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左巻健男です。 知人から武村さんは科学論をよくわかっているとは言えないから検討すると したら、角屋さんの論を検討したほうがよい、という示唆をいただきました。 次の本が先頃出版されたとのことです。 角屋重樹「理科学習指導の革新」東洋館出版社(本体価格7,500円) これがかの学位論文かな? 知人が言うことをぼくなりに解釈すると、 「科学的知識はその時代時代における創造物(その時点における科学的な方法 論を援用しつつ支持されている最も有力な説)で、将来書き換えられる運命を もっている。ここが「動的」というところ。人間が常に創造を続け、書き替え ていくものであるとして位置づけることから、理科の授業を、子ども自身に科 学を「創造する」立場に立たせようとしている。ある意味で、真剣に子どもに 創造的な人間の活動としての「科学とは何か」を学ばせようとしている真摯な 姿勢がある」 と言うことです。参考までに。
左巻健男です。 理科教育MLで「たのしい実験」が話題になったので、次の投稿をしたとこ ろです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 左巻健男@東京大学教育学部附属高等学校です。 『たのしくわかる化学実験事典』『たのしくわかる物理実験事典』(東京書 籍)を編集してだしている立場から。 それから、理科教育における相対主義科学論の悪影響を懸念している立場か ら。(http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/a.html を参照し てください) いま、武村さん@広島大、角屋さん@教科調査官などが喧伝してる「新しい理 科教育パラダイム」、理科教育論者の多くがもつ「新科学哲学単純バージョン」 によれば、 ・科学はその時代の科学者たちの創造物であり、科学知識の正当性はその真偽に ではなく、科学者共同体における社会的合意にある。相対化された真理など、す でに真理とは呼べない。 結局のところ、科学者は真理の追究などしてはいなかったのだ。 ・観察事実は客観的なものではない。観察事実は客観的事実ではなく観察者の理 論から見た解釈的事実である。それゆえ、観察事実は理論に従属していて観察事 実から理論が導出されているのではない。観察者が皆異なる理論を持っている なら、観察事実は理論の数だけ存在している。 ということになります。 観察実験をしても、「教師と同じものを同じものとして見ることができるの は、教師と同じ理論を持っている子どもだけである。教師と同じ理論を共有する 子ども、それはもはや改めて学習することを要しない子どもである。」のです。 このような言説では観察実験は理論よりもずっと低い位置に置かれます。 実際、このような考えを持つ人がある社の中理教科書の編集委員になってい ます。そして、彼が教え子に言ったことは、「○○君、この教科書は実験をやら なくてもいいように編集してあるんだよ。そこが現場に受けているんだ」と語っ ていたと聞いています。実際、その社の営業はそこをウリにしているという話 です。(具体的に書きたいところですが、ぼくも別の社の中理教科書の編集委員 ですから、ぼかしておきます。ぼくはこれを聞いたとき理科教育界にいろんな形 で相当な影響力をもつその人にあきれ果てました。) 今回はここまでにしておきます。 ■左巻健男(SAMAKI TAKEO):東京大学教育学部附属高等学校:化学 ■〒164-0014中野区南台1-15-1電話03-3377-3411FAX03-3377-3415 ■E-MAIL:samaki@hs.p.u-tokyo.ac.jp ■併任:中学校/法政大工学部(理科教育)/宮城教育大(学校臨床)
左巻健男です。 まとめてコメントさせていただきます。 先日、中理教科書の編集会議の後、Mさん@東大:地球化学とお話しながら 帰りました。科学者たるMさんはソーカル事件、野家さんの対談内容、相対主 義が理科教育課程に影響ということ、に驚いていました。(牧野さんのことを 「牧野は・・・」と言っていました。牧野さんの先輩なんですね。) 田崎さん、白頭翁さん、牧野さんの質問は、相対主義科学論が理科教育現場 や教育課程にどう影響しているか、ということにつきますね。 武村重和さん@広島大は「新しい理科教育パラダイム」(『楽しい理科授 業』,1997年,7月号 明治図書)の論文に「自然科学は人間が創造した もので変化する。自然科学は科学者により異なることが多く相対的である」な どと書きました。これは、角屋さん@教科調査官に向けたものです。 この雑誌は、本屋からバックナンバーを取り寄せ可能でしょう。前は、ぼく のところに毎月無償で送られてきたのですが今は送られて来なくなりました。 どっかへ行ってしまったのでぼくもコピーを入手しようと思います。そうした らお送りできると思います。 武村さんは元教科調査官、角屋さんは現ということで、今日の理科教育課 程、次期の理科教育課程の作成の中心人物です。そして、角屋さんの後に予定 されている教科調査官氏も広島大で武村さんの息のかかった方です(秘密情 報)。角屋さんは最近学位を取ったのですが、その主査は武村さんだと思いま す(この辺もいろいろ「噂」が飛び交っています)。 教育学をやっている友人から「全小理で出したリーフレットを見せていただ く機会がありました。あまりのひどさにあきれてしまいました。内容は、左巻 さんの書いていらっしゃるのと同じです。」という情報をいただきました。全 小理は、全国の小学校理科の研究会で非常に現場に影響力があります。そこ が、武村さんのような考えでこれからの理科教育を進めていこうとしていま す。武村さん、角屋さん共に全国で講演したり、また著作を通し、さらに次期 の理科教育課程(国家の教育政策!)を通して非常に相対主義的な理科教育論 を広めつつあります。小川さんの『「理科」の再発見』は、エスノサイエンス へと行っちゃっているし、論がばかばかしいから影響は少ないと思います(買 って損をしました)。それでも、小川さんをはじめとして理科教育論者のかな りの部分がエスノサイエンスまで行かなくても「単純クーン主義」です(論理 としては村上陽一郎『新しい科学論』以下レベル)。 つぎは、科学史MLへのコメントの一部です。 #実は、武村さんと呼応して「新しい理科教育パラダイム」を言っているの が、今の小学校理科の教科調査官氏ですね。キーワードは「動的自然観」で す。この調査官氏は、武村さんのところで最近学位をとりました。その辺の 事情もいろんな「噂」が流れています。