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705164301
Name: くろき げん
Subject: Re: えーいま および 「微分の言い抜け」

河本さん、長目の論説は自分のウェブサイトで公開し、この掲示板からそこにリンクを張るというのは良いやり方だと思います。できれば、逆に、この掲示板関連の話題に関する論説文をウェブで公開する場合は、そこからこちらにリンクを張ってもらうと嬉しいですね。 (なんでも2における関連記事)

この機会にあらためて問題提起しておきましょう。村上陽一郎氏は岩波『図書』の連載「科学哲学の窓」で以下のようなことを書いています。今後の議論でこれを「微分の言い抜け説」と呼ぶことにしましょう。『図書』1999年3月号58-59頁より:

 瞬間速度という概念が、微分という便宜的な算法を使わずには成り立たない、あるいは概念上の困難がある、ということを前回に述べた。日常的な考えに従えば、速さという概念は、あくまで一定の時間が定義されたとき、その時間内に移動する距離との比によって与えられるものだからであり、「瞬間」である限り、そこには一定の値を持つ「時間」が定義できないからである。それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。

 それは結局時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない、という微分の言い抜けである。

 これに対して正面から取り組んだ故大森荘蔵は、このような幅のない時間点の上に立つ瞬間速度という概念の、概念上の困難を真正なものとし、そこからの脱却を主張しよう、というのだから、ことは穏やかではない。

「それは結局時間幅をゼロに近付ければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離のほうだけはゼロにならない、という微分の言い抜けである」というのはすごいですよね。全くのデタラメもしくは全く意味不明のことを言っているようにしか見えない。御飯を吹き出してしまいそうな表現だと思います。

上で引用した村上氏の主張の真意、その是非、それに対する率直な感想、科学哲学プロパーは批判する必要を感じないのか、……などなどについて、他人の意見を聞いてみたいと思っている人は私だけではないと思います。上で引用したような文章にクレームを付ける人が科学畑にいることは必要だと思いますし、実際いるわけです。それに対して、科学哲学もしくは科学論ではどうなのか? (聞いてみたいのは河本さんに限りません。)


Id: #a19990705164301  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 16:43:01 1999
Name: 河本孝之
Subject: えーいま
 ここまでの私の書き込みが、相対主義的な見解についてどのように評価している
かという点について不正確だと考えられましたので、私なりの評価をもう少し正確
に説明するよう再考している最中であります。とりわけ黒木さんからは、村上先生
の見解について不正確な評価しか与えていないとのご指摘をいただきましたので、
近いうちにお答えできればと思っております。
 ただ、草稿の段階ではありますが分量はかなり長くなりますので、この掲示板を
利用してお答えするのはサーバの負担となるように思われます。したがって、この
場ではリンクを張るだけにして、私の方で用意したページにてお答えすることとい
たします。どうかご容赦ください。

Id: #a19990705145214  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 14:52:14 1999
Name: 田崎晴明
Subject: パラダイムと通約不可能性

についての、和田さんの論点は明解だと思います。

ただし、こういう的確な批判をしても、「ああいえば、こういう」風の水掛け論が続く恐れは大いにあると思います。 (たとえ F=ma の形が両者に共通でも「時間」の意味がかわったとか。)

前にも書きましたが、「通約不可能」というときに、歴史的な事実として「話し合いが成立しなかった」ということを指摘しているだけなのか、完成した理論の関係についてなにがしかをいおうとしているのか、どうも、この二つの論点が混同されているような気がします。 相対性理論の成立当初にこみ入ったことがあったのは絶対に確かだと思いますが、既に完成している二つの体系が「通約不可能」といわれると、残念ながら、「事実無根の言いがかり」にしか聞こえないのです。

実際、Kuhn は Structure of Scientific Revolution p.102 で、

It has not, that is, shown Newton's Laws to be a limiting case of Einstein's. (つまり、これでは未だニュートン力学がアインシュタインの理論の一つの極限であることは示せていないのである。)
という風に、純粋に理論レベルの結論と受け取れる書き方(「it=これ」は、v/c が小さい極限で特殊相対性理論の法則がニュートン力学の法則に収束するという議論です)をしていますし、 村上陽一郎「新しい科学論」(ブルーバックス)p. 199 にも、
・・・純粋の理論面で考える限り、例えば、古典力学と、c >> v という特定の条件下での特殊相対性理論すなわち古典力学とは明らかに「同じ」ではなく、それを「同じ」と言い張るにはむりがあるように思われます。
とはっきりあります。 これは、極めて不可解な主張です。

