ラトゥールの『科学が作られているとき』について

黒木 玄

内容:カントールアインシュタイン

ブルーノ・ラトゥール著『科学が作られているとき――人類学的考察――』 (川崎勝・高田紀代志共訳、産業図書) における数理科学関連の部分へのコメント。

掲示板の方に書いた感想。このメモに関するコメントは掲示板に書いて下さい。


カントール

1999年8月31日 (最終更新:1999年8月31日)

『科学が作られているとき』は数学および数学を用いる科学 (数理科学) に全く疎いという印象があります。

おそらく、以下に引用する一節は特に数学そのものを事例に挙げている唯一の部分だと思います。数学の事例は細かい部分に正確でないと単なるナンセンスになってしまうので、細かいこととお考えになる人がいるかもしれませんが、あえてコメントしておくことにしました。

『科学が作られているとき』の 155 頁から、 Cantor が登場する段落を引用し、コメントを付けます。番号を付きの blockquote してある部分が『科学が作られているとき』からの引用で、それ以外は私のコメントです。

1. このような新たな対象がなしたことに基く命名法はホルモンや放射性物質のようなアクターのみに決して限定されず、しばしば「実験科学」と呼ばれるものの実験室にも適用される。
2. 数学もまた、自らの対象を、それが「行う」ことによって定義する。
3. ドイツの数学者カントールが超越数に形を与えた際、彼の新たな対象の姿は、最も単純であり、最も根本的である試行をそれに受けさせることによって得られたものであった。

Cantor は「超越数」を、何が何を「行う」ことによって、定義したと Latour が主張しているか、以下を読んでもわからない。 (より正確には、少なくとも私個人はわからない。以下も同様。)

あと、通常、「超越数」 (transcendental number) と言えば、有理数係数の代数方程式の根にならないような数 (例えば e や π は超越数だが √2 はそうではない) のことなので、混乱を招く可能性があります。もしかしたら、超限(順序)数 (transfinite (ordinal) number) のことなのかな?

4. たとえば、単位正方形を構成する点の集合と 0 と 1 の間の実数の集合との間に一対一の関係を確立することは可能であろうか?
5. 当初、それは、正方形の一辺の上に、正方形全体の中と同じだけの数が存在することを意味することになるであろうから馬鹿げたものに思われた。
6. 正方形の中の二つの異なった数が一辺上に異なった像を有するのか否か (それゆえ一対一対応を形成するのか)、それとも二つの数は一つだけ像を有するのか (それゆえ二対一対応を形成するのか) を見るための試行が考案された。 【引用者によるタイポの指摘:原文では「一対一」が「一体一」となっている】

6 は全く変です。おそらく、「正方形からその一辺への写像で任意の異なる二点を異なる二点に写すものが存在するか (このときそれらの一対一対応が存在することが示される)、そのような写像が存在しないか (このとき一対一対応は存在しない) を見るための試行が考案された。」と書き直すべきなのだ。 (でも、こう書き直しても、どのような試行が考案されたのか、読者にはわからないだろう。私もわからない。もしかして、今でいうところの整列可能定理を Cantor は使ったのかな? すみません。この辺の数学史に関して私は全く無知なので、あまり役に立てません。)

7. 白い紙の上に書かれた答えは信じがたいものである。「私はそれを見るが、私はそれを信じない」とカントールはデデキントに書き送っている。正方形の中にその一辺上と同じだけの数が存在する。

4, 5, 6, 7 について。細かいことですが、「正方形を構成する点」と「正方形の中の数」は同じ意味で使われている。でも、通常「正方形の中の数」とは言いません。数学に限らず、日常的にも「数」と「点」を区別しますよね。

8. カントールは、超越数を、このように極端でほとんど考えつきもしないような状況の中でのそのパフォーマンスから作り出した。

アインシュタイン

1999年8月31日 (最終更新:1999年9月10日)

Latour は物理学をほとんど何も理解してないにもかかわらず、恥知らずにもそれについて語ってしまっているのではないかと私は疑っています。なぜ、そのように疑いたくなってしまうのかは以下を読めばわかります。

『科学が作られているとき』の 412-414 頁より、アインシュタインが登場する段落を引用し、それに対してコメントを付けます。番号を付きの blockquote してある部分が『科学が作られているとき』からの引用で、それ以外は私のコメントです。

1. どのようにして「抽象的」な幾何学や数学が「実在」と何らかの関わりをもつのかを人々が考えているとき、実は中心の内側で形式の形式について研究している者たちが占めている「戦略的位置」を崇拝しているのである。

意味不明。 (より正確には、少なくとも私個人にとっては意味不明。以下も同様。)

