谷山豊の数学観

以下に引用する谷山の杉浦への手紙の内容は、大変優れた数学論になっている。 注目するべきところは、数学的実体に関する歴史主義や数学研究に対する pragmatic な見方など色々ある。例えば、 とよくある2つの考え方を述べた上で、「何を目的とし、何を手段として考へ るかの相違ですが、両方とも正しい考へとは云ひ難い様な気がします。」と 両者を等しく批判的に論じている点は注目に値する。

『谷山豊全集』(日本評論社)増補版 pp.305--307 より

杉浦光夫へ

1954 年 7 月 30 日
埼玉県 騎西 より (封書)

御手紙有難う。月報も受取りました。僕の、なぐり書きの原稿をもとにして校 正するのは大変だったでせう。

月報の内容をざっと見て見ましたが、やはりカルタンの業績が、読みごたえが ある様です。数学的内容の、短かい記事が幾つかあっても良い様な気がします。 今度は急いで作ったため、原稿を依頼したり集めたりする暇がなかったのでせ うが、全国連絡会の記事にもある様に、数学の地図を作ること、各部門の歴史 を作ること、それも、数学辞典みたいに網羅的(と云ふことは、アクセントが ないといふこと)でなく、又年代記的な歴史ではなくて、現在の中心課題にピ ントを合せて、その等のものをまとめて行くこと、これを、名著解題と平行し て月報の恒久的な企画の一つとしたらどうでせうか。及川のリーマン面や君の 第5問題の話など此の線に沿うものかも知れませんが。

最近一寸考へているのですが、数学の実質的部分は classic なものにあり、 抽象的なものは、それを定式化し、解決するための方法にすぎないと云ふこと、 此れは一寸変だと思ひませんか、classic 乃至具体的なものと、抽象的なもの とを、此の様に機械的に分離することは、現代の数学の本質を把握し、それを 発展させるに適当な方法でせうか、数学とは無矛盾な公理系から論理的に導か れる体系であると云ふ考へ方、此れは、抽象数学を“輸入”した日本では、容 易に根を張り得る考へ方ですが、此れに対するアンチ・テーゼとしては、以上 の様な考へ方は、有意義ですが、やはり事の真相をとらへたものとは云ひ難い のではないでせうか。

数学的実体と云ふものが存在し得るとすれば、それは公理系により定義される 抽象的な概念でもなく、又具体的に存在する、数、空間、物理現象、乃至それ 等の関係、運動法則と云ふものでもない。常識的な様ですが、具体的な多くの 異なったものが、一つの抽象的な概念の下に統一され、又多くの抽象的な概念 が一つの具体的なものの中で関連する。此の二重の関係が、その本質を究明す る鍵ではないでせうか。

例へば、合同ζ-函数考へませう。それは、抽象的な代数函数体に於る、 Riemann のζ-函数の類似物であると考へれば、此の考へは、抽象的な把握で す。又それは、代数体のヂォファンタス合同式の解の性質を表すものである と考えれば具体的把握と云へませう。 (此れはGaussの立場です。) 然し合同 ζ-函数の本質はもっと深い所にあるのであって、此の2つの把握は、それを、 その各々の立場からとらへたものに過ぎない。そしてもっと深い立場に入れば、 抽象的とか具体的とか一概に区別出来なくなる。尤も、合同ζ-函数と云うの は、全く具体的なものだと云ふのなら別です。

