From reform-admin@ed.niigata-u.ac.jp Mon Sep 11 18:10 JST 2000 Received: from cosmos.ed.niigata-u.ac.jp (cosmos.ed.niigata-u.ac.jp [133.35.176.6]) by sakaki.math.tohoku.ac.jp (8.9.3/3.7W) with ESMTP id SAA14805 for ; Mon, 11 Sep 2000 18:10:43 +0900 (JST) Received: from cosmos.ed.niigata-u.ac.jp (localhost [127.0.0.1]) by cosmos.ed.niigata-u.ac.jp (8.9.3/3.7W) with ESMTP id PAA07848; Mon, 11 Sep 2000 15:54:26 +0900 (JST) Date: Mon, 11 Sep 2000 15:56:57 +0900 From: reformad@ed.niigata-u.ac.jp (reform-ml) Reply-To: reform@ed.niigata-u.ac.jp Subject: [reform:03110] 20 世紀の大学=天野郁夫 To: reform@ed.niigata-u.ac.jp Message-Id: <200009110642.PAA22648@yahiko.ed.niigata-u.ac.jp> X-ML-Name: reform X-Mail-Count: 03110 X-MLServer: fml [fml 2.2.1]; post only (only members can post) X-ML-Info: If you have a question, send e-mail with the body "# help" (without quotes) to the address reform-ctl@ed.niigata-u.ac.jp; help= X-Mailer: Eudora-J(1.3.8.8r7-J16) X-Sender: reformad@133.35.177.100 Mime-Version: 1.0 Precedence: bulk Lines: 188 Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp Content-Length: 13817 he-forumから転載します。             9月11日 大学改革情報ネットワーク [he-forum 1237(9/2)] 『書斎の窓』(有斐閣)2000年9月号 《20世紀をふりかえる》 17   20世紀の大学=天野郁夫  科学史の 「定説」 によれば、 科学の中心地は18世紀の後半にイギリスか らフランスに、 19世紀の中頃にドイツに、 そして1930年代の末にはアメリカ に移動したとされている (ヨゼフ・ベンデビット、 潮木守一・天野郁夫訳 『科学の社会学』 253頁)。 それを裏付けるデータとして、 たとえばノーベ ル科学賞の受賞者数をみると、1901〜30年にはドイツの26に対して、 アメリ カは5にすぎなかったものが、 1931〜50年にはドイツ12、 アメリカ24と逆転 した。 1951〜66年になるとドイツ7、 アメリカ44と、 アメリカのひとり勝ち に近い状態になり (同書258頁)、 それが現在まで続いていることは、 周知の 通りである。  科学と科学者の最大の宿り場は大学である。 科学の中心地の移動は、 その まま 「学問の府」 である大学の中心地の移動を意味している。 19世紀がド イツ大学の世紀であったのに対して、20世紀はアメリカ大学の世紀になったの である。  その科学と大学の中心地の移動期にアメリカを訪れたマックス・ウェーバー の、 興味深い指摘が残されている (上山安敏他編訳 『ウェーバーの大学論』 木鐸社、 1979)。 ウェーバーが、 セントルイス万国博覧会に際して開かれた 世界学術会議に出席すべく、 アメリカを訪れたのは、 1904年のことである。 それから7年後の1911年、 ドレスデンでの大学教員会議で、 彼は 「北アメリ カの大学におけるドイツの大学と異なる諸制度」 というテーマで、 報告を行っ た。  ウェーバーの米・独比較大学論の焦点は、 大学と官僚制の関係にあり、 学 問研究の水準の比較にむけられていたわけではない。 第一次大戦前のアメリ カ大学の教育研究水準は、 ドイツ大学のそれに、 はるかに及ばなかった。 当時の日本を代表する知米派・国際派の学者、 新渡戸稲造が指摘しているよ うに (加藤勝治 『米国大学と日本学生』1918年、 序文)、 「ヨーロッパの新 知識が日本に劣らず輸入されて、 其知識の研究に要する設備に至ってはヨー ロッパを凌ぐの勢」 になり、 「アメリカの大学の授ける学問が従来と趣きが 大に異なって」 きたのは、 第一次大戦後のことである。  それはともかく、 アメリカ大学の特徴として、 ウェーバーが注目したのは、 第一に大学間の激しい競争、 第二に学長の強大な権限であった。  