なんでもなんでも2書き方注意リンク集ホーム

黒木のなんでも掲示板3 (0001)

記事を書く時刻順目次スレッド検索過去ログ最近の記事

各記事の Id ヘッダー行の # から始まる文字列をクリックすると、その記事自身にジャンプします。その記事自身の URL を知りたい場合に利用して下さい。さらに、括弧の中の reply をクリックするとその記事に返事を書くことができ、 thread をクリックするとその記事を中心としたスレッド形式の目次を見ることができます。

Id: #e20000314214002  (reply, thread)
Date: Tue Mar 14 21:40:02 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000313133059
Name: 辻下 徹
Subject: 分子機械という謎

実際の生き物を学問的に研究しているわけでもないものが、生物学の専門家に生物学について何かを言うというのは自分が愚かな人間であることを証明しているようなものだとつくづく思いますが、ここは「なんでも掲示板」、損は恥を掻くことだけで、生物学の専門家から根本的な誤りを指摘してもらって的確な見方を学べたらそれで大もうけだと考えて、あえて書いてみることにします。


> 辻下さんが視野にいれておられる 生命科学とはどのようなものなのか.
> 「生き物を分子機械として理解する こと」なのか,それとも「「自分が生き物である」
> ということがどういう ことかを内側から了解すること」なのか.
生き物が分子機械であることと、自分(や身近な植物や動物)が生き物であることとが繋がっているような理解の仕方をしたい、というのが長年の夢です(これは生物学の基本的な夢ではないのでしょうか)。複雑系への関心もまさにそこにあったわけです。長い間その繋がりがどこにあるのか全くわからなかったのですが、郡司さんの取り組みを知って、夢であったものが現実化する可能性を初めて感じることができるようになった、ということです。そのつながりの核心となるのが「不定性」と取りあえず今呼んでいることです。

分子機械という言葉を使いましたが、この「機械」は人類が知っていたどの機械とも異なるもので、まだそれをどう理解していいのかわかっていないと思います。ワトソンの本を見ても、説明様式は絵と日常言語で記述されたモデルを用いた素朴な言語的因果連鎖のレベルに留まっている。画期的治療法をうみだすにはこのタイプの知識で十分なので、それが適切な様式なのかも知れない。しかし、数学者の目から見ると分子機械を適切にとらえる数学は一体何なのかは、難問です。この機械を数学者として理解するときに「不定性」が不可欠である、というのが今感じていることです。

分子機械は数学的には何か、という問いに対する素朴な反応としては次のようなものがあります:

  「原理的には」物理系として適当なレベルの素子(分子、原子、素粒子、・・・)の位置・速度
  などで定量的に完全に記述されていて、その挙動の人間にわかる記述の仕方として例えば、分子
  機械として表現する、というようになっている
というものです。これには「原理的には数学的に完全に記述されているが、人間の認識力にとっては複雑すぎて、実際にはその(種々の意味での)粗視化しかわからない」という但書きがつきます。これに対する一つの力強い態度が、狭義の普遍性の思想だと理解しています。ミクロのモデル化には依存しない現象だけが人間の目に触れるもので、それを取りだすのが科学だという考えです。しかし、分子機械が、狭義の普遍性の思想の射程にあるとは思えない、というのが今持っている素朴な感想です。

オートポイエシスは、<分子機械>はどういう機械かを哲学的に理解しようという試みだと思っています。


> 「生命概念の原初性」 とは,どのような意味か. 
「生命概念は原初的である」という主張は、『自然科学が築き上げた精密な物理的世界像の中で生命は「存在論的」には不必要な概念であり、人間の能力の不足からくる認識論的錯覚に過ぎない』とは考えないと言うことです。これでは古来からある「生気論」と区別がつかないかも知れませんね。むしろ、『生物を考えるには物理学が不十分だ』という言い方の方が、誤解が少ないかも知れません。「物理学が不十分」という意味は、『物理学で使われている種々の数学的記述(簡単な例では実数を使う数学的モデル)が持つ<不定性>を、物理学は視野に入れていない』というように捉えるのが適切ではないか、と思っています。
> 要するに``如何に生命現象を理解する上で有用かは 説明出来ない.
>とにかく信じて使ってみなさい.そうすれば判ります'' という意味でしょうか?
そう考えてみてはどうか、というだけの意図です。

全く新しいコンセプトの道具(やソフトウェア)を人に勧めるとき、普通こう勧めるのではないでしょうか。勧めにのらない人がいても、単に食わず嫌いで勿体ない、と思うだけでしょう。

> 現時点で成果があるのでしたら,ポインタ でも御紹介下さい.
具体的生命現象の謎を理解するために使ってみた、というわけでもない私が何を言うのか、という適切な御批判だと理解しましたが、敢えていうと、大野さんが酷評した金子・池上の「複雑系の進化的シナリオ」の第1章に書かれている諸概念は、単に思想としてでなく道具として呈示されているものだと私は理解しています。 釈迦に説教ですが、生物学では莫大なデータを組織化して見ることを許す新しい概念が決定的な役割を果たしたてきたのではないですか。私の乏しい知識でも、セリエの「ストレス」という概念の発見前後の話しが思い出されます。他にも良い例があれば是非教えて頂きたい。

金子さん達の仕事は、生命現象を説明する概念のレパートリーを大幅に広げたもの、と私は了解しています。


Id: #e20000313174045  (reply, thread)
Date: Mon Mar 13 17:40:45 2000
Name: くろき げん
Subject: 辻下さんの意味での「パーソナルな数学」と「<普遍性>」

ろくでもない日本人の中には「(自分もしくは自分達以外の)日本人は駄目である」という話をすることによって自分の地位を高めようとする人がいます。今回の議論でわかったことは辻下さんもその典型だということですね。実際、辻下さん曰く

パーソナルな数学、という言葉は色々な意味があり得ますが、自分にはこうとしか思え ない、という自分だけの責任に基づいて数学をするという風土が、日本には薄いように思うのですが。それが<普遍性>への異常な執着となっている、とすら私には思えるのです。

今世紀の数学から日本人数学者が切り開いた道を全て削除すると相当にさびしくなるのは事実だと思うのですが、それでも辻下さんはこのようなことを言いますかね? 例えば佐藤幹夫の代数解析のアイデアは今世紀最後の四半世紀の数学で決定的に重要な役割を果たしていると思います。

「自分にはこうとしか思えない、という自分だけの責任に基づいて数学をする」ことの重要性をどんなに強調しても、辻下さんを批判している人がそのような考え方を軽視していることにはならないし、辻下さんのように、叩かれるたたびに、自分のアイデアをクリアでわかり易く説明することよりも周囲へ攻撃を優先するという態度を繰り返し続けること (cf. 3/5の私の記事の最後の段落) を正当化することもできません。

「相互理解を目指しながら、意見の相違を大事にすること」を目指すのが「パーソナルな数学」の正しい姿だと思います。個人のアイデアを他人に完全に伝えることができない場合もあると思いますが、そのことを認めることが即コミュニケーションの放棄に繋がるわけではありません。辻下さんのように「パーソナルな数学」の名を借りて「自分のアイデアをわかり易く説明し理解してもらうことよりも、自分が理解してもらえないことを正当化するために周囲への攻撃を優先する」のではお話にならんでしょう。

辻下さん、そろそろこういう汚い議論の仕方はやめて下さい。同じことを何度言いましたかね? 正常な議論にとって邪魔です。辻下さんは自分自身を貶めていると思う。説明の内容で勝負して下さい。

あと個人的に不快なのは辻下さんによる「<普遍性>」という言葉の使い方です。私は、辻下さんが大野・田崎・東の意味での「普遍性 (ユニバーサリティ)」を理解しているか、特に数学的モデルの正当性との関わりを理解しているかを問題にしました。それによって「普遍性」という言葉がこの議論におけるキーワードの1つになりました。大事な点は大野・田崎・東の意味での「ユニバーサリティ」は決して「個別性」や「パーソナル」という言葉と安易に対比されるような考え方ではないことです。そのことをすでに指摘しているにも関わらず、辻下さんは同じ誤りを繰り返している。理解できないから、言葉の意味をすりかえ、滅茶苦茶な反論もどきを繰り返しているのではないかと疑わざるを得ません。

ところで、俗流ポストモダニズムに頭が染まってしまった人達は「普遍性」のような言葉を聞いただけで嫌悪を感じるようです。辻下さんの「<普遍性>」にも同様の響きを感じます。そう言えば「脱中心化」という言葉を用いてましたよね。その手の言葉遣いを好むことと「日本人は駄目」という言説を好むことには何か関係あるのでしょうかね? そういう方向の研究はあるのでしょうか? あるのであればポインタを教えてもらいたいです。

「ユニバーサリティ」の話に戻りましょう。辻下さん、私が挙げた演習問題に回答できますか? 辻下さんは、私の意見に賛否を示す以前に、「ユニバーサリティ」の考え方を理解しているかを示さなければいけません。少なくとも今後は大野・田崎・東の意味での「ユニバーサリティ」の話をしている最中に何の但し書きもなしにそれと異なる意味で「普遍性」という言葉を使うのは避けて下さい。

P.S. 以前と同じく、個人的にはいまださんの質問への回答を優先して下さると嬉しく思います。辻下さんは論説の中では「生命」との関わりを強調しているのに、この掲示板では「生命」の話をほとんどしていませんよね。辻下さんは「不定性」のアイデアの重要性を「生命」との関わりを理由に説明しているので、いまださんの質問に辻下さんが逃げることは許されないと思います。

P.P.S. 私が「大野・田崎・東の意味での」という言い方を何度も繰り返しているのは、辻下さんのような誤解だらけの発言が出現するのを防ぐために過ぎません。実際には「ユニバーサリティ」というものの考え方は (少なくとも) 物理学者の間ではかなりよく知られていると思います。例えば、数学的モデルをコンピューターで数値的に解いた結果を見て、それが実際に物理学的に意味のある結果だと主張している人は「ユニバーサリティ」を信じていることになります。そういう意味では、コンピューターを用いて「複雑系」を研究している物理学者の方が他の物理学者よりも「ユニバーサリティ」への信仰が厚いとみなすこともできると思います。「複雑系」をやっていると自称している辻下さんは賛否を示す以前にこのような意見を理解できるのかな?


