に山形さんの昔話を色々教えてもらいました。
ソーカル事件と『知的詐欺』関係の掲示のリストを作成しました。ついでに、黒木玄の掲示のリストも作成しました。.
当事者の一方にいます,M. Suzuki 氏は, 田崎さんの大学院時代の指導教官であります.
もっと裏話を言いますと,M Suzuki 氏の おかあさまの実家って,茨城県三和町に ありまして,「針谷」姓だそうです.
そんなわけで,某大学物理学科3年のとき その鈴木先生主宰のセミナーを選択したら, 「あなたの家って,茨城県古河市付近じゃない?」って, どんぴしゃり当てられてしまいましたとさ...
# 親戚関係は,ないですけど...
某ML経由で知った話。いやあ、これはすごいです。 Preprint archive がほとんど電子掲示板のごとく使われてしまっているのだ。
まず、 cond-mat/9807402 で Avella 達は Gang Su and Masuo Suzuki の論文 Phys. Rev. B 54, 8291 (1996); ibidem 57, 13367 (1998) の結果に関して、次のように主張しました。
We point out that the exact relations they have found are valid down to zero temperature and that their solutions for both spin and pseudo-spin correlation functions are incorrect.
これに対して、Su and Suzuki は cond-mat/9808011 において
In replying to the comment (cond-mat/9807402), we point out that the statements by Avella, Mancini and Villani on our papers are simply wrong. Actually, they made simple mistakes and performed false calculations. We take cautions for the assertion that the exact relations for finite temperatures we found before can be simply extended down to zero temperature.
と反論。この preprint の本文は次のような口調で書かれていて大変面白い。
... This is really a surprising assertion, because from any textbooks one can find that... It is a simple exercise to get this formula.
(教科書に書いてあるようなことも知らねえのかよ。)In fact, we note that if they push their analytical calculations (i.e., their Eqs. (13) and (14)) to the end, and/or their numerical calculations are correct, their objections would automatically disappear.
(あんたらの計算間違いが原因なんだよ。)In particular, their Fig. 2 is quite ridiculous, because their logic is fully wrong when arguing the question.
(特にあんたらの図2はまぁーったくのおばか。)
これに対して、Avella 達は cond-mat/9808109 において、次のように反論しています。
In conclusion, the whole argument of G.~Su and M.~Suzuki is simply wrong. Therefore, we reconfirm our results\cite{one} and point out again that their solutions for both spin and pseudo-spin correlation functions are incorrect. Besides, where in the text mistakes can be ruled out, it raises on a verbal attitude that is totally extraneous to the Physics community. We think that a moderate and not rude presentation is a necessary precondition for dissemination of scientific results. As a matter of fact, adjectives as \emph{ridiculous} more than simple-minded and wrong applications of standard formulas, seem to be not acceptable in the context of a scientific debate.
激しい討論にあちがちな「そういう口調で議論するのはけしからん」てな話になっているようで…。 (^^;) (ふうむ、 ridiculous って単語は使っちゃいけなかったのね。)
Su and Suzuki の再反論が楽しみです。げんちゃん、わくわくしちゃう!
ところで、物理学的にはどちらの言っていることが正しいのでしょうか? これが一番大事な問題だと思うのですが…。
藤原といいます。黒木氏の同僚です。 議論と関係ないのですが、 ここに出てくる山形さんと、同姓同名の人 が私の大学1年の時のクラス(理1、8組) にいました。同じ人かと思い書いてます。 そうですか?? 藤原
リチャード・M・ストールマン スウェーデン王立工科大学講演
RMS Lecture at KTH (Kungliga Tekniska Hogskolan)
記録:Bjorn Remseth 翻訳:山形浩生
講演日:30 October 1986、1998年8月訳
いやあ、もう最高っす。笑い過ぎて、なみだが出て来たよ。まだ読んでない人は山形浩生による RMS interview も合わせて読むべし。さらに、上の講演翻訳の存在を菊池さんちの He said, She said で知ったので、そちらも見ておいた方が良いと思う。
リンク集
文明の衝突、うちの英語の教科書でした。 眉に唾つけながら授業に出てましたけど、英文自体は非常に簡単だったので試験は楽勝でした。 試験の日に前の席の娘が邦訳の分厚い本読んでるのにはさすがにびびりましたが(笑)。
すごく面白いネタなのに反応できなかくて申し訳なかったですね。ハンチントンに対するサイードによる批判のまとめを見付けました。サイードの『オリエンタリズム』の書評を集めたページ。さらにこれ。ハンチントンの『文明の衝突』の書評もすぐ側にあるな。ついでに、姜尚中の『オリエンタリズムの彼方へ』の書評。彌永信美の『〈近代〉世界とオリエンタリズム』全文。
せめてもの,心のなぐさめとして, うちの 花子ちゃんのシルエットでも,ご覧ください.
そんなにひどい状態だったとは…。ファンの一人として非常に残念です。
今日の 21:42 から 23:30 にかけて、 http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/ 以下にアクセス不能な状態になっていましたね。ついさっき、 30 分ほどかけて、復旧させました。実は原因が完全に特定できてないので不安だぜ…。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html にアクセスできなくても、http://zakuro.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html の方にはアクセスできる場合があります。
math.tohoku.ac.jp の計算機は 8/22-23 (土-日)に漏電検査および停電のために全てコンセントを外すので、ここにもアクセスできなくなります。
あっしなんさぁ,1991年の夏がfj初投稿だったし... 濃い議論の経験値など,まだまだでしょうね.
僕の住む町、千葉県市川市の掲示板。ただし書き込むためには
「参加ご希望の方にはパスワードをお知らせしますので電子メ
ールでお申込み下さい。
市川市 企画部 企画課」
だそうです。
だれだって かきこみたいんだ しみんだから 納税者だから 3点 <- 点取り相田みつを
やっていたら,黒木さん たち,遠野^h^hとおのむかしから 出ているって!?
