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黒木のなんでも掲示板 (0034)

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Id: #a19990109094533  (reply, thread)
Date: Sat Jan 09 09:45:33 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990109001155
Name: いなば
Subject: 問題は「自然科学」か?

 大’さんのおっしゃるとおりです。古川さんは「自然科学に限定」とおっしゃったがそんな必要は全然ない。再三繰り返しますが、最初の田崎さんの書き込みの「自然科学」を「人文社会科学」に入れ替えても完全に話は通じるわけです。鳥居さんは社会科学畑の話をしてるから自然科学畑の人たちに通じにくいんじゃない。あたしには田崎さんや和田さんのいってることの方がよくわかる。というか鳥居さんのいうことはさっぱりわからん。
 だから話を自然科学の領域に限定するかしないかなんて、まったくどうでもいい話なんだってば。
 本物の専門家なら、それこそ「葦の随から天井覗く」で、自分の狭いタコツボから何が見えるか、そこを掘り抜いた果てに一体どこにつながるのか、について素人に何かを感じさせてくれるものだと私は思う。かつて、社会主義経済・比較経済体制研究、とりわけ旧ユーゴ「自主管理」研究の泰斗岩田昌征氏が『社会主義の経済システム』(新評論)の第1章「現代社会の認識論」(社会科学方法論、知識人論として今日でも十分読むに耐える優れたエッセイ)中で現代がウェーバーの言う「精神なき専門人」の時代であることを居直り的に肯定したときに念頭に置いていたのもこういうことだろうし、私がこれを書いていたときに考えていたのもそういうことだった。失礼ながら鳥居さんからはそういう匂いがしない。これは必ずしも、まだ「卵」だから、とかそういう問題じゃないと思う。「魂」(これを自分の理論のキーワードとしている私としては過敏に反応してしまうな。ひょほほ。)などとご大層な言葉を使う割には、あなたの文体からはフーコーいうところの歴史的に特殊な形成物たる「内面」「自意識」の匂いしかしないのだ。
Id: #a19990109074457  (reply, thread)
Date: Sat Jan 09 07:44:57 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990109042357
Name: いなば
Subject: 解説

これはただのギャグですよ。それこそ「暮らしに役立つ48の殺人技」と同様の。人工無能「趣味の哲学君」とてとこかな? そんなに高級じゃないか?
Id: #a19990109042357  (reply, thread)
Date: Sat Jan 09 04:23:57 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990109001155
Name: くろき げん
Subject: 具体例を挙げて説明することは大事ですよねえ

時間がないのでこんなことをしてしまおう。ええと、これなんかも具体例が欠けていてわかり難いと思うので、どなたか解説をお願い致します。:-) さらに、構築主義とソシュールの記号論について書かれた英文のこれなんかもそうですよねえ、どなたか解説よろしく。:-) 適切な具体例の挿入はやはり難しそうですね。


Id: #a19990109001155  (reply, thread)
Date: Sat Jan 09 00:11:55 1999
Name: 大'
Subject: つまるところ、こんな違和感なのです。

「実数も虚数も数だから、数学は実数に限定してもいいか」というのと同じに聞こえるそうですが、ふるかわさんが書いたのは

また問題点が発散するのを防ぐため,自然科学に話題を限らせてもらいたい.(鳥居さんは自然科学でも社会科学でも同じ問題があるとおっしゃってるので,自然科学に話を限ってもなんら問題はないわけですよね?).

って事ですね。この「同じ問題」について話している限りは、どうせ例えるなら「実数も虚数も同じように足し算引き算が可能だから、(足し算引き算の話については)実数に限定してもいいか」ってのと同じ事なんじゃないかと思います。


俺としてはここからが本題。

同じ掲示でふるかわさんが書いている「具体例を出して」という話。おそらくふるかわさんと俺と(あと多分黒木さんもかな。出てこないけど。)が共通して抱いてるイライラ感と言うのは、何かハッキリとしない、何とでも取れるような抽象的な概念が、議論のキーワードとして登場してくるという所から発生してるんだと思います。
。。。と、ここで止めると、同じようなイライラ感が発生するんじゃないかと思うので:)具体例をあげると。。。

文学の研究(ひいては文学そのもの)だって近代科学の精神を背負っているわけで。 って文に登場する「近代科学の精神」って何だ?どういう内容を指してるんだ?? とか、もっとずっと前の掲示に登場する

それはもちろん日本などましな方で、命を危険にさらされている人たちがいながら・抑圧する側が外交的な弁説を繰り広げるが故に、残念ながら最も力を持つ西洋社会の代表者達が問題をそれこそ「表面的に」理解して本当の問題は蓋もあけずにお蔵入り、というケースがとても多いのです。

命を危険にさらされている人たちって誰?抑圧する側って誰?最も力を持つ西洋社会の代表者達って誰?本当の問題って何?とても多いってどれくらい?絶対数?割合?。。。とか、そういうのが気になってしまうのですね。決して意地悪で言ってるとか分からないフリしてカラんでるとかではなく、一つ一つの概念をきっちりツメてからじゃないと話が出来ない体質になってしまっている。「多分こういう事を指してるんじゃないかなぁ」と思ってもそれはこっちの妄想や誤読かもしれないので、読者の想像力にまかせるような書き方しないでそのものズバリをハッキリと書いてくれぇ、と、つまりはそういう事で、そう言うのを一つ一つ説明してるときりがなさそうだから実例を一つあげてほしいって事になったんじゃないかな。まぁふるかわさん本人に「違うよ」って言われるとキツイけど:)、少なくとも俺はそういう感想を持ちました。


あと、スウェーデン人の友人たちの話は「別に友人の国籍を持ち出す必要はないじゃん」って違和感を覚えたというか「日本人である全友人 vs スウェーデン人である全友人の対決に読めちゃうぞ」と思って書いたまでで、「この民族差別主義者め!」とか言いたかった訳ではないです (^^;;。ただ「社会の平均と個人差との議論をごっちゃにすると」って文に出てくる社会の平均ってどうやって算出したの?とか、どういう値が出たの?とかいう疑問はあります。:) いや、これは枝葉末節部分なんで良いんですけど。。。(^^;;


Id: #a19990108223925  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 22:39:25 1999
Name: ブタネコ
Subject: ローカルな寒さに豚肉の脂身を

絶対的な寒さが話しの肝腎なところなのに、ローカルな土地ごとの寒さの質問で恐縮ですが、『英語圏辺境のオーストラリアにもそれなりの「寒さ」があるようで。学問の中心は圧倒的に英米で』ってことに、オーストラリアの人口の少なさも関係してるでしょうねえ?
オランダのように画家も哲学も物理もすごい人が出てるとこでも、人口がすくないと言語構造が近い英語圏にひっぱられ気味みたい。
あと、オーストラリアへのインドネシアあたりの影響なんかも興味あります。それからオーストラリアでの英語圏以外のヨーロッパの受容とか。
朝鮮の欧米受容も相当ねじまがっている。日本経由ということでそうなったんだけど、初期の洋画の東京美術学校調とか中等教育の軍隊調とか。そして最後は北の赤い天皇だけど、あの方の体型がブタネコスタイルなのもイヤネ。まあ、今は韓国は直輸入だろうけど。

中島さんは、絶対的にあたたかい例をだされたわけだけど、今売りだされたばかりの、『ホロノミック量子場』の最初の10ページはあたたかい例の数セミれべるの解説で、共形場でふと梁さんのことを思いだしちゃったけど、彼はまあ在日の豊かな世代なんだろうけど(立教出だからお坊ちゃんに見えるのかな?)、日本人というより、日本にたまたまいる人ないし、日本語が母語の人全体で、絶対的にあたたかい例が増えればいいが、人口や経済力の割りには、まだまだなんか少ないような気がする。

古堂さんが質問を投げかけてる中国ですが、『世界』が少数派文系知識人を連続して登場させる企画をしてたとき、なんかほんとに少数派ねってそうとう寒い感じがした。
ソフトメーカーなんかで、日本のかなりの大学出も役にたたず、ずいぶん中国から人をいれてるけど、ミニ魯迅に彼等が変身するきっかけになる小藤野先生が、あちゃこちゃにいればいいのに。社会学科を出て高校の社会の先生をしてる人が、地域で働いている中国人と高校生の交流を企画するとか。
もちろん中国からは、微分幾何ならS.S.チャーンとかとんでもないのが出るけど、それは何か数学が人類普遍だってことの証明って思うけど、中華料理がいいのかな?毛沢東は豚肉の脂身が特に頭にいいと言ってたけど。
Id: #a19990108223900  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 22:39:00 1999
Name: 鳥居 美苗
Subject: Science, by science, of science, for science,

論点を一つ一つ整理してみたいと思います。
まず、私の立場と田崎さんの発言の関係について。
きちんと考えて書かないために明らかに不適切な文を書いたこと、およびそれが表現の未熟のためにいかにもえらそうな説教をするように見せてしまったのは私のミスだと言うのは、すでにおわびしました。

ただ、私は田崎さんのお感じになったものと私の感じているものが近いのではないか、という前提で議論していることは言っておきたいと思います。田崎さんの8日の発言を見ると、いよいよそう思います。これはふるかわさんの質問でしたね。理由を説明すると長くなるので、後にまわします。軽視しているわけではありません。

ふるかわさんのもう一つの質問、「自然科学に限定してもいいか」。結論から言うと、Noです。私には「実数も虚数も数だから、数学は実数に限定してもいいか」というのと同じに聞こえます。(数学を例に出すと管理者さまの突っ込みが恐ろしいのですが。)どちらも科学だから、両方とも均等に視野に入れるべきだと言うのが私の立場です。それに、詳細な具体例など理系研究所に言ったことのない人間が「経験から」持ち出すことができるはずがないのはあたりまえで、それを真剣に要求されても肩を竦めるほかありません。
ただ、あとで具体例が必要になったら、自然科学から探すよう努力はしてみます。その場合、「それは君の経験じゃないだろう」という批判はしないで下さい。するくらいなら、そちらも社会科学の土俵にあがって頂きましょう。