Id: #e20000313151435  (reply, thread)
Date: Mon Mar 13 15:14:35 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000311114145
Name: 鴨 浩靖
Subject: Skolemの逆理

「○○(日常用語)」と「○○(専門用語)」という表現が気に入ってもらえたようですが、Skolemの逆理は、そういう問題ではありません。メタレベルとオブジェクトレベルの問題です。

まず、モデル理論を、「素朴集合論で公理的集合論を研究している」と勘違いするのは、よくある誤解です。実際には、メタ言語は、モデルを記述できる程度に集合を取り扱うことのできる理論であれば、何でもよいのです。ZFC自身でもかまいませんし、BG系の集合論でもかまいませんし、Z2やそのサブセットでもかまいません。

そして、Skolemの逆理は、たとえメタ言語とオブジェクト言語が同じ言語であっても、メタレベルとオブジェクトレベルは違うということを、教えてくれる実例だというだけのことです。

システムソフトウェアの世界ではごくあたり前の状況ですけどね。CコンパイラをCで書くのと同じことですから。コンパイラやOSを書いているシステムプログラマなら、Skolemの逆理を逆理と感じる感覚自体が理解できないぐらいでしょう。


Id: #e20000313133059  (reply, thread)
Date: Mon Mar 13 13:30:59 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000311000532
Name: いまだ
Subject: 生命科学への寄与とは?

辻下さんの文章は,私の読解力に比べると難解なので,誤解かもしれません が,もし誤解でしたら訂正してくださるようお願いします.

論点が前後しますが,まず第一点.辻下さんが視野にいれておられる 生命科学とはどのようなものなのか.「生き物を分子機械として理解する こと」なのか,それとも「「自分が生き物である」ということがどういう ことかを内側から了解すること」なのか.関連して,「生命概念の原初性」 とは,どのような意味か.

つづいて第二点. 「そのモデルの価値は、それを通して生命現象を語るときに、 今までよりも豊かで詳細な語り方を生みだすかどうかにある、 と言う点に求めることがきるとおもいます、いわば、使ってみて 意義がわかる、というものではないでしょうか」について. これは,要するに``如何に生命現象を理解する上で有用かは 説明出来ない.とにかく信じて使ってみなさい.そうすれば判ります'' という意味でしょうか? 現時点で成果があるのでしたら,ポインタ でも御紹介下さい.また,「使ってみる」にしてもどのような問題に どのように使うのが,「意義がわかる」使い方なのでしょうか. 生命科学と一言でいっても,その対象とする世界は広いです. 方法論も多岐にわたっています.


Id: #e20000312004419  (reply, thread)
Date: Sun Mar 12 00:44:19 2000
URL: yutaka-t@hoffman.cc.sophia.ac.jp
Name: 田中
Subject: パーソナルな知と懐疑主義
辻下様

この掲示板での議論、興味深く拝見しています。辻下さんの投稿に触発され、
私も素人ながら、「複雑系の科学と現代思想」(青土社 1998)に
所収の論考 「生命と複雑系」など拝読しました。

この本の後書きで、山口昌哉さんが、
「(辻下さんの論文が)生命を真正面に見据えて、山口論文に
おけるクラシシズムを徹底しようとしている点できわめて迫力がある」
(232頁)と語っていらしたのが印象的でした。

クラシシズムと言えば、私は、辻下さんの探求の進め方に、
「ポスト・モダーン」ではなく、むしろ「古典的」ともいうべき精神を感じます。

たとえば、「数学はパーソナルなものである」という発言を聞くと、
私の場合は、方法的懐疑を徹底したデカルトを考えます。

デカルトの時代においては、スコラの自然哲学のほうが「普遍的」な学問の
(定冠詞付きの)「基準」を与えているとみなされていた訳ですから、
そういう既存の枠組みを超えて「主体的に」思索する知は、パーソナルなものに
ならざるをえなかったと思います。そして、このパーソナルな知が、
デカルト以後の新しい科学の出発点になりました。

懐疑ということが問題になっていますが、哲学史で懐疑主義Skeptizismus 
というのは、(心理的・情緒的な)「疑い」とは関係ないのですね。
それは消極的なものではなく、幻想に囚われない強い精神を意味する
場合がある。skeptomaiというのは、元来「疑う」という意味ではなくて、
「探求する」という意味のギリシャ語ですから、たとえば、セクストス・
エンペイリコスなどでは、「懐疑主義」とは「独断」から我々の精神を解放して
「探求を続行する」あるいは「探求の途上にある」ことを自覚するという
意味になります。私は、辻下さんが、ヴィトゲンシュタイン・クリプケの
懐疑的議論を、こういう「古典的な」懐疑主義の文脈で受けとめていらっしゃる
のに共感いたします。

Id: #e20000311164050  (reply, thread)
Date: Sat Mar 11 16:40:50 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000311151205
Name: 辻下 徹
Subject: 学生さんに失礼ですよ

> あのような特化した知識(数学基礎論の定理を指しています)を標準的な解釈抜
> きに教えられた学生を生産されるのは非常に迷惑です。

(1) Skolem の定理(のことだけを言われたのではないかも知れませんが)は数学基礎論の定理である以前に、数学の定理です。数学の定理の<意味>はその証明自身にあり、数学科の学生には、その数学的内容を理解してもらうことが先決です。その「解釈」は数学ではなく哲学に属するものであり、何かを人に押し付けることではない。もちろん、普通どう解釈されているかを説明するのは重要だが、それがSkolem の定理の数学的内容を変えるわけではない。(というのが数学に関する現在の「標準的な」見解だと思います。)

(2) とはいえ、講義では、Skolem の定理(不正確な言い方だが「集合論の可算モデルがある」という定理)は、集合(日常用語)と集合(専門用語)の違いを明確に認識させる契機となる、重要な定理であるという説明はしています。それ以外の「標準的解釈」を教えて頂ければ、今後はそれも学生に紹介できますので、ありがたいです。

(3) この講義は、数学基礎論の講義ではないことは講義でも資料でも明確に述べています。今回の講義では、院生の方から何度か重要なコメント(不定性に関する私のスタンスの関わるもの)がありました。「学生を生産」するなどという物言いは、学生に判断力がないことを明言するもので、失礼ではないでしょうか。

(4) establish された知識を標準的解釈を添えて教えるということが、学生の知的発達の中で果たす役割を過大評価されているのではないですか。

(5) 他に講義で取り上げたテーマ(forcing, 超準解析, Nelson のpredicative arithmetic) についても「標準的解釈」を簡単にご教示頂ければありがたいです。
Id: #e20000311151205  (reply, thread)
Date: Sat Mar 11 15:12:05 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000311114145
Name: 志村立矢
Subject: お願いですから。

> 「通常の数学の文脈」での自然数の不定性の種々の現れについては今年度後
> 期に北大で講義を不完全ながら試みましたので資料をご覧ください。

あそこで挙げていらっしゃる例を不定性の現れであると主張なさるのはご自由
ですが、少なくともそれらの現象に対する標準的な解釈はどのようなものであ
るのかをはっきりと書いておいてください。

あのような特化した知識(数学基礎論の定理を指しています)を標準的な解釈抜
きに教えられた学生を生産されるのは非常に迷惑です。


以前に書いていらっしゃった次の文章についてですが、

> これまでの経験ですと、基礎論の方が「当たり前のことで馬鹿げたこと」と
> 誤解する傾向が顕著ですので。

もし、この講義で挙げられたような例を使って不定性の説明をしようとしたの
ならば、よほど精緻な議論をしない限り、その主張の当否とは全く別に、そう
思われてしまうのは避けられないと思います。

Id: #e20000311114145  (reply, thread)
Date: Sat Mar 11 11:41:45 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000311004858
Name: 辻下 徹
Subject: 「数学はパーソナルなもの」

「自然数が確定していることを前提として自然数が不定であることを記述すること」は、後者を自然数(日常言語)、前者を自然数(専門用語)と区別しなければ無意味なことは自明でしょう(これには説明は要りませんね)。

この区別をしてしまえば問題は自明でとっくに<解決>されていることなのですよ。「通常の数学の文脈」での自然数の不定性の種々の現れについては今年度後期に北大で講義を不完全ながら試みましたので資料をご覧ください。

学問の核心は、定式化される以前の感性にあると思います。なぜ Brouwer が排中律を拒否したか、彼には言葉の綾でしかなく無意味としか思えなかったからだと思います。

20年程前、プリンストンで日本の若い数学者が集まったとき、問題を出す人と解く人とどちらが偉いかというような話題になったことが有りましたが、そのとき、岩沢健吉さんが数学はパーソナルなものだと一言言われたことを鮮明に記憶しています。パーソナルな数学、という言葉は色々な意味があり得ますが、自分にはこうとしか思えない、という自分だけの責任に基づいて数学をするという風土が、日本には薄いように思うのですが。それが<普遍性>への異常な執着となっている、とすら私には思えるのです。


Id: #e20000311004858  (reply, thread)
Date: Sat Mar 11 00:48:58 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000311000532
Name: くろき げん
Subject: それは本当ですか?