James Anglin, Quantum Physics, The LINGUIST List 5.780.2, 5 July 1994.
そのハイライト: ガールフレンドが転送してくれた The LINGUIST List の記事を引用して、理論物理学者の James Anglin 氏曰く、
>Actually, come to think of it, quantum physicists have been telling us >about this for almost a century, that our particular cultural notion >of time is a linguistic construct! ..... They haven't told me. .....
その訳:
>実際、量子物理学者達が一世紀近くものあいだ述べ続けているように、我々固有 >の文化における時間の概念は言語上の構成物であることを思い出してみよ! … 物理学者達は私には言ってくれませんでした。……
全文を読んでみると、 Anglin 氏は非常に丁寧な言い方をしているように見えますが、実は結構頭にきていたんじゃないかなあ。私は勝手に次のような様子を想像して楽しんでいます。ガールフレンドから「あなたの専門の物理の話が出ているけど、これって本当?」なんてメールが届いたので、どれどれと読んでみたら、「なんじゃこりゃあ!」
さらに、LINGUIST List の別の記事の一団を見ればわかるように、 Sapir-Whorf 仮説を信奉する人達の間では、「Einstein は相対性理論のアイデアを言語論的相対主義から得ていて、 Einstein の相対性理論と Sapir-Whorf 仮説のような言語論的相対主義は相性が良い」ということが常識のごとく語られているようです。
つまり、なにを言いたかったのかと言うと、何事にも優劣をつけることを今の初等教育では、極端に 避けようとする傾向があるという事です。このような相対主義は個性の重視ではなく、むしろ嫉妬を正当化する 論理になりはしないかということです。 自分より優れた力や能力を持つ人を素直に誉められる心の広さを育てるよりは、その優劣をも相対化して しまおうとする態度に結びつきはしないかと言う事です。これは私の単なる偏見かもしれませんが。
Tora さんが何を気にいらないのか、私にはよく理解できないです。「最近の初等教育」と「一切の価値軸を建前上相対化すること」の関係をもっときちんと説明してもらわないことには、ちょっと反応のしようがないですね。
私自身は「異なる立場に異なる真理」というスローガンを素朴に唱えること自体に不都合があるとは言っていません。「相対主義」の嫌な点は、以下のようなオマケがついて来ることです。
おまけA: 人文および社会科学で語られている様々な「相対主義」は、個々人を単位にした相対性を語るのではなく、文化・社会・パラダイム・言語・…のような、ある程度まとまった集団を単位として相対性が語る傾向があります。これは明らかに要注意だと思います。 (例えば、「日本人には日本人の…」なんて言い方を無批判に受け入れてはいけない。)
おまけB: 「相対主義」は、異なる文化・社会・パラダイム・言語・…を持つ集団は、互いに、理解不可能・共約不可能・翻訳不可能・…であることをできるだけ強く強調しようとする傾向があります。そういう傾向を私は好みません。 (例えば、「日本人でない奴等に日本人のことは理解できないのだ」なんて主張を無批判に受け入れてはいけない。)
嫌なオマケは他にも色々ありますよね。(例えば、俗な反科学思想との結び付き。)
最近の初等教育における、「個性」=「様々な価値」を重視するということが、一切の価値軸を 建前上、相対化するという意味において、「悪しき平等主義」は、「異なる立場に異なる真理」というスローガンを 植え付けているようにも私には思えるのですが。。 これは、やはり初等教育における「右傾化」を意味してるのかな?
どうも世間一般様では、「相対主義」は「悪しき平等主義」であり「左」の論理であるというのが“常識”のようですが、ってのは、どうもよく分かりません。ま、 頭の悪い左翼とかいうのはしばしばいるんですけどね。 ソーカルさんは頭の悪い怠け者の「左翼」に苛立ったのだというのが真相でしょう。
雰囲気が「右」っぽくなるのも嫌なんで、一言述べておくかな。
まず相対主義に関する一つの見方を示しておきます。「相対主義」とは大体において「立場によって真偽や善悪が異なり、異なる立場に立つ者どうしは互いに理解不可能である」という考え方であると言って良いと思います。
立場によって真偽や善悪が異なることは確かにあると思うのですが、それだけではなく、相互理解の可能性を低く見積ろうとすることが「相対主義」の大きな特徴であり、皆が反対するのもまさにそこだと思います。異なる立場が互いに理解可能であればあるほど、「異なること」は大きな問題ではなくなるので、「異なる立場に異なる真理」というスローガンの力はどんどん弱められてしまいます。だから、相対主義者達は「異なる立場は互いに理解不可能であること」を最大限に強調しようとすることになるのだと思います。
どうも世間一般様では、「相対主義」は「悪しき平等主義」であり「左」の論理であるというのが“常識”のようですが、その“常識”は実際には完全に間違っています。典型的な相対主義は「右」にもよく見られるのです。典型的な議論の仕方は次の通り。
日本人には日本人の立場や思想というものがある。
日本人でない奴等にはそれらを理解することは不可能なのだ。
これはまさに「立場によって真偽や善悪が異なり、異なる立場に立つ者どうしは互いに理解不可能である」と言っているわけですから、相対主義そのものですよね。
ついでに述べておけば、「日本人には日本人の」という言い方をされると、私には私自身のプライドがあるので「俺はてめえらみたいな連中とは一緒にされたくねえよ」と感じるのでした。
以上、脱線でした。
23:55:g.kur お、小波さんが保守主義者もしくは共同体主義者的な発言をしているな。:-) > なんでも掲示板
「相対主義」ということばを契機にちょっと、話がずれましたね。 すみません。
殺人、暴力や不当な誹謗中傷などのように明らかな場合を除けば、何が許されて何が許されないのかといった判断は、 背景となる文化に大いに依存するものだと思う。Toraさん:
日本における相対主義の調査というのは、おもしろいかもしれませんが、私の直感では、 小学校あたりの義務教育から、屈折した平等主義として相対主義のようなものは 子供に植え付けられているような気がします。特に初等教育においては、文化の伝承が重要な要素になってくるわけです。つまりその社会の規範、 美意識、慣習、言語を子どもに伝えていくことなしには教育は成立しません。 ところが、「それは押し付けである」という批判がそれに対して生じてくることも当然ありうるわけで、 そこで腰が引けてしまうと、屈折した相対主義が醸し出されるかも知れません。(とはいえ、君が代を 押し付けるなどという強腰はまっぴらごめん)