また、最近武村さんの教え子たちと 話す機会がありましたが、彼の人間像もおもしろいですよ。こういう人が教 育を動かしていいのか、という思いに捕らわれます(オフの時にでも)。 で、武村さんは、ぼくの見るところ、村上流単純化クーン主義を聞きかじ り、教科調査官氏と一緒にわが国の理科教育を変えようとしているらしいで す。とくに小学校理科は、今後村上流単純化クーン主義と単純化構成主義の タームが飛び交う世界になるかも知れません。まあ、どう変わっても小学校 理科はもともとひどいですからね。 ぼくの属している日本化学会も、小学校理科についてはあんまり注目して いないですね。これからは、注目するように言いましょう。 中等教育理科は、かんたんには武村さんのような流れにはならないでしょ う。なったときは、わが国の終わりの時かも。 高校の「理科基礎」は別にして、「理科総合」はABとも、「日常とのつ ながり」が重視されていますね。しかし、「自然科学は科学者により異なる」 なんてことにはならないと思うなあ。# 理科教育論者は、科学者と科学論者の狭間にいます。元は科学をやっていた という人も結構います(小川さんも農学博士です)。学部の中では、科学者の ほうから「理科教育論者はなにやってんだ」という1段低いレベルに見られが ちです。そういう立場が科学を相対化しようという意識に繋がっているかも知 れません(ぼくの邪推です)。 長くなりましたので、今回はこれくらいに。
ずーっと前にも書きましたが、
例えば 「理科」の再発見なる本で展開されているような主張が現実に大きな力を持ちつつある/持っているということでしょうか?
この本を読んだ限りでは、とてもまともな考えとは思えなかったのですが、、、
社会構成主義的な考え方を教育の場面でどういうふうに使うことができるかということについて、たとえば Collins and Pinch の The Golem の最終章でされていた議論はそんなに無理なものだとは思いませんでした。この本は翻訳があるのですが、恐ろしいことに序章と最終章がなんのことわりもなしにバッサリ落ちているので、、、
左巻様 はじめまして、白頭翁ともうします。学校教育の現場からの御発言 多大の関心を持って読ませていただきました。 >ぼくの分野では、野家さんの対談相手である村上陽一郎さんの『新しい科学論』の >ような論が大学の理科教育プロパーに多大の影響を与えています。たとえば、文部 >省の教育課程作成にかかわり、今も大きな影響力を持っている理科教育プロパーは >次のような科学観で教育課程をつくれと文部省教科調査官に要望しています。そし >て、その教科調査官氏もこのような科学観の持ち主です。 >「自然科学は人間が創造したもので変化する。自然科学は科学者により異なること >が多く相対的である」ぼくは、理科教育論者の中でこのような論に組みしない >「異端」です。科学に様々な側面での相対性を認めますが、「」内のような相対主 >義者には批判的立場です。 ひとつお願いがあるのですが、上で引用された文部省の教科調査官の発言がでてい る文書、およびその入手方法をお教えいただけないでしょうか。 村上さんの科学論が、理科教育にどのように影響したと言われるのか、詳しく 知りたいと思いますので。 私は、学校教育で「科学論」とか「哲学入門」の授業を受け持つときに 学生達が「言論」にたいする不信感を持たないように気を付けています。 主張の「真偽」を、その世間的な「効用」や、見かけだけの「説得力」から区別す る、しっかりとした判断力を養うことが大切で、そのためには、 「ソクラテスの弁明」とか「方法序説」のような古典を読ませます。 その場合、「科学」とか「哲学」とかの区別さえ問題にせずに 我々がいかに「無知」を自覚していないか、無知の自覚から出発してこそ 建設的な智の構築が可能である、という、この一つのことのみを 伝達するように心がけています。 「科学論」のことが話題になっていますが、たとえば、デカルトの 「方法序説」は、彼の新しい物理学への前書きとして書かれた物で、 古典的な意味での科学論ではないでしょうか。 自然科学とは何か、という問題は、様々な観点から考察できます。 私は相対主義は、誤謬ないしたんなる錯覚として、退けますが 「方法論的な多元主義」は価値あることと思いますので、 村上さんの「新しい科学論」も、野家さんの「科学の解釈学」も 従来の実証主義の科学論やマルクス主義の科学論では見落とされた 多くの問題を私たちに明らかにしてくれた貴重な労作と評価しています。 彼らの仕事を、ポストモダーンの浅薄なイデオローグ と一緒くたにするのは気の毒です。 ただ、「イデオロギーを批判する智」の構築へ向かう科学の理念、 を説いたカールポパーのような古い世代の科学哲学と比べると 「イデオロギーとしての科学」を力説する「新しい科学哲学」を 唱道している人々の多くは、きわめて疑わしい認識論上の立場を、 既に決着の付いたものとして独断的に措定しているために、 「相対主義」に陥っているのではないか、という危惧を持っています。 (これは、新しい科学哲学に於いて主流となった科学社会学を 貶めているのではありません。科学社会学は、宗教社会学などと同じく 社会科学の一分野であり、独自の方法論と規範を持つものと思います。 ただ形成途上の新しい科学の常として、試行錯誤の過程において あらわれる一時的な議論の混乱があるのは当然のこと、将来この 分野で優れた業績の出ることを期待しています) デカルトに始まり、カントや、ポパーによって受け継がれた科学の 理念は、イデオロギーとは正反対の批判的理性に受け継がれています。 「イデオロギーとしての科学」というのも曖昧な言い方であって、 科学の既成観念を物神崇拝する「科学信仰」ないし 「科学主義」はイデオロギーであっても、正真正銘の科学の 探求を導く批判的精神こそが、イデオロギーを克服する道です。 理科教育の目的の一つは、優れた科学者の仕事を通じて、 そのような批判的精神に触れさせることではないでしょうか。
今日見つけたのは、モノポール
磁石の製作の実例他、いろいろ書いてあるなあ。こんなのに首突っ込んで
いては体が持たないから、見なかったことにして通り過ぎようかな〜。
(〜はブタネコさんの登録商標であったか)
ぼく自身は、科学論の人たちの書いたものをほとんど読んでいないのですが、断片的に読んだり聞いたりしたことにはどうもしっくり来ない感覚を持っています。 「真理の相対性」みたいな、解釈のしようによって、当たり前だったり、恐ろしく危険だったりする考えを、科学論の人たちが、敢えて、科学の教育や実践の現場に向けて発言している(のだとしたら、その)動機は何なのでしょう?