純粋に数学の問題として考える限りは、特殊相対性理論のある極限(個々の解の収束をいうこともできるし、より強く力学系の構造が収束する事もいえる)としてニュートン力学が得られるのは動かし難い事実です。 よって、村上氏のいう「理論面」というのは、「数学」のことではないし、「理論物理」のことでもないことになります。 思いつく限りでは、方程式の各項や物理の概念に、人間が日常言語(ないしは、哲学用語)で付与する解釈のことをいっているとでも考える他はありません。 (日常言語に大きな比重を置くことが、今日の人文系の学問の自然科学とのもっとも大きな相違かもしれない。) たしかに、科学者も、理論の模索、発展、整理などの段階で、そういった日常言語的な解釈を多用します。 しかし、最終的に完成した理論には数学の言葉だけを用い、理論同士の比較、実験との比較などにおいては、日常言語的な解釈は除外して、数学的な言葉だけを用いるというのが、現代の科学の約束です。 (それによって、「心情的には(刹那的に)通約不可能」でも「論理的に通約可能」になることは非常に多い。(その後、科学者は成長するので、見通しがよくなって、心情的にも通約可能なってくる。)) そうすると、上の「理論面で考えた」ときの「通約不可能性」は、すべての体系を日常言語で解釈し直したいという立場(本当はよく理解できないので、何ともいえないのだが)に関するものであって、少なくとも自然科学者には無縁だということになります。

「解釈」の問題が重要になるのは、「データの理論負荷性」があるためだ、という反論があるかもしれません。 しかし、ニュートン力学と特殊相対性理論の比較をする際に、「データの理論負荷性」が問題になるような具体的な状況が果たしてあるのでしょうか? ぼくは、ないと思います。 そういう例がどこかに挙がっているなら、知りたいものです。 (特殊相対性理論が出てくる前は、ある種の実験を行う動機がそもそもなく・・・というのは、反論にはならないはず。 それは、歴史的事情と理論的問題の混同です。)


Id: #a19990705141717  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 14:17:17 1999
Name: ブタネコ
Subject: 中島さん

中島啓さんの『非線形問題と複素幾何学』が岩波講座の予約者のところに配本されてきた。
Kahler-Einstein計量の存在証明?存在証明がつづくなあ?
時計文字ページの「理論の概要と展望」だけ見てつんどくというのも悲しいけどしょうがんないか?
Id: #a19990705141404  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 14:14:04 1999
Name: 時田 節
Subject: 泰山

上海近くにある欠陥原発『泰山』の事故が朝日の1面で報道されている。
桜井淳が『原発事故の科学』日本評論社 で、泰山を名指しで批判してから7年になるが、大マスコミはダンマリで、事がおきてから騒ぐのもいつものパターン。
桜井は高木らと違って、日本のある程度の欠陥原発なら修理して長く使おうという現実派だが、そうした桜井の警告すら無視され続けてた。
中国の絶対王政こそ巍巍乎として泰山たるかな。日本の真実隠蔽マスコミも主観的には、郁郁乎として文なるかな、なのかいな。
Id: #a19990705122204  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 12:22:04 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705091219
Name: 和田 純夫
Subject: 追加

チョットみっともないですが、「私の解答」のメッセージを少し修正します。

私の問題文は、ある本(ブラウン「科学論序説」)の文を少し変更して載せたものです が、たとえばクーンが、正確にこの問題文に書かれた形で誤解をしたのかは、私には確 信はありません。しかし彼らが、「両理論の基本法則は同一」という出発点に無自覚で あったことは明らかだと思われるので、それに対する非難だと解釈してください。


Id: #a19990705091219  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 09:12:19 1999
Name: 和田 純夫
Subject: 私の解答

