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白頭翁さんの見解も参考になる点が多々あるのですが、しかし、鴨さんを、
ただ、あなたが実名をあげてこれらの人を非難するのを聴いて、些か驚きました。そういうことは、彼らの不在の場所で云っても仕様のないことで、どこが出鱈目であるのか彼らの前で発言すべきことですね。
と非難するのは間違っていると思う。そのような非難は正常な議論を妨げるものだと思います。誰かが別の誰かを名指しで批判したとき、その批判が根拠に欠けた全く駄目なものであれば、名誉を失うのは批判した人自身です。鴨さんによる名指しの批判もそのように扱われるべきです。鴨さんに対して「批判の根拠をもっと詳しく述べてくれ」と言うのではなく、「彼らの不在の場所で云っても仕様のないことだ」という理由で発言を封じようとするのは止めた方が良い。
私がソーカル事件のリンク集を作っていて気付いたことの1つは、 Sokal のやり方が許されるか否かに関する議論になると、全くつまらない感情的な論争になってしまうことです。
少なくとも科学者や技術者の世界では、自分自身の技能を駆使して行なわれるイタズラはユーモアとして結構歓迎される傾向があると思います。そのようなセンスの持ち主にとっては、ソーカル事件はユーモアに満ちた笑い話でしかないのです。困ったことに、そのような文化背景を完全に無視してしまう人達の多くは、異文化との付き合い方などに関して詳しいとされている学者達なのだ。 (私個人は、確かに少々性質が悪いにしても、あの程度のジョークは歓迎される世の中であって欲しいと思っている。)
あと、これは科学畑の人達に多いまずい議論の仕方なのですが、 Social Text が Sokal のパロディー論文を掲載してしまったこと自体を非難するのも不毛です。単に載せてしまったこと自体を責めるのは酷と言うものです。科学の内部においても、冗談で書かれたとしか思われない論文が雑誌に掲載されている例はあるのではないですか。たかが一回だけの過ちだけで、 Social Text 誌について一般的な結論など出せるはずがありません。
以上で述べた2つのタイプの議論は不毛な論争を好む人だけがやれば良いのだと思う。それではどういう議論なら、受け入れて良いと私が考えているか。
私が滑稽話として面白いと感じていたのは、 Sokal のパロディーを Social Text が出版してしまってから、次々に各界の大物が登場し、事がまたたくまに大袈裟になってしまったことです。その雰囲気はリンク集をざっと眺めてみるだけでもわかります。そういう様子を眺めて、「なんじゃこりゃ、なんでまたこんなに大騒ぎになっているんだ、ぎゃはははは」と笑う価値は十分にあると思う。
一方、私が個人的に真面目な話としてこれは面白いなと感じたのは、ソーカルのサポーターでかつ科学者ではない人達による発言です。
例えば、 Meera Nanda による「インドにおける Science Wars」があります。この "Science Wars" という言葉は、 Sokal のパロディーを載せてしまった Social Text 誌の Science Wars 特集号の編集者の Andrew Ross が特に宣伝した言葉で、「予算と尊敬を失った保守的科学者達による弱者や小数派に味方する知識人達への不当な攻撃によって生じた混乱」という意味を持っています。これに対して、 Meera Nanda はインドでは科学とは関係のない保守主義者達が古代のインド数学と物質科学を用いて科学教育をねじまげようとしている様子を報告し、それをインドにおける Science Wars と呼んでいるのです。 (Andrew Ross などとは別の意味で Science Wars という言葉を使っているところに、私は皮肉を読み取らずにはいられません。) 一方、 Sokal が批判の対象にした人達の多くは、もう1つの科学 (the so-called "ethno-sciences" -- "Hindu science," "Islamic science," "third world women's science") を賞賛しています。そのような賞賛はインドの保守主義者を元気付けているのではないか、というのが Nanda の主張の一部です。それが正しいか間違っているかは別にしても、Meera Nanda の論説は視界を広げるために大変役に立ちます。 (角田さんに教えて頂いたのですが、 Nanda の "orientalism" 理解には問題がある。)
最後に。 Sokal 自身の論説を何か1つ読むとしたら、『現代思想』誌に邦訳されている "What the Social Text Affair Does and Does Not Prove" (April 1997) がおすすめです。 (されに、これと件のパロディー論文を合わせて読むと、その批判の主旨がよりはっきりする。)
彼が書いたものを何も読まずに、彼の尻馬に乗ったり、彼を批判したりするのは、全く馬鹿げたことです。最低レベルとして、読んだことがはっきりわかるような論戦を私は期待したいですね。
あと、「科学者 vs なんとか」のような偏狭な見方しかできない情けない議論の仕方も止めた方が良いですね。視野を拡げる努力をした上で、自分自身の立場から意見を述べるのが良いと思う。