プロの科学者は、研究の動機や世界観はまちまちでしょうが、とにかく「山があるから登っている」心境だろうから、そういうちゃちゃが入ってもあまり気にならないと思います。 ただ、これから科学を学ぼうという若い人たちに、「真理の相対性」みたいなアイディアを皮相的に宣伝(しているとしたら、そういうことを)するのは、いただけない。
そういったことについて、左巻さんの感じておられる問題意識、危機感のようなものを、少しずつでもお聞かせいただければ、大変意味があるだろうと信じております。
左巻健男です。 『現代思想』11月号の対談についてのぼくの投稿ですが、科学論者の方も たくさんいるはずのMLでも反応がほとんどありませんねえ。 さびしいっす。 野家さんの答へのコメントも「言い過ぎかなあ」と思いつつ書いたものなの になあ。 ぼくは、野家さんより村上陽一郎さんの『新しい科学論』とか『近代科学を 超えて』あたりの内容を問題にしたいな。暇と能力がないのでできないのです が。掲示板2で話題になっているパラダイム論は、「単純クーン主義」批判に もなっていると思います。 #掲示板2でも話題になっていることを最近知りました。対談感想はそちらに 投稿したほうがよかったかな。今更しょうがないね。
二部構成で、不完全性定理は後半で扱われていますが、形式的体系とは何かを誤解されている状況なら、むしろ、前半をみっちりと読むことをお勧めします。
> 野田篤司様 ゲーデルの「未刊哲学論稿」が出版されていますので、紹介します。 ここには、「数学の基礎に於ける若干の基本的定理とそれらの哲学的な意味」 という未刊の論文が収録されています。 Kurt Goedel "Unpublished Philosophical Essays with a historico- philosophical introduction by the Editor" edited by Francisco A. Rodriguez-Consuegra, 1995, by Birkhaeuser Verlag AG, Basel, Switzerland 日本語訳は ゲーデル 未刊哲学論稿 好田順治訳 青土社 1997 ゲーデルの言葉を引用しましょう。 (否定しがたいある仮定の下に--特にともかく数学的知識のような あるものが存在するという仮定の下に)私はプラトン的見解は唯一の 主張可能なものであるだろうという印象を持っている。 それにより私は、数学は人間精神の行為と性質の両方とは 単独して存在する非感覚的実在ということを記述する。 そしてそれは、人間精神によって知覚され、しかもおそらく 非常に不完全にしか知覚されないという見解を意味している。 この見解は、数学者の間ではむしろ一般的ではないが しかしそれを固守したある偉大なる数学者達は存在する。 たとえば、エルミートはかつて次のように書いた。 思い違いでなければ、まさに物理的実在の世界が存在するように 私たちがそれに知性でのみ近づける数学的真理の全体からなっている 全き世界が存在する。どちらも私たちとは独立している、神の 二つの創造物である。 (日本語訳より引用、同書181頁) このようなゲーデル自身の哲学的見解と彼の「不完全性定理」の 解釈とは区別すべきことはもちろんです。しかし、不完全性定理の 発見者が上のような見解を持ち続けていたことに皆さんの注意を 促したいと思い、紹介する次第です。
さて、本題。
2.「人間の知的活動は公理体系以外の仕組みで動いている」と言う解釈は、間違いというより意味不明ですので、おそらく、「公理体系」を誤解されているのでしょう。したがって、
1.「不完全性定理」の解釈にも、基本的な間違いがあるのでしょう。
なお、啓蒙書などではなくちゃんとした教科書が必要なら、Ebbinghaus, Flum and Thomasの教科書が最近の定番です。
そういえば、完全性定理と不完全性定理とカット除去定理の三つとも扱っている入門的教科書がないなあ。これ一冊で数理論理学の基本定理が一通り学べる教科書があると便利なので、ぜひ、だれか書いてほしいなあ。おそろしく厚くなりそうだけど。
先週のEthernetの名称の質問について。
たしかに Ethernet は発明者の Bob Metcalfe が 古典的エーテル説にちなんで命名したものです。
Where Wizards Stay Up Late: The Origins of the Internet という本に載ってます。
IEEEのLAN規格では、Ethernet と綴るようです。Eを小文字では書きません。 しかし、ジョークRFCの RFC1149 では、エーテル空間を三次元ether、通信経路を一次元etherと使い分けています(誰も使わないって)。
自己レスです。次の段落1行目を訂正します。 >かつて論理実証主義はアカデミズム内部で形式化し、科学の実際 >から遠ざかったとぼくは考えています。同じように今や科学哲学や科学 >社会学の一部も科学的装い(まさに装い!)はするが、「科学の実際」 >から遠ざかっているように思います。科学哲学は、科学研究の方法論や >科学の認識論の面では素朴実在論との「連続性」を意識的に展開するべ >きだと思います。日常生活で素朴実在論と言うことは、物理法則のある >面での絶対性、普遍性を認めると言うことでしょう。哲学的には認めな >い、としたらそんな哲学はなくてもいいと思います。