まず、とりあえず「ウィッグ史観」の件ですが、田崎さんの言われることに、まったく 異論はありません。私が「正しいウィッグ史観」と言ったのは、後の理論は前の理論に 対して、累積したのか、包摂したのか、破綻した前の理論に置き替わったのか、あるい は共約不可能なパラダイム・シフトなのか等々を、常に明確にしていくということです 。前の理論を不当に卑しめるという意味ではありません(ウィッグ史観という言葉にそ のような意味が含まれているのだとしたら、進歩史観とでもいうべきなのかもしれませ んが)。

 もちろんこれは、近代科学の発展が真の普遍的理論に向けての接近の過程であるとい う普遍主義に基づき、(近似的であり部分的ではあるが)「普遍的基準」があることを 前提としているから成り立ちうる発想です。


ところで、先週水曜日のポストした問題に対する、私の解答を説明します。(山野さん 、解答を有難う御座いました。)

これは物理の問題なので、「これだけでは共約不可能性(包摂不可能性)の根拠にはな らない」という哲学的解答は正解とはしないと前に言いました。もちろん、この解答に 反対しているわけではありません(山野さんの解答に対しても同様です)。むしろ、正 当な発想だと思いますし、現在の科学哲学でもこのように考えるのが多数意見であると いうのが、河本さんの火曜日のコメントだったと思います。しかし、この問題の文章に は、それ以上の「スキャンダラス」な間違いがあるので、それを指摘せよというのが問 題提出者の意図でした。

まず、問題を再掲すると、

問題:以下のステートメントで、物理的に考えておかしな部分を指摘せよ。 「相対論的力学では、F=maという公式は成立しない。F=d(mv)/dtは成立 するが、mは速度に依存するので、F=m(dv/dt)(つまりF=ma)とは書け ない。mは速度に依存するので、ニュートン力学においてその概念が機能しているのと 同じ仕方で機能しているわけではない。したがって、相対論的力学の運動方程式とニュ ートン力学での運動方程式は異質のものであり(IR=V(オームの法則)とma=F が、形が同じでも異質であるのと同様に)、したがって、比v/cが0になる極限で両 方の方程式が一致するからといって、両理論が共約可能であるとは言えない。(あるい は、前者が後者を包摂しているとは言えない。)」

以下が、私の解答です。

 「このステートメントは、最初の文から間違っています。相対論的力学の基本法則は 、F=maそのものです。またここでmは慣性質量(加速されにくさ)ですが、定数( 不変量)です。つまり相対論的力学とは、ニュートン力学の基本法則を「そのまま」も ってきた理論なのです。したがって専門家は、同じ原理に基づく両力学を総称して、古 典力学と呼んでいます。

 では、相対論的力学の新しい部分とはどこなのでしょうか。それは、時間というもの にあります。(特殊)相対論とは、相対論以前では区別できなかった(しかし精密実験 をすれば明らかに異なる)「各基準系での時間」および「物体の固有時間」というもの 区別をすることを可能にした理論です。

 たとえば、地表基準での時間とは、地表上に静止した時計の針の進み具合です。等速 で動いている電車基準での時間というものも同様に定義され、時間はそれぞれ基準によ って異なります。また物体の固有時間とは、その物体と一緒に動く時計の進み具合です 。物体が等速運動していない場合には、固有時間は、どの基準の時間とも異なります。  このように、相対論ではさまざまな時間の定義が出てくるので、F=maという式を 考えるときも、加速度aの計算にはどの時間を使うのかを指定しなければなりません。 そして相対論では、「ローレンツ共変性」という数学的要請により、固有時間を使わな ければならないことがわかります。つまり固有時間で表現されたF=maが、相対論的 力学の基本法則ということになります。

 しかし我々は通常、何らかの基準から見た物体の運動の様子を知りたいので、固有時 間での表現は、実用上は不便です。そこで、F=maを、何らか基準での時間を使った 式に変換することが必要になります。そこで変数変換をするのですが、すると、√1− v2/c2 という因子が二ヶ所に出てきます。(vは物体の速度、cは光の速度、v2 と はvの二乗、そして全体の平方根を取っています。)

