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黒木のなんでも掲示板 (0016)

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Id: #a19980731165232   (reply, thread)
Date: Fri Jul 31 16:52:32 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: 水晶玉のおやじ


Id: #a19980731142329   (reply, thread)
Date: Fri Jul 31 14:23:29 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: Intellectual IMPSTURES 最後の謎

家で Intellectual IMPSTURES を読んでいたところ、娘と以下のような会話を交わすこととなった。

娘:パパ、なに読んでるの?

私:パパのお友達か書いた本だよ。おもしろいよ。

娘:へええ。なんていう友達?

私:アラン・ソーカルとジャン・ブリックモンだよ。 ジャンの家には君も行ったことあるよ。 赤ちゃんの頃だけどね。

娘:へえええ。それって、この人?

と娘は、本の表紙を指さしたのだった。 フランス語版の表紙にも出現していた水晶玉の向こうからこちらを上目使いに(というか半白目だな、こりゃ)見つめるあやしのおやぢ。 英語版になって、さらにアップで我々に迫ってきている。

Alan や Jean への厳しい攻撃にもじっと耐え、人間として最低などと言われても黙っていた私だが、これだけは、彼らの友人として言っておきたい。

このおやぢは、Alan でも Jean でもないぞおっ!

では、この紳士がどなたで何をしていらっしゃるのかというと、それは、原著者にもわからない謎なのであった・・


Id: #a19980731023312   (reply, thread)
Date: Fri Jul 31 02:33:12 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: Re: 用語の説明

川似さん、「言葉の混乱」で述べたことですが繰り返します。川似さんによる「一つだけ書くと、…」という Sokal に対する批判は的を外していますよね。 Sokal は ontology と epistemology という語をどのような意味で用いるかについて明確に説明しており、しかもその定義の仕方は標準的なものです。川似さんは、それを無視し、別の定義を採用した上で、「Sokal は誤解している」と思ってしまったのではないですか? 私は、 Sokal の「ontology に関わる主張、 epistemology に関わる主張、… を混同しないように気を付けよう、読者を混乱させるような言い方は止めよう」という意見はかなりまともなものだと思います。

私の判定では、今のところ、川似さんは、論証不足だったり、 Sokal の主張を誤解していたりで、 Sokal に対して何一つ有効な批判を為し遂げてないと思います。

実は、細かいことを言い出すと、川似さんの言葉遣いは他にも色々気になるところがあります。しかし、細かい話ばかりをして、話が発散するといけないので、上の一点だけについて述べることにしました。


Id: #a19980730201130   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 20:11:30 JST 1998
From: 川似央一 <oichi@earthlink.net>
Subject: 用語の説明

主要な用語をここにまとめます。繰り返しますが、ぼくは系統だった哲学の勉強はしたことがないので、これは、ぼくはこんなふうに理解して使っているという大雑把な説明です。

epistemological relativism(認識論的相対主義)/realism(実在主義)
認識論的相対主義は、認識論的な見地から自然科学の絶対性、普遍性を否定する立場だと思います。それに対して、実在主義は、絶対的、普遍的な自然が存在し、自然科学はそれに対応しているという立場だと思います。

epistemology(認識論)/ontology(存在論)
これらの用語の使い方が皆さんを混乱させてしまったようです。これらの用語は、ニュアンスのちょっと違う二とおりの意味で使えると思います。まず、皆さんもご存じのように、認識論と存在論は、metaphysics(形而上学)と並び、哲学を分類する大きなカテゴリーです。この意味では、認識論は「認識または知識に関する哲学」であり、存在論は「存在に関する哲学」ということになると思います。さらに、これが皆さんを混乱させたと思うのですが、これらを二つの異なる哲学的立場として理解することができると思います。ものごとを認識の問題として捉えることによって、存在の問題をものごとの根拠にすることを批判したり、その逆があるからです。この場合、認識論は「ものごとを認識の問題として捉える立場」、存在論は「ものごとを存在の問題として捉える立場」という意味になるでしょう。したがって、最初の意味(哲学のカテゴリー)では、どんな哲学者でも認識論と存在論を持っているでしょうが、二つ目の意味(哲学的立場)としては、認識論を支持して存在論を批判したり、またはその逆であることがあると思います。ところで、多くの場合、存在論を批判するといっても存在自体を否定するわけではないし、認識論を批判するといっても認識自体を否定するわけではありません。自然科学を認識の問題として捉えたカントも、「もの自体」という認識不可能な存在について考えたわけです。

そして、現代思想では存在論批判が広く行われてきたと思います。(ちなみに、現代思想の形而上学批判というのも有名です。)逆の例として、解釈の問題というのは認識論だと思いますから、以前メッセージの subject として使ったマルクスの有名なことば「哲学者は、世界をいろいろ違ったふうに*解釈*してきただけだ。重要なのは、世界を*変える*ことである」は、唯物論という存在論の立場から認識論を批判したものと理解することができるのではないでしょうか(そして、Meera Nanda の "The Science Wars in India" の書き出し "What do left intellectuals do when they know that they are too marginalized to change the world? They get busy interpreting the world, of course" は、この考え方に言及しています)。

黒木さんが紹介してくださった、伊勢田哲治さんの "Taking science for granted: naturalistic realism or NOA?" は、このへんの用語を理解するのに参考になると思います。読めるかたは、是非読んでください。


Id: #a19980730190833   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 19:08:33 JST 1998
From: 牧野
Subject: 中沢新一

「彼は、フラクタルはわかっていない」という発言をしたとされている科学者というのはたまたま私の大学院の時の指導教官だったりするのですが、彼が教授会の前に「雪片曲線論」を読んでいたのは事実です。

が、残念ながら実際の発言がどのようなものであったかはわかりません。

ところで、鴨さんが昔「雪片曲線論」についてなにかまとめていたような記憶がかすかにあるのですが、、、


Id: #a19980730183314   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 18:33:14 JST 1998
From: KAMO Hiroyasu <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: Re: hacker

プログラムのドキュメント書きを主な活動とするハッカーもありでしょう。
Id: #a19980730181925   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 18:19:25 JST 1998
From: 鴨 浩靖 <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: Re: 中沢新一さん

今は亡き「朝日ジャーナル」で、 両方の立場の当事者たちの主張を載せました。 興味があってお暇なら、探してみてください。 残念ながら、私の手元には残っていません。
Id: #a19980730181050   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 18:10:50 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 中沢新一さん

中沢新一氏の件というのは、ぼくはほとんど知らないのですが、どれくらいの事実が公開され確認されているのでしょう? (一般に人事の話というのは、秘密ですよね。)

ある「科学者」が、

彼は、フラクタルはわかってない。
と証言したのでダメになったという噂は聞いたけれど、それって、あまりにも情けないので、信じる気にはなれません。 (その科学者に、「あなたは・・・・・をちゃんとわかっているのか」と聞きたいという意見の人もいました。これは、別の方向に向かう話ですが。) フラクタルの定義(たくさんある内のどれかってことだけど)くらいなら、数学がわかれば、高校生だってわかるわけなので、
彼はフラクタルの定義はちゃんとわかっています。一様収束の定義も空んじているし。
という証言があれば、採用されただろうというストーリーじゃあ、悲し過ぎる。
Id: #a19980730180609   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 18:06:09 JST 1998
From: 鴨 浩靖 <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: Re: 日本での受け取り方等

たしかに、 自然科学者の自然科学への誤解のほうが、 被害は大きいですね。 実際のところ、 現代思想系の人の数理論理学についての戯言よりも、 数学者が数理論理学を誤解して学生や一般大衆に嘘を言ってくれることのほうが、 より切実に困ります。

具体例として、von Neumann の正則性公理について、 「集合論からRussellのパラドックスを排除するために導入されている」なんて、 数理論理学の初歩の知識があれば ただちにちょートンデモであることがわかることを、 本気で信じていて著書にそう書いている数学者が実在しているみたいです。 公理を追加して定理は減るわけないのだから、 公理の追加で矛盾が導かれないようにすることができるわけないっつうの。


Id: #a19980730174516   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 17:45:16 JST 1998
From: 田崎 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: followed の読みはそっちが正しいような気がしてきました。


Id: #a19980730173800   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 17:38:00 JST 1998
From: 牧野
Subject: 日本での受け取り方等

決して無関係とはいえない話に、中沢新一が東大教養学部に来そこなった件とかありますね。あの件では、社会科学教室のなかの政治的問題がどういうものであったにせよ、自然科学系のスタッフが採用に反対した理由の大きなものは自然科学に関してトンデモな講義をされるのは冗談じゃないというものであったように思います。実際に教授会でそういったことが議論されたということは西部の書いたものとかにも述べられていますし。

社会科学者が自然科学を誤解していないかどうかより、自然科学者が自然科学を誤解していないかどうかのほうが私は気になるんですが、まあ、こういうことが気になるのは年とったせいかも。

ところで、ちょっと気になったのですが、

We must hope that it will be followed
ってのは、
これからも続けていかなくてはいけない
ではなくて、 a lead (これを it が受ける)が follow される、つまり「従われる」ことを望む、言い替えれば「これらの科学者が親切にも助言してやってるんだから、それが受け入れられることを望む」っていう意味かと思ったのですが。
Id: #a19980730164723   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 16:47:23 JST 1998
From: 若く見える田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: きのうお約束した Sokal の Dawkins の書評へのコメント

