「知」の欺瞞ソーカル事件と『知的詐欺』以後の論争掲示板関連情報

村上陽一郎座長代理意見発表「STS研究の現状と問題点」

科学技術庁科学技術会議政策委員会21世紀の社会と科学技術を考える懇談会 (frame) :審議経過第2回会合議事録(平成11年4月20日(火)14:00〜16:00、科学技術庁第1、第2会議室)から村上陽一郎座長代理の発言を抜粋。


「ソーカル事件」「サイエンス・ウォーズ」という言葉が登場する段落だけを抜き出すと以下の通り:

 特にこれはアメリカの場合だが、例としてソーカル事件というのがあって、このソーカル事件というのは何かということはここでは説明しないが、最後につけ加えた「現代思想」の昨年の11月号で「サイエンス・ウオーズ」という特集を組んでいるが、この「サイエンス・ウオーズ」というのが実はこのソーカル事件を中心とした理工系の、特に理系からの反発とこういうSTS研究というものの間にある非常に強い緊張関係を示すものとして、こういう事柄も起こっているということはちょっとお耳に入れておけばと思った。

村上はどのような政治的意図でこのようなことを述べたのであろうか?

アラン・ソーカルは実際にはSTS研究そのものを攻撃していない。彼が何を批判していたかについては、彼の「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」を参照せよ。特にその「科学の社会的研究から得られるだろうと思っているプラスの事柄をいくつか挙げておこう」の後の説明を見よ。

確かに村上陽一郎個人の著作に含まれている発言の幾つかがソーカルによる批判のターゲットに含まれてしまうことになるであろうが、それをSTS全体が批判されているかのように語るのはおかしい。 (どのような発言が批判のターゲットになり得るかについては「微分の言い抜け」発言に関する議論を参照せよ。)

サイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態については「サイエンス・ウォーズ・キャンペーンとは何か」 (およびその補足) を見よ。ソーカル事件以後の論争については「ソーカル事件と『知的詐欺』以後の論争」を見よ。さらに、『「知」の欺瞞』関連情報も参照せよ。


○座長 今日、新たにご出席いただいた委員の方からそれぞれの立場で非常に説得力のあるお話をいただいてありがとうございました。
 ただ余りにも話がブロードになっているので、果たしてこれを私の力でまとめ得るかどうか、いささか不安だけれど、委員は科学技術あるいは科学哲学の専門家でもあるので、先生のお力にいろいろ頼ってこれから議事を進めたいと思っている。
 今日は委員から、キーノート・スピーチというような形になるかも知れないが、「STS研究の現状と問題点」ということでこれからお話をいただくことになっている。

