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養老孟司について

黒木 玄

2001年5月31日更新 (2001年5月29日公開)


目次


養老孟司の大誤訳

Ernst Mayr の書いた本は読む価値がある、しかし、

養老孟司訳、エルンスト・マイアー著、『ダーウィン進化論の現在』、岩波書店、 1994

は大誤訳だらけなので要注意である。現在品切中のようだが、図書館などで見掛けたときには注意を払った方が良いだろう。その理由は evolve ML の 7527 番の記事に転載された太田邦昌による次の批判を読めばわかる:

太田邦昌、「マイアーさんの思想 VS.養老孟司訳(1994)『ダーウィン進化論の現在』」、昆虫分類学若手懇談会ニュース、 No.76 (20/July/2000)、 pp.3-6、昆虫分類学若手懇談会事務局 (大阪府大・農学生命科学・応用昆虫学教室)

これを読むと、養老孟司はマイアーの基本的立場を理解してないどころか、進化生物学のイロハも知らずに進化論の本を訳してしまっている可能性があることがわかる。以下は太田による養老批判の紹介である。

マイアーと言えば「本質主義 (essentialism) 批判」と「種の実在論」で有名である。例えば、 46頁では「唯名論者……とは対照的に、今日に至るまでナチュラリストたちは種の実在をつねに一貫して支持してきた」とマイアーの主張が正しく訳されている。

ところが、養老孟司はキーワードの一つである "essentialism" を何十箇所にも亘って全部“実在論”と訳してしまっている (11、 45、 62〜77、 117、 133〜143、 159、 197〜199頁)。そのせいで、上に示した部分以外の箇所では、マイアーが一貫して種の実在論を否定しているかのように訳されてしまっているのだ。例えば、 65頁では「実在論者にとって、進化はありえない」などと訳されてしまっている。これは大大大誤訳である。

以上によって養老孟司はマイアーの基本的立場を何も理解せずに、デタラメな翻訳をすることによって、マイアーに関する誤解を広めることに貢献していることがわかる。

さらに、養老はダーウィン進化論のイロハさえ理解してない可能性がある。太田の批判を引用しよう (改行位置は見易く変えてある):

また97ページを眺めると、ダーウィン進化論の忠実な紹介を目的とした文中の文句であるにも拘らず、それを根底から覆すものとして遂に次の文句まで飛び出すに至る。曰く

“個々の生物は、自分の種に属する個体と競合するわけでなく、他種の個体と生存のためにたたかう”。

これはいくら何でもヒドイと思いつつ家に帰って原書を確かめてみると、上に挙げた諸例はやはり全て誤訳であること、特に最後の箇所(原書では p.64)は正しく訳すと

「個々の生物は、自分自身の種の個体と競合するだけでなく、他種の個体とも生存のためにたたかう」

となるべきものであること(勿論これは全く当然の話である!)が確認された。……

(太田邦昌、「マイアーさんの思想 VS.養老孟司訳(1994)『ダーウィン進化論の現在』」、昆虫分類学若手懇談会ニュース、 No.76 (20/July/2000) より)

ここで、養老による訳は“”で囲まれており、太田による訳は「」で囲まれていることに注意せよ。養老がもしも自然淘汰の考え方を理解していたなら、このような大誤訳をするはずがない。

太田は他に以下のような誤訳を指摘している:

以上で養老の大誤訳に対する太田による批判の紹介を終える。 (全ての点について、筆者自身が太田の指摘を完全にチェックしたわけではないので、読者は注意して欲しい。しかし、太田の指摘をより読み易くできるだけ忠実に再構成したつもりである。) 批判の全文が転載されている [evolve:7527] は evolve ML に参加すれば読むことができる。

進化論に関するイロハに関しては、「推奨文献リスト」の「進化」の項目を参照せよ。


科学研究に対するルサンチマンと「唯脳論」?

養老孟司はあちこちで科学研究に対するルサンチマン (恨み) を発散していると感じているのは私だけであろうか?