自然科学・社会科学・社会学について。
確かに、社会学と言うのはみなさんからばかにされがちな学問でもあります。
文学者あたりに「何でもありで適当なことやっている」と言われてしまうくらいですから。
ただ、世界と言うのはたった一つの切り口で捕らえられるものではなく、いくつもの「分野」というものは、それぞれに補完的な役割を果たすものです。これには、御賛成いただけると思います。
私にはフランソワーズ・サガンの初期の作品の文体を研究するのに何の意義があるのかさっぱり分かりませんけれども(それで博士号取った友人がいますが)、文学の研究(ひいては文学そのもの)だって近代科学の精神を背負っているわけで。だから、「社会学と『根本的に』違う」とは言えません。
同様に、自然科学も社会科学も人文科学も、恒久普遍の真理の存在を信じ、それを追求する点で、一様に「科学」だ、と言うのは言うまでもないことです。
ただ、恒久普遍の真理という発想の元に、地中海的一神教がある(逆かも知れませんが)というのは、山形さんでもそう反対なさらないと思いますけれど。
危ない疑似科学…まあ、コント自身危ない人(というか「アブない」人)でしたから、あの時点では問題がありましたね。どう危なかったかは…小説のネタにしたいので言わなくてもいいですか?ただ、化学だってもともとは錬金術なのだし、人類学は西洋の優位を説こうとしていた学問なのだし、始めがどうだったかはそれほど重要なものではないでしょう。評価は総合的に下すべきで、デュルケムやウェーバーの存在でそれは帳消しになった、と結論づけてよろしいですね。(ええと、どなたの指摘でしたっけ。)

ただ、フランスの社会学はかなり歴史学・哲学的要素が未だに強いようです。アンチ・デュルケム(これもどうしてデュルケムなんて読むのか不思議ですが)の時代もありましたし。まあ、ブルデューが己の立場を堅持して高等師範学校では右翼扱いされ、今は当時の級友から左翼扱いされる、というような御国柄ですから。また、フランス人が「自分を知らなければ他人は分からない」という理由で結局自分のことしか見ていないのは事実です。ヨーロッパ以外の社会のことなど、学問的にはほとんど何も知らない、と言うかはじめから考えていない。で、こちらがそこに触れると、「僕はそのことは知らないから」。素直と言えば素直なんですが。
また、ブルデューにしても彼の理論と彼自身の行為の間に明確な線を引いています。Contre Feuxなどを読むと、彼の研究の「文化的」背景が垣間見えますけれども、それは理論的著作では決して使われませんよね(もちろん、反映されてはいますが、イデオロギー的主張はしていません。)それゆえに、非フランス語圏では彼の理論の批判をする人もいるのですが。そのことを考えると、フランスの社会科学と言うのは非常に特殊で、よくも悪くもコント的な理論重視、法則重視であるのかも知れません。このあたり、フランスのエリート主義とのかかわりも見なくてはならないでしょうけれども、ここでは省略。一方、シカゴとは確かに…アプローチそのものが違います。
全然関係ありませんけれども、ブルデューの日本語訳は誤訳がひどくて(文法の基礎的な間違いが多すぎる)、読まない方がいいくらいですね。ブタネコさまにも御同意いただけると思いますけれど。
少しずれましたが、次は本論、文化と科学について…まとまるといいのですが。
山形さまの御提案通り、「続く」です。ここで書いた問題に火がついていなければ、の条件付きで。
Id: #a19990108222443  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 22:24:43 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108184409
Name: くろき げん
Subject: ö などの使用について

ええと、顕正居士さん、私自身も含めて、ここの常連の何人かが、 Netscape Navigator 2 を使っていて、それだと日本語とウムラウトなどを同時に表示できないのだ。文字化けしてしまいます。 (Lynx (私の手許にあるのは 2.7.1) だと ö を oe と表示してくれるのだ。) こういうことがあるので、使うとしても、それなりに注意して使った方が良いと思います。例えば、文字化けの害が致命的にならないように、「Gauß によると」のように書く場合には、 ß の後に空白を入れた方が思います。

こういう技術的なことがらに関する回答は楽だな。中島さんへの回答は長くなりそうなので後回しなのだ。


Id: #a19990108220136  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 22:01:36 1999
Name: 鳥居 美苗
Subject: まだ手は痛いんですが

山形さま
手術を口実にしたつもりはありません。実際、片手で打つと辛いんです。お分かりだと思いますが。ちょっとだけ書こうとしてとまらないで結局長くなってしまうのは事実ですが、あとでまとめてちゃんと書きますので、逃げてるとは言わないで下さい。言いたかったらまず指の付け根のリンパ腺2cm切ってみて下さいね。
そろそろ痛みも引けてきましたし。時間があるので前のコメント読み返すこともできましたし。
ちなみに、手にされる注射の痛みは猛烈です。手術後も、ちょっとでも使うと後で激しく痛むのでけっこう注意がいるんですよ。(うっかり本を左手でもって読む、なんてことができない。)
お尻の抗生物質の注射も痛いですね、あとが。
そういう話ではなくて…。

おばさんの件は、とりあえずここで解決したと言うことでいいでしょうか。
お互い言葉には気をつける、と言うことで。気をつける言葉の内容は違いますが。

国籍で人間をわけられるか。国ごとの文化、なんていうと曖昧になるけれども。もちろんスウェーデン人でも嫌なやつはいます。アジア人見かけたらだれでも「人身売買妻」扱いする人はいるし。
ただ、一般的に(私の友人たちに関しては)、ジェンダーに関しては無頓着です。これは国の制度の問題もあると思います。文化というより制度がジェンダーを無視して20年は経っているから、その状態で育った子供はもう実感が湧かないようです。
社会の平均と個人差との議論をごっちゃにすると、それこそ馬鹿馬鹿しい議論になってしまいます。
「日本には性差別はない!」と一般論として堂々と言える方はいらっしゃるでしょうか。「日本人で、性差別をしない者もいる!」とは別の次元。これ、文学と人類学について前にちょっと言ったことと近いかも。
あ、また長めになってしまいました。次は本題に入りたいと思います。
Id: #a19990108213148  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 21:31:48 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108143856
Name: いなば
Subject: 日本の科学の「文化」不在

についての田崎さんの話はあまりにもはまりすぎで私には面白かったわけです。なにがというと、丸山真男『日本の思想』(岩波新書)の「タコツボ」対「ササラ」の図式そのまんまのお話で。今でも自分の現場でまさにそういう感慨を抱いている人がいるんだなあ、とびっくりしました。
 とは言え私自身は若輩で世間も狭く、今回が初の海外暮らし、しかも子供のおもりで手一杯と来ては「日本は寒い、それに比べて西欧は」とか実感を持ってはとうてい言えない。というか、この地、英語圏辺境のオーストラリアにもそれなりの「寒さ」があるようで。学問の中心は圧倒的に英米で、テレビ番組の大半もヒットチャート上位も英米。
 ただ丸山にとっても田崎さんにとっても本当の問題は絶対的な「寒さ」であり、欧米と引き比べての相対的な「寒さ」は二の次だったのだ、と思いますが。その「寒さ」は欧米志向の途上国にとってはもちろん、欧米人にとっても無縁のものではないはずだ。その意味での絶対的な「寒さ」なら何となくわかる気がします。たとえば「話が通じない」ことへのいらだち。ソーカル事件の背後にも、ソーカルの側にも批判された側にも、そのような「寒さ」の苦しみがあるのかもしれない。ソーカルに批判されたポストモダン文化人はたぶん、性急に「タコツボ」をこわそう(リゾーム?)として、実は全然ちゃんと壊していないし、壊したところで新しい道をつけてもいないのに、何かやり遂げた気になって慢心していたのかも。
Id: #a19990108184903  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 18:49:03 1999
Name: 大'
Subject: 根底には食文化があるのだ。:)

もぉおばさんネタはいいから、本題に戻ってよ。。。とか思ってたんだけど、やっぱり気になったので。

ともかく、男の女ので物事を判断するのって、つまらないものですよね。わたしがスウェーデン人の友人たちと話していて気楽なのは、彼等はなによりそういうことを考えないからです。

前半部分には賛成なんですが、それと「日本人のスウェーデン人ので物事を判断する」のは両立するのかなぁ。なんか納得がいきません。うぅ〜ん。こんな事書いてると、さらに本題から離れてしまうだろうか。(^^;;

関係ないけど、うちの研究科は「いんたーなしょなる かるちゅらる すたでぃーず」なんですよね。こういう話題が続いてると、割と緊張するのだ。:)


生物にいた頃のボスと話してて「ヨーロッパだと10年20年じっくり腰をすえた研究ってのが時々あって、あれはすごいよなぁ。全然音沙汰なかった奴が突然どっか〜んってブレイクスルーになる論文出すんだぁ。」って話になった事があります。日本の科学に文化がないって話はこのあたりと繋がってくるのだろう、と言うのが俺の理解です。「文化がない=近視眼的研究ばっかり」という理解。ちなみにボスの分析によると「あぁいうしつこさは、肉喰ってる奴らにはかなわねぇよなぁ。」だそうです。:)


Id: #a19990108184409  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 18:44:09 1999
Name: 顕正居士
Subject: 仏語、独語の表示

ある掲示板でどのタグや符号が使えるか、其ほど明らかでないのが困ります。
此処、黒木さんの掲示板では予め見られるのが親切です。ウムラウトは使えるようです。
Es war ein König in Thule
Gar treu bis an das Grab,
Dem sterbend seine Buhle
Einen goldnen Becher gab.
ßも大丈夫ようです。多分、name entityを使えば、仏語、独語が日本語
フォント設定のまま、見せられます。見る側の立場ですが、小生はまだIE3
なので問題ないと思います。
Id: #a19990108162756  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 16:27:56 1999
Name: 時田 節
Subject: 鴨様

一松信先生のはなしは、『解析を人に教えるんなら、基礎論を無視したらいけないよ。』というものでした。
そして、『伝統的なRolleの定理の証明には、その他に「弱い形のKonig(oはウムラウト)のLemma」を要することがわかっている。』なんですが、KonigのLemmaも、それを使った証明もまだ見つけられないでいる状態で、見つけるためにたいした努力をしているわけでもない自分自身をある意味で、鴨さんのいう『数理論理学 に対して歴史的背景を聞きかじっただけでわかったつもりになって、テクニカルな検 証を行なおうとしない態度』に該当するのではないか?これは裏返しじゃなくて、受容の問題そのもので、受容の問題を人ごととしてはしゃべれないということです。