殺人、暴力や不当な誹謗中傷などのように明らかな場合を除けば、何が許されて何が許されないのかといった判断は、背景となる文化に大いに依存するものだと思う。という理由で、Alan Sokal が Social Text を騙したという事実についての善悪の判断を保留しています。 (こういう態度をみんなが認めてくれるというわけには行かない事はわかっています。 早川さんのように、「悪いことなのだから、許せん」と主張されるのは、一つの見識だと思います。 早川さんの過剰なレトリックや不適切な比喩は納得できませんでしたが、基本的な主張は論駁不可能だと思っています。(早川さん、あおってる訳ではないので、出てこなくていいですよ。)) これは、「倫理の基準は絶対的なものではなく背景となる文化に依存する」という ethical relativism (「倫理的相対主義」と訳すのかな?意味は、「倫理判断における相対主義」だと思う)の一例だと思います。
上の例には軟弱だとして反対する人もいると思いますが、たとえば美意識などについての相対性は、ほぼ万人が認めるところだと思います。
こういうのは、害もないし(おそらく)正しい「相対主義」ですよね。
くろきさん はじめまして。こんにちわ ふらっと、立ち寄ったつもりが、くろきさんの、おもてなし(先のポスト)で簡単には 立ち去れなくなってしまいました。(^^;; くろきさんの、相対主義に関するレジュメを見て、自分は1から3のイメージで相対主義を捉えていたなと 気づきました。私は相対主義という言葉をかなり安易に使っていたようです。 相対主義という言葉を厳密に考えるのは重要な事ですが、 私にその能力はなく、 言葉の定義、分類を問題にすると、私自身、どつぼにはまりそうです。 くろきさんの分類による好ましい相対主義は、むしろ「価値中立的」な態度と言った方がいいような気がします。 そこで、私はもっぱら悪い方の1から3のイメージで相対主義という言葉を用いる事にします。 しかし、Kuhnの科学論は、日本では村上陽一郎とかが積極的にとりあげて、いわば日本での科学論の バイブル的な本になっていますが、これは日本だけの奇妙な現象のようです。 本国のアメリカでは、Kuhnは非常にマイナーな扱いしかされていない存在のようです。 >このような困ったちゃん達が、どのような本を読み、どのような教育を受け、どのような言葉をキーワードと >して用いているか、…を調査してみるのは興味深い作業だと思います。 日本における相対主義の調査というのは、おもしろいかもしれませんが、私の直感では、 小学校あたりの義務教育から、屈折した平等主義として相対主義のようなものは 子供に植え付けられているような気がします。 それでは P.S. 私のURLは、ただ今、Under Construction状態です。いつになったら出来る事やら。
Tora さん、はじめまして。改行なしの方は削っておきました。もしも、ウェブサイトをお持ちなら、こちらからリンクしたいので URL を教えて下さい。
ええと、 Tora さんの発言には物議をかもすような点が色々あると思います。 Tora さんの意見に反対の方々が反論して下さると、他の方々も楽しめると思うのですが、いかがでしょうか?
「相対主義」という言葉は様々な意味で安易に使われる傾向があります。だから、「蔓延している相対主義に対する挑戦」のためには、始めに「相対主義」をめぐる状況をきちんと分析しておくことが必要です。「相対主義」に賛成な人も反対の人も、自分自身がどのような意味でその言葉を用いているかについて、よく考えてみるべきだと思います。 (「科学」という言葉も似たような事情にあると思います。) 参考にできる文献として、論文集
J.W.メイランド・M.クラウス編 『相対主義の可能性』 (産業図書、原書 1982)
は大変便利です。特に、 Donald Davidson による有名な論文「概念図式という観念そのものについて」は必読かな?
以下は私なりの雑なまとめです。
「我々の常識はもしかしたら正しくないかもしれない、我々は悪しき決め付けをしているかもしれない、…」のように考えてみることは全く悪いことではない。このようなある意味当然取るべき慎重な態度を「相対主義」と呼んでも、せいぜい議論を混乱させるだけのことなので、そう呼ぶのは止めた方が良い。
同様に、方法論的に取られる様々な相対主義的態度にも私は問題を感じません。多くの人が当然と考えているが、実際には疑わしい考え方をあぶり出すために、あえて「多数派の常識を無批判に認めているために、見逃してしまったことがあるのではなかろうか?」と問うてみることも悪いことではない。
問題はここから先です。単に新しい別の観点を発見するためのあえて方法論的相対主義を採用するだけではなく、より強く「出発点として採用した相対主義的考え方およびそこから得られる結論は他よりも正しい」と主張する人達が登場することによって、論争が巻き起こるのです。
最も直接的なやり方は、出発点として採用した相対主義的考え方そのものを哲学的に正当化してしまうことです。
例えば、 Davidson が批判している概念的相対主義はそのような哲学理論の典型例だと思います。上掲書118頁から引用しておきましょう。
多くの信条をもつ哲学者達は、概念図式について語る傾向がある。概念図式は経験を組織化する方途であるとか、感覚のデータに形式を与える範疇の体系であるとか、個人や文化や時代が過ぎ行く光景を見渡す観点であるとか言われる。一方の図式から他方の図式への翻訳は行なえないかもしれない。その場合、一方の人を特徴づける信念、願望、希望および一片の知識に真に対応するものは、他方の図式に賛同する人には何もない。実在そのものは図式に相対的であって、或る体系で実在的とされるものが、他の図式ではそうとは言えないかもしれない。
ここで強調は私による。このような概念的相対主義に分類されるのは、例えば、 Thomas Kuhn のパラダイム論の incommensurability (同じ基準で測れないこと、共約不可能性)の理論や言語学における所謂 Sapir-Whorf 仮説(言語論的相対主義)などです。人文社会科学の世界では結構広く支持を得ていると思います。 (もちろん反対する人も結構いる。)
哲学における「相対主義」をめぐる論争を survey するだけの実力がないので、その内容にここで触れることは避けます。しかし、何らかの意味での相対主義を満足行くだけ哲学的に正当化するのは大変なことであり、実際に激しい論争になっていることは知っておくべきことだと思います。だから、なんらかの相対主義的主張を正当化してくれる哲学に頼る場合には相当に慎重でなければいけません。
最後に、私がとても嫌だと考えている“ある種の相対主義系の人達の振舞い”を挙げておきます。
こういう困ったちゃん達のことまで「相対主義者」と呼ぶと、真面目な哲学的議論まで馬鹿にされてしまう可能性があるので、別の呼び方をするべきだと思っています。どういう呼び方が良いですかね? 「トンデモ相対主義者」というのを今思い付いたのですが、もっと良い呼び方がありますかね?