「自然数が確定していることを前提として自然数が不定であることを記述することは私には全く無意味です」というのは本当ですか? 排中律を自由に用いて「排中律」が成立してないと解釈できる世界を研究をすることは十分に意味のあることです。それと同じようなことを目指すのは完全に無意味だという決定的な理由はあるのでしょうか? 辻下さんの主観のもとでは完全に無意味だと言われても議論にならなくて、もっと他の人にもわかる理由を示してもらわないと困ります。

たとえそのような試みが辻下さんの最終目標にとって不十分であったとしても、数理論理学の専門家と共同で辻下さんの「不定性」のある側面を近似しているとみなせる概念を探すことに少しは意味があるのではないでしょうか? 「排中律」に関する歴史もそのようなものだったと私は理解しているのですが。 (それともそのような試みが完全に無意味だと思っているから安心して「基礎論の方が……誤解する傾向が顕著ですので」と喧嘩を売って構わないと考えていたのかな?)

まあ、そのためには辻下さんが御自分の「不定性」に関する直観を数理論理学者にできるだけ明確に説明する必要が生じるので、今までのスタイルを改める必要があるでしょうが。 (いや、数理論理学者と共同研究をするつもりがなくても、別のスタイルで「不定性」の内容をできるだけ明確に説明する努力をした方が良いと思う。)


Id: #e20000311000532  (reply, thread)
Date: Sat Mar 11 00:05:32 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000310010342
Name: 辻下 徹
Subject: それでは、行為が自分の主張を否定することになります

> 辻下さんの意味での「自然数の概念の不定性」(もしくはそのある側面)が
> 成立していると解釈できるような世界を通常の数学の範囲内で明確に記述すること

それは、私(だけでなく郡司氏や角田氏)が格闘している肝心の問題を迂回することになります。「通常の数学の範囲内」では、自然数については(実在として)何もあいまいな点が無いということが、大学1年の数学からすでに大前提とされています(それがなければ実数の定義など納得できなくなるはず)。自然数が確定していることを前提として自然数が不定であることを記述することは私には全く無意味です。

自然数(日常言語)と自然数(専門用語)を区別して問題が解決すると考えるならば、何も新しいことではなく、80年も前から常識になっていることです。

-----------------------------------------------------------------------------

> 「自分自身の新しい「数学」で記述されたモデルの正当性をどのような意味で保証するつもりなのか」

数学はこの厄介な問題から解放されている珍しい学問とも言えます。数学では「モデルの正当性」の問に相当するものは「一分野の正当性」の問だと思いますが、その正当性を<保証>するのは「多産性」だけで十分と思われている節があります。排中律が悪いのは、それが多産的でないから、というわけです。

金子邦彦さんが「複雑系の進化的シナリオ」の本文の5行目に、「意味を解体して語ろうとすると、語られるものは生命ではなくなり単なる数学になってしまう」と書いています。(この文は複雑系の問題意識を端的に述べていると思いますが)この文に反発を感じる数学者は私だけではないと思いますが、数学が「分野の正当性」を多産性にしか置かないとすれば、数学はバブル経済の素地を持っていることになり、「単なる数学」となることに警戒する必要はあると思うのです。

モデルの正当性(というより「モデルの意義」という言葉の方が適切と思いますが)は、生命科学や複雑系では一番厄介な問題です。金子さんの、結合格子モデルや関数マップなどの非凡なモデルは、これまでの数理モデルとは異なり、現象の本質的様相を再現するという点で大きな意義を持つものですが、それでさえ意義を認めない人達もいます。

この場合の「絵合せ」はいわば質的なものになっていて「質的に合っているか」どうかの議論は水掛け論になる面もあります。そのモデルの価値は、それを通して生命現象を語るときに、今までよりも豊かで詳細な語り方を生みだすかどうかにある、と言う点に求めることがきるとおもいます、いわば、使ってみて意義がわかる、というものではないでしょうか。

<不定性>の意義も、使ってみればわかる、と言いたい。今の数学で何の過不足もないと思っている場合には、何の意義もないのだと思います。私は今の数学に満足できる方を説得しようとしているわけではありません。前も書いたように、私にはとても面白い方向が出てきましたよ、と言っているだけです。

(これが、相対論は間違いだったいうようなトンデモ説を唱える人達の物言いと同じであるとすると、それは「相対論は間違いだった」という説の誤謬に起因するのではなく、通常の人が信じているものと別のものを信じた人が(その信じたものの正誤とは無関係に)普遍的に感じるものなのではないでしょうか)

-------------------------------

> 具体的な生き物の話をからめた上で回答してくれない
> ことには本物の生き物を研究している方達は納得しないと思います。

「本物の生き物」は近くの犬や鳥や草や玉虫だけでなく、黒木さんや私も居ます。しかし、生物学でそういう視点で生物を研究することはありません。生き物を分子機械として理解することが今の生命科学です。しかし、「本物の生き物」を材料にして研究することが「生き物」自身の了解に繋がるとは限らないし、ましてや、「自分が生き物である」ということがどういうことかを内側から了解することには繋がらないと思うのです。<「生き物」自身の了解>など胡散臭いと言うのであれば、それは生物学の原点を忘れてしまったことを意味するだけではないか、と思うのです。そして、それが、生命という原初的概念を無用なものにしようと全力を挙げている現代科学の狂気的側面を浮き彫りにする部分もあるわけです。生命概念の原初性、それは、数学者には理解しやすいものと思っています。

-----------------------------------

懐疑など誰でもできると黒木さんは言われましたが、適切に疑うというのはかなり高レベルの知的機能だと思います。クリプキの懐疑(というよりウィトゲンシュタインの懐疑)は、今世紀に人類が初めて見出した懐疑だと思っています。私自身3〜4年間は何を懐疑しているのか全くわかりませんでした。ただ、郡司さんの洞察力の凄さは知っていましたので、郡司さんが議論の原点にしているその懐疑を理解しようとし続けただけです。この懐疑が<わかった>とき衝撃は、matrix という映画を見た人ならば、22世紀に目覚めたときの主人公 neo の気持ちに近い、と言うと少しはわかってもらえるかも知れません。
Id: #e20000310010342  (reply, thread)
Date: Fri Mar 10 01:03:42 2000
Name: くろき げん
Subject: 辻下さんは「不定性」のアイデアを通常の数学の範囲内で定式化することを完全に放棄したのか?

辻下さんの考え方には様々な疑問が寄せられています。個人的に重要なのは「生命科学の理解にどう役に立つんですか?」といういまださんの疑問と「自分自身の新しい「数学」で記述されたモデルの正当性をどのような意味で保証するつもりなのか」 (特に「普遍性」との関係) という疑問の2つだと考えています。生命科学との関係に関する回答は具体的な生き物の話をからめた上で回答してくれないことには本物の生き物を研究している方達は納得しないと思います。

個人的にあともう1つ言っておきたいことがあるのでそれについて書くことにします。それは上の2つの疑問と違って数学内部に閉じた話です。辻下さんは角田さんと共に「自然数の概念の不定性」について語ろうとしてします。そして、その「不定性」に関して次のように語っています

…… 明示的に使っている推論(たとえば排中律や選択公理)を変えるのは普通の数学的な議論で済みますが、空気のようになっている考え方や数学的存在を変える場合は並大抵のことではないために哲学的議論が不可欠となる。……

その一例が「自然数集合」です。……

辻下さんはこのように答えることによって、

 辻下さんの意味での「自然数の概念の不定性」(もしくはそのある側面)が成立していると解釈できるような世界を通常の数学の範囲内で明確に記述すること

を完全に拒否しているのだと私は思いました。そして、私が見た範囲内で、辻下さんは実際にそのような方向への努力を一切行なってません。もしもそのような試みをすでにしているのなら、それについて説明し、それがほとんど無意味である理由を説明して欲しいと思います。

今世紀の数学史には詳しくないのですが、「排中律」に関する歴史はどのようなものだったのでしょうか? 今世紀の前半に「排中律」を懐疑していた人達はまさに辻下さんと同じような気持ちで懐疑していたのではないですか? しかし、結果的には「排中律」が成立しない世界を通常の数学の範囲内で作り研究することが生産的で面白いことがわかり、現在に至っているわけです。

上のに挑戦する価値がないという何か決定的な理由はあるのでしょうか? (私はないと思っている。) 決定的な理由がないのなら是非とも挑戦して欲しいと思います。


Id: #e20000309165505  (reply, thread)
Date: Thu Mar 09 16:55:05 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000309002606
Name: 志村立矢
Subject: 数学基礎論の名付け親は誰でしょう。

> 「数学の危機」との関係で数学基礎論が発展

「数学の危機」との関係で数学基礎論が発生したというのがより正しい表現で
しょう。「数学の危機」から数学基礎論が発生するまでは 20 年以上の年月が
あります。

「数学の危機」を契機として問題となったことは、数学における非構成的な原
理や証明は正当なものかということです。数学の構成的な部分についての正し
さについて異論があるどころか、それをよりどころにして正当な原理に基づく
数学を模索していたのではないかと思います。