>鴨 浩靖 さん >確認ですが、Social Text 誌の編集者の軽率さについては、 >意見は一致しているんですね。 一致します。これは前の私の投稿を見ればおわかりいただけるでしょう。 この軽率さは、投稿者ソーカルが物理学において著名な教授であることを 編集者の方で盲信したことに由来します。 更に、私は仏蘭西のポスト構造主義と称する一群のイデオローグ (哲学者とは云いません)達が、科学用語を単なるレトリックに かえて無責任な言辞を弄していることを苦々しく思っています。 あるいは、この点でも鴨さんや黒木さんと一致するかも 知れません。 >Socal の行為は非難する必要もなければ、称賛する必要もない。` ここで私と鴨さんの意見が異なります。 私は、ソーカルの行為は倫理的に非難されるべきであり、それに 気付いていない人たちに注意を喚起したいとおもって投稿した次第です。 >優れた業績をあげた科学者が突然あっち側に行ってしまって、出鱈目な主張を始めることは、 >たまにあることです。最近ではPenroseの例がありますし >(これについては、私自身がずいぶんと迷惑を被ったのですが、いずれまた)、 >日本だと糸川英夫の例があります。 Penroseや糸川さんが、「出鱈目な主張」をはじめたというのは、あなたの価値判断であり それについて私は論評するつもりはありません。ただ、あなたが実名をあげて これらの人を非難するのを聴いて、些か驚きました。そういうことは、彼らの 不在の場所で云っても仕様のないことで、どこが出鱈目であるのか彼らの前で 発言すべきことですね。そうすれば、彼らは、おそらく自分自身で、あなたに反論するでしょう。 その上で、私はどちらが正当かを判断できるわけです。 が、仮にあなたの云うことが事実だとしても そのことは、私がここで問題にしている研究者のモラルの問題とは全く関係ありません。
ジャーナルにとって、投稿された論文については内容がすべてであって、投稿意図は問わない。その原則を、ナンセンスな論文に対しても厳格に適用すべし。それが、私の考えです。ナンセンスな論文を掲載してしまった結果を反省して、Social Text 誌が粛々と査読体制の改善を行なえば、それでよろしい。Socal の行為は非難する必要もなければ、称賛する必要もない。`Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity' 掲載事件については、それだけのことだと考えます。
言うまでもありませんが、『知的詐欺』以降については、別問題です。念のため。
たまたま、今回は、ナンセンス論文の執筆者とナンセンスさを指摘した人物が同一であったので珍しい事件に見えますが、その点を除けば、残念ながら、珍しい事件ではありません。優れた業績をあげた科学者が突然あっち側に行ってしまって、出鱈目な主張を始めることは、たまにあることです。最近ではPenroseの例がありますし(これについては、私自身がずいぶんと迷惑を被ったのですが、いずれまた)、日本だと糸川英夫の例があります。そういうのを、知名度に目が曇って載せてしまう危険は、ジャーナルなら常にあることなんです。
これまた、別問題だけど、今回、著者自身があまり時間をおかずにナンセンスさを指摘してくれて、ジャーナルとしてのダメージはかえって小さかった可能性もあります。「なんだ、あそこはあんなのでも載せてくれるのか」と思われて、わけわかんない投稿が殺到する危険を、回避するチャンスを得ることができたのだから。
鴨 浩靖さんへ 私の投稿をよく読み、その主旨をきちんと理解してのレスポンスでしょうか。 私は、ソーカルの投稿した論文を掲載した編集者の軽率さを弁護している のではなく、ソーカルが、物理学の専門家としての自分の経歴を悪用して ナンセンスな論文を、掲載させたことを批判しているのです。 たとえば、私の雑誌に、ソーカル氏のような論文を投稿されたら 掲載しないことは自明。私だったら、かりにどんな名前のある 物理学者が投稿しても、ナンセンスはナンセンスとはっきり言うでしょう。 Social Text 誌の編集者の過ちは、ニューヨーク市立大学物理学教授 というソーカルの肩書きを盲目的に信用したことでしょう。 まあ、編集者に同情の余地があるとすれば、 物理学の専門家が普通考えられないような一風変わった記事を投稿したので 内容は、全く整理されていない混沌だけれども、現にそのような考えを 抱く物理学者がいると言うことがユニークであると判断して、 この論文を掲載したのではないかと推察します。 もし、ソーカル氏が、物理学の実験をするような手軽な気持ちで 「編集者の知的水準をテスト」したいのなら、彼は実名ではなく 無名の投稿者を装って投稿すべきだったでしょうね。 しかし、それでは、掲載されないことは目に見えている。 そこで彼は、自分の物理学者としての肩書きを利用して、 愚にもつかぬ論文をSocial Text誌に持ち込み、編集者が喜びそうな文句を 羅列しそれを編集者が理解し得ぬ「量子重力」の語彙と結びつけた 文章をものした。それも、後で、Social Text 誌を嘲笑するためという悪意 を隠してのこと。 この辺が事件の真相ではないでしょうか。 実際に彼が
物理学者でなく、ニューエイジ系に強い似非科学コレクターでも良いです。コレクションの中から似たようなものをみつけてくれます。だいたい、CapraやSheldrakeが引用されているのを見てピンとこないようじゃ、ダメですよ。
晴明と名付けながら、結局は「はるちゃん」と呼んで育てた親に、 今度文句を言っておこう。
先日「現代思想」誌上の野家/村上両氏の対談のこと 側聞し、ソーカル事件とは何か、興味を覚えました。 そこで、こちらの掲示板で、ソーカル事件の記事があったのを思い出し、 黒木さんの解説を拝見し、また、参考までに ソーカルが Social Text 誌に投稿したという論文 1 Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity 及び、この論文が、まじめな物ではなくて、レフェリーの能力を試すために 投稿されたパロディであったことを暴露したソーカルの論文 2 A Physicist Experiments with Cultural Studies を黒木さんのHPよりdownloadさせていただきました。 これ以外の文献は、私は読んでいないし、「現代思想」の記事も 村上/野家の対談以外読んではいないので、この事件の全貌をつかんで いるわけではありませんが、今の段階での私の感想を述べてみましょう。 (すでに似たような趣旨で投稿された方がいるかもしれませんが その場合はご容赦ください) 私が最初に疑問に思ったのは、なぜ Social Text誌は問題のいかがわしい 論文をきちんと審査もせずに掲載したかと言うことです。 私自身、科学哲学関係の学会誌のレフェリーを依頼される ことがよくありますし、自分でもある哲学雑誌の編集長を していますので、学会員以外の専門家に審査を依頼いたします。 