 そこで、そのうちの一つをmに含め、m/√1−v2/c2 という量(m’と書く)を 速度vでの質量であると「便宜上」みなし、また、もう一つの√1−v2/c2 はFに含 めて力を再定義すると(F’と書く)、F’=d(m’v)/dtという式になります 。(m’やF’などという新しい量を導入するのは、そうすると、ニュートン力学の方 程式に似た単純な形になるという意味以上のものではありません。)これが、問題のス テートメントに登場する式なのですが、以上の説明からわかるように、これは相対論的 力学の出発点の公式ではなく、便宜上導いた、派生公式なのです。」


 以上が私の、純粋に物理学的な解答です。以下は、この解答が意味することについて の、私の意見です。(かなりきついことを言いますが、反論を冷静に聞く用意はありま す。)

 要するにファイヤアーベントやクーンは、基本法則ではなく、便宜上書かれた派生公 式を使って相対論的力学の基本概念について議論するという、摩訶不思議なことをした ことになります。

 そして世界の無数のパラダイム・シフト論の支持者たちは、その後ずっと、彼らの議 論を無批判に受け入れてきたように見えます。近代科学の発展の中でももっとも滑らか な発展の一つであったニュートン力学から相対論的力学への移行を、共約不可能なパラ ダイム・シフトの典型例として、さまざまな所で宣伝し続けてきました。私にはこれは 、歴史に残るスキャンダルのように思えます。

 自分で相対論を勉強して、彼らの言うことをチェックしようとした人はいなかったの でしょうか。あるいは、信頼できる物理学者の意見を聞こうとした人はいなかったので しょうか。(この考え方がどのように、そしてなぜ広まったのか、科学史研究の興味深 いトピックスかもしれません。)

 有名大学の物理学科博士課程卒業であるというクーンの肩書を信頼した人もいたかも しれませんが、物理はかなり分化しています。現役の物理学者でも、相対論に無縁の分 野で研究されている方は、上記のステートメントのおかしさにはすぐには気付かないで しょう。(相対論の専門家にとっては、基本的事項ですが。)

 科学哲学をおとしめようとしているのではありません。その逆です。私は、近代自然 科学という信条体系は、人類史上、特別の意味のある信条体系だと考えています。その 意味で科学哲学は、全哲学の中核になるべきものであるとも考えます。(私も参加させ てもらえないかと考えながら、「世界」での論考を書きました。)そうなるためにも、 現実の科学に即した地についた研究をするためにはどのような態度を取るべきか、一考 する必要があるのではというのが、私のお節介です。


Id: #a19990705043926  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 04:39:26 1999
In-Reply-To: a0043.html#a19990704040945
Name: 川似央一
Subject: パラダイム(つづき)

ああああ、すみません、しっかり書き込みを読んでいなくて勘違いしていました。「ビジネス文書パラダイム」というビジネス文書のお手本集の本があるとおっしゃっているんだと、わけのわからない思い込みをしていました。引用されたビジネス文書のなかに「パラダイム」という言葉が使われていたんですね。すっ、すみません…。

前回の続きなのですが、1913 年版の Webster's にも、前回引用した Random House と同じ意味の定義が載っていました:

Paradigm(Page: 1039)

Par"a*digm (?), n. [F. paradigme, L. paradigma, fr. Gr. , fr. to show by the side of, to set up as an example; beside + to show. See Para-, and Diction.]

1. An example; a model; a pattern. [R.] The <i>paradigms</i> and patterns of all things."<i>Cudworth.</i>

2. (Gram.) An example of a conjugation or declension, showing a word in all its different forms of inflection.

3. (Rhet.) An illustration, as by a parable or fable.

「郷に入りては郷に従え」はクーンの「パラダイム」からはちょっと懸け離れているように思えますが、この元々の意味のパラダイムならそういう意味にも使ったりできるのかもしれないような気も(あくまで気ですが)しますね。When in Rome, do as the Romans do. = When you are in a new community, follow the example of its people as the model of your behavior. みたいな。実際はどうなんでしょう?