非構成的な原理や証明は拒否すべきであると主張したのが直観主義で、これを
採用するということは当時確立しつつあった数学の成果を捨てるということに
なります。

非構成的な数学の原理をより確実なものと思われる論理の原理に帰着させよう
というのが論理主義ですが、ラッセルとホワイトヘッドの労作により論理に帰
着できない数学の原理が確かに存在することがわかったというのが今日での評
価であろうと思います。

形式主義というのは、非構成的な原理により証明されたことは構成的な方法に
より正しさが確認できることを示すことにより非構成的な原理の正当化を行な
おうという立場です。このように設定された問題が「数学の基礎付け」の問題
で、この問題をどのように数学の問題として解決するかという方針を示したの
がヒルベルトのプログラムです。

数学基礎論という学問が成立するのは、ヒルベルトのプログラム以降のことで、
1930 年のゲーデルの完全性定理が数学基礎論のごく初期の成果であるという
のが常識的な見方です。


以上の文章でのキーワードは「構成的」ですが、これは非常に厳格な意味で使
います。現代の数学で一般的に構成的な証明といわれているものの多くはすべ
ての部分が構成的であるというわけではないだろうと思います。


Id: #e20000309081917  (reply, thread)
Date: Thu Mar 09 08:19:17 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000309002606
Name: くろき げん
Subject: 「数学の基礎づけ」を解説しているウェブサイト


Id: #e20000309002606  (reply, thread)
Date: Thu Mar 09 00:26:06 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000306141733
Name: 辻下 徹
Subject: いくつかの質問

(1)
> 要は、数学基礎論は、数学の基礎づけ(日常用語)を目的としていなかった。
> 「数学の基礎づけ」(専門用語)を目的としていた。ということです。

過去形を使われたこころは、今はそうだが実は最初からそうだった、という主張と解釈していいでしょうか。

今世紀の初頭に数学者を襲った「数学の危機」との関係で数学基礎論が発展したとすると、数学の基礎づけ(日常用語)が、当初の動機であったと思いたくなるのですが、間違っているのでしょうか。

(2)
> 「数学の基礎づけ」(専門用語)は、おおざっぱにいえば、メタ数学(数学を対象とする数学)
> の遂行のために、証明などを数学的対象として定式化し、その数学的性質を調べることです。

形式的体系(記号列と記号列の変形規則の系)という数学的構造の数学的研究、と言っていいでしょうか。別の言い方をすると、数学の「数学的モデル」として形式的体系ととる、という言い方をしていいでしょうか。

その際、どういう形式的体系を数学のモデルとして選ぶか、というステップに大きな恣意性があると思いますが、それが、数学(の研究)とは何かということを突き詰めて考える機会にもなると思うのですが、そこには余り関心はないのでしょうか。

(3)
> 「数学の基礎づけ」(専門用語)によって、数学的対象の存在論や認識論に
> コミットすることなく、証明などを対象とした数学が可能になるのですから。

コミットするのが本望なのだが、専門的学問になりそうにもないのでコミットしないのか、もともと数学的対象の存在論や認識論などには関心がないのでコミットしないのか、鴨さんはどちらなのでしょうか。

(4)
数学は、20世紀までは、研究者と対象とが最も明確に分離されている学問だったと言えると思いますが、基礎論に到って数学史上初めて、自己言及的な状況に数学者が置かれたと言えると思います。ヒルベルトはその点の重要性に気づかなかったがゲーデルはその重要性に気づき利用した、と言えないでしょうか。「数学の基礎づけ」(専門用語)だけに関心を限るのは、この自己言及的状況を排除しようとすることにならないでしょうか。基礎論が避けることができない自己言及的状況が、基礎論に他の数学の分野とは違う使命を与えるものだ、と私自身は考えたいのです。
Id: #e20000308233915  (reply, thread)
Date: Wed Mar 08 23:39:15 2000
Name: くろき げん
Subject: 「普遍性」に関する演習問題

これは独立した話題にしても面白そうなので別スレッドにしてしまいましょう。他にも面白そうで適切な問題があったら募集します。

先の記事で私は大野・田崎・東の意味での「普遍性 (ユニバーサリティ)」というものの見方の

数学的理想化はどのような場合にどのような意味で「正しい」と言えるのか?

という問いへの応用に関する演習問題として次のようなものを一つ挙げておきました:

他に次のような演習問題も重要だと思ったのでメモがてらにここに記録を残しておきます:

もっと面白い問題がある、その問題の出し方は好ましくない、……などなどの意見を募集します。

P.S. しばらく引っ越しで身動きが取れないので反応は遅れるかもしれません。私抜きにどんどん話を進めて構いません。


Id: #e20000308064420  (reply, thread)
Date: Wed Mar 08 06:44:20 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000307000533
Name: くろき げん
Subject: 「普遍性」と「自分の考え方の正当性をどのように保証するつもりなのか?」

辻下さんが書いたものを見ても、大野・田崎・東の意味での「普遍性 (ユニバーサリティ)」を何のことだと思っているか、ほとんど何もわからないのですが、辻下さんは「普遍性」を何だと思って回答して下さったのでしょうか? (「個別性」という言葉と対比しているのを見ると、もしかして日常用語に近い意味で「普遍性」という言葉を解釈しているのでないかと疑いたくなってしまいます。)

「普遍性」は様々な意味で重要な考え方なのですが、例えば、数学的理想化はどのような場合にどのような意味で「正しい」と言えるのか、という問題について考えるときに「普遍性」という考え方は基礎的かつ重要であると3/5に私は述べました。 (演習問題:ニュートン力学は数学的には実数の概念を用いて記述される。そのように実数の概念を用いることの正当性について「普遍性」の考え方を用いて論ぜよ。)

辻下さんがどのような「数学」を発明したとしても、それを用いて「生命」の数学的モデルを作るとすれば、必ずそこで何らかの理想化が行なわれることになるはずです。辻下さんに「普遍性」に関する質問をしようと思ったのは、「普遍性」について何も考えてないように見える辻下さんは自分の「数学」の応用としてのモデルの正当性をどのような意味で保証するつもりなのだろうか、と疑問に思ったからです。

「懐疑」するだけなら馬鹿でもできるので、「懐疑」についての議論だけをしても無意味です。大事なのはその「懐疑」の結果生まれた別の考え方の正当性が何によって保証されているかを真面目に説明することだと思います。


Id: #e20000307000533  (reply, thread)
Date: Tue Mar 07 00:05:33 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000306171229
Name: 辻下 徹
Subject: 普遍性と個別性

<普遍性>への関心は物理学を特徴付けるものである、と言うことはできないでしょうか。

<複雑系>では、関心は個別性を通して現れる普遍性(例えば、笑顔は個々の具体的笑顔と切り離せない、シシャ猫という例外はありますが)にあり、普遍性は豊かな個別性の中の些細な部分でしかなくなります。これは数学者には馴染み深いことです。数学では豊かな例の方が肝心で、具体例からどういう一般論を引き出すかは自明ではないにしても余り深いことではない、という考え方は普通ではないでしょうか。

大野さんとは2年前、郡司さんの仕事を巡って(私自身まだ不定性がわかっていない段階で)、メールで議論をし決着が付かぬままログは1MBほどになりました。

それを通してわかったのは、大野さんのいう「普遍性」は、個別性を保ったままその重要な部分を取りだすような豊かなものである、ということでした(いわば、シシャ猫の笑いだけを取りだすような凄さのある普遍性)。それは恐らく大野さんの博識的な植物の知識を背景としたものであって、私には想像ができないような豊かな普遍性で、普通の物理でいう普遍性とは質が違うと私は感じています。

大野さんが基礎生物学の別称としての<複雑系>に求めている普遍性は個性と両立するほど豊かなものだ、ということを了解しましたので、郡司さんのアプローチを大野さんが認めるかどうかはそれほど重要なことではない、と思うようになり、最近では独立行政法人化問題についての議論のメールになっています。

以上が、普遍性に関して私が1年ほど前に思ったことでした。しかし今は、「普遍性」を追及しても何も問題ではない、と思っています、というのは数と同様に、「普遍性」自身が底なしの不定性を持っていてますので、その不定性を通して<生命性>が自づと現れると思われるからです(これも、今のところ私にしか意味のないレトリックかも知れませんが、今はこれで勘弁してください。)。

「生命の本質」についてですが、拙文「生命と複雑系」では「予想外」ということ通して追及してみました。最近は、基盤の不定性の方が適切であると思っています。

(直接関係ありませんが、きょうの読売新聞報道をご覧になったでしょうか。(読売新聞の作為に気を付けてください。)国立大学の独立行政法人化問題に微妙なトリックが入ってきているようです。独立行政法人化は簡単に反論できていましたが、無限の選択肢がある法人化一般からの選択となると問題はかなり難しくなってきます。簡単にだまされてしましそうな状況に投げ込まれたことを警告しておきます。売り上げ税を拒否してもっと悪い消費税をつかまされたと同じことが置きかねません。少しこちらから離れるかも知れません。)


Id: #e20000306171229  (reply, thread)
Date: Mon Mar 06 17:12:29 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000306095836
Name: くろき げん
Subject: 辻下さんの意味での「複雑系」の考え方に田崎さんや大野さんの意味での「普遍性」の考え方はどのように組み込み可能なのでしょうか?