審査は、当然、複数のレフェリーで行うわけで、 論文の主題が科学の専門的な内容にコミットするような哲学的論文であれば、 その専門の知識を持つ科学者と哲学者の両方に審査を依頼するのが ふつうです。 たとえば、量子力学や相対性理論に関する投稿では なによりもそれらの理論の物理的内容を良く理解していなければ、 「不確定性原理」や「相対性原理」についての どんな哲学的解釈も説得力がないのは当然のこと。 レフェリーと投稿者が、批判的な応答をすることによって、 投稿された論文を改訂し、すこしでも良い物にすることも、 編集者の大切なつとめです。 その場合、投稿者と編集者との間に、共同して、 もとのテーマを敷衍し探求を続行するために、基本的な信頼関係が必要です。 こういった観点から、ソーカル事件を眺めてみましょう。 まず、ソーカルの論文1は 「ニューヨーク市立大学物理学科教授」という肩書付きで Social Text 誌に投稿されたもの。 論文の冒頭に著者紹介があり、 ソーカルが世界各地で客員教授として講演した経歴のある 物理学者で、「量子場の理論」の専門家である と記されています。 これは、この事件を考える上で見落とせない点ですね。 つまりソーカル氏は、匿名で投稿したのではなく、実名で、つまり 専門の(権威ある?)物理学者の名前で1994年に投稿したと言うこと。 しかも、編集部より書き直しを要求され、それを受けて再投稿 したものが1995年に受理され、1996年にSocial Text 誌に掲載されている。 問題の論文を、どうしてSocial Text誌が、物理学の専門家のレフェリーに 審査依頼をしなかったのか、私は不審に思っていたのですが、 その理由は、ソーカル氏自身が著名な物理学者なので、編集者が、専門分野に 関する投稿者の知識は信頼できると、判断したからではないでしょうか。 実際、この論文のなかにでてくる「量子重力」の話は、物理学の中でも 高度に専門的な訓練を要求される分野ですから、現代思想や哲学に関心の ある一般読者に理解できるような物ではありません。 むしろ、編集者は、物理学の先端で活躍している現場の第一線の物理学者が 「量子重力理論の(変換的)解釈学」なる奇妙な論文を書いたことに 興味をひかれ、とにかく異色な論文であると判断して掲載したのでは ないでしょうか。 そうだとすれば、論文2で、ソーカル氏が、あれはレフェリーの知的水準を 試すためのパロディーであった、などと言う趣旨の発言をしているのは、誠に 筋の通らない話です。これは、編集者と投稿者の間の信頼関係を 裏切る行為であり、彼の学者としての良心を疑うと言っている 村上氏の主張はもっともであると思いました。
話が難しくなってきましたね。もしかしたら、読み易くなるかなと思って(嘘)、以下を試してみました。
どもども、角田さん、(ここでは)はじめまして。お世話になっているのはこちらの方です。いつも、直截過ぎて無礼に聞こえかねない発言の面倒を丁寧に見てもらって感謝しております。今後もよろしく。
現代思想の特集「サイエンスウオーズ」を通勤途中などに読んでるんだけど、 みんなバラバラな事を言ってて、何がなんだかわからない。(なんで内部観測がシャシ ャリでてくんのとか) 伊勢田さんの「ソーカル事件と科学哲学者」でのFineの発言ですが、 理性的な議論という趣旨はわかりますが、もうちょっと詳しく論じてたら教えてください。 なんでこういう事を聞くかと言うと、 この特集号の石黒ひで「相対主義と実在論」というような話は意図(問題関心)も明確 でわかりやすいんだけど、 (村上ー野家対談の次にわかりやすかった。表題に関してはWittgensteinのアスペクト 知を半ページほど紹介して、突然Fineの話で終わります。 「先月ボストンで開かれた世界哲学会議で量子物理学の哲学をしているArtherFineが ”自分たちは学説についてはSocialConstructivistだが、自分はそれを実在論とは 相反しないと思っている”といったのは興味深かった。」) 科学論(科学社会学?)の人達(金森氏、平川氏)のは、何が言いたいのかさっぱりで、 自分たちの研究分野はこんなことをしてるんですよと紹介してるだけの気がするからです。
私が読んだ限りにおいては、ソーカルが書いたものには、ある分野の人達が怒りを感じて全力を挙げて反撃しなければいけないようなことは含まれてません。
別の話ですが、ときどき、科学畑の人達の中に、怒りと共に、あまりにも行き過ぎた非合理な科学観の責任をトーマス・クーン(もしくはそれを含む数人)に帰着してしまう方を見掛けます。しかし、実際にクーンが書いたものを色々読んでみれば、そのような議論の仕方は間違いであることがわかる。
ソーカルの場合もこれと同様であると私は思うのです。ソーカルが指摘した権威ある人達よる科学概念の濫用はやはり私にも止めて欲しいと感じられる類のものだし、ある種の科学論の文献で多用されているところの、過激で意外なことを言っているようにも、自明で穏当なことを言っているようにも解釈できる曖昧な言い方に関するソーカルの指摘も十分に考慮して欲しいことだと私には思えます。
いずれにせよ、様々な立場の人達が関わった大きな騒ぎが起こったとき、それの原因を何か1つのものに還元してしまうというのは間違ったやり方です。よく見掛けた何だこりゃと思わざるを得ないものに、騒ぎの原因を「SSCの中止のような予算の削減」に求める議論、もしくは、そうであることを匂わせるというタイプの議論がありました。しかも、名のある権威ある人物達がそのようなことを言っている。もちろん、ソーカル個人に怒りをぶつけるのも間違いです。単純馬鹿な本質主義は駄目だということをよく理解しているはずの専門家達が、そのようなことを言ってしまっちゃまずい。
札幌の古堂と申します。お久しぶりです。
「ソーカルのやり方だと、みんな頭に血がのぼってそういう理性的な議論ができなくなる。」っていうのは、ソーカルの方法の批判として成立しているのかなあ。
以前は理性的な方法で仕事や議論をしていたのに、ソーカル事件のためにそうでなくなった人がいるというなら納得もできるけど、私は寡聞にしてそんな実例を知らないです。「ソーカル事件が理性的な人や意見とそうでないシロモノの違いをよりあからさまにするきっかけになった」というなら、さもありなんと思います。
実際のところ、どうなんでしょう?