○委員 一応30分いただけるものと思っていたのだが、時間的に大分押しており、多分半分ぐらいで切り詰めなければならないと思うので、すべてをリファーできるかどうか、ちょっとその点だけ最初にお断りをしておく。
 この懇談会のタイトルが「21世紀の社会と科学技術を考える」というわけだが、読みようが2つあるように思う。多分これは、このタイトルが決まったときにどちらにでも読めるようにということだったのではないかと思う。
 1つの読みようは「21世紀の社会」と「科学技術」を考える、つまり我々が迎えようとしている21世紀の社会の中で科学技術というのがどうあるべきかということ、それからもう1つの読みようは21世紀の「社会と科学技術」を考える、これは同じだといえば同じなのだが、違うと言えば多少違うところがある。
 社会と科学技術という1つのくくり方をすると、それは現在、先ほど委員がマイナーだとおっしゃったのだが、まさに現代の日本の中ではマイナーであって、大学の中でもほとんど認められていない1つの研究領域を構成することにもあるという点を今日の私の話の中では多少知っていただこう、この中にはその専門家の方々も何人かはいらっしゃるわけで、その方々にとっては非常にリダンダントなお話になることをお許しいただきたいと思う。委員がおっしゃったように、この領域というのは極めてまだマイナーである。日本では少なくともマイナーで、そういうものがあるということさえ必ずしも知られていない。しかし、社会と科学技術、あるいは科学技術と社会を考えるという研究領域が国際的に見れば育っているということをとりあえずちょっと概括してみたいというのが私の今日の主意であり、そのこと自身は、私も多少ともそのプロセスにかかわってきた人間としては、私自身の自己紹介の一部を兼ねるかも知れないということになる。
 それで、主として「STS研究の現状と問題点」という資料に従って話をさせていただくが、このSTSというのは、“Science, Technology and Sciety”、まさに科学技術と社会の英語のいわゆるアクロニムであって、頭文字をつないだ言葉である。場合によっては“Science, Technoligy Studies”という言い方もあり得るかと思う。この最後のSは場合によっては“Studies”であるかも知れない。後にちょっと外国の実例をご紹介するが、そこでも言い方は様々になっており、少しずつバリエーションというかバージョンがある。それを総体的にSTSと呼ぶことにさせていただきたいと思う。
 まずプレヒストリー、前史とでもいうべきものがある。これも後でご紹介することによってわかっていただけると思うが、自然科学というもの、あるいは科学と技術というものを外から眺める、特に歴史的なアプローチと哲学的なアプローチというものを試みようとする、そういう知的な営みというのが19世紀の末ぐらいから明確な形で少しずつあらわれてきた。
 当初は、科学というのが大変いいものだ、先ほど委員から「月光仮面」という比喩があったが、まさにそういう意味では科学に対する護教論的な姿勢を持って、科学というのはすばらしいものだということを説明するための歴史的な説明と、それから哲学的な分析というものをやろうというのが当初の目論見だったように私は思っている。
 しかし、1920年代ぐらいから少しずつ「専門家」と称する者があらわれて、なぜ「専門家」と言ったのかというと、当初の歴史的、哲学的に科学や技術を考えようとする人たちは大体科学者であったり技術者の、当の、みずから科学や技術に携わっている人たちがそういう試みをしたということになるわけだが、そうではなくて、20年代ぐらいからはそれ自身を専門とするような人たちが少しずつあらわれてきて、科学や技術に対する護教論的な視点というものから少しずつ離れ始めた。
 そして、それと同時に制度化というものが少しずつ実現してきて、大学では科学史や科学哲学の講義が置かれたり、一部の大学ではコースやプログラムも実現していく。Ph.Dコースなども少しずつ生まれてくる。
 それから、それに追いかけて、ちょうど半ばぐらいに、これが一番STSと直接的に関係があると思うが、科学を外から研究する学問のもう1つとして、科学社会学というものが、先ほど委員がおっしゃったが、誕生した。この科学社会学というのも非常に概括的に言ってしまえばどういう学問かというと、これは技術はちょっと置いておいて、科学だけについて言えば、科学者がつくり上げている社会というものが、これも1つの社会である。そういう社会がもう20世紀の半ばには非常に大きく存在として社会の中に目立ってくるわけだが、その科学者のつくり上げている社会の社会学的な特徴を分析していこうとか記述していこうとか、説明しようとする、そういう姿勢。それからもう1つは、そういう科学者のつくり上げている社会というのが下位社会、サブソサエティーであるとすれば、それを取り巻く外の社会とその科学者の社会との間の社会的関係を社会学的に記述したり説明しようとするわけであって、例えばこの最初の方からは特にシカゴなどの計量学的な姿勢の強いところでは、例えばサイエントメトリックスとか、それから、これはご存じの現在猛威を振るっているサイテーション・インデックスのような試みも、これは一種のプライベートな企業から発したものではあるが、出てきたり、つまり科学の業績だとかいったようなものを計量的に取り上げていこうとするような、そういう1つの流派というものも生まれてきた。
 もう1つは、先ほど委員から、科学というのは主観性というふうにとらえる可能性もあるのではないかというお話があったが、まさにある意味では知識論的な立場から科学を問題にしていくときに、科学にもやはり主観的な要素があるとか社会的な要素があるとか、単に客観的な絶対的真理だけを追いかけているとは言えない側面があるというような、そういう科学の社会性に強調点を置く発想も生まれてきた。