Nature 7月号にのった Richard Dawkins による Inellectual IMPOSTURES の書評 "Postmodernism disrobed" (前にこの掲示板に書いた簡単な紹介があります)について、Alan Sokal の意見を聞いたところ、詳細なコメントを送ってくれました。 手紙から書評に関する部分を抜粋したものを見られるようにしましたので、興味のある方はご覧ください。 (黒木さん:この Sokal のコメントは、黒木さんのデータ集に入れるといいのではないでしょうか? もし適切と思ったら、そのままソース(すみません。未だに Mac を使っているので改行コードがおかしいと思います。もちろん、内容を変えなければ、フォーマットやリンクをいじっていただいて結構です。)を持っていて、そちらに置いて下さい。 Alan は了解ずみです。)

当然でしょうが、Sokal はぼくよりはずっと Dawkins に好意的です。 ただし、全てに大賛成しているわけでもありません。 特に Dawkins が暴走している最後の二つのパラグラフについての Sokal の意見を簡単に紹介しましす。

ぼくら日本人は、Dawkins は半ば冗談でめちゃめちゃ書いていると思いがちですが、ひょっとすると、彼は(というか彼の表明する怒りは)ぼくらが思っているよりもずっとマジなのかもしれないです。 特に、生物をやっていると科学論などのアホな人と接する機会が多いだろうと、アメリカにいる知人が言っていました。

ところで、Dawkins の書評は、日本語に訳して雑誌に載せる価値があるでしょうか? 今の所、一連の騒ぎに関連して、日本ではいわゆる「人文系」の人の書いたものしか出回っていないように思うので、科学サイドの強硬派の意見という点では面白い。 でも、日本の風土を考えると、ちょっと強硬すぎてバランスを欠くような気もします。 別に具体的なプランや話があるわけではなく、ただ自問しています。 みなさん、どう思われますか?


Id: #a19980730134453   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 13:44:53 JST 1998
From: はり〜ちゃん
Subject: 桜友会報

ホームページのお写真を拝見すると,実にお若く見られる, 田崎さんにとんでもないことを伺ってしまった気持ちです.

いやー,桜友会報っていうのをみたら「学習院女子大学 発足記念式典が挙行され,****殿下(皇族のなまえ) や****氏(お偉いさんのなまえ)から式辞をたまわり...」 とか,まーなんていうか,大学のお偉いさん好みの はなしと,とっても長い,寄付の賛同者リストなどがあったものだから, それに目がくらんでしまったのでしょう.大学の1面しか みてなくて,すみませんでした.


Id: #a19980730102657   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 10:26:57 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: わたしのつとめている大学

針谷さん、

事務の人にも守衛さんにも未だに学生と思われて過ごしている この私に、学習院を代表して何か言えとおっしゃるんですかい? そいつぁあちょっとご無体な。

確かに、私立学校としての自覚が芽生えるのに時間がかかった というような「大人の会話」を耳にすることはありますね。 でも、今は一つの私立大学でしょう。 (他の大学を知らないから、本当は断言できないわけだけど。)

研究者の立場からすると、 (少なくともぼくの回りには) 世間の流行を気にせずやりたいことを じっくりとやる空気があって、とても好きです。

こんな解答で、いいですか? (針谷さんのねらいがわからんぞ。 寄付をよろしくとか言った方がよかったかな?)

大豆生田さん、 ありがとうございました。 今度本屋さんに行ったら見てみます。


Id: #a19980730094615   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 09:46:15 JST 1998
From: はり〜ちゃん
Subject: 学習院桜友会報

うちの奥さんの手元にまた「学習院桜友会報」って いうのが来てましたが,それを拝見する限りは, やっぱなんちゅうか,私立大学であるって云う, 官から一歩二歩離れているような印象が薄いんですよね. まぁ,戦前は,宮内庁所管の「学習院」が前身だったりするし, 学校法人になっても,財界とか政界とかの人脈ある ひとたちが学校法人をささえているんでしょうから, そう云った伝統ある体質が続いているのでしょうか... 田崎さん
Id: #a19980730083619   (reply, thread)
Date: Thu Jul 30 08:36:19 JST 1998
From: はまだとらひこ
Subject: ながーい「承前」
現代思想8月号がでてたので、金森修氏の「サイエンス・ウオーズ」の続き「承前」を立ち読みしました。
Sokal事件の紹介と事件の評価まで書いてありました。
長い「承前」のあとこれからどんな話をするのか楽しみです。
(最後に「電子メールでご意見をおよせください」とあって、「やるなあ」と思いました。)

Id: #a19980729212753   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 21:27:53 JST 1998
From: はり〜ちゃん
Subject: 某ML

裏にて黒木さん:
> 雑誌『パリティ』だって物理畑以外の人がたくさん読んでいるのだ。

某YPMLだって,物理畑以外のひと(黒木さんとか 小柳さん@東京大学情報科学科とか etc)も,参加しておりますわね.


Id: #a19980729205802   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 20:58:02 JST 1998
From: YAMANE Shinji <s-yamane@vacia.is.tohoku.ac.jp>
Subject: reloadしたら

わっ、reloadしたらhackerネタが振られてた。 この件については来月書きたいと思いますけど、一言だけ。
RossのStrange Weatherをざっと読んだんですが、日本の文脈でRossを放置できない(反撃せざるをえない)人がいるとすれば、それは反動的物理数学屋(苦笑)ではなくてSCICOPに近い人か"ハッカーは、クラッカーじゃない。"と主張する会な人じゃないかと思いました。
ところでやっぱりハッカーは(論文も書かずに)ソースコードを書いてなんぼですね:-)。私のような小物はそういう人を仰ぎ見ながらその足跡を汚すまいとするのみです。いじめないで。
Id: #a19980729201628   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 20:16:28 JST 1998
From: YAMANE Shinji <s-yamane@vacia.is.tohoku.ac.jp>
Subject: Re: ソーカル事件の核心?

山根です。追記します。先に
Kristevaが簡単に「ブルバキ曰く...」と口走ってしまうのは前の世代がブルバキといっしょに仕事をしたせいもあると思います。レヴィ=ストロース「親族の基本構造」はブルバキのアンドレ・ヴェイユが協力した本です。これはまるで実証的な本ではありませんけど、Brichmontも批判しないんじゃないかな。
これは、まずレヴィ=ストロースの次の世代はブルバキとかの道具立ては譲りうけてるけど、科学との対話の水準が落ちているのではないかという意味で書いてます(その他の自称構造主義も同様)。もう一つは、レヴィ=ストロースの方法は実証主義とは言えないけど、それでも数学者と共同作業できるわけで、「知的詐欺」で攻撃されているのは実証主義の欠如じゃなくて安易な道具の拝借の仕方だってことです。
Id: #a19980729194804   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 19:48:04 JST 1998
From: KAMO Hiroyasu <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: hacker

今日は土用丑の日。近鉄西大寺駅の通路にも、鰻を売る店が出ています。

最近の状況では、 "cracker"との混同を正すほうに忙殺されて後回しになりがちなんだけど、 "hacker"は単なる尊称ではなく、 論文も書かずにプログラミングばかりしている というニュアンスも含まれる言葉だということも、 世間にアピールしたいなと思っている今日このごろです。

#ぎくっとした人は正直に名乗り出るように。

そのためには、 われわれの社会で「論文を書く」というのがどういう意味を持つのかを 理解してもらわなくてはならないので、 "cracker"との混同を正してもらうよりもさらに難しいことなんですけど。


Id: #a19980729174427   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 17:44:27 JST 1998
From: 大豆生田
Subject: 村上先生の科学論

村上先生は新科学哲学に立っているわけですが、 その科学論を知るには、 『新しい科学論』(講談社ブルーバックス) を読めば良いと思います。
Id: #a19980729173639   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 17:36:39 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: Re: Richard Dawkins による『知的詐欺』の書評

ぼく自身は、Dawkins の書評の紹介 の中でも「やり過ぎじゃないの」という常識的な感想をもらしていますが、 あれから何人かの人とあの書評をめぐって議論しました。

アメリカにいる知人は、Dawkins に 好意的な反応を示していました。 やはり危機感の強さだと思います。

Alan Sokal からも、Dawkins の書評についての 詳細なコメントをもらいました。 黒木掲示板でも紹介してくれと言うことなので、 近く(多分あした)紹介します。 今すぐやっていると、本業をやらない悪い子になってしまうので ちょっと待って下さい。


Id: #a19980729170127   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 17:01:27 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: Richard Dawkins による『知的詐欺』の書評

Richard Dawkins による『知的詐欺』の UK edition の書評がWWW上で読めるようになっていますね。

いやあ、これは凄いっす。 Dawkins は口が悪いですねえ。 Dawkins が確信犯で無茶苦茶書いているのは間違いないことなんで、山根さんが「やっぱりにやにや笑って読むべきでしょう」と言っている通り、真面目に怒っちゃ駄目なんだろうなあ。この Dawkins の書評が話題になっている場所を見付けたら、報告してもらえると助かります。 (自分で探索の旅に出る暇が今はない。)

以上の話とは関係ないですが、 Andrew Ross に対する山根さんによる批判の仕方は参考になりました。 Ross を批判するのに "hacker" という視点があるとは思いもよらなかった。

ところで "hacker" と言えば、 Ross は "Hacking Away at the Counterculture" というタイトルの論文を書いているのを御存じでしたか、山根さん? ほとんど読んでないけど、 "hakcer" をキーワードにした論文のようです。


Id: #a19980729165249   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 16:52:49 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: やや本音モードで

ぼくは、 Sokal 騒動を始めとした一連の話は、日本ではどのように紹介されるべきか(あるいは、すべきか)について悩んでいて、この掲示板を読み、掲示板に書きこみながら、考えを定めようとしています。 最近、みなさんがある意味でそれぞれに収束モードに向かってきているようですので、ぼくもぼくなりに、本音に近い所を書いてみたいと思います。 (今まで本音を隠していたというのではなく、自分自身、様々な迷いをかかえているということ。)

ところで、Prigogine については、彼が最近主張している「時間の矢」の問題へのアプローチのみならず、科学の「啓蒙」活動のあり方についても、大いに疑問を感じています。 既に Jean Bricmont (Jean の名が色々な話の固定点になっているみたいで妙ですね)が "Science of Chaos or Choas in Science?" (カオスの科学、それとも、科学の中のカオス?)という挑発的なタイトルの文章で、徹底的に Prigogine を批判しています。 これらの話題については、(自ら宿題に抱え込んでいることも一つあって)いずれ、書くことになると思います。


栗捨て場の集合論

Kristeva の集合論の例は、科学からの引用にあからさまな誤りはないので、ある意味で論点がはっきりすると思って引用しました。

ぼくは、 Kristeva に科学的な論理や方法論は要求しません。 それでも、同じ人類として(きしさんごめんなさい)共有できる何らかの「論理」は要求していいと思っています。

黒木さんの川似さんへのレスポンスと似たニュアンスになりますが、仮に、

と思うことにします。(ぼくは、そうは思っていませんが。) そうすると、
読者がこの「自明ではない論理」を何らかの意味で把握するために、集合論の命題を理解している必要があるのだろうか
という疑問が生じますね。 どっちなんでしょう?