でも、"paradigm shift(パラダイム変換)"という表現をよく政治経済方面などでも聞きますが、これはやっぱりクーンのパラダイム論からきているのでしょうかね。あと、パラダイムに相対主義的な意味を持たせるというのは、やっぱりクーン以降なんでしょうね。

現在の Merriam-Webster Dictionary には、さらにポスト・クーンの定義(3)が載っていました:

Main Entry: parキaキdigm
Pronunciation: 'par-&-"dIm <i>also </i>-"dim
Function: <i>noun</i>
Etymology: Late Latin <i>paradigma, </i>from Greek <i>paradeigma, </i>from <i>paradeiknynai </i>to show side by side, from <i>para- + deiknynai </i>to show -- more at DICTION
Date: 15th century
1 : EXAMPLE, PATTERN; <i>especially</i> : an outstandingly clear or typical example or archetype
2 : an example of a conjugation or declension showing a word in all its inflectional forms
3 : a philosophical and theoretical framework of a scientific school or discipline within which theories, laws, and generalizations and the experiments performed in support of them are formulated
- parキaキdigキmatキic /"par-&-dig-'ma-tik/ <i>adjective</i>
- parキaキdigキmatキiキcalキly /-ti-k(&-)lE/ <i>adverb</i>

以上です。

ところで、ソシュールの General Linguistics に出てくる "inflectional paradigm" のあたりをちゃんと読んでみたら、inflectional paradigm は associative groupings の典型的な、しかし特別な場合だと書いてありました。ということは、"a set of all inflected forms based on a single word" と定義されるパラダイムは、ソシュールの associative groupings=記号学・言語学の paradigmatic groupings の*一種*だということですね。Information Please という辞書サイトで paradigm を引いてみたら、paradigm とは別に paradimatic という形容詞形の見出しがあって、そこにはこの、ぼくが以前から構造主義を通して知っていた定義が書いてあります。言語学的および記号学的 paradigm(atic) の定義とその歴史はどうなっているんでしょう。図書館に行って調べれば分かることでしょうが、皆さんと一緒に考えるのも楽しいかと思い、書かせていただきました…・


Id: #a19990705024622  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 02:46:22 1999
In-Reply-To: a0043.html#a19990702123805
Name: くろき げん
Subject: 私がなぜ科学哲学ユーザーと科学論ユーザーの話を出したか

これは、和田さんの「黒木さんが何を伝えたかったのかあまりよくわかりませんでしたが…」という発言への回答です。

私が、科学哲学ユーザーおよび科学論ユーザーの話を出したのは、「科学そのものには全く興味がなくても科学哲学の方は学ぶ動機を持っている人達」と「科学批判の道具として利用するために科学そのものを理解するよりも先に科学論を学んでしまう人達」が存在しているという事実を前提に話を進めたいと思っているからです。主にそのような人達が科学哲学や科学論の権威を支えているのだと私は考えています。

そして、このような背景を念頭に置かない限り、なぜ「通約不可能性」などを強調する相対主義的科学観が特に「文系」の人々の間での自然科学観として一定の広がりをもってきたのか (和田さんの『世界』1999.7の論説の最後の節を見よ) を全く理解できないと私は考えているからです。

和田さんは『世界』の論説の中で、「通約不可能性」について一節を割いて、批判的な考察を述べられています。私が思うに、もう一つ見逃してはいけない論点があって、それは知識と権力の関係についてのある種の考え方についてです。この考え方は上で述べた「ユーザー」の方々の間で広く共有されており、その考え方を正当化するために相対主義的科学観を利用している人の方が多いのです。

その「知識と権力の関係についてのある種の考え方」をどうまとめて良いやら悩むのですが、その考え方の基本は、知識がどのような証拠と論理に支えられているかに注目するのではなく、その知識がどのような社会的な仕組みを通じて世間一般で受け入れられるようになるかに注目することです。どのような人物・集団・組織がどのような目的のためにどのような言説を広めるかを問題にするのです。 (ミシェル・フーコーについても私が説明しなければいけないのでしょうか? それはちと気が重いな。) そして、“科学”は言説生産側の危険人物の一人としてストーリーに登場することになります。

