吉永良正によるソーカル事件の紹介について

黒木 玄 (1997年7月24日)

抜粋

吉永良正著の『「複雑系」とは何か』(講談社現代新書 1328、1996年11月20日第1刷発行)に、ソーカル事件(The Sokal Affair)に触れた部分があったので、引用しておきます(pp.242-243)。

複雑系の科学には小児の遊戯に似た側面が数多くある。たとえば、アナロジーも一種の遊戯といえなくもない。とりわけ、研究者たちの稚気満々たるアナロジーを見ていると、多少の危惧の念さえ禁じえない。無防備なアナロジーの濫用は恣意的な拡大解釈を許すからだ。

こういったからと言って、アナロジー一般を批難しているのでは毛頭ない。問題は、科学がアナロジーの論理に対して、いまだにあまりにも未体験であり、無知でありすぎることだ。アナロジーは、中世においてはもっとも普遍的な論理であった。哲学の、とりわけ形而上学の歴史は、アナロジーの冒険に満ち満ちている。アナロジーの論理を、新しい科学のために批判的に再構築して行くためには、全哲学史が参照すべきデータベースとして役に立つかもしれない。

ただし、この四半世紀の文化を並走してきた思想潮流の多くは、新しいアナロジーの論理を探るうえで、たいして役に立つまい。最近、物理学者のアラン・ソーカルが、量子重力の解釈学なるものをテーマにした論文を、いわゆるカルチュラル・スタディ学派の専門誌に発表して、世間を騒がせた。カルチュラル・スタディというのは、ドナ・ジーン・ハラウェイなどに代表されるような、諸科学を横断的に走査してその意味を脱構築しようという、文科系の思想家たちの牙城である。ソーカルの論文はデリダやラカンなどをふんだんに引用したもので、専門誌の論文選考者たちにも、「意欲的な力作」と評判はよかった。

ところが、論文が掲載された直後に、「あれはパロディだった」というソーカルの声明が発表される。つまるはカルチュラル・スタディでやっている程度のアナロジカルな論理を連らねた論文ならば、パロディで十分につくれるという、人を食った話だったのだ。

かくてソーカルの一件は、カルチュラル・スタディにくみする文科系の思想家たちと理科系の自然科学者たちとの間で大論争を引き起こすことになったわけだが、ソーカルの挑戦は、安易なアナロジーがいかに有害なものともなり得るかを教えたという意味で、いわゆる現代思想に反省を促したばかりでなく、複雑系の科学へのいい教訓を残したのではないかと思う。

感想

私は WWW 上で読める文献のリストをソーカル事件のウェブ・ページにまとめ、その騒動を大いに楽しみました。吉永がそうしているように、ソーカル事件の教訓の一つは安易なアナロジーがいかに有害なものともなり得るか」であるという風に解釈した方は結構多かったような気がします。しかし、実際にソーカルのパロディ論文の実物を見てみると、それはあまりにも穏健な見方であるように思われます。

アラン・ソーカル(Alan Sokal)による話題の“論文” Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum GravitySocial Text 誌の ``Science Wars'' というタイトルの特集号(#46/47, pp. 217-252, spring/summer 1996)に掲載されました。それがどんなにトンデモないものであるかについては、例えば、以下の引用を読めばすぐにわかります。ソーカルは、“論文”における

Thus, a liberatory science cannot be complete without a profound revision of the canon of mathematics.
という一節に対して、次の註を付けています(註110)。
Just as liberal feminists are frequently content with a minimal agenda of legal and social equality for women and ``pro-choice'', so liberal (and even some socialist) mathematicians are often content to work within the hegemonic Zermelo-Fraenkel framework (which, reflecting its nineteenth-century liberal origins, already incorporates the axiom of equality) supplemented only by the axiom of choice. But this framework is grossly insufficient for a liberatory mathematics, as was proven long ago by Cohen (1966).
集合論における the axiom of equality (等号の公理)は「等しい(=)」と「属す(∈)」の関係を記述する一つの公理に過ぎず、legal and social equality (法的および社会的平等)とは全く関係ありません。もちろん、the axiom of choice (選択公理)の choice は pro-choice (妊娠中絶合法化に賛成の)の意味での choice (生むか生まないかの選択)とは全く関係ありません。ここで引用した部分だけでも、ソーカルが投稿した“論文”が冗談に過ぎないことは十分に判定可能です。 (あまり専門的でない数学用語辞典の類などを参照する必要がある人もいるかもしれませんが。) そして、ここで引用した部分だけではなく“論文”の全体が上のような調子で書かれているので、数学と物理学について全くの無知でもない限り、その全てを見逃すことは不可能です。