仮に、「集合論の理解は必要ない」という方向で考えてみます。 (記憶が既に曖昧ですが)ユリシーズの中に、ブルーム氏が paralax (天文学用語の「視差」)ということばを繰り返し思いだそうとしているところがあります。 これについて、ジョイスが正しい天文学の知識を持っていたかとか、正しい参考文献を挙げているかとかを気にする人はいません。 天文学を離れた一つの「ことば」としての paralax というのが、「ことばでは言えない」役割を果たし、極めて独特の効果を生んでいます。 Kristeva の集合論というのも、そういうものだと捉えるべきだということになります。 彼女の集合論は、数学を離れたただの「ことば」に過ぎず、数学者の論理では知る由もないある(文学的、哲学的)必然性によって、国家論と並列に語られているということになるでしょう。 だとすると、ブルバキを引用したのは一種の内輪受けの冗談(アンドレ・ヴェイユ(昔、Princeton の研究所の食堂で見かけたなあ。おじいちゃんだった。)の妹がシモーヌ・ヴェイユですよね、確か。)と考えるべきだということになります。 でも、本当に、それでいいのかな? そうなると、随分ちゃちなもののようにに見えてきてしまうけれど。

逆に、「集合論の理解は必要である」とすると、もっと大変なことになります。 数学にも哲学にも通じたごくごく一握りの人々のみが Kristeva を理解できるということになるけれど、だったら、何故 Kristeva が評価されたのか不思議ですね。 また、ブルバキをひいたのは不誠実、ないしはひどく不親切ということになります。


社会構成主義、あるいは科学を「一つの物語」と見る立場

扱っている対象が、神話、文化・社会の構造などなどである場合には、実体概念を基盤にした議論よりは、関係性を中心にした視座で問題をモデル化・理解する方が優れているということは、ぼくも納得します。 その中で、社会構成的なアプローチが生まれ、その中で(かなり大ざっぱになって、少しやばいですが)美観、倫理観、価値観といったものの相対性(と普遍性)を解析していくというのも、自然で正しい考え方の一つだと思います。

そして、その路線をやみくもに科学批判の領域にまで押し進めれば、「ある共同体に支えられた一つの物語としての科学」という観点に到達するのはごくごく自然だと思います。 しかし、ある人間にとって自然だというだけでは、ほとんど意味はありません。

どのようなアプローチであろうとも、モデル化の有効性、実効性、論理性などについての厳しいチェックを行い、別のアプローチによるモデル化との厳しい比較を行う必要が必ずあるはずです。 そして、科学への視点という点については、社会構成主義的なアプローチは、全く誤っているという結論がでると信じています。

科学が完璧だなどとはこれっぽっちも思っていませんし、実際の科学の現場には社会学的なドロドロした要素がものすごくあるのは明らかな事実です。 しかし、時間をかけてドロドロの中から抽出された「普遍的な構造」たちは、明らかに人間の知恵を越えた真理と美しさを持っています。 ただこう書くだけでは説得力には欠けますが、いくらなんでも他人の掲示板で大論説を展開するわけにはいかないので、深入りした議論はしません。


危機感

ぼくには、未だ漠然たるものですが、危機感はあります。

どなたかも書かれていましたが、アメリカでは

進化論も創造説もどちらも仮説に過ぎないのだから、一方を特権的に扱わずに、対等に教えよ
という法律が出来たりしているわけです。 これは、表面的には科学と religious fundametalism の対立の問題ではあるのですが、社会構成主義、あるいは、相対主義的な立場というのは、こういう傾向を助長するものだと思います。 科学も、社会的な構成の産物でしかなく、神話などと同じく一つの「お話」に過ぎないという立場は、上のような反科学的な考えに対する『理論的』サポートを与えるからです。

というわけで、ぼくは、

相対主義的な科学観がはびこることで、科学が矮小化され、かつ反科学的な風潮に拍車がかかるのではないか
という危惧・危機感を持っています。

川似さん、黒木さんがおたずねになっていた日米の差というのは、ごく素朴には、危機感の切実さの差です。 そもそも、Alan Sokal という昔からの友人があんな無茶苦茶をやったということ事態がぼくにはショックであり、Alan は決して科学に行き詰まって退屈していたのないことも知っている以上、彼の危機感は並大抵ではないだろうと感じたわけです。 また、アメリカ在住の非常に幅の広い知識と視野を持ったある日本人と関連する色々な話をすると、彼が非常に真摯でかつ切羽詰まった危機感を感じていることがわかります。 アメリカ物理学会の月刊誌である Physics Today にも、たとえば、March, 1996. April 1996 の二号にわたって、David Mermin による Harry Colins と David Pinch の "The Golem" という科学論の本の批判が載っていたりして、ある種の反科学的な風潮(創造説と Collins-Pinch はかなり次元の違うものです、もちろん)に対する警戒感がうかがえます。 (実は、Merimn は、October 1997 の Physics Today で、Latour の弁護を書いています。 これに対する(例の Gross-Levit の)Gross らが反論した手紙と Mermin の再反論が April 1998 にあります。 Mermin の最初の主張は、本質をついていないと思うし、その後の反論も些末に流れて、 Mermin の思う壷というところがあります。 ぼくは、Mermin の書くものは好きだったのですが、これにはちょっと幻滅しました。) また、ぼくがアメリカの大学にいたときにも、前の年にぼくのクラスにいた学生がやってきて、「今やっているゼミで『この世に客観的な真理などはなく、科学の真理と称されているものは全て科学者どうしの社会的合意の産物にすぎない』という主張の本をよんでいるのだけれど、本当にそうなのか?」と質問したことがありました。 今にして思えば、ばりばりの社会構成主義的科学論の本だったわけです。

日本では、それほどの危機感が感じられない一つの理由は、(島国で輸入学問のをやっていることの一つの現れとして)異なった分野の間の壁が非常に高く、みなさんお行儀よく他分野には口を出さないという風潮があるためだと思っています。 それでも、黒木さんのまとめられたリンク集などをたどると、我々もうかうかしていられないのではないかという気がしてきます。 特に、短期間で切実になるかもしれないのは、理科教育の問題です。 理科教育の現場に社会構成主義的な科学観が浸透してしまうと、様々な意味で大きな弊害がでると思います。

村上陽一郎の「科学者とは何か」(新潮選書)は、(お茶の水博士的な?)全てをバランスよく考えることのできる万能の知恵者としての科学者神話を崩し、個別分野に閉じこもり独自の規範に従って閉じた世界で活動する科学者の姿を描いてみせてくれる本です。 (と、ぼくは、理解した。) この本に根本的な誤りはないと思います。 しかし、作者は「科学とは何か」には踏み込んでいないので、この先

  1. 科学者とはこのように大したものではない。 しかし、そのような科学者たちの盲目的な活動の末に蓄積・抽出され、徐々に姿を現してくる世界の「普遍的な構造」は素晴らしいものである。 つまり、科学者は大したことないけど、科学は素晴らしい。
  2. 科学者とはこのように大したものではない。 しかも、ますますその質は低下している。 そのような連中が突き進めて、身内で作り上げる「科学」なんて大したもののはずがない。 つまり、科学者は大したことないので、科学も大したことない。
という二つの分岐のどちらに進みたいのかは即座にはわかりません。 ぼく自身は、1 に賛成するわけだけれど、多くの読者がこの本の論調をそのまま延長すれば 2 の結論に到達するのではないか(あるいは、それが著者の意図ではないか)と危惧します。

ついでに、この前本屋さんに行ったら、「ラカンの量子力学」というそのものずばりみたいなタイトルの本が山積みになっていました。 恐くて、ちゃんと見なかったけど・・


この後に、科学の側でも「科学とは何か」、「科学の素晴らしさとは何か」をちゃんとみんな一人一人が考えるべきだという話を書きかけたのですが、話が発散して崩壊したので、今日はやめておきます。 既に書きすぎてますよね。
Id: #a19980729162733   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 16:27:33 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: 言葉の混乱

sk さんは7/25に川似さんに対して次にような質問をしています。

川似さんが「黒木さんの予想」でおっしゃるには:
>く自身も、認識論的相対主義には反対です。相対主義に反対だし、存在論
>を支持しています。

この「存在論」というのが「存在するもの一般についての哲学的な研究、存在
することについての哲学的な研究」という普通の意味だとすると、別に何かの
立場というわけでもない「存在論を支持しています」というのがどういうこと
なのかわたしにはよく分かりません。川似さんは「存在論」をどういう意味で
使っているのでしょうか。

さらに、 sk さんは7/29に「ほとんど濫用と言っていいくらい哲学用語をラフに使っている云々」と厳しい指摘を繰り返しています。

これとは別に、私は、川似さんの7/27の掲示に対して、同日7/27に次のような質問をしました。

川似さん曰く、

一つだけ書くと、epistemology(認識論)と ontology(存在論)を混乱していると Sokal は批判しますが、認識論者にとって存在論は無意味というか批判の対象なんです。存在とか本質とか話し出すと、認識論の批判性がなくなってしまうと思いませんか?

