From reform-admin@ed.niigata-u.ac.jp Mon Jun 5 21:59 JST 2000 Received: from cosmos.ed.niigata-u.ac.jp (cosmos.ed.niigata-u.ac.jp [133.35.176.6]) by sakaki.math.tohoku.ac.jp (8.9.3/3.7W) with ESMTP id VAA10180 for ; Mon, 5 Jun 2000 21:59:56 +0900 (JST) Received: from cosmos.ed.niigata-u.ac.jp (localhost [127.0.0.1]) by cosmos.ed.niigata-u.ac.jp (8.9.3/3.7W) with ESMTP id TAA25729; Mon, 5 Jun 2000 19:46:55 +0900 (JST) Date: Mon, 05 Jun 2000 19:49:35 +0900 From: Yoshiomi KONDOH Reply-To: reform@ed.niigata-u.ac.jp Subject: [reform:02880] Re: 大学を評価し変えようとする者の条件 To: reform@ed.niigata-u.ac.jp Cc: kondohy@el.gunma-u.ac.jp Message-Id: <200006051049.AA00099@kdex1.el.gunma-u.ac.jp> In-Reply-To: <39331921.A240239F@cc.hirosaki-u.ac.jp> References: <39331921.A240239F@cc.hirosaki-u.ac.jp> X-ML-Name: reform X-Mail-Count: 02880 X-MLServer: fml [fml 2.2.1]; post only (only members can post) X-ML-Info: If you have a question, send e-mail with the body "# help" (without quotes) to the address reform-ctl@ed.niigata-u.ac.jp; help= X-Mailer: AL-Mail32 Version 1.11 Mime-Version: 1.0 Precedence: bulk Lines: 147 Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp Content-Length: 11206 群馬大工の近藤義臣です。 2000.6.5 前の2回と同じ様に、延べ5時間以上かけて書いた以下のメッセージを送信します。 ------------------まず、肩の力を抜いて、、、 小生「大学を評価し変えようとする者の条件」なる刺激的なメッセージ爆弾をポストに投げ込んで、逃走していた真犯人です。実は、 土岐市の核融合科学研での研究会へ出張して、そこの足跡の消さずに来たので、ここに自首出頭します。 まあ、その間の話を聞いてください。朝寝坊が朝6時起きの日帰りの出張で、夜遅く家に帰り着きまいした。ああ何と幸いなるかな、 次の日も朝6時起きの出勤というプレゼント付きだから、56才の誕生祝いは省略との事で、心の中で涙をポロリと流してましたが、 まだ55歳のままでいいとの神様の思いやりに違いないと思い直し、感謝の涙に替えました。 次の日も朝6時起きして、開学記念日恒例の電気電子情報研究室対抗ソフトボール大会の主催研究室(順番制)の役をこなし、参加し た学生教職員達共々大いに楽しみましたが、良く頑張ったので、皆一緒に日焼けした赤い鼻の頭を、仏さまから勲章として頂きまし た。 不思議な経験をしたのは、研究会のコーヒータイムに、確信をもって或ることを説明した知り合いの若い参加者と、話がどうも噛合わ なかった事です。どうやら、小生の脳コンピュータが、知り合いの顔の画像データを、許可無く別人と変えてしまった為の暴走だった と分かり、予期せぬことが所々で待ち伏せしていて、人生とはなかなか味があり、愉快なものだと悟らされました。 そんな思いがけないことに時々出会う結果、「深刻なことも、場合によっては、笑いやユーモアでストレスを和らげる機能が脳に組み 込まれ、人類は進化してきたのだな」と、最近気づき始めています。小生は、子供の頃も今も落語が大好きです。 -------------------------- 私は学生達に「人に言われたからではなく、自分の頭で考えて行動する」ように気付いてもらいたくて、メッセージを送くり続けてい ます。彼らの人生は彼らが切り開いて行く冒険の旅です。理想的すぎると言われようとも、私は、学生一人一人の意識に働きかけ、そ れぞれ「自分なりの高い理想」という「自分の夢」を探し、其れを実現するための「自分なりの強いい志」を抱き、今している事に対 して全力投球するように勧めています。 