例えば、『現代思想』2月臨時増刊 2001 vol.29-3、総特集「システム 生命論の未来」の「科学と私」 (8-10頁) というエッセイの中で、養老孟司は、

 それでも大学で給料を貰えたのは、科学者のフリくらいはしたからであろう。論文らしきものも書いた。しかしその興味がとことん自分に発したものでないかぎり、本当にはうまくいかない。借り着は身につかない。いまは教師のフリをしているが、このほうが楽である。

だとか、

 科学は個人的営為か。これを倫理と言い換えてもいい。現代の日本社会では、倫理は世間の規則と見なされている。科学も同じで、要するに世間的なものなのである。だから「客観」評価が問題になる。評価は世間に通用するものでなければならないからである。乱暴に言えば、自分で納得がいかなくたって、世間に通用すればいい。

 私は万事を正反対に考えていた。……

のように科学研究の世界に適応できなかったことに対する愚痴と言い訳を延々と述べ続け、最後に次のように述べているのだ:

 こういう馬鹿みたいなことを考えていれば、科学もクソもないであろう。世間の人は、もっとちゃんしたことを、きちんと考えるのだと思う。ただ私の頭は、こういうことが解決しないと、考えが進まないようにできている。意識が同一性を主張する理由は、状況的には明らかである。そうでないと、脳内活動がバラバラになるからである。はふつうの人が思っているより、異質な活動を組み合わせている。それを総合する役割を持つ意識は、俺は俺だと古来から断固として主張する。そうしないと、人間の脳活動はまさしく「分裂する」に違いないのである。だから分裂病質の人は、わけのわからないことをよく考えるのであろう。自分の脳の整合性を保つのに苦労するからである。

ここで強調は引用者による。養老孟司が「唯脳論」で有名であることを思い出しながら、「脳」という言葉をどのように用いているかに注目せよ。養老孟司は自分自身のルサンチマンを「脳内活動」や「自分の脳の整合性」のような言い方で正当化しようとしているのである。

解剖学に関して一流であり、世間でも有名人としてあれだけ認められているのだから、科学に対するルサンチマンをみっともなく垂れ流さなくても良いと思うのだが……。

少し上の方に戻ると、養老孟司は科学研究について「自分で納得がいかなくたって、世間に通用すればいい」ものだと決め付けているが、そこで養老が言うところの「世間」とは一体何なのだろうか? 現在の養老は (通常の意味での) 世間における有名人として認められているようだが、そのことにそれなりに満足しているのだろうか? しかし、マイアーの本などをデタラメに翻訳して害毒を流しているようでは、科学的には迷惑な人物とみなされて当然である。そして、 (通常の意味での) 世間においても科学に関しては信用できない人物であるとみなされるべきである。そうでなければ養老が広めている科学的なデタラメに騙される人が世間的に増えてしまうことになる。

ところで、脳に関する科学的に面白い本に養老孟司の解説文がおまけて付いて来ると不快になるのは私だけだろうか? その本を他人にすすめるときに「但し書き」が必要になってしまう。


自閉症はやる気がない?

養老猛司は森村泰昌との対談 (『科学』2001年4+5月号から続いている6月号) の中で次のように述べている:

まず問題は,言語ができないのか,やる気がないのか.自閉症の場合,典型的にやる気がないんです.あとで突然喋りだす子がいるんだから.
(『科学』2001年6月号、684頁、右段15-17行目より)

この発言はあまりにも無神経過ぎると思う。この件は、高畑義啓氏によって、 science ML の5453番の記事において、リニューアルされた岩波『科学』に対する批判とともに紹介されている。高畑さんの批判は非常にもっともである。

「自閉症」に関しては「推奨文献リスト」の「自閉」の項目も参照せよ。

[science:5457] Re: 岩波「科学」6月号


共通一次試験で全国一位をとるような?

さて、このような養老孟司を茂木健一郎は「クオリア日記」で次のように褒め讃えていた:

養老孟司と言う人は、例えて言えば、共通一次試験でその年の
全国一位をとるような圧倒的な頭の良さを持っていて、
その上にある種の覚悟とストイックな履歴でこの上なく厳しい、
磨き上げられた日本刀のように厳しい世界観(Weltanschauung)に到達した
人だと思う。
(茂木健一郎「クオリア日記」2000年11月19日)

そもそも「共通一次試験でその年の全国一位をとるような圧倒的な頭の良さ」という言い方で褒めたつもりになっているという神経を私は理解できない。ほとんど褒め殺しである。とにかく、上に紹介した太田による批判を見ればわかるように養老は決して茂木がそのように信じているような人物ではない。

少なくともマイアーの本のデタラメな翻訳を行なったという実績があるというのは事実である。

個人的には養老孟司に一般向けの科学雑誌が原稿を好んで依頼しているという事態は非常に奇妙なことだと思う。どのような人たちが養老孟司に“リスペクト”を表明しているか、逆にどのような人たちの活動を養老孟司が支援しているか、どのような人たちが養老孟司と一緒に本を出しているか、などなどは注意して観察しておく価値があると思う。そのあたりの動向については、掲示板に書いた「このあたりの動向について」を参照せよ。