ちなみに、 牧野さんが紹介されたA House Built on Sand の編者Noretta Koertge (このラストネーム、「カージ」のように発音されるのを聞いたことがあるのですが 不確か)は、その席では取りなし役にまわっていたように記憶しています。
先月またPhilosophy of Science Association の大会があって、A House Built on Sand の 執筆者たちが中心になってScience Warsについてのシンポジウムをやったの ですが、そこではソーカルの名前はあまり話題になりませんでした。 (もう一つついでに。社会構成主義の大御所Harry Collinsが先月のシンポジウムの 聴衆のなかにいたのですが、彼が「うちの大学では科学社会学者と物理学者は joint courseやjoint degreeなどやろうという話があるくらい仲良くしている。だから君たち の話を聴くまで、二つの文化の橋渡しについてわたしは非常に楽観的な観測をもって いたのだが」と、かなり怒った調子でコメントしていました。)
ちょっとゴシップめいた投稿になってしまいましたが、ではまた。
伊勢田哲治
黒木さんのこのような学際的な(という言葉が適切かどうかちょっと疑問だけれど)活動の恩恵を最大限に受けている一人として思い出話を少し。
僕は川渡セミナーには、これを「かわたびせみなー」と正しく発音できることからわかるとうり、参加したことがあるのですが、黒木さん自身が中心になってオーガナイズした年 (たしか黒木さんが4年とM1のとき?) に参加できたことはとても幸運なことでした。ちょっと個人的なことになりますが・・・。川渡セミナーで、そのとき1,2年生だった僕を興奮させてくださった人たちのうちの何人かと、その後に僕自身の研究の導き手になるという形でさらに深くつき合えることになろうとは当時は思ってもいませんでした。当時は物理系所属だった僕が後に大学院で数学(しかも特に東北大の)を選ぶことをあまりためらわなかったのは、黒木さんをはじめ川渡で話を聞いた人たちとおつき合いできると思ったことが決定的です。川渡セミナーをきっかけにして化学系や数学系の同級生と知り合えて学生時代に普段からいろいろな話ができたってこともあります。川渡セミナーでは1年生からみんな、自分でなにか話(セミナー)をしようということになっていて、時にはそれが朝まで続いたのですが、数学系の同級生のひとりが「物理の奴は数学を、数学の奴は物理を話すことになってるんだ」と (勝手に)言っていたのを思い出しました。で、学生がやるのは(僕のももちろん)たいていめちゃくちゃに無謀なセミナーで、例えば、群って何かから始めてガロア理論をやって5次方程式の「解の公式」が存在しないというのを30分か1時間やそこらでやろうとした奴なんかもいました(そんなん普通に講義して前期・後期かかるっちゅうねん)。今から思えば大笑いですが、そういう話に先生も朝までつき合ったのです。
学生が主体となって学科や学部を越えたセミナーが行われるということ、それに教員が賛同して全面的に協力するということは東北大学が世界に(?)誇ってよい伝統であると思います。
ついでにもう一言。
オーソライズ云々は、会議の議題になったかどうかとかそんなどうでもいいようなことは知りませんけど、東北大学の数学科のなかにいて、現在の素晴らしい計算機環境が実現して維持できているのは黒木さんの貢献が多大であることを知らないヒトはモグリです。そういう意味で黒木さんが大学で行っている計算機間連の活動が、数学教室に対して「勝手に」とか「こっそり」であるという井口さんの憶測は完全に見当違いです。
ところで、奈良女子大学では、最近、各部局のWWWページは各部局で責任をもって管理することが全学的に確認されました。なぜ、そんなあたりまえのことがわざわざ確認されたかというと、大学トップページの管理をどうするかを公式に取り決めなくてはならなくなって、その際、その取り決めの適用範囲を明確にする必要があったからです。
で、部局の一つ、理学部情報科学科では、情報科学科公式WWWサーバの学科共通ページについては学科の広報委員が管理責任を持ち、各研究室のページ(その多くは各研究室で立ち上げているサーバ上にある)は、各研究室が管理責任を持つことが学科として確認されています。さらに、私の所属する研究室(通称 数理情報学講座(2))には、鴨浩靖助手が管理することが研究室内で合意され、WWWサーバの立ち上げが可能なコンピュータが複数あります。
というわけで、鴨浩靖助手がHTTPサーバやFTPサーバを用いて行っているOpenBSD関連の活動(パッチの配布とインストールの手引は、包括的にではありますが、ちゃんとオーソライズされております。
まともに研究やってる大学なら、たいてい、そうだけどね。
はじめまして、角田といいます。 以後、宜しくお見知りおきを。 井口さんのウェブにある「MS」というのは、実は私のことです。 井口さんによれば、「仲間」ということらしいですけど、実は書き込むのは初めて。 keroの方では、黒木さん、浜田さんにはお世話になっているんですけど。 クララさん曰く、 >野次馬さん、はじめまして。 >へんなハンドルですね。野次馬って英語でなんていうんだっけ。 heckler若しくはhooterでしょうか。 前者は、研究者の中辞典の一番新しい版の訳語。後者は20年前の版の訳語。 それでは、ご挨拶のみにて失礼いたします。
ども。きし@大阪市大社会学です。ごぶさたです。 >ソーカルが標的としていたのは正にマタイの法則の例になるような >「何もしないのに有名になって」いる科学社会学者なのではないですか? 質問ですが、なんにもしないで有名になれたのは、なぜでしょうか? まあ別に弁護する気はないですが。 う〜〜ん、やっぱり「くだらない」問題なのかな。
僕は田崎さんではないすよ。田崎さんは「はるあき」さんでしたよね。 田崎さんと間違われるなんて畏れ多いです。あやや、これは失礼しました。いしいさん、田崎さん、どうもすみません。
牧野さん、 僕は田崎さんではないすよ。田崎さんは「はるあき」さんでしたよね。 田崎さんと間違われるなんて畏れ多いです。
でも、ソーカルが標的としていたのは正にマタイの法則の例になるような「何もしないのに有名になって」いる科学社会学者なのではないですか?問題はむしろソーカルが科学社会学全体の敵と見なされてしまった事だと思いますが。いずれにしても、くだらない問題ではないですよね。についてですが、「現代思想」11月号の金森氏の文章によれば、 A House Built on Sand なんかは科学哲学者によって編集されているものですが、ソーカルを敵とみなすというよりはむしろその逆であるようです。
ついでなので書きます。左巻さんがしばらくまえに理科教育の場面における「新しい科学論」の影響について書いておられましたが、これは例えば 「理科」の再発見 なる本で展開されているような主張が現実に大きな力を持ちつつある/持っているということでしょうか?