学業成績は、人の一生から見たら「ある瞬間に、ある方向に向けた短い物差し」で測った参考値にしか過ぎず、「そんなもので、序列 を付けられて、”自分の能力はこれだけだ”などと思い込むような、アホになるな」と授業で、学生の意識改革を呼びかけています。 あらゆる意味は外から与えられているものではなく、自らの心の目が新しく(脳の中で)見いだすものです。それぞれの異なる脳を持 つそれぞれの人々が、一生、自分の意味を発見する旅をし続けるでしょう。(死という終末に至るまで) そして、それぞれの人々 が、それぞれの無数の価値ある遺産を残して行くでしょう。お金に換算できるものやノーベル賞級のものだけが、価値あるものと定義 するとすると、その他大勢の人々が悲しむでしょう。 あらゆるものが立体的に存在しています。我々が一生の内に出会い見ることの出来るのは、ほんの断片的な側面にしか過ぎません。 制度上の上の人の言うことに従って行動するのも、一つの仕事の仕方でしょう。私は、それぞれの人が任される範囲が出来るだけ大き くなり、それぞれの人が自分の頭で考えて仕事をする環境が、より活き活きとした職場であり、社会のあり方であると考えています -------------------------- 話が大分遠回りしてすみません。知らぬ間に、小生の刺激的なメッセージが、更に物議をかもしていいるのを知り、恐縮してます。  日本人は往々にして、「討論や議論は対立する者が仕掛けて来る」と思う感情が働くようです。学会誌の論文に書く「Discussion」に は、「対立」と言う概念は入っていなくて、「対象としている事柄を更に深く理解する」ために頭を使って書いていると思います。 よくよくあの刺激的メッセージに関連する討論を読ませて頂くと、実は、それぞれの方が自分の考えを更に深め続け、お互い協力しな がら、この世の中を自分なりに良くしようと努力し続ける姿が見えてきて、ああ美しいと自分勝手に思っています. 私は、物理の分野で実験したり、理論解析をしている関係上、「ものを測定して評価するには、何時何処でも誰が測定しても、同じ結 果が出るような<普遍性のある測定器>を用いなければ」、「評価結果の普遍的な意味に対する<信頼性>が無くなる」と考えていま す。(「文部大臣が言うから信頼できる」という類の「信頼性」は、どういうものかはお分かりでしょう。) また、測定しようとする時には、「何を測定するのかを、きちっと<定義>する事が必要です。」そうしないと、測ったデータはその 持つ意味を失います。  更に、「理論解析をするためには、きちっとした<論理構造>を持たせて議論を進める事が必須です。」例えば、もし私の書いた論文 の論理構造が曖昧であるとすると、「その論文は普遍性を持たず、<時間的にも変わる全世界を相手>にした学会誌に、掲載する価値 を失う」事になるでしょう。 私が<大学に対する感想>と定義している、いわゆる「内部評価」と「外部評価」に対して、<「絶対化する」と「相対化する」に分 けて考える>という「作業」が、はたして<本質的に差異を持つ作業>なのか、その「定義」が曖昧で、私には中身が見えずに困って います。もし、「前者だけを重視し、後者を軽んじる」という定義であるとすると、それは片手落ちの作業であると考えます。 その理由は、<大学内部の人々の感想>も<大学外部の人々の感想>も共に大切な情報としてのメッセージであると言う事実に基づき ます.それらを全部参考にしながら、各大学内での是非必要な改善と改革を、「大学に勤める人々が相談し知恵を出し合って実行する 事」こそが、「学問の自治」や「大学の自治」という言葉で表される「人類共通の普遍的特質」を「人類の知」を維持しながら出来 る、「大学の発展の形態」であると考えるからです。 私の刺激的なメッセージには、「<大学という巨大な象を評価出来るほどの大きな能力>を持ち得るような個人や今生きている世の中 の人々の集団などは、<存在し得ない>」事が書かれてますいる事を、強調します. たとえ、ノーベル賞を10個受賞したような偉大な学者や有識者がいて、その人が150年生きていろいろな経験をしてきたとして も、その人が行う「大学の評価なる行為」は、「その人の経験と知識と知恵を総動員した<その人の物差し>で巨大な象の一部を測 り、その人の有限の脳が紡ぎだした<感想>文を書いている」事以外の何ものでもない、という事実に皆さんに気づいてくださいと訴 えます。 政府の諮問委員会の委員長のある高名な物理学者が、記者会見で「これからの教育は付加価値の高い学生を世に送り出すような教 育、、、、」と発言しているのをNHKのニュースで見ました。これは、高名な物理学者といえども、「学生や人間」を「品物」とし てのレベルでしか考えない「教育観」を持っていた事の実例であり、「教育の分野では素人」であることを示しています. ましてや、「利己的な欲望の強い傾向」を持つ「政治屋の小集団の主張」に従うことは、「非常に危険である事」を、是非、皆さんに 気が付いて下さいと訴えます。 ------------------------教育についての基本的考え方---------------------- 「教育」とは、「教えて育てること」でもなく、「育つことを教えること」でもない。 