このような困ったちゃん達が、どのような本を読み、どのような教育を受け、どのような言葉をキーワードとして用いているか、…を調査してみるのは興味深い作業だと思います。 Network news や mailing list の類はそのために利用できそうですよね。面白い例を見付けたら、教えて下さい。「相対主義」の伝言ゲームが末端の方ではどのような様相を示しているか、は興味深い問題だと思う。
以上のように、私の立場は、「相対主義」をめぐる状況を分析してみることから始めるべし、というものです。そして、 Sokal による「ある種の科学論においては、一見して、過激に見える表現が多用され、様々な異なる概念を混同しているように見える」という観察は、上で挙げたような困ったちゃん達の増植について、なにがしかのヒントを与えていると考えています(伝言ゲーム仮説)。
メモ: 川似さんとの議論に関する私なりのまとめのリスト
浜田寅彦さん曰く >「思想」とか「現代思想」「社会思想」というジャンルの無いアメリカの貧しいlocalityに >ひきずられる必要は全然ないし、わけのわからないアメリカの社会学や心理学や教育学での分派逃走(カ >ルスタとかエスノとか)に立ち入る必然はないと思えます。 Sokalは、むしろドルーズとかのフランス思想を問題にしているわけで、「思想」とか「現代思想」「社会思想」と いうジャンルの無いアメリカの貧しいlocalityを批判しているわけではないですよね。 また、私は、「思想」とか「現代思想」「社会思想」というジャンルの無いのが、当然だと思っているので、 それがどうして、「アメリカの貧しいlocality」といいきれるのか疑問です。 話は、違いますが、やはり哲学書として世に出されている本は、SFやポエジーとしてあるのではないのですか ら、そこに書かれている具体的な誤りというのは、容赦なく指摘するべきだと思うのです。いいたい事を斟酌する などという情け容赦は必要ないはずです。 それを、許したらトンデモ本と同じ扱いになりますね。
何かのための「手段」となって、どうでもいいものに変じた「Sokal affairs」(陳腐な社会学的説明(笑))。 かといって、発端に崇高な目的があったとも思えないし。 そうだとすると、このaffairsからの教訓は何も無く、 せっかく集まった面々も各自の家に帰っていく。(まるで「人工生命お祭り論」みたいだ) いろいろな切り方があるんだろうけども、 金森修が出だしで言っていたように「アメリカ特有の現象」として、 (で、こんどは金森氏とは反対に)対岸の火事として傍観して、 こちらはこちらで「科学技術論(科学論)」をすれば好いのではないか、 と思うようになってきました。 「思想」とか「現代思想」「社会思想」というジャンルの無いアメリカの貧しいlocalityに ひきずられる必要は全然ないし、わけのわからないアメリカの社会学や心理学や教育学での 分派逃走(カルスタとかエスノとか)に立ち入る必然はないと思えます。 凸性については、経済学の根幹にかかわる話なんで(大袈裟にいうと「資源配分メカ ニズムとしての競争価格システムの成立条件の1つ」 いくつかの「なんとか関数」 が連続でないと後々困るからだけど、なんと非現実的な仮定(笑))、 アメリカの大学院テキストの影響で、日本の学部のテキストにも出てきますが、 1変数の絵を画いてお茶を濁しています(たぶん、現場ではその話はしないと思います)。 後ろの「数学付録」には凸だけで、凹や準凹と関連づけた話のない物も多いです。 もしかしたら、捜せば良い解説があるかもしれないですが、関心が無いもので出会っ たことが無いです。 知ってる経済学者は名乗り出るように(笑)
ぼくは、そういう認識は持っています。 自然科学者としての仕事をちゃんとこなしながら、
「くだらねえことを、わざわざ難しげに言う」のがとっても恥ずかしい空気を作りたいというのは、あまり直接的ではないけれど、一つの方策だと思っています。
物理学会の オンラインプログラムに関して, 今回校正前の原稿が暫定版としてWWW公開されましたが, 大した反響はいまのところございません. (正式版のまえのものを公開すること自体, エライ先生方のあいだでも賛否両論あるとは思いますが...)
さてそんなわけで,今回は次のようにヴァージョンアップになるでしょう.
