Weinberg による Pickering 批判

S.ワインバーグ著、『究極理論への夢』 (原題 "Dreams of a final theory" (1992)、小尾真彌・加藤正昭共訳、ダイヤモンド社) から、 Andrew Pickering の Constructing Quarks に対する批判を抜粋

(cf. Polkinghorne による Pickering 批判)


第7章より

209-212頁より (読み易くするために、抜粋するとき、原文中の「」で囲まれた長い引用文を blockquote した。)

 このような研究の中で、社会学者と人類学者は、科学理論が変化する過程すらも、社会的なものであることを発見した。ピア・レビュー [仲間うちでの論文審査] に関するある最近の本は、

「科学的真理とは、実際には、何が『真実』かについての、広く引用される社会的合意であり、『きわだって科学的なプロセス』の形をとる協議を通して到達されるものだ」

と述べている。ソーク研究所で働く科学者をくわしく観察したフランスの哲学者のブルーノ・ラトゥールとイギリスの社会学者スティーヴ・ウールガーは、

「何が証明とみなせるか、何がよい分析であるかに関する協議は、法律家や政治家の間の議論と同じくらい、無秩序なものである」

という結論に達した。

 これらの有用な歴史的・社会的観察から一歩ふみ出すと、認められた科学理論の内容が、その理論が協議されたときの社会的・歴史的背景によって決まるという、過激な意見に簡単に進めるものらしい。 (この意見を述べたものは、科学社会学では強いプログラムと呼ばれることがある。) 科学的知識の客観性に対するこの攻撃はあからさまに述べられ、アンドリュー・ピッカリングの本の表題にまで持ち込まれた。『クォークをつくる』というこの本の最終章で、彼はつぎの結論に達する。

「彼らが高尚な数学技術について多くの訓練を受けていることを考えれば、素粒子物理学者による実在の説明で数学が幅を利かせていることは、人種集団 [スニック・グループ。人種・言語・宗教・慣習などを共有する集団を指す社会学用語] が自分たちの言語を好むことと同じくらい、容易に説明できる。この章で主張された見解からわかるように、世界観をつくろうとする人は誰も、 20 世紀科学の言い分を考慮にいれる義務はないのである。」

ピッカリングは、 1960 年代終わりから 70 年代初めにかけて、高エネルギー実験物理学で強調点が大きく変化したことについてくわしく述べている。高エネルギー粒子の衝突でもっとも大量に起こる現象は、衝突する粒子が、非常に多数の他の粒子に分裂するという現象で、大多数の粒子はもとのビームの方向にでてくる。この大量に起こる現象を集中的に調べるという常識的な (ピッカリングの言葉) 研究法のかわりに、実験家は、理論家の提案を受け入れて、希にしか起こらない現象に焦点を合わせて実験を始めた。これは衝突の結果、入射ビームの方向と大きな角度をなす方向に、高エネルギーの粒子が飛び出す現象である。

 確かに高エネルギー物理学では、ピッカリングが述べているような強調点の変化が起きた。だがそれは、物理学の歴史的使命の必然性から起きたのである。陽子は、三つのクォーク、および、絶えずできたり消えたりしている、グルオンとクォーク-反クォーク対との雲から、構成されている。陽子間の衝突では、大部分の場合には、初めの陽子のエネルギーは、この粒子の雲の破壊に向けられる。これはちょうど二台のごみトラックの衝突のようなものである。これがもっとも多く起こる衝突であるが、複雑すぎて、現在のクォークとグルオンの理論では、何が起こるかを計算できず、したがってこの理論は検証の役にはたたない。しかし、ときたま、一方の陽子の中のクォークまたはグルオンが、もう一方の陽子の中のクォークまたはグルオンと正面衝突をして、そのエネルギーをもって、これらのクォークまたはグルオンが、衝突の残骸の中から高エネルギーで飛び出してくることがある。これは、起こる割合の計算の仕方がわかっている過程である。あるいはまた、衝突が新しい粒子をつくることもあり得る。それはたとえば弱い核力を運ぶ W 粒子や Z 粒子であり、その研究は、弱い力と電磁的な力の統一についてさらによく知るために必要である。今日の実験は、これらの希な現象を検出するように設計されている。だがピッカリングは、私の見るところではこの理論的背景を非常によく理解しているのに、高エネルギー物理学におけるこの強調点の変化を、単なる流行の変化をほのめかすような言葉で記述する――印象主義からキュービズムへの、あるいは短いスカートから長いスカートへの移り変わりのように。


おまけ:出所は古い実証主義の化けもの?

211-212頁より

 それならば、科学的知識の客観性についてのこの過激な攻撃は、どこから来るのだろうか。一つ考えられる出所は古い実証主義の化けもので、それが今回は科学そのものの研究に向けられたのである。直接には観測されないことについて語ることを拒否すれば、場の量子論や、対称性の原理や、もっと一般には自然法則を、真剣にとり上げることができなくなる。哲学者や社会学者や人類学者が研究することができるのは、現実の科学者の実際の行動しかなくなるが、この行動は、推論の規則を用いた簡単な記述などに従うものではない。しかし科学者は、望んでもつかまりにくい目標として科学理論を直接体験しているので、この理論の実在性を確信するようになるのである。