ここで、川似さんが何を言わんとしているのか、私には理解できないです。「より明晰な議論を展開するために、認識論的側面について述べているのか、存在論的側面について述べているのか、…、それらの区別をはっきりさせよ」という Sokal の主張と、「認識論の優位性の信奉者は、存在論は認識論に帰着できる、と考える」という話の間に矛盾はないと思います。そういうことではないのですか?

こうやって並べてみると、川似さんは、 sk さんが 7/25 に指摘した用語の混乱をそのまま 7/27 でも引きずっているように見えます。

一方、川似さんが批判しているところの Sokal は ontology, epistemology, ..... を次のように定義しています(Sokal, April 1997)。

  1. Ontology. What objects exist in the world? What statements about these objects are true?

  2. Epistemology. How can human beings obtain knowledge of truths about the world? How can they assess the reliability of that knowledge?

  3. ....................

この定義の仕方は、大雑把ではあるかもしれませんが、かなり常識的なものだと思います。

以上のことから、上で引用した川似さんによる「一つだけ書くと…」という Sokal 批判は、川似さんの混乱に基いており、間違いである、と現在では考えています。この結論が正しいとすれば、幾つかの点において「Sokal は誤解している」と川似さんが誤解している可能性について、真面目に調べ直してみる必要があると思います。

その事始めとして、私も sk さんと共に次のように質問します。川似さんは ontology や epistemology などの言葉をどのような意味で用いているのですか? 川似さんの用語の定義は上で引用した Sokal の定義と全く異なるのですか?


Id: #a19980729015533   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 01:55:33 JST 1998
From: YAMANE Shinji <s-yamane@vacia.is.tohoku.ac.jp>
Subject: Re: ソーカル事件の核心?

御無沙汰しておりました。山根と申します。

ちょっと前の話ですが、オリエンタリズムとドゥルーズについてコメントを。
川似さんがJul 27に、

「オリエンタリズムの批判家たちが開けた扉を、西洋の権力が蔑んだものなら何でも称揚する逆オリエンタリストが闊歩している」というのは、オリエンタリズム批判をまったく理解しいない議論だと思います。そういうことがあるとしたら、それこそ俗化されたオリエンタリズム批判であって、Nanda 本人もそれがわかっていないのでしょう。
と批判されていますが、俗化されたオリエンタリズム批判で何が悪いのでしょうか。私にはNandaの記述は「オリエンタリズム批判はヨーロッパ中心主義を脱構築したんだけど、オリエンタリズムを引き受けてしまう連中に対する批判を忘れている」という正当な指摘だと思うんですけど。

Nandaさんとしては、「ヴェーダの数学を学校で教えるのじゃー!」というヒンドゥー原理主義の教育政策を放置しがたいわけです。もし数学の授業がヴェーダ(日本でいえば記紀)をもとにするとしたら、近代の超克(苦笑)どころかルイセンコ事件級の科学の危機ですよ。(だいたい、ヴェーダの数学を再構築した先代shankaracharya (1884-1960)って何者なんだ。)実はNandaはソーカル事件やオリエンタリズム批判にからめる必要は全然ないんだけど、キャンペーンとしては面白い戦略だと思います。インドの植民地知識人に対して日本の植民地知識人が「お前の理解は正当的ではない」と仲間割れしている場合ではないでしょう。

川似さん曰く:

余談ですが、皆さん、プリゴージンのような科学者をどう思います?Delueze はプリゴージンの自然科学の研究に影響を受けて(略)
本当に仕事が重なっているのならドゥルーズはプリゴージンと一緒に非線形的な:-)本を書いたでしょうね。ちなみにDeluezeは日本の道元の思想にも関心を持っているとインタビューで語ったこともありますが、当然ながら誰もその思想的影響には注目していません。そういった親和性をいちいち追っかけてもしょうがないからです。おそらくドゥルーズにとっては道元もプリゴージンも似たような知的好奇心の対象だったのではないかと個人的には思っています。こういった態度は権威主義というよりはむしろオリエンタリズムに近い。

P.S.
Kristevaが簡単に「ブルバキ曰く...」と口走ってしまうのは前の世代がブルバキといっしょに仕事をしたせいもあると思います。レヴィ=ストロース「親族の基本構造」はブルバキのアンドレ・ヴェイユが協力した本です。これはまるで実証的な本ではありませんけど、Brichmontも批判しないんじゃないかな。

どうもフランスの文人たちの間に「日本の伝統や数学の危機について当然知っておかなければならない」というようなファッションがあるのではないかと思ってます(しかもどちらも変)。


Id: #a19980729003801   (reply, thread)
Date: Wed Jul 29 00:38:01 JST 1998
From: sk
Subject: Re: Kristeva と集合論
田崎さんが「Kristeva と集合論」でおっしゃるには:
>       問題については、ブルバキを参照。また、無意識の機能と集合論の
>       関係については D. Sibony 「無限と去勢」Scilicet, No.4 1973, pp.
>       75-133 を参照。) 
>       詩的言語の革命 (1974) より 
>
>この先もあるのですが、ぼくには理解し難くなってくるので、ここで止めまし
>た。 (すでに「無限と去勢」にはぶっとびますが。) この先の意味も分かる人
>がいたら教えて下さい。 

ぶっとびついでに付け加えると、このダニエル・シボニーという人はもともと
は数学者で、後にラカン派精神分析家になった人です。

ジョラン編「何のための数学か」(東京図書)にシボニーの論文が収録されて
います。

P.S. 田崎さん、用語の整理ありがとうございました。
ほとんど濫用と言っていいくらい哲学用語をラフに使っている(Realismと
Ontologyを同じ意味の言葉として使っている)にもかかわらず、議論に支障が
ないのはすごい(^_^;と思いました。

Id: #a19980728202121   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 20:21:21 JST 1998
From: 川似央一 <oichi@earthlink.net>
Subject: 批評

鴨さん曰く、

批評もまた文化的活動です。[中略] 当然、批評の対象にもなります。

もちろんです。

[批評は] 他の文化的活動と比べて、いかなる特権的立場にもありません。

これは、それこそ哲学的な問題だと思いますし、ぼくには難しくてわかりません。でも、相対主義に反対のぼくは、あえて、批評は特権的立場にあると言いたい気もします。ところで、自然科学は一種の批評の構造を持った典型的な活動ではないでしょうか。「科学的方法」という批評によって、近代的な自然科学は「進歩」してきたのだと思います。

それだけのことです。

ですから、ぼくには「それだけ」と言って切れないものがあります。やはり何が「正しくて」、何が「正しくない」のか、考えたい気がします。こういう言い方すると、偽善っぽいというか、偉そうに聞こえますが。


Id: #a19980728195935   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 19:59:35 JST 1998
From: 川似央一 <oichi@earthlink.net>
Subject: 美的感覚

黒木さん曰く、

しかし、数学や自然科学畑の人達が感じている嫌悪感はこれだけでは説明できないと思います。美的感覚のずれにも注目すべきです。

しかし、黒木さんのコメントはいつも鋭くて勉強になります。例えば「理系」や「文系」といった文化というのは、それぞれ特有の「美的感覚」を持っているでしょうね。美的感覚というのは、それこそ構築物として批判的に分析されるべきことだと思うんです。しかし、肯定的に受けとめられるべきところも確かにあると思います。美的感覚とか直感とか欲望とかに「自然」なこととして無批判に従うことに疑問はあるのですが、でも、そういった批判を何が保証するのかも疑問です。何かここには存在論的なものを感じてしまいます。自然科学者にとって自然が自分の認識に関係なく未知の実在として「向こうから」やってくるように、美的感覚や直感や欲望も「向こうから」やってくるような気がします。自分の肉体だとか、文化だとか、何か避けられないものとして。でも、それはある種の自由ではないかと感じます。未知という自由とでも言うか。認識論には、そういった自由がないような気がします。そして、そういう{存在}が、「理系」や「文系」が同じものの違った属性でしかないことを保証してくれるような気がします。ですから、批判への欲望という自然に、耳を傾けてみようかと思うのです。って、ハズカシイことを書いてしまいました。

ところで、以前ポストしたコメントで、「自分は能力がないから説明できないけど、そういうもんなんだ」みたいなことを書いてしまいましたが、それって説得力ないというか、逃げですね。


Id: #a19980728165650   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 16:56:50 JST 1998
From: 鴨 浩靖 <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: Re: ソーカル事件の核心?