1. 7月末の校正前の暫定版(実施済み)
2. 9月上旬の正式版(学会誌発送の約1週間前)
3. 学会直前の「座長の名前の入った版」
(オンライン版ならではの付加価値のひとつですと
毎度宣伝していることですが... ^^;;)
ブタネコ塾では、受験生にHardy Littlewood Polyaの"Inequalities"のセンスで、有名 な不等式の背後にグラフの凸性があることを宣伝してるけど。
それは頼もしい。
Arnold は今回は見ていませんでした。確かに、かっこいいですね。(付録は難しそうだけど。) ただ、熱力学に使うときは(相転移という現象のために熱力学関数が微分可能ではなくなるので)微分には頼らず、ストイックに凸性だけを頼りに理論を構成する必要があります。 (凸性の方は、熱力学的安定性という要請から、相転移がおきても、確実に保証される。) そういう意味でも、Legendre 変換が凸性だけを使って定義できるのは、物理にとっては完璧に都合のいい状況なのです。 (実は、こういうことを意識して書いた熱力学の教科書は内外ともに一冊もない。)
関係ないけど、中村 周さんとは友達です。
再ポストです。さっきのは改行がなかったです。すいません。 Sokal事件は、単に「、「くだらねえことを、わざわざ難し げに言う」のがとっても恥ずかしいぞってみんなが思う世界を目指すべき」教訓ではなく、 やはり、今蔓延している相対主義に対する挑戦だと捉えるべきだと思う。 すくなくとも科学の側からは、このような反論をもっとすべきだと思う。 現代哲学が、2元論の克服をスローガンに掲げ、同一性のかわりに差異をいい、 主観客観のかわりに共同主観性を挙げたりするのはわからないでもない。 しかし2元論批判が、いろんなバリエーションの相対主義に帰着してしまうこと事体がどこかとちくるっているのではないか? なにかスローガンにおどらされた人間の群集心理のようなものを感じて不気味である。 単純、素朴な疑問を持って自ら考える態度が見られない。 それに、議論のかわりに戦略を強調したり、仲間内でしか議論をしなかったり、 その殆どは学問の名を借りたスノビズムでしかないのではないか? 消化不良の理解と雑多な知識ばかり本を読んで詰め込んで、誇大妄想に陥り、基礎的なことから自分で考えようとはしていないようだ。 これは哲学的な態度なのだろうか? 私自身は哲学の伝統に敬意をもっているが、今、日本で、もてはやされている浅田彰だ柄谷行人だ蓮実重彦東大総長(!)なんてのは、 しょうもない似非学者としか考えていない。蓮実重彦なんてのは、映画オタクで、野球評論(草野進というペンネーム) ばかりやっている道楽者でしかないのに、今や東大の総長をやっているんだからなー。 もっと、まともな学者はいそうなものなのに。。岡田なんとかというオタク評論家をすこし大型にしたくらいのサブカル評論家が 東大総長というのは、日本もかなり危機的状況なのだろう。 今、日本でドルーズやデリダと言っている人間のけっこう多くの部分は、 上に挙げたような連中のフィルターを通してしか、考えていないのではないかと思うだけに、罪は重いと思うのだが。。
もちろん、そういうねじ曲がった認識の仕方が論理的に可能だということは わかっているけど、それは小学生レベルの屁理屈だと思う。 せっかく人生を生きていて何が悲しゅうてそんなことをわざわざ公言するのだろう。 ここまで来ると、相手にしない方がいいと思うし、さすがに飽きてきた。飽きてもいられない気がするのは、日本の大学で教育学に関する影響力を 持った人物が、おそろしくとんでもないこと ( この文章の末尾参照)を書いていたりするからなんだなあ。
まじめに科学の社会学をやっている人たちは、こんな事を真顔でいう奴がいるの で、迷惑していると思うなあ。「シアン化物がカレーの中に入っていたかどうかを問うことは、カレーが捨 てられてしまった現在では、デカルト的精神病に罹っているやつのやることだ」 などと嘯いて、あらゆる合理的手段を尽くして原因を追求しようとする 努力を嘲笑うような大馬鹿がいて、しかも大学で学生の脳味噌に 有毒物質を日々流し込んでいるとしたら、 真面目に日本の理科教育を考えている人たちからすると、 迷惑どころではない憤りを感じるかも知れませんな。
ふと、ここは数学についての議論や質問をしてもいい場所なのではないかと思いついて、数学のご専門の方への質問を投稿します。
ぼくは、ここしばらく普通の意味での研究を中断して、大学学部での教育をも念頭に置いた熱力学の再構成に取り組んでいます。 差し当たっての目標は夏休み明けに始まるぼくにとっては初めての熱力学の講義で、その際、学生に配るための講義ノートの準備を、曜日の感覚もなく連日連夜続けております。 目標としているのは、経験科学としての物理的な基盤と、数学的な論理を合わせ持った熱力学の出来る限り初等的な構成を行うことで、満足のいくものができれば本にしますが、その暁には熱力学の教育の革命になるだろうと一人で勝手に言っています。(道は遠いですけどね。)
で、ノートの中で、凸関数を解説している部分があります。 実は、熱力学という物理の理論を考えていく上で、関数の凸性の概念が本質的に重要になってくるのです。 これは、別にぼくが凸解析が好きだ(別に特に好きではないです、そんなに知らないし)とかいう趣味の問題じゃなくて、物理そのものが、もう自ら凸解析を必然的に欲しているという意味です。 (実は、このあたりは、「数理○○学の必然性」とかいうテーマで、いずれじっくり議論したいところです。喧嘩になるかもしれないけど。)
ぼくが、ノートで使うのは、ほとんど一変数関数についての事実で、凸性から、連続性や左右微分の存在が示されることや、Legendre 変換がうまく構成できることなどです。 多変数関数の凸性と Legendre 変換も、本当は使いたいのですが、そうすると学部レベルをはるかに越えるので、今回は我慢しています。
ぼくが、知っている範囲では、普通の学生が手にする解析の教科書には、凸解析に関することは全くと言っていいほどのっていません。 それで、上に書いたような初等的な定理の証明も全て熱力学のノートの中につけています。 これは、本を self-contained にするためには仕方がないと思っているのですが、数学の好きな学生が日本語で読める文献くらいついていた方がいいなと思い始めました。 凸解析の初歩のところがちゃんと書いてある日本語の教科書というのはありますか? もしごぞんじなら、是非教えて下さい。
ついでですが、ぼくは
convex function = 凸関数という標準の用語がいやです。 特に一変数の場合にグラフを書いて、象形文字である漢字と比較すると、明らかに凸関数が凹で、凹関数が凸ではないですか!(英語の語感は知らない。) (凸集合というのは、まあ悪くないけど。) それで、ぼくは一貫して、
concave function = 凹関数
convex function = 下に凸な関数と呼ぶことにしています。 どんなものでしょうか?