辻下さんは「technical word」という言葉を問題にしてますが、確かに technical word とあっさり言ってしまったのはまずかった。しかし、私は「くりこみ群で補足できるある限定された意味での普遍性」の意味で technical word とは言ってないことには注意して下さい。そのように解釈したのは辻下さんです。(誤解させてしまったのは私です。ごめんなさい。) 私が technical word と言ってしまったのは、数理科学の特集号を読んだ上でその意味で「普遍性」という言葉を理解してもらわないと誤解が生じてしまうと思ったからです。

私が紹介した数理科学1997年4月号の特集には田崎さんとともに大野さんも参加しています。そのことは私が紹介した田崎さんのウェブサイトにも書いてあります。その特集の内容は「くりこみ群」に限定されたものでは決してありません。辻下さんは数理科学1997年4月号や田崎さんの論説 (特に大野・田崎・東共著の論説) を参照した上で「苦言」を呈したのでしょうか?

さて、私の疑問は次の通りです。

辻下さんの意味での「複雑系」の考え方に田崎さんや大野さんの「普遍性」の考え方はどのように組み込み可能なのでしょうか?

辻下さんの意味での「生命の本質」が何であるかに関する疑問と並んで、辻下さんの考え方と「普遍性」の考え方の関係はどうなっているかという疑問も同じくらい重要だと思います。

私はこのような方向の議論は建設的だと思います。辻下さんは安易に「苦言」を呈する前にこのような方向の議論の可能性を考えるべきです。そもそも「普遍性」について辻下さんは考えたことがありましたか? 私は一貫して「複雑系」に批判的な人達が納得できるような説明に繋がる筋道を辻下さんに色々提案しているつもりなのですが、その私の気遣いは伝わってますでしょうか? そのような気遣いを含んだ私の発言と辻下さんのような議論の仕方を一緒にされては困ります。 (n-圈の周辺事情について説明して下さったはらださんと三好さんには感謝。)


Id: #e20000306141733  (reply, thread)
Date: Mon Mar 06 14:17:33 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305191409
Name: 鴨 浩靖
Subject: 「数学の基礎づけ」(専門用語)

要は、数学基礎論は、数学の基礎づけ(日常用語)を目的としていなかった。「数学の基礎づけ」(専門用語)を目的としていた。ということです。

「数学の基礎づけ」(専門用語)は、おおざっぱにいえば、メタ数学(数学を対象とする数学)の遂行のために、証明などを数学的対象として定式化し、その数学的性質を調べることです。数学的対象の哲学的存在論とは違います。

結果として、「数学の基礎づけ」(専門用語)は、メタ数学を数学哲学(数学を対象とする哲学)から、むしろ切り離す方向に働いています。「数学の基礎づけ」(専門用語)によって、数学的対象の存在論や認識論にコミットすることなく、証明などを対象とした数学が可能になるのですから。

ところで、パットナムだったか、唯一の数学の基礎づけは存在しないことを示そうとして、様相論理による基礎づけを試みた人がいましたよね。あれって、結局、どうなったのでしょう。まだ、やっている人、いるんでしょうか。


Id: #e20000306095836  (reply, thread)
Date: Mon Mar 06 09:58:36 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305181733
Name: 辻下 徹
Subject: 少し苦言

黒木さんには、私の言動の幼稚な誤りを色々指摘して頂き感謝しています。「日本人は〜だ」というタイプの低レベルの発言を繰り返していたことは反省しています。

しかし、苦言を言いますと、

> 理想化の入った話と物理的現実の話を区別するのは常識
> 「普遍性」という言葉はこの場合 technical word なので安易に解釈しないように注意!

と言うような「常識」や「technical word」を振り回すのは、同じくらい低レベルな権威主義であることはお気づきではないでしょうか。

「物理的現実」というのも理想化されたものであることも「常識」です。

> 大学における科学教育のカリキュラムのどこかに「普遍性」の考え方を教える

と言われるときの普遍性は「technical word」の普遍性なのでしょうか。

普遍性でも、大野克嗣さんの言うものはもっと深い洞察に支えられた「思想」であり、繰込み群で捕捉できる「technical word」としての普遍性は、そのごく些細な現れだ、という趣旨のことを大野さんは言われていたと記憶しています。

> 「記号で書ける」について数学的帰納法を適用することの是非

についてなど私は述べていません。説明不足でしたが、重点は「記号でかける」ではなく、数学的帰納法自身が自明ではない、という点に気づくきっかけの一つとして砂山の逆理を議論しているのです。超準数学では「標準的」という言葉は明確に規定された言葉ですが、これは、砂山の逆理にひっかかるために、(Nelson 流の超準数学では)集合論の原理を修正しなければならないわけです。
Id: #e20000306093655  (reply, thread)
Date: Mon Mar 06 09:36:55 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000306020321
Name: 辻下 徹
Subject: 2つコメント:哲学的明晰さ、同型

2点だけコメントします。

> 非ユークリッド幾何学でも,一応意味をかっこに入れると,いろいろモデルがあるわけで,
> そういうモデルを統一したり一般化するのが数学(のもっとも重要な一つの意味)だと私は
> 思うわけです.これは哲学的明晰さとは相容れないところがある.

ふつう、数学の<生命性>は「モデルを統一したり一般化する」数学者のアクティビティに自明に現れていると考えられていると思います。ここで、生命性と呼びたいのは、「どこまで手を付け、何を基盤として不変にするか、すら予めは決めておらず、例えば(我田引水になりますが)単純な例としては自然数の唯一性ですら放棄してしまう可能性も秘めている」という<底なしの不定性>がある点です。「哲学的明晰さとは相容れないところがある」とおっしゃったのは、この様相に言及されたと理解してよろしいでしょうか。

>>n-圏は圏よりも素朴なものでなければならない、というのが私の気持ちです。
>n=1なら圏になる,というのより素朴だ,というような境地には達せられませんが,

圏という概念は、同型しか認めない数学では中途半端な枠組みです、というのは、射については等号を使うからです(合成演算が確定する、ということもそれに基づいています)。ですから、等号を排除し同型だけを基底におくという数学の基本的な考えを徹底しようとすると、圏は不安定で、最初から高次元が関与してきますが、ある次元まで考えれば済むというわけでもありません。n-圏であれば、n-cell のところで等号を使うことになってしまいます。それなら\omega-圏にすればよいかと言えば、私は\omega という実無限の導入はこういう素朴なレベルの考察では避けたい。

そういう意味でも、高次元圏論は「不定な次元」の圏論としなければならない、と思っています。ここに、今までの数学の議論の仕方の限界を強く感じます。
Id: #e20000306033121  (reply, thread)
Date: Mon Mar 06 03:31:21 2000
Name: みよし
Subject: 今日久しぶりにアクセスしたら

なんかえらいことになってますね.はらださんまで出てきたのにはびっくり.

明日からまた出張なので再びしばらくアクセスできないので, とりあえず今までの議論に欠けているファクターとして, はらださんとはたぶん別の立場からの(普通の数学としての) n-圏の研究の現状について少し説明しておこうとおもいます. ここでの議論とは離れますが予備知識としては無駄ではないと思います (半分ぐらいは圏論の宣伝モードかも). かなりはしょりますが御容赦下さい.基礎論的な厳密さもとりあえずは省きます.

圏というものは対象(または0-胞)とよばれるものの集まりと それらの間の矢印である射(または1-胞)とよばれるものの集まりから 成り立っています.射は合成という演算を持っており, その合成についての単位元律や結合律は 厳密な(strict)同値関係(本当に同じということ)で考えます. ここで,射と射の間の「射」である2-胞とそれらについての 厳密な同値関係に基づく同様な演算を考えることにより 2-圏という概念が得られます. 特に厳密な演算に基づくことを強調するときには厳密な2-圏ということもあります.

しかしここでは射と射の間に2-胞を考えていることから 射と射の間に自然にもう少し弱い同値関係を考えることができます. それを公理化することで 射の単位元律や結合律をその弱い同値関係について満たす 弱い圏の概念を考えることができます.これをbicategoryと言います. (実際にはさらにcoherenceというものについて考慮することが とても重要なのですがここでは省略します). 当然ながら2-圏はbicategoryですが逆は成り立ちません. 数学をご存じの方のために例を挙げれば 両側双加群全体のクラスはbicategoryの構造を持ちますが それは2-圏にはなっていません.

n-圏の場合にも直観的には2-圏とbicategoryに対応して, 厳密なn-圏と弱いn-圏というものを想像することができます. 前者は定義するには特に困難はありません. むしろ圏論の研究としては2-圏の極限,モナド(普遍代数), ファイバー化などの様々な理論の整備に力が注がれてきました. (ParisのC. Ehresmannのグループは例外的に 最初から高次元化を重視する方向でしたが比較的孤立していました). Grothendieckのn-stackの理論も70年代前半の時点では strictな範囲で構想されていたのではないかと思います.