もちろん、超まじめ人間をきどっているわけじゃないし、誰かがKonigのLemmaならここから出発してこのぐらいでわかるんじゃと教えてくれたときに、勉強する気になるかもしれないということですが。
ちなみに一松先生は「Robinsonの超準解析は自分でもすっきりうけとれなかったし、個人的意見としては、否定的」などとも。
僕自身の知識は、『実数の構成』というと、へー切断が数なのって感激したはるか昔の思いでと、杉浦さんの教科書の最初の80ページくらいで、80ページもがっちり書いてあって、それからロル、平均値と進んでいて、これで何でいけないの?とか、杉浦さんの教科書って例外的に立派な受容の例では?と考えたり。
基礎論は前原さんの数学基礎論入門なんかを昔読んだ程度ですが、そういうテキストは命題論理と述語論理のイロハからはじまり、自然数論へという感じで、実数については書いてなかったと思う。
それで、次の点でまよっている訳です。
数理論理のプロが書いた読みやすい、実数を構成していくテキストで、ここまでの構成作業で、こういう定理は問題なしとか、そういうのがあるのかしら?
あるとしたら手をだそうかな〜?(これは個人のまよい)

『数理論理学の数学哲学への混同による偏見が根深く』は、わかるようなわからないような。 数理論理学のイロハも知らずに数学哲学者を自称する人は、すべての学問の敵かも?
数学哲学ってどのあたりを言うのか、タルスキーなんか数理論理学者兼数学哲学者だったのか?
離散数学のRotaなんかが、数学の文化について深く考察してるのなんかを数学哲学というなら、すっきりするけど(特にIndiscrete Thoughts は大抵のアメリカの大学町の本屋でまだまだ平積みみたい)。
Id: #a19990108143856  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 14:38:56 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108125519
Name: 田崎 晴明
Subject: うーむ、勇み足だったかな?

あまり十分な資料などもなく否定的なことを書いたのはよくなかったですね。 反省。 それに「『文化』はある」、「いや『文化』はない」と押し問答をしてもしょうがないですね。 要は、「いい自然科学」ができるかどうかですから。

ぼく自身は、身近なところで、構成的場の量子論、厳密統計力学、あるいは、確率論の分野での様々な物理的な問題の事などを思い浮かべていました。 ぼくが学生の頃、日本でのこういう分野の状況を見た後、アメリカに行って衝撃を受けました。 単純な話で、物理っぽい連中と数学っぽい連中がいっしょに集まって、ちゃんと話を通じ合わせながら、楽しくやっていた。 (今では、日本の状況もかなり変わってきています。)

共形場の理論の場合には、まず始めに、物理の中で、統計物理的なアプローチと(いわゆる)素粒子論的なアプローチが交流するところから爆発的な発展のきっかけになって、ほぼ一気に数理的な人たちも巻き込む形で進んだのだろうと漠然と理解しています。 そういう風に「数理になるぞ!」という事がはっきりした後で、日本では素晴らしい動きがあったというとらえ方をしているわけです。 数理になるかならないかがわからないドロドロしたところから新たな数理の研究対象を抜き出してくるプロセスが弱いのではないかということです。 でも、ちゃんとしたデータに基づいてしゃべっている訳ではないので、間違っていれば教えて下さい。 (それに、確かに、佐藤スクールというのは突出していたのだろうと思います。)

ぼくも、仕事のことは基本的に e-mail で済ませるので、誰かが日本にいても外国にいても、あまり違いはありません。 それに、特に日本の独自性とか日本での研究とかにこだわろうという精神も持っていません。 ただ、我々のように一応研究者として自立した者がそれまでの研究分野で研究を続けていく場合は良いとして、何か新しいことを始めようという場合、あるいは、これから研究を始める人たちがどのように育っていくかというようなことを考える場合には、どういう「空気」に囲まれているかという事がかなり大切なのではないかと感じているということです。

昔、ずっとアメリカにいらっしゃる有名な数学の先生のお宅にお邪魔したときに、いっしょにいた日本の方(やはり有名な数学者ですが)が、先生は何故日本を離れたのかと聞かれました。 たしか、先生のお答えは、「寒かったから」だったと思います。 多分、先生は同じ質問を何度もされていて、これを定番のお答えとして用意していたのではないかと推測します。 「寒い」という言葉の真意はわかりませんが、何となく、そうなのかなと思ったりしたものです。


Id: #a19990108140419  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 14:04:19 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108120855
Name: 鴨 浩靖
Subject: 続 実数の構成

ここで一松さんが言っているのは、「微分学の基本定理を数学基礎論の視点から眺めるとこんなことが言える」であって、実数の構成が数学基礎論に属すとも属さないとも言っていないことは、認めてもらえますよね。

前にもここに書いたことがあるけど、数理論理学(数学基礎論)を専門としない数学者の一部に、数理論理学の数学哲学への混同による偏見が根深く残っています。その偏見を助長する発言を、こんなところでしてほしくないなあということです。時田さんご自身がその偏見に毒されているかどうかは、わかりませんけど。

これは、今、話題の自然科学の受容の問題のちょうど裏返しの問題です。数理論理学に対して歴史的背景を聞きかじっただけでわかったつもりになって、テクニカルな検証を行なおうとしない態度が、プロの数学者を含めて、広まっているということです。


Id: #a19990108125519  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 12:55:19 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108101930
Name: 中島 啓
Subject: 日本の自然科学に本当に文化はないんでしょうか?

数学者の中島と申します.

最初に田崎さんの記事を読んだとき,

1. そもそもなんで「日本」にこだわる必要があるのだろう? いくらでも海外との交流があるのに..

2. 数学はおそらくは自然科学と言ってもいいだろうけど, 日本の数学には『文化』があると断言できる. 実際, 日本発の理論は, いくらでもある.佐藤スクールの代数解析とか代数多様体の森理論とか.これは, 歴史的に見ても非常にユニークで世界の他の地域で同じ理論が同じ形で発展したとは考えにくい.

とあまり納得できませんでした. 記事が短くて具体的なことは書かれていなかったので, 多分「自然科学」と言う言葉に私が考えたこととは違ったこと(具体的には, 教育のことかなと想像しました)を言われているのだろうと思っていました.

しかし, 今回の記事を見ると, どうも田崎さんの「自然科学」は私が考えていたことに近いみたいで, さらに次のようなあまり納得できないことがその根拠となっていたようです. 私は, 混乱してしまいました....

>たとえば数学と物理の交流をとってみても、そういう印象は非常に強い。
>日本で数理物理的な研究を行う数学サイドの研究者は(黒木さんを含めて)たくさんいるけれど、
>そういう研究テーマは基本的には欧米で確立したもの。

ここまで言い切られてしまうと, ちょっと待てと思います. 黒木さんの名前が出たので, 共形場理論を真っ先に思い浮かべましたけど, 土屋-蟹江がなかったら共形場理論はここまではやらなかったし, もしくはそれ以前のソリトンと佐藤グラスマンの話とかがバックグラウンドにあります.

黒木さんどう思われますか?

>むこうでは、物理の生々しい問題の中で真に数理的に面白いものが、
>研究者のネットワークを介して数学サイドに伝えられ、純粋な数学と
>して洗練されるという生きたメカニズム(「文化」の一つの現れ)がある。
>今の日本には、残念だけれど、そういうものはない。 日本の物理の人
>が長年研究しているテーマが、あちらで数理物理に「格上げ(?)」され
>た後で、あくまであちら経由で数学者が乗り出すというのが普通のパター
>ンに見える。

これもあんまり納得できません. 私も, ここ何年か弦理論の人たちとつながりがあるんですけど,だいたいメールで直接質問が来ますよ. だから日本も海外も関係ないかと思います. もちろん日本の方とはメール以外でもいろいろと接触があります.

数学と物理の間の交流は, 日本は盛んなほうだと思います. Seiberg-Wittenの論文が出たあと, 海外では彼らの提出した偏微分方程式(Seiberg-Witten方程式あるいはモノポール方程式)を応用する人たちはいっぱいいたんですが, 日本では彼らの物理の論文を読んで背景から理解しようと言う試みが為されていました.この話を海外ですると, へえ, って言うような反応でしたね. これなんか, 海外には文化がなくて, 日本にはある例だと思いますが, いかがでしょう.

まあ, このあたりは分野の進歩も激しいですし, 個人的な経験ですから, 反対の例もいくらでもあるんでしょうか? 田崎さんが, 具体的に頭に思い浮かべられていた例を挙げてもらえませんか?
Id: #a19990108120855  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 12:08:55 1999
Name: 時田 節
Subject: 鴨様

僕の書き込みの経緯は、12月5日の数学教育学会に行き、そこで一松信先生のはなしをきいたことから始まります。そのときの一松先生のレジュメを写すと。
微分学の基本定理:区間[a,b]でf'(x)>0ならば、そこでf(x)は単調増加;
についても、伝統的なRolleの定理→平均値の定理→  というコース以外に、おびただしい数の別証明が記録されている。多分最も「自然」なのは、区間縮小法→次の「平均値の不等式」を経由する道だろう。---吉田耕作先生の晩年の論文もある。
区間[a,b]の各点でf(x)が微分可能ならば、全体の平均変化率[f(b)-f(a)]/(b-a)以下の値の微分係数を持つ点f'(c)がある。
これが優れているのは、単に教育的配慮だけではない。この定理は数学基礎論でいう「最低の構成的な体系」の中で証明できる。それに対して伝統的なRolleの定理の証明には、その他に「弱い形のKonig(oはウムラウト)のLemma」を要することがわかっている。
また、ハイネ・ボレルなんかも下の方の構成にははいらないと。
それでKonigなんて初耳だったので、家にかえって数学辞典をみても公理的集合論123FにKonigの条件てのがあるだけで、何かで勉強しなきゃな〜と思いながら、何を見るべきかもわかんないままほっぽといて、こういうのをほっぽっとくという態度も『「理論的基礎付け・ 方法論・哲学的含意などへの視野の広さ」という意味の「文化」をかいた日本的受容かな〜』と反省のポーズをしたのが、先の書き込みでした。
Id: #a19990108114030  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 11:40:30 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108034651
Name: 田崎 晴明
Subject: normal science

