黒木 玄
2001年4月25日リンクを追加 (2001年4月22日作成)
リンク歓迎! 宣伝歓迎!
予備掲示板2と黒木のなんでも掲示板より。
より詳しい情報については中西準子のウェブサイトを見て下さい。
リスク論一般および中西準子に対してどのような批判があるか。
[覚書 (2001年4月23日18時頃) 平川秀幸の講義「科学・技術と社会」の部屋・分室は「講義「科学・技術と社会」の部屋へは、トップページからパスワード認証を経てお入りください」という状態に変化していた。パスワードをかけなければいけないほど都合の悪いことが書いてあったのだろうか? 平川の講義資料は様々な意味で参考になったので残念なことです。再度公開されることを希望します。]
松崎早苗 (物質工学工業技術研究所)、第5回つくば人間学講座『環境ホルモンについて』 (1999.02.13 (土) 14:00〜)、松崎早苗の講演の秋元靖史による記録
宮田秀明 (摂南大学薬学部教授) の発表内容は井手よしひろ (茨城県議会議員) のウェブサイトにおける「茨城県のダイオキシン対策」 (1998年6月10日) の「竜ヶ崎地方塵芥処理施設の周辺住民から高濃度のダイオキシン検出」で読める。
読者は、「(笑)」という態度で扱っても構わないようなことを中西準子が言っているかどうかについては、中西が書いたものを見てから判断した方が良いだろう。中西準子による宮田秀明批判は、「環境ホルモン空騒ぎ」 (新潮45、 1998年12月) だけではなく、雑感の 47, 105, 115 にもある。例えば、中西は雑感 115 (2000.12.26) で
宮田さんのデータの詳細を示してほしい。行政側に情報公開を求める学者が、自分のデータは結果だけマスコミに出し、詳細データは隠す、クロスチェックは認めないではおかしいではないか。
と述べている。また、「環境ホルモン空騒ぎ」では
ところが魚介類多食者のリスクは最も高く、一万分の六、焼却炉周辺住民は一万分の四である。当然、これでも削減対策が行われるべきレベルではある。ただ一部で騒がれるようにごみ処理場の周辺の半分もの住民がダイオキシンが原因でがんになるというような荒唐無稽な事態は到底考えられないことである。
と述べてます。中西は、削減対策の必要性は認めた上で、宮田の結果を否定し、大袈裟に騒ぐなと言っているのだ。
平川秀幸によるまとめは様々な意味で非常に参考になるが、この文書の他の節で説明していることに関して注意して読まなければいけない。平川によるリスク論批判と中西準子の対応する主張を比べてみると面白いと思う。果たして平川による批判は中西に当てはまるのか? (この文書の他に中西準子の 3-126. 雑感(その126 -2001.4.9)「これは、リスク論批判なのかな?」も参考にせよ。)
辞書的には、リスク (risk) は「自分自身の責任でおかす危険」という意味であり、ハザード (hazard) は「責任が自分自身にない危険、すなわち偶然や自然もしくは他者によって引き起こされる危険」という意味である。
しかし、中西準子の意味でのリスクとハザードはこれとは意味が異なる。だから、中西のリスク論には「リスク=能動的危険のみを強調し、ハザード=受動的危険を無視するのは、受動的な被害者の立場を無視したおそろしく偏った考え方である」という類の批判は適用できない。実際に別種のリスク論をそのように批判している方がいるので注意しなければいけない。
ついでに述べておけば、アメリカで発達してきたリスク論と中西の環境リスク論も区別しなければいけない。この点については「可塑剤工業会の平稔彦によるインタビュー」を見て欲しい。
さて、中西準子の場合は物質の危険性について「リスク」と「ハザード」を次のように区別している:
実際、中西は「環境ホルモン空騒ぎ」の中で次のように説明している:
ダイオキシンに関する議論で一番の問題は、「ハザード」と「リスク」の区別がないことである。例えばある物質の一グラムのもつ毒性が他の物質一グラムの毒性に比べて大きければ、その物質はハザードである。ダイオキシンは間違いなくハザードである。しかし、人の健康への危険度、つまりリスクはその物質の毒性の強さと摂取量とで決まるから、強いハザードでも摂取量が小さければリスクは小さくなる。人間にとって大切な指標は、ハザードとしての特性ではなく、リスクの大きさとその特性である。
中西準子のリスク論の出発点は「我々は、ハザードではなく、リスクを管理しなければいけない」という考え方である。そして、中西のオリジナルなところは環境への悪影響も考慮に入れてリスクを総合的に評価しようとする点なのだ。
例えば、その物質の毒性が強いという理由でその使用を禁止したとしても、その物質の使用によって得られていたメリットが失われるせいで別のリスクが生じる場合もあるし、代替物質の使用によってリスクが増す場合さえあるかもしれない。また、その物質の使用中止に必要なコストやエネルギーが莫大であるとき、使用中止が結果的に環境悪化をもたらすかもしれない。
だから、ハザードだけに注目して、その物質の使用を安易に禁止することは、リスクを下げるために役に立つどころか、逆効果になる場合さえある。そして、リスクを正しく見積もるためには、視野を広げ、メリットとデメリットの双方を無視せずに、総合的に評価しなければいけない。
予防原則 (precautionary principle) とは大雑把に言って「リスクを正確に評価できなくても、ある物質の使用が原因で重大で不可逆な被害が生じる可能性がある場合には、その物質の使用をできる限り回避するべきだ」という考え方のことである。この考え方は細部が曖昧なので様々な強さの予防原則が提案されている。最も極端な場合には「疑わしい物質は全て使用を禁止するべきだ」という主張に化けてしまう。
予防原則の重要性を説いている人たちは単純な予防原則自身がリスクを増大させる可能性に無頓着である場合が多いようだ。 (そのような人たちは「科学」という言葉に極端な意味を持たせて、常に悪い意味で用いていることが多い。)
そういう人たちは、単純に次のように考えるのだ:
しかし、実際には、中西がリスク論に基いて批判するように、単純な予防原則の適用は、環境悪化を招き、我々の健康に対するリスクを増大させたりする場合がある。また、単純な予防原則の適用がある種の企業にとって有利になることもあるので、結果的に企業と予防原則を強調する学者が結託してしまう可能性もある。
上のように単純な考え方をしている人たちは、単純な予防原則のこのような欠点を認めようとせず、別の一方ではリスク論の方を極度に戯画化することによって否定しようとするのだ。このような不合理な考え方を広めることには誰にとってどのようなメリットがあるのか?
リスクを回避するためには予防原則という考え方も取り入れるべきである。しかし、極端で単純な予防原則に走り、中西準子の意味でのリスク論を否定してしまうようではいけない。そのような単純予防原則論者は、ある物質の使用を禁止したときに生じる悪影響を無視することによって、リスクをむしろ増大させてしまうことになるかもしれない。
逆に、中西準子のリスク論の考え方を取り入れた穏健な「予防原則」 (もしくはより一般に穏健な科学論 (STS)) であれば支持して構わないと思う。 (そのような穏健な「予防原則」や科学論 (STS) を論じている科学論者がいるかどうかを私は知らない。)
中西は 3-126. 雑感(その126 -2001.4.9)「これは、リスク論批判なのかな?」の中でこう言っている:
言葉としては、リスク論はおかしいということが何回も出るのだが、むしろ、言っていることをよく考えると、リスク論が必要とならざるを得ないように思えるのである。