しかし,後者の弱いn-圏というものは随分長い間定義すらできませんでした. 2次元版のbicategoryは60年代にJ. Benabouにより考えられていたのですが, 3次元版(の一つのバージョン)のtricategoryが Gordon-Power-Streetによって考えられたのはようやく90年代半ばになってからです. しかし彼らの方向でのそれ以上の高次元化は困難です (その原因は主に上で省略したcoherenceにあります). 90年代後半になって理論物理学者のJ. Baezの学生であったJ. Dolanが アイデアを出し,それが(直接関連するにしろしないにしろ) 問題にトライする雰囲気を作り出すきっかけとなって, 現在に至るまで異なる幾つかのタイプの提案がなされています. 現在のところ提案されているものは大きく分けるとおそらく

  1. Baez-Dolan型
  2. Batanin型
  3. Tamsamani型
の三つになると思われますが,これらのどれが決定版であるのか, これらがどのような関係であるのか, ということはまだはっきり分かっていません. おそらくは目的によって適切な定義が異なる可能性も高いと思われます. 私と辻下先生がやっていたのは基本的には1が発想の元になっていますが, その基盤となっている代数構造(通常の圏に対するグラフ構造に相当するもの)を 大幅に拡張した形で定義することが最初のステップでした (それに注目した元々の動機が二人で異なっていたのは以前に投稿した通りです).

一方はらださんのおっしゃるような代数幾何におけるn-圏論は, Grothendieckのpursuing stacks (1980?)のプログラムを遂行するために C. Simpsonの学生のTamsamaniにより考案された弱n-圏の定義に基づくものであり Simpsonがそれを使ってn-stackの理論を発展させるのに力を注いでいます. しかしこれが最適かどうかは分かりません. ある種の3-ホモトピー型を定義するのに必要となった圏は 上の1-3とはまた異なるタイプの圏の高次元化(Gray-category)だったからです. 一般のGray-categoryのn次元への拡張は私の知る限りまだないと思います.

以上のように弱いn-圏の理論は まだその定義そのものが研究対象である段階とも言えます. 実際には日本で圏論そのものを研究している人はごく少数でしょうから このような状況が知られていないのは当然ではあります.

なお圏論そのものの研究については 世界的にはカナダとオーストラリアには比較的大きな 圏論の研究グループが複数あります.また一方で80年代以降, 圏論はプログラムの意味論など理論計算機科学の方で基本的な道具 となってきており,圏論そのものの発展にも強い影響を与えています. この背景には数理論理学との関係があります. こちらはエディンバラやケンブリッジなどヨーロッパを中心に研究されています. 私も元々はこの方向から圏論を始めています (なお,後者の流れの圏論はホモロジー代数とは ほぼ独立していることに注意してください).

このようにn-圏は普通の数学としてそれなりに研究されていることを念頭に置いた上で 議論した方が混乱が和らぐように思います(はらださんはご承知の上でしょうが).

計算機科学から複雑系に関係する側面は鴨さんからもヒントがありましたが, まだまだ詰めていないのでもう少し時間をかけて考えたいと思っています.


Id: #e20000306020321  (reply, thread)
Date: Mon Mar 06 02:03:21 2000
URL: mah@kcat.zaq.ne.jp
Name: はらだだよ
Subject: ぼちぼちと
とりあえず簡単なことからぼちぼちと返事させていただきます.

> もしかして、京大の原田さんですか?
そうなんですけど,とりあえず一素人としてちょっと書かせて下さい.

> 理論物理がフーコーの「権力と知」の理論の射程から外れているのなら数学もやはり
> そうでしょう。

というような複雑な話ではなく,もっと簡単というより異様な議論でして,
「55+17=72をあなたが認める/に認めさせるのは,権力だ.」という
話です.なにか冗談をいっているように思われますか.

;それは権力ではなくて脳のハードウェアの共通性だ,という回答は,それを考えている
;のは誰なのか,という形で無限後退するので,哲学では答えにならないことになっている
;ようです.

> 「不定性」「新しい数学」のような用語を辻下さんと共有していても、

「不定性」は(今のところ)一応理解しているつもりなのですけど.

> 明確に★の型の議論になっている点が異なります。

非ユークリッド幾何学でも,一応意味をかっこに入れると,いろいろモデルがあるわけで,
そういうモデルを統一したり一般化するのが数学(のもっとも重要な一つの意味)だと私は
思うわけです.これは哲学的明晰さとは相容れないところがある.

しかし層とかホモロジーに関して,何回かっこに入れるのか分かりませんが,それに対して
人間はある種の直感を持っていて,それを追求するのは「面白い」ことだと思っています.
;部分を足しても全体にならない,といわれれば,私はすぐにホモロジーを考えます.
;ホモロジーを日常言語で説明するのは不可能だとしても.

> 「ペアノ系のようなもののn-圏のモデル」
は知りません.もうしわけない.

> 「(3)と(5)で特殊化すると x^35 が 1 になるような数学を n-stack
> で作る可能性」

1-stackとは,各環やschemaに対して, vertexとedgeからなる一次元graphを対応させる
ことだとすれば簡単です.各環Rに対して,Rに1/15があれば連結成分がR自身,そうで
なければ連結成分がR/R^{35}となるようなsimplicial schemeを作るのは簡単です.
(このような下らないものがstackなのか,という議論は,もっともですけど.)

> 「円単数や楕円曲線の有理点のような数論的代数幾何からくるn-圈」

ちゃんと書くのは大変ですけど,これはつまり構造群が変わるのにつながって見えるような
ファイバー束の例です.
表現論でもパラメーターqが1の冪紺のときでもそのままなりたつような表現の
構成が求められているのと同じだと思います.

>>n-圏は圏よりも素朴なものでなければならない、というのが私の気持ちです。

n=1なら圏になる,というのより素朴だ,というような境地には達せられませんが,
どうなんでしょうか.n=0とn=1には大きな差があって,nが大きくなっててもn=1の
ときに,カテゴリー化できると信じてる人はいると思うのですけど.

>> 数概念の不定性(数の<モデル>などの不定性は常識ですが)の了解が、生命論への数学からの
>> アプローチの鍵であることに気づくことと、その了解に達することとが、共に私には極めて困難で
>> したが、

私には未だに理解出来ないところですね,ここは.

>> その了解を得たことで、ようやく、数学から生命科学に生物機械論とは違う描像を提出できる可能性があ
>> ることが確信できた、という思いがあります。そのために、つい、くどくど言ってしまっているわけで
>> す。最初から当たり前と思っている人はいると思いますが、そういう人は、次々と、とか、有限、とか
>> 集合とかいう言葉を使わないで数学を普段やっている人です。結構少なくないはずですが。
>> なお、同値のことを問題にされましたが、「同値関係」の概念ですら、自然数の不定性の下では、あい
>>  まいになってしまうことに御注意ください。

圏の同値はご存じですよね.一応この辺は理解しているつもりでです.黒木さんとか志村さんは,それ以前
だと思いますけど.

Id: #e20000305191409  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 19:14:09 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305172644
Name: 辻下 徹
Subject: 20世紀後半の空気は「数学の(古典的な意味での)基礎付けはできないし必要ない」?

すみません、「形式主義については、その目的が何であるか」に誤解があると言われたので、一応自分にとっての形式的体系の目的を書きました。しかし、
> インフォーマルな議論を形式化できることそのものが何らかの基礎付けとなっているのだということ
というようなことを書いた積りではなかったのですが。

私が関心があるのは、誰も基礎付けなど心配することなくふだん研究している数学とは何かということを、数学者はどう了解すればよいのか点です。もちろん、そういう無駄な疑問をせずに研究に励めばいい状況がほとんどでしょうが、大抵の数学者は自分は今何をしているのか、と一度は悩むのではないかと思います。私の場合は、「形式的体系」の呈示する数学モデルが一時期一応の安心を与えてくれました。

しかし、こういったことは、高度な技術と概念を紡ぎだした基礎論の分野の専門の方にとっては、ほほ笑みを持って聞き流す事なのでしょうか。基礎論を志す人はそういうことに関心はないのでしょうか。

志村さんご自身は、基礎論の専門家として、数学という学問をどう考えておられるのでしょうか。

> 公理的方法を取るにあたって形式化とい うのは必ず
> しも必要なことではありませんので。

確かにそうですね、原論を見ればその通りですね。今後は、この文脈では公理主義という言葉は使わないようにします。

> あともうひとつ誤解していると思われるところを指摘しておきます。
>> 基礎論は、数学を基礎づけるという素朴な目標に失敗し、
> 数学基礎論はそもそも「数学の基礎付け」という目的で発生したものです。

分野発生時の目的で分野の本質を判断するのは間違いである(と言うご主張と理解しましたが)というのは、確かにその通りだと思います。名前が創業時の経緯を引き摺るのは仕方がないかも知れません。

ただ、上の文を誤解だ、という場合に、私としてはどう誤解なのかがわかりません。少なくとも2つの解釈
(1)基礎論は数学を基礎づけるという素朴な目標に失敗していない
(2)基礎論は数学を基礎づけるということなど目標にしていない
が可能です。

> このあたりの事情に関するポインタ

のリンクが壊れているようです。

なお、私は基礎論という分野の批判をしていると誤解しないでください。数学の本性について頻繁に考えておられるのは基礎論の方々であると知っていますので、ぜひ、数(や形式的体系)の不定性について否定的な意見だけでなく、何かアドバイスを頂ければ、という思いがあるのです。
Id: #e20000305182548  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 18:25:48 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305011239
Name: 辻下 徹
Subject: 現代数学批判ではありません、しかし現代数学の脱中心化の面はあります

> 辻下さんが批判している現代数学というのは,研究の対象が問題なのか,方法が
> 問題なのかが分かりません.n-圏の「面白い」例というのは,位相的(+アルファ)
> 場の理論とか,円単数や楕円曲線の有理点のような数論的代数幾何からくるもの
> しか私は知らないのですが,そういうものも「サーカス」なのかという,
> 肝心なところが分からないのです.