A House Built on Sand に所載の Meera Nanda の論文はインドにおけるそのあたりの問題を批判的に検討するもののようです。
私は大地のどこかに立っており
(大地を x-y 平面としたとき、 z > 0 なる視点をもつ)、たとえば南に向かっている。
このさい大地は無限に広い平面である。私から見ると、南北に走る平行線はすべて
真南の地平線の一点に集まって見える。地平線は、私の視野の形を長方形とするならば、
視野を上下に等分する水平な線分である。地平線の下半分は私の見ている前方の視野で、
上半分は後方の視野(どうやって見るんだ?)である。
私の立っているところを通る東西の直線 L は
この視野の長方形の上と下の辺に相当していて、下の辺は前方に向かっているときに自分の
下に見える直線 L、上の辺は後方に向かっているときに自分の下に見える直線 L である。
このイメージでいいのでしょうか。あれ、この長方形の縦の長さは無限大なのかな?横の長
さも無限大で。
ううむ、伝わるだろうか?
で、そうだとすると、放物線は地平線近くでどう見えるのかな?自分の目から 射出された光線を斜めの平面で切断して、平面に描かれた放物線を突き刺す 光だけをイメージすればいいのかなあ。これは円錐曲線の問題ですね。
伊勢田さん、はじめまして。僕もほとんど新参者ですが。
ついでにソーカル事件について。ある種の科学社会学者にとってソーカル の行動がにがにがしく感じられたのは、たとえば上に述べたよう な権力関係を 分析してなんとかいい方にかえようというような問題意識をもった「よい」 科学社会学者もいるのに、ソーカルのようなやり 方では科学社会学全体が 十把ひとからげに茶化されてしまっているように思われたからです。この 感覚はその種の科学社会学に同情的な科 学哲学者にも共有されていたと思い ます。そう簡単にくだらないと切って捨てることはできない問題だと思います。
もちろん、そういう問題意識を持った科学社会学者は科学に取っても有益だと思います。でも、ソーカルが標的としていたのは正にマタイの法則の例になるような「何もしないのに有名になって」いる科学社会学者なのではないですか?問題はむしろソーカルが科学社会学全体の敵と見なされてしまった事だと思いますが。いずれにしても、くだらない問題ではないですよね。
もう止めたほうが良いとは思うけど2点だけ、 1.「彼はここ阿南からのアクセスを全部カットしつつあるようだ.つまり,この掲示 板は,「なんでも掲示板」と言っているが, つまりは,自分と同一の意見や観点を持つ人たちしか中に入れないような仕組み になっているのである.」 と書いてますが、故意に嘘をついてるので無ければ直しましょうね。 あれは、「黒木さんの理不尽な受難その1」の時に(今年の9月頃)、アンダーグラウ ンドを自称する人たちが暴れたときに、 氏名が匿名だけでなく「proxyの串」をやってたので、それをブロックしただけだと思 うのだが。 (注:「proxyの串」=どこからアクセスしてるか分からないように、セキュリティの 甘いサイトを悪用して、そこから発信してるかのように偽装する悪意のある犯罪) もうちょっとNetの事を勉強してね(Phys. Rev.を読む能力があれば簡単だから) 2.下で質問した「正義の鉄槌」の件 東北大その他に苦情の手紙は出したんでしょうか? 井口さんのファンの帰趨が決まる重要な点だと思うのだが、隠すようなことなのか?
加藤政府税制調査会会長が国有財産中央審議会の「国有財産の売却等に関する小委員会」に参考人として出席して「国立の大学、病院、飛行場などの事業は必ずしも国がやる必要はない」云々の発言を行ったとの事です。
井口氏は、2度とここには書き込まないと言ってますし、 ご自身で「私の意見がかわることはありえません」と断言なさってます。 人づてに聞いた話によると、以前からこういう人らしいです。 へたして抗議メールなど出そうものなら、ご自身のHPに無断で公開し けちょんけちょんですし(井口氏のページをご覧ください) こりゃあ、関わり合わないほうが得策ですよ。どちらがマトモか一目瞭然ですし、 文部省や東北大学の良識ある方々も、適切な判断をされることは間違いないでしょう。 ここはひとつ、オトナになって終息させるのが得策だと思いますが。 というか、みなさんが関わり合って被害にあわれる事が心配でなりません。
だとすると、今回の譲歩案というのは、何か意味があるのでしょうかね?