concave function = 上に凸な関数
ラムセス二世という人のミイラを調べて、このお方の死因は結核だという判断をした科学者がいるそうなのですが、例の Latour のおっさんがその結論はナンセンスだと言っているそうです。 いわく、
ラムセス二世がマシンガンで撃ち殺されたとか、株価の暴落から来るストレスで死んだとかいうことはあり得ない。 時代錯誤だから。 それと、同じ理由で、ラムセス二世が 1882 年にコッホが発見した病気で死ぬなんてことはあり得ない。
もちろん、そういうねじ曲がった認識の仕方が論理的に可能だということはわかっているけど、それは小学生レベルの屁理屈だと思う。 せっかく人生を生きていて何が悲しゅうてそんなことをわざわざ公言するのだろう。 ここまで来ると、相手にしない方がいいと思うし、さすがに飽きてきた。
まじめに科学の社会学をやっている人たちは、こんな事を真顔でいう奴がいるので、迷惑していると思うなあ。
ビルが無かった時代には、ビルから飛び降りて死ぬ 人間はいなかった。
いやあ、ちょっとの間見てないともうついて行けませんわ。 ずーっと前の川似さんのご質問に、ひとつだけ。 >きしさんは、世の中は自然科学ですべて説明できるように単純じゃな >いと書かれていましたが、きしさん自身、きしさんが勉強していらっしゃた「社会科学」のバイアスが >入っていませんか? 別に批判したいんじゃないんです。ちょっと心配だったので。 めちゃめちゃ入ってます(笑) まぁ、哲学や自然科学の濃い話についていく能力がないってことなんですが。 もうしばらく皆さんの投稿を読んでみて、飛び込めそうなところがあればまた なんか書き込みたいです。 しかしねえ、これは単なる感想ですが、別に社会科学者が自然科学の概念を 適当に引用したり盗用したりしても、大した問題ではないと思うんですがね。 間違いがあれば自然科学者が指摘すればいいだけのことであって。 もちろんそれには「マーケット」にちゃんとのっかれるだけの文系的 スキルが必要になるんですが。あと逆に、そーかるさんも別に大したこと やったわけではないと思うんですよ。 でもまあ、面白い問題ではあります。
ぼくは、川似さんの議論はなんとなく納得しながら読んでいました。 ある種の行き違いは深い所にあるのかも知れませんが、ぼくは、少なくとも抽象的な議論についてはかなり寛容というか優柔不断なので、川似さんお話の筋を抵抗なく受け入れられるところが多かったです。 で、話が Kristeva の集合とか Arnowitz の時間とか具体的になると、急にこちらの認識と大きく食い違うので、その「騙し絵」的ともいえるスリルを結構楽しんでいました。
ぼくは、(関係ないかもしれないけど、ボルヘスとかフィリップ・ディックとかも好きだし)世界には色々な切り出し方があることを自然に受け入れています。 だから、ある種のところでは、川似さんのノリに自然についていこうと思います。 もちろん、自然科学が絡むところになれば、さっと身構えて、科学に人生を掛けている者の真摯さで臨むことになります。 そういうことをやりながら、一体どこまでがあちらのノリでも許せて、どこからが絶対に譲れないのだろうというようなことを漠然と考えているのです。 (で、本当の議論を行うとすれば、状況を限りなく絞り込んで、お互いに認める前提をはっきりさせて(たとえば、お互い相手は実在していると思うかとかね)、根性決めてやる必要があるのでしょう。 ぼくの感覚では、掲示板では、そこまではちょっとできないと思います。)
「Sokal の考えの浅いところ」のご指摘については、ぼくは、あまり掘り下げず漠然と「そういうこともあるかも知れないなあ」くらいに思っていました。 確かに、彼の得意とするところからはかなり離れているわけだし、多少の弱点があっても不思議ではありません。 だからといって、Alan たちの主張が崩れさるというものでもないので、そのへんは、ある程度じっくり考えないといけないと(これまた)宿題にしていました。 (Intellectual IMPOSTURES の中の科学論のサマリーは、ぼくにはとてもわかりやすい。 それは同時に簡単化されすぎていると言うことでもあると思う。)
いずれにせよ、この掲示板で Sokal 批判をするのは、たいへんですね。 なんといっても Sokal 支持派は多数派ですから。 それに、Bricmont-Sokal のターゲットになった全員が哲学的にも同じレベルだということはあり得ないですよね。 だから、一般論で擁護するのは苦しい。(一般論では、「批判の方法」を批判することになるけれど、これは Intellectual IMPOSTURES の書評家たちがやりまくって、結局、不毛だった(とぼくは思う)。) Kristeva にしろ、Deleuze にしろ、特定の人を擁護するとなれば、徹底的に各論で行うしかない。 しかし、それは
幾多の科学的数学的概念の誤用を含んでいるにも関わらず、何故「差異と反復」は素晴らしいのか? 誤用の意味を一つ一つ問いただしながら、この本を徹底的に読み解いて Deleze の真の意図を探っていこうというような、限りない労力と時間と知的努力のいるライフワーク規模の作業にならざるを得ないと思います。 もちろん、掲示板では無理です。 (偽善的といわれるかも知れないけれど、そういうのこそが、Bricmont-Sokal の批判への一つのあるべきレスポンスの形だと思います。 そういう努力の結果として、似非科学の衣を脱ぎ捨てた真の Deleuze 哲学の姿が浮かび上がって、新たな古典として人々に読み次がれるということがあってもよいとぼくは思う。 (いい子ぶりっこ。) 誰もそういう努力をしないようなものについては、この機会に光りを失っていくべきだと思います。)
ついでですが、ぼくなんかが自然科学について語るときは、自分が物理を専門に勉強していることを前提にしていて、「おれが言うんだから本当だぜ」というニュアンスをちらつかせているので、結構ずるいよなあと思います。 ただ、みんな人生の時間は限られているので、全てを体系的に勉強するわけにはいきませんよね。 だから、責任を持って答えるべきところには、責任ある答えをしなくてはと思っています。(また、いい子ぶりっこ。)
あと、海法さんの
私にとっては5秒で思いつく、一番最初に気がつく問題点というのは、やはり量子力学をご存じだから言えることですよね。 だから、「当たり前」というだけでなく、(我々の自然科学の体系の中での)事実を明確に伝えていくのが大切だと思います。 (自然科学的)世界を「普遍性」という概念を中心に理解していこうというのが、ぼくの一つの「哲学」なので、「量子力学がマクロな観測には顔を出さない」といった事実は、ぼくにとってはとても重要なのです。 だから、川似さんが「おもしろい」と反応して下さるのは、うれしいです。
Well, very few people would say it in so many words, so explicitly and so precisely. But they say vague things that come down to that, if taken seriously. If you press them on that, they might come up with 'Oh, what I really meant is not the radical thing it seems to mean, but what I really meant was blah blah blah,' where blah blah blah is something that's not only not radical at all, it's true and trivial.