太古の昔からそうであるように、「その本質」は、"あらゆるものについて「先んずる者」が、「それを"学びたい"という者」に対し て「例」を「示し」、その「学びたい」という「追随者」が「その例」の「真似をする」"。"その「追随者の真似た成果」が「先んず る者に返され」ると、「更に、より高い例」が「追随者に返され」る。""この「相互作用」によって、その「両者が共に成長」する。 "「教育には"育つことを待つ"ことが必須なことであり、「個人差のある育つ時間」を忘れないことが、最も重要なことである。」こ れらの過程を通じて、「追随者は、やがては、先んずる者を乗り越える。」 このようにして、「人類と文化」は「進化」してきた。 ------------------------------------------------------------------------ 私は、大学に勤めていますが、ちゃんと働いて給料を頂き、且つ税金を納めている日本の「国民」の一人であり、「大学人」であると同 時に一般「国民」であります。つまり、「大学に勤める一人の人間を、大学人と国民とに分ける」のは全く不自然です。私は「大学に 勤める人々の一人として考え発言し」、”全く同時に”「日本の人々(国民より適切な表現です)の一人として考え発言し」、”また 同時に”「人類の一人として考え発言し」ています。 私は、いわゆる「国民」の一人ですが、しかし、国民を代表したようなつもりになり、「それでは、<国民>が納得しないと思います」 などと勝手にきめつけたようには、私には書けません。このような「国民を代弁する形の主張を書くには、それを裏づけるに足る十分 なデータを集めなければ、書く根拠も資格も無い」と考えるからです。 人間には「2種類の欲望」があり、一つは「自己中心的」な喜びを求める「第1の欲望」で、もう一つは「他者への奉仕」の喜びを求 める「第2の欲望」です。「歴史上に記録される人々」には「2種類のグループ」が有ります。 一つは実際には侵略者であるのに 「英雄」と呼ばれる「第1の欲望の成功者」であり、もう一つは「聖人」と呼ばれる「第2の欲望の成功者」です。<侵略者である英 雄は多数の敗者と不幸な人々を“生み”>また<聖人は人類共有の財産を“残す”>とも言えます。多くの侵略戦争で生まれる「英 雄」とは、「第1の欲望」を“民族主義”と言う「大義名分」に「すり換え」、「“第1の欲望”を極端に追求」した「必ずしも “善”とは言えない人物」であると考えます。 この「国民」という集団が、上記の「第1の欲望」に「弱い集団である」という現実を、「戦前の我が帝国と自称する小集団の宣伝 に、動かされ且つ能動的にも行動して、<侵略に協力し>無数の人々の無念の死と悲しみをもたらしたという歴史」が教えています。 このような「国民の姿」は、ドイツやアメリカでも同様に見られたと、NHKの歴史番組は放映しています。2つの国や民族の戦争の 結果を記念する記念日や記念碑は、一方では戦勝記念日や記念碑であると同時に、他方では敗戦記念日や恨みの記念碑になるのです。 振り返って過去を眺めると、古くは神話の中の神々から、「神」、「アラー」、「仏」という名の、又、世界中に今も伝わる諸々の 「神」という名の、或いはもっと広げて、「国家」や「民族」という名の、各々の地方や様々な階層や社会が持つ「文化」という名 の、更に広げて、何々「主義」という名の「人格を越えた様々な宗教」を、人々は、個人や集団として生きていく上で、必要としてき たと考えます。 「この広い意味の宗教」達が、「感情の入り込む人格を越えたものである」と「遠くから見る視点を持つ事」が、「これらの宗教が絡 んで起こした悲惨な事件や争いや戦争の再発を防ぐシステム」を探す為の「必要条件」であると考えます。 明らかに、この広い意味の「宗教」達自身の中には、「聖戦」とか「主義」を掲げて人を殺せとは決して書かれていないと思います。 現実のテロや戦争で他者を殺すという「邪悪な行為」は、それらの「宗教自身のなせる技」では、決してありません。それらの「邪悪 な行為」は、その宗教を心の拠り所としている「人間及びそれを支える集団」が、「異常な状態」に陥った結果として、行っているも のであります。その「異常な状態」とは、「彼らが“逆立ちをした姿”で、“その宗教そのも”のを利用し」、「口実として、“自分 の邪悪な行為を正当化”してしまう“利己的で狭い心”の“狂信と狂気”を持った状態」であります。 「邪悪な行為」は、正に「人間のなせる技」である事に、気が付く事が大切です。これらの「広い意味の宗教戦争」は、「優れた知能 を持った人間達」がせっかく紡ぎ出してきた様々な「宗教」という遺産に、後世の別の「知能を持った愚かなる人間達」が介在して起 こしてしまう、悲しむべき「宗教の逆転現象」である事に注目しなければならないと考えます. このような、「集団による狂気」を誘発する政治屋が活躍しているのが、今の日本の現状であることを忘れるべきではありません. ---- Yoshiomi KONDOH kondohy@el.gunma-u.ac.jp