 それから、外部社会との関係を論ずるような側面では、まさにここで論じているような政治とのかかわり合い、行政とのかかわり合いである政策論、あるいは外部社会が科学者の社会をどうやって支援していくかという支援システム論、あるいは科学者の社会から生産された知識をどうやって技術的に応用していくか、あるいは科学者をどうやって養成していくか、あるいは軍事とのかかわり、医療とのかかわり、環境問題とのかかわりなどの外部社会との関連についての分析というものを生み出したということになる。
 そして、もう1つだけ忘れてはならないと思われるのが、一部の科学者に非常に強く戦後育まれてきた科学者の社会的責任あるいは倫理的責任という意識であり、ご承知のとおり核兵器以来、その問題というのは各国の、あるいは国際的ないろいろな運動になっており、その中で科学研究や技術的応用と社会との間の関係を問題にしていこうとする視点というのが育まれてきたというふうに考えることができると思う。
 例えばそこにご紹介した物理学者の社会的責任ということを問題にするグループ、日本の物理学者の一部の人たちが物理学会の中でそういうグループをつくっているが、そのサーキュラーである「科学・社会・人間」というのはもうかなり古くからこういう問題で多くの議論を重ねてきた。
 それが前史みたいなものであり、STSというのが現在ではどんな姿を持っているかということであるが、第2ページ2のところに現況の大ざっぱなアウトラインを描いてみた。これも前史に相当するかも知れないが、イギリスのP・ウイリアムスという人が構想しましたSISCON(Science In Social Context)、ここでは先ほどの倫理的な問題なども含めて科学と社会との間の関係を議論した様々な視点からの非常に実験的な教科書が彼らの手でつくられて、一部の大学ではそれが教えられたり、あるいは高等学校へおろされて、高等学校教育などにもそういう試みがなされたりした。これはいろいろ財政的な支援その他の問題もあって途中でなし崩しになくなっていくのだが、この影響はかなり大きくその後の展開に残った。
 制度的な面ではアメリカのPen-Stateが60年代の終わりにSTSの講義を置き、その後、Pen-Stateはアメリカにおける1つのSTS研究の中心的活動として、ネットワークなどの形成にも働きかけをしたり、オーガナイゼーションをやったりしている。
 そこには、70年代半ばからは国際的なボランタリー組織が、“Sociology of the Sciences Yearbook”というのを、特集号タイプで毎年出しており、これはかなりアカデミックだが、学術的な基礎を支えていると言えると思う。
 それから、この分野はSが大変多いのだが、アメリカでは70年代に、SSSS(“Four S"(Society for Social Studies of Science))というのが基本的にはこの分野の学会として誕生した。
 それからヨーロッパでは、80年代、ちょっと遅れてEASST(European Association for the Studies of Science and Technology)というのが誕生し、それからまたアメリカでは、また少したってNASTS(National Association for Science, Technology and Society)というのもできており、こういうのは出自をいろいろ探っていくといろいろ申し上げることができるのだが、細かい話は今は一切省略する。ただそういう学会組織ないしは研究組織が既に組織化されているということがわかっていただければありがたいと思う。
 それから、日本ではどうかと申いうと、向坊、岸田両先生の「科学技術と社会」というタイトルの書物が69年というかなり早い時期に出ており、これはこういう問題意識のきっかけになっていると思われるし、そこで岸田さんはともかくとしても、山田圭一先生のような、まさにその分野の専門家の方もコントリビュートしているわけである。
 それから日本では、90年代にここにもおられる中島秀人さんを中心として、非常に緩やかな、学会組織ではないが、ネットワーク・ジャパンというのが組織化され、これは今でも若手を中心に活動を繰り広げている。それが発展的にどうなるか、ちょっと剣呑な時期に差しかかっているが、それはともかく、98年の3月に、こういった組織を大体糾合したワールド・コンファレンスを日本で開催した。それが現状というか、組織化されているような状況である。
 では、現実にどういうことをやっているのかということになるわけだが、それが資料の3のところ。欧米の大学では、講義はもちろんのこと、先ほどマイナーという言葉が出たが、これは言葉の遊びだが、メジャー、つまり専攻のための学科とかPh.Dプログラムもかなりたくさん広がっている。
 例としてはイギリスの例とアメリカの例をそこに資料として束ねているので、ごらんいただければ幸いである。最初の方はUCL、ユニバーシティー・カレッジ論文のデパートメントで、“Science and Technology Studies”というもののデパートメントの内容である。おわかりのとおり科学史とか科学哲学とか科学社会学というものが中心になりながら、なお例えば“Science of War and Peace”とか、“The New Genetics and Society”というような、非常に現代的なトピックスや、ミュージアム、博物館問題などの、これは科学技術のポピュラリーゼーション、一般の人々の理解を深めるためにどうすればいいかというような問題の1つとして博物館が非常に大きな存在になるわけでだが、例えばそういうものが挙がっている。