科学史MLに今投稿しました。 左巻健男@東京大学教育学部附属高等学校です。 当の野家さんが登場されてお答え下さり、電子ネットの凄さを実感し ているところです。 はじめにお断りしておかなければならないのは、ぼくは「科学者」で はなく、「科学教育者」「理科教育論者」であると言うことです。 また、前提として、ぼくは野家さんに恨みがあるわけでも何でもない と言うことです。東大教育学研究科院生の若い友人が文学部かどこかで 野家さんの講義を聞いて、ぼくに『科学の解釈学』を勧めてくれました が、まだ読んでいません。最近、物語風の『クーン』を読みました。あ くまでも対談を読んでのぼくの感想なのです。ぼくの読み方に共感して くれる人も反発する人もいることから、「絶対性」を主張することはい たしません。あくまでも、ぼくの読みです。 ぼくの分野では、野家さんの対談相手である村上陽一郎さんの『新し い科学論』のような論が大学の理科教育プロパーに多大の影響を与えて います。たとえば、文部省の教育課程作成にかかわり、今も大きな影響 力を持っている理科教育プロパーは次のような科学観で教育課程をつく れと文部省教科調査官に要望しています。そして、その教科調査官氏も このような科学観の持ち主です。 「自然科学は人間が創造したもので変化する。自然科学は科学者により 異なることが多く相対的である」 ぼくは、理科教育論者の中でこのような論に組みしない「異端」です。 科学に様々な側面での相対性を認めますが、「」内のような相対主義者 には批判的立場です。「相対主義は落ちるところまで落ちる」傾向があ ると思っています。 以上が前提です。 研究の現場では素朴実在論でいいんだ、日常生活では素朴実在論で行 動していると野家さんは言います。その素朴実在論は「素直に、目で見 え手で触れて感ずるもの、また検出器等の新たな目や手で感触が得られ るものは存在すると考え、その物質世界は確固とした物理法則、真理に もとづいて運動しているという信念」(佐藤勝彦)と言うことでしょう。 かつて論理実証主義のようにアカデミズム内部で形式化し、科学の実際 から遠ざかったとぼくは考えています。同じように今や科学哲学や科学 社会学の一部も科学的装い(まさに装い!)はするが、「科学の実際」 から遠ざかっているように思います。科学哲学は、科学研究の方法論や 科学の認識論の面では素朴実在論との「連続性」を意識的に展開するべ きだと思います。日常生活で素朴実在論と言うことは、物理法則のある 面での絶対性、普遍性を認めると言うことでしょう。哲学的には認めな い、としたらそんな哲学はなくてもいいと思います。 さて、野家さんの対談での発言ですが、科学者に敬意を表してのもの にはぼくには思えません。文脈を考えれば誤解だとわかるとのことです が、ぼくは文脈を踏まえた上で科学者の研究のありようをネガティブに 捉えていると判断しました。 元々の米国の雑誌の特集意図のように科学者と科学論者の対立のよう にソーカル事件を描き出しているという文脈の中で読んだのです。 1.ソーカルの『知的詐欺』などをきちっと読んでいないとしながらソ ーカルらの素朴実在論は・・・として小学生に失礼な程度と揶揄します。 もしかしたらソーカルが批判した社会構成主義者がもっと酷いレベル の論を言うから、「21階から・・・」で批判がすむものなのかもし れません。 2.1の流れの中で「物理をやっていたのでよく分かる」として問題に した発言になるわけです。その中の表現に科学者への敬意をぼくは感 じません。細かく指摘することはしませんが。 野家さんが科学者で自嘲的に語るなら理解できなくはない表現です。 しかし、当の本人が敬意を表していると言われればそうなのかも知れ ません。 対談から、ぼくは科学史、科学哲学のおもしろさを感じませんでした。 藤永さんに批判されている村上さんに引きずられ、サイエンスウォーズ を科学者からの科学論者批判と捉え、その構図の中で語り合ったために 有効な教訓、科学の研究にも劣らず科学哲学の研究がおもしろいもので あることを示していくということができなかったのではないでしょうか。 野家さんのところの院生たちは対談をどう読んだのでしょうか。 #授業の合間に書いたので論旨不明確の部分があるかもしれません。また 失礼な表現もあるかもしれません。 ■左巻健男(SAMAKI TAKEO):東京大学教育学部附属高等学校:化学 ■〒164-0014中野区南台1-15-1電話03-3377-3411FAX03-3377-3415 ■E-MAIL:samaki@hs.p.u-tokyo.ac.jp ■併任:中学校/法政大工学部(理科教育)/宮城教育大(学校臨床)
5月に話題になった槌田氏に関して、ここで言及されているのを発見。地球温暖化に関する情報へのポインタとして便利そう。でも、どういう方が作っていらっしゃるページなのか、さっぱりわからないのはちょっと残念。
馬鹿なことを書いたのはあやまります。
で、黒木さんの「本論」についてですが、例えば黒木さんの書かれている「科 学者達の言葉や科学の歴史を分析する過程で、科学者達が実際にやっているこ とや科学者達が真に信じていることは、全然単純ではないということが暴露さ れたのです。」というのと、「素朴実在論に立たないと研究なんてばかばかし くてやってられないという面はあります」と野家氏がいうことのあいだは極め て整合的であると私には思えるので、なぜ野家氏がいうことを黒木さんが「単 純化された科学者像のひとつなんだよな」というふうにいうのかが私にはそも そも良くわからないのですね。
つまり、「科学者が真に信じていること」と「科学者が自分は信じていると思っ ていること」の間には違いがあるということを野家氏も黒木さんもいっている のではないかと思うのです。
ただ、私もあの対談を読んでなんとなく不愉快になって、黒木さんや左巻さんが書かれたようなことを書いてみたくなったということもあって、、、 これについてはもうちょっと考えてみたいのですが、1月にする研究会のプロ グラムを考えるとか雑用も溜りつつあるし、時間が出来たら shake 法(分子 動力学で拘束条件のある系を扱う標準的な方法の一つです)の勉強もしたいし。
さて、
「戦争」というセンセーショナルな見方を一貫して強調しているように感じられた。については、僕は全くそうは感じなかったので。でも、感じるかどうかなんて のは個人の趣味の問題だから、「私は感じた」「いや、私は感じなかった」と いっても議論にならないでしょう。
啓蒙書でお勧めできるのは、『ゲーデルの謎を解く』(林晋、岩波科学ライブラリー 6、岩波書店)かな。『はじめての現代数学』(瀬山士郎、講談社現代新書、講談社)でも不完全性定理を扱っているのをみつけて買ったけど、まだ、読んでいません。
不完全性定理は数理論理学の基本定理のひとつであることをきちんと説明した啓蒙書がないのが問題だと fj.sci.math で書いたら、そう思った人が書くべきだとの反応が返ってきました。ごもっとも。