「アメリカの大学はドイツの大学と比べものにならないほど、 互いに競争 しあわなければならないということです。 シカゴ市だけでもふたつの大学が あり、 イリノイ州にはこれとは別にもうひとつ州立大学があるという状況を 見ただけでも、 すでに競争の現況を推察するに余りあるといえましょう。 し かもこの競争は原則として自由競争なのです。 現代の工場企業と同じく、 能 力--少なくとも若手教師の能力--に関して容赦のない選別を、 ドイツのどの 大学よりもはるかに容赦なく、 行っている点から見ましても、 アメリカの大 学は競争研究機関の性格を帯びております」 (上山前掲書、 85〜86頁)。  「(アメリカの大学では) 学長が大学を管理していますので、 これが国であ れば文部省の操縦がなければめったにうまく運ばないことでも、 すべて学長 が処理することになります。 学長の事実上の権限は、 形式上よりもはるかに 大きいものです。 彼らは、 若手教員層の大学民主主義に依拠することによっ て、 わが国のいわゆる学部ですら、 王手詰めにやりこめてしまうことができ るのです」 (同書92〜93頁)。  ウェーバーの大学論についてはまた、 かれがその最後の講演 「職業として の学問」 (1919) のなかで、 ドイツ大学における自然科学系の研究組織の企 業化―官僚制化の問題をとりあげていることが、 注目される。 「医学や自然 科学系統の大きな研究所 (インスチチュート) は 「国家資本主義」 的な企業 である。 それを運営するためには、 とても大規模な経営手段が是非ともなく てはならない」 (出口勇蔵訳 「職業としての学問」 『ウェーバー宗教・社会 論集』 所収、 河出書房、 1968、 367頁)、 そして、 大学の企業化、 研究 組織の官僚制化の先頭を走っていたのもまた、 アメリカ大学に他ならなかっ た。  20世紀初めの時点で、 ウェーバーは、 やがてドイツの大学がアメリカに追 い抜かれる日がやってくると予想していたわけではない。 官僚制化し、 硬直 化しはじめたドイツ大学を批判するために、 アメリカの大学をひきあいに出 したにすぎない。 しかし、 資本主義の20世紀に勝利をおさめることになった のは、 自然科学を中心に、 大学の内外に競争的な環境をつくりあげ、 学長 の強いリーダーのもとに経営と教学を分離し、 共同体性よりも企業体性を重 視してきたアメリカの大学であった。 ドイツ大学の近況を伝える 『ニューズ ウィーク』 誌 (1997年12月10日号、 日本版) は、 かつて世界一の名をほし いままにしたドイツの大学が、 いまや危機的な状況にあること、 無気力で官 僚的な教員が増え、 ノーベル賞受賞者は減り、 優秀な外国人学生はもちろん、 ドイツ人学生までもがアメリカをめざすようになったこと、 国際的にみてド イツの大学は 「質でも能力でも」 競争力を欠いていること、 などを報じて いる。 一世紀の時間の経過は、 ウェーバーの (おそらくは) 想像もしなかっ た変化を、 大学の世界にもたらしたのである。  アメリカ大学の成功は、 学問研究の領域だけにあったのではない。 それは 教育機会の拡大についても、 先駆的な役割をはたしてきた。 1865年、 エズ ラ・コーネルは 「誰でも、 何でも学べるような大学」 を理想に、 多額の私 財を投じてコーネル大学を創設したが、 その理想はアメリカの、 とくに州立 大学やコミュニティ・カレッジに代表される公立高等教育機関に引き継がれて 現在に至っている。  1865年といえば、 大学がまだひと握りのエリートのものだった時代である。 20世紀の前半もまだエリート大学の時代であり、 ドイツ大学はその典型とみ なされていた。 その時代にアメリカは、 市民のため、 大衆のための実用的 な大学づくりをめざし、 教育機会の開放をおし進めてきた。 いまやヨーロッ パやアジアの諸国にまで及びつつある、 高等教育の 「マシフィケーション」、 さらには 「ユニバーサリゼーション」 の大波は、 アメリカから始まったも のである。 20世紀はその意味でもアメリカ大学の世紀であった。  そうしたアメリカ大学の成功が、 どれほど各国の大学・高等教育システム に影響を与えてきたかは、 いま世界的に進行中の大学改革の具体的な内容や 方向をみればわかる。 そこにみられるのは 「アメリカナイゼーション」 と よぶにふさわしいほどの強烈な衝撃であり、 しかも日本は、 受けつつある影 響の大きさで群を抜いている。 日本の大学・高等教育の20世紀は、 アメリカ との関係抜きに考えることはできないといっても、 いいすぎではない。     *  日本の最初の近代大学は、 いうまでもなく1877年、 東京開成学校と東京医 学校を統合して発足した東京大学である。2校のうち、 東京開成学校が 「英 米大学の規定に準拠」 するものであったのに対して、 医学校はドイツ大学を モデルにしていた。 その2校の統合にあたって、 アングロサクソン・モデル とドイツ・モデルのどちらをとるのか、 当時医学校のドイツ人教員であった ベルツの日記には、 さまざまな揣摩臆測のあったことが書かれている (天野 郁夫 『旧制専門学校論』 玉川大学出版部、 1993)。 