伊勢田さん、

最後の部分に、つい真面目に反応してしまいます。(忙しいのになああ。)

normal science という考えをどの程度受け入れるかというのは微妙なのですが (要するに何が normal かという絶対基準はないと思っているので)、 ぼくは normal science をやるにも「文化」は必要だと思っています。

exemplars ということを考えると、実際の科学の研究の階層構造は非常にはっきりします。 (普通の)物理屋が教育されて、論文を書くようになるまでの間には、明らかにに何段階かの異なったレベルの exemplars に接することになります。 最初は、学部時代に読む教科書、それから、日本語の専門の本、英語の専門の本、と進み、 大学院に入ってからは、その分野の重要論文、そして、その分野の最近の論文に至る。 どんどん狭く、細かくなっていく。 (価値判断ではなく、言葉の便利のために、広い範囲をカバーする初期の exemplars を「高い」レベルの exemplars と呼び、細かいものを「低い」レベルの exemplars と呼びます。) 自分で論文を書く段階になると、まさに自分にとっての the exemplar となる論文が あることが多く、スタイルなども真似をする。 ほとんどの場合、それは自分程度の「小者」の書いた論文で、たとえば同じ研究室の 先輩の論文だったり、同じテーマを扱っている外国のグループのドクター論文だったりする。 つまり、exempalrs の階層の中で一番「低い」レベルにあるものです。

これは、いわゆる「たこつぼ」の描写に過ぎませんが、こうやって視野が狭くなっていく のだけが、唯一の選択肢ではないはず。 具体的に仕事をするときにも、自分が通過してきた(あるいは新たに獲得した) exemplars たちの階層の中で ある程度まで「高い」レベルのものを自分の中に持っていることは可能です。 もちろん、最終的には、自分の先輩の論文しか見えなくなって、永久にそこから出てこない狭い人もいます。 そういう人は、同じ研究室の仲間としか話が通じないので、彼女ら・彼らが増殖すれば、自然科学は分断され、極めて「文化」不毛になる。 しかし、ある程度「高い」レベルのものを exemplars として保ちながら仕事を続けるのは、大変な事ですが、不可能ではないと思いたい。 特に、研究者として進歩するほどに、より「高い」レベルの exemplars を思い起こし、そのレベルから自分の仕事を見ながら研究を進められるようになるということができれば素晴らしい。 そういう人が十分に多ければ、かなり異なったテーマを研究している人たちどうしでも「話が通じる」、ある意味で豊かな「文化」があるということになります。 (なぜ、そういう「文化」が望ましいかについては、教育や、包括的な意味での【文化】の問題とも関わるので、今は安易には踏み込みませんが。(要するに、野生動物モードのままということ。))

ぼく自身、現役の自然科学の研究者の端くれである以上、こういう事を発言するのは、デリケートなことですね。 言うまでもないことですが、ぼくは自分が「高い」レベルの exemplars を保っている優れた科学者であるなどと豪語するつもりはもちろん微塵もありません。 自分の能力の低さは重々承知の上で、まだまだ仕事はできるはずだから少しでもそういう方向を目指したい、そして、ぼくなんかよりも若い人たちにも意識的にそういう方向を目指して欲しいなあと心底思っているということです。 (あ、なんか、またモードが変わってしまった気がする。)


Id: #a19990108111208  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 11:12:08 1999
Name: 山形
Subject: とりいさぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁんったら。

「おばさん」ということばの意味については、二回目の書き込みの最後に説明して あるのだ。そしてそこで挙げられているいろいろな要件になぜ鳥居さんが該当する と判断したかの理由についても、説明しているのだ。読んでね。

でも、そこに同時に、「気に障ったらごめん」と言ってあやまっているし、それ以降 はもう使っていないのよ。ほんとうにごめんね。そこまで気にするとは思ってなか ったわ。最近、いろんな人(たとえばここの常連のみほさんとか)にこのことばを使ってみると、反応がみんなかなり極端なことが多くて、おもしろがってあち こちで実験してみてるという、単にそれだけの話なの。

ただし、鳥居さんは、「おばさん」のひとことを口実に使いすぎてる。

 まず、ぼくの議論のなかで、「これだからおばさんは」とかいうみんなの思いこみ (だいたいたここに出入りしてる人たちは、たぶんそんなものもってやしないのだ)によりかかって、 論理的に成立していないことを言い立てている部分はあるかしら?

 ぼくはないと思う。あの同じ文面を、黒木さん相手に投げても、稲葉さん相手に投げ ても、まったく問題はないだろうと思うわ。それによって論旨が成立しなくなる部分は まったくないはずよ。

ぼくのいままでの一連の発言で、そういう部分はあるだろうか。あるなら、鳥居さんは それをバーンと指摘すればいいのよ。そうすれば山形は、 この場でみんなの集中砲火を浴びて、自滅すちゃうわよ。あるいはせめて反省くらいは するんじゃない? しかし、鳥居さんはそれができていないわね。「先入観がある」という 先入観をくりかえすばかり。だめよぅ、そんなんじゃ。

グチか議論か――それは書いてあることの中身を見てわからないだろうか。ぼくは あなたの書いたことをちゃんと読んで、それを受けて「でもこうでしょ」という書 き方をしている。「鳥居はXXだからまともに議論してやる必要はない」なんて言っ てる部分は皆無のはず。だから野崎の引用もピントはずれじゃないかしら。そもそ もあんな引用で補強する必要のある話とも思わないけれど。  でもとにかく、ぼくのやってるのが「聞く耳持たない」というのとはちがうのが わかってもらえないのかしら。悲しいわ。

そして最後に一つ。これを書くと、反発も大きいだろうけれど。

 手の手術を口実に使うのはやめてくれないかしら。

 手が痛いから書けない、と言いつつ、あなたすごい量の書き込みをしておるのだ。 身辺雑記は書きつつ、そして大事ではないと称するおばさん話については延々と 書きつつ、あなたは指摘された問題点の一つにも答えようとしていない。「男の女ので物事を判断するのって、つまらないものですよね。」なんて、だれがそんな話をしてるんだぁ。一つずつでも論点を整理しつつ、「つづく」とやってくれれば、建設的な話も できるのに、それは手術を口実に回避してるぅ。ずるいずるい、そんなの。

じゃあ、早期回復をお祈りいたしておりますよ。


Id: #a19990108101930  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 10:19:30 1999
Name: 田崎 晴明
Subject: 野生動物モードで

短く書くつもりが、結局長くなりました。 またしても、かなりわがままな発言になってしまいました。
「日本の自然科学における『文化』の不在」とぼくが書いたのは、多分に理屈を離れたものだと思っています。 (こういう書き方は不評を買うでしょうが)かなり本能的に理論物理をやっている「野生動物」として直的に思っていることを言ってしまったという感じです。

「『文化』がない」というのは、定義、理屈を離れた感覚で、「(研究をしていて)寒い」、「寂しい」、「(人と話しても)楽しくない」、「楽しい話が聞けない」、「人の研究の面白さがいまいちぴんと来ない」、「自分の仕事のおもしろさもわかってもらえない」、・・・みたいな事でしょうか? 環境のせいだけでそうだと言っているのではなくて、こちらにも責任はあるという意味で。


もう少しまともな言葉で言えば、「文化」の一つの現れ話を拡大させないために、自然科学の研究という極めて狭い範囲にだけ限って話をします。 教育の問題は、猛烈に大切ですが、猛烈にデリケートになる。 ぼくも教育者の端くれですが、これは「野生動物」としてではなく、(好きな)仕事としてやっているので、こちらの感覚も大いに違う。)を、「研究者どうしが研究にとって意味のある話をきちんとできるか」という「連結性」に見ることができると思います。 「意味のある」の定義などはデリケートですが、仮に何らかの基準を作ることができたとして、こういう「連結性」の判定が可能だとすれば、たとえば日本の全ての研究者の集合を考えて、上の意味で「連結」している人どうしを線で結んでグラフ構造を作ることができます。 このグラフ全体がどういう構造をしているかというのが「文化」の度合いを知る一つの尺度になるのではというわけです。 全ての点が他の全ての点と直接連結しているという「完全連結グラフ」は(「意味のある」の定義をよほど広く取らない限りは)望むこともできないでしょうが、たとえば、「友達の友達は・・・」の流儀で色々な人がつながっていって、最終的には全体が連結したネットワークになる可能性もあります。 しかし、ちゃんとつながっているのは、同じごく狭い研究分野の仲間だけで、グラフはばらばらに分断されているという可能性もあります。 (本題からは離れますが、これは、静的な「パラダイム」(この状況に適切な意味でこの(便利な)言葉を使ったとして・・)を認知する操作的な方法と見ることもできるかもしれませんね。 「意味のある」の基準の取り方によって、「パラダイム」への分類は変わってきますが、ぼくは(ごく素朴に)「パラダイム」というのは、本来、階層構造を成すものだと思っています。 あまり、そういう記述は見ないですが。 (物理学で「科学革命」が何度か起きたかもしれないが、そもそも、「論理を使って世界を記述する」という大きな「パラダイム」は、かなり根性をもって続いている。))

非常に単純なものの見方ですが、欧米のように自然科学がより広い知の営みの中から自然発生的に生まれてきたところでは、上のグラフ構造はかなりしっかりと連結したものになっているように見える。 他方、完成して分科してしまった後の自然科学を、それぞれ別個に輸入した日本では、グラフはばらばらのままだという気がする。

たとえば数学と物理の交流をとってみても、そういう印象は非常に強い。 日本で数理物理的な研究を行う数学サイドの研究者は(黒木さんを含めて)たくさんいるけれど、そういう研究テーマは基本的には欧米で確立したもの。 むこうでは、物理の生々しい問題の中で真に数理的に面白いものが、研究者のネットワークを介して数学サイドに伝えられ、純粋な数学として洗練されるという生きたメカニズム(「文化」の一つの現れ)がある。 今の日本には、残念だけれど、そういうものはない。 日本の物理の人が長年研究しているテーマが、あちらで数理物理に「格上げ(?)」された後で、あくまであちら経由で数学者が乗り出すというのが普通のパターンに見える。 (もちろん、こういう事については、第三者的に批判していられる立場ではないわけです。 めちゃめちゃ非力ではありますが、何とかしなくてはならないと、思っています。)


で、それでは「そういう状況の何が悪いんだ?」という問いがあるわけで、それについても、(常識人モードで)色々と考える事はできると思います。 でも、ここは、(卑怯にも)一気に野生動物に戻って言わせていただくと、このままでは、「寒く」て、「寂しく」て、いやだからなんとかしたいよおという単純素朴な発言なわけです。


Id: #a19990108100007  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 10:00:07 1999
In-Reply-To: a0033.html#a19990101150234
Name: 鴨 浩靖
Subject: 実数の構成

遅い反応ですが。

この文脈で「実数の構成」というのは、実数の公理的構成、つまり、実数体の特徴づけのことだと思うけど、それって、特に数学基礎論ではないでしょ。特にどの分野ということなく、数学の多くの分野に共通の基盤では?