知的サロンを存続するために、白頭翁さんが紹介されている類の「ルール」は、柔軟に適用される限りにおいては、非常に有益だと思います。
でも、私は、それよりももっと単純で重要なことがあると思うのです。それは「褒めること」なんです。議論には当然ことながら批判の応酬が含まれることになり、そうでない議論など面白くもなんともないと思います。しかし、有益な議論をするためには、相手の欠点を見付けて批判するだけでは駄目で、それと同時に肯定的に評価できる点についても触れる様に努力しなければいけないのです。
そもそも、褒めることは大変難しいし、恐いことでもあります。誰もが認めるであろう欠点を指摘するのは気楽で簡単なことです。これに対して、褒めることは自分自身の理解力やセンスや見識などが問われる行為です。褒めるという行為によって、評価の対象になるのは、褒められた対象というよりは、自分自身なのです。これは結構恐い。しかし、それをやらない人は自分自身をより良く理解してもらうチャンスを逃しているのだ。
あと、褒めるという行為には必ず有益な情報が含まれる可能性が高いということも見逃せない重要なポイントです。褒めるためには、どうしてもその対象の肯定的な点を示す必要があります。それがないと説得力が無くなるし、何をどう褒めているのか、わからなくなってしまうからです。このことも褒めるという行為が面倒なゆえんですよね。
自分が好きなものを「褒める」という行為を継続して行なおうとする人を私は好きですね。
「トラヒック」というのは、NTT内での言い方だったような。もっともらしいうそかもしれないですけど。 試しに「トラヒック NTT」をgooで検索するとntt.co.jpなページがたくさん出てきます。(なんの証明にもなっていませんが)
「コンピュータ」などの長音省略については、むかし朝日総研のレポートに載っていたのですが、いま探したらバックナンバーがバッサリなくなっていますね。JISとかも確かに出てきたのですが、もっといろいろな事情がからんで来てたようにも思います。
ちなみにcomputerのアメリカ的発音は、わたしには「コンピューロー」と「コンピューラー」の間くらいの感じで聞えます。
mailは「メイル」とよく書きますが、これは発音がどうとかいうより綴りに影響されている気がします。わたし自身はどっちだろうがあまり気にしていなくって、場合によっては「メール」「メーラー」「メーリングリスト」とか書くと思います。それはそうと、印刷物なんかで見るのはほとんど「電子メール」とかってなっているのではないかと(曖昧表現)。
いやいや、日本語というのは難しい! 要するに、私の真意は、 「野田さんが提起された問題を歓迎する」 という意味です。 ただ、ここは「公開討論会」や「シンポジウム」のような 改まった場所ではなく、自由に談論を楽しむための掲示板ですから 時間があって、面白そうな問題があれば、誰でも自由に討論に参加し 飽きたら、別に断らずに討論から抜けても構わない、そういう気楽な 知的サロンであって欲しいという気持ちも持っています。 ケンブリッジ大学では「アポッスル」という 伝統的なクラブがあって、毎週土曜日の夜に会合を開き ラッセル、ホワイトヘッド、ケインズ、ムーアといった 人たちは、専門分野の違いを越えて、談論を楽しんだと聞きます。 このアポッスルでは 1 専門家でない人が「素朴」にみえる質問をしても、専門家は そのひとに分かる言葉できちんと説明する 2 どんなにばかげて非常識な意見と思われても、最初から退けたりしない それに対してきちんと筋道を立てて反論する 3 決して外的な権威に訴えない のようなルールがあったと聞いています。そういう自由闊達な知的サロンが ネット上に実現することを願っています。
あぁーあ、牧野さんまで、そうやって僕を馬鹿にする。でも自業自得。(;_;)
ええと、こちらが本論です。「野家氏の発言は「素朴実在論に立たないと」であり、「信じてなければ」ではありません」というのはごもっともですが、それで私の主張の本線のどこが崩れるのでしょうか? そこまで突っこんで批判してもらえると、私としては大変ありがたいですね。
あと、批判するときには、それと同時に、相手の言い分の中で自分自身が肯定的に評価している点を明確にし、尊敬を示すことは大事なことだと思います。例えば、私は自分なりにずっと「新科学哲学」にも敬意を払って来ているつもりですし、そのことを牧野さんは御存じのはずです。そのような点を無視し、私の揚げ足を取ることによって、…のようなやり方が「戦争」という解釈を広めるんだと思います、などと言うのは好ましい議論のやり方だとは思えませんね。
うーん、既に遅れをとっているなあ。でも、せっかく書いたのでだしちゃいま すね。
ちょっと話は変わりますが、「科学者は素朴実在論を信じており、信じてなけ れば研究などやってられない」という類の言説を広めるのにもっとも貢献して いるのは、やはり「21階から飛び降りてみろ」というような言説だと思いま す。 なお、ここでも、野家氏の発言は「素朴実在論に立たないと」であり、「信じ てなければ」ではありません。そういうところを(無意識にか意識的にかはわ かりませんが)すりかえた上で全体の文脈を抜きにして引用する左巻さんや黒 木さんのようなやりかたが「戦争」という解釈を広めるんだと思います。
まあ、私は実在論者なので野家氏の発言には別になんの疑問も感じなかったで すが。
だけではなんなので。。。(それにしても反応の早さが chat 並だな,ここ。(^^;;)
ethernet って Xerox かどっかの商標ではなかったかしらん。んで「エーテル」みたいにそこら中に満ち満ちて何かを伝える媒体であるって事でこんな名前が付いた,と何かに書いてあったような記憶があります。
ただしどこに書いてあったかはまるで思い出せないので,単に民話を広めてるだけかもしれません。
# 独語にするとやっぱり「エーテルネッツ」なんだろうなぁ。。。(^^;;
白頭翁さん、申し訳ない。完全に私の落度であります。今後は気を付けますが、同じような間違いをやってしまうかもしれないので、そのときには御容赦を。 (ええと、それとは別に気になっている点があるので、この件とは別に予備の方を覗いて下さい。)
黒木さん黒木さん。それは絶対に誤読でしょう!