この問題は、 1886年、 東京大学が帝国大学に変わる際、 ドイツ・モデルを選択することで結着をみ た。 ドイツ大学全盛の時代に、 それは当然の選択であったといってよい。 留学生の流れも滔々とドイツ大学にむかった。  しかし、 それはあくまでも帝国大学をはじめとする 「官学」 の世界での 話であり、 「私学」 の場合には、 ミッション系はいうまでもなく、 慶應義 塾も早稲田もアメリカ大学の影響を強くうけていた。 「誰でも、 何でも学べ る大学を」 というアメリカ的な大学の理念を担ったのは、 日本では 「私学」 であった。 アメリカ・モデルの私学とドイツ・モデルの官学。 この両者の対 立的関係は戦前期を通じて、 日本の大学改革論議の支配的な論点であり続け た。  そして1945年の敗戦と、 それに続くアメリカ占領下での大学改革の時代が やってくる。 帝国大学、 その他の官公私立大学・高等学校・専門学校・実業 専門学校・師範学校など多様に分化した高等教育機関は、 すべて新しい四年 制の大学に再編・統合されたが、 そのモデルとされたのは市民社会型のアメ リカ大学、 それも州立大学であった。 一県一大学を原則に、 県内のすべて の高等教育機関を統合して発足した新制国立大学については、 これを県に委 譲しようという構想すらあった。  しかし、 その占領下の強制的な改革によっても、 アメリカ・モデルの 「移植」 は成功しなかった。 制度の外形はたしかにアメリカ大学に近づいた ものの、 大学内部のさまざまな慣行も、 教育研究活動を営む人々の意識も、 ドイツ・モデルの支配した戦前期のそれと大きく変わることはなかったからで ある。 それは日本の大学の 「原型」 ないし 「理念型」 が、 なによりも、 ドイツ近代大学にならった 「帝国大学」 に求められ続けたことと、 深くか かわっている。 国家の手厚い庇護のもとに特権的な地位を享受してきた 「帝 国大学」 は、 他の高等教育機関、 とりわけ私学とは隔絶した教育研究の水 準を誇ってきた。 アメリカ・モデルの私学もまた、 そのドイツ的な帝国大学 に追いつくことに、 大学としての理念型を求めざるをえなかったのである。  20世紀の半ばに行われたドラスチックな大学改革も、 すでに半世紀余の歴 史をへたこの基本的な構造を突きくずすことができなかった。 日本の大学に は、 伝統的な私学をふくめて、 アメリカ大学のように強い権限をもった学長 は出現せず、 大学間・大学内のきびしい競争も生じなかった。 競争はわずか に受験競争の形で展開されるにとどまった。 一般の教授・学部長はいうまで もなく、 学長まで同輩の投票によって人事が決定される教授会自治の強い、 「共同体」 型の日本の大学は、 アメリカのように 「企業体」 化することも なく、 文部省の官僚制的支配のもとに、 戦後一挙に拡大された 「自治」 を 享受してきた。 それは、 国立大学を、 めざすべき理念型とみなす私立大学 についても、 基本的に変わりはなかった。  そして世紀末のいま、 日本の大学は、 再び改革の大波にゆさぶられている。 1991年の大学設置基準の大綱化に始まるその改革の大波が、 「アメリカナイ ゼーション」 と呼ぶ他はないものであることは、 改革論議のなかでとびかっ ている、 その多くは横文字のジャーゴン群をみれば明らかである。 シラバス、 FD、 TA、 OA、 アカウンタビリティ、 ビジネススクール、 ロースクー ル、 そして任期制、 授業評価、 外部評価などなど、 それらはいずれもアメ リカ大学が開発し、 発展させてきた 「装置」 に他ならない。  しかしこれらは、 いわば 「小道具」 レベルの装置にすぎない。 より基本 的なのは、 世紀の初めにウェーバーが見抜いたアメリカ大学の 「企業体」 的な性格、 それを支えるきびしい大学間・大学内の競争の原理と、 競争を勝 ちぬく上で求められる学長の強いリーダーシップである。 その意味で、 国立 大学の独立行政法人化論の本質は、 行財政改革からする数合わせにあるので なく、 「アメリカナイゼーション」 の総仕上げに、 また、 競争原理の全面 的な導入と大学の 「知の企業体」 化にあるとみるべきだろう。  20世紀初めのドイツ大学についてウェーバーは、 国家と大学の関係と、 大 学内部における自然科学系の研究教育の肥大の2点から、 官僚制化の問題を見 据えていた。 そしてまたそれとの対比で、 国家による官僚制的支配から自由 なアメリカ大学の、 内部における官僚制化の問題も。 いまや 「グローバル 化」 しつつある、 大学と高等教育システムのアメリカナイゼーションの大波 は、 そのウェーバーの一世紀近く前の指摘を否応なく思い起こさせる。 「知 の共同体」 としての大学の世界で進行してきた 「合理化」 がもたらしつつ ある 「知の企業体」 化。 だが、 アメリカに学ぶべきは、 知の企業体化だ けではなく、 それに抗して大学人たちがいかに知の共同体性を守り、 育てて きたかであろう。 なぜなら、 それなしには20世紀はアメリカ大学の世紀にな りえなかったと思われるからである。 (あまの・いくお=国立学校財務センター研究部教授)