それとも、PA2だとかZFだとかでの実数の表現のこと? だとすると、なぜ、「高校生に平均値の定理をしゃべっていて……」なのかわからない。


Id: #a19990108091528  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 09:15:28 1999
Name: いなば
Subject: そいえば

鳥居さんは村井紀『南島イデオロギーの発生』とか大月隆寛『民族学という不幸』とか読んだことはあるの? あるいは酒井直樹とか?
Id: #a19990108082155  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 08:21:55 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990107073957
Name: いなば
Subject: ついかのつづき

 つまりですな、社会科学的日本文化論に意味がないとはもうしませんが、その来歴を考えるならば、注意しなければならない、ということ。戦後近代主義の「日本は何でこうなんだろう」という問いは安全圏から日本という対象を眺めてのものではなく、その日本は自らの足場、自らの一部、しかもそのままほっとくわけにはいかないこまったちゃんに他ならないわけで、彼らがウェーバーのWertfreiheitにあれほどこだわったわけもそこにある。理論と実践を明確に区別しつつ、それを同時遂行しよう、という。
 でも当然そこには負の遺産もあるわけで。よく言われるのは「西洋近代」を理想化して祭り上げた、という批判です。これには彼らの「近代」は歴史的実体としての西欧ではなく、方法的公準であるから別にいいんだ、てな反批判があるんだけど、やっぱりそれではすまない。つまり、西欧を方法的公準、理想の「近代」の母胎としてのみ扱って、そのリアルな認識をないがしろにしていいのか、ということ。そして第二に、そうくると、「日本」もまた実体ではなく、克服すべきものについてのいわば負の方法的公準になってしまってはいないか、ということ。
 つまり、近代主義にとっての克服すべき日本というのを、仮に現実の日本と社会科学の中の日本的契機に区別するとすると、実は彼らの研究において後者が一人歩きし、前者を、現実の日本のリアルな認識をゆがめていったのではないか、ということ。戦後の「日本文化論」の大半はその残骸の上に成り立っている。それを克服してリアルな認識を組み立て直そうというのが今日のポストモダンの良質な部分だと思うのだが。
 ところで、鳥居さんへの山形さんのコメントは対等な議論じゃなくて、たしなめ、叱りつけ、説教であったのだ。ところが「おばさん」の一言で鳥居さんはその事実から逃避するいい口実ができました。これは実に不幸なことです。きちんとしかってもらえるチャンスだったのに。
Id: #a19990108074228  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 07:42:28 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990108034651
Name: はるひこ(などと書くと、また田崎さんに迷惑がかかってしまうかな。)
Subject: Re: なぜ「文化」が必要か

伊勢田さん、
下手をすれば基礎研究 なんかにお金をつぎ 込まない方がみんな(理論物理学者等の少数者を のぞいて)幸せになれるんだ、という議論だって成立するかも知れない。
これは単なるちゃちゃですが、理論物理学者は実験家に比べれば、研究費がなくても割と研究の手段は残されているのではないですか?実験家にとっては死活問題だけど、理論家は紙と鉛筆さえあれば。(だから田崎さんやソーカルには予算をまわさなくてもいい、と言ってる訳ではない。)ソーカルの動機は物理の研究費が減らされたからだなんていう人達は、ずいぶん乱暴ですよね。
直接関係がありそうなのは5だけど、 理論のレベルでいえば日本の科学なんてものが世界の科学から独立して (日本物理学とか 日本天文学とか)存在するわけじゃないだろうから、 これもあんまり意味がありそうじゃない。6あたりはけっこう 言えそうだ けど、この場合は日本の科学の国際競争力が高まるのが なぜ望ましいかってつっこまれたら、やっぱり、それ自体として 望まし いって答えになるのかな?(オリンピックの日本選手団みたいなもんですね ---するとこれは結局2につながるのか。) 7は 「日本の科学者がきちんと貢献しないと科学の発展が阻害される」 という議論を想定しているんだけど、「日本の」「日本の」 ってみんな が強調するときにはあまりこういう問題意識で議論してるようには 思えない。
日本で科学のトレーニングを受けたり、日本で科学研究を行ったりする立場にしてみれば、日本の科学を取り巻く環境(文化を含む)はもろに自分の研究内容だとか科学者としてのありかたにかかわる問題であって、国家としての日本がどうこうというよりも、身近な問題なのでは?
あまり関係ないですが、クーンの科学哲学に対する貢献の一つは、それまでの、 「抽象的な理論を中心として活動する、どちら かと言えば哲学者的な科学者」 に対して、「exemplar に基づくproblem solving を中心に活動する、 より職人かたぎな科学 者」を対置したところにあると思っています。 つまりクーンによれば、normal scienceの期間の間は、科学者はここで 定義し たような意味での「文化」には気を取られずに問題解決にいそしむ わけです。それなら、日本の科学者には文化がないなどと否 定的に評価する のでなく、日本の科学者はnormal scienceに徹している、とほめてあげる べきなのかも。
でもproblem solvingといっても、ちょっとした視点や問題意識の違いで解けるか解けないかは違ってくるのではないですか?そもそもどういうproblemに手を出すかの選択も。
Id: #a19990108034544  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 03:45:44 1999
Name: 鳥居 美苗
Subject: はい。

これからは誤解を招かないよう努力します。
ただ、コントは真面目にあれを言っていたわけで。
わたしは、コントのその言い分には身びいきがあるなと思ったので、そう書いたのですが、確かに「私の身びいきかも知れないけれど、コントは正しい」とも読めますね。
Id: #a19990108034651  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 03:46:51 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990107001559
Name: 伊勢田
Subject: なぜ「文化」が必要か

日本の科学に「文化」がないのがいいか悪いかっていうのは評価の 基準をはっきりさせないと答えがでないのは当然。(ところで、 わたしはここでの「文化」という言葉を「理論的基礎付け・ 方法論・哲学的含意などへの視野の広さ」くらいの意味にとります ---田崎さん・山形さんなどのおっしゃる意味とあまり ずれてないことを祈りますが。)

いくつか思いつくままに基準になりそうなものを列挙してみると。

  1. 日本の経済発展
  2. 日本の国際的威信の増大
  3. 日本人の幸福の増大
  4. 個々の日本人科学者の幸福の増大
  5. 日本の科学の理論的発展
  6. 日本の科学の国際的競争力向上
  7. 科学(日本に限らず)の発展
  8. 日本における科学哲学の地位の向上(おいおい)

    あるいは

  9. 科学が文化を持つことはそれ自体として望ましい
なんて人もいるかも知れない(がそれでは議論にならないのでここでは 9は除外)。

科学が文化を持つことと1から4まで の基準との関係というのは、よくいって曖昧、下手をすれば基礎研究 なんかにお金をつぎ込まない方がみんな(理論物理学者等の少数者を のぞいて)幸せになれるんだ、という議論だって成立するかも知れない。

直接関係がありそうなのは5だけど、 理論のレベルでいえば日本の科学なんてものが世界の科学から独立して (日本物理学とか日本天文学とか)存在するわけじゃないだろうから、 これもあんまり意味がありそうじゃない。6あたりはけっこう 言えそうだけど、この場合は日本の科学の国際競争力が高まるのが なぜ望ましいかってつっこまれたら、やっぱり、それ自体として 望ましいって答えになるのかな?(オリンピックの日本選手団みたいなもんですね ---するとこれは結局2につながるのか。) 7は「日本の科学者がきちんと貢献しないと科学の発展が阻害される」 という議論を想定しているんだけど、「日本の」「日本の」ってみんな が強調するときにはあまりこういう問題意識で議論してるようには 思えない。

で、8ですが、科学者が自分の仕事の哲学的含意にもっと 注意を払えば科学哲学の地位は当然向上するだろうし、科学哲学の 地位の向上は当然それ自体として望ましいから、まあこの辺が科学に 文化がないと困る理由として妥当な線でしょうか:-)
(なんて書くと本気で書いていると思う人がやっぱりでてくるかなあ)

あまり関係ないですが、クーンの科学哲学に対する貢献の一つは、それまでの、 「抽象的な理論を中心として活動する、どちらかと言えば哲学者的な科学者」 に対して、「exemplar に基づくproblem solving を中心に活動する、 より職人かたぎな科学者」を対置したところにあると思っています。 つまりクーンによれば、normal scienceの期間の間は、科学者はここで 定義したような意味での「文化」には気を取られずに問題解決にいそしむ わけです。それなら、日本の科学者には文化がないなどと否定的に評価する のでなく、日本の科学者はnormal scienceに徹している、とほめてあげる べきなのかも。


Id: #a19990108033047  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 03:30:47 1999
In-Reply-To: #a19990108023757
Name: 海法 紀光
Subject: コント

 鳥居さんのコントの引用は、軽い冗談には読めませんでした。

 まず現在、私はこれまでの鳥居さんの文章の意味が理解できず、よって文脈及び意図、立場が理解できていない場面が多々ある状態です。これは、山形さんや私以外にも同様に感じている方はいると思われますし、現在、行き違いがあることは鳥居さんご自身認めていただけると思います。