このような考え方をした上で、ある種の言説を他人に押し付ける権利がないと主張するためには、「通約不可能性があるので異なるパラダイム間の優劣は付けられない」という考え方が便利であることは明らかでしょう。なぜなら、もしも、パラダイムAがパラダイムBよりも優れているという確証がなければ、ある主張が、パラダイムAでは真実であり、パラダイムBではそうでないとき、その主張の正しさをパラダイムBの信者に押し付けることは不当であると主張できるからです。

そして、科学批判のために科学論を応用する場合には、ここで述べたパラダイムBの信者として、社会的弱者やマイノリティーを置くことになります。そのような政治的意図のもとで、科学論を利用しようとユーザーは考えているのです。この点を押さえておかないと、科学論批判に対して、熱い感情を込めて反論してくる方達の心情を理解することはできないし、問題のやっかいさも理解できないと思います。 (ソーカル氏のパロディー論文はこの問題に深く関わっています。)

和田さんが引用した金森氏の言葉の真意もおそらくこのような文脈に関係しているのでしょう。しかし、真意が具体的に何なのかは私にもわかりません。どなたか推測できる方がいれば解説をお願い致します。

もっと具体的な例を混じえた話にしないと、わかり難いですね。日曜日の深夜にこうして書いているのですが、なかなかそこまで手がまわりません。

いずれにせよ、科学の常識が何であるかを上で私が説明したような思想にどっぷり染まった人達に理解してもらうためには、相当な困難が予想されると思います。なぜなら、和田さんがその重要性を強調している「自分は(たとえば)相対論を本当に理解しているのか」の類の考察を避けることを、上の論理を適用することによって正当化できるからです。すなわち、あなたは科学に染まっているが、私はそうでない、だから私はあなたが正しいと言っている考え方を受け入れる必要は全くないのだ、というような自己正当化が可能になるからです。そして、そのような正当化を自分では行なわなくても、そのような正当化を行なう人の擁護はするというような人も登場するのです。 (cf. 私は相対主義系の人達のどこが嫌いか)

P.S. 現在、なぜか繋がらないようですが、理科教育MLにおける今年の2月から3月頃の「相対主義」に関わる議論に関するリンク集を作りかけのままにしてあるのを思い出しました。ここに置いてあるので、興味のある方は見て下さい。


Id: #a19990705002437  (reply, thread)
Date: Mon Jul 05 00:24:37 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990704215237
Name: くろき げん
Subject: ビンゴでおひっこし

ぎゃはは、それ面白いです。おおうけ!>黒猫の母さん

この方向の話は結構面白そうなので、さらに続けたい方がいれば、なんでも2に引っ越してそちらでやることにしましょう。


Id: #a19990704215237  (reply, thread)
Date: Sun Jul 04 21:52:37 1999
In-Reply-To: a0043.html#a19990702230839
Name: 黒猫の母
Subject: BUZZ WORDS BINGO

おやじパラダイムの用例じゃなくて申し訳ないのですが、
「パラダイム」みたいに、元々は特定のものORことを差していた用語を
マネージメント・コンサルタント(和訳はげたか)が濫用したあげく
陳腐化かつ意味不明になってしまう、という現象は米国でも盛んです。

それに対抗すべく人民が考案したのがBUZZ WORD BINGO。
要はパラダイム、ENPOWERMENT、WIN-WIN SITUATION、REENGINEERING
KNOWLEDGE MANAGEMENTなどの「おやじ用語」を並べたビンゴを
会議参加者に前もって配り、プレゼンテーションにその用語が出て来たら
マスを塗りつぶす、というもの。

話題になっていたのは知っていたけれど、先日家人が「某国際機関版」を
持って帰ったので大笑い。つまらない、CLICHEだらけの会議が非常に熱の
こもったものになったそうです。(裏技として、自分が欲しい用語が
出てくるような質問をしてもよい。)
Id: #a19990704043750  (reply, thread)
Date: Sun Jul 04 04:37:50 1999
Name: 川似
Subject: 「ビジネス文書パラダイム」

「ビジネス文書パラダイム」は完全に(1)ですね。モデルとして使うための例という。そう考えると、"a set of all inflected forms based on a single word" というのも(1)と類似した構造なわけですね。今になってわかった…。お粗末です…。

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管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
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