井口さんの提案で上の2点を解決できる見込みはないでしょう。
私が逆に井口さんに提案したいのは、オンブズマンなどという正義の味方を
気取る(そういう自称の仕方がナルシズムにすぎないことには、多くの人が哀れみを
感じていることでしょうが)からには、 あなたが見つけた
すべての問題のあるページについて、告発を続けていって欲しいと言うことです
ac.jp なり or.jp, go.jp といったサイトのページについて、もしそこで専門外の
意見を開陳したり、私的な遊びが行われていると判断したら、ぜんぶに文句をつけて、
文部省や関係機関に通報して、事実に基づく批判をやってほしい。
どうやら、井口さんのページから判断するに、井口さんという人は、自分が不遇に 落ちている原因を自分以外のところに探して、そしてそれにルサンチマンをぶつけることに、 公憤のカモフラージュをかぶせているらしい。一部の人への執拗な恨みをくどくどと 述べることにそれがはっきり表れています。 オンブズマンは 自己の利害に関係することに発言してはならないのですよ、公平を欠くから。これは当たり前の 原則。正しくオンブズマンをやりたいのなら公平な行動をしてください。
井口さんの最初の掲示を読んだときにはどういう主旨でおっしゃって おられるのかよく分からなかったのですが、「譲歩案」をみてようやく 納得がいきました。つまり、問題なのは、自分の地位を利用して、公共 の資源を使って売名行為をすること、なわけですね(そう理解しないと 井口さんの譲歩案は全く筋が通っていません)。
科学社会学に「マタイの法則」とよばれるテーゼがあって、それによると 有名な科学者は何もしなくてもさらに有名になっていき、無名な科学者は よほど努力しない限りいつまでたっても有名になれないという、いわば 名声の収奪構造みたいなものが存在するのですが、井口さんが感じて おられることの少なくともひとつは、この「マタイの法則」や、それに類 する権力構造をなんとかしたいということだと思います。
もしこの理解が正しいのであれば、井口さんにもう一度考え直していただければ と思うのは、この種の掲示板には、まさにそうした権力構造を緩和する働き があるということです。わたしのような人間がいきなり飛び入りで参加して、 きちんとしたリアクションがいただけるというのは、この掲示板が比較的 権力関係の希薄なオープンな議論の場として機能しているいい証拠です。
ついでにソーカル事件について。ある種の科学社会学者にとってソーカル の行動がにがにがしく感じられたのは、たとえば上に述べたような権力関係を 分析してなんとかいい方にかえようというような問題意識をもった「よい」 科学社会学者もいるのに、ソーカルのようなやり方では科学社会学全体が 十把ひとからげに茶化されてしまっているように思われたからです。この 感覚はその種の科学社会学に同情的な科学哲学者にも共有されていたと思い ます。そう簡単にくだらないと切って捨てることはできない問題だと思います。
それでは。
伊勢田哲治
あまりにも日本的屁理屈でどこでも通じるとは思えない。オンブズマンの称号剥奪。 (Netのことが理解できてないのは論外) また、八木さんの言うように、大騒ぎしときながら、どうして公開討論できないんでし ょう? (このままだと、今回の事件は、「黒木さんの理不尽な受難その2(黒木のなんでも掲 示板編)」になってしまいますが。 もちろん、野次馬氏は「その1」関連者と疑われている。) しょうもない事ですが、公開討論に関連して。 黒木氏の返事は掲示板に書いてるから、「この手紙に対する黒木氏の返事は今のところ ない.」とほっとかないように。 また、この件に関して「正義の鉄槌」(笑)が振り下ろされたのでしょうか? (注:アカデミックオンブズマン2に出てくる「基礎物理学研究所への手紙」のような 行為を指す) ちなみに「岡っ引き」は与力・同心の私的な手下であって、公権力の行使(逮捕、取り 調べ、など)はできません。
井口さん、はたしてそうでしょうか? 掲示板に個人名を大きく銘するのは、責任の所在を明らかにするねらいにのっとっているからに他ならないのではないでしょうか。井口さんもそもそも責任をもっとも重んじておいでなのではありませんか? はたして、一般的な名称にして、あいまいなところは生じませんでしょうか? あいまいなこともまた井口さんの忌み嫌っていらっしゃるところではあるまいかと推察いたしますが。
また明確な問題を考察することの重要さは繰り返すまでもないことではございますが、しかし、今、社会問題としての科学は重要課題であること疑いの余地がないでしょうし、社会問題は概してなかなか明確たりえないはずです。(いわずもがなでありましょうが、おゆるしください。)僭越ながら、今一度、井口さんには今一度のご一考をいただきたい、と切に願ってやみません。
黒木さん 私,井口和基からの最大限の譲歩案として,「黒木の掲示板」の 「黒木」を何か別の言葉,例えば,「みんなのなんでも掲示板」とかに お替えになったらどうでしょうか? このサイトにアクセスしたい人たちも問題はなくなるでしょう.あなたの 他のウェッブサイトに関しては,「黒木のウェッブサイト」で問題ない でしょう.それは,情報を引き出すことだけに限られているからです. 御存じでしょうが,私のあなたのこの掲示板に対する意見は,私のホー ムページ上にあります.これは,私の本音です. 2度と投稿しないと言った私の前言を取り消すようなことですが, その方が,あなたのやりたいことの意図にあっているのではないでしょうか? 重ねていいますが,今のままでは私は問題あると考えています.あなた 個人の広報活動の色彩が強いからです.変えたほうが,この「掲示板」の 存続を望む方々の主旨にもあてはまるでしょう. しかし,私個人の意見は,私のホームページにあるとおりです.変わること は,ありえません. おそらく,この問題は,大学や研究所で掲示板を作る際のガイドライン 作りになることでしょう. しかし,私は本当にハラをたてている,怒っているのです.黒木さん. みんなもっと明確な問題に立ち向かって,それを解いてください.私の 「シュレディンガーの夢と多様性の科学」の最後の「若者達へ」を読め! お願いします. 今度こそ2度と書くことはないでしょう.Good Luck! 井口和基 アカデミックオンブズマン
銃の先にリンゴを取り付けて、引き金を引くとポトッと落ちます。「リンゴは正確に地球の中心に向かって飛んでいった...」
筑波大学初の吉本芸人だそうだ。筑波大生は1000円で入場できました。筑波ローカルネタがばんばん飛んで、面白かったです。
伊勢田さん、
いよいよマジで時間がないので、皮相的に答えます。すみません。
たとえば、ちょっと単純すぎる例ですが、
空気抵抗のない状況では、リンゴの実の重心の落下運動は、一様な重力場中での Newton 方程式で完全に記述される。 リンゴの実の内部構造、リンゴの中にいた虫の細かい行動、リンゴの細胞、分子、原子、電子、原子核、クォークなどなどの微細構造は、リンゴの重心の運動には全く影響を与えない。というようなことが念頭にあります。 未知、既知、認識可能、不可能に関わらず、こういったミクロの要素はマクロな運動には影響を及ぼさない仕組みになっていて、マクロな世界での完結した運動法則として Newton 力学が得られることになります。 そのために、分子を知らなくても、リンゴの運動を論じることはできたし、分子を知った後でも、その知見は揺るがないわけです。 そういう「安定性」は、科学が成立するために本質的なものだと思います。 しかし、それはいかなる意味でも自明のものだとは思えません。 (リンゴの分子構造まで理解してはじめてリンゴ全体の動きがわかるというような世界も想像し得ないわけではない。(社会学??) あと、内部だけではなく、遠くにある他のものたちの影響もないという側面もある。) 世界が部分的にせよそういう性質を持っていたというのは、驚異的なことだと感じています。
本当はもっと深い例を議論したいところですが、もっと考えて、時間ができてからにします。 確か、マッハがこういう感じのことを強調していると聞いたことがあるのですが。
俺は大学を5年かけてやっと卒業したただの工学士で、しかも工学の現場を離れて長い一納税者です。この掲示板に対する納税者としての意見は、既にいろいろな人が書かれていることと同様に思います。
井口さん:
これは気のまわしすぎでしょう。黒木さんも「「野次馬」の口調は誰かの口調にそっくりだな。」と書いています。ここに書き込まれる文章も、井口さんのホームページでの文章も「野次馬」の口調は似ていません。それに、この掲示板の状況を判断してみて、「野次馬」というようなハンドルネームで投稿してくるヤツに対しは、通常の投稿者と同様にまで名誉を守らなくともよい考えるモノ(例えば俺)がいても不思議ではないでしょう。「野次馬」もそれは承知のはず。そうでないのなら、ずいぶんと都合のよい状況判断の甘いヤツだということです。匿名の「野次馬」さんが,私と同一人物と誤解され,えらい 中傷をお受けにならているようなので,彼の名誉を復活するために ここで宣言いたします.「野次馬」さんは,私ではありません.