 無論、これからその誤解を解くご用意はあると思いますが、それはそれとして現在は解けていない。それゆえ、鳥居さんの立場は私にとって現在、不明確です。

 全体の流れがわからない状況での引用文単独は非常に意味が掴みづらいということをご理解いただきたいかと。コントの引用は、私は意図が読めませんでした。冗談にも読めましたが、それと同程度に挑発にも読めました。
 社会学が全ての科学の頂点に立つ…ということは、確かに社会学も科学の一つであるという共通性も示しているかもしれませんが、それと同じくらい、「社会学のアプローチは(共通部分はあるにせよ)自然科学のアプローチより優れているから頂点なのだ」という読みとりもできるので。

 …要するに、ただでさえ誤解がまかり通ってる状況なんで、言いたいことは冗談に交えず、よりはっきり書いてくれると私は助かります、ということです。  「自然科学、社会科学というけれど、アプローチは共通していると私は主張する。これを主張するのは無論、私が最初でなくコントのこういう言葉にもある通りだ」と書けば誤解の余地は無いわけですし。
 優雅な会話の素晴らしさは否定しませんが、意図と冗談が理解できなかった人間としては、できればそうしてくださると助かります。
Id: #a19990108023757  (reply, thread)
Date: Fri Jan 08 02:37:57 1999
Name: 鳥居 美苗
Subject: ばかカバちんどん屋、って昔ありましたよね。

私が手を切り刻まれたのは、腫瘍があったからです。
別に初めてではないんですが(手を切られたのは初めて。)家系が腫瘍体質で、他にも何個かあります。海綿状静脈瘤もひとつ。こんなものあっても嬉しいものではありません。
まだちょっと、キーボード打つと痛くなりますので、もう少し待っていただけますか。
本当は明日のダンスのレッスンに出たいのですが、みんなに止められています。元気なのに。
それから、「鳥居美苗」はペンネームです。

私が「おばさん」にこだわる(それほどこだわっているつもりはありませんが)理由は、おばさんと言う言葉が、それこそ「安手の」表現だからです。
これを(おばか、と言うのも含めて)山形さんがお使いになったのであろう理由を推測すると、
1 この言葉に、特別な意味を持たせたかった
どうもこれではないようですね
2 在り来たりの意味で使った。
 まさしく「安っぽい」ですね。
1番目の場合は、その特別な意味を教えて頂かないと理解できないので、山形さんはそれを説明する責任があると思います。
2番目の場合にも2つあって、
2-1言葉の綾
2-2本当に私のことを「おばさん」と思っている。
2-1の場合は、失言を訂正して頂く必要があると思います。なにしろ人のことを安っぽいと御考えの方御自身がそういう言葉を使ってしまったことには矛盾があるでしょう。
私が一番心配しているのは2-2。これは「おばさん」そのものが問題なのではなく、「でも結局「おばさん」はこうだから」(おばさんはおばかだから、かしら)という先入観が先に立っているのが問題なのです。こう言った先入観に縛られてしまっている人は、仮に私が神の啓示を受けて世界一すばらしい議論を展開しようが、はじめから聞く気はありません。こういう形の強弁は、一番たちがわるい…と、野崎昭弘先生もおっしゃっていました。「詭弁論理学」参照。
つまり、私は山形さんが本当に議論する気があるのか、それとも単に愚痴を書いているだけなのか確かめたいのです。もし議論する余地もないのなら、論点はチェックしますけれども、他の方と議論した方が有意義ですので。

ただ、もう冷静さは失っていらっしゃるのではないかしら。
私がコントの言葉を引用したのも、軽い冗談からで(本気ならもっとそう書いています。コント自身は本気だったと思いますけれどね。)自然科学と社会科学がアプローチとしては同じである、ということを言ったのは私が初めてではない、という明白な事実をあらわしたかっただけです。
これが「おばか」にしか見えない、冗談も分からないような状態なら、あるいは冗談でかえせるほどの余裕すらないなら、少し心を落ち着けた方が良いのではないでしょうか。

ともかく、男の女ので物事を判断するのって、つまらないものですよね。
わたしがスウェーデン人の友人たちと話していて気楽なのは、彼等はなによりそういうことを考えないからです。
だってお料理が好きだと言うと「さすが女の子」という感心の仕方をする人、後を断たないんですもの。じゃあ、一人の立派な人間でいるためには、お料理もサッカーもしてはいけないのかしら、と思ったりして。

黒木さまからは、議論を続けてもかまわないとの許可を戴きましたし、もうずいぶんのコメントがついているようですので、痛みがとれ次第少しずつ書きたいと思います。
迷惑だから止めてくれ、とおっしゃる権利は、黒木さまと田崎さまにあります。少なくとも、私の発言については。
Id: #a19990107171218  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 17:12:18 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990107155606
Name: 山尾貴則
Subject: いなばさん,コメントありがとうございます。

どうも,山尾です。

えっと,川村さんの訳ですが,「間違ってはいない」というのが感想です。っていうか,
『精神・自我・社会(以下MSS)』自体がミードの自筆の著作ではなくて学生の速記録を
もとにして作成された講義録なので,あの本だけでミードを理解しようとするのは
危なすぎるってのが最近のミード研究の共通理解となってます。で,ミードの自筆論文
なり活動記録なりを丹念に追っていくと,どうもMSSとは食い違う部分とか,MSSではよ
く分からなかった部分が分かるとかいうことがあって,現在のミード研究はおもしろく
なってます(自分もおもしろい議論がしたいものです)。ちなみに,川村さんは訳の
あとがきで日本のミード研究がだめだってさんざん言ってますが,川村さん
自身のミード理解はMSSにとどまっているようなので,ミード研究者からはあまり
こころよく思われていないみたいです。

それでは失礼いたします。

Id: #a19990107170206  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 17:02:06 1999
Name: WJ
Subject: 話の本筋とはいちじるしくずれますけど

某所で「・・・一部の男のなかには、女性を最も効果的に辱めるには相手の人格を性的に貶めてやるのが一番だと信じてるやつらがいる。またそれに律儀に傷ついてしまう女性がいるもんだから、この手の退屈で陳腐な誹謗中傷言説があとを絶たないし被害がなかなかなくならない。」といった趣旨の話をしてたのですけど、それに関して・・・

たとえば相手を「おばさん」呼ばわりしたり、「オヤヂ」呼ばわりしたりすることって、一見上のようなケースにはあてはまらないごくごく無邪気な罵倒のように見えますけど、やっぱりこの典型ですよね。
「おばさん」にしろ「オヤヂ」にしろ、相手を一定の性的カテゴリーにおしこめたうえで、その性的カテゴリーに属する者として失格者であると決めつけているわけだから。
つまりいろんな定義がくっつけられるにしても、シニフィエの核としては「おばさん」は「女であって女としての性的魅力に全く欠ける者」であり「おやぢ」ってのは「男であって男としての性的魅力に全く欠ける者」ではないのかなって気がします。
「くそばばぁ」とか「くそじじぃ」とかもおなじく。

でもってそのように罵倒されて「わたしはおばさんなんかじゃない」「おれはオヤヂなんかじゃない」と反発するとしたら、それは「わたしに女性の性的魅力が皆無だなんてそんなことはない」「おれに男性の性的魅力が皆無なんてそんなことはない」と言っていることになり、かえって相手の「おまえなんてただの女じゃん」「あんたなんてただの男じゃん」という最初の決めつけにひっかかってしまうわけです。

結論:「おばさん」と言われたら「あら、あなたはなんであたしが女だとわかったの?そう確信する根拠があなたにあるの?」とでも言ってやればいいのかな。それともそれをするには「自分が女である」ことがあまりに大事すぎて、それをそんなに手放せないもんなのかな?

そういう結論じゃないか・・・。

あと大急ぎで付けくわえますと、話の本筋については山形さんやいなばさんのおっしゃっていることが圧倒的に正しいし、鳥居さんはじたばた自己保存的な言い訳に終始せず、話の流れをあらためて見直せばいいのに・・・と思います。
Id: #a19990107155606  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 15:56:06 1999
Name: いなば
Subject: ミード

は今熱いんでしょうか。河村望訳「デューイ=ミード著作集」で『精神・自我・社会』の新訳が割と前に出ましたが、どんなもんですか。かつてのデューイとかミードの翻訳は日本人がプラグマティズムってなんなのか全然理解してなかった頃の代物で、最近ようやく、分析哲学だの脱構築だのルーマンだのをくぐってそのすごみが噂になってきたようですが。
 しかしサン=シモンからコント、はたまたスペンサーという線で社会学の歴史を見てしまうと、ただの危ない疑似科学という感じで夢も希望もないですなあ。ウェーバーとデュルケムがいなかったら、社会学という学問自体、消滅してたかも。
Id: #a19990107152317  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 15:23:17 1999
Name: ブタネコ

鳥居さん
まず、手の方は大丈夫ですか?楽器の弾きすぎですか?
僕は荻窪の今にまで残った名曲喫茶ミニヨンで、毎月行われる奈切弦楽四重奏団をずっと聴いてきたけど、第1バイオリンが替ってからはいってないな。
第1バイオリンの堂坂さんは、三島由紀夫の一族で、三島の狂気のような凄いとこを音にし、小波さんがきらうイヤラシイーとこは捨てて、とても良かったけど、弾きすぎで手を悪くしちゃった。

それから鳥居という名字は、静岡に多いのかな?
英語の発音学の先生で、自ら像影剤でうがいして、発音中のレントゲン写真を沢山とった人で、たしか喉のガンでしんじゃった人とか、筑波の体育の800mの才能のある選手で、長距離の走り方をしらないので、駅伝ではいつもブッ倒れてた人とか、はては武田軍にはりつけにされて大声をだした鳥居なんとかとか、なぜかすごい人ばかり浮かんでしまうが、山形氏を『おちびちゃん』は、傑作でしたね。(青島から財界の男めかけと言われたときの栄作の目玉を思いだした。)

さて、『社会科学と自然科学が違うとしたら、何が違うのでしょうか?』なんて質問の答えは、その学は九家におよび、芸は百流にわたる『オバチャマ』のなされることで、『一芸大食』[注1]ブタネコの出る幕ではないが、黒木亭ということで、数学という切り口から見てみよう。
(おちびちゃんの言うように、『学問の社会学』(東信堂[注2])あたりが、もう用意された落としどころでも、この切り口は有効かな?)

自然科学・社会科学・人文科学と科学がつくけど、科学がつけばいいかしら?
科学的社会主義よりモリスのような妄想的過激実践社会主義のがよいとか?