批評もまた文化的活動です。 他の文化的活動と比べて、いかなる特権的立場にもありません。 当然、批評の対象にもなります。 それだけのことです。
Id: #a19980728083726   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 08:37:26 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: 美的感覚のずれもあると思う

川似さん曰く、

「批評(批判)の道具としての可能性を持った、現代の優れた知を構築するテクストまたは概念として、文学や哲学や社会学や言語学や精神分析や音楽や美術や映画と同じように、自然科学がそこにあったから。」そして、こういった思想の「素晴しい価値」とは、批評の力という一言に尽きると思います。

ええ、こういう主張には一般論としては私も賛成です。批評(批判)においてだけではなく、文化的なあらゆる活動において、数学や自然科学のテクストや概念やそしてそれらの持つ雰囲気は利用されてしかるべきだと思います。

しかし、批評(批判)は他人の思想や行動に影響を与える活動です。だから、単なる内輪の何をやっても許される文化的活動であるとは言えません。ある種のやり方で他人の思想や行動に影響を与えようとすると、他の誰かがそれを迷惑と感じるかもしれない。摩擦が生じることを防ぐことはできないと思います。

以下は私の個人的なまとめです。

Sokal が批判のターゲットにしているような、数学・物理学概念を曖昧にしたり神秘化したり場合によっては意味を完全に書き変えたりすることによって、政治・社会・文化方面の話題に関連付けることが、単に科学の観点から間違っているという理由で問題にされているのではなく、その社会的影響はどのようなものであるか、すなわち、それによって生じる「伝言ゲーム」の帰結がどうなるか、について心配だから問題にされているのだと理解しています。 Sokal 氏の見方は大旨このようなものだと思います。実際、影響力の大きそうな人物の発言のみがターゲットになっています。

しかし、数学や自然科学畑の人達が感じている嫌悪感はこれだけでは説明できないと思います。美的感覚のずれにも注目すべきです。

批評の価値は、それの真偽やその政治的影響という観点だけからではなく、特に美的観点からも測られるべきです。しかし、数学の研究者の私の美的感覚のもとでは、 Sokal が見繕った多くの引用文は数学的に美しい概念達を大無しにしていると感じられるのです。どこかで感覚がずれている。どこがどうそうなのかと言われても、美しい・汚ないという概念を言葉で表現するボキャブラリーに乏しい私がうまく表現できないのは非常に残念なことです。しかし、そういう私自身の美的感覚に対しても、それなりに敬意を払ってもらいたいという希望はある。(これって、わがままか?)

最後に便乗質問。川似さんと同じく、私も「日本とアメリカでの受け取られ方の差」が具体的にどういうことなのかわかりません。どなたか教えたください。

P.S. 「内緒ですけど。;-)」なんて言うと、探す人が出てくるんじゃないかなあ…。ここ読んでいる人達の中には探すのが好きな人がたくさんいるようなので結構恐いです。 (^_^;)


Id: #a19980728063715   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 06:37:15 JST 1998
From: 川似央一 <oichi@earthlink.net>
Subject: ソーカル事件の核心?

黒木さん曰く、

Kristeva の思想は「実証主義的な真理を否定する思想」であるなら、どうしてわざわざ、 Bourbaki を refer した上で、集合論の言葉を滅茶苦茶な形で使ったりするのでしょうか? 「どうしてわざわざ?」という文句の付け方は、Sokal が他の多くの例にも適用できますよね。 Deleuze は、科学用語としての「カオス」を全く理解してないのに、科学と哲学を比べるための題材として、どうしてわざわざ「カオス」を選んだのか? Latour はどうしてわざわざ Einstein の相対論に関するテキストを選んで、その科学的に滅茶苦茶な解釈を書いたのか?

また、

これらの「どうしてわざわざ?」という疑問に対して、「我々の内輪の世界ではそうすることは奇妙ではない」と反論するだけでは、説得力が全く無いんです。説得力を持たせたければ、その考え方がどのように素晴しい価値を持つのか、について外部に説明する努力をすべきです。

これらの黒木さんの疑問こそは、「ポストモダン」側と Sokal 側のギャップを理解する鍵かもしれませんね。非力なぼくが何十 KB の文字を連ねたところで不毛というより誤った理解の原因になると思うので、もうこれ以上長くは書きませんが、ぼくが考えることを手短に言うと、前半の疑問への回答はこういうことになるでしょうか--「批評(批判)の道具としての可能性を持った、現代の優れた知を構築するテクストまたは概念として、文学や哲学や社会学や言語学や精神分析や音楽や美術や映画と同じように、自然科学がそこにあったから。」そして、こういった思想の「素晴しい価値」とは、批評の力という一言に尽きると思います。こんなことのみをここで言うことが何の説明にもなっていないだけでなく、さらなる不信感を誘ってしまうかもしれないこを承知で書きますが。何かいい解説をウェブ上ででも見つけたらお教えしたいと思います。

それから、もちろん、Sokal が引用したような文章がすべてそういったクリティークに成功しているか、または今でもそういう力を持っているかは別の問題です。皮肉なのは、「二つの文化」の境界を横断する線を見つけようとした彼(女)らの思想が、Sokal 事件のような反応を引き起こしたこですね。"Transgressing the Boundaries" というパロディーの題名が端的に示しているように。

あと、実証主義/ポスト実証主義という表現をぼくは、分析哲学か大陸哲学かに関わらず存在する問題を指し示すために故意に使いましたが、Kristeva や Delueze などの黒木さんが上で挙げているような例(ぼくが "2" として示したものの一種)は、やはり分析哲学/大陸哲学という違い、さらに大陸哲学でも特にフランスの思想の特徴が引き起こす問題でしょうね。

ところで、「日本とアメリカでの受け取られ方の差」ってどんなことですか?

余談ですが、皆さん、プリゴージンのような科学者をどう思います? Delueze はプリゴージンの自然科学の研究に影響を受けて、その後、今度はプリゴージンが Delueze の哲学に影響を受けたらしいのですが、こういう出来事のまれな例でしょうね。

あと、訂正なんですが、realism は「現実主義」ではなく「実在主義」と哲学では訳すようです。

P.S. ぼくも遊びのウェブサイトはいろいろ持ってますよ>黒木さん。内緒ですけど。;-)


Id: #a19980728053651   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 05:36:51 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: Arthur Fine's "The shaky game Einstein Realism and the quantum theory"

はまださんが紹介して下さった Arthur Fine の "The shaky game" の邦訳

シェイキーゲーム : アインシュタインと量子の世界 / Arthur Fine [著] ; 
町田茂訳. -- (BN07919524)
  東京 : 丸善, 1992.6
  xii, 306p ; 19cm
  注記: 参考文献: p 297-304
  ISBN: 4621037250
  別タイトル: The shaky game Einstein Realism and the quantum theory
  著者標目: Fine, Arthur ; 町田, 茂(1926-)
  分類: NDC8 : 421.3 ; NDC8 : 420 ; NDLC : MC24
  件名: Einstein, Albert, 1879-1955 ; 物理学 ; 実在論 ; 量子論 ; 量子力学

を他に読んだ人っていますか? 何が書いてあるんでしょうか? Fine's NOA (natural ontological attitude) に関する議論は、きくちさんが「量子力学の前提は、「日常のできごとは常識に従う」でしょう」と述べていたことと関係しているのかな。

ところで、日本語の学術書を探すときには、 NACSIS Webcat が結構便利ですよね。


Id: #a19980728011915   (reply, thread)
Date: Tue Jul 28 01:19:15 JST 1998
From: きくち
Subject: 米米くらぶ

たとえば、日本とアメリカでの受け取られ方の差については、 「大学教授調書」(サイクス、化学同人)の論調なども 参考になるのではあるまいかしら。

やっと雑用が一段落ついたので、ものを考えるモードに 戻れるかもしれない。


Id: #a19980727220102   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 22:01:02 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: Re: 実証主義/ポスト実証主義

川似さん曰く、

一つだけ書くと、epistemology(認識論)と ontology(存在論)を混乱していると Sokal は批判しますが、認識論者にとって存在論は無意味というか批判の対象なんです。存在とか本質とか話し出すと、認識論の批判性がなくなってしまうと思いませんか?

ここで、川似さんが何を言わんとしているのか、私には理解できないです。「より明晰な議論を展開するために、認識論的側面について述べているのか、存在論的側面について述べているのか、…、それらの区別をはっきりさせよ」という Sokal の主張と、「認識論の優位性の信奉者は、存在論は認識論に帰着できる、と考える」という話の間に矛盾はないと思います。そういうことではないのですか?

川似さんによる Kristeva の擁護は皆が納得できるような擁護にはなってないと思います。 Kristeva の思想は「実証主義的な真理を否定する思想」であるなら、どうしてわざわざ、 Bourbaki を refer した上で、集合論の言葉を滅茶苦茶な形で使ったりするのでしょうか? 「どうしてわざわざ?」という文句の付け方は、 Sokal が他の多くの例にも適用できますよね。 Deleuze は、科学用語としての「カオス」を全く理解してないのに、科学と哲学を比べるための題材として、どうしてわざわざ「カオス」を選んだのか? Latour はどうしてわざわざ Einstein の相対論に関するテキストを選んで、その科学的に滅茶苦茶な解釈を書いたのか?