これは、筋が通っているように見えてそうではないですよね。これはヤリ逃げですよね。井口さんは黒木さんと井口さんがメールでやりとりして、その結果をここなりどこかほかのところで告知するというようなスタイルをお望みですか。この掲示板にはこれだけの読者がついていて、井口さんは掲示板の存続に関わるような意見を述べておられるのだから、多くの読者がこの場で成り行きを観られるようにするのが筋だと、俺には思われます。また,私はこの掲示板を批判しているのですから,この掲示板 に参加することはありません.つまり,どんな形であれ, 今後参加することはありません.悪しからず.敬具.
井口さんは、アカデミックオンブズマンなる立派な活動を目指していらっしゃるのに、ホームページの文章を読むと元東大総長で文部大臣のDr. 有馬氏のいらっしゃる場所では井口さんのほうからその活動について一言もふれられた様子がうかがえないことを非常に残念に思いました。
クララへ。ちとお願い。「記事を書く」のページに
[Convert NL to <BR> and Preview]
のボタンを追加しておきました。これを使って、記事を投稿してみて、その具合について感想を述べてくれませんか? おそらく、クララが望んでいるのは、この機能だと思う。
以下は技術的な解説。入力したナマのテキストを掲示板システムがどのように扱うかについては色々あって、大体において、
などの条件で分類できるようです。今回追加したのは、4番目の「改行を <br> に変換する」という機能です。この変換を行なうと、確かに、<pre> </pre> と囲むのと違って横長事件の発生が無くなるので具合が良いのですが、 HTML の素通しを期待している人にとっては余計な空行がたくさん入ってびっくりしてしまうことになるのだ。
こういうことを考えていると、機能を増やして全てに対応しようというちょっと危険な気分になってくるのですが、一般に機能を増やし過ぎるとわかり難くなるという不都合が生じてしまいます。この掲示板のデザインもちょっとそういう感じになりつつある。どういうセンスでまとめるかは結構難しいのだ。
黒木さん 二度とこの掲示板に私が書くつもりはありませんでしたが, 匿名の「野次馬」さんが,私と同一人物と誤解され,えらい 中傷をお受けにならているようなので,彼の名誉を復活するために ここで宣言いたします.「野次馬」さんは,私ではありません. また,私はこの掲示板を批判しているのですから,この掲示板 に参加することはありません.つまり,どんな形であれ, 今後参加することはありません.悪しからず.敬具. 井口和基 アカデミックオンブズマン
佐々木さんは書きました: >クララさんは常に【Send HTML Text and Preview】キーでご投稿なさったらいつも にこにこ完璧だと思うんですけど。 佐々木さん、はじめまして。 クララのやんちゃぶりというか痴的さにご指摘どうもありがとうございます。ご迷惑 をおかけしました。 さっそく指定されたキーで投稿したいと思います。 あと、宮崎さんへ。クララからお詫び状がありますので過去ログを探して下さいね。 野次馬さん、はじめまして。 へんなハンドルですね。野次馬って英語でなんていうんだっけ。 クララのようなガキに言われて機嫌がわるくなったらごめんなさい。 でも、普通はじめて掲示板にお邪魔して自分の意見なり主張を申す場合には、メール アドレス記載という最低限のルールはするんじゃないんですか? 野次馬さんは、きっとう〜ん、、、40歳ぐらいでしょう? クララもちゃんと書いてるよ! 野次馬さんも書こう! キムチ食べてね。
黒木さんはじめまして。ご挨拶が遅れてすみません。 私は大学教育をうけておりませんので、みなさんの専門的会話についていけないことが多く、 今までこっそりとROMらせていただいてました。かねてからの知人である岸氏に学問や研究 の話を聞くうちに、「オレも大学いけりゃあよかったのになあ」などと思っているのですが、 36歳自営業としては、そのようなヒマもなく(カネもないが)少しでも「研究者」の雰囲気 をあじわいたいなどと思い、ちょこちょこ拝見して好奇心を満たしておりました。私自身の 感想としては、ここに来るみなさんは「議論」が洗練されていてさすがだなあと思います。 たまに「へんなやつ」が乱入してきて(以前もいてましたよね)「暴論」をはきちらかした りしても、みなさんは辛抱強く言葉を選んで対処されていましたね。わたしが今まで接して きた「学者」といわれる人たちは、いわゆる世間知らずな人が多く「税金かえせ!バカヤロ ウ」と思ったことも少なからずありましたが、ここではまったくそう感じません。これから も頑張って続けてください。「今回の騒動」に巻き込まれた黒木さんを一言励ましたくて書 き込みました。今後ともよろしく! 野次馬さんへ 申し訳ないですけど 「平間くん」ってやめてもらえませんかね。私も気持ち悪いです。 呼び捨ててもらったほうがマシです。 それから、正体明かさない人から文句いわれるのって、イタ電みたいでいやなもんですよ。 イタ電されたことないですか?
時田さんは今頃、このお絵かきをする Mathematica のプログラムを書かれて、 にやにや遊んでいらっしゃるのかな?