「現代数学を批判」するなどという大それたことをしていると言われると心外です。しかし、対象と方法が分離できるという考え自身が適切とは思っていないことも確かです。

また「面白い数学」ということは今は念頭にありません。n-圏は圏よりも素朴なものでなければならない、というのが私の気持ちです。代数幾何などで展開しているn−圏のような複雑なものには私の手に余りますし、また私が意図していることには素朴な問題には余り役にたたないと思っています。

繰り返して言いますが、

「<現代数学>の大前提(自然数集合の唯一性など)が、もしも生命の数学からの了解を阻むものであるならば(私はそういう信念に自分では達していますが)、その意図の下では、自然数の唯一性(確定性)等に執着する必要はないと自分では思う、そして、そう考えことが不自然ではないと私には思われる」

ということについてのいくつかの心証を述べている、という程度のことです。そして、自然数の唯一性を放棄しても数学を放棄することにはならない、ということも確信していますし(実際nelson がpredicative arithmetic でやってみせています)が、それを説得するだけのものを築いては居ませんの「大言豪語」と非難されても言い訳はしません。

数概念の不定性(数の<モデル>などの不定性は常識ですが)の了解が、生命論への数学からのアプローチの鍵であることに気づくことと、その了解に達することとが、共に私には極めて困難でしたが、その了解を得たことで、ようやく、数学から生命科学に生物機械論とは違う描像を提出できる可能性があることが確信できた、という思いがあります。そのために、つい、くどくど言ってしまっているわけです。最初から当たり前と思っている人はいると思いますが、そういう人は、次々と、とか、有限、とか集合とかいう言葉を使わないで数学を普段やっている人です。結構少なくないはずですが。

なお、同値のことを問題にされましたが、「同値関係」の概念ですら、自然数の不定性の下では、あいまいになってしまうことに御注意ください。特に高次元圏を面白い数学的構造として捉えるのでなく、数学の新しい基盤と捉える立場では、a 〜 b , b〜c ならば、 a〜c という推移律自身に、その「合成」を行う高次元のものが明示的に関与することになります。従って「同値」という概念自身が解体(分岐)していることに御注意ください。ですから、a 〜 b , b〜c ならば、 a〜c という推移律から
a 〜 a_1, a_1 〜 a_2, a_2 〜 a_3, ..., a_n 〜 b ならば a 〜 b
という多重推移律は出てきません。後者はどういうnについてそれが成り立つか、を明確にしなければならなくなります(超準数学の場合は、標準的な同値関係と非標準的同値関係に分岐していますが、それが、全く不定になってしまいます。)。

なお、お差し支えなければ、御氏名をお教え頂けないでしょうか(内容の深さから推測はできますが)。
Id: #e20000305181733  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 18:17:33 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305154034
Name: くろき げん
Subject: 理想化の入った話と物理的現実の話を区別するのは常識

辻下さんは「記号で書ける」について数学的帰納法を適用することの是非について述べていますが、「記号で書ける」を「実際に書ける」 (「紙に書く」のでも良いし、「コンピューターのメモリーに書き込む」のでも良い) と解釈すれば、それは物理的現実の世界の話になるので数学的帰納法を安易に適用しちゃまずいのは当たり前の話だと思います。数学的帰納法を適用した段階で数学的理想化が入ってしまっている。

もしも、「記号で書ける」について数学的帰納法を適用することへの懐疑が単にそういう常識的なことについて述べているだけだとしたら、全くつまらないと思います。

早川さんの指摘も現実の砂山をモデル化するときに理想化を変な風にやると変な風になるのは当たり前という話ですよね。早川さんの指摘のそういう側面は「砂山」の話を「記号で書ける」の話に置き換えても同様に有効だと思います。理想化の正当性に関わる問題を数学や言語のレベルの問題だと思ってしまってはまずいと思います。

それでは数学的理想化はどのような場合にどのような意味で「正しい」と言えるのか? これは非常に難しい問題なのですが、それに関して基礎的でかつ重要なのは『数理科学』1997年4月号で特集された「普遍性」の考え方だと思います。 (それについては田崎さんのウェブサイト日本語で書いた文章のコーナーで色々読めます。) 数学だとか言語だとかのレベルの話が好きなゲンダイシソー系の「複雑系」の人達 (辻下さんを含む) には数学的理想化の正当性に関わる「普遍性」という考え方が欠けているように感じられることが多いんですよね。 (「普遍性」という言葉はこの場合 technical word なので安易に解釈しないように注意!)

文系理系を問わず、大学における科学教育のカリニュラムのどこかに「普遍性」の考え方を教える時間があった方が良いと思う。どのような数学的モデルが信頼できて、どのようなモデルはそうでないかについてある程度の判定基準を持っていることは、教養として大事なことだと思います。


Id: #e20000305172644  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 17:26:44 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305150230
Name: 志村立矢
Subject: 抗議しますとでも書く必要がありましたか。

> 私にとっての形式的体系の目的は

以下に書いていらっしゃるように、インフォーマルな議論を形式化できること そのものが何らかの基礎付けとなっているのだということだと思います。(形 式主義(公理主義)の立場からの誤解として挙げられている発言はこの主張と整 合的なのでそう判断しました。) 雰囲気としては、論理主義にかなり引っ張ら れた公理主義的な主張でしょうか。(公理的方法を取るにあたって形式化とい うのは必ずしも必要なことではありませんので。)

しかし、informal なものの formal なものへの書き換えによりわかることな どたかが知れているのです。(例に挙げられた ZFC はその希有な例外なのです が、その場合も形式化により対象は何かを確定させるという以上の意味はあり ません。) そのような書き換えでお望みになっているような意味での基礎付け ができるはずがないでしょう。

そういう意味で、誤解として挙げた発言はそもそも誰が見ても馬鹿げた内容な のです。そのような発言に、内容とは無関係な「形式主義(公理主義)の立場」 をつけることにより、数学基礎論という学問に対する誤った知識が広まってい くことへの危惧を持っています。

あともうひとつ誤解していると思われるところを指摘しておきます。

> 基礎論は、数学を基礎づけるという素朴な目標に失敗し、

数学基礎論はそもそも「数学の基礎付け」という目的で発生したものです。 このあたりの事情に関するポインタは、 黒木さんが以前挙げられていました。


Id: #e20000305154034  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 15:40:34 2000
In-Reply-To: e0000.html#e20000304175258
Name: 辻下 徹
Subject: 砂と砂山は同時には「見えない」という様相

砂山のパラドックスをばかばかしいものとしてやっつてしまえ、というのならばともかく、そこから何か得るものはないかという私の立場でいいますと、物理的用語で分析するのは余り生産的ではない、と私は思います。

素朴に砂山という言葉と砂粒の間の関係を考えてください。砂山は裸眼でしか見えない、砂粒は顕微鏡や心眼でしか見えない、双方を同時に見ることのできる視座はないのです。この不思議な2つの違いを問題にしているものだ、と思います。

砂は、早川さんのご専門なので、砂山の逆理、という表現はやめたほうが良いかも知れませんね。他の例の方がいいかも知れません。すべての数は小さい、という証明はどうでしょうか。1は小さい数である。nが小さい数であれば、n+1も小さい数である。故に、すべての数は小さい数である。

これを馬鹿げたことと思うならば「小さい」を「記号で書ける」にしてみると問題の厄介なことが少しわかるはずです。1は 記号で書ける。nが記号で書けるならばn+1も記号で書けるでかける。よってすべての数は記号で書ける。

超準数学では、標準的な数、について数学的帰納法を使うと、このパラドックスに陥るために、集合論の内包性公理を制限して、標準的な数の全体は集合をなさない、ということにせざるを得ないのです。

Id: #e20000305151928  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 15:19:28 2000
In-Reply-To: e0000.html#e20000304184806
Name: 辻下 徹
Subject: n-cat のpreprint

昨年8月頃に、プレプリント"Higher dimensional hypercategories "を e-Print archive にupload ( math/9907150)しました。

三好さんの定式化といくつか食い違いがあり、それを8月末にだいぶ議論しましたので、いずれそれを反映させる予定です。

しかし、ちょうどその頃、独立行政法人化問題が浮上し、一時も気が抜けない状況が今なお続いております。n-cat よりは独立行政法人化問題への適切な応対の方が重要なことは自明だと私は考えていますが、馬鹿げた考えと思う人の方が多いようです。


Id: #e20000305150230  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 15:02:30 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305133004
Name: 辻下 徹
Subject: キソロンと基礎論

> 形式主義については、その目的が何であるかという部分に誤解がある

私にとっての形式的体系の目的は(たとえばZFという形式的体系を取り上げると):

数学者が無限集合を使って議論していることを、集合の意味などを持ちだして正当化しようとしても哲学になる。そこで「ムゲンシュウゴウ」という無定義用語を導入し、実際の数学的な議論の中で、ZFのロンリシキと呼ばれる記号列だけに着目し、証明も、そのロンリシキという記号列のスイロンキソクと呼ばれる機械的な変形の繰り返しとして表現する。こうして、形式的体系を使って、数学のインフォーマルな日常的な議論の(素朴な意味で)基礎づける、(あるいは、数学的議論のモデルを作る、という言い方もできるかも知れません)。

この目的は今の基礎論の目的とは関係なくなっているのでしょうか。

> 念のために書いておきますが「数学の基礎付け」というの
> は、一般名詞ではなく専門用語ですのでその字面だけから意味を想像するとと
> んちんかんなことになりますのでお気をつけください。