これらの「どうしてわざわざ?」という疑問に対して、「我々の内輪の世界ではそうすることは奇妙ではない」と反論するだけでは、説得力が全く無いんです。説得力を持たせたければ、その考え方がどのように素晴しい価値を持つのか、について外部に説明する努力をすべきです。

ちなみに、私が支持できそうな「構築主義の方法論的側面」について自分なりに説明しようとしたのは、自分にとっても価値がありそうに見える考え方が何であるかを表明しておくことは大事なことだと思ったからです。そして、それが行き過ぎた批判へのささやかな防波堤として意味を持てば良いなと考えたのです。“常識”をどうやって有効に批判するかを真面目に考えることは大事なことだと思います。 (ただし、そういう考え方を支持することと Sokal が展開している批判活動を支持することが矛盾するとは考えていません。)

P.S. 1. さすがと言うか、なんと言うか、川似さんの膨大な文章量には圧倒されております。 (これは私だけではないでしょう!) 川似さんの書いたものをきちんと読みこなせてなくて、失礼なことを言っている場合もあるかと思いますが、お許し下さい。余りにも神経質になると何も書けなくなってしまうので…。私が知る限りにおいて、学問的な背景に基いた読ませる文章を書ける人のWWW上での需要はかなり高いです。川似さんは是非とも自分自身のウェブサイトを持つべきだと思う。例えば、 http://www.geocities.co.jp/http://www.geocities.com/ はタダでウェブページが置けることで有名ですよね。 (忙しいなら止めた方が良いかもしれない…。)

P.S. 2. 伊勢田哲治さんのウェブサイトは大変面白い。例えば、はまださんがちょっとだけ触れていた Fine's NOA (natural ontological attitude) が Taking science for granted: naturalistic realism or NOA? で扱われています。


Id: #a19980727175155   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 17:51:55 JST 1998
From: 川似央一 <oichi@earthlink.net>
Subject: 実証主義/ポスト実証主義

海法さん曰く、

 量子力学を安易に引用するのは問題がある、という点で合意は取れたわけですね。
 また、理系の人間…非社会学の人間が社会学の文章について、自分の不勉強を棚にあげて一方的に難解だと主張したり半可通な印象批判をすることは当然あるでしょうね。

田崎さん曰く、

科学以外のことを考えるときに、科学で「わかったこ」、「わかりかけてること」、「わかると思ってたのに真面目に考えるとちっともわからんということがわかったこと」などなどを何らかの形に役立てるという試みだって、決して最初からダメと決まっているわけではないと思います。

少なくともこれらの点については、海法さんと田崎さんとも意見が一致したように思います。皆さんとかなりいろいろなことが共有できたと思いますし、また、何人かのかたがたのコメントを読むと、ここで議論したところで埋められないギャップがあるとも思いますし、このへんで止めようかと思います。でも、田崎さんの Kristeva の議論への疑問を見ると、やっぱり一つだけ言っておきたい気がします。そこで、最後に、まとめ的な意見を書かせてください。(ものすごく長いです。)

最初に書いたように、すべては実証主義/ポスト実証主義の問題が起因しているようにぼくには思えるのですが、「ポストモダニズム」の自然科学への言及に対する Sokal と皆さんの批判には三つのタイプがあるように思えるんです。問題を理解する努力として、ここに整理してみます。

1.
自然科学の理論の誤った記述。例:Delueze のカオス理論への言及("What the Social Text Affair Does and Does Not Prove" に引用されている)
2.
自然科学の理論と人文社会科学の言説を何らかの形で関係づける議論に関するもの。例:Aronowitz の量子力学による時計的時間の慣習性の「証明」、及び、Kristeva の集合論とマルクス主義的国家論の類似性の指摘。
3.
科学哲学の内容自体に関するもの。特に構築主義への批判。例:Latour の「自然の表象=自然」の議論。

Sokal 自身は "What ..." のなかで、批判の対象をこう分析しています。

Now, what precisely do I mean by ``silliness''? Here's a very rough categorization: First of all, one has meaningless or absurd statements, name-dropping, and the display of false erudition. Secondly, one has sloppy thinking and poor philosophy, which come together notably (though not always) in the form of glib relativism.

ぼくが "1" と "2" に分類したものは Sokal の "First of all" に入り、"3" として分類したものは "Secondly" にあたるのだろうと思います。

"1" について考えてみます。Sokal は "What ..." のなかで Deleuze のカオス理論への言及を引用して批判しています。カオス理論を知らないぼくにはわからないのですが、何か変なところがあるのでしょう。そして、そういう誤った自然科学の理論を宣伝してしまう文章はもちろん問題がありますね。しかし、Delueze はここでカオス理論を自然科学的に正しく説明することを目的とはしていないこともまた事実です。この本を読むとわかりますが、Delueze はここで哲学と科学の違いについて考えています。そして、両者に共通の一つの対象としてアオスを挙げ、哲学と科学の違いをカオスに対する態度の違いとして説明しようとしています。Sokal が引用している節の "To slow down is to set a limit in chaos to which all speeds are subject" という部分は、Delueze が考える科学のカオスに対する態度の記述であり、"To slow down" とうのは自然科学の「速度」の概念について言っているのではなく、哲学的な概念として使われています。その後のカオス理論についての記述は、Delueze が "slow down" と表現することを行うために自然科学は速度をどのように扱うかという(誤っているにせよ)「自然科学的な」説明です。ですから、もしここでカオス理論の記述が誤っていたとしても、「科学とは slow down することだ」という Delueze の目的である哲学的議論は、それだけでは偽にはならないのではないでしょうか。ぼくが言いたいのは、Delueze はここで「科学」しているのではなく、科学について「哲学」しているということです。

これに関連して、"2" に進みます。田崎さんが引用してくださった Kristeva の集合論と国家論の話ですが、ぼくには「無限」という概念が集合論や精神分析でどういう意味を持つのかわからないので、確かではありませんが、言っているのはこんなようなことではないでしょうか。まず、マルクス主義的な国家の理解というのは、「資本者階級のためのさまざまな運営をするもの」ということだと思います。すなわち、労働者階級の利益は考えられていないという。で、《有限的な集合というのを、国家を構成する個人と考えると、有限的な集合の集合というのはありえないという数学の理論は、マルクスが言う、個人すべての集合としての国家というのは幻想だという議論と同じである。有限的な集合が集合を作ろうとすると、無限とうものが必要になる。マルクスも同じように、資本者階級が自分たちのために国家という集合の幻影を実現するために、何かが(労働者階級などが)欠けている集合という国家を作り出すことを指摘した。そしてここで作り出された無限は、他の集合(国家)と共有されることができない。国家イデオロギーとは、無限という幻想に支えられた一つの閉じたシステムなのである。》

とりあえず内容はどうでもいいと思うのです。問題は、「なんとなく似ている。おもしろいことであるよなあ」という以上のものかという疑問だと思います。まず、「似てるけど、それが国家理論として有効だとでも言いたいなら(そんなもん有効なわけないけど)、ちゃんと「科学的に」証明してよ」という意見があるのではないかという予感がします。ですが、Kristeva はここで実証主義的な科学をやろうとしているわけではないのです。まったくその逆と言うか、実証主義的な真理を否定する思想なわけで、「科学的じゃない」とかいう批判とは噛み合いません。Kristeva のように言語学に夢中になった世代は、確かに「科学的」な議論を好むところがあります。しかし、ここで「科学的」というのは、「理論的」という意味であって、「自然科学的」ではなく、ましてや「実証主義的」はありません。Delueze にしろ、Lacan や Irigaray にしろ、実証主義はありえないという理解の上で、自然科学の言説を利用した理論を構築しいるんです。そして、こういった思想家は典型的に、思想の「内容」というよりも、その言葉の形式であるとか、方法であるとか、効果などを重要視するところがあります。誤解を恐れず単純に言えば、「科学」しているのではなく「哲学」しているんです。デカルトが哲学に利用した光学の理論が今では誤っていることが明らかだからといって、デカルトの哲学自体が無意味になるとは言えないということを、念のため確認したいと思います。そして、こういった自然科学の基準では「証明」できない人文社会科学の理論が、自然科学を理解する道具になることもあるのです。

例の Aronowitz の量子力学の議論についても考えたいのですが、長くなりすぎるので、"3" に移ります。信じてもらえないようですが、認識論的相対主義(epistemological relativism)というのは別に「奇異」ではないですよ。ちょっと勘違いがあるのではないかと思うのですが、認識論的相対主義というのは、「意識の外に世界があるか」とかそういう問題とはまた違います。普遍的、非歴史的な自然の認識がありえるのかという問題だと思います。構造主義以降、「自然」とは表象であるというような議論は、そんな驚くようなことではありません。例えば、男女の差異というのは生物学的な本質ではなく、文化的な認識でしかないとか、そういう議論を聞いたことありませんか? 別に生物学を否定しているのではなくて、「差異」というのは認識でしかなく(逆に言えば認識というのは常に差異化であって)、したがって文化的なものだと。虹という「自然」を七色と認識(差異化、分節)する文化もあれば、六色と認識する文化もあるとか。こういう例を出すとまたいろいろ疑問を呼びそうですが、基本的にそういう類の問題だと思うのですが。ところで、Sokal は "What ..." でこう書いています。

... I think most scientists and philosophers of science would be astonished to learn that ``the natural world has a small or non-existent role in the construction of scientific knowledge'', as prominent sociologist of science Harry Collins claims[10]; or that ``reality is the consequence rather than the cause'' of the so-called ``social construction of facts'', as Bruno Latour and Steve Woolgar assert.[11]

科学者や科学哲学者のほとんどは、このような主張を聞いたらビックリすることだろう。「科学的知識の構築にとって、自然世界の役割は小さいか、または存在しない」という著名な科学社会学者ハリー・コリンズの主張や、「事実の社会的構築」というものの「結果として現実はあるのであって、現実はその原因ではない」というブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウルガーの主張である。

ここに Sokal が引用したような文章を哲学や社会学を知らない人が読むと、確かに驚くかましれません。しかし、構築主義的な考え方かたからはこういったラディカルな主張が導き出せるのであって、そういった考え方を知っている人なら、「ああ、ある種の構築主義的な主張をしているのだな」と思うでしょうし、反対することはあっても、「驚く」ことはないと思います。ですから、上の Sokal の「科学者や科学哲学者のほとんどは」という主張は、科学者についてはあっているかもしれませんが、科学哲学者については誤りでしょう。(ってぼくが言っても信じてもらえないかな…。)Collins や Latour は、同業者にも批判者がいるにしろ、こういう主張を持った著名な科学哲学者・社会学者なんですから。そして、これが重要だと思うのですが、もしこういった主張を批判したいのなら、ちゃんと理論的に批判しなければ話にならなず、「一見してバカげている」というのは批判の根拠として力がないわけです。前に書いたように、現に科学哲学のなかで認識論的相対主義と現実主義(realism: Philip Kitcher, etc.)の論争や、そういった問題に関わるさまざまな議論が行われているわけで、こういった複雑な議論を知らずに公の場で上のようなことを言うのは、それこそ無神経と言われても仕方がないのではないでしょうか。Sokal は大々的に「科学哲学的」な議論をしていますが、わかっていないと思います。例を挙げてもいいのですが、面倒なのでここでは省きますが。一つだけ書くと、epistemology(認識論)と ontology(存在論)を混乱していると Sokal は批判しますが、認識論者にとって存在論は無意味というか批判の対象なんです。存在とか本質とか話し出すと、認識論の批判性がなくなってしまうと思いませんか?