確かにどっちにもとれる文ではあるんですが,
「ここの掲示板で議論するのに相応しい問題ではないかと思います」
というのは
「ここの掲示板で議論するのに相応しい問題ではないと思います」
ではなく,
「ここの掲示板で議論するのに相応しい問題であろうと思います」
と同義なんじゃないでしょうか。
そうでなければ
私も、専門家である鴨浩靖さんのコメントをお聞きしたいと思っています。
とは続かないと思うんですけど。
予備の方でという話でしたが,これだけは表に書くべきだと思ってこっちにしました。
白頭翁さんの「ここの掲示板で議論するのに相応しい問題ではないかと思いま す」という発言は、「こういう話題こそ、ここの掲示板で議論するのに相応し い問題なのではなかろうか」という肯定的な意味にもとれるし、「ちょっと、 ここの掲示板で議論するのに相応しい問題ではないように思える」という否定 的な意味にもとれますね。 「私も、専門家である鴨浩靖さんのコメントをお聞きしたいと思っています。」 と言っているところからみると、肯定的な意味で使っているように思えますが、 どうなんでしょうか。
どもども野田さん、(ここでは)はじめまして。
ええ、勝手に野田さんの紹介をしてしまいます。何はともあれ、野田さんのホームページを見に行きましょう。野田さんがやろうとしている様々なプロジェクトはどれも面白いので私はびっくり。しかもどれもが難しい内容だ。力がありあまっている人は野田さんに協力しましょうね。例えば、一般相対性理論や数値計算に詳しい人は「時間と空間のシミュレーション」に協力すべきだし、コンピューターのハードとソフトのどちらかに詳しい人は「Fox プロジェクト」に協力すべきだと思う。 (もちろん、他にも色々ある。)
ええと、野田さん、白頭翁さんが「ここの掲示板で議論するのに相応しい問題ではないかと思います」と言っていますが、私も含めて他の人達はそうは思ってないはずです。白頭翁さんのこの言葉を野田さんが気にして、今後遠慮するということになると、私は悲しいですね。白頭翁さんの「ここでは相応しくない」という意見がなぜ出てきたのか、私には全く理解できない。 (白頭翁さんおよび他の皆様方、この件で表の掲示板が埋め尽くされるのは皆嫌だと思うので、予備の方で意見を述べて下さい。)
野田様 はじめまして、白頭翁ともうします。 あなたが投稿されたような問題は、ここの掲示板で議論するのに 相応しい問題ではないかと思います。 私も、専門家である鴨浩靖さんのコメントをお聞きしたいと思っています。 (ただ掲示板というのは、時間があって気が向いたら答える、という 気楽なサロンの雰囲気が必要なので、「面倒くさければ答えない」という権利 もお互い認めないとしんどいですね) まずゲーデルの「不完全性定理」(Incompleteness Theorem)という呼び名は もとのドイツ語で書かれた論文を英訳するときに、翻訳者が(多分俗受けを狙っ て)命名したものなのですね。 原題は「プリンキピア・マテマティカやその関連体系での形式的に決定不可能な 命題について」という長ったらしいもので、どこにも「不完全」などという言葉は ないんです。これでは、どうも印象が薄いと思ったのでしょうね、 ゲーデル自身のアブストラクトに「決定問題に関して確定的」という意味でのドイ ツ語でentscheidungsdefinit とあったのを英訳者が「完全 complete」と訳した ので「決定問題に関して不確定な命題がある」という原論文が、「不完全性定理」 と呼ばれるようになったという事情がある。 ポイントは、ゲーデルの「不完全性定理」は、「真理」概念に依拠せずに定式化さ れているにも関わらず 「どのような公理体系も全ての<真なる>数学的命題を演繹することは出来ない」 という意味に誤解されてしまうということです。 (述語論理だったら、「恒真式」は「全てのモデルで真」というように明確に定義 できますが「数学的真」は、そうはいきません。) 面白いのは、ゲーデルの論文が書かれたのとほぼ同じ時期にタルスキーが 公理体系の内部で、「真理」概念を定義することは出来ない という定理(タルスキーの定理)を証明していることです。 T: 文「雪は白い」は、雪は白いとき、そしてそのときに限り真である という形式の対応説的な真理概念は、ある程度複雑な構造を持った公理系の 内部で一般的に定義すると、二律背反をもたらすという内容です。 タルスキーの論文も、 「タルスキーによって実在論的な真理概念、即ち命題は事実との対応によって真と なる、という考え方が、論理学的な裏付けを獲得した」 と良く誤解されます。 タルスキー自身は 「意味論的な真理概念は、認識論において、我々が素朴実在論をとろうが、 科学的実在論を採ろうが、あるいは観念論を採ろうが、そのこととは無関係に 誰もが前提している真理概念を分析したに過ぎない」 といっているのですが。
単純化された科学者像は色々ありますが、科学哲学が専門の野家啓一氏が信じていることが明らかになった「科学者は素朴実在論を信じており、信じてなければ研究などやってられない」という類の言説はどのようにして広まったのでしょうかね?
