くろき げん 脳のなかの幽霊 1999年09月04日(土)16時24分10秒

最近、 V.S.ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー共著『脳のなかの幽霊』 (山下篤子訳、角川書店) を読みました。

この本がどういう本なのか知りたい方は、「幻肢」 (失なった腕などがまだあるという感覚) について書かれた短かい第二章「どこをかけばいいかがわかる」 (52-72頁) を立ち読みしてみるのが良いと思います。そこを読んで、話のネタにできると思った人、科学的な推測の醍醐味を楽しめた人、そして何よりも爆笑できた人はこの本を買った方が良いでしょう。それ以後ずっと同じ調子で話が進んで行くので、間違いなく楽しめます。立ち読みができなくても、「幻肢」に関する章の題名がなぜ「どこをかけばいいかがわかる」なのかに興味を持つことができた人は (鋭い人はピンと来たに違いない)、その答を知るためにこの本を急いで注文した方が良いと思います。 (ただ、個人的に、一つだけ不快なのは、養老孟司の解説がおまけで付いてくること。脳の話は面白くても、養老孟司はいらないのだ。)

第七章「片手が鳴る音」にも面白い話が書いてあります。その章は、右脳がやられたせいで、左手や左足が麻痺しているのに、そのことを無視したり、否認したりする疾病失認や、それよりもさらに極端なことに、麻痺した腕などを自分自身のものではないと断言する自己身体否認というまれな症状を扱っています。 (患者が麻痺を失認したままだと、リハビリに重大な支障をきたす可能性があるので、それらの症状の理解は、単に科学的に面白いだけではなく、医療の問題としても重要なのだ。)

興味深いのは患者が麻痺の存在をどのようにごまかすかなのです。ある患者は、手をたたく (両手をパチッと合わせてみる) ことを要求され、右手のみを体のまんなかに持って来て想像上の左手とたたきあっているような仕草をし、「いま手をたたいていますか?」という質問に対して、「ええ、たたいてます」と答える。別の患者は、肩にひどい関節炎があるので、痛くて手を動かせないと言い訳したり、「両手利きじゃなくて不器用なんです」などと言い訳したりする。左手の麻痺を認めず、何度でも靴のひもを結ぶことに挑戦することを繰り返し、全く学習してないように見える。半分水を入れたコップを並べたカクテル用のトレーをもってくれと頼むと、麻痺してない右手のみがトレーの右側にのび (左手の麻痺を認識している人はバランスを取るためにトレーの真ん中に右手がのびる)、結局もちあげそこなったあげく、うまくもちあがりましたかと尋ねられると、自分の膝がびしょぬれになっているにもかかわらず、「もちろんです」と答える。さらに、実際には麻痺して動かない左手について、「たったいま、左手を動かしてましたね。どうしたんですか?」と聞くと、平然と「動かしてみたんですよ。自分が正しいことを示そうと思って」と答え、翌日に同じことを繰り返すと「痛かったので、動かして痛みをやわらげたんです」と言ったりするのである。そして、面白いことに、疾病失認は麻痺してない右半身にも及ぶのだ。鏡でうまいこと細工して、患者が灰色の手袋をはめた自分の右手を見ているつもりで、実際には学生が手袋はめた動かない右手を見ているという状態を作り出しても、それを見ている患者は「右手が上下に動いてますよ」と答えるのだ。 (正常な人は動かしているはずの右手が動いてないのでびっくりする。)

ほとんど信じられないような話ばかりなのですが、さらに、神経科学者のビシャクによる驚くべき実験とその追試の様子が報告されています。それは、左耳の外耳道に冷水を入れると、疾病失認が一時的に消えるという実験です。しかし、患者は、しばらくすると、冷水を入れたときに麻痺を認めていたことを全て忘れてしまったかのように、以前と同様の疾病失認の状態に戻ってしまうのだ。まるで二重人格のように。

これからはギャグとして、「左耳に冷たい水を入れちゃうぞ」というのが使えますかね? あなたは誰の左耳に冷水を注入したいですか? :-)