読売オンライン、 および 2000 年 1 月 18 日の NHK 7 時のニュースによれば、小渕総理の私的な諮問機関である 「21世紀日本の構想」懇談会(座長=河合隼雄)は、政府の役割を縮小し個人の自己責任を重視するべきだという最終報告をまとめた。この中には、義務教育の週 3 日化(!)が述べられているという。 現在すでに、週休 2 日化が教育に与えている深刻な事態を、これらの委員の方々は御存知ないのであろうか。600 兆(国民一人あたり、赤子も病人も 500 万円!であることを自ら割り算して納得できることが、今や日本国民としての素養であるべきであろう。)も借金をしてしまった日本の未来が技術なしですまないのはもちろんであるが、そもそも理科も算数もなしでは現代社会は魔法の世界であり、根無草としてしか生きることはできないであろう。この答申は明治以来の日本を広く支えてきた公教育の役割を否定するものであり、「普通の人はそれでよいのだ」というのは、社会のリーダーのとるべき態度ではないと私は考える。

複雑な現代社会にあって大人が右往左往するのは仕方ないかもしれないが、それで次の世代 = 子供をまきこんではいけないのではないか。現代が複雑で大変な時代なのは確かだが、人類はやっとこの地球の微妙なバランスを理解しはじめたばかりであり、これまでの世代が理解したくてもできなかった問題を直視できるようになったための困難であるとも考えられる。これを一般人は知らなくても良いとするかのようなこの答申には、私は一国民として強く抗議したい。問題に真っ向からたちむかう為には素人考えはむしろ有害なことさえあり(たとえばダイオキシン問題)、いくら学んでも足りない位であるのに、これでは「みなかったことにしよう」という態度を社会のリーダーが率先して勧めるようなものである。

中国における文化大革命に匹敵するような事態が日本でおこらないよう、強く警戒しなくてはいけない。義務教育の水準が下ることは、自然に対する国民の基本的な理解力の著しい低下を招き、日本語では世界の標準的な知識が得られなくなるような将来も近い未来に訪れるであろう。結果として今より政策的誤りも増え(例えば薬事行政や環境問題において)、それを正すべき原論の力もまた衰えるであろうことは、容易に予想される。 ひとにぎりの人が科学的推論をできれば良いような時代では最早無い。

また「自己責任」の強調は射幸心をあおり、貧富の隔差は広がり、経済的理由による教育レベルの隔差も世代とともに乗り越えがたいものとなるであろう。そもそもそのような階級構造をなくしたことで近代日本は人材を得、活気を得たのではなかったか。このような「改革」が明治維新になぞらえられることで迷惑するのは、むしろ明治の人々であろうと思う。

委員の方々は、本当に公教育は週 3 日で良く、残りの日は塾にいきたければ行け、というのだろうか。(そのようなことを公言する義務教育に誰が行くであろうと私は思うが。)自己責任という言葉で実際におこることは、所得の多寡に比例する形でしか選択肢が無くなることであろう。大学の学費をアメリカの「一流大学」なみに引き上げ、たとえば年に 300 万くらいにはしても良いのではないかという議論までなされている昨今である。我々大学の同僚仲間でさえ、子供は全て大学にやれない時代になるのではないかと囁きあっている。委員の方々は、率先して自分の師弟を公教育に委ねるような気持ちになって事にあたっていただかなくてはならないと思うのだが、委員を選んだ首相に責任があるというべきだろうか。

中央政府の権限を縮小するというのなら、このようなくだらない案を作っては試す、その全能感に浸っているかのような姿勢こそを改めるべきであろう。私はこの答申に繰り返し強く抗議したい。教育に問題があることは確かだが、それは適切な人的投資が長期にわたってなされなかったためであり、財政担当者は今こそ回収の見込みのたたない公共投資予算を削減し、将来の日本を支える人材の育成へ現在に倍する公的資金を投ずるべきである。今回の答申をそのまま実行すれば日本はジリ貧になるであろう。一方、ニューヨーク市長が市警の予算を単純に倍増する措置をとった結果、同市の治安が著しく改善したことは記憶に新しい。

「ゆとり教育」への批判はすでに旧聞に属すが、以上のニュースに比べれば可愛いものであった。上記答申が少なくとも教育についてまともにとりあげられる可能性は少ないと思うが、万一の場合も考えられる。 文部省の担当各位はぜひとも奮起して、おそらく総務庁? の影響化で進行するかもしれない教育の改変を阻止してもらいたい。 (以上 2000. 1. 18. 19:36 JST)