Polkinghorne による Pickering 批判

ジョン・ポルキングホーン著、『紙と鉛筆と加速器と』 (原題 "Rochester Roudabout" (1989)、大場一郎・木造芳樹共訳、丸善) から、 Andrew Pickering の Constructing Quarks に対する批判を抜粋

(cf. Weinberg による Pickering 批判)


第21章より

266-269頁より

【引用者註:バリー・バーンズ】の観点では、「われわれの現在の理論は以前の科学理論と、ついでにいえば他のいかなるものとも、ともに対称的に並び立つ (25)」。したがってわれわれの話は、実際はラウンダバウト (訳注:イギリスのロータリー式の交差点) の一つであり、決してどこかには着かないで、止ることなく回っていることになろう。

 アンドリュー・ピッカーリングは彼の本『クォークを構築する (Constructing Qarks)』の中で、まさにそのようなテーゼを標準模型に至った素粒子物理学におけるいろいろな進展と関連させて議論している。彼の意見では、「高エネルギー物理学 (H[igh] E[nergy] P[hysics]) の世界は、社会的につくり出された (26)」。「素粒子に関するクォーク・ゲージ理論という描像は、文化的に特定されつくり出されたものとして見なされるべきである。 (27)」

 どのように議論すれば、この驚くべき結論を指示できるだろうか? 一つは古い物理と新しい物理の同一基準不比較性を主張することである。もしそれが真であるならば、ある世界から別の世界へ理論的な急転があり、その結果「1970年代後半の素粒子物理学者たちは自ら、それ以前の10年間に構築した現象的世界のほとんどと、説明のための枠組の多くを喜んで捨て去ることであろう (28)」ということになる。私はすでに同一基準不比較性を退ける理由を述べた。

 もう一つの議論の方向は、この話の中の、あるエピソードを解析することから生じる。 1960年代、泡箱の物理学者たちはバックグラウンドを計算すると、当時理論的にあってほしくなかった中性カレントの可能性は排除されると考えた。 1970年代に中性カレントが理論的に好ましくなると、彼らは自分たちの計算を修正し、さらに実験を行って、その影響が存在すると結論した。これはたしかに教育的なエピソードである。実験家たちは、彼らが期待してないものを見ることが難しいことに、絶対気づいている。バックグラウンドの計算は判定というトリッキーな行為を必要とし、それがその時点での先入観に符合するという結論になれば、いっそう安心して受け入れられそうなものとなる。科学の研究 (何が重要で、苦労して試験するに値すると考えられるかを決定すること、そして何が見つけ出せそうかという雰囲気をつくり出すことの両者) に、社会的な影響が役割を果すということは、認めなければならない。だが、頑強な自然の真実性によって、免れ得ない制約が課せられるということも、また認めねばならない。期待してよさそうなものは、すべで事実であるだろうか。 CP 非保存や J/ψ のような発見は、まったく前もって期待されていたことに反していた。中性カレントは、科学者たちが実験の解析法をどのように決めたかによって生み出された人工物にすぎない、ということを私は否定する。後になってからのバックグラウンドの計算の方がより適切な根拠がある、ということを完全に合理的な理由をもって受け入れる。ある指導的な実験家で、 1960年代と1980年代の両方に実験に従事した人と話をしたとき、彼はその通りだと同意した。最初の解析を自己満足して受け入れてしまったことで、もっと前にセンセーショナルな発見ができたのにその機会を失ってしまったという事実を、彼は嘆き悲しんだ。 1970年代には装置もずっと精巧な識別力をもつものになった。それゆえ私は、ピッカーリングが「中性カレントが存在するかしないかを決定したニュートリノ物理学において異なった解釈ができるということ」について、「(その)選択は他のものに帰し得ないのであった。つまり、そう選択した結果である予言とデータとを比較することにより、その選択を説明することはできない (29)」と書いているが、これには同意しかねる。

 ピッカーリングが議論したもう一つの例に関連して、同じようなことを主張することができる。弱い中性カレントの存在の一つの結果として、電子の物質との相互作用には、ある非常に小さいパリティ非保存が期待される。それを調べることは度を越して慎重な取扱いを要する問題である。なぜならば電磁気というパリティを保存するずっと大きな影響によって、中性カレントの影響の大部分は隠されてしまうからである。相互作用している物質を調べる二つの方法が試みられた。一つは原子のエネルギー準位の特性を測定することを必要とした。シアトルとオックスフォードでなされた初めての実験では、計算での予想を明示できなかった。もう一つの実験は SLAC で鮮やかに巧みに遂行されたが、それは、電子・陽子散乱でパリティの破れを直接探すものだった。その結果はサラム-ワインバーグの予言と一致した。ピッカーリングは、後者を受け入れ前者を排除することを、あたかも気まぐれに選ぶことのできることであるがのごとく、「現象と理論が調和した自己無撞着的世界の局所的構築 (30)」に向かうものとして呈示する。そのような解釈は極端に偏向している。シアトルとオックスフォードのグループが必要とした原子のエネルギー準位計算に疑問があることや、 SLAC の実験 (その解釈にはこういった付加的な厄介な問題はなかった) の誤りが少ないという特色を、それでは認めることができない。ある実験の結論を他のものよりよしとする、まったく合理的な根拠があるのである。


用語集より

中性カレント (neutral current)
電荷の交換が生じないような弱い相互作用

注釈より

25 Barnes (1977), p.24.
26 Pickering (1984), p.406.
27 同書、p.413.
28 同所。
29 同書、p.409.
30 同書、p.410.

参考文献より


追記

2001年2月19日 ジョン・ポーキングホーン著『科学者は神を信じられるかクォーク、カオスとキリスト教のはざまで』 (小野寺一清訳、ブルーバックス B-1318、講談社) という本が最近出版されたようだが、宗教と科学の関係に関する Polkinghorne の積極的な発言の内容には相当に問題があるようだ。三中信宏による目次の紹介書評を参照せよ。ただし、カール・ポパーの「真実を求めて、実際に真実に到達できたとしても、それが真実であるという確信をもつことはできない」という主張の内容は「真実」や「確信」という言葉の曖昧さによって注意深く解釈する必要がある。一番ひどい解釈の仕方はポパーの主張から「我々は信用するに値する知識を持たないのだから、どのような知識も平等に疑うべきである」という類の極端な主張を導くことである。ポパーの主張は穏当に解釈する限り常識的なことを述べているに過ぎない。