上の素朴な基礎付けと余り関係のない「スウガクノキソヅケ」に、私自身は余り興味は感じません。それでは、<単に>one of very interesting mathematical topics に過ぎないのではないでしょうか。基礎論のある方によれば、それが基礎論の目標だったそうですが。その意味では Shelah などはもう数学そのものだと思います。しかし、それでは何だか基礎論という分野が、<もったいない>という気がします。

基礎論は、数学を基礎づけるという素朴な目標に失敗し、数学的に面白く深い<スウガクキソロン>という数学の一分野になりました。今、数学は何の根拠もなく宙に浮いたまま生き生きと研究が進んでいるわけですが、その事態を、もう少し明確に理解しようとする素朴な意味での基礎論、それに私自身は関心があります。それを理解することが、数学の広い可能性に導くものと信じています。

しかし、これは、強制するようなことではなく、「こういう方向に(複雑系との関連を通して)新しい可能性が私にはかすかに見えてきましたが、今の数学に飽き足らない人は参加しませんか」という誘いでしかないのです。それを危険な誘いとして攻撃するのは不思議なことではないかも知れませんが、私は今の数学に一つもケチを付けているのではなく、今の数学では不満な人は少し冒険してみませんか、と誘っているに過ぎません。これが、政治的な発言と言われると残念です。

Id: #e20000305142844  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 14:28:44 2000
In-Reply-To: e0000.html#e20000304150542
Name: 辻下
Subject: 生命科学との関係

について、1998年の秋の数学会特別講演「複雑システム学と数学の多様な関係」で、ある程度論じました。他の掲示板参加者から、これを最初読むように勧めてはどうかというアドバイスがありましたので、紹介します:PDF,PS . 最初の部分だけ以下html にしたものもあります。

コメント付きの OHP もあります。なお、この内容の後半(契機系)の議論の補足もご覧ください。

なお、これはいいださんへの返事ですので、黒木さんの要求に対する答えにはなってはいません。


Id: #e20000305133004  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 13:30:04 2000
In-Reply-To: e0000.html#e20000303175203
Name: 志村立矢
Subject: 形式主義について。

形式的体系についてはそれでよいのですが、それは形式主義などを構成する要
素の一部でしかないわけで、誤解があると思われるのはそれ以外の部分です。
形式主義については、その目的が何であるかという部分に誤解があると思いま
す。

形式主義というのは、「数学の基礎付け」というきわめて限定された問題を扱
うときの立場のひとつであり、誤解があると指摘した文脈で顔を出すようなも
のではありません。念のために書いておきますが「数学の基礎付け」というの
は、一般名詞ではなく専門用語ですのでその字面だけから意味を想像するとと
んちんかんなことになりますのでお気をつけください。

それから形式主義(公理主義)と書いているのは、形式主義と公理主義を同じよ
うなものと考えているからなのではないかと思いますが、これらは別物です。
公理主義は、数学基礎論と呼ばれている学問の成立とは関係がありますが、同
一視されるようなものではありません。公理主義の主義の部分に注目すれば、
その影響は数学基礎論以外の数学の分野の方が、構造主義を介して強く受けて
いると思われます。

Id: #e20000305045450  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 04:54:50 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305021336
Name: 崎山伸夫
Subject: 「複雑系」より

権力と知の関係で扱うとしたら、「複雑系」よりも「情報セキュリティ」だとか、 「情報倫理」あるいはそれを包括する「応用倫理学」といったあたりのほうが 直接的な気がしますけど、あまりに直球勝負すぎて意味ないかな。

P.S. URLが山根さんのところですが 「ハッカー」報道・発表に対してのお願い っていうのに賛同者募集中です。


Id: #e20000305022903  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 02:29:03 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305011239
Name: くろき げん
Subject: Re: n-圏は世界を救うか?

もっと詳しく説明してもらわなければ理解できませんが、はらださんの「n-圈」の話は非常に面白そうです。「不定性」「新しい数学」のような用語を辻下さんと共有していても、明確にの型の議論になっている点が異なります。というわけで、はらださん可能ならばもっとそういう話をしてください。 (「ペアノ系のようなもののn-圏のモデル」「(3)と(5)で特殊化すると x^35 が 1 になるような数学を n-stack で作る可能性」「円単数や楕円曲線の有理点のような数論的代数幾何からくるn-圈」などなどがどういう話なのかわかりませんでした。)

しかし、「生命」との関係はもっと具体的な話にしないとなんとも言えないと思います。 (私個人は数学内部の話にしてしまっても十分面白いと思うのですが、数学者以外だと不満な人の方が多いと思う。)

ええと、 n-圈というのは、大雑把に言えば、 k = 0,1,...,n-1 について k-objects の間の morphism として (k+1)-objects が定められていて、それらが様々な compatibility conditions (これが非常に難しい) を満たしているもののことですよね。私の理解はこの程度でその詳細については全く知りません。 (Grothendieck の Quillen への手紙が手許にあるはずなのだが見付からない。)


Id: #e20000305021336  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 02:13:36 2000
In-Reply-To: e0001.html#e20000305011239
Name: くろき げん
Subject: さすがに「なんでも権力論」はまずい

はらださん、始めまして。もしかして、京大の原田さんですか?

ええと、さすがに「なんでも権力論」をやってしまうのはまずいと思います。実際、フーコーは次のように述べています:

…… すなわち、もし理論物理や有機科学のような科学にたいして、そうした科学が社会の政治・経済構造といかなる関係にあるのかといった問題を提出するなら、それはあまりにもこみいった問題を提出することになるのではなかろうか。また、それは求めるべき説明の水準をあまりにも高くおくことになるのではなかろうか。ところがこれにたいし、もし精神医学のような知を対象にするなら、問題の解決は、逆にずっとやさしいのではないか。精神医学は認識論的な側面がいかにも低級でしかも、精神医学的実践は、社会制御にかかわる、その時その時の経済的要請、政治的緊急性およびもろもろの制度などの全体と、密接に結びついているのだから。精神医学のような「いかがわしい」科学の場合は、権力と知の相互作用を、より確実な仕方で把握できるのではないか。……
(『ミシェル・フーコー1926-1984』(新評論、新装版)の73頁より)

理論物理がフーコーの「権力と知」の理論の射程から外れているのなら数学もやはりそうでしょう。

これに対して、「複雑系」の流行をフーコーの枠組みで分析してみるのは十分に意味があることだと思います。誰かやりませんかね?

なお、私は辻下さんの説明の仕方の問題は「数学の公理とか規則」以前にあると思っているのであえてきつい言い方をしています。自分の意見が伝わらないからと言って、「日本の数学者の風潮こそ問題がある」「基礎論の方が……誤解する傾向が顕著ですので」「日本人の数学の論文は……」「数学者のコミュニティは確信犯」などなどと様々な人達を含む集団をひとまとめに貶める発言を繰り返すことによって、周囲のせいにしてしまおうとするのはさすがにまずい。 (議論の最中に直接の論敵に皮肉を言う程度であれば個人的に問題はないと思ってはいるのですが。)


Id: #e20000305011239  (reply, thread)
Date: Sun Mar 05 01:12:39 2000
In-Reply-To: e0000.html#e20000304184806
Name: はらだ
Subject: n-圏は世界を救うか?

*黒木さんの「誤解」:
黒木さんは,フーコーはいくつか読んでおられるようだから,こう考えてみたらどうで
すか.「数学の公理とか規則を,フーコーの意味の権力だと思うとき,どうなるか?」

*生命:
複雑系とか計算機科学は知らないのですが,生命現象のなかで,遺伝とか免疫のような
ものがn-圏のようなもので記述されうる可能性があるといわれれば,そうかもしれない,
とは思います.

*不定性:
さらに数学,たとえばペアノ系のようなもののn-圏のモデルが作るファイバー束のよう
なn-圏のシステムが考えられる可能性も,十分あるとも思います.この場合外から
見ると確定したものですが,モデルの中に入り,各stalkで見れば,演算の
範囲も確定していないようなものになるし,特殊化すればexioticなモデルになること
も可能でしょう.

*新しい数学:
通常のschemaでは代入する値のほうでは例えば「35=0」みたいな等式が,
(3)と(5)での特殊化では正しくなりますが,式のほうではx^35は1ではあ
りません.しかしn-stackのようなものを考えれば,こちらも可能性はあるでしょう.

*疑問:
一方でn-圏の同値とはどういうことか,といわないことには通常の意味の数学ではなく,
哲学になってしまい,次には仏教になっていかざるをえないことが危惧されます.
(「すべての物には実体はない」とか「主観も客観も存在しない」とか.それはそれで
哲学としては面白いのでしょうけど.)

同値を定義するまでいかなくても,少なくとも一つは面白い同値なn-圏の例を出さない
といけないように私は思うのですが,そのあたりはどうなんでしょうか.
鋭意研究中なのか,いつかは取り組まないといけないが今はその時期ではないのか,
そういう方法論自体が誤りなのか.私の解釈はまったく見当はずれということも
ありえますが.

*結語:
辻下さんが批判している現代数学というのは,研究の対象が問題なのか,方法が
問題なのかが分かりません.n-圏の「面白い」例というのは,位相的(+アルファ)
場の理論とか,円単数や楕円曲線の有理点のような数論的代数幾何からくるもの
しか私は知らないのですが,そういうものも「サーカス」なのかという,
肝心なところが分からないのです.

1つ前の記録:黒木のなんでも掲示板3 (0000)


管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
CGI_Board 0.66