以上の説明からわかる通り、ソーカルの“論文”が単なる冗談に過ぎないことを見抜くことは、必ずしも数学や物理学の専門家でなくても十分に可能なことです。少なくとも、「こいつ、どこまでマジなんだ?」と疑うことは全くの非専門家であったとしても可能なことだと思います。それにもかかわらず、Social Text 誌の編集委員はそれを雑誌に掲載してしまったのです。しかも、その“論文”が掲載されてしまったのは科学批判の特集号(タイトルは ``Science Wars'')なのです。やはり、これは大失態なのです。

ところが、Social Text 誌の発行元である Duke University Press の executive director を務めているスタンレー・フィッシュ(Stanley Fish、Duke University の Department of English の教授、大物文芸批評家)は、「ソーカル教授は自分自身の物理学者としての信用を悪用したのであり、むしろ悪いのはソーカルの方だ」と逆にアラン・ソーカルを非難する内容の記事をニューヨーク・タイムズに発表したのです(Professor Sokal's Bad Joke [Op-Ed], The New York Times [Op-Ed], 21 May 1996, p.A23.)。こうなると、全面対決を避けることはできません。その詳しい様子を知りたい人は、私が作成したソーカル事件のウェブ・ページもしくはソーカル自身ウェブ・ページを見て下さい。

さて、話をもとに戻しましょう。ソーカルが書いた“論文”は上で説明したように全くの冗談以外の何者でもありません。一体全体どのようにすれば、単なる抽象数学の公理に過ぎない the axiom of equality や the axiom of choice が現実の社会問題である legal and social equality や pro-choice に関係あるなどと信じることができるのでしょうか! 吉永は、以上で説明したようなことを踏まえた上で、

ソーカルの挑戦は、安易なアナロジーがいかに有害なものともなり得るかを教えたという意味で、いわゆる現代思想に反省を促したばかりでなく、複雑系の科学へのいい教訓を残したのではないかと思う。
と主張しているのでしょうか? 残念ながら、私にはそうであるようには見えません。ソーカルのパロディ論文は、安易なアナロジーどころではなく、全くのデタラメで満ちているのですから。

私の経験では、ソーカルの“論文”がどんなに馬鹿げたものであるかに関してほとんど触れずにソーカル事件を紹介する人は、あの“論文”の内容を真面目に受け取ってしまうことがどんなに恥ずかしいことであるかを直視したくない(もしくはできない)人であることが多いようです。この点において、吉永によるソーカル事件の紹介の仕方も相当に曖昧な感じです。ソーカルの“論文”は、吉永が言うように「アナロジカルな論理を連らねた論文」であるだけではなく、上で紹介したようにもっとトンデモないしろものなのです。しかも、そのトンデモないしろもののかなりの部分が、ソーカルの創作ではなく、権威ある学者達による一節の一字一句完全に正確な引用なのです。

そして、吉永による「複雑系」の解説の仕方は所謂「現代思想」の文体に近いものです。ソーカルが暴露したことは、所謂「現代思想」の権威達が、軒並揃って、科学に関してトンデモないデタラメを述べているということです。この問題は「安易なアナロジー」の問題で済ませられるものではなく、もっと根が深いものです。 (ある種の学者達には政治・社会・文化と科学的知識を安易に結び付け、標準の科学とは別の科学の可能性について語る傾向があります。ソーカルの“論文”はその語り口のパロディになっている。) 所謂「現代思想」に近い文体で科学について語る吉永自身もターゲットにされる可能性があるのです。実際、吉永はゲーデルの不完全性定理についての著書を書いており、その中には肝腎な点に関して全くのデタラメが書かれています


kuroki@math.tohoku.ac.jp (黒木 玄)