では fibre bundle を考へませう。此れは、月報の記事によると、カルタンの Riemann 幾何から出たものである様ですが、確かにさうなのでせう。恐らく最 初に此の概念を扱った Chern の論文では、大体その様なものとして、fibre bundle を把へていますから。然し此の概念は、非常に広い範囲で有効である、 微分幾何、トポロジー、代数幾何だけでなく、例へば多変数函数論の Cousin 第二問題が、本質的には projective line bundle の分類の問題であることは、 此の間の一松さんの話にあった通りです。此れは、公理主義の一つの勝利とも 見られますが、然し此の場合にも、公理主義の果たした主要な役割は、整理す ることにあったので、例へば、岡さんの方法は、faisceau の概念の一つの基 礎になったものですが、岡さんが、fibre bundle との類推からその様な方法 に到達したのではない。とにかくも、此の時、2つの考へ方が可能である。 「fibre bundle なる一つの概念が多くのものの基礎にあるのであるが、それ を体系的に発展させるには、単なる抽象論では駄目で、それの表れている具体 的な事実から、或る意味で帰納的に進んで行かなければならない。」「或る部 門に於ける重要な事実は、fibre bundle なる概念によりうまく表現され又そ れにより、他の部門の同様な事実との関連が明かになり、此の抽象概念を使ふ ことにより、その具体的な問題を、見透しよく進めることができる」――何を 目的とし、何を手段として考へるかの相違ですが、両方とも正しい考へとは云 ひ難い様な気がします。具体的なものと抽象的なものとの交錯するその奥に、 数学に於ける実体がある。大体、実体なるものは固定したものではなくて、時 と共に移り変って行くものなので、例へば昔、計算の手段として考へられた複 素数が、現在では実体と考へることに誰も異義はないでせう。そのとき、以前 にはそれが実体であることがわからなかったと考へるよりも、18世紀の数学で は実体でなかったものが、19世紀には実体となったと考へる方が自然でせう。 大体、数学的実体なるものは存在しないと考へた方が良いか、さもなければ、 実体であるか否かの判定法は、それから導かれる定理によるので、此れはいつ か君の云っていた、「自然は簡単を好む」と云ふ原則を無条件に承認すること で、例へば、有限単純群が、簡単な図式により分類されれば、それは数学的実 体と云へるが、さうでなければ、それは一つの便宜的な概念にすぎないと云ふ ことです。此れは、多くの数学者が無意識的に取っている立場であって、要す るに実体は存在しないと云ふのと大差ない。

少し混乱しましたが要するに――実体なんてものはどうでも良いのであって、 数学の実質的部分は、興味ある定理の体系であり、或る体系に興味を与へるの は或は実際的な応用であり、或は具体的な、非実際的な種々の事実であり―― 或は抽象的な概念であり、そしてより多くは、此等のものの、様々な形での交 錯である。そしてそれ等を通して、それを底から支へているのは、数学の統一 性、法則性に対する無理由の信頼である、そして此の信頼が、何等かの事例に より確かめられれば、我々は感激するのである。要するに数学とはそんなもの なので、公理体系でもなければ、具体的なものの属性でもなく、その他色々な ものでもない。こう考へるのは少し pragmatic かも知れません。

所で、S.S.S. の財政困難のこと、余り名案も持って居りません。現代数学の 紹介と云ふこと、非常に結構な考へだと思ひますが、それには、journalistic なセンスが大部必要で、相当案を練る方が良いでせう。調子を落とさずに、而 も一般の人にわかり易く書くと云ふのはむずかしいことです。暇なときに少し 考へて見ることにしますが、僕の方の分野では、問題自体は大抵、わかり易い 表現を持っていても、方法が甚だ難解なので、あまり良い例もない様です。と にかくも、公理主義的なことは、一寸読んですぐにわかった様な気になれるの に反して、少し深いことを説明するのは大変です。君の挙げた例でも、リー群、 ベッチ数、微分形式、コホモロジーなどの概念の真の意味を説明するだけでも大 変なのではないでせうか。形式的な定義だけなら簡単でせうが、尤も此の様な 企画をやり遂げることにより、その対象及びその発展の歴史を本当に把握する ことが出来るでせう。つまり、此れまで当り前のことの様に使っていた概念の 上にあぐらをかいた認識ではなくて、それ等の概念は、此の理論には本質的に、 どんな形で、どんな根拠の上で、入り込んでいるかが、一番始めからわからな ければ、わかり易く説明することは出来ないでせうから。

とにかくも、僕の方の分野でも、何か考へておきませう。

家に来てから今まで、つまらないことをゴタゴタ勉強している中に、いつか日 が経ってしまひ、おまけに健康状態も少しあやしくなって来て、一寸弱ってい ます。8月になってから、少し面白い勉強でもしようかと思っています。合同 ζ-函数の話は少し先にのばすことにしました。とてもひまがありません。

では又。


kuroki@math.tohoku.ac.jp