2. 彼らは、あらゆる「適用」から最も遠く隔たっている (としばしば言われる) ので最も弱いはずである。
3. しかし、逆に、中心が最終的に時空間を支配することになるのと同じ理由で最も強い者になるだろう。
4. 彼らは、少数の必須の通過点で結び付いているネットワークを設計するのである。
5. すべて痕跡が紙の上に書かれているだけでなく、幾何学的形で書き直され、さらに方程式の形で書き直されたならば、そのとき幾何学と数学を支配する者たちがほとんどどこにでも介入することができるようになることはなんら不思議ではない。
6. 理論が「抽象的」であればあるほど、よりうまく中心の内側の中心を占領することができる。

Latour はここで「数学は実際に応用場面から最も遠く離れており、他への影響が小さい分野である」という考え方を否定しているのだと思う。数学にも様々あってその影響力も様々である、というコメント付きでなら、その意見に賛成して構わない。ただし、数学が応用先から影響を受けているにしても(実際ものすごく影響されている)、その影響が「数学的命題の真偽の判定はその応用とは独立している」を否定する類のものであると安易に考えてもいけないという点には注意を促すべきだと思う。 (注意:「数学的命題の真偽を判定するアルゴリズムがある」という大昔に否定されている主張をしたいわけではない。)

7. アインシュタインが時計に心を奪われ、とても遠くに離れているひとつの時計の観察者からもうひとつの時計の観察者へ情報を送るのに時間がかかるときにどのように時計を合わせるべきなのかと考えていたとき、彼は抽象世界にいるのではない。
8. 銘刻器の最も物質的な側面に注意を払いながら、あらゆる情報の交換の中心にこそいる。

この 7, 8 は意味不明。 (抽象世界とは? 銘刻器?)

9. いかにして時刻を知ることができるだろうか?
10. いかにして時計の針が重なっていることが分かるだろうか?

「時計の針が重なっている」は「複数の時計の針の位置が同じである」という意味なのだろうか? (これは些細なこと。)

11. 大きな質量、大きな距離、大きな速度の場合にすべての観察者に対して信号が等しいということを保持しようとするならば、何を断念するべきなのだろうか?

「大きな距離」という言葉はどこから出て来たのか? 特殊相対性理論は「大きな相対速度」に関わっており、一般相対性理論は「大きな重力」に関わっている。「大きな距離」が登場するのは不思議である。ちなみに、 Alan Sokal によると、 「ラトゥールは相対性理論では異なった観測者の(相対的な運動ではなく)相対的な位置に関する問題を扱うという考えをもってしまった」という疑いがあるようだ。実際、 Latour は「彼[アインシュタイン]の本のタイトルは、“長距離科学旅行者を呼び戻す新しい方法”としてもよかったのである」と述べている。これは、 アインシュタインのテクストを代表の派遣に関する社会学への貢献として読んだという Latour の 40 ページにも及ぶ論文のほんの一節に過ぎない。その論文は Science in Action が発行された 1987 年の次の年の Social Studies of Science 誌に掲載されている。

12. もし計算の中心がすべての船上の航海者が持っているすべての情報を取り扱いたいならば、メルカトールと彼の抽象的投影法を必要とする。
13. しかし、もし光の速度で旅をする系を取り扱いたいならば、しかもそれらの系の情報の安定性を保持したいのならば、アインシュタインと彼の抽象的相対性を必要とする。

今引用している段落の直前で、 Latour は、要約すると「Mercator 図法は、主に陸上生活者だけが関心を持つ面積を保たないが、船の航路を決定するために重要な角度を保つ図法であったおかげで、地理学という巨大なネットワークの必須の通過点に居座ることが可能になり、それによって勝利をおさめることができた」という主張をしている。 12, 13 で、 Latour は、 Mercator の勝利と Einstein の勝利が類似していると言いたいのだろう。しかし、 Mercator の図法と Einstein の相対性理論には決定的な違いがある。前者の Mercator 図法は単にある目的のために便利な便法にすぎないが、 Einstein の相対性理論は単にそれが便利であるからという理由で勝利したわけではない。例えば、光速度が不変であると解釈できる実験結果が得られなければ、 Einstein の特殊相対性理論が勝利し続けることは無かったであろう。相対性理論と対比するなら、「地球は丸い」という主張の方がより適切であり、 Mercator 図法は相対性理論に関係した数学的テクニックと対比されるべきなのだ。このような点をないがしろにするから、 Latour 本人がどう否定しようとも、隠れ相対主義者もしくは隠れ社会構成主義者の疑いをかけられてしまうのだと思う。

14. 得られる利益が痕跡の魅惑的な加速であり、その安定性、信頼性、結合可能性の高まりであるならば、時空間の古典的表象を断念することはそれほど高い代償ではない。

意味不明。特に「痕跡の魅惑的な加速」が何なのかわからない。


黒木 玄 (くろき げん) <kuroki@math.tohoku.ac.jp>