時田さんの「北方ルネサンスから射影幾何そして…」が、竹内さんの「射影幾何はまず、ブルネレスキを筆頭とする…」という反応を呼ぶわけですが、「射影幾何」という言葉につられて、さらに別の話題を付け加えたいと思います。
数学者が射影平面と呼んでいる対象は大体次のようなものです。
無限に広いただの平面に自分自身が立っていることを想像してみてください。その平面はもちろん射影平面ではなく、ただの平面です。遠くの方を眺めると、その平面内には存在しない無限遠に地平線が見えるはずです。大雑把に言って、射影平面とは無限遠にある地平線を今自分が立っている平面に付け加えてできる世界のことです。ただし、より正確には、正面に見える地平線上の点とその180度反対方向の背中側に見える地平線上の点を同一地点であるとみなさなければいけないのですが。
つまり、平面に無限遠にある地平線を付け加えたものが射影平面であり、ただし、180度反対方向にある地平線上の点は同じ地点であり、無限遠で繋がっているとみなすのです。 (ああ、絵が簡単に描ければ楽なのに! ちなみに、射影空間も同様に定義可能です。)
この射影平面に関係して、数学科の1年生に演習問題として、私は次のような問題を出しました。
無限平面上に描かれた放物線はどのように見えるか? その放物線を写生したとしたら、どのような絵になる?
これは射影平面上の二次曲線の本質を理解するためには大変教育的な問題だと思います。ただし、私が思い付いた問題ではなく、数年前に『数学セミナー』誌で大森英樹さんが書いていたのを見て、なるほどこれは面白いと思ったものです。
もちろん、放物線をどこから眺めるかによって、答は違ってきてしまうのですが、例えば、放物線 y = x^2 を x = 0, y < 0 の地点から y 軸方向に眺めたとき、それはどう見えるかでしょうか?
私は、想像上のスケッチを実際に紙に描いてみて、正しい答を数学抜きで予想できるかどうか確かめてみたのですが、地平線の近くの様子が難しく、私にとっては容易でないことがわかりました。しかし、もしかしたら、絵心がある人なら、数学抜きに答を知ることが可能かもしれません。興味がある人は挑戦してみてください。
(答がわかった人は、他人の発見の喜びを奪わないよう、ここに解答をもろに書かないように!)
平間さん、(ここでは)はじめまして。平間さんと会話する機会は今までなかったですが、岸さんのところでその芸を見て、平間さんって面白い人だなあと思っておりました。今後もよろしく。
誰なんですかね、この「野次馬」ってのは。友人でもなんでもない奴に「黒木くん」と呼ばれるのは気持ち悪いなあ。「野次馬」と名乗っている人物による匿名の影に隠れた頭の悪そうな遠吠えの相手をするつもりはありません。 (「野次馬」の口調は誰かの口調にそっくりだな。) これ以上、「野次馬」が匿名のまま同じことを繰り返し続けた場合は、アクセスをブロックすることにします。
「陰湿な岡っ引き」だなんて時田さんも口が悪いな。 国立大学の教職員は公務員なんだから、公務員が現業業務の遂行に際して経費 を支出する際には、当然、何らかの法制度上のジャスティフィケ−ションが必 要でしょう。つまり教授会の席で裁可された98年度予算の予算費目に則って 経費処理されているのじゃないかと思うんだけれどね。 黒木くんの掲示板が一般にも多く読まれて人気を博していることはよく知って いるし、インタ−ネットのホ−ムペ−ジとして紛れもなく秀逸な一つだと確か に思うよ。それは彼の類まれなる才能の賜物なのだろう。しかしだからこそ、 「自分自身の才能を儀牲にして、これだけのコストを払」って云々という言い 方は気になるところだよね。
君の返事を聞きたいな。 平間くんや竹内くんはああ言っているが、本当に正式にオ−ソライズされて ないのかな?そんなことはないと信じているけれど。
どうもいろいろリプライありがとうございます。
宮崎さんへ。 観察の理論負荷性とデュエム=クワインテーゼはよく混同されます(実際密接な 関係がある)が、一応別物です。ものすごくおおざっぱに言ってしまうと、同じデータ からはじめて互いに矛盾する別の理論・モデルにたどり着くのがデュエム=クワインテーゼで、 別の理論・モデルからはじめて互いに矛盾する別のデータにたどり着くのが観察の理論負荷性 です。ふたつ組み合わせると、すくなくともデータについては一致がとれていた ところから、最終的にデータについても理論・モデルについても合意のとれない ところにたどり着くことができます。この最終的な状態が「共役不可能性」と呼ばれる もの(の一変種)です。田崎さん の言及していらっしゃるニュートン力学と相対論を例に取れば、ニュートン 力学を支持する立場からみれば単なるノイズか実験ミスでしかないようなデータが、 相対論の立場からは非常に重要な実験結果ということになるという転換(一種の地と 図の転換のようなもの)があって、これが飛躍だっていうのが共役不可能性の主張 なわけです。
田崎さんへ。なるほど、普遍 構造の網の目は抽象空間を広がるんですね。それにしても、そういう網の目は大きくなると いうより、より複雑に、密になっていくというイメージの方がわたしにはしっくりくる のですが(こういう直観をたたかわせてもあまり意味はありませんね)。 わたし自身のデュエム=クワインテーゼに対する回答も、「データはすべてじゃない」 というものなので、田崎さんと基本的な方向としては一致するのですが、どういう制約 を設けるかというところでなかなかいい答えが出ないで困っています。田崎さんもお気づきの とおり、問題はそうした制約が社会的であるかどうかではなく(もちろん社会的な要因はあり ます)、それらの制約が社会的であると同時に合理的でもあるかどうか、なわけですが、この 辺の正当化が頭の痛い問題なわけです。で、ひとつ質問ですが、「観測されてい ない、あるいは、不可知の要素に影響を受けないという安定性、自立性」 という考え方について、もう少し詳しく教えていただけますか?これは哲学者がそういう 制約のリストを作るときにあまり言及しない項目なもので。
長くなりましたがとりあえず今回は以上で。それでは。
伊勢田哲治