-- Alan Sokal (an excerpt from Undressing the Emperor, Scientific American, March 1998)
議論が発散ぎみになっているようですが、川似さんとの議論でまだはっきりしてない点があるので決着を付けておきます。それは、 Latour による
Since the settlement of a controversy is the cause of Nature's representation, not the consequence, we can never use the outcome -- Nature -- to explain how and why a controversy has been settled.
という一節の解釈およびこの一節に対する Sokal の批判 (Sokal, April 1997 の上から2/5あたりを見よ) の正当性に関する議論です。
まず、解釈の方について。川似さんは 7/22 に Latour は「「自然」というのは常に自然の認識(自然科学の理論)でしかないということになる」という立場に立っていると主張しています。これに対して私は7/24に資料として Ian Hacking による観念論と言語主義に関する主張を引用した上で、「Latourは、川似さんが言っているような極端な立場に本当に立っているのでしょうか?」と疑義を提出しました。 Ian Hacking の「言語主義のこのような極端な主張で、広く賞賛をかちえているような理論はない」という主張は、川似さんの「「自然の表象=自然」という考え方が Sokalが言うほど「奇異 "bizarre"」ではない」という主張を必ずしも受け入れる必要がないことを示唆しています。これに対して、川似さんは7/27の掲示の最後の方で回答しているのですが、「どなたか助けていただけませんか?」ということになってしまいました。
Henrik Zinkernagel は、 Sociology of Science - Should Scientists Care? On Knorr Cetina's Work on High Energy Physics (EASST Review 15(3), September 1996) において、 Latour and Woolgar の次の一節を引用しています。
We do not wish to say that facts do not exist nor that there is no such thing as reality. In this simple sense our position is not relativist. Our point is that "out-there-ness" is the consequence of scientific work rather than its cause. (Latour and Woolgar 1986, p.180) [3]
この一節をどのように解釈すれば良いかは決して単純ではなさそうですが、少なくとも、この一節から、 Latour と Woolgar が「自然=自然の表象」と単純に言ってしまえるような過激な立場に立ってないことはわかると思います。 Zinkernagel もそのように解釈しています。
実は、 Gross and Levitt 以後および Sokal 事件以後の論争において、ターゲットになっていると感じていた人達は、自分達はそれほど単純で過激なことを言っているのではないということを一貫して強調してきているのです。
おそらく、そのような論争を経由して、まず始めに問題にするべきことは過激な主張であると容易に誤解され得る曖昧な表現の仕方の方なのだ、と Sokal は気付いたのだと思います。少なくとも、 Sokal, April 1997 における批判の矛先はそこに向いていることは確かなことです。
私は、川似さんが Latour の一節を過激なことを言っているかのように解釈してしまったこと自体、 Sokal の批判の方針が全く正しいことを示していると思います。しかも、その過激な解釈に対して川似さんが相当に好意的であるという事実は、誤解された過激なバージョンの科学論が人文科学の世界に広がる下地が十分にあるということを示唆しているので、なおさら Sokal の批判は正しい方向を向いているように思えてきます。
いずれにせよ、川似さんがせっかく好意的に過激な解釈を示したとしても、
Oh, what I really meant is not the radical thing it seems to mean, but what I really meant was blah blah blah.
という答えがあっさり返って来るようでは、困るのではないですか? やはり、上で引用した Latour の一節のような表現の仕方は批判されても仕方ないと思います。
そんな小学生でも考えつくような常識的なことを言っても、Sokal がナイーブに「驚いている」言説の批判としてまったく力がありません。
こんな意見には、科学哲学の複雑な議論を知らないぼくでも、「原子の運動は量子力学の法則に従う」という「事実」が社会的その他の要因と関係する相対的な認識ではないと何が保証するんだ?
前の年にぼくのクラスにいた学生がやってきて、「今やっているゼミで『この世に客観的な真理などはなく、科学の真理と称されているものは全て科学者どうしの社会的合意の産物にすぎない』という主張の本をよんでいるのだけれど、本当にそうなのか?」と質問したことがありました。
本当ですか? 皆さんもそう思います? 皆さんも、ぼくの指摘は「的を外してい」て、Sokal の科学哲学に関する批判は「かなりまともなもの」だと思いますか?