私の読書の範囲で判断する限りにおいては、所謂「新科学哲学」(真に新しい哲学であったかどうか疑問なので以下「」付きで書くことにする)は、論理実証主義の合理的だが単純化され過ぎた科学観への批判を通じて生まれ、その特徴は科学史を重視することでした。科学者達の言葉や科学の歴史を分析する過程で、科学者達が実際にやっていることや科学者達が真に信じていることは、全然単純ではないということが暴露されたのです。例えば、クーンの『科学革命の構造』やファイヤアーベントの『Against Method』のような所謂「新科学哲学」の基本文献を読むと、極端で間違っていることを述べているように見える点は多々あるにしても、科学がそう単純なものではないということを強調している点においては、(所謂「新科学哲学」に反感を持っている人達も含めて)誰もが共感しかつ肯定的に評価できるものと思われます。
以上のような知識を前提とすると、野家氏の発言は、口がすべっただけなのかもしれませんが、やっぱりちょっと頂けないですね。たとえ科学畑の人が「俺は素朴実在論を信じている、それ無しでは研究などやってられない」と語ったとしても、果たしてこいつは哲学的に本当に素朴実在論を信じていると言って良いのだろうか、と疑わなければいけないと思うのです。科学畑の人がそう言ったというだけでは、哲学的に厳密な証拠にはならないはずですよね。このような懐疑精神を発揮する方が所謂「新科学哲学」の立場に忠実だと思うな。
まあ、それにしても「科学者は素朴実在論を信じており、信じてなければ研究などやってられない」という類の言説はどのようにして広まったのかなあ。これに関して、何かまとまった調査があれば面白いと思います。
科学史メーリングリストで、チョタボな野家さん本人が、『[kagakusi:175] 左巻さんへのお答え』 というのを出しましたね。感想は、日本もここまでNetが普及したのかだけです。 Sokalネタは、20-30年後どう回顧されるのか、これからどこにどんな影響が及ぶのか、 全く見当がつきません。私の能力ではしかだがないけど。 金森さんのカルチャウオーズ説(アメリカの人文科学のありよう)は有力な見解だけど、 アメリカでは今こんなんが流行ってますというような現状追認のような答えしか出ないだろうし。 かといって、いくら対岸の火事と言っても、アメリカの無い世界はありえないし(笑)。 実在論・反実在論というのも(構築主義もそうだけど)、よく使われる割には人によって言うことが あまりにもちがい過ぎてわけわかりません。特に反実在論は話者の問題関心(問題設定)によって大きくちがうようだし。 古くからの問題の繰り返しなのか、新しい問題なのかも分からないし。
『現代思想』誌の「サイエンス・ウォーズ」特集号を熟読はしてませんが、ざっと全体を見てみました。以下はその感想です。
「戦争」というセンセーショナルな見方を一貫して強調しているように感じられた。(もちろん、訳された Sokal の論説は違う。)
何度か書きましたが、 Sokal のパロディー論文を不運にも掲載してしまった Social Text 誌の Science Wars 特集号の編集者を務めた Andrew Ross によると、 Science Wars の定義は「予算と尊敬を失った保守的科学者による小数派・弱者に味方する知識人達への不当な攻撃によって生じた混乱」なのです。果たして、科学畑の人達が Andrew Ross のような人達を批判する理由が「予算と尊敬を失ったこと」に還元できるのか。そして、『現代思想』誌が採用した特集のタイトルも「サイエンス・ウォーズ」でした。タイトルだけではなく、中身も「サイエンス・ウォーズ」のプロパガンダに満ちているのです。
多くの有益な考え方でさえも、「戦争」という解釈と結び付けられることによって、つまらなく感じられてしまう。せっかく1冊の特集号を科学論に当てるのなら、「戦争」などという見方とは結び付けずに、科学論そのものの面白さをストレートに解説して欲しかったですね。残念ながら、あの特集号を読んでも、「戦争」というセンセーショナルな解釈の影に隠れて、科学論そのものの面白さは見えなくなってしまっているのだ。
『現代思想』誌の「サイエンス・ウォーズ」特集号の多くの論説には、科学と科学論の溝が埋まることを望んでいる、というようなことが書いてあるのですが、その意に反して、この特集号はむしろ溝を拡げる役目を果たしてしまうでしょうね。これも「戦争」という解釈を強調し過ぎたための報いですね。
そんなに「戦争」を日本に拡げたいのかな? それで誰が得をする?
あぁーあ、不毛だよな。
本当に溝を埋めたいと考えているのなら、ひとめを魅くタイトルとして「サイエンス・ウォーズ」を採用するのは良いとしても、実際の中身は、「戦争」という見方自体が不毛なのだ、という特集を組むべきだったのだ。
ああ、これは私も聞きたいな。林さんが挙げた例の他に私が聞きたいと思っているのは traffic を「トラヒック」と書く流儀についてです。片仮名で書いたらもはや日本語なので、もとの発音を正確にトレースする必要はないと私は考えているのですが、「トラヒック」はかなり嫌なのだ。どこかに、なんとか用語集のようなものがあって、「トラヒック」と書いてあったりするのでしょうか?
思い付いたのでちょっとだけ別の話題。私は mail を「メイル」ではなく「メール」と書いているのですが、どちらが多数派なんでしょうかね?
