科学そのものを学ぶことの重要性

黒木 玄

1998年8月27日 15:40 (Ver. 1.0)

実際の科学研究においては、何がどのような意味でどれだけ信頼できるかを判断するためには、数学や実験・観察などのテクニカルなことに関すう膨大な知識が不可欠になります。研究のほとんどの時間はテクニカルで地道な努力に費されています。そして、テクニカルな知識の多くは必ずしも言葉だけで十分に表現可能ではなく、実際に現場で作業することによて始めて得られるものが少なくありません。[1]

そのような部分に光を当てる努力をしない限り、個々の科学研究がどれだけ信頼できる知識を生産しているかを知ることは不可能だと思います。最低限、言葉で表現可能な部分をできるだけ広く拾い出した上で、それらを綿密な考察にかけることが必要になります。

そのような考察を「科学哲学」の文献は行なっているか? ソフトな読み易い文献の多くはそのようなことを行なっていません。極度に単純化された一般論のみであることがほとんどです。それどころか、科学研究の現場における大昔からの常識が、科学哲学の発展によって近年新たに発見されたかのように書いてあることが少なくありません。理論負荷性、全体論、…。

ある分野の文献がある程度たまり、その分野が社会的に認められていたりすると、その分野の文献に対する批評の批評の批評の…の批評という形でどんどん文献だけが再生産されて行きます。根っ子の科学哲学の文献を書いた人物が科学のテクニカルな面に詳しい人物であり、そこから哲学的考察をひねり出したのだとしても、文献が積み重なるにつれて、そのことは忘れ去られてしまい、科学のテクニカルな面に対する配慮に欠けた文献が大量生産されるに至るのです。

こうやって科学哲学が大衆化されることによって、科学哲学の文献だけを読み、科学のテクニカルな面に関する理解は「細かいこと」であると都合良く無視した上で、科学の本性に関する論争をおっぱじめる輩が大量に登場することになったのです。

その様子を眺めている科学畑や技術畑の人たちは、「あいつらは、我々に関係のないことや我々にとっては単なる常識に過ぎないことを、そうではないかのように偉そうに述べている」という感想を持つことになります。「なんだ、あいつらは、単なる常識的なことを偉そうに述べるわりには、我々が難しいと思っていることについては何も述べてないじゃないか! 科学について述べていると言っておきながら、我々がやっている科学とは全然関係ない!」と感じるのです。

これに対して、大衆化された科学哲学の半可通の反応は様々ですが、科学哲学に関してしんどい考察をした経験も無ければ、実際の科学や技術の現場で作業した経験も無いものだから、バランスの取れた態度をなかなか取ることができないのです。最もよくある反応は、「あいつらは、科学の悪口を言われたから怒っているに過ぎないんだ!」というものです。

これは大変不毛な状態なんですよね。私個人は、出直すべきなのは大衆化された科学哲学の半可通の方々であると思うのですが、このような言い方には反感を感じる人は多いのでしょうね。しかし、以上のような不毛な状況に自分自身が落ち込まないように注意することは必要であると思います。例えば、私は、科学哲学に限らず、哲学など専門外の書物を苦労して読むように努力しています。科学について語りたい人は、科学哲学よりも前に、まず科学そのもの特にそのテクニカルな側面について学ぶ努力をするべきだと思います。

最後に、 Thomas Kuhn の「嘆き」について触れておきましょう。 Kuhn は『コペルニクス革命』(常石敬一訳 [2]、講談社学術文庫881)を書くにあたって、テクニカルな議論から逃げませんでした。特に地動説以前の周転円の理論について詳しく述べています。ところが、 Kuhn は、この文献を大学院のセミナーで用いたある同僚の態度を見て、次のように嘆くことになるのです。

…。思想史における科学の役割は、科学を抜きにして理解することができない。どのくらい多くの学生たちがこうした論点を理解したのか確かなことは分らないが、私の同僚は理解しなかった。活発な討論の途中で、私の同僚は、「しかしもちろん、専門的な部分は飛ばしました」という言葉をさしはさんだのである。私の同僚たちは忙しいのであるから、そうした省略も驚くべきことではないのだろう。しかし、歴史家が自らそのことを公然と述べるということは、何を意味しているのであろうか。[3]

ここで、 Kuhn は同僚の歴史家を批判しているのですが、同様の批判は、科学の専門的でテクニカルな議論抜きの大衆化された科学哲学にもあてはまると思います。


[1] 時計職人が失語症になり言葉を失なっても時計を組み立てる能力は失なわなかったという事例が報告されているように、我々人間は言葉抜きで驚くほど精緻な思考を行なうことが可能なのです。数学的思考もそれに近いと私は思う。

[2] 翻訳がひどいので注意

[3] トーマス・クーン、『本質的緊張』 1、みすず書房、199頁より。


黒木 玄