そういった問題に関わるさまざまな議論が行われているわけで、こういった複雑な議論を知らずに公の場で上のようなことを言うのは、それこそ無神経と言われても仕方がないのではないでしょうか。 (中略) 例を挙げてもいいのですが、面倒なのでここでは省きますが。一つだけ書くと、一つだけ書くと、epistemology(認識論)と ontology(存在論)を混乱していると Sokal は批判しますが、認識論者にとって存在論は無意味というか批判の対象なんです。存在とか本質とか話し出すと、認識論の批判性がなくなってしまうと思いませんか?
ぼくももう一度だけ繰り返します。別にぼくは、Sokal の「標準的」な定義を「無視し」、「別の定義を採用し」て、Sokal の主張を歪めているのではありません。
(一つだけ、以前から書こうと思っていて書きそびれていたのですが、海法さんと田崎さんの、科学は日常的な経験に適合するのだから Aronowitz の議論での量子力学への言及は変だという批判は、面白いと思いました。きっと、「存在論的歴史論」を主張する Aronowitz もその批判は好きなんじゃないでしょうか。)
黒木さん曰く、
川似さん、「言葉の混乱」で述べたことですが繰り返します。川似さんによる「一つだけ書くと、…」という Sokal に対する批判は的を外していますよね。 Sokal は ontology と epistemology という語をどのような意味で用いるかについて明確に説明しており、しかもその定義の仕方は標準的なものです。川似さんは、それを無視し、別の定義を採用した上で、「Sokal は誤解している」と思ってしまったのではないですか? 私は、 Sokal の「ontology に関わる主張、 epistemology に関わる主張、… を混同しないように気を付けよう、読者を混乱させるような言い方は止めよう」という意見はかなりまともなものだと思います。
本当ですか? 皆さんもそう思います? 皆さんも、ぼくの指摘は「的を外してい」て、Sokal の科学哲学に関する批判は「かなりまともなもの」だと思いますか?
だとしたら、もうどでもいいという感じです。この、ぼくが "3" に分類してみた問題については、現代思想についてまったく知らない人でも、Sokal の主張は無神経だというのを理解してもらうのは比較的簡単だと思っていました。それさえもできないのなら、Delueze や Lacan の言説を擁護する(またはそれらに仁義をきる)なんて、ぼくには不可能です。
ぼくももう一度だけ繰り返します。別にぼくは、Sokal の「標準的」な定義を「無視し」、「別の定義を採用し」て、Sokal の主張を歪めているのではありません。あんな定義は Sokal に説明されなくてもだれだって知っているし、あれでいいですよ。ぼくはあの定義を変えているわけではなく、そう定義される存在論と認識論が哲学という体系のなかでどういう議論を生んできたのかということへの Sokal の理解はあまりにお粗末だと言っているんです。Sokal が挙げている他の項目(sociology of science, etc.)も含めて、ああいったものの複雑な関係を分析する努力がなされているのに、そういう議論に明らかに無知でありながら、標準的な定義をして「これらを混同するな」とだけ言っても、お話になりません。「これらを混同するな」と言うこと自体が間違っていると言っているんじゃないんですよ。そういう批判をしたいなら、ちゃんと理論的にしろと言っているんです。
「[社会的、経済的、政治的、文化的、イデオロギー的な要因は、] 根底にある科学的な問題(原子の運動は量子力学の法則に従うか、など)にはまったく影響を及ばさない」とか、「*社会的な*原因だけが問題となり、世界がどのように*存在する*のかが問題とならいと言うのなら、私は賛成できない」とか、「科学での認識の仕方と、日常生活での認識の仕方には、根本的に「形而上学的な」違いはない」とか、そんな小学生でも考えつくような常識的なことを言っても、Sokal がナイーブに「驚いている」言説の批判としてまったく力がありません。こんな意見には、科学哲学の複雑な議論を知らないぼくでも、「原子の運動は量子力学の法則に従う」という「事実」が社会的その他の要因と関係する相対的な認識ではないと何が保証するんだ?「世界がどのように*存在する*のか」という考え方自体が社会的に構築されたものではないとなぜ言えるんだ?科学での認識の仕方は日常生活でのそれと同じだと言うことがなんで認識論的相対主義の批判になりうるんだ?などの疑問がすぐに出てきます。(しかし、あの象がなんたらとかいう寓話は、Sokal がその後も「ビルから飛び降りてみろ」的な非常に初歩的な勘違いをし続けていることを如実に示していますね。)Collins と Latour の、「科学的知識の構築にとって、自然世界の役割は小さいか、または存在しない」とか、「事実の社会的構築」というものの「結果として現実はあるのであって、現実はその原因ではない」という主張を読んでわかるのは、彼らは実在論的な存在論を自然科学の問題から排除している(または、存在論というのは結局認識論の問題だと言っている)ことなのですから、なぜそういう排除が行われるのかということを考察もせずに、存在論と認識論を混同しているとかピントのずれたことを言っても意味がないんです。
こんな合理的な話が通じないようなので、ぼくはもうここに来ません。田崎さんが書いてくださった意見にも反論したいのですが、ぼくも哲学や社会学の研究者じゃないですし、建設的な議論はできないと思うので、これ以上は止めます。ところで、黒木さんの「判定」によると、ぼくは「Sokal に対して何一つ有効な批判を為し遂げてない」そうですが、ぼくも、Sokal の言ってることは正しいと説得されるような議論をここで何一つ読んでいません。(一つだけ、以前から書こうと思っていて書きそびれていたのですが、海法さんと田崎さんの、科学は日常的な経験に適合するのだから Aronowitz の議論での量子力学への言及は変だという批判は、面白いと思いました。きっと、「存在論的歴史論」を主張する Aronowitz もその批判は好きなんじゃないでしょうか。)一つ選択肢の提案なのですが、もしこの議論を続けたいのであれば、ポリロゴスという現代思想関係の ML でこの掲示板を紹介するというのはどうでしょう。はたしてそれで建設的な話のできる人がここに書き込んでくれるかはわかりませんが。
ちょっと前まで大流行だった点取り占い。
1998年7月の記録Cの終わり付近の様子 (時間と逆順)
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