黒木さんから、Ian Hacking の文章のなかで「言語主義のこのような極端な主張で、広く賞賛をかちえているような理論はない」と言われている言語主義に、ぼくの Latour 理解は近いのではないかという指摘がありました。えーと、いや、偉そうなこと書いたあとで情けないのですが、こういう議論に深入りすると、ぼくは哲学に詳しくないのでホント困ってしまうのです。どなたか助けていただけませんか? で、とりあえずぼくが言えることを言っておくと、バークレーというのは、認識論にとって重要な哲学者だと思うのですが、ある種の極論として有名な「存在とは知覚されることである」という彼の命題は、上のような認識論的相対主義とは問題にしていることが違うと思います。認識論的相対主義とか現実主義というのは世界観(?)の問題であって、知覚とか懐疑論(現実は正しく知覚できるのか? 現実が存在するこを証明できるのか?)の問題ではないと思います。Hacking はバークレーを極端な言語主義と呼んでいますが、言語主義的な思想というのは二十世紀の哲学にとって一番重要な出来事だったと言われます。あと、前に書いたように、Hacking は現実主義的科学哲学者として有名な人なので、認識論的相対主義には好意的ではないだろうということも覚えておいていいかもしれません。ちなみに Hacking が、哲学的に対立する Latour のことをこう評しているのを見つけました。

Bruno Latour delights some of us and infuriates others, but either way he has, for the past decade, been one of the most brilliant and original writers about science.

ここにある Latour のインタヴューにも引用されています。このインタヴューでは relativism/realism の問題などについても話されていて、参考になるかもしれません。

ものすごく長くなりましたが、Sokal 事件の問題とは何なのかということを見失わないようにしなければいけませんね。


Id: #a19980727163617   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 16:36:17 JST 1998
From: 鴨 浩靖 <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: Re: どういう話題が建設的か?

建設的な議論をするためには、 少なくとも、 スノウの「二つの文化」と日本を含む東アジアの「理系・文系」を区別する必要はありますね。 まさか、両者を同じものだと思っているなんてことはないでしょうけど。
Id: #a19980727162839   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 16:28:39 JST 1998
From: はまだとらひこ
Subject: どういう話題が建設的か?
「2つの文化」に終わってしまわずに、Sokal affairsまわりの話をするには、どういう話題が善いのでしょうか?
よくあるように、両者が認めるところに立ち戻るんでしょうか?(FineのNOA(邦訳『シェーキーゲーム』)のような戦略?)
といっても、私には何をどう語れば良いのか分かりませんが。
(私の嗜好では、理系の人よりは、論争なれしている文系の人に聞きたいですね)

Id: #a19980727161012   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 16:10:12 JST 1998
From: 川似央一 <oichi@earthlink.net>
Subject: 「哲学者は、世界をいろいろ違ったふうに*解釈*してきただけだ。重要なのは、世界を*変える*ことである。」カール・マルクス

黒木さん曰く、

一方、構築主義の批判的分析のための方法論としての側面と私が述べたのは、「本来非自明であると考えるべき事柄を慣習に従って常識だとみなしてしまう誤りを防ぐために使われる言説分析などの方法論」のことです。すなわち、方法論として、「様々な言説が常識と思われている事柄をどのように構築しているか(もしくは歴史的に構築してきたか)を分析することによって、一般に確固たる常識と思われていた考え方も実際には社会的に構築されたものであったことを明らかにし、それによって皆が常識と思っている考え方を批判することが可能になる」と考えるのです。

ここで黒木さんが述べていらっしゃることに、ぼくは基本的には賛成です。ぼく自身が信じていることに、ある意味でかなり近いと思います。そして、"What the Social Text Affair Does and Does Not Prove" で Sokal が言っている、「自然科学には自然科学の真理の基準があって、その意味で実験室の外の社会からは自律していて、社会学では分析できないことがあるのだ。科学の社会学は、もっと政治的、批判的に有効なことをせい」(意訳)といったようなことにも、ある意味で賛成ではありあます。でも、ぼくには他に反対することがいっぱいあるわけですが。

読んでいなかった Meera Nanda の "The Science Wars in India" を読みました。根本的なところでは(少なくとも部分的に)賛成なんですが、やっぱり「ポストモダン」的な言説がちゃんとわかっていないと思います。ナイーブに実証主義的なことを信じている人が「ポストモダン」的な思想(大陸系の思想)を「理論的」に批判しようするときによく見受けられるのですが、「ポストモダン」的な思想のなかで起こっているポストモダン批判を盗んで議論しているように思います。そういうことが起こりやすい時代なのかもしれません。Nanda がわかっていない例として、一つ挙げておきます。

Indeed, the cluster of ideas that postmodernist intellectuals deploy to deconstruct the supposedly Eurocentric assumptions of modern science appears with high frequency in the discourse of Hindu fundamentalist parties. The Hindu right has proclaimed the twenty-first century a "Hindu century" on the theoretical grounds made respectable by left critics of science. These reverse Orientalists who glorify whatever the Western powers devalued are walking through the door that the critics of Orientalism opened for them. The tools that deconstruct also construct.
民族主義的な「逆オリエンタリズム」というのは、オリエンタリズム以外のなにものでもないでしょう。「オリエンタリズムの批判家たちが開けた扉を、西洋の権力が蔑んだものなら何でも称揚する逆オリエンタリストが闊歩している」というのは、オリエンタリズム批判をまったく理解しいない議論だと思います。そういうことがあるとしたら、それこそ俗化されたオリエンタリズム批判であって、Nanda 本人もそれがわかっていないのでしょう。オリエンタリズム批判とは、権力による他者の差異化を脱構築することだと思います。
Id: #a19980727152142   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 15:21:42 JST 1998
From: はり〜ちゃん
Subject: バック from 仙台

>はりがや
>Subject: ふろむ 松島海岸

>とある研究会のため
>松島海岸の宿にいます。
>ポケットざうるすより送っています。

。。。上記の後の話ですが, 東北大学物理学科の光物性 関係の研究室を3研究室位, お世話になって,かえって まいりました。やっぱ っ,て言うのもなんですが, インターネット上の知り合いとお会いして, 「さいきん,この掲示板上で。。。。 さいきん,fjなどで。。。」 という調子で,酒のんで盛り上がるよりかは, 専門家どおしのお付き合い重視ですよね。

小生自身,基本は光物性分野ですし。。。 一時期ここで「仙台でよろしく」など言いましたが, 結局はこうなるのでありました。 インターネットのお付き合い などは,早川さん,おおまめうたさん,他も 大昔から入っておられる, 某ML等で,いろいろ, やっておりますし。


Id: #a19980727145308   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 14:53:08 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: Re: 早川さん & Re: スタージョンの法則

早川さんへ

Sokalの行為にまともに怒った反応がなかった??? ほんまかいな。早川さんは、実際にどのような議論があったかについてろくに調べもせずに、偉そうに手抜きの一般論を述べているだけですね。みっともないと思います。「頭はそんなによくないけれど自分の趣味(例えば詩作)があって、そのことには自負を持っている子B」というお馬鹿で(しかも考え方によっては失礼な)比喩を持ち出してしまった直後のことなのですから。

あと、ずっと気になっているのですが、早川さんは「二つの文化」的な見方以外はできないのかな? 「二つの文化」という見方を否定するのも間違いだと思いますが、それだけに見方が偏ってしまうのは避けるべきだと思う。

「つまらぬことに凝って」のリンク先が存在しなかったので、勝手に直しておきました。もしも不都合があれば知らせて下さい。

鴨さんの「スタージョンの法則」への補足。

さらに、言うまでもないことだと思いますが、 Aronowitz, Latour, ...... が駄目と判断してしまうのも完全な間違いですね。そして、 Sokal の指摘がターゲットになっている人達の思想の中核部分への批判になってないとしても、それが相手を怒らせるだめの無益な批判になっていると即断するのも間違いだと思います。


Id: #a19980727122106   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 12:21:06 JST 1998
From: 早川 <hisao@yuragi.jinkan.kyoto-u.ac.jp>
Subject: None None

田崎さんに牽制されたからのこのこ出てきました。最近、 つまらぬ ことに凝ってこちらの方にレスポンスはできませんでした。(あまりその気も なかったのですが)。

私があの様な比喩を出した背景は、社会科学者は自然科学者のやっている ことは理解できないが、自然科学者は彼らのやっていることをわかった気に なって勝手に批判している。これは尊大に過ぎないのではないか、という 事です。彼らがSokalより有名か否かは全く問題ではない。むしろ彼らの inferiority complexをさかなでするような行為はすべきでない、という事です。 同時に我々が理解しているつもりの彼らの議論も多分、勘違いなのでしょう。 彼らは自然言語を用いているのでその分、損をしているかもしれません。