匿名さんへのコメントを予備掲示板に書いておきました。
工学に進んだ友人と会話してて思ったのですが何故工学系の人(とも限らないけ ど)は「コンピュータ」、「エネルギ」、「ビニル」等と言うのでしょうか? もしかしたら、友人の周辺の工学部だけなのかも知れませんけど気になります。 工学関係の方で理由を知ってる方、教えて下さい。 小学生が読書感想文で「こころ」や「人間失格」、「金閣寺」等を 題材に選んで提出したら中学生には相応しくない本と国語の先生に いわれたそうです。言われてみればそうかもしれませんが開口一番 にそれを言う必要はあったのでしょうか?(言われた本人は特に気 にしてないようなのですが;私の弟) なんか詰まらない質問ですいません。
現代思想をまだ読んでいないので、黙っていました。 ただ、物理の研究と教育で身を立てている者としては、
物理をやっていたのでよく分かるのですがといった発言には敏感にならざるを得ないので、左巻さんの掲示を共鳴しながら読んでおりました。 対談全体を読まなくては具体的な判断は下せないだろうと思いますが、たとえば、野家さんが
素朴実在論にたたないと研究なんてばかばかしくてやってられないという面はあります。といった極めて限定した科学者像を提示される根本的な意図が推測さえできないので、フラストレートしています。
>投稿拒否 ハンドル複数利用とか卑怯な真似したのが ここだけだったってことですかね?
>伊勢田さん はじめまして 白頭翁ともうします。 「左巻さんの野家解釈」拝見しました。 私も、あなたとほぼ同じような感想を持ちました。野家さんの言葉は 文脈をたどる限り、科学者が、どんなに経済的に恵まれない状況にあっても、 目先の実用などにはとらわれずに、研究を続行できるのはどうしてだろうか という文脈で語られたもの。 ただ、野家さんの発言は座談会の記録であるがゆえに、誤解を招きやすい表現が あることも確かです。 どうして左巻さんが野家さんの言葉を誤解したのか、理由を考えてみたの ですが、その一つは、野家さんが「科学者は素朴実在論にたたなければ研究なんて ばかばかしくてやってられない」と述べたこと。 これは議論の全体の流れから切り離してそこだけ読めば、確かに妥当でない発言です。 すべての科学者が「素朴実在論」に立っているわけではないし、 「素朴実在論」にたたなければ、科学の地味な研究ができないと言うわけでもない と思う。 マッハは感覚主義的な現象論の立場だから全然「素朴実在論」ではないし 私の知っているある地球物理学者の方などは、 「私は<真理>の探求などやってはいない。やってるのは<仮説ころがし> で、いろんな大胆な仮説をたてて学会でチャレンジするのが面白いだけだ」 と言っていました。彼の研究が何かの実用になるとは思えませんでしたが、 彼の情熱が「素朴実在論」から来る物でないことは確か。 アインシュタインのように、我々とは独立に存在する「実在」、 一切の我々の先入観や憶測に先立って厳然としてそこにある世界 こそが無限に続く科学的探求へと我々を導く、と信じた科学者もいました。 これは、私から見ると、「素朴実在論」などではなくて、 彼の研究活動を支えた「科学の理念」から来る物ではないか、 どこかで「最終的な理論」とか「一切の批判を免れる完全な理論」 が手に入るなどと考える資格は我々にはないと言うことでしょう。 私自身は、アインシュタインの量子力学批判は受け入れられないけれども こういった「科学の理念」には共感できますね。
「物理をやっていたのでよく分かるのですが」ということから発言が始まって いることに注目しました。 これは、自分の言説は体験から裏付けられているんだぞ、という強烈な言い方 だと思いました。 いま、理科教育MLや科学史MLで話題にしていますが、科学論や科学史の方 からの反応があまりありません。佐倉さん@横国 くらいかな。 ぼくの「読み」も拙い、偏見に満ちたものかも知れず、それで相手にされない のかも知れません(^^;)。
ええと、手元に『現代思想』がないので間違っているかも知れませんが、 左巻さんの引用された文章を見る限りでは、左巻さんの解釈は あまりにも野家さんに厳しすぎるのではないかと思います。
楽して金をもうけたいのであれば科学者という商売を選ぶのは理に適っていない、 だから科学者という商売を選んでいる以上何かべつの目標を立てている と考えないと理解できない、というのがここで野家さんのいわんと していることであって、野家さん自身が「科学研究はばかばかしい」という 立場にコミットしているようには読めません。「延々と実験」云々も、 それが科学のすべてだなんてどこにも書いてないわけで、「極端な場合には そういう味気ない作業でもできてしまうのはなぜか」という問いだと思う のですが?
野家さんが「物理をやっていたのでよく分かる」と言うのはプロの物理の研究者 の方に対して失礼な言い方だということについては野家さんの弁護をするつもり はありません。ただ、左巻さんが、卒研程度の経験で科学哲学をやること一般 について「よほどのバカか自信過剰」と考えておられるのなら一言反論しておきます (卒研程度の経験で物理のことがなんでも分かった気になることについて そうおっしゃっておられるなら特に反論しませんが、野家さんの発言には そこまでの含みはないと思います)。 科学哲学をやるものが科学について基本的な理解を持つ必要があるのは当然 ですが、それが一人前の研究者としてのキャリアである必要は全くないと思います。 科学のほかの分野でと同様、ある程度分業に頼らざるをえないのはここでも 同じです。大事なのは、例えば物理学の哲学なら、物理学の専門家と哲学の専門家が きちんと意志疎通しあうことであって、一人一人がすべての関係する分野でエキスパート になることではありません。左巻さんのようなuncharitableな解釈の仕方は そうした意志疎通の妨げになってはいませんか?
でも、ジターリングは嘘の絵なので、、、まあ、周波数の高い固有振動モードがでちゃうのは、リングが本当に多角形であればそういうことが起こるわけなので、そういうもののシミュレーションだと思ってあげて下さい。
ええと、何度も叱られているのに、いい年こいて、同じ事を繰り返している方に関する議論はもうこれでお終いにしましょう。次回からはすぐに引っ越せるように予備掲示板を作っておきました。彼に対する私の対応が冷た過ぎるという感想が当然あると思いますが、過去の経緯と彼のここおよびあちこちでの態度と言動について色々考えたすえでの対応なので御容赦下さい。
何度も叱られているのに、いい年こいて、なんで同じ事を繰り返すのか???