でもまあ、どんな科学であれ(古川さんの穏当な意味制限の提案はどっかに飛んじゃったけど)、科学を少し勉強した人とは、論理的に話しができるとか。そしてそうした言葉使いを記号化したのが数学ということは言えるのでは。
ところで、数学って、自然科学というよりは人文科学では?ともおもったり。

さて、数学を使えばいいというものでもないですが、物理はあまりに見事に使ったし、数学自身を作りだして、古い人間の僕は完全に物理帝国主義者ですし、物理学から規範的な学問の在り方を全然まなばないで、あやしい科学論(この科学は自然科学)をやっている変な小集団の社会学なり生態学がここでの話題の一つだったんだけど。
経済での数学の使われ方も、倫理でふんぞりかえったマル経が腐儒化するとき、倫理コンプレックスの近経はコンプレックス隠しに数学を使ったような感じも。
でもまあ、吉田さん[注2]の経済数学は数学科の学部3年レベルくらいまでの数学の多くが、経済にこんなにピッタシ使えると、なかなかのもの。松原さんの社会学数学は、高校数学の有効性を証明してくれている。

言語学もチョムスキーのような数学バリバリと、田中克彦のようなと両方を言語学とすべきだろうし、これは自然科学のなかで、数学をあまり使わないものが歴史性を持つ自然科学であることと対応するだろう。

まあ、これから東京にいかなきゃなんないので、はしょると、どの学科が学問草原のライオンになるかだけど、まともな文章を書く学者がそこからどれだけ出るかにもよる。
僕個人としては、見田宗介とPierre Bourdieuは片っ端から読んできた。見田については宮沢賢治だけはますむらひろしの方がよかった。といって、学より演劇というのではない。朝日の論壇時評が10年で見田からさえない劇作家になったのは、社会の中で学が後退しただけ。
ブルデューでは、http://altern.org/moderne/archives/pages/bourdieu/index.htm ってサイトに遊びにいったら、お人よしのラトゥールさんがいて、せっかくブリクモンがあれだけ教育したのに、またまた口先過激派をやってる。こりない人だな〜。

[注1]普通は無芸大食だが、ブタネコさんの大食はもう一つの芸なので。あたしゃ家元なんす。
[注2]東信堂といえば、一月かかって『僭主に対するウィンディキア』を入手。小田川様ありがとうございます。
[注3]専修の吉田さんの数学も立派だが、京大の。田舎税務所長なんかしながら、こういう勉強をするのは敬服するしかない。

Id: #a19990107152033  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 15:20:33 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990107013343
Name: 山尾貴則
Subject: はじめて投稿させていただきます。どきどき。

みなさんはじめまして。山尾ともうします。この掲示板は結構拝見させていただいております。

山形さんの

   はあはあ。しかしこれは、どういう意味で言っているんだろうか。
   「ほかの科学ども、頭が高いぞ、社会学はえらいんだぁ
   っ!」と言っているなら、これはただのおバカだと思います。

もしかして,本気で偉いんだぞと言ってるのかもしれません。でも,そういうゴーマンな
ことを言う父ちゃんに「父ちゃん,それは違うよ」って言った人もたくさんいるわけなん
ですよね。わたくしも一応社会学者のタマゴのはしくれで,G.H.ミードという人の考えを
ずっと勉強しています(せめて「理論屋」って呼ばれるくらい彼の理論を理解したいけど
まだまだまだ)。世間でミードというと文化人類学者のマーガレット・ミードの方を思い
出す人が多いようです。もっとも社会学内でも,「シンボリック相互作用論の始祖であっ
て,人間の自我の社会的発生とコミュニケーションによる社会の維持変容の過程を考えた
人だ」ってことで,「社会学とは何か,社会学で想定する人間とはどのようなものか」と
いうことを説明する材料として社会学概論なんかでは必ずと言っていいほど出てくるんだ
けど,そこどまりの理解しかされていないみたいです。でも,彼はもっといろんなことを
やってまして,その彼の考えによると,コントみたいな考え方は間違ってるどころか危険
みたいです。

わたくし思いますに,「予見せんがために見る」って言葉に端的に示されますように,コ
ントは社会法則の発見とそれによる現実の説明と未来の予測を重視してます。しかし,そ
ういう考え方では,しばしば法則の論理的な一貫性が重視されすぎて,何が何でも社会法
則で現実を説明しようとするあまり,しばしば現実の方をねじ曲げてしまうことになって
しまいます。そこをミードは批判しています。

ミードがこうやってコント的な議論を批判する背景には彼の生きた当時のアメリカの社会
状況があるみたいです。ミードは19世紀末から20世紀の半ばまでシカゴを活動していたの
ですが,そのころは移民間の軋轢とか,労使問題とか,さまざまな社会問題が激発してい
たわけで,それに対して社会(科)学がどう対峙していけばいいのかってことが彼の関心
としてあったみたいです。で,そのころはやりの社会学はどんなもんだったかというと,
コント的な社会(科)学とスペンサー的な進化論なんかが結びついたような「俺様の発見
した社会法則はかくかくしかじかだ」的なものだったらしいのです。ミードはそれを批判
して,「そんな法則ばっか考えてたって現実の問題はなんも解決してないじゃないか。社
会(科)学は事実(例外的事例)を発見して主題化していく方法を考えようよ」って言っ
てます。彼によりますと,その方法とはまさしく自然科学の方法だそうです。例外的事例
の発見と,仮説(作業仮説)の構築と追試による検証っていう。ちなみに,こういう「対
象世界に頭を下げよ」的な考え方は,いわゆるシカゴ学派に引き継がれていきます。

あう。なんかどうでもいいことを書いてしまっている(汗)。要するに申し上げたいこと
は,社会学が悩むのは現実の問題をどのようにとらえ,解決するかということであって,
法則や理論の構築はあくまで現実の問題を起点にして行われなければならないのだろうな
あということです。文化相対主義ということに関して言えば(たぶん文脈がずれてしまい
ますが,社会法則を完全に形成してしまえばそれで世界をすべて説明できることになって
しまうわけですから,他の人(理論)を無視すれば,「人は人,我は我」という考え方に
なっていっちゃうのでしょうか。でもってここで他の人(理論)を「けしからん」と見な
せば,理論同士の対決が始まってしまうわけなんですよね。どっちにしろ,理論が現実か
ら遊離しているがゆえに起こることで,もし理論同士が戦おうとするなら,土俵を設定し
ないといけない。その土俵とは現実世界である。そこで議論をするならば,必然的に理論
上の問題が現実と関わってくる。そういうことなんだろうなあと思ってます。んじゃどう
やって自分の理論が現実と切り結ばれるのか。そこで社会学者は頭を痛めるのだろうし,
痛めなくてはならないのだろうなあとわたくしは思っています(もちろん,「うーん,ど
うやってこの腐った現実を俺様の理論で説明してやろうか」ってことではないです。つい
でにいうと,「現実」という言葉でわたくしが何を表現しているのかがこの文章では分か
りませんね。困った)。

あ。自分自身はここまでうだうだ言ったことをこれっぽっちも実践できてませんね(恥)。
それに,結局ミードの言葉を使ってなんか無毒な話をしてしまっているだけかもしれませ
ん。反省。

ちなみに。

   あるインド系の経済学者は「いいかおまえたち、善行を積んだ経済学者は、物理学者に
   生まれ変われるけれど、行いの悪い経済学者は生まれ変わったら社会学者になっちゃう
   んだぞ」と言って、生徒たちに善行を奨励しているそうです。いい話ですね。

わはは。おもしろいです(マジで)。そうですねえ,社会学って結構悪者にされますよね
え。わたくしは以前に映画の中で「社会学の実験みたいでいや」というせりふを(字幕で
だけど)見たことがあります(笑)。こんな映画です。

#情報というものを「知らずにいて,知ったことによってなんらかの影響を受けた(驚い
#たり面白がったりためになったりした)」と定義したとしたら,この掲示の情報はこの
#部分だけかもしれない・・・。

それでは失礼いたします。


Id: #a19990107073957  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 07:39:57 1999
Name: いなば
Subject: ついか

 たとえば、田崎さんの最初の書き込みの「自然科学」を「社会科学」に当てはめても完全に意味は通じるわけで。というか、それこそ言い古されて飽きが来てる、しかし今なおそれなりに意味を失っていない問題提起じゃないか。つまりは戦後「近代主義」、丸山真男、大塚久雄、内田義彦とかがさんざん言ってきたこと。
 ただ彼らの問いが適切に継承されたか、あるいは彼ら自身それを、後世きちんと継承してもらえるように正しく発展させていくことができていたかどうか、問題は残るけど。
 というのは、このような問いへの社会科学的応答ってのは少なくとも二種類はあって、ひとつは遂行的レベルというかオブジェクトレベルというか、「じゃあどうやって日本の社会科学における文化を作り上げ、それを通じて日本の社会科学をよりましにしていくか」ってのがある。さてこの文二段、つまり「日本社会科学における文化の構築」と「その文化による日本社会科学の活性化」という二つのレベルに文としては分解できるけど、実際にこの二つのことを分けて考えることはできないというかあほみたいなもんだ。
 もうひとつは反省的レベルというかメタレベルというか、「じゃあなぜ日本の社会科学には文化がないのか」という風に問題をたてる。それは具体的には「日本における社会科学の文化(の欠如)についての社会科学的検討」になるわけだけど、これはとてつもなく困難であることはいうまでもない。単に自己観察が大変だってだけじゃなく、そもそも「まさにその文化を欠いている(疑いのある)日本の社会科学に、そんなことを解明できるのか?」って疑いが浮上する。だからこの問い、アルヴィン・グールドナー流にいえば「社会(科)学の社会(科)学」ってのは遂行レベルと反省レベルを同時にやっていくしかない。ところが人はしばしばそれを忘れて、反省的レベル、メタレベルに自足して(実はそんなのちっとも「反省」でも「メタ」でもないけど、もちろん)出来合いの対象としての「日本社会科学の文化(の不在?)」を社会科学的に検討しましょう、ってなのどかな話になっちゃう。
 俺がはまだボードで言った「社会学的還元主義」ってのはつまり、そういうこと。
Id: #a19990107065931  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 06:59:31 1999
Name: いなば
Subject: 社会科学屋のはしくれとしての感想