もう一つの点は彼らに誠実さがなく、一知半解で議論を振り回して、何か我々に 直接の害があるのか、という事です。むしろ恥をかくだけで殊更に我々が けしからんとか言う必要はない様に思えます。アメリカではそうではないのかも しれません。

最後に、Sokalの行為にまともに怒った反応がなかったのは当然です。彼らが 何で感情を直接出す必要があるのでしょうか。大人だったらからかわれたら むきになって怒るより、回りと一緒に苦笑するのでしょう。 むしろ怒りをレトリックに 包み込んだからこそ愉快?な反応になったと推測します。


Id: #a19980727120327   (reply, thread)
Date: Mon Jul 27 12:03:27 JST 1998
From: 鴨 浩靖 <wd@ics.nara-wu.ac.jp>
Subject: Re: Kristeva と集合論

先日は誤って重複投稿をしてしまってごめんなさい。 こびとさんが一方を削除してくださったようで、 ありがとうございます。

とりあえず、数学的事実のみ。

公理的な集合論はZF系のものだけではありません。 非ZF系の公理的集合論の中には、 すべての集合の集合が存在するものもあります。 QuineのNFが代表的なものです。


Id: #a19980726173346   (reply, thread)
Date: Sun Jul 26 17:33:46 JST 1998
From: 大豆生田
Subject: 消耗戦になるので深入りする気はないが

比喩で使っているのに 科学的に間違っていると批判するのは 科学至上主義者のおごりである。 このような人は科学を絶対視して、 科学以外のことを考えたことがないのだ。
という反論がくるでしょう。 (「予想される反論」ではないことに注意。)
Id: #a19980726145940   (reply, thread)
Date: Sun Jul 26 14:59:40 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: Kristeva と集合論

Intellectual IMPOSTURES を、仕事の合間にちょっとずつ読みながら、色々と考えています。 アメリカにいる人たちと日本にいる人たちでは、この本や Sokal 騒動への反応が随分違うということがなんとなくひっかかっています。

そこで、(というほどのつながりはないけど) Intellectual IMPOSTURES の中から一つの例をご紹介して、みなさんのご意見を聞きたいと思います。 以前、黒木さんが挙げられた Arnowiz の量子力学の例とは、かなり毛色の違ったものです。 (Arnowiz の例の文章は、Intellectual IMPOSTURES の本文では批判の対象にはなっていません。)

Julia Kristeva と言えば、ぼくでさえ元々名前を知っていたくらいですから、フランスの非常に著名な知識人なのでしょう。 (彼女はポストモダンには分類されないそうです。) 彼女の初期の文章は、数学の濫用の宝庫の観を呈しています。 選択公理、連続体仮説、ゲーデルの不完全性定理、(なぜか)関数空間 C_0(R^3) の定義などについての初歩的な誤りが散見されます。 ほとんどが、数学科に行っている友達がいれば、簡単に指摘してもらえたような間違いです。 (早川さんを牽制するつもりではないけれど)Sokal-Bricmont は、「今は有名になった人が少女時代に同人誌に書いた稚拙な文章を発掘してきて暴露している」わけではありません。 これらの誤りを含んだ作品がフランス知識界における傑作とみなされ(そうでないとは言ってません)、彼女は文字どおり地位と名声を得たのです。

これらの文章をここでご紹介しても、単にさらし者になるだけなので、やめます。 (これらは、Jean Bricomnt の Postmodernism and its problems with science にも収録されています。)

ここでは、 あまり罪がなくて、何となく理解できるものをひきます。 1974 年の「詩的言語の革命」の一部です。 Intellectual IMPOSTURES にのっている英訳(下を参照)からの拙訳です。

ここで、これまでは十分には強調されてこなかったマルクスの発見の一つに触れておきたい。 もし、一人一人の個人、あるいは一つ一つの社会的組織が、それぞれ一つの集合に対応するならば、全ての集合の集合 -- まさに国家とはそういうものであるべきなのだが -- は存在しない。 全ての集合の集合としての国家は虚構に過ぎず、決して存在し得ないのだ。 集合論において、全ての集合の集合が存在し得ないのとちょうど同じように。 (集合論への脚注:この問題については、ブルバキを参照。また、無意識の機能と集合論の関係については D. Sibony 「無限と去勢」Sclicet, No.4 1973, pp. 75-133 を参照。)
詩的言語の革命 (1974) より
この先もあるのですが、ぼくには理解し難くなってくるので、ここで止めました。 (すでに「無限と去勢」にはぶっとびますが。) この先の意味も分かる人がいたら教えて下さい。

まず、上に訳した部分については、数学的な誤りはないと思います。 「(素朴な)集合論において、全ての集合の集合は存在し得ない」という事実は「Cantor のパラドックス」と呼ばれていて、これが現代的な集合論を作るきっかけの一つになったという話です。 (厳しいチェックの目を感じて緊張する。 間違いを書いてたら教えて下さい。)

若き日の Kristeva は集合論を「わくわくしながら」勉強して、Cantor の「全ての集合の集合は存在し得ない」という命題に出会い、素朴に感動したのだろうと思います。 それから、彼女は、

ううん。これって、なんかに似てない?
あ、そうだ。マルクスの国家だ!
こんなトンデモなく違う分野に似たような話が出てくるなんて、おもしろい!
と、これも素朴に(知的に)感動したのだろうと察します。

ぼく自身、こういう感じの頭の使い方というのは、嫌いではありません。 しかし、このアナロジーに関しては、どう考えてみても「なんとなく、おもしろい!」の域を越えるものではないと思います。 そもそも、「国家」の中での個人や組織は有限個しかないので、それらの全ての集まりを考えたければ、それはちゃんとした集合になり、なんの問題もない。 訳さなかったところ(下を参照)を見ると、「集合の集合の集合・・・」とかを考えたがっている節があるようだけれど、なぜそういうものを(政治の文脈で)考えたいかは不明。 いずれにせよ、Kristeva は、なぜ Cantor のパラドックスとマルクスの主張が「ちょうど同じ (just as)」なのかを説明してくれていません。

さらに、集合論への脚注にブルバキが現れると、彼女の知的誠実さを疑いたくなってきます。 ここでは、ブルバキというのは(人の名ではなくて、数学者集団の名前ですが)、数学の教科書のシリーズを指します。 一言でいえば、数学をばりばり専門にやるような人だけが買うかっこいい難しっぽい本です。 (ぼくは、持ってない。みなさん、こんな説明でいいですか?) Kristeva がブルバキを読破したのかどうかは知りませんが(C_0(R^3) の定義の誤りを読むとそうとは信じがたい)、それよりも、「詩的言語の革命」の一般読者にむかって「ブルバキを読め」というのは「これは超・むずいので、黙って私の言うことを聞いてなさい」というのに等しいと思いませんか? しかも Cantor のパラドックスのレベルの数学なら、わかりやすく、かつ厳密さを失わずに書いてある本がたくさんあるはずです。 (日本語の本だって、たくさんあると思う。いかがでしょう?) 読者にこのアナロジーの本当の意味を理解してほしいと誠実に思えば、(たとえ本人はブルバキで全てを学んだとしても)八方手を尽くして一般の人に読解可能な参考文献を捜してくるべきだと思うのですが。 (「無限と去勢」がそういう入門書だとは、やや思いがたい。)

まとめると、「国家」と「全ての集合の集合」のアナロジーは、

なんとなく似ている。おもしろいことであるよなあ。
と随筆にでも書くべきレベルのもので、政治哲学の論文に仰々しく書くべきものではなかろう。 かつ、読者に基礎知識や論理を理解してもらおうという誠実さが見えてこない。 思想界の有名人がこんなものを書いていたら、批判の槍玉にあげられても仕方がないと、ぼくは考えます。 どんなものでしょう? やはり科学サイドからの一面的な読み方でしょうか? (ぼく自身は、Intellectual IMPOSTURES に載っている部分しか読んでいないという根本的な欠陥はあります。)
Intellectual IMPOSTURES に収録されていたこの本からの英訳を書き抜いておきます。
A discovery of Marx, which has not heretofore been sufficiently emphasized, can be sketched here. If each individual or each social organism represents a set, the set of all sets that the State should be does not exist. The State as set of all sets is a fiction, it cannot exist, just as there does not exist a set of all sets in set theory. [footnote: On this topic, cf. Bourbaki, but also, concerning the relations between set theory and the functioning of unconscious, D. Sibony, 'Infinity and castration', in Sclicet, No.4 1973, pp. 75-133.] The State is, at most, a collection of all the finite sets. But for this collection to exist, and for finite sets to exist too, there must be some infinity: the two propositions are equivalent. The desire to form the set of all finite sets puts the infinite on stage, and reciprocally. Marx, who noticed the illusion of the State to be the set of all sets, saw in the social unit as presented by the bourgeois Republic a collection that nevertheless constitutes, for itself, a set (just as the collection of the finite ordinals is a set if one poses it as such) from which something is lacking: indeed, its existence or, if one wants, its power is dependent on the existence of the infinite that no other set can contain.
from Revolution in Poetic Language (1974)

ちなみに、これは、Intellectual IMPOSTURES に登場する Kristeva の文章の中で、もっとも罪のないものです。


Id: #a1998072   (reply, thread)
Date: Wed Jul 20 09:10:00 JST 1998
From: くろき げん <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: これ以前の掲示

最近の増植スピードは早い!

ちょっと前まで大流行だった点取り占い

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1998年7月の記録Bの終わり付近の様子 (時間と逆順)


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