 それからもう1つアメリカの例としてそこにジョージアテックの、これは工科大学なのだが、工科大学でもこういうプログラムが掲げられている例として束ねておいた。BS(Bachelor of Science)、理学士のためのプログラムであるとか、それからマイナープログラム、これはマイナーというのは先ほどの委員のマイナーではなくて、ご存じのとおりアメリカではメジャーに対してマイナーという言葉が使われるが、主専攻に対して別専攻といったようなものだろうか。つまり、ある専攻がある学生たちが、しかしそれだけでは満足できなくて、こういうコースをとってみたらどうなるかというようなプログラムとしてもある。これをごらんになると、先ほどの政策委員のお話にもあったが、科学技術を人文社会科学的な見地から検討するという意味では考えられるほとんどすべてのものを網羅しているということになるのはおわかりいただけると思う。
 つまり理工系、人文社会系と言われているが、それを全部ひっくるめて、しかも理工系から科学技術を考えるのではなく、人文社会系の立場から科学技術を考えようとする、そういう姿勢のすべてがほとんどここに網羅されている。先ほどから出ている教育の問題、政治の問題、倫理の問題、あるいは法律の問題、法律も何もITRばかりではなく、現代社会における法体系と科学技術のあり方の中に起こってくる様々な問題というのがあるし、環境の問題、あるいは経済、産業、雇用の問題、あるいは生活そのもの、我々の現実の生活そのものの中からあらわれてくるような問題のどこかで必ず科学技術とぶつかってくる、そういう立場で考えようとするプログラムがここに見られるということを1つごらんいただければ幸いである。
 それから、科学技術をでき上がったものとして、私はよくこういう比喩を使うのだが、展翅板の上に蝶を展翅すると、きれいに標本ができる。そういう科学技術ではなくて、まさに今進行中の研究なり研究開発、あるいは技術的応用といったようなものをどろどろしながら社会の中でまさに動いている状態としてとらえようとする視点、これがこういうところで見られるもう1つの特徴だと思う。かつての科学史や科学哲学、場合によっては科学社会学でさえそうだったと思うが、先ほどの展翅板に展翅されたような標本を扱う、科学というのはこういうものだ、技術とはこういうものだというふうに標本化されたものを扱うところから、現在進行中のものとして扱うというようなものへの視点の転換というものが見られるということ。
 これはつけたりだが、しばしば先ほどの男女共同社会だろうか、雇用法の施行されたところだが、例えばジェンダー論なんかとの関係というのも非常に大きなトピックスとしてしばしばこの中に登場している。
 日本では残念ながら大学における制度化というのは、ほとんどこのSTSというのは現在のところまだ制度的には着手されていない(資料の3ページ)。たまたま私が勤めているICUでは、文字どおりいろいろなディビジョンを超えたカレッジワイド・プログラムという形で講義を始めたところだが、これは学生たちは大変たくさん来ているが、残念ながらメジャーではないし、マイナーでさえない。1つの講義しか置かれていない。
 それからもう1つは、この専攻者が、メジャーとしてとった人たちが科学技術の行政や研究運営、マネージメントに当たる専門的な人材として一部で注目され、リクルートされつつあるという状況が、これは制度化の一面として申し上げることができると思う。ただし、こういうことが少しのさばり過ぎているというので理系の方からはかなり強い反発もあるということもつけ加えておかなければならないかも知れない。
 特にこれはアメリカの場合だが、例としてソーカル事件というのがあって、このソーカル事件というのは何かということはここでは説明しないが、最後につけ加えた「現代思想」の昨年の11月号で「サイエンス・ウオーズ」という特集を組んでいるが、この「サイエンス・ウオーズ」というのが実はこのソーカル事件を中心とした理工系の、特に理系からの反発とこういうSTS研究というものの間にある非常に強い緊張関係を示すものとして、こういう事柄も起こっているということはちょっとお耳に入れておけばと思った。
 最後に、レジュメの中に書いてない点を1つだけ、私の提案として申し上げさせていただきたいのだが、これはおわかりのとおり、先ほどからもいろいろな方がいろいろな視角からおっしゃっているのだが、理工系というものが孤立して存在しているわけではない。これは社会の中で存在していることでもあり、しかも同時に人文社会的な知識や経験、あるいはそういう学問体系とも無縁のところでただ何か囲いの中に囲い込まれたようにして存在しているものではないという視点に立つ限り、私はこういう問題を恒常的に議論していき、議論を積み重ね、資料を蓄積していくための組織が要るのではないか。
 それは倫理の問題でもそうだし、日本語にない言葉なので片仮名を使わせていただくが、インテグレーションという言葉がある。この議論と資料のインテグレーションを制度的にきちんとやって、そこから我々の判断や行動を組み上げていこうというそういう制度があれば、恒常的にそういうことができる制度があれば、これは今後の総合科学技術会議を支えるインスティチューションとしても機能してくれるのではないかというふうに思っている。そういう組織づくりが、これはそのまま行政の中にそっくりできるべきなのか、それとも民間の中にできるべきなのか、あるいは第三セクターとしてできるべきなのか、これは議論の余地があると思うが、とにかくそういうことが必要なのではないかということを最後につけ加えさせていただいて、とりあえず私の提題とさせていただく。
 どうも雑駁で失礼いたしました。