 鳥居さんへの山形さんと小波さんの批判は完全に適切で、そもそもの初めから鳥居さんの書き込みは田崎さんへのコメントになんか全然なってない。「文化」って言葉の使い方がもうぜんぜんちがう。そして田崎さんの「文化」という言葉の用法は特殊ではあれそれはそれで適切なものだから、そのような用法自体を否定するわけにも行かない。
Id: #a19990107033249  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 03:32:49 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990107003819
Name: くろき げん
Subject: 横やりを入れられたくなければ

横やりを入れられたくなければ個人宛のメールで文句を付けるべきでしたね。こういう場所で横やりを拒否してどうするの? 「それに匿名でないと…ならやりかねんか。。(^^;」という反応も馬鹿過ぎ。

ええと、もしかして、「山形訳クルーグマン読んだぞ」=「私は誰?」さんは去年の8月に旧掲示板の方に書き込んだ Tora さんですか? (書き込みの記録: 1, 2) 違っていたら、ごめんなさい > Tora さんおよび「山形訳クルーグマン読んだぞ」=「私は誰?」さん


Id: #a19990107020203  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 02:02:03 1999
In-Reply-To: a0034.html#a19990107003819
Name: 山形浩生
Subject: クルーグマン

> 山形さんへの直接の文句なのだから、黒木さんに横やりいわ
> れる筋合いのことでもないでしょう。

直接の文句というのは、ぼくに直接メールとかいただければそうなるでしょうが、 ここは黒木さんの管理している、かれのおひざもとなのです。「It's his party and he'll cry if he wants to」でございます。あなたのやってることは、黒木さんのシマを経由した間接的な文句なのです。その点はご理解を。

しかし、ご批判はしかとお受けいたしました。あの訳になじめない方が一定割合いらっしゃるのは予想はしておりましたし、実際そうでしたね。ただしその割合は、予想よりはかなり低かったんですが。世の中、アホのアホ訳になじむアホのほうが、そうでない優秀な方よりはるかに多いのかもしれません。貴殿のような優秀なマイノリティに属されておいでの方には、ご愁傷様ですと申し上げるしかありません。なにぶん未熟者ですので、ぼくも今後いっそう奮励努力いたします。なにとぞご容赦ください。

また改訳であるのを明記していない点ですが、原著タイトルは表紙に明記してあります。原著をごぞんじで、しかも旧訳をごらんになっているのであれば、それでわかりそうなものですが。別の人間による別の版の訳の場合、別の本のようなものなので、特にことわりがきはしないことが多いのですが。これまでの仕事で、ディックの「暗闇のスキャナー」も「死の迷路」も新訳ですが、あとがき以外のところでは特に断っていません。出版の慣習としても特に異例なものではありません。貴殿の高潔なる倫理観からすれば許せないことかもしれませんが、なにぶんにもアホのやることですので、大目に見ていただければとご寛容をこう次第です。


Id: #a19990107013343  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 01:33:43 1999
In-Reply-To: a0033.html#a19990106230205
Name: 山形浩生
Subject: かがく

> 社会科学と自然科学が違うとしたら、何が違うのでしょうか。

釈迦に説法でしょうが、社会科学は、とぉぉってもむずかしいのです。それだけです。原理的には、同じ考え方で、同じ手法で、人間社会を分析することもできるのかもしれません。が、このサンプル数にデータのきたなさに再現性のなさにベースとなる共通部分すらよくわからないとなると、現実的には、絶望の荒野が無限に広がっている感じではないでしょうか。経済学ですら、日々「ああ、おれのやってることはセコいなあ」という思いにとらわれない経済学者はインチキでしょう。

 それは自然科学もそうです。あのやさしい、楽な、手続きもすべて固まってバカでもできる自然科学ですら、ぜぇんぜんわかってないことだらけで、そもそもわかり得ないんじゃないかとかいう理論までできちゃってます。わかるってどういうことかもわかんなくなってるとこさえあるとか。ここらへん、田口善弘の『砂時計の七不思議』(中公新書)の最後の章がとってもおもしろいです。まして社会科学ともなると、もうなんと言っていいかわかんない。

 「多元論」の日本に「二元論」の西洋。もしこんな話が社会学であるのなら、それはかなり粗雑な類型論の域にとどまっているな、というのが印象です。自然科学の歴史でいえば、アリストテレスあたりかもしれない。この水準では、まだまだ自然科学とためを張る科学とは呼びにくいんじゃないか、というのが外野としての感想。逆に鳥居さんは、社会科学がなぜそんなにえらいと思っているんだろう。自然科学の達成してきたものにくらべて、社会「科学」のあまりの矮小さと稚拙さに身がすくむ思いはしないんでしょうか。

 いつかハリ・セルダンが心理歴史学を完成させてくれた暁には・・・あるいは茂木健一郎が、クオリア理論(と言っていいのかな)を完成させてくれたら・・・でも、まだ当分その気配はないのです・

> 社会学の父オーギュスト・コントは「社会学はすべての科学の頂点に立つ」と言っています。

はあはあ。しかしこれは、どういう意味で言っているんだろうか。「ほかの科学ども、頭が高いぞ、社会学はえらいんだぁっ!」と言っているなら、これはただのおバカだと思います。(そして邪推かもしれないんですが、鳥居さんはまさにこの「おバカ」な意味で引用なさっているような気がするんですが)そういうことは、次の選挙結果やコギャルの出現くらい予測できるようになってから言え、という感じでしょう。しかしコントくんの言ったことは、意味がちがうんじゃないかと思います。

あるインド系の経済学者は「いいかおまえたち、善行を積んだ経済学者は、物理学者に生まれ変われるけれど、行いの悪い経済学者は生まれ変わったら社会学者になっちゃうんだぞ」と言って、生徒たちに善行を奨励しているそうです。いい話ですね。

誤解をなさらないように言っておくと、これはなにも、社会学者がろくでもない悪徳の固まりだということを言いたいわけではないそうで、「社会学は経済学にくらべて、とてつもなくつらくてむずかしいぞ」ということを言っているのです。

コントくんも、いろんな「科学」と称されるものを集めて、総合して、そのあげくにやっと可能になるのが、社会学だ、だからむずかしいなあ、という意味で言ってるのではないですか。あるいは創始者としてとりあえず気勢をあげてみただけかもしれない。


Id: #a19990107003819  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 00:38:19 1999
In-Reply-To: a0033.html#a19990106221819
Name: 私は誰?
Subject: あほが訳すからあほ訳

>訳者がここまで説明しているのだから、「詐欺」というの単なる中傷に過ぎないよね。

あとがきにあっても、だめですね。やはりこういうことは帯か表紙の目に付くとこに書いておいてもらわんと。

>(私は匿名という安全な立場から行なわれる中傷が嫌いです。やるなら自分自身がどこの何者か名乗ってからやれ。「山形訳クルーグマン読んだぞ」さんには態度を改めてもらいたいですな。)

私は、中傷したのではなく文句を言ったのですよ。それに山形さんへの直接の文句なのだから、黒木さんに横やりいわれる筋合いのことでもないでしょう。
それに匿名でないと危険な立場になるというのかな(^^;
メールバッシングにあうとか?社会的立場が危うくなるとか?
脅迫電話がくるとか? 野村証券ならやりかねんか。。(^^;


>ええと、『クルーグマン教授の経済入門』は大変良い本なので、誰にでもすすめられます。

私も、半分同意できます。原著はいいですね。
でも、なんで山形さんにそんなに肩入れするんですか?

>あの訳文のおかげで、気楽にゲラゲラ笑いながら読めて、しかも、現在の経済に対する1つのクリアな視点を得ることができるのだ。

この感覚は良く分からないなあ。あれは、しょうもない訳です。
ブタネコさんが言われるように、よく言えば、つっぱり私立エリート高校生の気負った訳といったところです。まあ、まだ世に出るには早すぎる人です。山形さんは。
Id: #a19990107001559  (reply, thread)
Date: Thu Jan 07 00:15:59 1999
In-Reply-To: a0033.html#a19990106113022
Name: 牧野
Subject: いや、その、いらないってわけじゃなくって、、、

山形さん、
 発言の順序としては逆だけれど、牧野さんの「そんな文化なんていらないんじゃないですか」といういいぐさは、とってもシニカルではあって、反発を感じる人も多いんだけれど、それでもかれはちゃんと田崎さんの言うようなポイントは理解している。そのうえで、そんなの別にいらなんじゃない、と言ってるわけ。
ええと、その、私がそういう文化はいらないという主張であるというわけではなくて、いいたかったことの一つはまあ以下のような感じのことです:

私自身の自然科学者としての価値観、これはまあ「科学者共同体」の共有するエートスみたいなのから、著しく外れているというわけではないと思いたいですが、そういうものから見る限りにおいて、日本の科学には田崎さんの意味していたであろう意味(あるいは山形さんが適切に表現してくれた意味)での「文化」がかなり決定的に欠けていて、それは問題である。実際、現代の天文学/宇宙論なんてものはもともとそれ自体が「文化」としてしか意味がないようなもので、そのことは欧米と日本での天文学の地位の差に直接反映しています。

が、なぜ問題かということについてちゃんと考え出すと、これは難しいわけで、、、すみません、いろいろ書きかけてみたんですが、とても考えがまとまりません。

例えば、「全く新しい方向を開拓するようなことが起こりにくい」というのが確かに事実であり、原因が確かに「文化」の欠落にあったとしてさえ、それは僕の自然科学者としての価値観からみればもちろん悪いんだけれど、無条件に悪いといえるのかなあと。僕には「無条件に悪い」といい切れるだけの信念なりなんなりはないです。

ではというわけで、個人的なレベルで科学的思考とかなんとかそういうのが身についていないのは問題ではないかという話にしてみても、これも考え出すとわからなくなる。実際問題として欧米でも科学的思考みたいなのが身についているというのはどれほどいるかとか、平均的にみて違うのかとか、、、、

というわけで強引に話を終らせると、そういう「文化」の違いってのは「カルチュラル・スタディーズ」とかいうものの恰好の対象ではないかと思うけど、だれかちゃんとやってないんでしょうか?


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管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
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